『古代史の真相』 著者: 黒岩重吾
『古事記』、また後に『日本書紀』となる『日本紀』を天武が作らせた目的は、天皇の現人神(あらひとがみ)化と、万世一系による天皇家の絶対化です。そこで天武が最も嫌ったのは、氏族が違う大王家(天皇家)が並列することであり、大王家を凌駕しかねない勢力の存在だった。こういう天武の思想の下、四世紀の一時期、大王家と婚姻を重ね崇神王朝と並立していた葛城氏の首長たちの名は容赦なく改竄され、彼らに代わって創作された大王たちが登場したのです。とりわけ、応神・仁徳天皇が出現する直前の葛城氏について「記紀」が目して語らないのは、はなはだ興味深いものがあります。
葛城氏とは何者か
『古事記』によれば、葛城氏は蘇我氏と同族で、武内宿禰の末裔とされている。
その葛城氏がいつ頃勃興したかということですが、まず大和の東南部に日本最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳および石塚古墳を含む纏向(まきむく)古墳群というのがあります。ここは崇神王朝の勢力下です。箸墓古墳については卑弥呼の墓とする人もいますが、築造年代を三世紀半ばに推定するのはやはり無理でしょう。三世紀の終わりが妥当だと思います。
その時代、残念ながら葛城にはそれに匹敵する大きな前方後円墳はありません。ところが、葛城の室の大墓の近くに名柄遺跡があり、そこから弥生時代の終わり、三世紀末の銅鐸や多紐細文鏡が出ています。この多紐細文鏡は非常に珍しい鏡で、これと同じ鋳型でとった鏡が大阪府柏原市、山口県下関市、佐賀県唐津市、それに新羅の領有していた慶州からも出土しています。
これは極めて重要なことで、葛城氏を渡来人と見るかは別として、弥生末期に葛城に居住していた人びとは、瀬戸内海ルートを通じて、朝鮮半島と交易を結んでいたことがうかがえるわけです。
葛城氏の人物中、もっとも有名なのは葛城襲津彦(そつひこ)ですが、この襲津彦とは関係なしに、葛城垂見宿禰というのが『古事記』に出てくるのです。垂見宿禰の娘のわし比売が開化天皇の妃です。その間に生まれた建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけ)が、忍海部造(おしぬみべのみやつこ)の祖であるとされています。忍海というのは、今の奈良県北葛城郡新庄町です。もとより伝承上の話で、実在したかどうかはわからないのですが、門脇禎二さんの話によれば、垂見宿禰の垂見は兵庫県の垂水であるという。
河内から葛城に入るには、竹内峠を利用するのと、水越峠を通るのと、もう一つ吉野川をさかのぼって紀路をたどる。この三つがありますが、おそらく三世紀の終わりころから、葛城氏は水越峠を越えて河内に出て、垂水を押さえて但馬と交渉した。これが門脇説ですが、私もその通りだと思います。但馬というのは、東に丹後王国がある。これは崇神王朝系が、絶えず妃を求めていた場所です(拙者は但馬に出るには険しい遠阪峠があり、本州で最も低い分水嶺の氷上から福知山を経て加悦街道への方が近いと思う)。
そうすると葛城氏は瀬戸内海航路を利用して朝鮮半島と交渉する一方、河内、垂水に進出して丹後とも交渉していたことになる。だからそのあたりで大王家と競合するわけです。
この大王家と競合する時期は、四世紀の終わりころと考えられます。北葛城郡の馬見丘陵に葛城氏の墓があるとされているのですが、同丘陵の佐味田宝塚古墳、その南に位置する新山古墳などは、いずれも四世紀後半に築造されたものでしょう。新山古墳からは三四面の銅鏡、勾玉、管玉などが出ています。注目すべきは、直弧文といって円と直線とで描かれる日本独特の文様の鏡が出ていることです。
新山古墳よりやや古い佐味田宝塚古墳からは、30面以上の銅鏡が出土しているけれど、その中で特筆すべきは、平地式、高床式など四種類の家屋が描かれていることで有名な家屋文鏡です。高床式の家は、多分、その首長の家だろうけど、そこに蓋(きぬがさ)のようなものが描かれている。のちの大王家がもつ蓋とほぼ同じものです。だから、四世紀後半の佐味田宝塚古墳の被葬者は、北部葛城の首長であったと考えていい。
つぎに、南部葛城についてですが、どうも葛城襲津彦の出自は南部葛城のようです。葛上郡です。北部は葛下郡になります。佐味田、新山の両古墳とも100mクラスの古墳だけど、南部にはまだこれに対抗し得るだけの古墳は造られていません。
ただ強調しておきたいのは、もうそのころすでに崇神系の三輪山麓に、200mから300m級の巨大古墳が築かれていたということです。四世紀前半において、葛城氏は三輪王家に対立拮抗する力はなかったのです。
葛城氏が台頭してくるのは、四世紀後半から五世紀にかけてですが、突然、巨大な力になる。その原因は、朝鮮半島との交易でしょう。その頃の交易国はだいたい朝鮮半島南部から新羅(356~935年)が主で、次が百済です。この葛城氏の急成長ぶりを見ていると、三輪王家、俗にいう崇神王朝の勢力が葛城氏をなぜ潰してしまわなかったのか、なぜ拱手傍観していたのか不思議です。三輪王家は木津川を通って山科、それから但馬の方に勢力を伸ばしていった。婚姻関係から見るとそうなっています。彼らの目は北方へ、北方へと向いている。葛城氏は河内に出て、有馬の方に行った。だから三輪王家は葛城氏の存在をとりあえず利害的にも衝突しないし、それほど気には留めていなかったのだと思います。
『新版邪馬台国の全貌』 著者: 橋本彰
いわゆる「魏志倭人伝」に記された邪馬台国と諸国の所在地については諸説あり、ここでは触れませんが、日本海ルート説でいくと「投馬国」とは「出雲国」でありとされます。
次はこの「出雲国」を出発し、さらに十日間も進航すると、そこは舞鶴湾の辺りに到着することになると思われます。次にそこから南に向かって陸行する事30日にして目的地の邪馬台国に到着するのですが、当時の陸行といっても、舟で河を進んでいくのが主流ですから、舞鶴地方から陸行するとなると丹後一の大河・由良川という水量が豊富な河が内陸の奥深いところまで入り込んでいますから、舟で遡ることは十分にできます。
その河を40kmほどさかのぼったところに大江町があります。この大江町には「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」が自分の祖母の「天御影命」を祀った「弥加宣(みかみ)神社」を造営されています。さらに「天照大神の御神体が一時滞在された事を証明する「元伊勢の皇大神社」も祀られていて、この地域が古代の歴史上における非常に重要な地域であったことがうかがえます。
この大江町からさらにさかのぼっていくと福知山市があり、さらには綾部市から和気町辺りまでは舟で進むことができます。この和気町から南にひと山越えれば、丹波町、さらにもうひと山越えれば園部町で、桂川が流れて、亀岡から有名な「保津川下り」で下っていくと、嵐山までは一気に下れます。
拙者註:といっても保津川は急流であり角倉了以によって開削されたのはずっとあとですが…。丹後半島の東に浦島太郎の伝説地のほとつの伊根町があります。その南に丹後一宮・籠神社と天橋立の宮津湾があり、野田川をさかのぼると日本海でも最大規模である丹後三大前方後円墳のひとつ蛭子山古墳や、おびたたしい数の古墳が集まった加悦(カヤ)から大江町を通り福知山に至り、さらに加古川を下れば前記の葛城垂見宿禰であろう垂水(神戸市)に至ります。海運に長けた人びとが、例えば鉄製品など運ぶのに舟を利用しない可能性の方がきわめて低い。
弥加宣(みかみ)神社
余談になりますが、京都嵯峨野に「御髪(みかみ)神社」があります。天御影神ではなかったことは確かでした。これは後世になって当て字ではないかとそんな思いがするのですが。
もしこのコースを邪馬台国の使者が通ったとなると、由良川に入ってすぐの大江町に「弥加宣神社」が祀られており、内陸に入るに従って難所が控えていて、その難所を過ぎて大和国も近くなり、再び穏やかな行程となる場所に、天御影神を祭祀した「みかみ神社」が存在していた、となれば因縁浅からぬ思いがするのは私だけの思い過ごしでしょうか。
拙者註:日本唯一の髪の神社。祭神は藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之公(ふじわらうねめのすけまさゆき)。その三男の政之公が生計のために髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされる。天御影神とは関係ないようです。
この嵐山から桂川を下っていくと山崎で琵琶湖から流れる宇治川と、木津方面から流れてくる木津川とが合流して、淀川になります。この合流地点をさかのぼって行けば、「卑弥呼」の鏡ではないかと言われている「三角縁神獣鏡」が32面も副葬されて騒がれた「椿井大塚山古墳」があるのです。このことから考えても、日本海回りのコースが邪馬台国の都に通じていたことを暗示している、そんな思いが強く感じられます。
木津町で下船した一行は、ここから陸上を邪馬台国の都まで徒歩で進行していったとしてもそんなに長い日数ではなく、せいぜい2~3日あれば充分足りるかと思われます。あるいは山崎から淀川を下り、かつては大きな入り江であった枚方当たりから当時の大和川を遡ったとしても、これも2~3日あれば充分かと思います。
『古事記』「開化天皇」の段に、「日子坐王(ひこいますのきみ)」と野洲三上地区に鎮まっている「天御影神」の姫である「息長水依比売(おきながのみずよりひめ)」との婚姻が語られています。この二人は五人の子宝に恵まれ、そのうち女性は二人ですが、この二人についてはその後の消息が記されていないので分かりませんが、男子の三人については次のように記されています。
長男の「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」については、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波地方の舞鶴市と大江町に「弥加宣神社」が祀られていたことから、丹波地方をその後支配されたことが確認できるのです。
次男は「水穂真若王(みずほのまわかのきみ)」といわれていますがこの人は、「近つ淡海安の値の租(ちかつあふみやすのあたえのおや)」と記されていて、近江盆地の東南部に広がっている野洲平野にあった「安の国」一帯の支配が考えられると思います。
そこで言えることは、この「水穂真若王」は祖母の「天御影命」や母「息長水依比売」等と共に、この「安の国」に留まっていてこれらの地域を統治していたと考えられます。
三男の「神大根王(かむおおねのきみ)」ですが、この人は和名が、「八瓜入日子(やつりのいりひこ)」と記され、「三野(美濃)木巣の国造の租」、「長幡部の連の租」とあります。この和名の読み方については私も初めは「やつりのいり日子」と読んでいましたが、これは間違った読み方で、正しくは「やすの入日子」と読むのをある本で知りました。
「丹波美知能宇斯王」が丹波を支配するようになったのは、多分成人後に、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波を支配するそもそもの始まりだったと思います。しかし、この丹波地方は祖父の「開化天皇」と、丹波の「竹野比売」との通婚が「記紀」に記されてあることからも、昔から丹波地方は「開化天皇」によってその支配下に組み込まれていたことが判るのです。
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