山陰道 旧蒲生峠(兵庫鳥取県境)

[catlist categorypage=”yes”] より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示

国道9号線蒲生峠は蒲生トンネルで通過するが、一度旧道を通ってみたかった。山陰道は、鳥取から京都を結ぶ要路として、江戸時代には鳥取藩が主要街道として峠を整備した。調べるとその当時の峠道は「山陰道・蒲生峠越」として国の史跡に指定され、現在では今でも残る石畳や石碑などに当時の思いを馳せながら散策できるハイキングコースとして、多くの人々に親しまれている。

現在は国道9号が、1978年開通の蒲生トンネル(延長1745メートル)で抜ける。トンネルを含めた蒲生バイパス開通前は鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線(全線)と鳥取県道31号鳥取国府岩美線(鳥取県岩美郡岩美町洗井~岩美町蒲生国道9号交点)が国道9号として峠を越えていた。

国道9号蒲生トンネル鳥取県側から鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線を行き、鳥取県道31号鳥取国府岩美線(国道9号旧道)

国指定史跡の山陰道は、蒲生峠越(がもうとうげごえ・鳥取県岩美郡岩美町)

徳城峠越(とくじょうとうげごえ)

野坂峠越(のさかとうげごえ・島根県鹿足郡津和野町)

の3か所のみである。

同じ岩美町には鳥取市との境の駟馳山峠の傾斜地に残されている美しい石畳道がある。

 


旧蒲生峠 鳥取県側から兵庫県側を見る

  

  

峠から旧山陰道へはNTT電波送信塔までの私道と重なり、NTT電波塔までの私道は進入禁止の表示がある。

山陰から京都に通じる道で人はもとより人力車、荷馬車など往来で賑わい、豊臣秀吉軍が鳥取城攻めに向かった時に利用されたなど歴史的ないわれも多く、幕末の戊辰戦争では西園寺公望らが山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦する際に村岡からこの峠を越えて鳥取に入っただろうことなど思いにふせる。

峠から案内板を少し歩くと、新しい蒲生峠の案内票石が立てられている。

また、平成8年には文化庁によって「歴史の道百選」に選定されています。


現在でも一部石畳が残っているらしいが、捜すうちに夕方が近づいていたので一人では薄気味悪くなってきた。
指定年月日:20050302

管理団体名:

史跡名勝天然記念物

近世の山陰道は、京都から山陰地方へ通じる主要街道で、鳥取県側では但馬往来、但馬街道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代道は志戸坂峠(八頭郡智頭町)を越えて姫路に出る智頭往来であったが、鳥取藩は山陰道を京都への重要な交通路として整備し、鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726)の『因幡国大道筋里数』によれば、鳥取から蒲生峠までの里程は6里12町であった。山陰道は岩美町浦富で海沿いに進むルートと蒲生峠へ向かうルートに分岐するが、蒲生峠越が本道とされていた。 天正8年(1580)の因幡攻めの際に羽柴秀吉が、慶応4年(1868)の明治維新の際には山陰道鎮撫使が、蒲生峠を越えて鳥取に向かったと伝えられている。

山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、蒲生峠で県道千谷蕪島線に合流する。合流点付近には、明治25年(1892)9月に往来人の安全を祈願して建立された「延命地蔵大菩薩」の台座が残されている。この間の約2km程の峠道が明治時代中期までの街道である。このルートは、明治時代になっても一般国道に選定されて整備が進められ、人力車や荷馬車の往来で賑わった。明治25年に山陰道が現在の県道ルートに変更されると次第に寂れていったが、現在も地域住民の林業や生活用の道路として利用維持されているために、遺存状態は比較的良好である。

平成2年度に鳥取県教育委員会によって文化庁補助事業「歴史の道調査」が行われ、平成10から12年度にかけて岩美町教育委員会により「歴史の道整備事業」が実施された。

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因幡国府址をさぐる

大きな地図で見る

但馬国府国分寺が置かれた旧日高町(現豊岡市)の人間として全国の国府国分寺跡は関心があった。鳥取市内から南東に国府町がある。もとは法美郡(法味郡)で、合併前までは岩美郡国府町。近年鳥取市と合併し鳥取市国府町になったが、名の通り因幡国府国分寺が置かれた政治の中心地だった場所である。因幡一宮宇倍神社も近い。ここも我が日高町と豊岡市の関係に似ているので親近感が湧く。

  

鳥取市国府町中郷

スマホのナビを見ながら国道53号を市内から県庁前まで行き、そのまままっすぐ旧若狭街道を走る。県道291号を曲がらずさらに進んで県道31号から国府跡をめざすが、鳥取は道路網が整備されていて平野部は目印がなく、いくつも似たような道路があってカーブが多くまっすぐ目的地にたどり着くのが容易ではない。県立盲学校聾学校が見えてくると左にゆるく大きくカーブして結局291号に戻ってから宮ノ下小前を県道225へ右折すると新しい郵便局がある。しばらくすると因幡国庁跡への案内標識が見えた。

細い農道を進むと田んぼの中に整備され史跡公園になっている。全国的に国衙址はよくわからないケースが多いが、ここはすでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘されていたというからすごい。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。

概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

因幡国は、鳥取県のほぼ東半分にあたる。本国庁跡は、鳥取市の東方約10キロメートルの所にあり、法美平野の中に残っている。そして、1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。国庁を象徴する遺物の代表的なものは、石帯(せきたい)、硯、題簽、木簡、墨書土器、緑秞陶器などが挙げられる。

これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。
因みに、因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる[1]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在でも周囲は田んぼが広がり住宅がなく開発されていないことが幸いだ。因幡国分寺跡は史跡公園から農道を進むと国分寺という地名が残っているが、時間がないので今回はパスした。後で調べると幹線道路から少し入った場所に塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。また、国分尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。総社は、『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。但馬総社は気多神社としてかつては現在の頼光寺の場所に広大な境内を誇っていたことがわかっている。

 

円山川も氾濫し改修工事がされて現在の場所を流れているがかつてはもっと西方だった。但馬国府は数回移転していることがわかっていて、後期は祢布に移されたとされるが、国府町は一級河川旧千代川の沖積平野に位置する。但馬の円山川の沖積平野であり大耕作地帯である国府平野によく似ている。当時は千代川以北の鳥取市街地も豊岡市街地も沼地であり、比較的安定していた場所を選定して国衙としたと想像できる。

因幡は古くは稲葉と書いた。現在でもこの旧岩美郡一帯は水田地帯が拡がる。

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鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

丹後国分寺跡と丹後国府推定地

古代丹波

かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だった。水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に日本海側最大の巨大な三大前方後円墳などが多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある。弥栄町丹波という地名が残る。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。

丹波から丹後へ降格?

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられている。南部の桑田郡(亀岡)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる
籠神社(与佐宮)が元伊勢といわれるように、元丹波なのだが、そういう国名は例がなく、朝廷からの位置関係で分割された場合は吉備のように前・中・後とつけられているのに習ったのだろう。
い。

丹後国府

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。
ただし、「易林本」の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 – 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。
今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。
「節用集」(せつようしゅう)とは、室町時代に成立した国語辞書の名称で、当時の書き言葉を語頭のイロハ順に分け、天地・時節・草木・人倫など12前後の意義部門別に多少の注記をほどこして示すのが特徴である。江戸時代に流布した節用集の基となったのが、『節用集(易林本)』である。易林本とは西本願寺の平井休与易林(号は夢梅)が編集したので、多くの節用集の中で特異な存在で区別するために呼ばれる通称である。

  

地元の但馬国府が何かの事情で三度ほど同じ気多郡の近隣地に移転したことが分かっており、一説には出石(はかざ)もその前には国府ではなかったかという節もある。同様に丹後国府も天災等で加佐郡から与謝郡の現在地に移転したことは不思議はない。しかし、加佐郡からいまだに国府跡・国分寺跡と思われる遺跡が見つかっていないので分からないが、平安時代より前の奈良時代の律令制が制定されたころから、山陰道の丹後への支道が与謝郡加悦から籠神社へ通じていたようだし、加佐郡は七道から外れている。宮津市国分・府中という地名からも、記録的に和名類聚抄および拾芥抄が「易林本」の節用集よりも古いといえ、奈良時代に宮津に国府・国分寺が置かれていたのは間違いない。平安時代には国府が何かの事情で加佐郡に移った可能性があるが、以降の鎌倉時代中期からの記録では与謝郡となっているから、丹後の位置からも、丹後支道に入っていないし、都からの交通の利便からいっても、丹後の東端にあたる加佐郡(舞鶴)よりも、中央の与謝郡に国府・国分寺を置いた方が自然だ。


ふるさとミュージアム丹後(京都府立丹後郷土資料館)
京都府宮津市字国分小字天王山 611-1

丹後・丹波の歴史や文化の展示を行っている。1970年に創設された丹後で最も伝統ある資料館。考古展示・歴史展示・民俗展示に分かれている。

宮津湾に面して天橋立の西側に阿蘇海という内海が広がる絶好の景色を見下ろす丘に位置する。寺跡には、寺域全域、金堂、筆跡、礎石が残るのみであるが、しかし、国分寺はのち荒れるにまかせられ、創建当時の様子を知る資料は、軒瓦が二点残されているだけであり、礎石などものちの再建時に移動されており、寺域などほとんど分かっていないのが実情である。現在の史跡は、天平国分寺跡ではなく、鎌倉時代に再建された建武国分寺跡だそうです。


国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀) 京都国立博物館所蔵

画面に作者を明示するような落款・印章の類はないものの、全体の筆法や構図、図中に書き込まれた地名の文字の書体などから、雪舟(1420~1506頃)筆とみなされている作品である。
図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。一方、橋立の下方には宮津湾がひろがり、またそれを囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがその下端になだらかに横たわっている。広大な空間を感じさせる、開放感たっぷりの構成である。
この図が実際の景観に基づいて描かれているのは確かだが、実景そのままを絵画化したというものではなく、成相寺の建つ山を極端に屹立(きつりつ)させてみたり、府中の町並みを横に引き伸ばすなどの変更が見て取れる。またかなり高い位置から橋立とその周辺を捉えているが、このように見える場所も実際は存在しない。近年の指摘によれば、こうした実景との違いは、雪舟が中国画の学習で培った山水画の画面構成法をもとにして実景部分を再構成したためであるという。とくにこの図の俯瞰(ふかん)的な構成法は、おそらく中国の景勝地を描いた西湖図などのそれを強く意識した結果なのであろう。
筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた感があるが、かえってそれが図に独特の躍動感、力強さをもたらしている。寸法の違う21枚もの小紙を不規則に貼り合わせた紙に描かれていることや、描き直しの跡が認められることなどからみて、本来は完成画(本絵)ではなく、下絵であった可能性が高い。もしかすると、すでにみた荒々しい筆さばきもそのあたりに原因があるのかもしれない。(京都国立博物館所蔵)


旧永島家住宅

旧永島家住宅は、京丹後市丹後町徳光にあった農家の母屋で、天保11年(1840)に建てられました。永島家は、江戸時代に宮津藩の大庄屋を務めました。
この建物は、丹後地方の民家の特徴である「平入り広間型三間取り」が「整型四間取り」へ変化した初期の建物です。
屋根が茅葺きで、室内の天井は鉄砲梁など大庄屋らしく整えられています。
(ふるさとミュージアム丹後)

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【新設丹後史】 開化天皇と古代丹波

『古代史の真相』 著者: 黒岩重吾

『古事記』、また後に『日本書紀』となる『日本紀』を天武が作らせた目的は、天皇の現人神(あらひとがみ)化と、万世一系による天皇家の絶対化です。そこで天武が最も嫌ったのは、氏族が違う大王家(天皇家)が並列することであり、大王家を凌駕しかねない勢力の存在だった。こういう天武の思想の下、四世紀の一時期、大王家と婚姻を重ね崇神王朝と並立していた葛城氏の首長たちの名は容赦なく改竄され、彼らに代わって創作された大王たちが登場したのです。とりわけ、応神・仁徳天皇が出現する直前の葛城氏について「記紀」が目して語らないのは、はなはだ興味深いものがあります。

葛城氏とは何者か

『古事記』によれば、葛城氏は蘇我氏と同族で、武内宿禰の末裔とされている。
その葛城氏がいつ頃勃興したかということですが、まず大和の東南部に日本最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳および石塚古墳を含む纏向(まきむく)古墳群というのがあります。ここは崇神王朝の勢力下です。箸墓古墳については卑弥呼の墓とする人もいますが、築造年代を三世紀半ばに推定するのはやはり無理でしょう。三世紀の終わりが妥当だと思います。

その時代、残念ながら葛城にはそれに匹敵する大きな前方後円墳はありません。ところが、葛城の室の大墓の近くに名柄遺跡があり、そこから弥生時代の終わり、三世紀末の銅鐸や多紐細文鏡が出ています。この多紐細文鏡は非常に珍しい鏡で、これと同じ鋳型でとった鏡が大阪府柏原市、山口県下関市、佐賀県唐津市、それに新羅の領有していた慶州からも出土しています。

これは極めて重要なことで、葛城氏を渡来人と見るかは別として、弥生末期に葛城に居住していた人びとは、瀬戸内海ルートを通じて、朝鮮半島と交易を結んでいたことがうかがえるわけです。

葛城氏の人物中、もっとも有名なのは葛城襲津彦(そつひこ)ですが、この襲津彦とは関係なしに、葛城垂見宿禰というのが『古事記』に出てくるのです。垂見宿禰の娘のわし比売が開化天皇の妃です。その間に生まれた建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけ)が、忍海部造(おしぬみべのみやつこ)の祖であるとされています。忍海というのは、今の奈良県北葛城郡新庄町です。もとより伝承上の話で、実在したかどうかはわからないのですが、門脇禎二さんの話によれば、垂見宿禰の垂見は兵庫県の垂水であるという。

河内から葛城に入るには、竹内峠を利用するのと、水越峠を通るのと、もう一つ吉野川をさかのぼって紀路をたどる。この三つがありますが、おそらく三世紀の終わりころから、葛城氏は水越峠を越えて河内に出て、垂水を押さえて但馬と交渉した。これが門脇説ですが、私もその通りだと思います。但馬というのは、東に丹後王国がある。これは崇神王朝系が、絶えず妃を求めていた場所です(拙者は但馬に出るには険しい遠阪峠があり、本州で最も低い分水嶺の氷上から福知山を経て加悦街道への方が近いと思う)。

そうすると葛城氏は瀬戸内海航路を利用して朝鮮半島と交渉する一方、河内、垂水に進出して丹後とも交渉していたことになる。だからそのあたりで大王家と競合するわけです。

この大王家と競合する時期は、四世紀の終わりころと考えられます。北葛城郡の馬見丘陵に葛城氏の墓があるとされているのですが、同丘陵の佐味田宝塚古墳、その南に位置する新山古墳などは、いずれも四世紀後半に築造されたものでしょう。新山古墳からは三四面の銅鏡、勾玉、管玉などが出ています。注目すべきは、直弧文といって円と直線とで描かれる日本独特の文様の鏡が出ていることです。

新山古墳よりやや古い佐味田宝塚古墳からは、30面以上の銅鏡が出土しているけれど、その中で特筆すべきは、平地式、高床式など四種類の家屋が描かれていることで有名な家屋文鏡です。高床式の家は、多分、その首長の家だろうけど、そこに蓋(きぬがさ)のようなものが描かれている。のちの大王家がもつ蓋とほぼ同じものです。だから、四世紀後半の佐味田宝塚古墳の被葬者は、北部葛城の首長であったと考えていい。

つぎに、南部葛城についてですが、どうも葛城襲津彦の出自は南部葛城のようです。葛上郡です。北部は葛下郡になります。佐味田、新山の両古墳とも100mクラスの古墳だけど、南部にはまだこれに対抗し得るだけの古墳は造られていません。

ただ強調しておきたいのは、もうそのころすでに崇神系の三輪山麓に、200mから300m級の巨大古墳が築かれていたということです。四世紀前半において、葛城氏は三輪王家に対立拮抗する力はなかったのです。

葛城氏が台頭してくるのは、四世紀後半から五世紀にかけてですが、突然、巨大な力になる。その原因は、朝鮮半島との交易でしょう。その頃の交易国はだいたい朝鮮半島南部から新羅(356~935年)が主で、次が百済です。この葛城氏の急成長ぶりを見ていると、三輪王家、俗にいう崇神王朝の勢力が葛城氏をなぜ潰してしまわなかったのか、なぜ拱手傍観していたのか不思議です。三輪王家は木津川を通って山科、それから但馬の方に勢力を伸ばしていった。婚姻関係から見るとそうなっています。彼らの目は北方へ、北方へと向いている。葛城氏は河内に出て、有馬の方に行った。だから三輪王家は葛城氏の存在をとりあえず利害的にも衝突しないし、それほど気には留めていなかったのだと思います。

『新版邪馬台国の全貌』 著者: 橋本彰

いわゆる「魏志倭人伝」に記された邪馬台国と諸国の所在地については諸説あり、ここでは触れませんが、日本海ルート説でいくと「投馬国」とは「出雲国」でありとされます。

次はこの「出雲国」を出発し、さらに十日間も進航すると、そこは舞鶴湾の辺りに到着することになると思われます。次にそこから南に向かって陸行する事30日にして目的地の邪馬台国に到着するのですが、当時の陸行といっても、舟で河を進んでいくのが主流ですから、舞鶴地方から陸行するとなると丹後一の大河・由良川という水量が豊富な河が内陸の奥深いところまで入り込んでいますから、舟で遡ることは十分にできます。

その河を40kmほどさかのぼったところに大江町があります。この大江町には「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」が自分の祖母の「天御影命」を祀った「弥加宣(みかみ)神社」を造営されています。さらに「天照大神の御神体が一時滞在された事を証明する「元伊勢の皇大神社」も祀られていて、この地域が古代の歴史上における非常に重要な地域であったことがうかがえます。

この大江町からさらにさかのぼっていくと福知山市があり、さらには綾部市から和気町辺りまでは舟で進むことができます。この和気町から南にひと山越えれば、丹波町、さらにもうひと山越えれば園部町で、桂川が流れて、亀岡から有名な「保津川下り」で下っていくと、嵐山までは一気に下れます。

拙者註:といっても保津川は急流であり角倉了以によって開削されたのはずっとあとですが…。丹後半島の東に浦島太郎の伝説地のほとつの伊根町があります。その南に丹後一宮・籠神社と天橋立の宮津湾があり、野田川をさかのぼると日本海でも最大規模である丹後三大前方後円墳のひとつ蛭子山古墳や、おびたたしい数の古墳が集まった加悦(カヤ)から大江町を通り福知山に至り、さらに加古川を下れば前記の葛城垂見宿禰であろう垂水(神戸市)に至ります。海運に長けた人びとが、例えば鉄製品など運ぶのに舟を利用しない可能性の方がきわめて低い。

弥加宣(みかみ)神社

余談になりますが、京都嵯峨野に「御髪(みかみ)神社」があります。天御影神ではなかったことは確かでした。これは後世になって当て字ではないかとそんな思いがするのですが。

もしこのコースを邪馬台国の使者が通ったとなると、由良川に入ってすぐの大江町に「弥加宣神社」が祀られており、内陸に入るに従って難所が控えていて、その難所を過ぎて大和国も近くなり、再び穏やかな行程となる場所に、天御影神を祭祀した「みかみ神社」が存在していた、となれば因縁浅からぬ思いがするのは私だけの思い過ごしでしょうか。

拙者註:日本唯一の髪の神社。祭神は藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之公(ふじわらうねめのすけまさゆき)。その三男の政之公が生計のために髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされる。天御影神とは関係ないようです。

この嵐山から桂川を下っていくと山崎で琵琶湖から流れる宇治川と、木津方面から流れてくる木津川とが合流して、淀川になります。この合流地点をさかのぼって行けば、「卑弥呼」の鏡ではないかと言われている「三角縁神獣鏡」が32面も副葬されて騒がれた「椿井大塚山古墳」があるのです。このことから考えても、日本海回りのコースが邪馬台国の都に通じていたことを暗示している、そんな思いが強く感じられます。

木津町で下船した一行は、ここから陸上を邪馬台国の都まで徒歩で進行していったとしてもそんなに長い日数ではなく、せいぜい2~3日あれば充分足りるかと思われます。あるいは山崎から淀川を下り、かつては大きな入り江であった枚方当たりから当時の大和川を遡ったとしても、これも2~3日あれば充分かと思います。

『古事記』「開化天皇」の段に、「日子坐王(ひこいますのきみ)」と野洲三上地区に鎮まっている「天御影神」の姫である「息長水依比売(おきながのみずよりひめ)」との婚姻が語られています。この二人は五人の子宝に恵まれ、そのうち女性は二人ですが、この二人についてはその後の消息が記されていないので分かりませんが、男子の三人については次のように記されています。

長男の「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」については、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波地方の舞鶴市と大江町に「弥加宣神社」が祀られていたことから、丹波地方をその後支配されたことが確認できるのです。
次男は「水穂真若王(みずほのまわかのきみ)」といわれていますがこの人は、「近つ淡海安の値の租(ちかつあふみやすのあたえのおや)」と記されていて、近江盆地の東南部に広がっている野洲平野にあった「安の国」一帯の支配が考えられると思います。

そこで言えることは、この「水穂真若王」は祖母の「天御影命」や母「息長水依比売」等と共に、この「安の国」に留まっていてこれらの地域を統治していたと考えられます。
三男の「神大根王(かむおおねのきみ)」ですが、この人は和名が、「八瓜入日子(やつりのいりひこ)」と記され、「三野(美濃)木巣の国造の租」、「長幡部の連の租」とあります。この和名の読み方については私も初めは「やつりのいり日子」と読んでいましたが、これは間違った読み方で、正しくは「やすの入日子」と読むのをある本で知りました。

「丹波美知能宇斯王」が丹波を支配するようになったのは、多分成人後に、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波を支配するそもそもの始まりだったと思います。しかし、この丹波地方は祖父の「開化天皇」と、丹波の「竹野比売」との通婚が「記紀」に記されてあることからも、昔から丹波地方は「開化天皇」によってその支配下に組み込まれていたことが判るのです。

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【新説丹後史】 神殿と神政王権の出現

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲

※中島の原文は「神聖王権」だが、拙者は太古の政治は神を崇めるマツリゴトから発生し政治の中心を占めていたことから、関裕二氏が使用している「神政王権」に統一する。

邪馬台国が九州説と大和説が二分している。拙者はひとまずそのテーマには距離を置いている。というのも邪馬台国が天皇を大王とするヤマト王権に移行した可能性は低いと思っている。(私は無関係だと思うので、九州だろうが大和だろうが、九州北部、出雲、吉備、ヤマト、丹後、北陸、尾張などが乱立していたころの西日本の一神政王権であるなら、そんなにその後の日本にとっては大した関心事ではない)

逆に近年めざましい発掘調査による事実を集めることで、弥生時代から古墳時代までの列島の様子をさぐることが、むしろ邪馬台国の所在地をしぼることができるのではないだろうか。最初から九州だ、大和だという視点では列島全体が見えなくなりそうだから。

ということで、中島一憲氏は、兵庫県出身、元豊中市役所勤務、退職後歴史研究に専念されているプロアマ歴史家だそうだから、専門分野に囚われないユニークな面白い視点があります。

神殿と神政王権の出現

九州北部で青銅器の交易権をめぐる争いが始まっていたころ、近畿地方にいち早く強大な神聖王権が出現している。

大阪平野西部、東六甲山系から大阪湾に注ぐ武庫川に近い兵庫県尼崎市武庫庄遺跡で、弥生中期前半の大規模高床建物群が見つかったのである。考古学上ではこれまで知名度が低かった地域であるが、肥沃な沖積平野を後背地として、大阪湾から瀬戸内ルートを通じて海洋交易で栄えた港市国家の存在を予想させる絶好の立地条件を備えていることをまず指摘しなければならない。

朝鮮半島や大陸との距離を別とすれば、近畿地方は気候が温暖で広大な平野部や盆地に恵まれ、大阪湾や琵琶湖、淀川といった水運にも至便であり、文化の発展にとってことさら九州に引けをとるという条件にはない。むしろ瀬戸内に強大な対抗勢力が出現しない限り、近畿は後背地のお陰で九州地方より、いっそう豊かな土地柄であった。

この建物は間口は8.6mもあり、奥行きは調査区の外に広がっているためわからないが、柱穴は東側で三本、西側で五本が柱間2.4mの等間隔で整列しており、中に直径50cm、長さ50cm~1mのヒノキの柱根が残っていた。柱の太さは弥生中期後半の池上曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)の神殿のもの(70cm)より細いが、吉野ヶ里遺跡の弥生後期の高床建物に匹敵し、間口は池上曽根遺跡の7mを大きく上回っているので、弥生時代最大級の高床式建築があるとされた。

さらにこの建物の8mほど外側を、五本の柱が見つかった西側の奥行きに平行して長さ35m、幅30cm、深さ15cmで一直線に延びる溝状遺構が見つかったが、これも建物を取り囲む板塀の跡と考えられた。

この建物の周囲には別の小規模な掘立柱建物三棟と円形竪穴住居跡があり、この遺跡を中心とする一帯が武庫川流域の地域国家の王都であった可能性が想定されたのである。

近畿地方ではこれより先に、池上曽根遺跡で1995年に発掘された大型高床式掘立建物が、正面を南に向けて東西方向に等間隔の柱で整然と建てられた長方形の建物で、両端に棟持柱をもつ神明造りの神殿であることがわかり、これも当初は紀元後50年代とされていたが、年輪年代測定の結果、実年代はそれより百年古い紀元前50年代であることが判明した。

北西九州の戦略的地位

九州地方ではまだ紀元前二世紀代の大型掘立柱建物は出土していない。しかしこの地方ではこの時代、甕棺葬がさかんに行われ、青銅器を大量に副葬するという習慣があったため、それによってこの地方のこの時代の政治的・文化的状況を推定することができる。

古代の日本列島における金属器の製造と使用の実態を追いかけてみると、いくつかの興味ある事柄が浮かび上がってくる。

まず第一に、縄文後期までは金属器は東北地方の港市国家が大陸から直接に移入していたらしいが、縄文晩期から弥生時代にかけては九州地方の港市国家が輸入の元締めとなったらしいことである。このことはこの頃から大陸交易の拠点として九州地方、とくに玄界灘から博多湾沿岸部にかけての戦略的地位が列島以外とともに重要視されるようになったことを意味しているのではないか。

第二に、縄文晩期以降の金属器では吉武遺跡や今川遺跡の例のように鉄鏃、銅剣などを金属製武器を好んで移入していることである。

第三に、曲がり遺跡や斎藤山貝塚のように鉄斧という形状の鉄素材を移入していることである。このことは有明町の製鉄炉遺跡や今川遺跡のリサイクル技術、吉野ヶ里遺跡や鶏冠井遺跡の青銅器鋳型、扇谷遺跡の精錬製鉄技術などから考えて、すでに鍛造や鋳造の高度な金属製造・加工技術をもち、武器はもちろん農具や工具など生産用具としても祭祀具としても金属器を活用していたことを意味しないだろうか。

第四に、今川遺跡出土の銅製品については、その起源が遼寧地方に求められるとされていることである。

列島の弥生前期・中期前半といえばおよそ紀元前300~100年にかけてのことである。大陸では戦国時代(紀元前403~221年)の前半にかけての時代にあたる。とくに戦国時代後半の紀元前三世紀中ごろは「戦国の七雄」の一つに数えられた強国に「燕(エン)」があり、そのころの 国は今日の遼寧省地方を根拠地に、南は山東省から東は遼東半島にかけて勢力を築いていた。

そうすると今川遺跡の銅製品の出土は玄界灘沿岸部の港市国家と燕国との交渉を想定させないだろうか。いわゆる「魏志倭人伝」の冒頭には、かつて朝鮮半島におかれた魏の直轄領である帯方郡(郡治は現在のソウル付近とされる)から倭国へいたる行程が述べられている。半島南部の弁韓(狗耶韓国)から対馬、壱岐を経由して九州北西部に達するという航路の記録である。

三世紀当時の倭国から大陸への交易ルートは、この逆の行程をたどったと考えるのが自然だろう。

しかし、旧石器時代の1万3千年前、原倭人はすでに伊豆諸島の黒曜石を関東地方などに海上輸送している。
縄文早・前期(1万年~5千年前)の前倭人(原倭人に次いで古い祖先)は、島根県の隠岐諸島の黒曜石を、50km無寄港で山陰地方へ海上輸送している。
また、伊豆諸島南端の下田から伊豆七島南端の八丈島までは直線距離で190km離れており、御蔵島と八丈島の間には黒潮本流が時速7ノット(約13km)の急流となって流れているが、当時の前倭人はこの航路を乗りこなして交易している。

この「八丈島航路」の距離は、博多-釜山間とほぼ同じで、ともに島づたいながらも急流を横切るところは「対馬海峡ルート」に等しい。

そして縄文後期(4千年~3千年前)には福岡県宗像郡玄海町の土器と佐賀県伊万里市の腰岳産の黒曜石が「対馬海峡ルート」で、釜山市の外港がある影島に運ばれている。

倭人(現代日本人の大多数の祖先)は、このようにして前倭人の時代から航海技術を駆使して大陸文化と交流してきた。

その交易先は古くはロシア共和国の沿海州地方であったが、やがて古代の大陸文化が中国大陸の長江(揚子江)下流域の「江南地方」で栄えるようになる7千年前ころには、「対馬海峡ルート」の先に「江南航路」が開拓され、大陸の南方系文化が列島に移入されるようになる。

この「江南航路」による大陸交易は、縄文時代全期を通じておもに東北地方から日本海沿岸にかけての港市的な集落によって担われたことが、考古学的な遺跡や遺物から推定できる。

これらの港市的集落が交易を通じて富を集積する社会経済システムを発展させ、やがて縄文中期(5千年前)以降、いくつかの拠点集落を核として通商交易権を独占的に支配する港市国家が登場するようになるのだ。

ところで縄文後期(4千年前)になると、その港市国家は九州地方にも出現し始めたと考えられる。さきほどみたように、まず玄界灘に面した福岡県宗像郡玄海町の港市王が直接、釜山と交易している。

縄文晩期の2千5百年前には、同県糸島郡二丈町曲がり田遺跡で大陸製の「板状鉄斧」が出土しているが、二丈町は糸島半島の南の付け根、唐津湾に面した「伊都国」地域の海港で、「対馬海峡ルート」を制するに適した港市国家の候補地のひとつに考えられる。

列島最古の製鉄炉跡が見つかった長崎県有明町も、当時は島原半島の有明海に面する海港でこのルートとの連絡が容易である。

同時代のことであるので、二丈が「国際貿易港」で、有明町が「工業都市」といった関係にあったかもしれないが、それを証明する史料はない。

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【新説丹後史】 丹後の巨大前方後円墳と前方後円墳国家

ヤマト政権が統一に向かうまで、旧石器、縄文、弥生時代といっても1万年以上にも及ぶ、記紀編纂から今日までの約千四百年をはるかに上回る膨大な年月である。

弥生時代、日本海に面した出雲、伯耆、丹後などに諸勢力が形成されていった。それはどのように半島南部との交易を行っていたのだろうか。近年、青森の三内丸山遺跡、出雲一か所でこれまでの全国で見つかった総数を上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかり、吉野ヶ里遺跡を上回る規模の伯耆・妻木晩田遺跡、因幡・青谷上寺地遺跡の倭国乱のようすを示す発見など、これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

かれらは韓半島と日本海を交易を通じて東アジア共同体を形成していたのだ。丹後としているが、かつては丹波が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄

弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。

そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。
東アジア世界とは、西嶋定生氏によれば、律令、仏教、儒教、文字などを共通した世界を示す。

丹後の巨大前方後円墳

網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)
画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はまったくない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

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釧(くしろ:腕輪) 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

コバルト・ブルーの色調をもったガラス製の釧(くしろ:腕輪)や貝輪の腕輪類をはじめ、じつに11本もの鉄剣などを副葬していた弥生後期後半の大風呂敷南1号墳、後期末で一辺40mの方形墳墓、赤坂今井墳墓などは「王墓」とひろく認められている。このほか後期初頭になって丘陵尾根に営まれだした首長墓は、かならずといっていいほど剣・刀・鏃(やじり)の鉄製武器を副葬していた。三坂神社3号墓では、後漢王朝からの下賜品かと推測される素環頭太刀に鉄鏃やヤリガンナが加わるし、浅後谷南墳墓でも、中心主体に2本の鉄剣がヤリガンナとともに副葬されていた。

(大風呂敷南1号墳の釧は、奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から、中国製のアルカリ珪酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が高い。鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県・藤ノ木古墳で見つかった「なつめ玉」などわずかしか確認されていない。)

弥生時代後期の墳墓に副葬されていた鉄剣・鉄刀などの大型武器はいまや50本の多さに達していて、旧国単位
では丹後地域が一頭抜きんでて堂々の第一位を占めている(野島2000)。多量の鉄製品副葬という事実は、南部朝鮮からの鉄素材の獲得、鉄器を加工する技術の保持、製作された鉄器の流通機構など、それを補完しうる鉄器武器の再生産システムがはやくもこの時期に完備されていたことを想定させる。
谷底平野しかないにも関わらず首長墓や「王墓」がみられ、多量の鉄器や漢王朝からのガラス管玉などの副葬に加えて、日本海に面しているという立地を考慮すれば、南部朝鮮首長層を相手にした鉄資源の交易という共通の利益によって、丹後各地の首長層が政治同盟を結んでいた可能性が高い。
もしそうだとすれば、交易で得られた富をテコに王権を確立していった、という王権形成のひとつのコース、農業生産を基盤にしたものとは違ったプロセスをみることができるのではないか。『魏志倭人伝』に描かれた三世紀の国々には含まれなかった丹後においても、そのころの北部九州や畿内などに何ら遜色のない「王墓」が築造されていたわけだが、そうした時代状況とはいったいどのようなものだったのか。
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玉の生産と「輸出」

弥生時代中期末の奈具岡遺跡での玉生産が注目される。ここでは碧玉や緑色凝灰岩製の管玉や勾玉(まがたま)、水晶製の勾玉、なつめ玉、そろばん玉、小玉、ガラス製の小玉などが多量に生産されていた。なかでも水晶の玉生産が注意を惹く。この時期の水晶製玉類の製作は、島根県西高江遺跡、同平所遺跡、富山県江上A遺跡で知られているが、奈具岡遺跡では数キログラムもの未製品や生産残滓が出土していて、まさしく突出した生産量を誇っている。さらに、玉つくりのための鉄製道具を製作した四基の鍛冶炉と10kgもの鉄素材は、漢代に盛行した鋳鉄脱炭鋼であることが分析されており、(野島2000)、その輸入先には設置されて間もない楽浪郡の可能性が示唆されている。

さて個々で生産された玉類、なかでも水晶でつくられた玉類はいったいどこへ供給されたのであろうか。長野県の再葬墓で水晶玉の副葬例が二例ほどみられるだけで、後期にいたってもまだ日本列島においては一般的ではなかったし、地元丹後の首長墓にもみられない。ここで候補地として登場してくるのが楽浪郡に派遣されて客死した官人の墳墓、や朝鮮原三国時代の首長墓である。しかし若干年代的に新しい墳墓が多い。今後の十分な検証が必要だが、有力な候補にあげたい。

北部九州だけではなかった弥生時代の王


大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。
後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。
つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

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丹後の古墳 丹後国旧竹野郡(福田川・離湖流域)

京丹後市網野町は、旧竹野郡(たかのぐん)で、日本海に注ぐ福田川と鳴き砂の浜で有名な琴引浜などの海水浴場、京都府下で一番広い湖である離湖(はなれこ)があり、古くは離湖と西の池があって福田川が流れ込んで日本海に注いでいたといわれています。丹後ちりめんの生産で知られています。木津温泉は京都府内でももっとも古い温泉で、別名「しらさぎ温泉」とも呼ばれています。奈良時代の僧侶行基が、しらさぎが傷を癒しているのを見て発見したという伝承も残っています。城崎(きのさき)温泉もコウノトリが癒していたのを見て発見された伝承があります。また、日本の文献で最初に柑橘が登場する記紀では、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされ持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」になったともいわれています。

網野銚子山古墳


日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳

網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。

 

この古墳は、崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓ともいわれています。しかし、丹波道主命の墓は、弥栄(やさか)町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っています。
近くには、日子坐王(ひこいますおう・水江日子坐王)、住吉大神、浦嶋子神などを祀る網野神社があります。

丹後国熊野郡 久美浜湾

旧熊野郡(京丹後市)は、京都府の最西北端に位置し、北は日本海に面し、西は豊岡市、東は木津・網野と、国道312号線で峠を境に峰山に接しています。南は天日槍で名を残す但馬国出石に、西は森尾古墳の豊岡にそれぞれ山をへだてて接し、日本海の荒波と河川から流れこむ砂で作られた「小天橋」と呼ばれる砂州に囲まれる奥深い湾を持った地域です。熊野の地名の由来には、色々ありますが、「隠国・こもりく」→「隠野・こもりの」→「くまの」と転化したという説があります。江戸時代には北回り船で栄え、明治新政府で丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国を管轄する「久美浜県」の県庁所在地になりました。

この地は地理的条件から西の但馬地方との交流も古くから盛んでした。したがって、古代遺跡の状況は両地域の関係が色濃く見られますが、函石浜(はこいしはま)遺跡から採集された代表的な遺物「中国新代(西暦8~23年)の王莽(おう もう、ピンイン、紀元前45年~紀元後23年):中国新朝の皇帝)によって鋳造された貨泉(貨幣)」からも、また今も残る「海士(あまし)」の地名をみても海部氏(あまし)の伝承があり、海洋氏族の根拠地があったと想像され、朝鮮半島・大陸との交流があったとも考えられています。兵庫県豊岡市城崎町今津の小見塚古墳は、但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。

久美浜湾には4つの河川が流れていますが、そのうちの佐濃川・川上谷川の流域に谷が形成され、遺跡・古墳もこの流域に集中しています。丹後の他の地域にみられる大型の前方後円墳は見られないものの、川上谷川右岸には古墳時代前期と考えられる島茶臼山古墳(全長42m)、中期の時代といわれる岩ヶ鼻古墳(全長51m)、芦高神社古墳(推定全長50m)などがあります。

一方、川上谷川左岸には、方墳の四隅を面取りし、その先端に方墳を付加した出雲地方に多く見られる「四隅突出墳」のような形態を持つ、丹後地方では特異な権現山古墳があり、その上流には100基余りの小古墳が集中する須田古墳群があり、その奥まった一画に1981年、黄金色の金銅装「親子双龍式環頭柄頭太刀」の発見で全国に一躍その名をとどろかせた湯舟坂古墳があります。2号墳の石室は保存され現在も私たちにその姿を見せてくれています。

そのほか、丹後地域では珍しい玄室の床に敷石を敷きつめた横穴式石室(他の2例は野田川町高浪古墳と湯舟坂2号墳)を持つ畑大塚古墳群、須田古墳群の中の平野古墳、久美浜湾に突出する岬に築かれた大明神岬古墳などがあります。また前述の函石浜遺跡、浦明遺跡・椎ノ坪遺跡・橋爪遺跡など縄文・弥生時代からの遺跡が散在しています。これも同様に豊岡市加陽の大師山古墳群に横穴式古墳があります。

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