古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


日本史ランキング

丹後の巨大前方後円墳

丹後の巨大前方後円墳と池田古墳

かつては丹波(道)が丹波・但馬・丹後に分立するまで、丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。
記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄
弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。
そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。

丹後の巨大前方後円墳


網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)

画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。

築造年代は、4世紀末ごろ築かれたと推定される。
ところで、こうした山陰地方でも最大級の前方後円墳が丹後半島の竹野川・野田川流域に築造されたことと、関係が最も有力なのは、人皇9代開化天皇の妃に丹波大県主由碁理の娘・丹波竹野媛と妃:姥津媛(ははつひめ)との第三皇子:彦坐王(ひこいますのみこ)である。開化天皇までの八代の天皇は「欠史八代」といって記録が乏しいが、開化天皇の第二子で、次の人皇10代崇神天皇からは、3世紀から4世紀初めにかけて実在した天皇とされている。崇神天皇と彦坐王は、異母兄弟だが彦坐王の子が丹波道主命である。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

北部九州だけではなかった弥生時代の王

画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。

後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。

つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

伯耆国庁・国分寺

  

鳥取市から倉吉市へは国道9号線が、鳥取バイパス、青谷羽合道路が開通し、国庁所在地で別の旧国であるが時間的に早くなった。高校時代にまだ国鉄だった頃、同級生3人と香住から夜行の山陰号でどこまで行けるかと乗った。今は時効だろうが最初で最後のキセル乗車である。誰も乗っていない客車で限界を感じて倉吉駅で降りて引き返した。深夜の倉吉駅は遠くて寂しい思いがしたことを覚えている。

続きを読む伯耆国庁・国分寺

第4回 2.姫路城の普請 石垣

[catlist categorypage=”yes”] 2.姫路城の石垣

三つの異なる石積み形式

1)羽柴時代(野面積み)
2)池田時代(打込接ぎ)
3)本多時代(打込接ぎ・一部切込接ぎ)

秀吉時代の野面積み 上山里


秀吉時代(右)と池田時代の石組み(左) 二の丸
武蔵野御殿池護岸石垣


算木積み 扇の勾配(二の丸隅部)


打込接ぎ 武蔵野御殿池護岸石垣


人面石 ぬノ門前

第4回 姫路城の縄張り・普請

Ⅰ.選地

築城は四要素 選地・縄張・普請・作事

1。選地

城をどこに置くか
-城の防御と領国経営の要諦

山 城    →  平山城・平城
(防御主体)  (領国経営主体)

姫路城は、理想的な選地

・三方を山に囲まれ
・市川・夢前川が流れる平野の中央
・交通の要衝に恵まれた地

姫山と鷺山の高低差を生かした平山城

【四神相応】
中国儒書『礼記』(らいき)…都城の理想的な選地

(姫路城)  (平安京)
■東 青龍 <流水>  市川     鴨川

■南 朱雀 <窪地>  瀬戸内海   巨椋池

■西 白虎 <大道>  山陽道    山陽道

■北 玄武 <丘陵>  広嶺山系   船岡山

2.縄張

築城における曲輪や建物の配置、計画、城下町の地割すなわち築城の総合的な計画・設計

■縄張のタイプ

・輪郭式・・・大坂城、駿府城など
・梯郭式・・・岡山城、熊本城、萩城など
・連郭式・・・彦根城、水戸城など

■姫路城の縄張(全体)

・らせん状(左巻き)に三重の堀
・三つの曲輪
内曲輪(内堀内)・・・城郭と居館
中曲輪(中掘内)・・・侍屋敷
外曲輪(外堀内)・・・町家、寺町、侍、組屋敷

・総構えの縄張
城と城下町全体を土塁と堀で囲んだ縄張

■姫路城の縄張(内曲輪)

・二つのタイプの縄張が共存
姫山・・・小さな曲輪・ひな壇状に集合 迷路のように複雑に分かれた古いタイプの縄張(秀吉時代の曲輪利用)
鷺山・・・一つの大きな曲輪(西の丸)

Ⅱ.普請(ふしん)

■普請とは・・・築城における土木工事または土木工事を伴う建築工事

・石垣  石垣を築く
・堀   堀をうがつ
・土塁  土塁を盛る

第3回 姫路城の歴史と人物

[catlist categorypage=”yes”] 姫路城の歴史を人物でたどる。

1.最初の築城説

赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある。

■赤松貞範築城説
『赤松播磨録』(延享4年(1747))
『播磨鑑』(宝暦12年(1762))典拠
貞和2年(1346)築城の根拠…正明寺板碑

■黒田重隆・職隆(もとたか)築城説
天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間
根拠…姫道御構(ひめじおんかまえ)の存在確認
(姫道村助太夫の畠地売券(正明寺文書))
※永禄4年(1561)12月に、姫道村助太夫が、母屋藤兵衛尉に畠地を直銭弐貫七百文で売った。土地の場所は「姫道御構東門之口、妙楽寺の西」にあったという。

2.中世の姫路城  ※「姫路城史」橋本政次著説

■1代 初代城主 赤松貞範(貞和2年(1346))
-その後、貞範が庄山城へ(1349)

■2~5代 第一次小寺氏
頼季(よりすえ)-景治ー景重-職治(もとはる)
-貞和5年(1349)~嘉吉元年(1419)

■6代 山名持豊(宗全) 嘉吉の変後赤松氏滅亡後、播磨守護職として姫路城主 嘉吉元年(1441)

■7代 赤松政則 赤松宗家を再興し、姫路城主に 応仁元年(1467)
-その後置塩城へ(文明元年(1469))

■8~10代 第2次小寺氏
小寺豊職(とよもと) 文明元年(1469) 応仁の乱に遭遇
小寺政隆     延徳三年(1491) 御着城を築く
小寺則職(のりもと) 永正16年(1519) 御着城主に転ず

■11代 八代道慶(小寺家家老)姫路城を預かる
享禄4年(1531)~天文14年(1545)

——————————————-

■12~14代 黒田氏三代(約35年間)
小寺氏家臣であった黒田重隆 小寺氏の命により、御着城から姫路城へ移る。
重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。

12 黒田重隆 天文14年(1545)
-職隆 永禄7年(1564)
-孫の孝高(官兵衛、如水) 永禄10年

・天正8年(1580)
黒田孝高 秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し、国府山城へ移る。

■15~17代 秀吉三代(約20年)

・天正5年(1577) 羽柴秀吉 播磨へ侵攻
天正8年(1580)秀吉 播磨平定
天正9年(1581)三重の天守完成

・天正11年(1583)羽柴秀長
・天正13年(1585)木下家定

3.近世の姫路城

■18~20代 池田氏三代(約17年)

・慶長5年(1600)
池田輝政 三河吉田15万2千石から関ヶ原の戦いの戦功により52万石に加増入封
三木、明石、平福、龍野、赤穂、高砂に支城

・慶長6年(1601)~慶長14年(1609)
白亜の姫路城築造 総構えの城下町
8年掛けた大改修で広大な城郭を築いた。
普請奉行 池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛
作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 – 5千万人であろうと推定されている。

・慶長5年(1600) 池田輝政
・慶長18年(1614) 池田利隆
・元和2年(1616年)池田光政 →元和3年(1617)因幡鳥取へ転封

4.譜代・親藩大名の入・転封

■21~23代 本多家三代(第一次本多氏22年間)

・元和3年(1617) 本多忠政 伊勢桑名10万石から15万石に加増され入城
・元和4年(1618) 千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸造営、御殿群築造

本多忠政-政朝-正勝 寛永16年(1639)大和郡山へ

■24・25代 奥平松平家 忠明 寛永16年(1639)大和郡山より
忠弘 正保元年(1644)出羽山形へ

■26・27代 越前松平家(結城) 直基 慶安元年(1648)出羽山形より
直矩 慶安元年(1648)越後村上へ

■28・29代 榊原家 忠次 慶安2年(1649)陸奥白河より
政房 寛文5年(1648)

■30代 再度越前松平家 直矩 豊後日田へ

■31・32代 再度本多家 忠国 天和2年(1682)陸奥福島より
忠孝 宝永元年(1704)越後村上へ

■33~36代 再度榊原家 政邦 宝永元年(1704)越後村上より
政祐 享保11年(1726)
政岺(まさみね) 享保17年(1732)
政永 寛保元年(1735)越後高田へ

■37・38代 再々度越前松平家 明矩(あきのり) 陸奥白河より
朝矩(とものり) 上野前橋へ

■39~48代 酒井家十代

39 酒井忠恭(ただずみ) 寛延2年(1749)松平朝矩と入れ替わり前橋城より入城する。
40 酒井忠以(ただざね) 安永元年(1772)
41 酒井忠道(ただひろ) 寛政2年(1790)
42 酒井忠実(ただみつ) 文化11年(1814)
43 酒井忠学(ただのり) 天保6年(1835)
44 酒井忠宝(ただとみ) 弘化元年(1844)
45 酒井忠顕(ただてる) 嘉永6年(1853)
46 酒井忠績(ただしげ) 万延元年(1860)
47 酒井忠惇(ただとう) 慶応3年(1867)
48 酒井忠邦(ただくに) 明治元年(1868)

第2回 城郭の歴史と姫路城

姫路城築造には、赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある(後に記述する)。

1.戦国時代の姫路城■天文14年(1545)
黒田重隆、小寺氏の命により御着城から姫路城に移る(御着城の出城(支城)としての姫路城)■永禄4年(1561)
黒田重隆・職隆、城を改修する永禄4年12月・「姫路御構」の存在確認■天正8年(1580)
黒田孝高(官兵衛)、羽柴秀吉に姫路城を勧める
(黒田職隆・孝高父子は、妻鹿国府山城へ)2.羽柴秀吉

姫路城築城

三重の天守築造 天正9年(1581)
中国攻めの拠点としての姫路城…『豊鑑』『播磨鑑』

拙者付記 但馬征伐もおこなう

3.築城最盛期の築城(池田輝政の大改修)

■慶長6年(1601)~14年(1609)
池田輝政が白亜の姫路城を完成(播磨の国主を誇示する姫路城)
・連立式天守構造
5重7階(地上6階・地下1階)の大天守
東・乾・西小天守をイロハニの渡櫓
・総構えの城下町造営

4.姫路城・総構えの城下町

  
■らせん状に三重の堀
■三つの曲輪
・内曲輪(内堀内)…城郭と居館
・中曲輪(中掘内)…侍屋敷
・外曲輪(外堀内)…町家、寺町、侍屋敷・組屋敷

■総構え…城と城下町全体を堀と土塁で囲む
■山陽道を城下町に引き込む

5.武家諸法度下の築城

■本多忠政の御殿築造
元和4年(1618)
西国の藩鎮、西国探題職、幕府を守る姫路城
・西の丸櫓群、中書丸御殿
・御殿群構造
居城(本城)、武蔵野御殿、向屋敷、樹木屋敷(西屋敷)、東屋敷築造

「姫路侍屋敷図」姫路市立城郭研究室蔵

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)

[catlist categorypage=”yes”]

※放送大学兵庫学習センター(姫路)第2学期面接授業
「城郭の歴史と姫路城を学ぶ」

1.城郭とは?

■「城」とは、
「土に成る」
地面を掘り、土を盛って囲った区画

■「郭」とは、
「囲いのある所」
「物の外まわり」

『古事記』…「稲城(いなぎ)」、『日本書紀』…「城(き)」

2.城郭の主な系譜

■古代山城
7世紀後期(飛鳥時代末期)約30
■中世城館
13世紀~16世紀
(鎌倉・南北朝・室町時代)
約40,000
■近世城郭
16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)
約200~300

3.その他の城郭

■都城…外郭ラインに城壁は築かれず、築地塀や区画溝で囲む
7世紀~8世紀はじまり
藤原京、平城京など

■城柵…古代朝廷の東北地方計略の拠点 8世紀
多賀城、秋田城、志波城など

■チャシ…物見や祭祀の場としても利用されたアイヌの砦

■グスク…琉球(沖縄)で地方領主が地域支配のために築く 14世紀
中城城、勝連城、今帰仁城など

4.古代山城 7世紀後期

■朝鮮式山城
大野城、基肄(きい)城、屋島城、高安城、金田城など6城

■神籠石系山城
城山城、鬼ノ城、大廻小廻山城、石城山城、高良山城、女山城、雷山城など

西日本中心に30ヶ所があるといわれ、現在23ヶ所確認

5.中世城館 13世紀~16世紀(鎌倉・南北朝・室町時代)

■在地領主(土豪や国人など)による私的な城
■山上には詰めの城、普段は麓の居館に居住
■居館
方形、周囲に土塁・堀
■詰城
山上の尾根伝いに段々畑状の小さな曲輪を連ね、要所に空堀や土塁を配置
堀切(尾根を切断)、堅堀(山の斜面を竪に区画)、切岸など

詰城例…浅井氏小谷城、北条氏小田原城、尼子氏月山冨田城、六角氏観音寺城、毛利氏吉田郡山城、上杉氏春日山城など
居館例…足利氏館、一乗谷朝倉氏館など

6.近世城郭 16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)

■安土城築城(織田信長)天正4年(1576)
・天主を持つ城(5重7階)…熱田の宮大工、岡部友右衛門
・総石垣の城…穴太衆の存在
・瓦の使用(金箔瓦)…奈良の瓦工集団
・御殿の築造
・城下町の出現(楽市・楽座)

7.豊臣秀吉の天下統一(天正18年(1590))

■近世城郭は全国に普及
秀吉配下の大名たちが大城郭を築造
・羽柴秀長 大和郡山城 天正13年(1585)
・毛利輝元 広島城 天正17年(1589)
・宇喜多秀家 岡山城 天正18年(1590)

■秀吉による天下普請
・大坂城  天正11年(1583)
・聚楽第  天正14年(1586)
・肥前名護屋城 天正19年(1591)
・伏見城 文禄元年(1592)

8.築城ラッシュ(慶長の築城最盛期)

■関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))の後
・大名たちの全国的な配置換え

■加増された広大な領地を与えられた外様大名たち
(中国・四国・九州中心)

・加増に見合う大城郭を新築・大改修

■一方、徳川幕府は、外様大名たちを動員して天下普請の城を築造
(豊臣包囲網・外様大名の財力消耗)

9.築城最盛期の城

■外様大名による築城
熊本城(加藤清正)、福岡城(黒田孝高・長政)
小倉城(細川忠興)、伊予松山城(加藤嘉明)
高知城(山内一豊)、萩城(毛利輝元)
松江城(堀尾吉晴)、津山城(森忠政)
姫路城(池田輝政)、伊賀上野城(藤堂高虎)
仙台城(伊達政宗)など

■徳川家康による天下普請
彦根城、江戸城、駿府城、篠山城、名古屋城
丹波亀山城(再築)、高田城、伏見城(再築)など

10.幕府による城の規制

■大坂の陣(慶長20年(1615))後の幕藩体制の強化

・一国一城令(元和元年(1615)6月)
一つの国に一つだけの城を認め他は廃止

・武家御法度(元和元年(1615)7月)
「諸国の居城、修復を為すと言えども必ず言上すべし、況んや新儀の構営、堅く停止せしむる事」
・居城修復に事前に幕府に届け、許可を受ける
・新城の築城や修復以外の新たな工事は一切禁止

11.天守代用櫓と天主がない城

■天守代用櫓(御三階櫓)…新発田城、丸亀城

■天守台はあるが天主がない城…赤穂城、篠山城

12.城の規制下での築城

■幕府の政略上
・明石城 小笠原忠真 元和3年(1617)
・福山城 水野勝成 元和6年(1620)

■幕府の天下普請
・徳川大坂城再築 元和6年、寛永元年、5年(1628)
・二条城     寛永元年(1624)

■外様大名の転封による
・赤穂城 浅野長直 慶安元年(1648)
・丸亀城再築 山崎家治 寛永19年(1642)

13.幕末の築城

■海防の強化
・新城の築城(砲台を設置)
福山(松前)城 松前崇広 嘉永2年(1849)
石田城  五島盛正 嘉永2年( 〃)

■様式築城
・五稜郭 安政4年(1857)

■砲台
・品川台場、和田岬砲台

14.明治維新後の城郭

■存城・廃城令 太政官布達 明治6年(1873)1月14日

全国の城郭に対し、「存続」と「廃城」の線引き
旧城郭の管轄の二分化

存城・・・56城(姫路城、名古屋城など)陸軍省の管轄
廃城・・・190の城・陣屋など 大蔵省の管轄

世界遺産 姫路城の歴史と見学

[catlist categorypage=”yes”]

12月3・4日 放送大学面接授業において、平成の大修理が行われている国宝姫路城を見学してきた。

城郭の歴史と姫路城を学ぶ
兵庫学習センター(姫路)

授業内容

長い築上の歴史の中で、現存最大、また芸術上も最高傑作と言われ世界遺産にも登録された姫路城が何故建てられたのか。その歴史的背景を探るほか、現地見学を交えながら姫路城の縄張りや普請(石垣、堀、土塁)、作事(天守、櫓、門等)、歴史や人物など姫路城の構造や歴史を学び、また、平成の大修理を踏まえ遺産を守る大切さも学ぶ。

【授業テーマ】

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)
第2回 城郭の歴史と姫路城
第3回 姫路城の歴史と人物
第4回 姫路城の縄張り・普請(石垣、堀、土塁など)
第5回 姫路城の作事(天守、櫓、門、御殿など)
第6回 世界遺産姫路城を守る(姫路城修理の系譜と平成の大修理の概要)
第7・8回 姫路城見学