JR山陰本線最大の難所に開通したトンネル

桃観とうかんトンネル

JR山陰線最大の難所に開通したトンネル

  
桃観トンネル(浜坂久谷側)

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、

後藤新平の筆による石額

そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所

山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。

工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。

煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

=但馬の百科事典より=

工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)ということで、強制連行され不当な待遇であったかのように叫ぶ人たちがいた。しかし、考えていただきたいのは、工事期間の1906(明治39)から1911年(明治44)ころは朝鮮併合で貧富の差が激しかった併合前の朝鮮から、日本国民として一旗揚げようと日本に渡ってきた朝鮮労働者も多くいたのである。アメリカのゴールドラッシュのように学歴も素性も分からない外地の朝鮮人にとって必然的に鉱山や土木工事など肉体労働者が多かった。

従って戦時中には国家総動員法によって、日本国民は日本人・朝鮮人・台湾人の区別なく徴兵・徴用はあったが、終戦から多くは日本政府の補助で帰国している。

朝日新聞

戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが外務省が証明されている。朝鮮総連などが使う強制労働などという言葉すら造語である。明治に強制労働など行われなかったし、朝鮮半島と台湾は日本であり、むしろ朝鮮人としてではなく同じ日本人殉職者として差別なく石碑に刻まれていたことがそれを示していると思う。

桃観トンネル(余部側)

山陰道 旧蒲生峠(兵庫鳥取県境)

[catlist categorypage=”yes”] より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示

国道9号線蒲生峠は蒲生トンネルで通過するが、一度旧道を通ってみたかった。山陰道は、鳥取から京都を結ぶ要路として、江戸時代には鳥取藩が主要街道として峠を整備した。調べるとその当時の峠道は「山陰道・蒲生峠越」として国の史跡に指定され、現在では今でも残る石畳や石碑などに当時の思いを馳せながら散策できるハイキングコースとして、多くの人々に親しまれている。

現在は国道9号が、1978年開通の蒲生トンネル(延長1745メートル)で抜ける。トンネルを含めた蒲生バイパス開通前は鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線(全線)と鳥取県道31号鳥取国府岩美線(鳥取県岩美郡岩美町洗井~岩美町蒲生国道9号交点)が国道9号として峠を越えていた。

国道9号蒲生トンネル鳥取県側から鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線を行き、鳥取県道31号鳥取国府岩美線(国道9号旧道)

国指定史跡の山陰道は、蒲生峠越(がもうとうげごえ・鳥取県岩美郡岩美町)

徳城峠越(とくじょうとうげごえ)

野坂峠越(のさかとうげごえ・島根県鹿足郡津和野町)

の3か所のみである。

同じ岩美町には鳥取市との境の駟馳山峠の傾斜地に残されている美しい石畳道がある。

 


旧蒲生峠 鳥取県側から兵庫県側を見る

  

  

峠から旧山陰道へはNTT電波送信塔までの私道と重なり、NTT電波塔までの私道は進入禁止の表示がある。

山陰から京都に通じる道で人はもとより人力車、荷馬車など往来で賑わい、豊臣秀吉軍が鳥取城攻めに向かった時に利用されたなど歴史的ないわれも多く、幕末の戊辰戦争では西園寺公望らが山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦する際に村岡からこの峠を越えて鳥取に入っただろうことなど思いにふせる。

峠から案内板を少し歩くと、新しい蒲生峠の案内票石が立てられている。

また、平成8年には文化庁によって「歴史の道百選」に選定されています。


現在でも一部石畳が残っているらしいが、捜すうちに夕方が近づいていたので一人では薄気味悪くなってきた。
指定年月日:20050302

管理団体名:

史跡名勝天然記念物

近世の山陰道は、京都から山陰地方へ通じる主要街道で、鳥取県側では但馬往来、但馬街道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代道は志戸坂峠(八頭郡智頭町)を越えて姫路に出る智頭往来であったが、鳥取藩は山陰道を京都への重要な交通路として整備し、鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726)の『因幡国大道筋里数』によれば、鳥取から蒲生峠までの里程は6里12町であった。山陰道は岩美町浦富で海沿いに進むルートと蒲生峠へ向かうルートに分岐するが、蒲生峠越が本道とされていた。 天正8年(1580)の因幡攻めの際に羽柴秀吉が、慶応4年(1868)の明治維新の際には山陰道鎮撫使が、蒲生峠を越えて鳥取に向かったと伝えられている。

山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、蒲生峠で県道千谷蕪島線に合流する。合流点付近には、明治25年(1892)9月に往来人の安全を祈願して建立された「延命地蔵大菩薩」の台座が残されている。この間の約2km程の峠道が明治時代中期までの街道である。このルートは、明治時代になっても一般国道に選定されて整備が進められ、人力車や荷馬車の往来で賑わった。明治25年に山陰道が現在の県道ルートに変更されると次第に寂れていったが、現在も地域住民の林業や生活用の道路として利用維持されているために、遺存状態は比較的良好である。

平成2年度に鳥取県教育委員会によって文化庁補助事業「歴史の道調査」が行われ、平成10から12年度にかけて岩美町教育委員会により「歴史の道整備事業」が実施された。

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但馬国府は条里制に収まっていた?!

20111.5.22 「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会
「祢布ヶ森(ニョウガモリ)遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏

見つかった施設・遺構から、大型建物跡などが確認されている。かなり大きな役所跡だった。
また、全国的にみても多数の木簡が見つかっており、当時の役人の業務が分かる。


祢布ヶ森遺跡と周辺の遺跡 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

但馬国府の推定と発掘

全国的にも国府(国衙)はさまざまな理由によって官庁を移転している例があります。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

『日高町史』によれば、古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、高田郷に国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。和妙抄は高田(タカダ)郷は「多加多」と記され、夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上が含まれるとされています。国府が国保と記されていたとも考えられます。

『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。

したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。
『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。高田郷とは祢布ヶ森を含む現在の旧日高町中心部なので、どこからか祢布ヶ森へ移されたことは間違いないようです。

総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
役所跡と判断する理由

塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと

庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと

但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。
水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。但馬国は上国・近国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、但馬国は中国の実態しかない国だったようです。

2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。なかにはまだ若い(だろう?)役人が九九の計算を練習して間違えていたり、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。
但馬史説
国府村誌説
日置郷説
八丁路説
八丁路南説
国司館移設説

なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

川岸遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市日高町松岡
第1次但馬国府か?(昭和59年)
都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。

八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。

前岡さんは個人的な考察として、国府地区から祢布ヶ森へ移転したのではなく、12世紀以降の遺物はほとんど出土しないので、祢布ヶ森から国府地区へ移転したのではないかと想像すると語る。
祢布ヶ森遺跡の位置と、これまでの発掘調査箇所 S=1:2,000 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

条里と条里(青線)の間は218m(2町)で左の条里以西からは遺跡が見つかっていない。
祢布ヶ森遺跡・但馬国分寺周辺の条里復元図 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

天平13年(741)造営開始から天平勝宝年間(750年代)に一応の完成をみた但馬国分寺は条里制に東西は一致しているものの、条里からはずれているが、延暦23年(804)に移転してきた但馬国府(祢布ヶ森)は、律令制による条里制の区画にすっぽりと合致しており、条里制が布かれた後に条里制を反映したものかということが想定されるということが興味深い。
気多郡の条里が施行されたのは、8世紀後半~末であろう。

国庁は、中央の正殿とその左右にある脇殿や、周りを囲む塀などで構成され、「コ」や「品」字の型に計画的に配置されている。規模の違いは国の等級が在る程度反映されているようです。40mほどのものから100mを超える大規模なものもある。但馬国府は正殿らしき遺構から脇殿まで約100m。

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因幡国府址をさぐる

大きな地図で見る

但馬国府国分寺が置かれた旧日高町(現豊岡市)の人間として全国の国府国分寺跡は関心があった。鳥取市内から南東に国府町がある。もとは法美郡(法味郡)で、合併前までは岩美郡国府町。近年鳥取市と合併し鳥取市国府町になったが、名の通り因幡国府国分寺が置かれた政治の中心地だった場所である。因幡一宮宇倍神社も近い。ここも我が日高町と豊岡市の関係に似ているので親近感が湧く。

  

鳥取市国府町中郷

スマホのナビを見ながら国道53号を市内から県庁前まで行き、そのまままっすぐ旧若狭街道を走る。県道291号を曲がらずさらに進んで県道31号から国府跡をめざすが、鳥取は道路網が整備されていて平野部は目印がなく、いくつも似たような道路があってカーブが多くまっすぐ目的地にたどり着くのが容易ではない。県立盲学校聾学校が見えてくると左にゆるく大きくカーブして結局291号に戻ってから宮ノ下小前を県道225へ右折すると新しい郵便局がある。しばらくすると因幡国庁跡への案内標識が見えた。

細い農道を進むと田んぼの中に整備され史跡公園になっている。全国的に国衙址はよくわからないケースが多いが、ここはすでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘されていたというからすごい。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。

概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

因幡国は、鳥取県のほぼ東半分にあたる。本国庁跡は、鳥取市の東方約10キロメートルの所にあり、法美平野の中に残っている。そして、1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。国庁を象徴する遺物の代表的なものは、石帯(せきたい)、硯、題簽、木簡、墨書土器、緑秞陶器などが挙げられる。

これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。
因みに、因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる[1]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在でも周囲は田んぼが広がり住宅がなく開発されていないことが幸いだ。因幡国分寺跡は史跡公園から農道を進むと国分寺という地名が残っているが、時間がないので今回はパスした。後で調べると幹線道路から少し入った場所に塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。また、国分尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。総社は、『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。但馬総社は気多神社としてかつては現在の頼光寺の場所に広大な境内を誇っていたことがわかっている。

 

円山川も氾濫し改修工事がされて現在の場所を流れているがかつてはもっと西方だった。但馬国府は数回移転していることがわかっていて、後期は祢布に移されたとされるが、国府町は一級河川旧千代川の沖積平野に位置する。但馬の円山川の沖積平野であり大耕作地帯である国府平野によく似ている。当時は千代川以北の鳥取市街地も豊岡市街地も沼地であり、比較的安定していた場所を選定して国衙としたと想像できる。

因幡は古くは稲葉と書いた。現在でもこの旧岩美郡一帯は水田地帯が拡がる。

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因幡山名氏と布勢天神山城(鳥取県鳥取市)

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布勢天神山城の歴史

山名氏宗家但馬山名氏(出石町)のお膝元豊岡市の住民としては、鳥取にたびたび行く機会があれば因幡山名氏について辿ってみたい思ってた。2月19日にかねてから一度目指したかった久松山(鳥取山城)を登るとどうしても布勢天神山城を訪ねてみたかった。


城山(天神山と卯山)を南東から眺める

『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、布勢天神山城は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。つまり布施という地名は全国に多いが、政治の中心が置かれていた場所という意味であろう。

湖山の県立緑風高校のそばだと地図で確認し国道53号から県道181号へ進む。橋を渡ると同じような小山が乱立していてそばまで来ているのだが、近道をしようと脇道に入ってしまうと新興住宅地が多くて袋小路でなかなか分かりにくい。最初から国道9号バイパスか県道181号など主道路を通った方が良かったと後から思う。

『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城(岩美町)より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのはないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。(平凡社『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』)

第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。

1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。


公園内に建てられた見取り図

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。

守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。


公園から湖山池を望む。

卯山の丘陵北側には布勢1号墳がある。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。

布勢1号墳(前方後円墳、国指定史跡)

日吉神社(布勢の山王さん)

因幡国初代守護・山名時氏が近江から日吉神社を勧請したとある。比叡山麓坂本の日吉神社だろう。

広い道路脇にそびえる鳥居から一直線に天神山城跡のある卯山まで参道が通っている。まだ補修されたのが新しく立派な社です。瓦などの家紋は因幡池田家の家紋揚羽蝶である。天神山城と因幡山名氏亡きあとも池田家や布勢村の人びとによって大切に護られてきたことが伝わります。

「布勢の山王さん」と親しまれているらしいが、但馬山名氏の豊岡城のある神武山近くにも山王山に山王神社があり但馬山名氏から一族共通のものであることは興味深かい。

拝殿と本殿

より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示

鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

越前(福井県嶺北部)の秦氏系神社

今庄町の新羅神社(2)

越前今庄町の新羅神社については既に本書にて記述したが(本誌九十二.九十六号)、その後訪問を重ねている間に明らかになった事柄を補足したい。

何回も訪れて感じたことは、「今庄町を含むこの地域一帯は古代出雲地方と同様、日本海流に乗って朝鮮半島や大陸から渡来した多くの人々が居住していた。特に新羅系の人々のそれが多かった。従って、今庄町の新羅神社や白髪神社はその人々が祖神廟として祭った社が後世に残ったのではないだろうか」ということである。もしそうだとすれば、神社は”しらぎ神社”と呼ばれて崇拝されてきたのではあるまいか。

越前地方は、近江・北陸地方を含む継体天皇の支持基盤で あった地方であり、応神天皇と係りの深い敦賀、或いは継体天皇と係りのある越前地方は、半島や大陸との往来で渡来文 化が盛えた同一文化圏であった。継体天皇の基盤であった三国湊は今庄から流れ出る日野川の河港に当る。かつては三国湊と福井武生にあった府中を結ぶ舟運が盛んであり、鯖江には白鬼女津(しらきじょのつ)があり、北陸道の要所であった。継体天皇の母・振姫も今庄から木ノ芽峠を越えて近江との往還をしたであろう。そして、この地方は継体天皇を中心とする還日本海文化があった(『今庄の歴史探訪』、『福井県神社誌』ほか)。

(二)新羅神社の由来

『今庄町誌』によれば『新羅神社縁起』として次のように説明している。

「清和天皇の御宇貞観元己卯年(八五九)に智証大師が大唐国から帰朝の途、海上で暴風に遭い船はまさに覆没しようとするので、長い時刻を素盞鳴尊に祈請していると空中から御声があり”智証憂うること勿れ、間もなく風波は鎮靜するであろう”と宣わせ給うのである。智証は不審に思い”斯く宣わせ給うのは、何神なる哉願くば教え給え”と申し上げると、やおら御影を現し”吾こそは往昔のこと、新羅国征服の神なり”と宣わせ給うのである。・・・・・・後世に至り越前国燧山に新羅大明神を建立し、御神体を素盞鳴尊となして奉還することになったのである」

『新羅神社略記』(加藤前宮司夫人よりいただいた)に、『新羅大明神縁起』によれば・・・・・・天安二年(八五八)円珍(智証大師)が高麗国の港より帰国の折、・・・・・・円珍が諸天善神に祈ったところ、一大神の姿が船上に現成し・・・・・・。後貞観元年(八五九)大師帰命観想の際、神勅によって、その大神が大和(日本)より渡った新羅国の守護神(素盞鳴命)なりとのお告を受け、自ら神影を刻んだ。その神像が今日に伝わる当社の御神体である、と説明している。

また一説には、その名から新羅三郎義光の霊を祀るとも言われているとあるが、これは後世に加わったものであろう。
更に原文をみると、

「抑此神明者御垂迹登申志新羅・百済・高麗国の崇廟之大祖に亭盤古之昔より崇敬し奉るに爰。我朝人王五十五代文徳天皇之御宇、・・・・・・円珍僧都入唐す。・・・・・・智証大師に宣旨ありて重禰て加土に求法しほまれを唐土に阿け年を経て高麗国乃湊 より帰船の折ふし・・・・・・」とある。

従って、原文によれば新羅大明神は、新羅・百済・高麗国の祖神を祭る廟であったと記しており、朝鮮半島とつながりが深いことを示している。新羅系の人々ばかりでなく、高麗系や百済系の渡来人も共に祭ったようである。

神社がある今庄町について『福井県南条郡誌』は次のように説明している。地理的には、京畿東山東海三道の諸地と北陸諸国とを連絡する咽喉の要地を占め、北陸の関門たる枢要の地域を成し交通上軍事上極めて重要の所なり。往古は叔羅駅の所在地とも称され、中古庄園の一つとして今庄と称されたものであろうか。また今庄は今城と書かれたという。

更に『福井県南条郡誌』は、白城神社について次のように記載している。白城神社は『古名考』によれば「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅(しらぎ)明神あり是なるべし。今庄も古く今城と書けり。此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云此即古の叔羅河なり。叔羅は即ちしらきなるべし」

これによれば、今庄町は新羅(しらき)から白城→今城→今庄と変わってきたことになる。白城はしらぎと呼ばれたであろうし、今城はいまきからいまじょうに変わったということになる。今城(いまき)は今来の漢人を連想させる(五世紀後半の雄略天皇の時代)。

結論として、今庄町について『南条郡誌』は「要するに今庄の地は、新羅民族の移住地として開け、次いで駅伝所在の要地となった」とまとめている。

また『南条郡誌』は、信露貴彦神社の項では次のように記載している。信露貴彦神社或は堺村荒井の新羅(しらぎ)神社ならん乎。

『古名考』一説日野川の源夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ。
夜叉ケ池は古くは尸羅(しら)池といわれていた。

『福井県今庄の歴史探訪』の説明によれば、今庄宿(じゅく)の神々について「三韓・新羅はわが国の弥生・古墳時代に当っており、この頃今庄へも新羅の渡来民があり、この地を開発したであろうことが推測される。新羅(シラキ)の宛字と思われる神社名や土地名が敦賀付近には多い。

例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しろき)神社・白鬚(しらひげ)神社などである。今庄宿の新羅(しんら)神社は古くからの産土神で、江戸時代には……〈上の宮〉と称され、白鬚神社は〈下の宮〉と称された」。

いずれにせよ、古代朝鮮の新羅の民が敦賀地方から今庄に入り、日野川上流域を開発したものであろう。新羅神社や白鬚神社は渡来人の奉祀に始まる神々と関係が深いようである。中でも、当地方には秦氏が集住していたと考えられている。足羽郡や三方郡・遠敷郡に多くの秦氏の集団跡が確認されている。

荒井地区の新羅神社は現在でもしらぎ―神社と称されている。足立尚計は『日本の神々』の中で今庄宿の新羅神社をしらぎ神社であると紹介し、園城寺の「新羅善神堂」もしらぎ善神堂と紹介している。

更に『越前国古名考』は今庄の新羅神社を式内社の白城神社であるとしている。朴春日「古代朝鮮と日本の旅」では、「火燧山の嶺山(元は新羅山と呼ばれていたであろう)に新羅神社が鎮座していたが、源義仲が城を築くため臨時に小社を建てて祭神を移した。その後社殿を再建したが、小社の方は白城神社として残り、本社の方は新羅神社の名をそのまま引きついだ」と説明している。

『越前国名磧考』によれば、「当社は、往古燧山の山頂に鎮座していたが、寿永二年(一一八三)に源義仲が是に城郭を築こうとして、傍に小社を建てて遷座した。其の後、越前国を鎮定して社殿を再建し深く崇敬した」と記し、更に「天文年中(一五三二~一五五五)に郷民が協議して当今の社地に神殿を新築して、茲に神璽を遷座して以来、今に至るまで氏神として敬い奉斎している」と記している。
今庄町今庄の白鬚神社の祭神が猿田彦命・大己貴命・少彦名命であることは、当社も新羅系であったことを推測させる。

(三)白鬚(白城)神社

武内宿禰と係りの深い白鬚神社が今庄町合波にある。祭神は武内宿禰尊・天御中主神・宇賀御霊神・鵜葺草葺不合尊(うがやぶきあえず)・熊野大神・豊受大神・大己貴命・猿田彦命・春日大神・秋葉大神・金山彦命・土不合命・八幡大神・清寧天皇・吉若大子。『福井県神社誌』等で当社の由緒を調べてみると、「当社の創立の年月不祥。往昔は白城神社と称し、式内社であったという。口伝によれば、神功皇后が三韓征伐から凱旋の後、皇子(後の応神天皇)を降誕したが、皇子に飲ませる乳が足りなかったので、武内宿禰大臣が神々に祈願したところ、“越の国南端の三尾の郷(日野川の上流にある八飯・宇津尾・橋立・広野の村々)に西向の滝(高さ十二m、幅二m。信露(しろ)滝)がある。その水を乳婦に勧めよ”とのお告げがあり、武内宿禰が尋ね歩いたところ、神託通り西向の滝があり、乳婦に飲ませると神託の通りの功験があった」とある。

武内宿禰という人物は、朝鮮渡来系の豪族の共同の「父」として、朝鮮南部と倭国の大和との接点として設定されている。応神天皇が武内宿禰と共に敦賀の笥飯(けひの)大神を拝んだことなどの説話からすれば、当地方も越前の一地方として大きな一つの文化圏の中にあったと考えられる。これらの渡来系の人々は弁辰の地の倭種であろう(『清張通史』)。

当地方には、高麗系や新羅系の渡来人が混在していたのかも知れない。当地方の神社は信露貴彦・白城・新羅など、社の由緒や呼び名が同一であったことは、古代においてはこれらの地域が同一の生活圏であったことを示すものと考えられる。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

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丹後(京都府北部)の秦氏系神社 2/2

三井寺HP  連載 > 新羅神社考 > 京都府の新羅神社(2)

京都府の新羅神社(2)

更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。

また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五~六㎞の距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。

丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。

「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。

(二)溝谷神社

溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。(中略)

境内地の奥にある七十~八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。(中略)

当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。

溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
『丹哥舊事記』
溝谷神社 溝谷庄外村
祭神 新羅大明神 素盞鳴命
延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず

京都府の新羅神社(3)

出石族とか出石人といわれている天日槍族が、但馬から(京丹後市)熊野・竹野地方を含めた地域に拡がって大きな勢力を張っていたものであろうか。

山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

三、その他の新羅(しらぎ)神社について


大宮売(め)神社の古代祭祀の地

当地方を訪ねるに際し、弥栄町の隣町に当る中郡大宮町字周枳(すき)の大宮売(め)神社(周枳の宮―祭神天鈿女(あめのうずめの)命・豊受大神)の宮司・島谷氏に教示を受けた。島谷氏によれば、「丹後には新羅大明神を奉祭していた社はあちこちにあったのではないかと思われます。……当地方の地名や伝承等からみると、古代朝鮮との係りを強く感じざるを得ません。……」。丹後地方は、古代渡来系(特に新羅系)の人々を中心とした文化が栄えた土地であったようである。

島谷氏の話によれば、大宮売神社のある土地の周枳というのは、スキ国=新羅国(※1)の意であり、竹野郡の間人から竹野川沿の中郡大宮町にかけては、弥生時代には竹野川文化圏を形成しており、古代に渡来した人達の文化が栄えた地域であった。いわゆる出石族・出雲族が居住していた。そしてこの一帯にはキのつく地名(内記、周枳)や、荒・新(安羅)などの地名が多い。周枳は又主木・周木にも通じ、古書には主木殿ありといわれている。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

大宮売神社のある大宮町は竹野川に沿って古くから開拓された地域であり、竹野川の丘陵地帯には多くの古墳が発見されている。大宮売神社には境内とその周辺から弥生時代から中世にかけての複合遺跡があり、大宮売神社遺跡といわれ、神社の周辺には左坂古墳群(九十三基)、外尾古墳群(二十四基)、新戸(しんと)古墳、宮ノ守古墳群、平太郎古墳群などがある。

大宮売神社の祭神は天鈿女命・豊受大神であるが、これは五穀豊穣を願う、いわゆる祖神である。そして当地の式内社は全部豊受神(天女の一人が豊受の神)、大宮女は八神の一座、機織と酒造り(風土記には比治の真奈井、奈具社)の神であり、丹波道主命米の稲作は天女が降り、奈具の社にとどまったことから、稲作民族が定住したことを意味し、これが祖神となった。なお、豊受神は九州から来たという説もある。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

周枳(すき)というのは白村江(はくすきのえ)の戦いで有名なスキで村のこと、朝鮮語で村とか城のことだそうである。隠岐国に周吉(すき)郡がある。ス・キど分離すれば、ソの村とか国のこととなる。このあたりはスとかソあるいはシと呼んだのだろうと思われる。(丹後の地名)

■周枳井溝

周枳村(現在の大宮町周枳)は、竹野川より土地が高く、谷も浅いため水が少なく、やむを得ず畑にしている農地が多くありました。
「なんとか竹野川の上流から水が引けないものか」と言う農民たちの願いが、時の宮津藩の役人の耳に入り、藩主京極守高の時(1660年代)に竹野川から取水し、谷内から周枳に至る用水路づくりが始められました。
工事は10年の歳月を費やし、寛文11年(1671)完成しました。
周枳の人々はこの用水路のことを「井溝」と呼んで大切にしてきました。
周枳の井溝は、近年コンクリート製の水路として整備され、その大部分は、国道バイパスや府営ほ場整備事業により水路の場所が変わっており、現在は、集落周辺にかつての水路の場所を認めることができます。
集落周辺では、防火用水の水源となったり、「井溝」に洗い場が設けられ、野菜の洗浄などにも利用されています。(京丹後市)

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