世界遺産 姫路城の歴史と見学

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12月3・4日 放送大学面接授業において、平成の大修理が行われている国宝姫路城を見学してきた。

城郭の歴史と姫路城を学ぶ
兵庫学習センター(姫路)

授業内容

長い築上の歴史の中で、現存最大、また芸術上も最高傑作と言われ世界遺産にも登録された姫路城が何故建てられたのか。その歴史的背景を探るほか、現地見学を交えながら姫路城の縄張りや普請(石垣、堀、土塁)、作事(天守、櫓、門等)、歴史や人物など姫路城の構造や歴史を学び、また、平成の大修理を踏まえ遺産を守る大切さも学ぶ。

【授業テーマ】

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)
第2回 城郭の歴史と姫路城
第3回 姫路城の歴史と人物
第4回 姫路城の縄張り・普請(石垣、堀、土塁など)
第5回 姫路城の作事(天守、櫓、門、御殿など)
第6回 世界遺産姫路城を守る(姫路城修理の系譜と平成の大修理の概要)
第7・8回 姫路城見学

神子畑選鉱場跡とムーセ旧居

[catlist categorypage=”yes”] 兵庫県朝来市佐嚢(神子畑)

東洋一の生産高を誇った 神子畑選鉱場跡 800年頃に鉱山として開拓された神子畑は15世紀頃から採鉱が盛んになり、その後、明治政府の管理から一時は皇室財産として宮内省の管轄にもなりました。


明治29(1896)年に三菱へ払い下げられ、大正8(1919)年には大規模な選鉱場が建設されました。

山を隔て6キロメートル離れた明延鉱山(養父市大屋町)から運ばれてきた鉱石をその比重や浮力を利用して亜鉛、銅、錫に選鉱。
東洋一の生産高を誇りました。
山の斜面を活かした巨大な建物がありましたが、現在は一部取り壊されています。

明治時代は神子畑鉱山として栄えていたが、枯渇により採掘は明延鉱山に移り、選鉱所だけが残った。明延からは明神電車(通称、一円電車)で鉱石が搬送された。神子畑から生野までは、初期は馬車道、その後は馬車鉄道・電気鉄道・トラックなどで精鉱が輸送された。

神子畑選鉱所は、明延鉱山で採掘された鉱石を選り分けたのち、生野製錬所へ送る役割を担っていました。明延鉱山からは、明神電車(通称、一円電車)という軌道で鉱石が搬送されていました。
生野鉱山にあった明治期の洋館「ムーセ旧居」(県指定文化財)も、選鉱設備の近くに移築されました。

ムーセ旧居

日曜なのに閉館で入ることはできなかった。

ムーセ旧居は、明治4年12月ごろから翌年以降にかけて生野鉱山に建設されたであろう五棟の外国人宿舎のひとつであり、そのうちの一番館(二階建て)と二番館(平屋建て)は、生野鉱山から少し離れた白口にあったものである。後に神子畑に移築されたのが二番館であり、現在のムーセ旧居である。

鉱山開発に携わったフランス人技師たちのうち、ムーセやコワニエたち幹部妻帯者の居住宿舎として使用されていたとのことである。

神子畑鉱山の開発にともない、明治20年にこの地に移設され、事務舎、診療所として利用され、これまで、ムーセ旧居の名称で親しまれてきた。平成4年に県指定重要有形文化財(建築物)の登録を受けた。

その後、建物の老朽化が進み、また国道429号バイパス計画により、県補助を受け当初位置より北西側に移築復元したものである。

コロニアルスタイル(植民地様式)と呼ばれる特徴を持ち、七間四方の四周には、ベランダをめぐらし、外壁の四隅には石を積み上げたように見せるコーナー・ストーンの技法が使われている。

今回の修復では、神子畑に移設後のスタイルに復元したが、付属の管理棟は、生野鉱山時代の写真を元に復元整備をしたものである。

暖炉が発見された炉石を元に、3箇所を復元したが、暖炉飾りには明治時代後半の神戸の異人館の形状を参考にして復元整備をしたところである。

設計者は、明治政府が招聘したお雇い外国人技師のJ・レスカスであったという記録も残っており、明治初年の建築文化を知る上で貴重な遺産となっている。

なお、建築年度は、明治5年頃とされているが、コワニエの来日、生野鉱山入りが慶応4年、ムーセの生野鉱山入りが明治4年12月であり、生野町の西福寺、金蔵寺に入居し生活をしていたが、より快適な生活を保障する必要から、明治5年以後の比較的早い時期に建築されたものと思われる。また、屋根瓦に菊花のご紋章があり、明治22年から7年間、宮内省財産(御料局生野支庁)となったことの名残でもある。

いずれにしても、明治初年の建物であり、神戸の異人館等と比較しても、より早い時期に建てられたものであり、その意味からも貴重な建物といえる。

-朝来市-

 

かつての神子畑選鉱場

日本最古の鋳鉄橋 神子畑鋳鉄橋

[catlist categorypage=”yes”] 兵庫県朝来市佐嚢(神子畑)

国指定重要文化財
鋳鉄一連アーチ橋

他に4箇所架けられていたが現存するのは羽淵鋳鉄橋(L=18mの2連のアーチ橋・兵庫県朝来市羽淵)と神子畑鋳鉄橋の2つだけとなっている。 近代の橋梁として初めて1977年6月27日に重要文化財に指定されている。老朽化のため1982年には一年かけて永久保存を目的として修繕が行われた。2007年に近代化産業遺産に認定された。

本橋は、日本に現存している鉄製の橋としては3番目に古い。ただ、最も古い大阪の心斎橋は錬鉄製、東京の弾正橋は鋳鉄と錬鉄の混成であり、全鋳鉄製としては最も古い。橋の近くには駐車場があり、橋や鉱山の説明板も整備されている。近くには、遊歩道もあり橋の上を歩くこともできる。

諸元

施工年 1883年4月-1885年3月
橋長 上流側15.969m、下流側15.997m
最大支間 14.2m
幅員 3.727m
高さ 3.81m
構造形式:鋳鉄製単径間アーチ橋

旧豊岡藩主京極家家廟・石束家墓地

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豊岡市三坂字宝林谷


「大石りく生家 石束(いしづか)家墓地」案内表示

ガード下と市道北に2カ所立てられているが、車ではガードをくぐってすぐ右折すると線路側にかなりのスペースで停められる。但し私有地なのか知らないのでしばらく勝手に停めさえてもらった。ただし、石束(いしづか)家は、豊田町の豊岡陣屋の武家屋敷にあったので、大石りく生家というのが意味が不明だ。


豊岡藩の陣屋移築門  京極家廟


旧豊岡藩主京極家廟・墓地


京極家累代の墓

 

豊岡といえば赤穂浪士大石内蔵助妻大石りくの生誕地としても有名だ。
式内社深坂神社をたずねるついでに、豊岡藩主京極家墓地と豊岡藩主京極家墓地を訪れた。ここにかつては京極家菩提寺の瑞泰寺(廃寺)が建てられていたことと京極家と 石束家墓地があることは、歴史好きの私でさえ初めて来たぐらいで、地元の人でもあまり知られていない。

理玖は豊岡城(神武山)東麓の豊岡市京町にあった石束家の屋敷で生まれたのではないかとされている。三坂町は真反対だ。現在、京町の約50メートル南側に「大石陸女生誕之地」の碑が建立されています。当時は城山(神武山)のふもとに陣屋、それをとりまくように家老級の屋敷があり、東側の広い範囲を石束本家が占めていました。

「豊岡市観光協会」参考文献: 瀬戸谷晧著 『忠臣蔵を生きた女―内蔵助の妻理玖とその周辺』 北星社 2005年

略史(ウィキペディア)

寛文8年(1668年)丹後国田辺藩(舞鶴)より京極高盛が3万5千石にて転封となった。この際、京極氏は城主大名から無城大名に降格となった。陣屋の建設にあたり幕府より金2千両が与えられた。

4代高寛は享保11年(1726年)僅か10歳で没した。このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続を許された。減封に伴い藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減した。また、享保12年(1727年)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われた。高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせた。彼の政策に反対した筆頭家老石束源五右衛門が藩を去るという事件が起きた。

次の6代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。

7代高有は文政6年(1823年)藩営の産物会所を開設し柳行李流通の独占を図り財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭っている。

8代高行は天保4年(1833年)藩校「稽古堂」を開いた。

明治4年(1871年)廃藩置県により豊岡県となる。その後、兵庫県に編入された。 豊岡藩主家は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。

  

京極家家廟                     京極家家紋

なお、京極家筆頭家老の石束家より元禄赤穂事件で著名な大石良雄(内蔵助)の妻・理玖(りく)が出ており、討ち入り前夜、豊岡へ返された。なお、その後の理玖は三男大三郎の広島藩仕官に伴い広島に移り、そこで余生を送った。のち、石束家も5代藩主・高永の時代に上記の通り藩政改革に反対し藩を去っている。

明治維新の後、東京の藩主家11代当主である高光(9代高厚の孫)は杞陽の号を持つ俳人として昭和期に活躍した。

現在の豊岡藩主家の当主は12代目(京極高知から数えて15代目、丹後田辺藩初代藩主高三から数えて14代目)の高晴であり、2009年6月15日に靖国神社宮司に就任した。

京極家墓所

  

  

石束家墓地

京極家墓所から少し登ると石束家ほか立派な墓が並んでいる。

  

理玖の遺髪塚
豊岡市日撫(香林会館敷地内)

父毎公(つねとも)は宝永6年(1709)ころに職を退くとともに日撫(ひなど)の正福寺に居住するようになり、理玖と子どもたちも広島に移るまでの4年間、一緒に住んだのではとされています。

大石内蔵助 りく 次男 祖錬元快禅師 大石吉之進墓地
豊岡市三坂町大門山墓地 旧興国寺

七美郡(旧村岡、美方町)の式内神社

[catlist categorypage=”yes”] 式内社を訪ねることはかつての村々の歴史を知る貴重な手がかりだ。

黒野神社 (式内社 志都美神社)と伊曽布神社を訪ねた。(神社についてはライブラリーhttps://jinja.kojiyama.net/

どちらも旧郷名神社である。志都美は七美郷、伊曽布は射添郷。万葉仮名であり、志都美、伊曽布の漢字自体に意味はないものである。

美方郡(七美郡、二方郡)は中国山地の東端に当たり山陰道最大の山岳地帯で難所だ。また但馬牛の産地で但馬杜氏のメッカである。現在は国道9号が改修され長いトンネルが貫きスピードアップされたが、八鹿を過ぎると鳥取県までに八木谷峠(但馬トンネル)、春来峠(春来トンネル)、蒲生峠(蒲生トンネル)なそ難所多い。但馬に生まれ暮らしていてもあまり知らないだが鳥取へ一週間に一度は行く用事があるので、むしろいま興味が沸いている。

美方郡は現在でも豊岡市や養父市、朝来市よりも学校、医療、仕事や買い物は鳥取市内が多い。

桜井勉著「校補但馬考」によれば、

七美郡

兎束 七美 小代 射添 駅家 以上五郷
延喜式神名帳 七美郡十座、弁小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座
伊曽布神社 等余神社 高坂神社 葛野神社 春木神社
今延喜式を考えるに、八座のみあり。
と書いてあるのであとの二社は明治にはすでに不明。

七美郡も現在の小学校区が旧村ごとに名前を残している。七美郡と二方郡が合併し美方郡に、駅家郷は、養父市関宮町の中心部と中瀬地区の旧郷名。兎束は福岡地区。七美郷は村岡地区。小代は香美町合併で旧美方町が小代区として復活した。

校補但馬考 但馬国の郡・郷 式内神社

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桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ。

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延喜式神名帳 但馬の神社

[catlist categorypage=”yes”] 神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。

-「神社人」-

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。

神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別で、但馬国の式内社数の多さに驚く。

全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

 新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

 但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

 大小合わせて131座というのは、例えば

 大和國:286座 大128 小158
 伊勢國:253座 大14 小235
 出雲国:187座 大2 小185
 近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
 越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

 丹波国:71座 大5 小66
 丹後國:65座 大7 小58
 若狭国:42座 大3 小14
 因幡國:50座 大1 小49
 播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六 

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社

西日本屈指の長さ 蘇武トンネルと但馬のトンネルの長さ比べ


蘇武トンネルを通ると、もういいだろうと思う長さをはるかに越えて長く感じる。トンネル好きならたまらないwww
一直線で途中照明が暗い部分がありちと注意すべし。最近気がついたが村岡出入り口はかすかにカーブして一直線ではないような気がする錯覚だろうか。
1km以上の但馬のトンネル

名称路線名延長区間竣工年
1蘇武トンネル国道482号3,693豊岡市日高町稲葉 – 香美町村岡区村岡2003
2遠阪トンネル(有料)国道483号(近畿豊岡自動車道)2,585丹波市遠阪-朝来市柴1976
3香住トンネル国道178号(鳥取豊岡宮津自動車道:香住道路)2,041美方郡香美町香住区丹生地-一日市2005
4七坂トンネル国道178号1,821美方郡新温泉町(浜坂町)居組-鳥取県岩美郡岩美町陸上2008
5蒲生トンネル国道9号1,745美方郡新温泉町千谷-鳥取県岩美町蒲生1978
6春来トンネル国道9号1,696美方郡香美町村岡区柤岡-新温泉町歌長1975
7但馬トンネル国道9号1,256養父市(関宮町)八木谷-美方郡香美町村岡区八井谷1965
8生野トンネル国道312号(播但連絡道路)1,234朝来市(生野町)真弓-口銀谷1991
南但馬トンネル国道9号1,224養父市(養父町)上筒-養父市八鹿町朝倉1992
9朝来第二トンネル国道312号(播但連絡道路)1,132朝来市(朝来町)元津-岩津1999
10土生トンネル国道178号1,087豊岡市竹野町河内-美方郡香美町香住区土生1993

国道482号 酷道小代行き止まりを辿る

このブログタイトルである祢布(にょう)交差点は、当店が位置する場所に近く、国道312号と482号の交差するクロスロード。その東西に通るのが国道482号です。

実は但馬に生まれ旧美方町に行くのはよく憶えてないのですが初めてではないだろうか。
大きな地図で見る

 

国道9号鳥取方面 村岡区和田交差点

県道4号分岐交差点

(帰りに撮ったので日が暮れかけている)

国道9号小代口交差点(482号分岐点)

香美町小代地区(旧美方町)へ
大きな地図で見る

小代区石寺

 

この先通行止めの標識現る

中心部を抜ければいよいよ国道から酷道へすすむ

小代区秋岡

さらに道が急に細くなった

さらにこの先通行止めの標識

長く進むと工事休工中との看板

香美町の大川 矢田川源流部の渓谷を酷道が併走する

若桜方面→

90度近い急斜面と渓谷が続く。心細くなりそうなほどの酷道を3kmほどでようやく行き止まり

小代渓谷へここから約4kmで鳥取県境を越えて氷ノ山・若桜町春米

台風23号まではまだだいぶ先の小代渓谷まで行けたようだが、工事も休工中のまま。

いつになったら鳥取若桜まで通行できるだろう。

かつて大正時代に藤本日高村長が夢見た但馬鉄道計画(丹後宮津(加悦鉄道)から鳥取(若桜鉄道経由)までつなげた)を、国道482号昇格につなげた今年他界された故清水豊前日高町長・豊岡市長のことを偲びつつ引き返した。

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