[catlist categorypage=”yes”]島根県出雲市大津町字西谷
出雲市街南東部の標高40メートル程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に確認され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。
1983年(昭和58年)より1992年(平成4年)までの10年にわたり島根大学考古学研究室を主体に3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生式土器が出土し祭祀の跡も確認された。これらの様子からこの時代の出雲地方に「王」が存在したことがうかがえる。2000年(平成12年)に国の史跡に指定された。現在、1号墓~6号墓の並ぶ丘陵は「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」として整備が進められている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)
四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期から吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。四隅突出型弥生憤丘墓とも呼称します。
西谷古墳3号墳
方形部は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル、突出部の付け根の幅7~8メートル、長さ6~7メートルの幅広大形で、中期後葉にはささやかな突出部であったが、後期後葉になると大きく幅広い突出部に発達している。この突出部上面が墳頂への墓道と考えられている。斜面は貼石で覆われ、突出部から墳頂にかけての稜線部分は石を敷き詰めた道のようになっており、墳丘頂上には、八つの埋葬施設があり、首長とその家族のためのいくつかの墓壙が掘られていた。そのうちの最大の墓壙の上には4つの柱穴が検出されており、何らかの施設があったものと考えられている。その墓壙から他地域からの搬入されたものも多数含まれている。 方形周溝型弥生墳丘墓の周溝の堀残し部分が渡り土堤で出入り口になっており、それが四隅突出型弥生墳丘墓の突出部と関するのではないかとの考えも出されている。9号墓に次ぐ規模の四隅突出型弥生墳丘墓。
1983年より詳細な調査が行われ、上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。第1主体には深さ1メートルで二重の構造の土壙が掘られ、木棺の外側に木槨をもつものである。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものが多い。 墓穴の周囲に4箇所の柱穴が検出された。この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されている。 現在、斜面に葺き石が施されるなど築造当時の姿に復元作業が行われている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
4号墓
方形部は東西32メートル×南北26メートル。この墳墓群の中で最初に確認された墳墓で、1953年の造成工事の際に墳墓であることが確認された。この墳墓にも斜面に葺き石が施されている。地元産の壺などの大量の土器、吉備産の特殊土器が発掘された。2世紀末に築造されたと推定される。
出雲市の南東にある西谷墳墓群は山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中しています。発掘調査の行われた3号墓では墓の上で祭祀が行われた様子がわかっており、出土品からは葬られた王が吉備や北陸地方とも交流をもっていたと考えられています。ここからは斐伊川や出雲平野を一望することができます。
また、神戸川の東には日本最大級の家形石棺を持つ今市大念寺古墳、精美な石室を持つことで知られる上塩冶築山古墳など、この地に君臨した王を葬った古墳を見ることができます。
山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されていますが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考える人もあり、出雲国造家とのつながりを指摘されています。
2009/02/15
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