丹後三大前方後円墳蛭子山古墳と古墳公園


京都府与謝郡与謝野町明石

加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。


丹後三大前方後円墳 蛭子山古墳

子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏


作山古墳

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

蛭子山古墳と古墳公園


京都府与謝郡与謝野町明石

加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。


丹後三大前方後円墳 蛭子山古墳

子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。
「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏


作山古墳

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。
明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

網野銚子山古墳 (京丹後市網野町)

日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳

網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たんごる】 久美浜県舎

京都府京丹後市久美浜町小谷


久美浜県舎

神社の隣にはかつての久美浜県庁舎の一部が保存されています。


県庁門は豊岡県となった際に豊岡市へ移築

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

池田古墳現地説明会


主催:兵庫県立考古博物館 池田古墳現地説明会に行って来ました。 H21/3/1

寒模様ですが大勢のファンが集まっておられました。 長らくアーチ型の橋が架けられていましたが、橋を撤去し盛土の道路にこのたび橋をつけかえるため、発掘調査が行われました。
築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)とされており、若水古墳(朝来市山東町)、城ノ山古墳(朝来市和田山町)に続き、茶すり山古墳(朝来市和田山町)に先行する但馬の王墓である。 三段築成で楯形の周濠を従えている。但馬で発見された古墳では珍しく、大量の埴輪や葺石が装飾に使われています。

【概要】

全長約141mと但馬最大、兵庫県内では4番目の規模を誇る前方後円墳。方形部分が北東、後円部が南西を向いて海抜100mのなだらかな斜面に円山川を見下ろすように設けられている。但馬国王の墳墓ではないかと見られる。

兵庫県立考古博物館(播磨町)によると、鳥形埴輪は高さ三十五-四十五センチ、幅三十-三十五センチ。損傷が少ない良好な状態で、ほぼ完全に復元できる見通し。これは極めて珍しいという。 七体のうち一体がひなのいる子持ち鳥形埴輪。親鳥部分が高さ四十五センチ、幅三十センチ。親鳥部分の台座にひさしのような部分があり、近くから出土した四体の幼鳥(幅約十センチ)が置かれていたらしい。

2月20日新聞発表によると、今回の調査では、大きく2つの成果がありました。ひとつは、「渡土堤(わたりどて)」の全容が明らかになったこと。もうひとつは、「水鳥形埴輪(はにわ)」が8体出土し、その置かれていた状態を明らかにすることができたことです。水鳥をかたどった「鳥形埴輪(はにわ)」の今回の発見は、古代人の死生観解明につながると考える専門家もいます。風土記などにはヤマトタケルが白鳥になったとの伝説が記されており、祭事に使われたとみられる埴輪は死者の霊を運ぶ象徴だったとも考えられています。
-産経新聞-

下段と上段の間にテラスと呼ばれる幅約1.8mの平坦部があり、円筒埴輪がずらりと並べられています。
前方部の西側と東側に葺き石が2段に置かれたままの状態で見つかっています。
鳥形埴輪は、墳丘を囲む堀「周濠(しゅうごう)」から七体(さらに計1個)の八体が出土。渡土堤から墳丘の裾にかけてほぼ等間隔に並べられていたが、長い間に周濠に転落し埋没したとみられる。

渡土堤は河原石と砕いた山石がブロックではっきりと別れています。これは各村毎に分担が分けられていたのだろうということです。古墳築造に但馬の人々が駆り出されていたことが伝わります。

城ノ山古墳 (朝来市和田山町)

兵庫県朝来市和田山町東谷

 4世紀末に築造された円墳で、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。長さ6.4mという長大な木棺を埋葬しており、人骨のほか、銅鏡6面、石製腕輪、玉類、鉄製品などが出土しています。城ノ山古墳の築造は、南但馬における王墓の成立として重視されています。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。

 昭和46(1971)年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。和田山バイパスの池田古墳をまたぐためにつくられたアーチ橋に続く古墳を守るためにつくられた短いトンネルが古墳の下を通っています。

 三角縁獣文帯三神三獣鏡は国の重要文化財は畿内の大和政権が配付したものといわれています。これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。  道の駅「但馬のまほろば」 古代あさご館/朝来市埋蔵文化財センターで出土した埋蔵品が展示されています。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

弥生人はウルトラマン?与謝野・温江遺跡で人面付き土器


京都新聞 2月26日/2009
弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)

京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。

土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。

顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。

後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

桂小五郎最大の危機 久畑関所跡

  
旧久畑関所跡 豊岡市但東町久畑

旧京街道

旧山陰道(支道)の石畳が往時を偲ぶ。ここから但馬と丹波の境である登尾峠を越えると夜久野に出る。
元治元年7月、桂小五郎は蛤御門の変で、対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。


数年前まで木の関所門があったが撤去された。(残念です)

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。

  
一宮神社

式内社ではないから比較的新しい神社だろう。
どういう謂われで一の宮と呼ばれるようになったのかわからないけれど、
久畑関所そばにあるから、江戸時代に出石藩主が、京街道を出石領内に入る最初の守り神として建立したのではということは十分想像できます。
一宮神社には「兵庫県指定天然記念物」に指定されている大ケヤキ
(樹高35m幹周り7m)があります。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たじまる】 明治近代化遺産 桃観トンネルと余部橋梁掛け替え工事

桃観トンネル

  
桃観トンネル久谷側

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所


桃観トンネル余部側

余部橋梁

特急はまかぜ(画像:JR西日本)
特急はまかぜ(画像:JR西日本)

余部橋梁(りょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部(あまるべ)、JR西日本山陰本線の鎧駅~餘部駅間にある鉄橋(単線鉄道橋)。一般に余部鉄橋と呼ばれています。地名は「余部」であり、当橋りょうの正式名称も「余部橋りょう」なのに対し、駅名が「餘部」のため、一般的に地元で使用される「余部」と、観光客や一部の鉄道ファンの間で使用される「餘部」が併用されています(同じ兵庫県内に姫新線の余部駅があるため、それと区別するためでもある)。

明治後年、京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道が福知山から舞鶴までの鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきました。すでに開通した山陰西線と山陰東線は浜坂・香住間を残すのみとなりました。餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、山陰西線と東線が開通し、山陰本線が全通しました。


餘部橋梁は現在コンクリート橋に掛け替え工事中です。橋脚はほぼ姿を現しました。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。