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『国司文書 但馬郷名記抄』
孝徳天皇大化2年、いわゆる大化改新による諸制度一新の詔勅に基づき、翌3年、本郡高田邑に兵庫を建て軍団を置く。
歴史の手がかりになるものに「神社」と「地名」があると考えるようになった。しかしそれは、どうやら当然で間違っていないことが最近意を強めたのだ。歴史家の谷川健一氏は早くからそれに興味を持った人のひとりであったからだ。谷川氏は私に久田谷銅鐸と物部氏についての歴史の興味を導いた大恩人だった。
わたしは、兵庫県城崎郡日高町に生まれた。日高町はかつて城崎郡に併合される前は気多郡という意味の分からないところである。粉々に破壊された久田谷銅鐸が昭和50年ころ発見された。子供の頃から祢布周辺から土器片がごろごろしていて、それなりに興味はあったが、東中学校建設工事現場から水上遺跡の石棺や集落跡などがみつかり、周辺の但馬国府、国分寺など、谷川氏からなんだろうなと思い、どうやら自分の住んでいるところはただものではないと歴史に興味を抱かせたのだ。
但馬の歴史学において、先駆的役割を果たされたのは、桜井勉先生『校補但馬考』であるが、時代は昭和に移り但馬の歴史を研究された功労者として石田松蔵・田中忠雄両氏が知られている。瀬戸谷氏は、両氏の分析により、奈良時代以降に残った人名・地名関係資料から、律令社会以前の但馬の優勢者たちの状況に一定の見通しが得られている。彼らは、出石・多遅麻・気太・竹野・朝来・海部・但馬国造・二方国造などの氏や一族である。また、養父・神部(三輪)などの有力氏族の存在も想定されている。
朝来から養父にかけての地域で、まず朝来地域に有力な勢力を得たのが大和の三輪と結んだと考えられる神部氏であろう。この氏と朝来の関係は不明。さらに、やや遅れて養父の地に力を得るのが多遅麻氏であろう。この氏と但馬国造、養父氏の関係も現状では不明である。ただし、朝来・養父両郡が但馬の支配層の地であったことは考古学の研究成果から明らかである。出石氏も、「記紀」のアメノヒボコ伝承からすれば並々ならぬ渡来集団を想定できそうだが、考古学や文献史学の成果はわずかに「秦」関係の木簡や墨書土器の発見が挙げられる程度である。
そうした発想から律令期の但馬国府を考えると、その地を南但馬の朝来や養父でも出石の地ではなく気多の地に置いたのは、旧勢力の排除という点が優先された結果と考えられなくもない。
これはちょっと、地名に至る書きかけです。後日更新予定です。ではでは。
目次
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但馬国
旧郡名 | 現行政名 |
朝来郡 | 朝来市 |
養父郡 | 養父町、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町浅倉地区) |
出石郡 | 豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区) |
気多郡 | 豊岡市(日高地域、豊岡市中筋地区・佐野以南、竹野町三椒地区) |
城埼郡 | 豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区) |
美含郡 | 美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区) |
七美郡 | 美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父町(熊次地区) |
二方郡 | 美方郡新温泉町(旧浜坂町、旧温泉町) |
気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡で、北から豊岡市中筋地区の伏、八社宮から、今の豊岡市日高町(浅倉・赤崎は旧養父郡)と豊岡市竹野町床瀬、椒までのエリア。昭和30年(1955)に、美含郡とともに城崎郡に吸収し郡名は消滅。
気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、八つの郷で構成されていた。西から太多(タダ)、三方(ミカタ)、楽前(ササクマあるいはササノクマ)、高田(タカダ)、日置(ヒオキ)、高生(タコウ)、狭沼(サヌマ)、賀陽(カヤ)で、これはずっと後になって律令制度が整備された郷。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占める。弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのであろうが、これらが後に郡・郷(庄)として郷名であり、首長名になった。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、気多郡は東部を南北に流れる円山川と、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系である。狭沼郷は円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の豊岡市佐野までで狭沼(サノ)は佐野の旧字である。
中筋村(賀陽郷)・日高村・国府村・八代村・三方村・西気村・三椒村
『和名類聚抄』承平年間(931年 – 938年) 気多郡 郡八
太多、三方、楽前、高田、高生、日置、狭沼、賀陽
国司文書別記第一巻 『気多郡郷名記抄』 天延三年(975)
陽候史 真志訶 選
気多
気多は気多都県なり。この郡の気吹戸主神の釜あり。常に烟を噴く。この故に気多郡と名づけ、郡名となす。今その山を名づけて『神鍋山』という。気多神この地に鎮座す。祭神は国作大巳貴命・物部多遅麻連命・大入杵命三座。
太多郷は、将軍田道公の御子太多毘古命在住の地なり。この故に名づく。
『太田文』村数19
三方郷
三方郷は、馬方郷の転訛、軍馬操練の地なり。この故に名づく。
柴垣・
『太田文』村数10
芝・
佐々前郷は、いま
『太田文』村数5
伊府・篠垣・佐田
右北庄と云う。
野村・伊原
右東方と云う。
伊原は今
高田郷は高機郷なり。雄略天皇の御世16年夏6月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
『太田文』村数6
夏栗・久斗・禰布・
日置郷は日置部在住の地なり。日置神社この地にあり。天櫛玉命を祀る。玉作部は日置村にあり。
『太田文』今の村数
日置・
高生郷は、威田臣荒人の裔威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。
『太田文』村数4
国府在住の地なり。またの名は気多郷。
山本(元は八上)・
『太田文』今の村数
山本・
狭沼は狭き沼なり。この故に名づく。
狭沼・鷹貫・
『太田文』今の村数
佐野・上石・竹貫
右佐野庄と云う。
藤井・
右八代谷と云う。
賀陽郷は、舒明天皇の皇子、賀陽王の子代部の民所住の地なり。この故に賀陽部という。三島真人の裔、三木島宿祢在住の地なり。故に賀陽王を中山に鎮座す。
低野・
『太田文』今の村数
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