概 要 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.排日運動と中国政府の思惑第二次大戦が終わり、中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を樹立した初期は、現在の反日、仇日とは違い、かつての中国人はジャパン・バッシングをする必要がなかったのです。むしろ、ジャパン・ナッシングの時代でした。黄文雄氏は「無日時代」と呼んでいます。 革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」を目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。 しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。 しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。 3.親日から反日へ急転した中国戦後の中華人民共和国からしばらくは、中国は夢と希望に燃えた時代であり、中華思想が完全燃焼する時代でした。人々は「世界革命、人類開放、国家死滅」の「歴史的使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と信じて疑いませんでした。しかし、社会主義、ことに大躍進(1958~毛沢東の高度経済成長政策)は失敗し、文化大革命(1966~1977年)も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果に終わりました。 1970年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が共産党の一党独裁を支えました。これが今日の「反日」の時代的背景です。しかし、胡耀邦総書記によって類例を見ない時代もありました。胡耀邦は中国共産党の指導者のなかではきわめて稀な明るい性格で、陰険にして風見鶏の周恩来とは対照的なもっとも互恵的、真摯で夢に溢れた時代でした。 この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。 1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。 1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。 江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。 5.日本に対して優越性を主張したい韓国中国人が日本についてよく言うのは、中国人は南から北から、あるいは半島を経由して日本に渡り、にほんを建国したのは徐福だということです。それを裏付けるために、さまざまな古典まで引用して、そう主張する中国人は少なくありません。 文化についても、日本には文化がなかったが、中国が文化を教えてやったといったという話をよく聞きます。 しかし実際はどうでしょうか。中国人だけでなく、韓国人もこの手の話は大好きですが、日本の文化が中国文化やその亜流といわれる韓国文化から、日本が多大な影響を受けたのはたしかです。古代から百済、新羅、高句麗、伽耶などから日本に伝わったものは、半島で熟成されて土着化したものであり、日本はそれでは満足できませんでした。日本人は大陸から受容し、独自の工夫を施しされに独自の文化として発展させてきました。 それは白村江の戦いの時代、百済から日本の救援を受けた頃から、半島はすでに海の向こうに強い倭人がいることは知られていました。 朝鮮半島は中国と日本を脅威に感じてきた「恐日」の歴史であるため、日本を文化的に蔑視する「蔑日」をしなければ、優越感が維持できないのです。 朝鮮の事大主義(小国が礼をもって大国に仕える)がもっとも動揺した時代は、日本の開国維新からです。清国への忠誠心があまりにも強かったがゆえに、時代の変化に乗り遅れてしまい、余計に鎖国と事大主義路線を放棄することができなかったのです。 李光洙は、この漢民族の族性を、「空理空論、阿諛迎合(あゆげいごう)、面従後背(めんじゅうこうげん)、大勢従応」と表現しました。また、朴正煕元大統領も「事大主義」は、後世の子々孫々に至るまで悪影響を及ぼす民族的罪悪史だと指摘したことがあります。 6.韓国が克服すべき問題とは日帝36年以後は、南北がそれぞれ米ソに事大を合わせました。しかし、米ソの支えがなかったら、韓国も北朝鮮も国をつくることができなかったのでしょうか。 朴正煕元大統領は、自著『漢民族の進むべき道』(1970)のなかで、韓国人の「自立精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を指摘、自己批判をしました。
彼は、今のハングル世代の韓国人が持つ唯我独尊とは違い、リーダーとしての立派な人物です。彼の独裁者に似合わず社会・政治の改革者としての存在は、韓国史上のモデルとなるでしょう。しかし、韓国では売国奴として糾弾されたまま、今日に至っています。事大主義は、韓国人の宿命であり生き方である以上、韓国人はそれをきよく認めるべきだと言っているに過ぎません。一千年の事大という史実を、恫喝によって否定すべきではないということを、論証したいだけです。独善的な史観を、誰彼構わず押しつけて、謝罪や反省を強要するなど、そうした事大主義はもってのほかだからです。 韓国人が「主体(チュチュ)思想」を強調し、いくら古事記や日本書紀に記された半島の記録などから歴史の自律性を新しい史書や教科書などで吹聴しても、せいぜい半島内でしか通用しないのです。 征明(朝鮮征伐)の英雄李舜臣や伊藤博文暗殺での安重根は、朝鮮半島で最も尊敬されている民族英雄といわれますが、彼らの思想は単に「反日」「抵抗」のみで、他律的で朝鮮の創造とはほど遠いのです。歴史を創出するアジアに名を残す英雄が一人くらい語られてもいいものです。 北朝鮮のように「チュチュ」の強調が、独立自尊、主体性を強調すればするほど思想は硬直化し、融通がきかなくなり、結果として国際的に孤立すろのです。中国とロシア・東は日本とアメリカに挟まれた半島は、脅威(コンプレックス)と事大(プライド)から逃れる日こそ、世界に誇れる国家となれる時です。 8.慰安婦問題と南京事件の真実を検証する1927年、蒋介石の北伐軍による南京占領にともなって発生した、外国領事館と居留民に対する暴虐事件。城内に英・米両軍の砲撃事件を誘発した(「南京暴動」、「第一次南京事件(扶桑社発行の教科書)」と記述される)。南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 – 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民間人に扮したゲリラ兵)及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。日本では南京攻略戦といいます。 1971年まで、「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。 虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(S59年8月4日大阪版夕刊)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明して謝罪記事を書いたり、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚をH20になって撤去するなど、確かに信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。 否定説は、東中野氏は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。 東京裁判における「ベイツ博士」の証言を見ると良く分かります。ベイツ博士は、1937年12月の南京陥落時は南京大学(金陵大学)歴史学の教授でした。当初から国際安全区委員会の設立に係わり、1938年の3月からはスマイス博士とともに戦争被害調査を行っています。ベイツ教授は1938年に「戦争とはなにか-日本軍の暴虐」という反日宣伝本を作成するのですが、その態度は公平なものではなく「日本叩きを目的」としたものだったようです。同書の編集者である「テインパレー」に対し上海方面での日本軍の行った残虐事件を取材するように指示を出していることからもその思想が判明します。 当時の資料からベイツ博士は「南京事件の規模を約4万」と認識していたことは明らかになっていますが、東京裁判では検察側主張に合わせて少し妙な発言をしています。国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺を実行するには極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もないし、日本軍の利益になることはない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとする。 肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾を持っていることを考えるならば、大量の殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体については、遺体を揚子江に流すという手段を指摘している。東京裁判では遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているので矛盾する。「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた」としており、「南京事件は南京陥落後に中国政府が国際連盟で「南京で2万人の虐殺と数千の暴行があった」と演説したのが最初だが国際社会からは真剣に受け止められず非難決議もなかった。それが東京裁判で30万という数字に一気に飛躍したため一時注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970 – 1980年代は全く沈静化していた。しかし、六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では30万であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。 虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。それが「虐殺か、合法か」という議論があることは否定するものではありません。戦争状態において中国兵に対する処刑が行われたことについては事実ですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか? という主張をしています。 「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」は、民主党内の保守系議員連盟。2007年3月に設立。 また、慰安婦問題と共に南京事件に関しても真実の検証を呼びかけており、定期的に勉強会を開いている。南京事件(南京大虐殺)に関するドキュメンタリー映画「南京の真実」にもこの会から多くの賛同者が出ている。 8.占領支配が消し去った歴史西尾幹二氏は、私は高校生の頃までに受けた教育で、満州事変以後の日本の暴走という観念を植え付けられてきました。今の子どもたちにも学校の歴史教育でずっと同じ植え付けが行われています。一般読書で読まれている昭和史の類もやはり、戦争の原因を短い時間尺度の中に閉じこめるこの観念で書かれています。 これは明らかに政治的意図がある、と私は考えます。占領政策には日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするという目的がありました。一方的に日本に戦争の罪を着せようとするならば、歴史を短く区切って教えた方がいいに決まっています。なぜならば、遠く長い歴史の繋がりを持ち出すと、欧米諸国が四、五百年前から地球上で起こしてきたさまざまな侵略の考慮に入れなければならくなるからです。 その「無日」は、韓国人のような「恨(ハン)」から出てきた「日本はない」ものと見なすとは違います。また、李鵬元首相が、オーストラリアの首相に、「日本は二十年後に消えゆく国家であり、取るに足らない国だ」と言ったように、呪いの気持ちから「日本はない」と言っているのでもありません。要するに、中国の「無日」時代は、ただ単に日本が眼中になかっただけです。 革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」を目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。 しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。 しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。 この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。 1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。 そうしたなか、中曽根元首相の靖国参拝問題をめぐって、1985年に中国各地で反日学生デモが起こりました。このときの「親日派」批判は、明らかに胡耀邦へ向けたものでした。 1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。 江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。 文化についても、日本には文化がなかったが、中国が文化を教えてやったといったという話をよく聞きます。 それは白村江の戦いの時代、百済から日本の救援を受けた頃から、半島はすでに海の向こうに強い倭人がいることは知られていました。 そのため、半島では日本を恐れ、その恐日の心理から、高麗朝は宗主国のモンゴルに「征日」として日本遠征を勧めたのでしょう。しかし、「元寇」は失敗し、逆に「倭寇」の来襲に恐れおののくこととなりました。なかには日本列島以外のニセ物の倭寇が登場し、彼らは倭寇以上に半島を荒らしまくりました。 朝鮮半島は中国と日本を脅威に感じてきた「恐日」の歴史であるため、日本を文化的に蔑視する「蔑日」をしなければ、優越感が維持できないのです。 朝鮮の事大主義(小国が礼をもって大国に仕える)がもっとも動揺した時代は、日本の開国維新からです。清国への忠誠心があまりにも強かったがゆえに、時代の変化に乗り遅れてしまい、余計に鎖国と事大主義路線を放棄することができなかったのです。 しかし世界の潮流には逆らえず、近代に入ってからは、列強各国の動きと連動しなければなりませんでした。宗主国(中国)の決断に従う以外には何もできず、列強への対応も、親清、親露、親米、親日というように右往左往したものでした。 李光洙は、この漢民族の族性を、「空理空論、阿諛迎合(あゆげいごう)、面従後背(めんじゅうこうげん)、大勢従応」と表現しました。また、朴正煕元大統領も「事大主義」は、後世の子々孫々に至るまで悪影響を及ぼす民族的罪悪史だと指摘したことがあります。 多くの韓国人は、事大主義を踏襲してきたのは両班(ヤンバン)や李成桂一派だけであり、大多数の民衆はそうではないといいます。あるいは、開き直って「韓国人の事大は平和主義を愛好する民族の証明」だとか、「漢民族の素晴らしい知恵」と自画自賛することもあります。▲ページTOPへ 西尾幹二氏は、私は高校生の頃までに受けた教育で、満州事変以後の日本の暴走という観念を植え付けられてきました。今の子どもたちにも学校の歴史教育でずっと同じ植え付けが行われています。一般読書で読まれている昭和史の類もやはり、戦争の原因を短い時間尺度の中に閉じこめるこの観念で書かれています。 これは明らかに政治的意図がある、と私は考えます。占領政策には日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするという目的がありました。一方的に日本に戦争の罪を着せようとするならば、歴史を短く区切って教えた方がいいに決まっています。なぜならば、遠く長い歴史の繋がりを持ち出すと、欧米諸国が四、五百年前から地球上で起こしてきたさまざまな侵略の考慮に入れなければならくなるからです。 日本においていちばん近い国は、中国・韓国・北朝鮮。同じアジアで漢字を使用し、古来から深く関わりを持ってきた国家ですが、それぞれ歴史感の問題などまだまだ多くの問題があります。 人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。 戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています 国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。 良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。 歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収されない限り、容易には自国の国益んい大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。 戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。 二つの全体主義の犠牲者 ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。 共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。 二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。 高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。 しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。 共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。 しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。 インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。 フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。 アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。 そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。 中西輝政氏は、こう記しています。 第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。 たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。 そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。 情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。 おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。 いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。 皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。 南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。 しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。 ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。 自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。自由主義史観研究会を主宰した藤岡信勝によって唱えられた。 第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。 これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。 欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのがわが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。 中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があり、最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。 ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。 満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。 「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。 アジア圏は欧米諸国に植民地化されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放する立場なのか、それとも新たな支配者として居座ることを目差したものかという、相反する見方があるのは当然です。 たとえば、台湾現総督の馬英九氏は、国民党主席就任後の2005年8月には、「南京大虐殺や尖閣諸島での日本の言動は、大陸、台湾双方の人々の心を逆なでする」、「国民党は将来、尖閣諸島の問題解決に注力する。私は尖閣諸島についての専門的知識を持っている」 と発言し、また、日本の植民地統治にも厳しい態度をとっています。 われわれは、歴史のなかで過去を葬り消すことはできないし、客観的な史実と研究を行いつつ、国家のために政治的に利用するのではなく、学びながら相互の発展につなげていかなければならないと思います。引用:『靖国問題と中国』岡崎久彦引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄(台湾出身。早稲田大学商学部卒、明治大学大学院卒、拓殖大学日本文化研究所客員教授、評論家) 参考:『日本人の歴史教科書』自由社出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています。▲ページTOPへ しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。 共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。 しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。 インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。 フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。 アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。 そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。▲ページTOPへ 福知山線の発祥は、1891年(明治24年)に川辺馬車鉄道が開業させた尼崎(のちの尼崎港)~伊丹間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎~池田(現在の川西池田)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にありましました。 摂津鉄道は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に合併され、改軌(レール幅を広げる)した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年(明治32年)には福知山南口駅(堀内田町付近)まで開通しました。 1904年(明治37年)、軍部からの要請で対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山~綾部~新舞鶴(現在の東舞鶴)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山~新舞鶴間の貸与を受けて、大阪~舞鶴間を結ぶ鉄道が完成しました。 1986年(昭和61年)11月1日、全線電化完了と伴いL特急「北近畿」運転開始。東海道本線の大阪~尼崎間を含む大阪 ~篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称がある。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」と付けています。また尼崎~谷川間が大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなって、大阪と北近畿を結ぶ路線であると同時に、兵庫県東部の各都市から大阪への通勤・通学路線となっています。 武庫川、由良川など川沿いを進むため、生瀬 – 道場付近では武庫川の渓流の眺めを楽しめたりするなど、のどかなローカル路線の体であったが、宝塚~新三田間の複線電化を機に路線短縮化と客車普通列車らは姿を消し、沿線住宅開発の進展とJR東西線の開業などにより新型電車が行き交う通勤路線(アーバンネットワーク)となっています。太平洋と日本海を分ける本州で最も低い分水嶺の氷上(石上駅)を通るため、高低差やトンネルは少ないが、106.5kmながら直線区間がなくカーブが多い。 路線データ ※尼崎 – 新三田間はJR西日本大阪支社の直轄、新三田 – 福知山間は両端の駅を除き同・福知山支社篠山口鉄道部の管轄である。 東海道本線の大阪 – 尼崎間を含む大阪 – 篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称を持っています。また尼崎 – 谷川間は大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなっています。路線の起点は尼崎であるが、全ての列車が東海道本線経由で大阪駅、またはJR東西線と直通しています。 北近畿(きたきんき)とは、西日本旅客鉄道が新大阪駅~福知山駅・豊岡駅・城崎温泉駅間を福知山線(JR宝塚線)・山陰本線経由で運行するエル特急の名称である。北近畿ビッグXネットワークを形成する列車の1つである。 イメージカラーは黄色。走行路線の一つであるJR宝塚線のラインカラーにちなんでいる。 2015年10月31日より特急 こうのとり 287系 停車駅 舞鶴線(まいづるせん)は、京都府綾部市の綾部駅から京都府舞鶴市の東舞鶴駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)。 全区間JR西日本福知山支社の直轄である(1991年4月から2006年6月までは、同支社舞鶴鉄道部の管轄であった)。 元は阪鶴鉄道・京都鉄道が計画していた路線だが、日露戦争を控え着工を急ぐ必要性から1904年に官設で福知山 – 綾部 – 新舞鶴(現在の東舞鶴)間と支線が開通、阪鶴鉄道に貸与されて開業した。支線として舞鶴港線(西舞鶴 – 舞鶴港間)や、出征者や戦場からの引揚者を運んだ中舞鶴線(東舞鶴 – 中舞鶴間)などを有していましたが、1985年までにすべて廃止。 川辺馬車鉄道会社が1891年(明治24年)に開業した尼崎~伊丹間の馬車鉄道を、軽便鉄道化したもの。当時の法律の制限があるため、川辺馬車鉄道の解散、新会社の設立の手順を踏んでいます。1893年(明治26年)12月に開業。伊丹~池田(川西池田)間に新線路を追加し、尼崎~池田を1日13便(尼崎始発:6:05 最終発:23:02)で運行しました。ただし、川辺馬車鉄道では許されていた平面交差が認められず、汽車が官線をまたぐことは許可されなかったため、長洲駅を官線(東海道本線)の北側と南側の2か所に分けて、乗客には歩いて乗り替えを行うこととなりました。興味深いことに貨物のみの通過は認められていた。馬車鉄道で尼崎~伊丹間が1時間を超えていたものが、わずか18分で交通できるようになりました。 1897年(明治30年)2月に阪鶴鉄道会社に合併されることとなる。 1889年(明治22年)に設立された。兵庫県尼崎市(神崎)から京都府舞鶴市への鉄道建設をめざしたが免許は却下された。川西馬車鉄道(後の摂津鉄道)を設立した小西壮二郎(白雪/小西酒造)ら30名が発起人となり、1889年(明治22年)4月29日に設立された。川西馬車鉄道の計画を延伸する形で、当時、京都府第二の都市で、軍港として発展が見込める舞鶴へ至る鉄道敷設を目的としました。摂丹鉄道のほかにも、京鶴鉄道(京都~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~舞鶴)、播丹鉄道(姫路~生野~舞鶴)の4つの民営鉄道が舞鶴への鉄道敷設に名乗りをあげており、積極的な免許許可運動が展開された。 しかし、いずれの計画も採算困難であると予想され、また複数路線の並立で共倒れになると考えられたためいずれの路線も却下された。なお、摂丹鉄道が却下されると、小西らは再び川西馬車鉄道を推進しており、摂丹鉄道の基本構想は後の阪鶴鉄道に引き継がれています。 阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、大阪から福知山を経て舞鶴を結ぶ鉄道を運行していた鉄道会社。尼崎(のちの尼崎港)~池田(現在の川西池田駅)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西新右衛門らが大阪と、軍港を擁し日本海側の主要都市の1つであった舞鶴を結ぶ鉄道を計画。1895年(明治28年)に設立。 1897年(明治30年)に摂津鉄道を合併し、池田~宝塚間が開業。1899年(明治32年)には三田、篠山(現在の篠山口駅)、柏原と順次延伸され福知山南口(のちに廃止)まで開通。 しかし京都鉄道に京都~綾部~舞鶴間の認可が下ったため、福知山~舞鶴間の鉄道敷設は出来なかった。 1904年(明治37年)には、現在の福知山駅まで開通。その際に官製の線路であった福知山~舞鶴間を借りて大阪~舞鶴間の運行が可能となりました。舞鶴からは丹波・若狭地方との連絡のため宮津、境、小浜などへの連絡船も運営しました。 また、神崎(現JR尼崎駅)~大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で認可が下りなかっため、塚口から官鉄線の神崎に接続し大阪までのルートを確保しました。なお、将来の輸送量の増加を考え、支線として池田~大阪間の鉄道敷設免許を受けた。 1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎~福知山間の営業を譲渡し国有となりJR福知山線の原型となりました。また、池田~大阪間の鉄道敷設免許は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となりました。 但馬城ノ山古墳出土品 鏡類をはじめ、碧玉【へきぎよく】製品、玉類、刀剣類、鉄製工具類など 上代(飛鳥時代以前) 縄文時代の日本にはまだ固有の文字は存在していなかったとされるのは、その頃の遺物には現在まで文字らしい形跡が見つからないためでです。日本で文字が現れたのは、象形文字ではない中国から伝わった漢字の音を借用して漢字を使い書き表したのが最初で、5世紀頃、稲荷山古墳から発見された刀剣に「雄略天皇」に推定される名が刻まれています。これも万葉仮名の一種とされています。記された文字遺物がいくつか見つかっています。この頃盛んであった朝鮮半島諸国との関係から、政治制度や文化の移入に伴って、漢字の移入・使用がおこなわれるようになり、そこには渡来氏族が大きく関わっていたと考えられています。 漢文に送り仮名を付けて中国語発音である「音」を日本語の発音で漢字を「訓読」するようになり、日本語の文として読もうと、言葉の違いを認識し埋めていく工夫がされました。したがって、中国語発音以前に日本語は別の言葉だったといえるでしょう。(そもそもこれが訓読みと音読みが同居するややこしさ、よくいえば多彩な日本語のベースといえる。) 古代(飛鳥時代) 七世紀頃には『古事記』や『万葉集』を見ると、漢字のみを使って実に様々に工夫されています。『風土記』では人名や地名を漢字で書き表す際にさまざまな当て字が用いられており、「万葉仮名」と呼ばれる漢字の音を借りてその義(漢字本来の意味)に拘らずに一音節の表現のために用いるのが万葉仮名の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれています。『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されています。それらは「真仮名」、借字ともいいます。万葉仮名の自体をその字源によって分類すると「記紀」・「万葉」を通じてその数は973に達します。使用が確かめられる最古のものは、大阪市中央区の難波宮跡において発掘された652年以前の木簡です。 中古(平安時代) 平安時代に至ると、万葉仮名をもとにして、日本語固有の文字である「平仮名・片仮名」が生み出されました。平仮名が生まれたことによって、例えば和歌のように一音一音を書き表すことが確実に行えるようになりました。こうした表現力を背景に物語り文学や日記文学などが大きく開花した。一方で片仮名は、仏典や漢籍など、漢文を読む際の補助的な文字として用いられたのが始まりとされています。 中世 「歌学」を中心に、古典、特に和歌を正しく理解し、あるいは実作するようになりました。既にこの頃は、平安時代とは日本語の音や文法などが様変わりしてしまっており、「てにをは」、「仮名遣い」などの違いが問題視されています。 近世(江戸時代) 国学をはじめ諸学が隆盛を見るようになります。古典の理解という域を超えて、前後の語句や意味によって様々に変化する「活用」の考え方が生まれ、現代の文法にも用いられています。 近代 西洋の文物や考え方が大量に移入され、これらを表すための新しい日本語が必要になりました。主に漢語の造語能力を活かした新しい漢語が生み出されたり、音の面では、多くの外来語を書き表すための表記方法が工夫(例:ファ、チャなど小文字表記?)されました。さらに母語としての言葉を習い教えるための体系的な国語科教育が整備されました。 戦後、政府は複雑な当用漢字を簡素化することを行いました。片仮名、平仮名も漢字を簡略化していましたが、それは意味を持たない発音を意味する文字であり、語彙を含む漢字そのものではありません。ゐ(wi)、ゑ(we)も消えました。 例えば、國→国、縣→県、濱→浜、驛→駅などです。それらは新字体と呼ばれ、古い自体を旧字体と呼び、今日ではほとんど使用されることはありません。それは中国も同様で、繁体字と呼ばれ、簡体字と新字体はそれぞれの国で独自に簡化したため字体が異なるものが多く、同じ漢字文化圏でも読めない場合があります。 現在、日本語を日常に使用している人は、世界中に一億二千万ほどといわれています。意外にも世界の言語の中でも多い方から10位以内に入るのだそうです。しかし、日本語は世界でも独自なもので、どのような系統に属すのかは、いまだに不明とされています。 月本 雅幸 放送大学客員教授・東京大学大学院教授 杉原克己 放送大学助教授 より 方言とは、あるひとつの言語における変種のことです。同じ文法を用いる言語でも、語彙・発音(訛り・アクセントなど)・文法・表記法のいずれかもしくはいくつかの面で差異が見られる場合は方言といいます。同一国家内では、方言話者同士が会話する場合は、ある特定の方言そのもの、あるいはその方言を元にして新しく作られた標準語を使用してきました。 しかし、言語学から「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」なのか、「同一言語の中の方言」なのかを客観的に区別する方法はなく、言語と方言の違いは極めて曖昧です。国境の有無などのような政治的な条件や正書法の有無などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、「言語とは、軍隊を持った方言のことだ」というたとえさえ存在しますが、例外は多々存在します。 日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きいものです。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられますが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの 2つです。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第一拍の高低を弁別します。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いですが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国の一部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは北陸地方、近畿地方、四国の大部分に分布しています。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっています。 但馬弁日本の方言政策明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられました。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になりました。東北弁と琉球語(琉球方言)が全く意志疎通ができないように、これは単なる方言といっていいのか、まったく異なった言語であるといっていいかです。文法が同じであり、中国語同様に漢字で書くと意思疎通が比較的容易です。 標準語がなかった頃は、どのように会話していたのでしょう。時代劇を観ていると、例えば幕末に、薩摩藩士と長州藩士、土佐藩士、江戸弁の幕府方や会津藩士、京都弁の公家などが当時どの程度スムーズに聴き取れていたのかは分かりませんが、漢字による文書を通じて理解できたでしょうから方言・武士など階級による言葉の差はあったものの理解し得たといえます。 現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っています(例えば近畿方言(関西弁)のように比較的方言が保たれていても、さらに細分化された地域性が失われる傾向もある)。特に若者の間でその傾向が著しいようです。方言アクセントは、多くの地域で若者においても保持されていますが、語彙は、世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にあります。また、あえて、最近では若者の間で各地の方言を生かした会話を楽しんでいる場合もみられます。 日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの日本以外の他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされています。ただし琉球諸島の言葉を、別の言語である琉球語とする考えがあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになります。その場合、それぞれがさらに多数の方言に分類することができるため、これらすべてをまとめ一語族として日本語族と称し、日本語派と琉球語派に分類しています。 民族論 沖縄県や奄美諸島の住民と、その他の日本人との文化などの違いを抽出して、別民族(琉球民族)とみなす場合は、別言語といえます。 印象論 世界にはお互いに意志疎通が可能でも(すなわち音韻の違いが小規模且つ規則的でも)別言語とされている例も、意志疎通が不可能でも同言語とされている例もあり、聞き取れるか否か、或いは音韻関係がどの程度厳密かといったことは、言語か方言かを分類する決定的な根拠とは必ずしもなりえないとしています。 それに対して、アイヌ語は、アイヌ民族の言語で、話者はアイヌ民族の主たる居住地域である日本・北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリル諸島)に分布します。日本語と同様、「孤立した言語」とされています。それは、地理的に近い位置で話されてきたにもかかわらず、日本語との間には、語彙の借用を除いてそれほど共通点が見いだせないからです。専門家の間では、アイヌ語を、日本語の基盤となったいくつかの言語の内の一つから発展した言語とする見方が一般的ですが、現段階ではアイヌ語は特定の語族に属さないとされています。 基本的な文型はSOV(主語・目的語・動詞)の順で、この点では日本語と同じですが、形態論的には膠着語である日本語と異なり、抱合語というイヌイット(カナダ北部グリーンランドなど)やアメリカ先住民族らの言語(エスキモー諸語、インディアン諸語など)の間でしか見られない、アジアでは珍しい分類に属するとされています。しかし、現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つです。千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の話者も平均年齢が既に80を越え、数も10人以下となっています。 本州以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説があります。この説は、北海道から東北地方北部(太平洋側は仙台付近、日本海側は秋田県・山形県・新潟県)にかけての多数の地形を実地に検分して共通点を調べあげた山田秀三の業績によって、学界に広く受け入れられました。 琉球語(琉球方言)を独立した言語とみなすか方言とみなすかについては大きく意見が分かれます。言語学的には言語と方言を客観的に区別することができず、両者の区別は政治・宗教・民族などの歴史的・社会的要因によって一種の慣習として定まってきます。同様に次の例があります。 主にセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで話されるセルボクロアチア語は、十数年前までひとつの旧ユーゴスラビアという共和国の言語で、各国・各地方の言葉は、使用する文字に違いはあっても同じ言葉であり、方言関係にあります。しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在は、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると主張がそれぞれの国家民族でされるようになりました。 また、中国語の各方言はヨーロッパ各国の公用語ほどの違いがあり、北京語と広東語では意思疎通が難しいですが、表意文字である漢字で書くと書き言葉が同じであるため意思疎通が比較的容易です。さらに同系の標準語である普通話(プートンフア)があるために、方言関係にあるとされています。中国の大陸部やシンガポールの中国語(華語)は表記に簡体字を使い、台湾、香港、マカオの中国語は繁体字を使っており、発音表記にもそれぞれラテン文字と注音符号という別体系の文字を使うなど、一部が異なった正書法が使われていますが、別の言語との扱いは一般にはされていません。また、キルギス共和国には、中国から移住した、キリル文字で書き、アラビア語やロシア語から借用語の多いドンガン語を話す人たちがいますが、国も文字も語彙も違っていても、方言だとみなす人がいます。 一方ドイツ語は、大きく北部方言(低地ドイツ語)と標準語を擁する南部方言(高地ドイツ語)に分けられ、互いに通じないほど違います。しかし、北部方言もドイツ語であるとされています。ところが、このドイツ語の北部方言ときわめて近い関係(方言の変化が連続的なので、明確な境界は存在しない)にあるオランダの言葉は、国が異なりオランダ語として、別の言語とされています。ドイツ語北部方言とオランダ語では会話が可能でありながら、同じ国ながらドイツ語北部方言と同南部方言では会話が困難だという奇妙な現象が起こります。 出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男 縄文時代の日本にはまだ固有の文字は存在していなかったとされるのは、その頃の遺物には現在まで文字らしい形跡が見つからないためでです。日本で文字が現れたのは、象形文字ではない中国から伝わった漢字の音を借用して漢字を使い書き表したのが最初で、5世紀頃、稲荷山古墳から発見された刀剣に「雄略天皇」に推定される名が刻まれています。これも万葉仮名の一種とされています。記された文字遺物がいくつか見つかっています。この頃盛んであった朝鮮半島諸国との関係から、政治制度や文化の移入に伴って、漢字の移入・使用がおこなわれるようになり、そこには渡来氏族が大きく関わっていたと考えられています。漢文に送り仮名を付けて中国語発音である「音」を日本語の発音で漢字を「訓読」するようになり、日本語の文として読もうと、言葉の違いを認識し埋めていく工夫がされました。したがって、中国語発音以前に日本語は別の言葉だったといえるでしょう。(そもそもこれが訓読みと音読みが同居するややこしさ、よくいえば多彩な日本語のベースといえる。) 七世紀頃には『古事記』や『万葉集』を見ると、漢字のみを使って実に様々に工夫されています。『風土記』では人名や地名を漢字で書き表す際にさまざまな当て字が用いられており、「万葉仮名」と呼ばれる漢字の音を借りてその義(漢字本来の意味)に拘らずに一音節の表現のために用いるのが万葉仮名の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれています。『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されています。それらは「真仮名」、借字ともいいます。万葉仮名の自体をその字源によって分類すると「記紀」・「万葉」を通じてその数は973に達します。使用が確かめられる最古のものは、大阪市中央区の難波宮跡において発掘された652年以前の木簡です。 平安時代に至ると、万葉仮名をもとにして、日本語固有の文字である「平仮名・片仮名」が生み出されました。平仮名が生まれたことによって、例えば和歌のように一音一音を書き表すことが確実に行えるようになりました。こうした表現力を背景に物語り文学や日記文学などが大きく開花した。一方で片仮名は、仏典や漢籍など、漢文を読む際の補助的な文字として用いられたのが始まりとされています。 「歌学」を中心に、古典、特に和歌を正しく理解し、あるいは実作するようになりました。既にこの頃は、平安時代とは日本語の音や文法などが様変わりしてしまっており、「てにをは」、「仮名遣い」などの違いが問題視されています。 国学をはじめ諸学が隆盛を見るようになります。古典の理解という域を超えて、前後の語句や意味によって様々に変化する「活用」の考え方が生まれ、現代の文法にも用いられています。 西洋の文物や考え方が大量に移入され、これらを表すための新しい日本語が必要になりました。主に漢語の造語能力を活かした新しい漢語が生み出されたり、音の面では、多くの外来語を書き表すための表記方法が工夫(例:ファ、チャなど小文字表記?)されました。さらに母語としての言葉を習い教えるための体系的な国語科教育が整備されました。 戦後、政府は複雑な当用漢字を簡素化することを行いました。片仮名、平仮名も漢字を簡略化していましたが、それは意味を持たない発音を意味する文字であり、語彙を含む漢字そのものではありません。ゐ(wi)、ゑ(we)も消えました。 例えば、國→国、縣→県、濱→浜、驛→駅などです。それらは新字体と呼ばれ、古い自体を旧字体と呼び、今日ではほとんど使用されることはありません。それは中国も同様で、繁体字と呼ばれ、簡体字と新字体はそれぞれの国で独自に簡化したため字体が異なるものが多く、同じ漢字文化圏でも読めない場合があります。 現在、日本語を日常に使用している人は、世界中に一億二千万ほどといわれています。意外にも世界の言語の中でも多い方から10位以内に入るのだそうです。しかし、日本語は世界でも独自なもので、どのような系統に属すのかは、いまだに不明とされています。 月本 雅幸 放送大学客員教授・東京大学大学院教授 杉原克己 放送大学助教授 より 方言とは、あるひとつの言語における変種のことです。同じ文法を用いる言語でも、語彙・発音(訛り・アクセントなど)・文法・表記法のいずれかもしくはいくつかの面で差異が見られる場合は方言といいます。同一国家内では、方言話者同士が会話する場合は、ある特定の方言そのもの、あるいはその方言を元にして新しく作られた標準語を使用してきました。 しかし、言語学から「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」なのか、「同一言語の中の方言」なのかを客観的に区別する方法はなく、言語と方言の違いは極めて曖昧です。国境の有無などのような政治的な条件や正書法の有無などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、「言語とは、軍隊を持った方言のことだ」というたとえさえ存在しますが、例外は多々存在します。 日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きいものです。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられますが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの 2つです。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第一拍の高低を弁別します。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いですが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国の一部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは北陸地方、近畿地方、四国の大部分に分布しています。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっています。 日本の方言政策明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられました。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になりました。東北弁と琉球語(琉球方言)が全く意志疎通ができないように、これは単なる方言といっていいのか、まったく異なった言語であるといっていいかです。文法が同じであり、中国語同様に漢字で書くと意思疎通が比較的容易です。 標準語がなかった頃は、どのように会話していたのでしょう。時代劇を観ていると、例えば幕末に、薩摩藩士と長州藩士、土佐藩士、江戸弁の幕府方や会津藩士、京都弁の公家などが当時どの程度スムーズに聴き取れていたのかは分かりませんが、漢字による文書を通じて理解できたでしょうから方言・武士など階級による言葉の差はあったものの理解し得たといえます。 現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っています(例えば近畿方言(関西弁)のように比較的方言が保たれていても、さらに細分化された地域性が失われる傾向もある)。特に若者の間でその傾向が著しいようです。方言アクセントは、多くの地域で若者においても保持されていますが、語彙は、世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にあります。また、あえて、最近では若者の間で各地の方言を生かした会話を楽しんでいる場合もみられます。日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの日本以外の他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされています。ただし琉球諸島の言葉を、別の言語である琉球語とする考えがあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになります。その場合、それぞれがさらに多数の方言に分類することができるため、これらすべてをまとめ一語族として日本語族と称し、日本語派と琉球語派に分類しています。 沖縄県や奄美諸島の住民と、その他の日本人との文化などの違いを抽出して、別民族(琉球民族)とみなす場合は、別言語といえます。 世界にはお互いに意志疎通が可能でも(すなわち音韻の違いが小規模且つ規則的でも)別言語とされている例も、意志疎通が不可能でも同言語とされている例もあり、聞き取れるか否か、或いは音韻関係がどの程度厳密かといったことは、言語か方言かを分類する決定的な根拠とは必ずしもなりえないとしています。 政治的に国家を背景として同一言語の方言であるとするものです。しかし、世界には複数の言語を有する国が多いし、また同一民族、同一言語とされるが複数の国家に分かれている事例もあるのでこれは絶対的な基準とはならないとしています。 基本的な文型はSOV(主語・目的語・動詞)の順で、この点では日本語と同じですが、形態論的には膠着語である日本語と異なり、抱合語というイヌイット(カナダ北部グリーンランドなど)やアメリカ先住民族らの言語(エスキモー諸語、インディアン諸語など)の間でしか見られない、アジアでは珍しい分類に属するとされています。しかし、現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つです。千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の話者も平均年齢が既に80を越え、数も10人以下となっています。 本州以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説があります。この説は、北海道から東北地方北部(太平洋側は仙台付近、日本海側は秋田県・山形県・新潟県)にかけての多数の地形を実地に検分して共通点を調べあげた山田秀三の業績によって、学界に広く受け入れられました。 琉球語(琉球方言)を独立した言語とみなすか方言とみなすかについては大きく意見が分かれます。言語学的には言語と方言を客観的に区別することができず、両者の区別は政治・宗教・民族などの歴史的・社会的要因によって一種の慣習として定まってきます。同様に次の例があります。 主にセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで話されるセルボクロアチア語は、十数年前までひとつの旧ユーゴスラビアという共和国の言語で、各国・各地方の言葉は、使用する文字に違いはあっても同じ言葉であり、方言関係にあります。しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在は、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると主張がそれぞれの国家民族でされるようになりました。 また、中国語の各方言はヨーロッパ各国の公用語ほどの違いがあり、北京語と広東語では意思疎通が難しいですが、表意文字である漢字で書くと書き言葉が同じであるため意思疎通が比較的容易です。さらに同系の標準語である普通話(プートンフア)があるために、方言関係にあるとされています。中国の大陸部やシンガポールの中国語(華語)は表記に簡体字を使い、台湾、香港、マカオの中国語は繁体字を使っており、発音表記にもそれぞれラテン文字と注音符号という別体系の文字を使うなど、一部が異なった正書法が使われていますが、別の言語との扱いは一般にはされていません。また、キルギス共和国には、中国から移住した、キリル文字で書き、アラビア語やロシア語から借用語の多いドンガン語を話す人たちがいますが、国も文字も語彙も違っていても、方言だとみなす人がいます。 一方ドイツ語は、大きく北部方言(低地ドイツ語)と標準語を擁する南部方言(高地ドイツ語)に分けられ、互いに通じないほど違います。しかし、北部方言もドイツ語であるとされています。ところが、このドイツ語の北部方言ときわめて近い関係(方言の変化が連続的なので、明確な境界は存在しない)にあるオランダの言葉は、国が異なりオランダ語として、別の言語とされています。ドイツ語北部方言とオランダ語では会話が可能でありながら、同じ国ながらドイツ語北部方言と同南部方言では会話が困難だという奇妙な現象が起こります。 出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』- |