たじまる 日本-2

謎の巨大豪族「物部氏」

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?

1.『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。

ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。
ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。

そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、

『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。

その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

5.東征ルート

物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)▲ページTOPへ

謎の巨大豪族「物部氏」

謎の巨大豪族「物部氏」

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。

しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?<

1.『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。

ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、
『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

5.東征ルート

物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)

もう一つの日本(やまと) 1

もう一つの日本(やまと)

1.饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ひこいますおう)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。
『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。

フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこんもみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。
別名としては、

  • 櫛玉命(くしたまのみこと)
  • 「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)
  • 「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
  • 「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
  • 「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
  • 「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)などです。
    古代、韓国の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、「祖佐之男命、朝鮮新羅国王の四男・太加王」

    と具体的に記しています。

    この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

    スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

    しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。

    『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

    『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。

    「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」

    これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。

    確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれありませんが、三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

    三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

    2.日本の名付け親

    2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

    さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのでしょう?

    それは、枕詞の転化であるとしています。
    たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、草香の枕詞は日下であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。
    しだいに日本(ひのもと)という字が当てられ、倭国から日本という国名に変わったというのです。

    『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
    「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
    といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。

    ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

    谷川健一氏によると、

    「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないかと推理しています。

    「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
    としています。
    4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)

    その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。
    饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?

    という想像が浮かび上がるのです。

    3.二つの日ノ本

    ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

    また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    [*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

    [*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

    [*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命

たじまる-平安3

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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高麗の建国と文化

目 次

  1. 高麗の建国
  2. 中央行政機構の整備
  3. 郡県制と地方支配
  4. モンゴルの侵略と高麗の滅亡
    高麗が1392年まで統一政権を形成します。のち朝鮮国時代(朝鮮王朝・李氏朝鮮)が 1910年まで続きます。

高麗の建国

朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。
高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹が渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。▲ページTOPへ

2.中央行政機構の整備

 契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。
こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班(ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。
両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。

3.郡県制と地方支配

 地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。
郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。
邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。▲ページTOPへ

4.モンゴルの侵略と高麗の滅亡

 13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。
1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。
1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。
高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。
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たじまる-平成編

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

福 祉

社会保障制度

 第二次世界大戦後の日本は、家族や地域社会での相互扶助を重視しつつ、憲法が人権の種類の一つとして定める、国民が健康で文化的な生活をする社会権の実現を目ざした。政府は、国民の生活において最低限の福祉サービスを児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年(昭和49年)以前の失業保険)、障害者介護・自立支援、生活保護、国民年金といった行政サービスとして提供しつつ、企業年金制度、退職金制度といった企業福祉を充実させる政策をとってきたが、近年は企業福祉から疎外された非正規雇用者が増加する一方、アメリカ合衆国型の低福祉・低負担化が目指され、その結果として健康で文化的な生活をする必要最小限の生活が出来ない貧困層の存在が社会問題になっている。

1961年(昭和36年)以降、「国民皆保険」とされ、生活保護の受給者などの一部を除く日本国内に住所を有する全国民(および日本に1年以上在留資格のある外国人)が何らかの形で健康保険に加入するように定められている。近年、所得水準が低く保険料を支払えない人の増加が社会問題になっており、社会保障の一元化などが課題となっている。

健 康

厚生労働省 によれば、日本国民の2006年(平成18年)度の平均寿命は男性79.0歳、女性85.8歳であり、世界保健機関 (WHO) によれば世界一長寿である。また、健康寿命でも男性72.3歳、女性77.7歳(2001年(平成13年))となっており、これも世界一長寿となっている。日本人の死因は、戦後すぐでは結核などの感染症が多かったが、現在では一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に脳血管疾患と、生活習慣病を中心とした慢性疾患が主である。しかし、今日でも先進工業国の中で日本人の結核死亡率の高さは突出している。

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医 療

世界最低レベルの周産期死亡率・平均余命を達成している一方、WHOの2004年度の統計値によると、人口千人あたりの医療職員数は、医師は1.98、歯科医師は0.71、看護師は7.79、助産師は0.19、薬剤師は1.21であり、経済的に豊かな国(国民一人当たりのGDPが20,000ドル以上)の中でも最低(最低グループ)であり、開発途上国と比較しても日本より上回っている国は多数あることから、人口比の医療職員数の不足が指摘されている。GDPに対する保健支出の比率は7.8%、保健支出に対する政府の負担比率は81.3%で、経済的に豊かな国の中では標準的な水準である。急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、国民健康保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、国民の負担は増加する傾向にある。国会・政府の医療費抑制の政策により、近年医療サービス水準は低下しており、病院の70%が赤字経営で、産科の廃止や夜間救急医療の廃止など医療サービスの機能停止が各地で問題となっているが、有効な対策が提示されていない。もっとも中小企業の赤字率は2006年(平成18年)の民間推計で71.34%であり、病院経営が他の産業に突出して不振であるということは示さない。これは税制に理由があり、家族経営の中小・零細法人の場合、法人収益を計上して株主配当により分配するより給与分配したほうが税制上有利になるという事情による。日本では大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが、先進工業国の中でも突出して後退しており、麻疹輸出国として以前より非難されている。また海外からの病原体移入や海外旅行者の帰国後の感染症・寄生虫症発症に対する態勢に危惧が抱かれている。

育 児

現在の日本は少子高齢化が進んでいる。 明治以降、日本が近代化する過程で乳児死亡率低下、国力上昇により人口の激増がおこったほか、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により若年者ほど多いピラミッド状の人口構成だった。しかし、高度成長期以降は少子化が進み、一人の女性が生涯に産む子供の数は世界でも最少レベルの1.3近くまで低下、人口減少に転じた。その原因として、経済的に豊かになったこと、医学と医療技術の向上により死亡率が減少したこと、教育水準が向上し教育費負担が大きくなったこと、公的な育児支援制度が不足していること、長時間労働により育児の時間が不足するとともに仕事と育児の両立が困難なこと、核家族化によって祖父母の助けが減ったこと、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因として指摘されている。政府は出生率の低下を深刻な問題と認識し、現在の人口を維持できる2.0?2.1前後まで増加させようと考えているが、政府や社会として有効な対策がなされず、出生率が著しく低い状況を解消できる見通しはたっていない。▲ページTOPへ

介 護

経済的に豊かになったことと、医学と医療技術の向上により、日本は平均寿命と平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、それは高齢期の生活に介護が必要な人口の増加をもたらした。日本では要介護者の介護は伝統的には家族が行なっていたが、長時間労働により介護の時間が不足するとともに仕事と介護の両立が困難なこと、祖父母・父母・孫子の複数世代同居家族から父母と子の家庭に変化したこと、高齢者が夫婦二人や一人住まいの状況がよくあること、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因となって、家族による介護が困難になり、2000年(平成12年)に介護保険制度が創設され、介護を家族と行政と地域社会の協力で行う政策に転換した。しかし、制度や運用の経験が不十分なこと、介護の仕事は激務であるが介護報酬が低額で介護事業者や介護労働者が十分な収入を得られないこと、行政の予算不足により福祉に必要十分な予算が無いことなどの複合的な要因により、要介護者やその家族からの様々な需要に対して、必要で十分なサービスは提供できていない。

自 殺

警察庁の統計によると、1978年(昭和53年)- 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、2003年(平成15年)の(34,427)27.0、男性は(24,963)40.1 女性は(9,464)14.5である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1991年(平成3年)の(21,084)17.0、男性は(13,242)21.7、女性は(7,842)12.4である。2006年(平成18年)は(32,155)25.2、男性は(22,813)36.6、女性は(9,342)14.3である。1978年(昭和53年)- 1997年(平成9年)は(20,788 – 25,202)17.3 – 21.1だったが、1998年(平成10年)- 2006年(平成18年)は(31,042 – 34,427)24.4 – 27.0である。厚生労働省の統計によると、1955年(昭和30年)- 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1998年(平成10年)の(32,122)25.4である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1967年(昭和42年)の(14,268)14.2である。1961年(昭和36年)- 1974年(昭和49年)は(14,268 – 19,283)14.2 – 17.4だったが、1998年(平成10年)0- 2006年(平成18年)は(29,671 – 32,414)23.3 – 25.4である。WHOの2007年(平成19年)の統計によると、WHOに自殺統計を報告している101か国の中で、日本の自殺率は高い順に11位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の経済的に豊かな国の中では高い順に1位である。政府は自殺問題を重要な課題と認識し、日本が先進国の中で最も自殺率が高い原因について、宗教的要因・日本人の死生観など様々な原因が仮説として提示されているが、現時点では原因は明確に解明されていない。ただし、諸外国と比較して、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘され、包括的予防対策の整備を求められている。2006年(平成18年)に自殺対策基本法[80]が制定されたが、自殺予防に関する基本的な考え方を規定しているが、具体的な政策・制度は規定していないので、自殺率減少は実現できず、政府や社会として有効な対策は実施されていない。出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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地方分権薄桜(うすざくら)#fdeff2最初のページ戻る次へ

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たじまる-平安1 王朝国家体制

平安時代

目次

  1. 概 要
  2. 王朝国家体制
  3. 長岡京遷都
  4. 平安京遷都
  5. 摂関政治
  6. 蝦夷戦争

平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。

794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。

平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。

また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。

王朝国家体制

律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。

781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。

長岡京遷都

784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、

  • 新王朝創設を中国思想によって位置づける
  • 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
  • 平城京に根強い仏教勢力を排除する
  • 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
  • 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
  • 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
  • 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。

平安京遷都

しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。

また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。

しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。

現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。

摂関政治

摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。

九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。

冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。

この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。

菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。

こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。

蝦夷(えみし)戦争

平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。

古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

平安1 王朝国家体制

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

平安時代

概要

目次

  1. 概 要
  2. 王朝国家体制
  3. 長岡京遷都
  4. 平安京遷都
  5. 摂関政治
  6. 蝦夷戦争
 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。

794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。
平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。

また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。

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王朝国家体制

 律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。
王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。

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長岡京遷都

 784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、

  • 新王朝創設を中国思想によって位置づける
  • 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
  • 平城京に根強い仏教勢力を排除する
  • 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
  • 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
  • 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
  • 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。

平安京遷都

 しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。
また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。
しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。
現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。

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摂関政治

 摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。
九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。
冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。
この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。

こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。

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蝦夷(えみし)戦争

 平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。
古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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平安京紫(きょうむらさき)#9d5b8b最初のページ戻る次へ
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たじまる 現代-3 領土問題

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領土問題

概 要

目 次
戦後いまだ解決されていない外交問題に領土問題がある。

  1. 北方領土
  2. 竹島問題
  3. 尖閣諸島

以下は、戦後、日本に復帰した領土。

  • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
  • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
  • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
  • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
    にもかかわらず、北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。

1.北方領土


『日本人の歴史教科書』自由社

主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

地理

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。

列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。

生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。

日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

  • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
    この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
  • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
    占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
  • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
    ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
  • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
  • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
  • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
  • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
    同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
  • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
  • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
  • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
    この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
  • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
  • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
  • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
  • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
  • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttps://kojiyama.net/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
  • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
    その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
  • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
  • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
  • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
  • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
    しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
    北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
  • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
  • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。
    また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。
  • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
  • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
    同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
    しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
  • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
  • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
  • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。
    1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。
    フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

2.竹島問題

竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


(島根県)

1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。

日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

経 緯

  • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
  • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
  • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
  • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
  • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
  • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
  • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
  • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
  • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
  • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
  • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
  • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
  • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
  • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
  • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
  • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
  • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
  • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
  • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
  • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
  • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
  • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
  • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
  • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
  • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
  • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
  • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
  • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
  • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
  • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
  • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
  • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
  • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
  • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
  • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
  • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
  • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
  • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
  • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
  • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
  • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
  • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
  • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
  • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。
    日本国外務省
    サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
    以上

3.尖閣諸島

尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

現代-3 領土問題

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

領土問題

概 要

以下は、戦後、日本に復帰した領土。

  • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
  • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
  • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
  • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
    北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。


『日本人の歴史教科書』自由社

主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

地理

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。
列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。
生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。
日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

  • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
    この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
  • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
    占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
  • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
    ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
  • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
  • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
  • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
  • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
    同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
  • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
  • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
  • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
    この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
  • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
  • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
  • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
  • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
  • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
  • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
    その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
  • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
  • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
  • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
  • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
    しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
    北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
  • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
  • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。

    また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。

  • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
  • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
    同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
    しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
  • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
  • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
  • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。

    1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。

    フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。

    ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

    2.竹島問題

    竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

    竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。

    明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

    島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
    竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


    (島根県)

    1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。
    日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

    経 緯

    • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
    • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
    • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
    • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
    • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
    • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
    • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
    • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
    • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
    • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
    • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
    • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
    • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
    • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
    • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
    • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
    • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
    • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
    • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
    • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
    • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
    • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
    • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
    • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
    • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
    • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
    • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
    • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
    • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
    • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
    • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
    • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
    • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
    • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
    • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
    • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
    • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
    • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
    • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
    • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
    • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
    • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
    • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
    • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。

      日本国外務省
      サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
      以上

    3.尖閣諸島

    尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

    同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

    従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

    なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

    また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

    出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他