1.縄文大海進
一万年前頃、ちょうど縄文草創期から、気温がわずかながら温暖化してくると、氷の融解が促進し、海水面が上昇していきます。これは「縄文大海進」と呼ばれています。いま、地球温暖化が地球的規模の大問題になっていますが、今から約6,000年前には、今より1~2度気温が高かったといわれています。そのころの関東地方は、今の沖縄県の気候に近かったそうです。最終氷期が終わって、徐々に温暖化が進んだ結果でした。縄文海進と呼ばれる地球温暖化です。
海面が10メートルも上昇すると、円山川が流れる国府平野以北の流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。豊岡市塩津や大磯町という地名もその名残なのかも知れません。早期や前期の縄文時代の人々は、低平な所で生活を営むよりは、気温が高いのだから、現在の我々が想像するほど寒冷な積雪地帯ではなく、比較的越冬の条件は厳しくなかったのでしょう。日本列島を囲む海面は、今より3~5メートルも高かったようです。日本列島はかなり奥まで海でした。関東地方で言えば、東京湾は埼玉県春日部を通り越して、古河のあたりまで入り込んでいたといわれています。そして、そこには豊富な魚介類が生息していました。各地にある国生みや入り江開墾の神話・伝承は、この地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。
2.寒冷化と海面低下
そのうち、暖かくなりつつあった気温がまたゆるやかに低下していきます。二千年前ぐらいが、その寒冷化の一つの頂点でした。寒地の氷は再び厚さを増し、海面が低下してくる。山岳地帯の植物相も変化し、いままでカシやシイの実の生活に頼っていた縄文人の食生活に変化を強いることになりました。
寒冷化に伴う生活難から、低地へ、北から南へと住民は移動したのでしょう。中期縄文の土器の出土がないのは、こうしたわけでしょう。神鍋の山麓に、永い間にわたって繰り広げられた生活も過疎化の波が押し寄せていきます。
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼります。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されましたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まりました。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存しましたが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消しました。
このように、高地の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。気候がそろそろ寒冷化してきて、海水面が下降してきたために陸化してきた地域です。
戦後の昭和の頃まで、円山川ではサケ・マスが産卵のため遡上していた。支流稲葉川でも、道場付近で漁獲が行われていたという。サケ・マスが遡上する西限は、但馬地方から因幡にかけての地域だった。川を遡上するサケ・マスは簡単に捕獲できるので、海の幸に恵まれ、豊かな生活が展開し、極度に発達した晩期縄文文化地帯が形成されたが、祢布ヶ森からはそのような土器が出土しています。
3.縄文人がやってきた
1万9千年前ごろが、現在に一番近い寒冷期の最寒期で、当時の海水面は今よりおおよそ120m低かったと考えられています。朝鮮海峡は幅約15km、水深約10mの浅く狭い水道でした。この時期、人と動物は陸続きのシベリアから歩いて渡ってくることができたのです。
こうして、日本列島に最初に住み着いた縄文人とは、縄文以前から住んでいた後期旧石器人をが縄文人になったのであり、縄文人が大陸からやって来たのではありません。
古モンゴロイド系であることは調査研究からわかってきました。南方系ポリネシア人と共通の民族です。ポリネシア人の祖(モンゴロイド)は、中国雲南地方(南部)辺りから南下して、インドシナ半島などに定住していきます。今でもポリネシア地方で見られるような、船の横にやや小さい木船が付いたアウトリガー・カヌーと呼ばれる船などであり、せいぜい2、3人乗りの小さな木船だったから、そんなに長距離は無理です。長い時間の間に南下していき、オセアニア(オーストラリア)やポリネシアの島々に渡りました。
そしてまた別のグループは、中国南部やフィリピン、台湾へ、また、対馬海流に乗った別のグループが壱岐、対馬、九州北部や出雲へと辿り着いたのではないだろうかといわれています。
やがて別のグループが、シベリアから北海道、・本州東北部、また、アラスカ(エスキモー)、アメリカ(インディアン)、南アメリカ(インディオ、マヤ、インカなどの文明)へと南下していったのでしょう。
誰だって大陸を後にして、他民族の侵略による避難なのか獲物を追って新たな新天地を求めたのかは分からないが、出航した船団にとって、充分な装備も持たず、ただでさえ心細いのに陸地が見えたら、一目散に上陸したいに決まってる。現在のように地理が分かっていても、飛行機でさえ何時間もかかる移動距離。
まさに命がけの亡命をしたボートピープルです。船団は農産物の種など、これからの新天地での生活に必要な物資も積みながら、まほろばの国、「日本列島」。何日も洋上を航海しながら、飢えに耐え、多くの者は航海中に死亡した者もいたであろうし、彼らの冒険心には本当に頭が下がるのです。(私は少なくとも無理です。
植村直己さんという我が町が生んだ世界的冒険家は、まさに縄文人の血が流れているのではないでしょうか?!すいません)
やがて氷河期は終わり、水位が上昇します。紀元前1万2千年頃から紀元前4千年にかけて約8千年間にわたる海面上昇により、タイ湾から南シナ海へかけて陸地は海底に没してしまいます
4.縄文文化
縄文時代は一万年を超える長い時代なので、その間の文化社会の変化は大きく、一括した縄文文化という言い方が適当でないことが多いのですが、土器形式を基準にして大きく6つに分けられています(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)。各時期の継続年数は均等ではなく、古い時期ほど長い傾向にあります。
縄文文化は日本列島全体で一様のものではなく、土器や生活形態の違いが相当大きいのですが、土器の系統的つながりを見ると、北海道の土器は本州からの流れの支流といってもよい位置づけができ、縄文土器の特徴である縄を転がしてつけた紋様は、北海道で縄文時代を通じて盛んに用いられたのに、宗谷海峡を越えたサハリンではほとんど見られません。一方、南では沖縄本島の土器は北の九州方面の縄文土器の流れを汲むもので、決して中国や台湾から北上したものではないそうです。また、縄文文様は九州や沖縄では見つかっていませんが、したがって、文化的つながりとしては沖縄本島までは日本列島の縄文文化の範囲であったと認められます。
縄文人は特定の場所に集落を構え、それぞれ孤立していて、相互の交流はあまりなかったと想像しがちですが、そうではなかったのです。自然のガラスとして鋭い割れ口を持ち、石器の材料として非常に好まれた黒曜石が、交易によって100kmも運ばれた例は珍しくなく、霧ヶ峰(長野県)の鷹山では黒曜石を掘った鉱山跡が多数残存し、その盛んな採掘を物語っています。日本では新潟県の姫川にしか産出が知られていないヒスイは、装飾品の材料として遠く関東や北海道まで運ばれていました。海の魚の骨が内陸の遺跡で検出されたり、ときには食料まで運ばれたことがわかります。後・晩期には、海水を煮つめて塩を作った遺跡が、関東や東北地方の海岸近くに知られていますが、その製造に用いられた粗雑な作りの土器が海から離れた内陸の遺跡でも発掘されています。
縄文早期の日本の人口は、2万人だったといわれています。
5.日本の文化的起源
日本という思想とは、日本語で展開されてきた思想です。人々が日本列島固有の意識を持ち始めた起源ががどのような様相をとっていたかを知ることは、難しいです。日本の自己意識を持つ人間のあり方は、長く文字を持たなかったために、他者すなわち中国大陸との関わりのなかで、大陸の列島にむける見方のなかに、文字(漢字)に残されることで、最初にあらわれました。
二千六百万年前、原日本海ができ、陸続きであった日本列島の原型が姿を見せたのは、一千万年前でした。その後人類が誕生し、造山・火山活動が活発になりました。氷河時代の中期には沖縄諸島がまず大陸から分離し、ついで列島が大陸から分離しました。氷河期と間氷期がくりかえされ、二万年前とされる最終のウルム氷期に海面が下がり、大陸と列島を結ぶ最後の陸橋が現れました。そのとき、人類動物が大陸から移住してきたとされます。その後再び海面が上昇し、一万八千年前には朝鮮海峡が、一万二千年前には宗谷海峡がひらき、今の日本列島のかたちが定まりました。沖縄諸島が本州や他の島よりも先に大陸から分離していたことは、現在日本とよぶ領域の中での言語・文化の面で沖縄諸島がもつ文化的独自性と深く関わっているといえます。
万物を神と捉えるアミニズムの原点が芽生え、縄文人が墓を造営した様子からは、先祖崇拝の原型が伺えます。縄文人の自然崇拝と先祖崇拝が融合したものが、弥生時代からさらに発展し、現在の神道につながっています。記紀の世界観は縄文時代にすでに土台ができあがっていたといえます。
そして世界最古の土器をつくり、集団の結束と人々の平等性を重視した高度な社会を築いた縄文文化こそ、「日本文明」の起源と呼ぶにふさわしいのです。稲作の開始や弥生文化自体字体、以前よりも時代がさかのぼる見解がいわれています。弥生時代で後述しますが、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。岡本太郎は、縄文文化の美意識の復興を説いています。弥生式土器と比較して縄文式土器は、縄目文様(撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけたもの)の多様な模様が見られることがその特徴に挙げられますが。しかし実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、これは土器型式によって様々です。 縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で、彩色による文様は少ないですが、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達しました。この特徴は、日本周辺の土器にはみられないものです。
縄文土器の形は深鉢が基本ですが、中頃から淺鉢のような器形が現れ、、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様です。信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られました。
6.縄文人はグルメ?
縄文人は、太陽、風、雷、雨と雪、地震や台風などの自然の恐怖は、神々の行いであるとして恐れると同時に敬い、神がいると信じていた。狩猟民族である彼らは、旬な恵みを接収して、家族が一つに寄り添い、人々が助け合いながら暮らし、次の世代へ智慧を伝承していった。いま我々が想像する以上にある意味では豊かな暮らしをしていたのではないだろうか? 多くの動植物と同じく自然に適応しながら進化していった。自然との共生であり、天変地異との戦いであった。しかし、境界線もなく、国という意識もない。まさにボーダーレス社会です。テリトリーにこだわず平和に自由に暮らしていた社会は、今を生きる我々よりもある意味でははるかに文化的で人間らしい生活だったのではないのでしょうか(多分・・・)。
先日パプア・ニューギニアで暮らす人々がテレビの番組(ウルルン滞在記)で紹介されていました。必要最低限の獲物をとり、椰子からデンプンをとって餅のように丸めて焼きます。家族や村単位で仲良く暮らす姿は、縄文時代の人類の暮らしぶりが想像出来ます。
食料の入手は人間が生きるための基本条件であり、縄文人にとっても最も大きな課題でした。動物や鳥の狩猟、海・川・湖での漁労、貝の採集、植物質食料の採集に大きく分けられますが、イノシシの一時的な飼育や有用な植物の栽培も行われていました。地理的に北の地域では狩猟や漁労の占める役割が大きく、南の地域では植物質食料の果たす役割が大きかったと見られますが、もちろん個々の遺跡を取り巻く環境によって生業の形は違いました。
狩猟の最も重要な対象はシカとイノシシですが、その他にも様々なほ乳類や鳥類が獲物とされ、食肉ばかりではなく毛皮や骨角器の材料として利用されました。弓矢が一般的ですが陥穴も広く用いられました。狩の補助に用いるために飼われた犬の墓も各地で発掘されています。
漁労は湖、川、入り江、外洋などの環境や魚の種類に合わせ、網、釣り、ヤス、銛(モリ)などが使い分けられました。縄文時代には氷河時代に浸食された谷の中に上昇する海が入り込んできました(縄文海進)。北海道や東北地方では、秋になると産卵のために群をなしてさかのぼってくるサケが特別な重要性をもつ食料源でした。北海道石狩市紅葉山遺跡で、小川に作られたエリと呼ばれる縄文中期の柵の跡が発掘されています。集中的に捕獲されたサケは干物や薫製などに保存処理して利用されました。
植物質食料としてはクリ、クルミ、ドングリ、トチなどのナッツ類が主ですが、ヤマイモ、ユリなどの根茎類、山菜の類も大いに利用されたでしょう。キノコや海草が利用された証拠もあります。遅くとも縄文前期にはリョウトウ、エゴマ、ヒョウタンなどの有用な植物の栽培が始めらていたことが、福井県鳥浜遺跡の調査などで確認されています。最も重要なのは、クリの木を集落の周りに増やしていくことが行われるようになったことです。青森県三内丸山遺跡の調査では、人が来る前にはブナの林であったものが、人が来ると集落の周りはクリの林になったことがわかります。クリと人の生活が緊密に結びついていたことを示しています。クリの実はおいしく食べやすい食料になるだけでなく、クリの木は耐久性が強く、建築材として最適であり、薪として火持ちが良いので、縄文人にとって最も重要な樹木でした。
後・晩期は、地域によって違いはありますが、停滞ないし衰退の時期と捉えられています。とくに中部高地や西関東の急激な衰退は、その主な原因が植物質食料の減少にあったと思われています。しかし、多くの入り江に恵まれた東関東では海の資源に支えられ、しばらくは繁栄が維持されました。近年、各地で縄文後・晩期のトチの実のアク抜き施設が発掘されています。埼玉県の赤山陣屋遺跡など、谷あいに木を組んで水槽を作り、水を溜めたもので、周辺には貝塚のようにトチの実の殻が堆積しています。トチの実の粒は大きいけれど強い渋味があり、これを除くには水でさらしたり木炭を水に溶かして漬けたりするなど相当な手間がかかります。この時期にはなぜかクリの収穫が減ったようで、それを補うために、当時の環境変化で増加したトチの実の利用が盛んになったようです。
7.お酒の発見
人類がいつごろお酒を知るようになったのかははっきりわかりませんが、世界各地に伝わる「猿酒」の伝説のように、気候が温暖な地方では自然発生的にできた酒に猿が出会い、やがてお酒を自分らの手で造ることを学び、嗜むようになったのでしょう。でも何かの中に溜まらなければ飲めるほどの酒にはならない・・・。ある南の島の伝説にこのようなお話があります。
猿が落とした椰子の実など、木の実が割れてそのまま放って置いたままにしていた。それを翌日猿が旨そうに飲んでいるのを見た人間が恐る恐る飲んでみたら、こりゃ旨い!不思議な気分になって寝てしまった。それを翌日王様に報告し献上すると、王様も飲んでみたらこりゃ旨い。こうした伝説が世界各地に残っています。
木の実の汁や果汁を何かに溜めるために、中国では石器を、また別の国では貝殻や土器を使うようになりました。こうして人類は、液体を容器に入れて保存することを発明したのです。日本でも俗にいわれる自然発酵を応用した「猿酒」が最初のようです。
秋田県池内(イケナイ)遺跡では、ヤマブドウやクワの実と一緒に絞られたニワトコの絞りカスの塊が発掘されました。ニワトコの表面には自然のコウジ菌が繁殖するので、今でもヨーロッパの一部では酒の材料として用いられています。
それを証明するものとして、長野県富士見町の井戸尻古墳で「有孔つば付土器」というう珍しい土器が出土しています。
どうやら中期縄文人たちは、自生した山ブドウやクサイチゴ、サルナシなんかの果物をそのままこの土器に仕込んで、軽くつぶした後フタをして孔(あな)にツルを通し、住居の柱などにくくりつけたのではないかといわれています。
しばらくの間すると液果類は糖分が含まれとるので、「野生酵母」の働きで温度が上昇し、果汁が炭酸ガスとともに吹き上がりますが、中身がこぼれない深さになっていて、主発酵が終わるころには酒も出来あがり、芳しい香りが漂うようになりました(これはブドウ酒などの果実酒造りと同じ原理だ!)。
したがって、縄文中期(紀元前三千年)には酒造りがすでに人間の手によって計画的に行われていたのでないかと考えられるます。また縄文晩期には日本に原生するお米の陸稲作が始まり、米による酒や粟、稗などによる雑穀酒作りが口噛み酒として始められました。
8.自然との共存
縄文時代は1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動も経験しています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったのです。縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなりました。
縄文中期の安定を物語るもう一つの証拠が貝塚です。中期になると東京湾沿岸、利根川下流域などに、集落の形を反映した馬蹄形や環状の貝塚が多数形成されました。貝殻以外に魚や動物の骨、壊れた土器や石器も捨てられました。なかでも東京都北区中里貝塚は、当時の海岸線に沿って500m以上も続き、厚さも4mに達する巨大なもので、土器や石器がほとんど残されておらず、海岸にあるのに魚の骨さえ稀です。海岸で貝の身を殻から外して保存加工するような特殊な作業の跡と考えられています。その貝のほとんどはハマグリとカキという味の良いものに限られ、しかも大型のものだけが選択されているのです。おいしい貝だけを採集するという自然の資源保護の姿勢を見ることができます。
縄文人の狩猟、漁労、植物の採集、その様々な方法を見ると、彼らが日本列島の多様な環境と食糧資源をきめ細かく開発し、その自然によく適応する生活の形を作り上げていたことが分かります。それは自然の営みをよく理解し、乱獲を避け、自然と共存するものであり、できればその資源を増やしていこうとするものでした。このような縄文人の知恵と生き方は現代の我々にも大いに学ぶべき点があります。
9.縄文人の精神
縄文時代には生活に必要な実用の道具以外にも、さまざまな儀礼のための道具と思われるものが作られました。土で女性の姿を表現した土偶は草創期からありましたが、後・晩期に盛んになります。男性性器をかたどった石棒は前期からありましたが、この時期には石剣などの形を生み出し、さらに儀礼に用いられた見られる土面、土版、石版などが大量に作られるようになりました。透谷地方の亀ヶ岡式土器では、さまざまな形が作り分けられ、その表面は複雑な文様で埋め尽くされました。生活に息詰まった縄文人がその打開を願って神に祈ることが多くなったのでしょうか。集団墓地に石組みを加えたストーンサークルや、北海道に見られる墓地の周りを円形の土手で囲った周提墓のような大きな建造物も多くなります。祖先とのつながりを重んじ、その庇護を求める気持ちの表れかと思われます。このような後・晩期のありかたに、縄文文化というものの限界が認められるものであるといえるでしょう。
しかし、目を移して西日本をみると、後・晩期になると増加や拡大など一定の上昇傾向が見られます。土器で見ると初め東日本の影響が強いのですが、やがて文様が質素になり、黒色に焼き上げた表面を磨き上げるものが増えていきます。ドングリや栗は秋の一時期に集中的に収穫される為、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる為、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方もあります。
九州西北部の佐賀県や長崎県のリアス式海岸では、縄文時代を通じて外洋での漁労が盛んな地域でした。シカの角で作った軸の部分とイノシシの牙で作った針先の部分を結びつけた西北九州型と呼ばれる独特の釣り針が作られました。この特徴的な釣り針が韓国の南岸の遺跡で発見されています。また、韓国独特のオサンリ型と呼ばれる結合式の釣り針が九州側で見つかっています。このように縄文時代にも朝鮮海峡を越えての交渉が両方にわたって分布しています。
このように、縄文時代にも九州や北海道では大陸との交渉を示す遺物が発見されています。しかし、弥生時代や古墳時代における朝鮮半島や中国との活発な文化的政治的な交渉から受けた大きな影響に比較するなら、縄文時代における大陸とのつながりはずっと弱いものでした。日本列島の中で独自に育った文化という点にこそ、縄文文化の基本的特徴があるといえます。
縄文文化の伝統は、弥生時代に薄まりながらも、東日本ではやや強く残り、北海道ではさらに強く、そのまま維持され「続縄文文化」と呼ばれるものに移行します。また、南の沖縄でも弥生文化の影響に比べ、縄文の伝統が比較的強く残ったと考えられています。こうして日本列島は大きく三つの文化地域に分かれることになります。
10.但馬の貝塚
円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。
太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。二つの伝説に共通しているのは、円山川が流れる国府平野以北の下流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。「神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点です。
実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのです。縄文時代で書いたように、今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられています(縄文海進)。但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いているそうです。豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっています。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚ですが、現在の海岸線からは十数kmも離れています。長谷貝塚はさらに内陸寄りにありますが、縄文時代後期の貝塚が見つかっています。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っています。縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないでしょうか。
中谷貝塚(なかのたにかいづか)
豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。
長谷貝塚(ながたにかいづか)
豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。 「ナショナリズム」といわれる19世紀に始まった標準化された言語・文化による国民国家。それに対して現在、輸送や通信のシステムが世界規模で整い、距離と時間を越えて互いに関連し合う状況が生まれました。「グローバリゼーション」の波である。グローバリゼーションは、二種類の評価が存在する。一種の進歩、チャンスとする見方で、今後の世界が進むべき方向を示唆する現象と考えられます。「世界市民」という理想は古くから存在したし、国家間の相互依存の強化が、平和構築に貢献するという考え方は古くからありました。グローバリゼーションは、民主主義のような価値が、国境を越えて広がり、実現していくチャンスだと考えることもできます。これとは対照的に、グローバリゼーションを偽装したアメリカ化ととらえる見方もあります。グローバルな基準が、結局は現在政治、経済、軍事的な覇権を握っているアメリカに有利なものとなる傾向があります。文化のような個性を重んじるべき領域でさえ、アメリカ的、もしくは物質・商業的価値が侵略していると考える人々も出てきました。それは結局、世界的に広がる資本主義体制の促進(それに伴う不平等の促進)を隠蔽する、イデオロギーにすぎないのではないか、という批判です。 こうした評価とは別に、グローバリゼーションという言葉を、現在の主な現象として四つのことがあげられます。 第一に、大量の人口移動です。大量の人間が国境を越えて移動する時代になっており、例えば難民問題を計算に入れない国家戦略は難しくなってきています。 第二に、人の移動は、文化の変容を巻き起こします。情報産業や娯楽産業の世界規模での発展が加わり、文化の単位としての国家という考えは大きく揺らいでいます。 第三に、経済のグローバル化があります。国民国家の特徴は、国家政府の統治を通じて国民経済を発展・維持させるという点にありました。雇用や金融、貿易量といった問題に、政府は制御を加えていました。市場のグローバル化は、こうした一国政府の統治能力を著しく低下させました。 第四に、リスクのグローバル化があります。経済のグローバル化は、経済危機のグローバル化を伴います。コミュニケーションの国際的促進は、犯罪のグローバル化を生みました。違法な物や犯罪者の移動を、一国の警察だけで監視することは難しくなりました。現在極めて容易に国境を越えて移動しています。 かつて政党はイギリスの政治学者E.パーカーによって「国家と社会の架け橋」と評されました。またアメリカの政治学者E.E.シャットシュナイダーは、政党を「民主主義的な政治のメーカー」であり、「政党は、単に近代政治の付属物ではなく、近代政治の中核であり、そしてそのなかで決定的にして創造的な役割を演じている」と表しました。確かに20世紀の前半までは選挙制度と並んで代表制民主主義を駆動させるエンジンの一つとして、このような政党を賞賛する声が満ちあふれていました。しかし今日においては、政党に対する不信感が世の中に充満しています。日本における近年の世論調査が示す、時には50%を超える無党派層の存在はその象徴です。 我々が考えてきた政治は、民主主義と自由主義の思想に基づいています。しかし、この二つは同一ではありません。民主主義は「統治者と被治者の同一性」という原理を含んでおり、自由主義は、「公と私の分離」という原理を含んでいます。自由民主主義という政治は、この容易には両立しがたい葛藤を抱え込んでいます。この葛藤は、政府をはじめとする公的領域を、すべての私人が選んだ代表者によって制御するという方法で対処されてきました。そしてこの代議政治の諸問題を解決するために、さまざまな方法が試されてきたのです。 つまり、公と私の区別という、自由主義的な政治観の再検討です。これは言い換えるなら「政治的なもの」と「非政治的なもの」の区別を再考することです。この問題こそ、現代の政治のあり方を考える際にしばしば提起される重要なテーマだといえます。 我々は、「政治的なもの」に関する再検討の必要性を確認したいと思います。 政党の第一の機能は、利益の集約による選挙民の組織化であう。そのままではそれぞれ異なった利害関心を有し、個々バラバラのまま、自分自身や社会の未来に関してどのような選択を行えばよいのかわからない選挙民に対して、市民の中から表出されたさまざまな要求を政策という形で具体化された少数の選択肢として提示し、選挙民の選択に関わる負担を軽減するという役割を担います。第二の機能は、政治的リクルートと政治的リーダーの選出です。政党に所属していなくても無所属という形で誰しもが自由に立候補でき、その首長が多くの支持を得て選挙に勝ったならば、代表として議会に臨んだり、大統領といった政治的リーダーになることが可能です。しかし必ずしも彼らが政治家たるに相応しい決断力、責任感、さらには情熱といったものを備えているわけではありません。多様な国民の中から、政治家として相応しい人物を発掘し、国民に提供するという責任を担っているのが政党です。すなわち、政党は所属する個々の政治家の保証人としての役割を果たしているのです。さらには政党は党内におけるリーダーシップ獲得の競争を通じて、国家の舵取りを担うに相応しい指導者を養成し、国民に提示します。 第三の機能は、政治的社会化です。人は生まれてから政治社会に有権者としてデビューするまでに、ある一定の政治的指向や知識を持つことが期待されています。政党は、街頭演説、パンフレット、ビラ、さらには今日ではホームページ等のさまざまな手段を用いて政治問題に関する情報の提供を国民に行っています。そのことは選択に必要な情報の蓄積に役立っています。ただし、今日においては、政治的社会化を担うアクターとして政党以外に、家族、仲間集団、学校、マスメディア等も存在しています。さらにいえば、政治的社会化の担い手は政党というよりはマスメディアとなっています。 しかしそれは、政治についての情報があまり行き渡っていなかった時代で通用したことです。新聞以上に単純化した形で政治のことを伝えるようになったテレビの普及と共に、新たな反政党論がわき起こったのは偶然ではありません。さらに今日においては、インターネットという新たな情報メディアの発展が市民における政治的情報の蓄積に大きな役割を果たすようになってきています。今まで余り知ることのできなかった政治の世界におけるさまざまな出来事を、以前より容易に知ることができるようになりました。テレビに映し出される居眠りをしている国会議員にとどまらず携帯電話をしたり、無用な揚げ足取りをして党利党略を行う議会、その議員の表情を見ればその議員が何を言っても、嘘かどうかが瞬時に伝わってしまいます。議員数削減が急務であるとか、参議院は不要だ、という声が多いのもわかります。何より諸問題が山積みとなっている現代に、相変わらず提案から審議・可決まで、あまりにも時間がかかる現状の国と行政のシステムを改善することこそが、地方自治体以前に行うべき最大の改革ではないでしょうか。 一般市民の基本的な政治参加である選挙において、中心的な役割を果たしている政党に対して、もっぱらその不満の矛先が向けられるのも当然の話です。国民自らが判断し得なかったことのツケを負わされることに、もはや市民は我慢できなくなったのです。 グローバルなネットワークの形成に国家以外の主体として、NPO(非営利組織)やNGO(非政府組織)があります。こうした公共的な問題に、公共的な仕方で貢献する国会外の組織の重要性が、注目されています。一見私的に見える活動でありながら、その性質上公共的な利益の実現を促進する可能性をもつ、さまざまの自発的な組織や団体を「市民社会」と呼ぶことがあります。それには、NPOやNGOといった言葉が生まれる以前から、各種ボランティア団体、教会、文化サークル、学術団体、労働組合、スポーツ団体、市民運動等といった、さまざまな協同社会が含まれます。 市民社会が注目されるようになった理由の一つとして、1989年の民主革命に結実した東欧の民主化闘争において、教会や労働組合に集う普通の人々のネットワークが、政党に支配された権威主義的な官僚制国家に対抗する、批判的な公共圏として働いたのです。こうした普通の市民が自発的に形成する公共性の可能性が、国家の統治能力の問題性と限界性が指摘されるなかで、再評価されるようになってきています。こうした「市民」論は、代表制によって形骸化した民主主義を再活性化させるものとして期待されています。とはいうものの、市民社会の内部にも権力は存在します。そして市民社会が現実として国家の内部に存在しているがゆえに、活動は間接的に国家の統治を被っています。その限界を考慮に入れつつ、新たな政治の空間として、市民社会の可能性を探っていく必要があるでしょう。 公私の区別に依存する政治は、しばしば現実に存在する対立や抗争を適切な仕方で公的領域に吸い上げず、非政治的な問題として私的領域に封じ込めてしまう危険性があるといわれます。圧力団体や政党、マスコミ等を通じて、議会のような公的空間において論争化されるものだけが「政治的なもの」なのではありません。こうした政治の制度や慣行が無視し隠蔽する問題のなかに、我々が公的に対処するものが潜んでいるのかも知れないのです。公と私の区別は、固定的な基準として考えるべきではない。むしろ、その区別をすることの「政治」に配慮すべきであり、いかなる「政治」を求めているかが問われています。 自由に国境も存在せず環日本海を交易していた古代のアジア。今と比べて文明の進化といったものの以前に、古代の人々がはるかにグローバルな視野を持っていたのではないかと想像すると、この21世紀において「ナショナリズム」と「グローバリゼーション」の対峙は、一種の進歩、チャンスとすると、あまりにも議会や行政の仕組みが波についていけず、時間や財源の浪費以外の何者でもないことにわれわれは癖壁としています。 現在を特に、市民にとって必要なのは、政治に関する想像力、つまり「いまある政治のあり方」以外の「政治」を構想する力である。それは自分たちの生活世界を足掛かりとして、より善い、少なくともよりましな社会をつくろうと、努力することではないでしょうか。 <http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司放送大学准教授 山岡 龍一 国は公正かつ普遍的な統治構造を維持するため、国家全体の運営について画一的、均一的運営を行うことが要請されるが、地方の実情や地方における住民からの要望は各地方によって様々であることからこれをすべて同一に運営することは不可能であり、地方の運営に当たっては地方の独自性を考慮する必要が生じる。 そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、国は国家に係る根幹的な事柄を担当し、かつ、国家全体の総合的な調整を図るという役割分担がなされることになる。すなわち、地方自治とは国による統治に対立する側面を有しており、住民自治と団体自治というふたつの概念を持つ。 住民自治とは地方の運営はその地方の住民の意思によって行われるべきという概念でありイギリスで発達した。地方自治法で認められているもの 直接請求 イニシアティブ(住民発案)条例の制定、改廃請求(第74条) 事務の監査請求(第75条)リコール住民投票が必要なもの 住民は、長・委員会・職員について、違法もしくは不当な公金の支出等があると認めるときは、これを証する書面を添え、監査委員に対し監査を求めることが出来る(242条1項) 住民訴訟(242条の2) 都市圏とは一般に、核となる都市および、その影響を受ける地域(周辺地域、郊外)をひとまとめにした地域の集合体であり、行政区分を越えた広域的な社会・経済的な繋がりを持った地域区分のことを指します。自然、歴史、文化など生活を取り巻く環境を概ね共有し、圏域内に居住する人々が概ね域内に通勤・通学先を求め、医療、買物、公共サービスなど都市的サービスも概ね圏域内で享受できるような地域的まとまりのことです。例えば、新しい国のかたち「二層の広域圏」を支える総合的な交通体系最終報告(2005.5、国土交通省)では、人口規模30万人前後、時間距離で1時間前後のまとまりを目安とした圏域としています。 車社会化が発達した20世紀末には、中心都市の市域を大きく超えて生活圏が形成されるようになり、21世紀になって「平成の大合併」と呼ばれる広域合併が行われました。しかし、アメリカでは都市圏について公式に定められているそうですが、日本においては公式の定めはありません。兵庫県但馬地方は、豊岡都市圏(経済圏)を形成する兵庫県北部の中心都市です。豊岡市の人口は86,895人(推計人口、2008年7月1日)、697.66k㎡となり、豊岡都市圏は11万8565人です(10%通勤圏:毎日の決まった人の移動に注目した都市圏。周辺市町村の定義は、通勤・通学者数の割合が10%以上としています。)。 北近畿では舞鶴市90,121人、342.15k㎡、福知山市80,302人、552.57k㎡。福知山都市圏は、福知山市全域と、綾部市全域、京丹波町の一部、丹波市の一部を指す。兵庫県の丹波市や周辺市町村からの通勤や買い物客も多く、2000年現在で13万6096人で北近畿最大。豊岡都市圏、舞鶴都市圏と並んで北近畿の中心的な都市圏となっています。舞鶴都市圏は、舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部などを含み、その都市圏人口は約12万人。 これに福井県嶺南地方を含めて北近畿開発促進協議会が昭和62年に発足しています。地域の歴史を検証すると、この4地域は古来より風土・文化面で交流がさかんであり、鳥取豊岡宮津自動車道の早期開通などに総合整備が進められています。 10万人以上の都市雇用圏(2000年国勢調査時点の10%都市圏。アメリカでは都市圏について公式に定められているが、日本においては公式の定めはない) 「10%通勤圏」。金本良嗣、徳岡一幸両氏が「応用地域学研究」(2002) で、DID(Densely Inhabited District:人口集中地区)人口を利用して中心地域を決め、その地域の雇用求心力を基準に設定された都市圏。 平成17年4月1日、豊岡市、城崎郡日高町、城崎町、竹野町、出石郡出石町、但東町の1市5町が対等合併し誕生しました。新しい市章はとよおかの「と」とコウノトリがはばたく姿をイメージして一般公募によるものです。 豊岡市の隣接する自治体は、兵庫県では養父市、朝来市、香美町、京都府では京丹後市、福知山市、与謝郡与謝野町。豊岡市は、日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、コウノトリの保護・繁殖・共生の事業が行われています。また、城崎温泉、但馬海岸、城下町出石、神鍋高原等観光資源も日本海から高原まで豊富です。日本海に面しているところでは海水浴場や海の幸、山ではスキー場、また城崎温泉があるなどレジャー施設が非常に多く、但東町は日本標準時間である子午線(統計35度)が通過し、豊岡市は、日本一のかばん(バッグ)の生産地として広く知られています。 合併後の豊岡市は、兵庫県内で最大面積を占めます。ちなみに兵庫県で豊岡市に次いで面積が広い神戸市は、豊岡市合併までは県内最大の面積:552.23平方キロ(※境界未定部分あり)、総人口:1,533,172人、人口密度:2,780人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)でした。東京23区の総面積:621平方キロ、人口:8,727,326人、人口密度:14,043人/平方キロに対し、豊岡市は、面積:697.66平方キロ、総人口:86,873人、人口密度:125人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)です。 とくに兵庫県は、政令指定都市神戸市を県庁所在地として、5つの旧国から構成されています。それが多彩なカラーを持ったユニークな県として成立しています。しかし、但馬地域から県庁の神戸市までよりも、大阪・京都へのアクセスが便利で、鳥取・福知山・姫路の方がさらに近い土地柄です。日高町の場合、かつて昭和大合併で旧気多郡内の6つの町村(日高町・国府村・八代村・三方村・清滝村・西気村)が昭和に合併し新日高町になりました。ほぼ一つの郡域が一つの町になったことから、但馬の市町の中でも面積は最も広いですが、大部分を山林が占めています。それぞれ旧町村は、それぞれの地区単位の公民館、小学校校区として残っています。 豊岡市は旧豊岡市(町)しての機能もあるのと同時に、かつての郡・広域自治体として共同自治を行っていく必要があり、それはかつての出石・城崎郡役所が置かれていた機能とどう違うのかが分かりづらいのではないでしょうか。かつて郡役所が廃止されたのかは、二重行政の簡素化にあったといえるでしょう。新豊岡市は、こうした複雑な二面性を兼ね備えた自治を問われることになるのではないでしょうか。それは、規模は異なりますが、東京都における特別区、大阪府における大阪市など全国の自治体も同様ではないでしょうか。 このように広域なため、旧市町間の疎通はあまりなく、緊急体制に時間を要するようになるのは必至で、政府が進める機能集約化と地域住民の利便性は矛盾するものであって、少子高齢化が進む中において役場機能の集約化による旧町の衰退、医療、買い物等の不便さは増しており、今後合併後の広域行政のあり方には多くの問題点を含んでいると思えます。 政府(総務省)の特例法による平成の合併を考えるとき、国→地方自治体という流れで効率を追い求めては行けないと思います。車で移動する手段がない時代までは、小さな村社会がコミュニティを形成して、それは閉塞的な面はあるが、しかし、少子高齢化が進む中で、歩いて生活できていた各区の、隣保のコミュニティの機能が、相好援助の細やかな自治機能が守られていたのではないでしょうか。日常の疎通が希薄になっている昨今、果たして合併という効率化の方向がまったく正しいひとつの手段だとは思えないのです。 各地域がそれぞれ培ってきた伝統・文化は、長い歴史の中で改めて自然に、必要、必然的に生まれてきた、最も合理的でベストな経過でもあるのではないでしょうか。その最も小さなコミュニティ社会である村を基本に大切に守り育てこそ、町が成り立ち、県、州、それぞれの役割をしっかりと機能を果たせるものにしながら、国が形成されるのではないでしょうか。 歩いて生活できる範囲、目の届くエリアこそがムラが生成された生活の根本です。それは省エネ、コミュニケーションでもあり、合理的な智慧であったのではないのでしょうか。国が出来て村が生まれたのではないからです。まず人が集まりはじめ、村が発生し、小国家が生まれ、国が生まれたのです。小さなコミュニティでできることは小さな単位で、できないことは大きな単位で。それが機能的、合理的な役割分担社会の地方自治の基本であるといえるであろう。 合併は、地理歴史や交通体系、住民の生活圏が異なる複数の地域を併せ持っている市町村で実施されることが一般的です。第二次世界大戦中に国策で合併した町村が戦後に再分離されたり、昭和の大合併で合併した町村が、新市町村内の対立で分離されるといった例がありました。農協の合併、市町村合併、郵政事業、医療制度など、必ずしもデメリットばかりではないと思いますが、果たして合併は本当に正しい方向に向かっていくのでしょうか。 欧米では市町合併はそんなに進んでいません。イタリアでも行政の合併が図られていますが、町の数は中世からあまり変わっていないようです。大きく異なる点は、議会や行政を専業ではないボランティアで行ったり、地域に合ったさまざまな行政体が存在するようです 出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 さて、いま「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。 道州制を考える際には、「現行の都府県より広域の地方公共団体をどう設置するか」が論議される事になります。道州制の論議は今に始まったことではなく、明治維新までにおける、現行の都府県より広い地域を統治した広域行政体やその範囲の変遷は、大雑把に以下のようになっています。 まるごと北近畿北近畿広域観光連盟の画像をお借りしています。 律令制の「山陰道」として丹波・丹後・但馬という地域をもう一度考察してみたいと思います。古くから日本海側に出雲から北陸にかけて朝鮮半島との交流文化圏を形成してきました。また、都に近い(近国)ために大陸との経由地点として交流がさかんでした。 したがって、古代には若狭・丹後・但馬・因幡、さらに出雲・越国も含めた広域な出雲文化圏を形成していました。歴史風土的に似た面が多く、また、若狭・丹後・但馬は、五畿(山城・大和・河内・和泉・ 摂津)との影響も受けやすい近国と位置づけられ、独自色が薄く強固な基盤を持ちにくいといえます。 廃藩置県後、若狭は当初滋賀県に、のち福井県に、丹後・丹波・但馬は豊岡県に、のちに丹後・丹波(北東部)は京都府に、但馬・丹波(南西部)は兵庫県にとそれぞれ分かれており、交通面で山陰本線でも横との直通運行はなくなり、連携は少なくなっています。 仮に道州制が施行された場合、福井県の所属について地方制度調査会(所在地:東京都区部)による区割り案は、9道州の場合は関西州に、11道州及び13道州の場合は北陸州、また、「熱論・合州国家日本」に掲載されている区割り案では、大前研一案が北陸道、平松守彦案が関東信越州、江口克彦案が信越北陸州とされている。 明治初期には約4年半の間、嶺北は石川県、嶺南は滋賀県だった。 2006年3月1日、河瀬一治・敦賀市長は、新年度当初予算案発表会見の中で道州制について触れ、以下のように発言した。 近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。 2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。 2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。 また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。 近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。 2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。 2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。 また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。 出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 明治憲法は、地方自治に関する規定は存在せず、あくまで国の行政の一環として地方行政があるという位置づけでした。しかし、市町村には一定の自治が認められており、大正デモクラシー期には地方自治の拡充という動きもありましたが、それら市町村は、国の地方機関としての都道府県下に置かれるものであって、本来的な意味での地方自治が達成されていたとは言い難いものでした。 これに対して1946(昭和21)年に公布された新しい憲法は、第八章に地方自治の章を設け、国家体制のなかで明示しています。憲法のなかでは「地方自治の本旨」がうたわれ、さらに1947年には「地方自治法」が施行され、府県知事は官選から公選に、また府県の役割自体も広域自治体としての性格を持つようになりました。 その一方で、自治に「不慣れ」な市町村に対する中央省庁の不信感も根強く、いかにして地方をコントロールするかが大きな問題となっていました。こうしたなか、各省は国の事務権限を都道府県から引き上げる方針が明らかにされたことをきっかけに、その妥協の産物として都道府県知事や市町村長などを国の機関と見なして国の事務を行わせる、「機関委任事務」を多用するようになりました。これ以降、1990年代に地方分権改革論議が高まり、機関委任事務が廃止されるまで、機関委任事務は、国の地方に対する重要なコントロールの手段として用いられることとなりました。 1949年に提出された「シャウプ勧告」は、地方公共団体の財政的基盤を強化することをめざして以下の三つの原則を示しました。その内容は、国庫補助負担金の大幅整理、税源分離原則、のちの地方交付税の原型というべき「平衡交付金制度」などからなるものでした。 実際には、シャウプ勧告は、日本の実情に合わないとする中央省庁の強い反発にあい、その内容が反映されるのはごく一部にとどまりました。また市町村優先主義の明示は、戦前に地方行政の機関として機能してきた都道府県の反発をも招きました。 やがて1952(昭和27)年、講和条約により日本の再独立が認められると、こうしたシャウプ勧告に示された方向性は転換されました。そして1956(昭和31)年に改正された「地方自治法」では、都道府県と市町村の指揮監督の関係が明確にされ、終戦直後に目指された市町村を中心とする地方自治を構築しようとする試みは、いったん閉ざされることとなりました。こうした動きが再燃するのは、1990年代の地方分権議論に際してでした。 「政治学・行政学の基礎知識」 著者: 堀江湛・真下英二 膨大な借入金残高を抱えるなど、現在、日本の地方財政はさまざまな問題を抱えていることが指摘されています。そもそも戦後日本の地方財政は、自治体の税収が歳入全体の三割程度にしかならないことから生まれた「三割自治」と言う言葉に象徴されるように、憲法に保証された自治を可能にするための基盤が極めて弱い。シャウプ勧告は市町村財政の基盤強化を唱えましたが、中央省庁や都道府県の反発により頓挫した経緯もあり、地方公共団体の中央への財政的依存度は非常に高いものです。 国や地方公共団体の活動のための歳入の基本となるのが「国税」及び「地方税」です。2001年度の国民が負担する租税のうち約六割にあたる約50兆円は、国の財源となる国税です。これに対し同年度の歳出は、国と地方の歳出純計額約160兆円のうち、地方は約96兆円と、国の約1・5倍になります。つまり、地方は収入が少なく支出が多い状態にあるわけです。地方公共団体が活動するためには、国から相当の財源移転を行わなければならないわけです。 地方公共団体の主な財源は、地方公共団体の税収である「地方税」と、国税として徴収され、一部または全部が一定の基準で地方公共団体に譲与される「地方譲与税」「地方特例交付金」「地方交付税」「国庫支出金」、さらに借金にあたる「地方債」です。 このうち「地方特例交付金」や「地方交付税」は国からの財政移転ですから、地方独自の収入となるのは「地方税」と、実質的に地方税とほぼ同じ性格を持つ「地方譲与税」です。そして地方公共団体の歳入のうち、これら財源が占める割合は、平均で三~四割程度に留まっています。つまり、必要とされる財源のうち六割は、国からの支出や借金に頼らざるを得ないということになります。 「国庫支出金」は、いわゆる補助金で、公共事業や義務教育など、地方公共団体が行う特定の事務や事業に関わる経費について、国がその使途を指定して支給するもので、地方公共団体としては、獲得するために特定の事業を行ったりするために地方行政が硬直化する可能性があります。また、地方行政体制の縦割り化を促進することにもつながります。 「地方交付税」は、富裕団体とそれ以外の団体との格差をなくそうとするもので、使途も限定されていませんが、財源の乏しい地方公共団体ほど多額の交付税を公布されることにつながり、地方が自助努力によって収入を増やそうとする意欲を失わせてしまうとの批判もあります。 これら国からの支出に、歳入の六割を依存している現状では、地方公共団体の活動に一定の裁量権が与えられたとしても、これを自主的に実施できる可能性は大幅に低下します。その結果、地方公共団体の活動は、財政を通じて国のコントロールを受けることにつながっていると考えられています。 明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。 次ぎのような大きな流れを経ています。 ただし小規模町村であっても、原発等の電力事業等の交付金等により、地方交付税への依存度が低い町村の合併は進みませんでした。平成の大合併での市区町村数の変化は、東京都が63から61に、神奈川県が37から33市にしか減らず、都市部における合併が進まなかったのに対して、新潟県が112から31、富山県が35から15になる等、地方と呼ばれる地域の合併促進の要因となりました。 市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。 その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められている。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。 政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。 これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。 反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。 もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。 以下にメリット・デメリットを記載するが、規模等により大きく異なることがあるので、あくまでも一般的なものである。 * 端々の地域が寂れる庁舎の存在する地域は市町村の目も届き、各種事業が実施される。しかし、周辺部においては強く事業実施を要望しても、取り残されることはほぼ確実であり、中心部と周辺部の格差が拡大しがちである。また、それまで行なってきた地域づくり活動が継承されず、その成果が省みられなくなってしまう。例えば、2005年に合併した北海道の(新)石狩市では、南北に細長い地形と住宅密集地が南部の地区に集中していることも相まって、北部の旧厚田村(今の同市厚田区)や旧浜益村(今の同市浜益区)で顕著である。 ひいては、従来の歴史、文化、各種伝統行事といった地域の特徴が失われる恐れがある。地区出身の町村職員が自発的に地域文化を支えてきた面も一部にはあり、これら職員が本庁に吸い上げられることによって、担い手が確保できず消滅することになりかねない。 * 市町村行政と地域住民との距離の拡大行政組織が大きくなって、また議員の数も減少し、地域の住民の意見が市町村行政に届きにくくなる。また、行政の広報委員としての役目の他に、地域と市町村行政との実質的なパイプ役となってきた区長等の地区役員制度も都市部の様式に統一されることによって、機能が削がれる恐れがある。合併により誕生した岐阜県の新・高山市や同県の飛騨市が顕著な例である。 * 行政サービスの低下役所や公共施設への距離が遠くなり、不便になる。効率化によって、行政サービスが高度化するとはいえ、それらは長期的に効果発現するものであり、また直感的には感じられにくいものである。また、分庁舎方式で各旧自治体役場に各部署を分散させる方式を採った場合、申請や手続きの度にその部署を有する遠く離れた分庁に足を運ばなくてはならない。 * 住民・事業所負担の増大町村から市に移行する場合、今まで安かった公共料金が合併で大幅に値上がりしたりなど税等の住民や事業所の負担が増大することがある。例えば、函館市と合併した南茅部町、椴法華村、恵山町、戸井町では水道料金が大幅に値上がりし、ゴミと託児所が有料化された。 * 意見が通らなくなる比較的大きな市と小さな町村が合併した場合、両者の産業の種類に大きな差があると、小さな町村の産業は無視される。また、市長選挙でも大きな市ひとつの人口が他の町村の人口を上回ることがよくある。市議会選挙においても同様で、当選には旧町村議会とは比べものにならない票数を必要とするため、旧町村内で候補者を調整しても、数名の議員しか当選させられず、議会の主導権は完全に旧市側に握られる例が多い。また、選挙日の事務効率化で合併により開票所までの距離が遠いことで繰上げ投票時間を設定する必要が出てくる。 例えば、石狩市は石狩市と厚田村と浜益村が合併して誕生したが、旧石狩市は札幌のベッドタウンと商業港の町だったのに対し、厚田・浜益両村は漁業を中心とした村である。石狩市の人口は両村合わせた数の10倍以上であり、両村の意見はほとんど通らなくなる。 日本の中央地方関係について、その特徴を「集権的分散システム」と表現することがあります。実際、地方財政は国庫に、つまり中央政府による地方への財政移転に大きく依存しています。これは中央政府よりも地方政府の歳出額の方が圧倒的に大きいことを意味します。それに対して、歳入額は、税制上地方が受け取る金額は少なくなっています。 米国の場合、連邦政府が税財源を持ち、州や市、郡もそれぞれ税財源を持っており、必要な予算を賄う際には、一定の要件を満たせば、税率を変更することができます。これに対して、日本では多くの税財源について国、中央政府が一括して国民からの税金を集めるシステムになっており、国を介さずに地方へ直接納められる税金は限られています。 このように国に一旦税金を集め、それを配分していくシステムはある意味で集権的であるといえるでしょう。 歳入の自治において、自治体は制約を受けており、各自治体は歳入の規模と内容を自ら決定することができません。つまり、自治体には「課税自主権」がないため、たとえば福祉を充実させるために、あるいは財政的な苦しさを理由に税率を上げたいと考えてもできないことになります。さらに、特別な税を自治体が独自に課そうとしても、中央政府の承諾なしには実施することはできません。 また、自治体からみると、歳入は「自主財源」と「依存財源」の二つに分かれますが、そのうち地方税は自主財源、地方交付税は依存財源にあたります。これらは地方自治体の一般会計に入るので、何にいくら使うかは自治体が決めることになります。これに対して、「国庫支出金」とよばれる補助金があり、これは各省庁が自治体に対して国が指定する業務を行わせるために配分される予算です。この他にも、予算の不足を補うために地方債という債券を自治体は発行しています。このように地方自治体は国の支持を受けることが多くなっているわけです。 地方分権一括法制定前 1990年代半ばから、こうした状況を改善すべく地方分権改革が本格化し、1999年「地方分権一括法」という法律が制定され、翌年4月に施行されました。これは均衡の原則よりも自治の原則を、より重視した内容です。この際に設置された、有識者などからなる地方分権推進委員会は、中央省庁による「縦割り画一的行政システム」をなくして住民主導による行政システムに改めようという結論を出しました。 この法律が施行される前の時代の地方自治制度についてみてみますと、一言でいえば、自治体の仕事の大半が国の仕事を肩代わりすることで占められていました。当時の自治体の事務には、公共事務、団体委任事務、行政事務、機関委任事務がありました。 そして、この機関委任事務が都道府県の仕事の80%、市町村の仕事の40%を占めていました。つまり、選挙で都道府県知事や議員を選んでも、実際に彼らは住民を向いて仕事をしなくなります。霞ヶ関に対して責任を負い、国から言われた通りにやっているかどうかが問われるからです。そうすれば、国から国庫支出金をもらうことができ、財政的にその自治体は維持されることになります。これが地方自治の問題の一つといわれてきました。自治体に委ねられた仕事の大半が中央省庁に決定権があり、自治体としての仕事と国の下部機関として行う中央省庁の仕事(機関委任事務)が融合しており、これを「集権融合型システム」と呼んでいました。 機関委任事務の廃止と法定受託事務、自治事務 機関委任事務を廃止しようという機運が1990年代になって高まり、やがて地方分権一括法の制定、施行にいたり、機関委任事務の見直しが行われました。 具体的には、機関委任事務の全704項目のうち、事務自体廃止となったのが11項目、国立公園の管理のように国の直接執行事務になったものが20項目、飲食店の営業許可や病院開設許可など、これまで国の事務だった398項目が「自治事務」として自治体、特に都道府県レベルの事務になりました。そして、これまで通り国が責任を負うもの、効率性、利便性を考慮して都道府県に処理を委ねられた事務が275項目あり、これを「法定受託事務」としました。これは以前の機関委任事務と似た性格を持つ項目といえます。公共事務、団体委任事務、行政事務も廃止され、自治事務に統合されました。 法定受託事務は、機関委任事務と似ているものの異なる点は次の三つです。 このように自治体の自助努力が促されない財政調整制度によって、より大規模な財政移転を迫られている国の財政が圧迫され続けています。そこで、国の負担を軽減するとともに自治の原則をより重視して自治体の財政基盤の強化を図るために、まず、自治体同士の合併が促されることになりました。つまり、財政規模が大きくなればより安定し、さらに首長や議会は一つに統合されるなど自治体経営も効率的になるという考えからです。 それまで100万人前後が目安となっていた「政令指定都市」は、70万人規模でも認められることになり、静岡市がその例として挙げられます。また、人口が30万人以上で面積が100平方キロ以上の自治体になると「中核市」ななることができるとし、旭川市、青森市、宇都宮市などが認められました。人口20万人以上の自治体は「特例市」に指定されることができるとし、盛岡市、福井市、鳥取市などが指定を受けました。 しかし、自治体への権限委譲の内容をめぐっては、地方分権推進委員会とそれに抵抗する霞ヶ関との折衝の末、政令指定都市や中核市、特例市になっても、さほど大きな権限が自治体に与えられませんでした。このように、地方分権一括法や大都市への権限委譲という過渡的処置では限界があったため、小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。これは、国から地方への補助金削減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直しの三つを一度に行おうというものでした。具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。 また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。 しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。 削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。 「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。 出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 日本の市町村の廃置分合とは、日本における市町村の分割・分立・合体・編入をいいます。地方自治法第7条の「市町村の廃置分合または市町村の境界変更」の一形態に当たる。 合体と編入とは合わせて合併といわれるため、合体・編入がほとんどである市町村の廃置分合は、一般には市町村合併といわれることが多い。 日本では過去、1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年の71,314から15,859に減少した「明治の大合併」と、1953年の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年を経て1961年までに9,868の基礎自治体が3,472に減少した「昭和の大合併」の大規模な市町村合併がありました。現在は日本では過去、1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年の71,314から15,859に減少した「明治の大合併」と、1953年の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年を経て1961年までに9,868の基礎自治体が3,472に減少した「昭和の大合併」の大規模な市町村合併がありました。現在は「平成の大合併」が進行中です。 日本では、明治以降、大局的に見れば市町村数は一貫して減少する傾向にあり、合併の例が分割の例に比べて圧倒的に多い。また、合併や分割の協議の決裂により、飛地が発生する場合もあります。 「地方自治」という言葉は、元来、日本語ではなく、Local Self-Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentという英語を訳したものです。意味は、まさに自分たちで自分たちを統治する「自己統治」を意味します。米国では日本のような地方交付税制度はなく、義務教育をはじめさまざまな地方自治体による行政サービスの多くが地元の負担で行われています。これに対して、日本では中央政府が地方税に関して標準税率を定めており、課税については自治体側には決定権がほとんど認められていません。また、米国では消費税率は州によって異なり、独自に税金を課すこともできます。そのため、税負担が重くても行政サービスが良い自治体もあれば、その逆の自治体もあります。それが、自分たちがどういう自治体にするかを自分たちで決めることができるという、自己統治の意味になります。 地方自治を担うのが「地方公共団体」であり、この地方公共団体にはさまざまなレベルのものがあります。まず基礎的な地方公共団体としては、「市」「町」「村」があり、それは国、都道府県に対して末端に位置づけられる基礎的な行政単位となります。このような基礎自治体の上にあるのが市区町村を包括する広域の自治体で、都道府県になります。これらを合わせて一般に「普通地方公共団体」と呼びます。 「普通地方公共団体」の他に「特別地方公共団体」と呼ばれる自治体があります。東京都の23区がそうで、「特別区」といいます。東京都はかつて東京府であった時代には東京市が置かれ、郡・町・村の呼称を廃し、6の大区の下に97の小区を置き、「大区小区制」が敷かれました。1943年(昭和18年)1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され、同年7月1日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置されました。都下の各区は特別区と呼ばれ、「特別地方公共団体」に含まれます。区長や区議会が設置されており、政令指定都市の中に設置される区とは区別されます。政令指定都市の区は、基礎自治体が設定して行政区分であり、区長は選挙で選ばれるのではなく、市長が任命した職員が就いています。特別区は都道府県の市町村と同格といえます。 一般的に、国家の行政組織を階層別に分けると、「基礎自治体(市町村役場など)<広域自治体(県庁、州政府、地方王国政府など)<中央政府(連邦政府)」の順で大きくなる。底辺ほど数が多く、広域になるに連れて少なくなる。 都市や村落、即ち「点」「コミュニティー」を範囲とする地方公共団体を基礎自治体といいます。単位系では、都市を市、村落を村として分ける場合もあるが、「○○市」「○○村」を区別しない場合もあります。尚、「○○市」「○○村」を区別せずに一括する国家は、ヨーロッパに多く見られる。 県や道(州)など、広い範囲を治める地方公共団体や、複数の基礎自治体が集まって構成される地方公共団体を、広域自治体といいます。「面」「エリア」の概念となる。 単位の種類には、郡、県、道などがあります。規模は「郡<県<道」の順に広くなり、県は小さな広がりを、道は大きな広がりを指す。規模が大きく異なる為、県規模と道規模の行政区画を区別する事が多い。 尚、県や道などとは別に、基礎自治体同士の広域連合体が結成される事もあります。この場合は、「○○広域連合」のような一部事務組合の形式を採って、一部の案件を広域連合体に移して実施する事例が見られる。 「特別地方公共団体」には、特別区の他に「組合」や「財産区」、「地方開発事業団」があります。消防組合や清掃組合がその例としてあげられます。たとえば、現在、日本には1800の自治体がありますが、各自治体がすべて清掃工場を持つことは不可能なので、近隣の自治体同士で連携して一つの清掃組合を持ち、広域で清掃事業を運営するというやり方をとるのです。また、財産区というのは財産ないし公の施設の管理や処分、廃止のために設けられ、地方開発事業団は地方公共団体の間の公共開発事業の実施主体として設けられています。 地方自治の理念は、二つの原則から成り立っており、その相対する原則によって地方自治が直面する重要な問題が生じています。 一つ目の原則は「自治の原則」であり、これが本来の地方自治の考え方です。つまり、自治の原則により、地域的なサービスは地域の自己決定と自己負担の原則に基づいて供給されるべきものであると考えられます。これは第二次世界大戦後に日本に入ってきた考え方で、それ以前の時代では地方自治はなかったといっても過言ではないのです。たとえば戦前の知事の決め方は民選ではなくて官選でした。 もう一つの原則は、「均衡の原則」です。国民はどこに居住していようとも、同一水準の税負担で同一水準の行政サービスを享受できるようにしようと言う考え方です。たとえば、公教育は1学級最低40人ということが、均衡の原則によって守られてきましたが、最近では義務教育に対する国庫負担の削減に伴い、自治体の裁量権が増え、財政的に余裕のある自治体は少人数学級で教育を行ったりしていますが、一方で、財政的に苦しい自治体でも自力では行政サービスを行うことができない自治体があるため、国がその財源を補助する仕組みになっています。 このように自治の原則と均衡の原則はどちらも立派な考え方といえますが、理念的に両者は矛盾しているメンがあります。つまり、自治の原則に従えば、当然自治体が独自性を発揮することが期待されます。しかし、均衡の原則に従えば、そうした独自性よりも画一性、均質性が重視されます。そうした対立する二つの原則の間でこれまで日本の地方自治は運営されてきたわけです。 ここで日本の集落や基礎自治体である村(むら、そん)の歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。村は、集落や基礎自治体の一種で、第一次産業(農林漁業)に従事する者が多く、家の数と密集度が少ない地域を指す名称です。邑や邨とも書きました。社会学や地理学では村落といいます。 町(ちょう)は城下町などの第二次産業(商工業)が密集した地域。または市(都市)。 近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であり、複数の集落の統合体であることが多かったのです。惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)ともいいます。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅ)といいました。中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田(みょうでん)を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町を単位としてきました。中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する名(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属してきました。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。 しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていいました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されてきました。) 南北朝時代の全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していいました。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)が形成されることもありました。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現した。また、畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成されたが、これを郷村(ごうそん)といいます。なお、関東においては、惣荘や惣郷の存在について確認されていないが、特殊な事例であるが、香取文書には、下総国佐原において、それに近いものが存在していたことが書かれている。 室町時代には、守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加した。惣村は自治権を確保するために、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていいました。そして、惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れました。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされる。 戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていいました。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もありました。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。 惣村が支配者や近隣の対立する惣村へ要求活動を行うときは、強い連帯、すなわち一揆を結成した。一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味を持っており、参加者が同一の目的のもとで、相互に対等の立場に立って、強く連帯することが一揆でありました。 惣村による一揆を土一揆(つちいっき)というが、土一揆は15世紀前期に始まり15世紀中期~後期に多発した。土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよい。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。戦国時代に入り、戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣村の自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生も次第に減少していいました。 江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承してきました。また、江戸時代の百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層を指した。都市部の自治的共同体の単位である町(ちょう)に相当しますが、村か町かの認定はしばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かったようです。 明治に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進されました。 こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができましたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいいます。 惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合してきました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としてきました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていいました。 惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟(そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもありました。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴があります。(検断沙汰も参照。) 荘園領主や地頭などへの年貢は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味してきました。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていいました。 惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られました。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいいました。 近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、現在でも地方自治法の第七章「執行機関」第四節「地域自治区」(第202条の4~第202条の9)として旧自然村に相当する単位での自治が法律上認められています。また、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面があります。 明治維新後も江戸時代からの自然発生的な地縁共同体としての町村が存在し、生活の基本となっていました。当初、明治政府はこれと無関係に大区小区制を敷きましたが、住民の反発が大きかったことから、1878年(明治11年)に郡区町村編制法を制定し、町村を基本単位として認め、郡制及び5町村程度を管轄する戸長役場を置きました。しかし、府県、郡役所、戸長役場、町村という複雑な4層構造になってしまったため、行政執行に適した規模の町村の再編が必要となりました。 やがて明治政府は、1888年(明治21年)に市制及び町村制を公布するとともに、内務大臣訓令で、各地方長官に町村合併の推進を指示しました。これに基づき強力に町村合併が進められた結果、町村数は、1888年(明治 21年)末の71,314から1889年(明治22年)末には15,820となり、約5分の1に減少しました。このときは、おおむね小学校1校の区域となる、約300戸から500戸が町村の標準規模とされました。 明治の大合併を経て、地縁共同体だった町村は、近代的な意味で地域を行政統治するための地方公共団体に変貌することとなりました。しかし、大きな合併を経ていない小規模町村においては、現代に至るまで江戸時代からの地縁性が残っており、欧米と比較したとき、その地方公共団体と江戸時代からの自然村的な集合体との二重性が日本の町村の特長となっています。 第二次世界大戦終戦後、1953年(昭和28年)10月頃から1961年(昭和36年)6月頃にかけて、昭和の大合併と呼ばれる大規模な市町村合併が実施されました。 戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生関係などが、新たに市町村の事務とされ、増大した行政執行の財政確保のために、市町村を適正規模に拡大することが必要となりました。 このため、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、新制中学1校を管理するのに必要な規模としておおむね8,000人以上の住民を有することが標準とされました。さらに「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(昭28年10月30日閣議決定)の達成のため、1956年(昭和31年)に新市町村建設促進法が施行され、全国的に市町村合併が推進されました。 1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行から、新市町村建設促進法を経て、1953年(昭和28年)10月に9,868あった基礎自治体が1961年(昭和36年)には3,472になり、約3分の1に減少しました。 1965年(昭和40年)に「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)が制定されたが、この時期にも合併ブームが起こりました。 高度経済成長期には、「大きいことは良いことだ」が流行語となり、首都たる東京都区部への人口の流出も重なって、地方の市町村では、岡山市・倉敷市・富士市などの地域拠点になることを目指した合併や、新産業都市の指定を目指して平市・磐城市など14もの市町村がいわき市になるなどの大規模な合併も行われました。 また、高度経済成長期には、山間部の過疎が進行したため、隣接する都市が山間部を取り込むという動きもありました。静岡市などがそれに該当します。 また、市制施行のための人口要件が緩和され、鴨川市・備前市・東予市など、人口3万人以上での市制施行を目指した合併も行われました。 -出典: 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 地域社会(いわゆる「ムラ」)の統治については古代より、国家の成立以前から行われているところであるが、これは現代の国家においても国家全体の統治構造の基礎となっている。 国が地方を統治する方法としては官治(国が国の機関において直接運営すること)及び自治(意味合いは既述)のふたつの方法があり、中央集権型国家においては官治、地方分権型国家においては自治に重点が置かれた統治がなされます。 しかしながら、個別具体的かつ複雑な地方の統治、運営を全国的な視点をも踏まえつつどちらか一方の方法によりのみ行うことには限界があり、それぞれの国においては官治、自治をそれぞれの国の実情に応じてバランスを保ちながら統治構造を構築している。日本国憲法 日本の地方自治については日本国憲法第8章において定められている。 日本は、立憲主義に基づく国家であると言えます。しかし、日本の国制(国家の形態)もしくは政体は、立憲君主制(立憲君主国)であるか、共和制(共和国)であるか、議論があります。 1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法では、立法機関(天皇が有する立法権の協賛機関、5条)として帝国議会を置き、帝国議会は衆議院と貴族院の二院からなりました。民選(公選)議員のみからなる衆議院に対して、貴族院は皇族議員、華族議員、勅任議員(帝国学士院会員議員、多額納税者議員など)によって構成されました。 しかし、1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法は、立法機関として国会を置き、国会は衆議院と参議院の二院からなる。衆議院および参議院はいずれも民選議員のみによって構成され、衆議院議員および参議院議員(国会議員)は「全国民を代表する選挙された議員」と定められた(43条1項)。GHQの示した憲法改正案(マッカーサー草案)では、衆議院のみの一院制にする予定で、日本側の反発によっては取り引き材料としての譲歩も考慮に入れていた。果たして、日本側の松本烝治は二院制の意義を説き強く反発したため、GHQ側は第二院を第一院(衆議院)同様、民選議員のみにすることを条件に、二院制の存続を認めた。こうして成立したのが参議院でした。 内閣総理大臣の指名は両院とも行えますが、参議院で衆議院と異なった議決をした場合において両院協議会を開いても意見が一致しないとき、または参議院が衆議院の議決から一定期間内に議決しないときは、衆議院の議決が国会の議決となる(衆議院の優越)。予算の議決、条約の承認についても同様であります。また予算は先に衆議院に提出され審議されます。 内務省 電話管理局(ART) フランス・テレビジョンなど 宇宙科学センター(CNES) 原子力エネルギー供給局 日本 道州制が導入された場合 参考:イタリア 面積:総計 377,835km(2)(60位 人口:総計(2008年) 127,288,419人(10位) 人口密度:337人/km2 GDP(MER) 合計(2007年) 4兆3,459億ドル(2位) GDP(PPP) 合計(2007年) 4兆3,460億ドル(3位) 1人当り:34,023ドル 建国 紀元前660年2月11日(記紀において神武天皇が即位したとされる日) 但し、建国時期を示す明確な記録はない。 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国首都:ロンドン 7,172,091人 建国 1801年グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国建国。1927年に現在の名称に変更。 イングランドおよびウェールズは様々な目的で、特に法律を共有しているという点から一体のものとして扱われるが、スコットランドと北アイルランドは独自の法体系を有している (スコットランド法を参照)。 イギリスの政治(Politics of the United Kingdom)は単一国家と立憲君主制を基本としています。ウエストミンスター・システムとも呼ばれるこの統治形態は、カナダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・ジャマイカなどでも取り入れられています。 憲法は1つの成典にはなっておらず、制定法と判例法及び慣習法など様々な要素を合わせて憲法とみなされています。 イギリス議会は王国の立法機関です。議会を構成するのは国王、上院(貴族院)、下院(庶民院)です。王国の4つの地域であるイングランド、ウェールズ、北アイルランド、スコットランドはいずれも議会に代表を持つ。 国家元首はイギリス国王であるが、権力は首相と内閣とによって行使される。憲法を構成する慣習法の一つに、国王について、「君臨すれど、統治せず」とあり、伝統の中に築かれた民主主義が見て取れる。憲法を構成する法律は、他の法律と同様、議会で修正が可能なため軟性憲法と呼ばれる。 イギリスの議会は、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制です。明治新政府における日本なども採用する政治形態の議院内閣制が発祥、発達した国であり、行政の長である首相は通常慣例に従って下院第一党党首を国王が任命、閣僚は議会上下両院の議員から選出される。下院は単純小選挙区制による直接選挙で選ばれるが、上院はその正式名称の通り貴族が議員となっているので直接選挙は無い。近年、従来右派の保守党と左派の労働党による二大政党制化して来ましたが、近年では第三勢力の自由民主党(旧自由党の継承政党)の勢力も拡大しています。 2007年3月7日、貴族院に選挙制導入を求める決議案が庶民院で可決され、数年のうちに全議員もしくは大半の議員が、選挙で選ばれた者によって構成される見通しが出てきた。この決議案に基づき政府が貴族院改革法案を提出して成立すれば、貴族のみで構成されていた貴族院は700年の歴史に幕を閉じる可能性があります。ただし、トニー・ブレア首相、デービッド・キャメロン保守党党首はともに可決された決議案には反対しており、また貴族院では全員任命案以外は否決されたため、改革の行方がどうなるかはまだ不透明です。 イギリスの地方行政区画 (subdihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifisions of the United Kingdom) は複雑、重層的、不均質で、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドのそれぞれで異なる。現在の構造に到達するの数百年かかっています。 最近は、伝統的に最も重要な層であるカウンティ (county) とパリッシュ (parish)、スコットランドの場合はカウンティとバラ (en:burgh) からシティ、ディストリクト、あるいは欧州連合の影響を受けたリージョンといった他の行政区画への移行が顕著です。 第二次世界大戦直後、労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げましたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「イギリス病」とまで呼ばれる不景気に苦しみました。 1980年代にマーガレット・サッチャー首相が経済再建のために急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を実施し、大量の失業者を出した。地方経済は不振を極めたが、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。1990年代、政権は保守党から労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正した第三の道への路線に進むことになりました。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべくクール・ブリタニアと言われるイメージ戦略、文化政策に力が入れられるようになりました。第三の道(だいさんのみち、英語:The Third Way)とは、新自由主義的な経済路線の保守党政権に対抗するために、新自由主義的な経済路線を大幅に取り入れた、旧来の社民主義の「大きな政府」路線でも、サッチャー流の市場原理主義路線でもないもう一つの道を目指すべきとして、イギリスの社会学者ギデンズなどによって主張され、主にヨーロッパの社会民主主義勢力が取り入れた政治路線の総称。イギリス労働党のブレア政権(1997年5月2日 – 2007年6月27日)が最も有名です。 サッチャーとその後継メージャーの保守党政権による新自由主義政策の下で、政府による富の集権的再配分によって積極的な福祉政策と弱者救済を行うという福祉国家のモデルは次第に解体されつつあった。保守党政権は市場原理を最重要視し、経済政策への政府による介入は減らされ、民営化と規制緩和が盛んに行われた。結果として、長く続いた「イギリス病」は概ね克服され、イギリスの経済構造は大きく改革・改善された。一方で、経済格差が広がり、公共サービスを受けられない層が増大していた。しかし、労働党は従来の産業国有化方針を脱却できず、グローバリゼーションによる市場化の波には対応できないままであった。ブレア労働党は、保守党の市場化一辺倒、労働党の市場化への適応不足という袋小路に陥った状況を乗り越える路線として、市場の効率性を重視しつつも国家の補完による公正の確保を指向するという、従来の保守-労働の二元論とは異なるもう一つの新しい路線を目指すと主張した。これが、イギリスにおける「第三の道」です。 この第三の道における公正は、伝統的社民主義の哲学が提示する結果の平等ではなく、教育の充実などの政策に立脚した上での、機会の平等に重きを置いています。これにより、移民政策にも通じる多様な文化的「差異」を前提としてグローバリゼーションへの対応を指向します。 具体的に行われた政策としては、保守党が重視してきた所得税や法人税の軽減などを継承する一方で、より社会の下層に配慮し公正を目指す就労支援や公立校改革などを展開すること、また、弱者を手当て(ネガティブウェルフェア,依存型福祉)するのではなく、家族形成や就労を含めて「社会参加」の動機づけを持つ者を支援(ポジティブウェルフェア,自立型福祉)すること、そして、公共サービスでのPPP(Public-Prihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifate Partnership)による官民連携、さらに、サッチャーによる中央集権政策への反省から地方の自治・自立を促す地方分権(スコットランド・ウェールズ・北アイルランド各地方へ地方議会の設置)などがあります。また、1999年には、英国では初となる最低賃金法を導入した。 ブレア政権の成功はヨーロッパ各国の社会民主主義政党に影響を与え、90年代末のヨーロッパ主要国では中道左派-第三の道路線の政権が相次いで誕生した。2005年まで続いたドイツ社会民主党のシュレーダー政権の政策も旧来福祉国家からの改革を唱えるなど第三の道の影響を受け「新たな中道(die neue Mitte)」を唱えるようになりました。英国では既に保守党時代に徹底した福祉国家の解体を終えていたことから公正の面がより強調されたが、他の国の第三の道では効率にまず重点が置かれる傾向があった。このためリベラル(自由主義)や社会自由主義との差異は小さいものとなり、むしろ中道左派として共通することとなりました。 否定的な見解 「第三の道」は新自由主義でも旧来の社民主義でもない新たな思想・新たな政治路線であると一般的に考えられているが、この考え方に対しては新保守主義・新自由主義を肯定する右派からは「小さな政府」の仮面をかぶった「大きな政府」路線と揶揄され、左派からも「労働組合の切り捨て」「社民主義への裏切り」などの批判も根強く、先駆者のブレア政権でも実際バッシングは多かった。例えば、ビル・エモットは、現在の英国(およびその影響を受けたドイツ)では、誰もこの思想を話題にはしておらず、ブレア自身も政権の途中からこの言葉を使わなくなった、理由はそんな思想など元々存在しなかったからだ、と主張しています。彼によれば、「第三の道」は左派政党が支持者に対して「右派の政策を採択することによって左派を裏切ろうとしているのではない」ことを説得する方便にすぎないからだとしています。 ブレア政権は確かに福祉・教育予算を拡充し、サッチャー政権下で荒廃した病院や教育を立て直すことを目指したが、充分に成功したとは評価されていない。理念として提示した社会的公正の実現もさほど成功しなかったと分析しています。 政策を実行する上では有権者の強い支持を得ることができ、政権運営の役に立ったが、保守政権の政策を基本的に踏襲した政策の実情はブッシュ政権の唱えた「思いやりのある保守主義」と呼ぶべきものであり、また、「第三の道」が新たな政治路線ではなく、「思いやりのある保守主義」であることに有権者が気づいたことも、2度連続して総選挙に大勝したブレアが辞任に追い込まれた理由の一つである、と主張しています。 面積:総計 357,021km^(2)(61位) ドイツ連邦共和国という名称にもあるように、十六の州(ラント)が強い自治権を持った連邦制であり、地方分権の進んだ国家といえます。州は独自の憲法と法体系を持ち、独自の行政権を持ち、司法権も州の権限が強い。 また、地方制度に関する統一法典はなく、地方自治体の組織や運営については、各州が制定する法律によって、それぞれ異なる制度が設けられています。 なお、バイエルン州などに見られるように、州都への一極集中が起こっている州も存在します。 ゲマインデ(基礎自治体)は独自性も比較的強いが、(小さな)基礎自治体同士の広域連合体として、クライス(郡)が結成されている所もあります。また、州政府の出張所(下部行政区画)をクライス(県)と呼ぶ州も存在します。 面積:総計 301,230km^(2)(69位) 伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。 1861年2月、イタリア王国を建国(イタリア統一1861年3月17日) 正式名はイタリア共和国(Repubblica Italiana)。大戦終結後に共和制に移行。イタリアは現在20の州(Regione)から構成される。 通常の州に先がけて設置された、5つの特別自治州(autonoma a statuto speciale)は通常の州より大きな地方自治権を有します。そのうち、シチリア、サルデーニャ、トレンティーノ=アルト・アディジェ、ヴァッレ・ダオスタ、が1948年に、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州は1963年に制定された。通常州は、1972年に制定された。各州はそれぞれ県 (Prohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifincia) に分割(州よりも歴史が古いため、州が県の集まりともいえる)され、県はコムーネ(自治体)の集合体から構成されています。最も人口が多いのはロンバルディア州(州都ミラノ:1,299,633人[2位])で、9,032,554人、面積:23,861 km2、次いでカンパニア州(州都ナポリ:973,132人[3位])で、5,701,931人、面積:13,595 km2、3番目はラツィオ州(州都ローマ:2,718,768人[1位])5,112,403人、面積:17,203 km2、ヴェネト州(州都ヴェネツィア)4,527,694人、面積:18,264 km2、ピエモンテ州(州都トリノ:908,263人[4位])で、4,214,677人、面積:25,400 km2の順。最も少ないのは、ヴァッレ・ダオスタ州(州都アオスタ)で、119,548人、面積 :3,262 km2。 イタリア全土で110の県(アオスタ県を含む)があり、最も狭い県であるトリエステ県は、面積順で100位のコムーネよりも狭い。3ッの県が2009年に分離の実施が予定されているなど増殖傾向にあります。2001年時点のイタリアのコムーネの数はイタリア国立統計研究所によると8,101です。 イタリアは1861年に統一に成功しイタリア王国を建国しました。大戦終結後に行なわれた共和制移行を問う国民投票の結果を受け、1946年にウンベルト2世が退位し、サヴォイア家による王政が廃止され、大統領制によるイタリア共和国となりました。両議院の選挙制度は、上下院ともに完全比例代表制で、イタリア国民の選挙に対する関心は高く、2006年、2008年にそれぞれ行われた総選挙では投票率は80%を超えています。 しかし、イタリアは伝統的に中央集権の流れが強く、ファシスト政権時代には徹底的に地方分権が押さえ込まれました。戦後もシチリアなど本土から離れていたり、南チロルなど多民族が共生する地域に設置された特別州を除けば、(周辺国であるドイツやスペインに比べて)地方分権には否定的でした。1972年の改革により漸く州政府の設置が認められますが、財政面や法律運用など重要な部分は中央政府の統制化に置かれています。各州はそれぞれ県 (Prohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifincia) に分割(州よりも歴史が古いため、州が県の集まりともいえる)され、県はコムーネ(自治体)の集合体から構成されています。各県に独自の議会、評議会、知事 (presidente) が存在し、政府に任命された役職の官選知事 (prefetto) もいます。県は日本語に訳される際しばしば、「市]と訳されることがあります。 こうした中央集権の強い現状への批判から自治運動が盛んな北イタリアを中心にロンバルディア同盟などの地方議会の権限強化を望む地域政党が成長し、1991年には他の州の地域政党が連合して北部同盟が結成されました。彼らは「連邦制か、さもなくば独立か」をスローガンに、移民者排斥などの過激主張や中央政府の南部優遇政策への批判を展開、タンジェントポリにより既存政党が衰退していた事もあって飛躍的に党勢を伸ばしました。 中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満州(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などを中華民国から継承しましたが、これらの地域は法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、法制度の上では植民地とは言えないものです。 これらの地域では現在問題となっているような民族元来の文化、宗教、思想の弾圧が行われており、特に東トルキスタン、チベット、内モンゴルにはその傾向が強いです。さらにチベット民族の政治的・労働的劣位が明かであることがにされています(米国務省「世界の人権状況」2002年次報告)。もともと、1950年に中国共産党軍がチベットを武力侵略した狙いは、チベットの豊富な鉱物資源だったといわれ、実際に鉱物資源を輸送する青蔵鉄道の建設、大規模な採掘事業など、チベット鉱物の開拓は中国の国策として着実に進められています。また中国政府が推進する「チベット地域支援政策」によって、大量の漢民族が社会的・経済的優位が保障されるチベット自治区に流入し、現在の自治区人口比では漢民族がチベット民族を凌駕しています。さらに前述の政治的・労働的優位性のもとに、漢民族がチベット民族を低廉な賃金で就労させている現状が米国務省報告に記載されており、資源の搾取、原住民族の労働力化などが行なわれており、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多いようです。 面積:総計 377,835km2(60位) 面積:総計 675,417km2(47位) 面積:総計 9,596,960km2(3位) 註1: 香港、マカオを含まない。 面積:総計 3,287,590km2(7位) 出典:ウィキペディアなど 1776年に独立した世界史的に見て比較的新しい人造国家(非自然発生的国家)の1つである。市民革命により1783年に独立したアメリカ合衆国や、1789年のフランス革命によって生まれたフランスの共和国が、近代的な共和制のモデルとなり、19世紀以後、世界中に広まった。 面積:総計 9,372,615km2(4位) 独立 イギリスより 宣言 1776年7月4日 承認 1783年9月3日 アメリカ合衆国は、連邦政府の力が弱く、州が大きい自治権を持つ地方分権国家である。二度の世界大戦と、戦間期の不況やニューディール政策期を経て、連邦政府の権限と影響力は大幅に拡大したものの、なお州が独自の立法権を持ち、それぞれ憲法や軍を所持しており、連邦政府の管轄は合衆国憲法で定められた分野に限定され、合衆国憲法の改正に州議会の承認が必要になるなど、各州が高い独自性と決定権を持つことに変わりはない。また、地方制度の構築に関する権限は、基本的に州に与えられており、具体的にどのような種類の地方団体が設けられるかは州およびその地域ごとに異なっている。独立市は日本の都道府県から独立した政令指定都市と同様だが、州の下位行政区分として郡と同等に扱われる。 アメリカ合衆国は、50の州 (state)、1の地区 (district)で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在は50州を持つ。なお、星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。また、連邦政府直轄地としてワシントンD.C.(正式名称はワシントン・コロンビア特別区)がある。 アメリカでは連邦制度と地方制度がある。本来的な主権は州にある。連邦政府の有する権限は非常に強大である。広大な国土に画一的・統一的な地方制度を確立することは不可能であったと思われる。合衆国憲法は地方自治について一切触れていない。各州が独自の立法機関を設置し独自の憲法と州法を有する。 連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、「United States」の名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。 合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州をまたぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。 アメリカ合衆国の50の州(state) は連邦政府とは主権を共有しながらも独立した準国家統治体である。州は連邦政府の設置によるものではなく自立的に作られた統治体で、その自律性は非常に高い。(アメリカ合衆国の州を地方行政区画、あるいは地方自治体に準じた見方をするのは誤りである。詳しくは「アメリカ合衆国の州」を参照。)個別の州毎に憲法を持ち、州内の自治体設立も州の権限でおこなっている。 各州の地方行政体系・自治構成単位の構成・構造はかならずしも同一ではないが、基本的に州憲法で地域で分割した行政単位として郡(county、ルイジアナ州はparish、アラスカ州はborough)が設置されている。郡は日本の都道府県庁に似た機能をもつ実体的な地方行政組織である。デラウェア州が3郡、テキサス州が254郡を有するといった幅があるが50州で計3,100ほどの郡がある。郡の行政機関は郡政府と日本語訳される。 通常自治体(Municipal Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernment)は、州法下で自治体法人として結成される自治体で、20,000ほどある。日本の市町村に近い形態で、市(city)、区(borough)、町(town)、村(http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifillage)、ハムレット(hamlet)に分けられることが多い。 Town Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentやTownship Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentは、15,000ほどある。これらは通常自治体と重なり合って存在する場合もある。 Indian Reserhttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifation、アメリカ合衆国内務省BIA(インディアン管理局)の管理下にある、インディアン(アメリカ州の先住民族)部族の領有する土地。リザベーションという呼び名が一般的だが、有力な民族のものは自治権が強く1つの国家にも等しい力を持つとされ、ネイション(国家)とも呼ばれる。同様にインディアンやエスキモーが先住するカナダにも同種の領域が存在する。 アメリカの地方自治を参考させていただくと、各州には郡とは別の地方行政区画として各種の自治体があり、これらは日本における市町村レベルの機能とほぼ同等で、合衆国全体で計84,400ほどある。しかし、アメリカ合衆国の自治体は州によって区画されて成立したものでなく、住民によって結成され州憲法に定める手続きによって承認されるものであり、自治体が設置されていない地域(未編入地、未組織地域)が国土面積の大半を占めている。連邦政府は地方団体の確立に関する権限は有さず、それは各州の基本的な留保権限である。また、アメリカで地方団体というとき、その中に州は含まれない。各州は地方団体の「創造主」であり、地方団体そのものではないのである。日本の県がアメリカの州と姉妹州県を結ぶことがよくあるが、そもそも県と違って州は地方団体ではないのである。各州はいかなる地方団体制度を確立しようと自由であり、連邦政府が制限を加えることはない。従って、地方制度は各州により千差万別であって、日本のように地方自治法により全国画一的に規定されているのとは全く異なる。市町村といってもその性格は州によって大きく異なり、市町村とも存在する州もあれば、市と町、市と村、あるいは市しかない州もある。 アメリカの地方団体数は、現在、総数で約8万で減少傾向にあるが、これは、学校区の合併によるものである。郡の数は変化がない。タウン(タウンシップ含む)は古い自治形態で減少傾向にある。日本の市町村に相当する「自治体」は約2万で微増している。特別行政区の数は激増している。日本の郡は、今や町村を含む地理的な名称に過ぎないが、アメリカの郡は、地方行政機関として実際に広範な機能を有している。郡は町・村ばかりでなく、市をも含む。例えば、ジョージア州には159の郡がある。これはテキサス州の254に次ぐ多さである。平均面積は943km2(富山県の約4分の1、新川地方とほぼ同面積)で、ケンタッキー州と並んで全米で最も小さい。州憲法は郡政府の数を159までに限定している(このような規制は郡に対してのみであり、市政府に対してはない)。平均人口は45,000人で、最大はアトランタ市を含むフルトン郡の70万人から、最小はタリアフェロ郡の 1,800人まで、かなりのばらつきがある。45の郡で人口が1万人に満たない。アメリカには県はないので郡が相当する。 アメリカの地方自治で日本と最も異なる点は、地方自治体というものは、国から与えられ又は国の出先機関として存在するのではなく、住民自らの意思により創出されたものであるということである。すなわち、一定地域での人口集中があり、州や郡(州の出先機関)が提供する以上の公共サービスが必要になったとき、住民自らの要求があってはじめて州議会を経て自治体が設立(法人化)されるのである。従って、アメリカには自治体のない地域(非法人化地域)も相当あり、アメリカ国民の2割がどこの自治体にも属していない。「法人化」されてはじめて設立される自治体は、反対に廃止することも可能である。 自治体を設立するには、「自治憲章」を制定し、州政府がこれを承認し、「法人格」が与えられなければならない。自治憲章とは、日本の地方自治法に当たるような自治体の権限や職制を規定した自治体の基本法であり、各自治体自らが有している。これは、行政形態、公務員の名称・資格及び選出方法、財政、行政サービスの内容、各部局の編成などに関する規定が盛り込まれた行政運営の基礎である。 また、アメリカの自治体には、「地域のことは、地域において決定し、実行する」という「ホーム・ルール」の思想がある。すなわち自治憲章の制定に際しては、州政府の規定した一般的な範囲内であれば、住民が自由に規定できる。また、具体的な個別の政策に関しても州政府が禁止していない範囲内で裁量が認められるべきであるという考え方である。 以上のように、アメリカの地方自治体は正に「地方の住民が自ら治める団体」なのであって、日本の地方公共団体とは歴史的にも性質を異にするのである。 市とは、一定の地域に一定の人口の集中があり、その結果、従来タウンの住民だった人がタウンが提供する一般的な行政サービス以上のサービスを求めるとき、自ら自治憲章を制定し州がそれを承認したときに、タウンの一部又はタウンの境界を超えて組織される強力な権限を持った地方自治体である。市が組織された場合、市はタウンの管轄から離れる。現在州内には62の市(人口は2,800人~700万人)が存在する。 市になれば、起債が認められるほか、他の地方団体に認められている固定資産税以外に所得税、消費税及び物品税を課すこともできる。所掌事務は警察、消防、上下水道、図書館、公営住宅、公園、都市計画、廃棄物処理など住民生活に密着したものが多い。ニューヨーク市に限っては、これに加えてカウンティーの全ての事務も行う。 市の機構は、各々の市の自治憲章により様々な形態があるが、大半の市が公選の議会を持ち、また市長は公選されるか議会によって任命され、裁判組織も独自に保有し、明確な三権分立が確保されている。代表的な市の機構は次に記述するとおりである。 任命された専門の行政職が行政のトップになる。議会が政策の決定機関であり、市長は儀礼的な存在。支配人は行政部局の長の任命権を持ち、予算の編成権を有するが、議会の決定を覆す権限はない。州内19市がこの形態を採っている。 公選市長が行政部門の長であり、議会は政策決定機関である。市長は部局の長の任命権と予算の編成権を持ち、しかも広範な拒否権を有する。日本の市町村長は形式的にはこの形態に一番近いと思われる。 市長は儀礼的な存在である。議会は政策の決定に加え、委員会形式で行政も行う。また、議会は行政部局の長の任命権を持ち、予算の編成権も有する。市長には拒否権はない。②③併せて州内40市がこの形態を採っている。 委員は個別行政部門の責任者として公選され、各委員からなる委員会が政策を決定する。委員のうち1人が儀礼的な市長役を務めることがある。州内3市がこの形態を採っている。 州の下部組織として設置されたカウンティーとタウンは、近年では、自治憲章の採択により、市や村同様の自治権を持つ地方自治体としての権限を州から与えられ、州の業務に加えて、従来市や村が行ってきたような独自の住民サービスを提供するようになってきた。従って、特にカウンティーと域内市町村の間でしばしば提供されるサービスに重複が見られ、行政コストや責任の不明確化といった問題が起こっている。現代-9 地方分権
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 政治と非政治のあいだ
1.グローバリゼーション
2.政党とは何か
我々が政治に無関心である一つの問題点としては、戦後の日本の政党がわかりにくいことです。もともと民主主義の理念による自由党と民主党が合併し自由民主党(以下自民党)が発足しました。政治学の定義では上記のように民主主義と自由主義とは同一ではありませんが、かといって旧社会党を中心に発足した民主党や自由党が合併して今の民主党という政党も自民党に対して違いがわかりにくいものです。また政教分離に反するような政党が与党に参加していることこそ問題であるといえます。しかし、日本以外でも宗教思想と政治が全く関連がないことはないのですが、そうした個人個人の意志ではなく組織的な選挙は危険であります。政治に関心を持とうとしても、とくに国会は国民生活から乖離した議論を繰り返してあまりにも膨大な国家予算と公的な時間を浪費している以外の何者でもありません。
前出のシャットシュナイダーは、1942年にその著書『政党政治論』の中で、「近代民主政治は、政党競争の副産物なのである」と述べています。すなわち今日民主政治は国民自らが選挙において指導者也代表者なりを選べることを最大の特徴とするようになったが、そのような選挙の存在が政党を発展させたというよりは、政党の選挙を通じての権力獲得のための努力が、政党よりも古い歴史を持っている選挙に大きな意味を与えていたとおうのです。3.政党の機能
かつては、選挙民の第一の目的は選挙で代表を選ぶことであって、選ばれた代表は政策をつくり決定するという政治的分業を市民も受け入れていたといえます。「市民たちはたいていの場合、代表制のコストの一部として容認している」とまで述べたのは、現代民主主義の代表的な研究者として知られるR.A.ダールでした。
以上のように自らが主体的に考え判断し得るようになった市民を前にして、かつては国家と社会の架け橋といわれた政党が政治的決定を独占することはもはや不可能となりつつあります。そのような時代にふさわしい役割を新たに見つけることが、政党の生き残りを左右することは間違いありません。政党が提案し、国民自らが決定するよいう新たな政治的分業、すなわちイギリスの政治学者I.バッジが提案したような「政党民主政としての直接民主政」、すなわち政党に媒介された直接民主制の構想もその一つでしょう。代表制と直接制とを両立させる半直接民主制の提案です。現在の代表制の下において、政策を提案し洗練させ、市民の投票を指導し組織化するという二つの役割を担わせるかわりに、重要な問題の決定は市民の投票に任せようというのです。政党自らが特権の一部を放棄することが、新たな政党政治の未来を切り開くのです。4.政治と非政治のあいだ
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北近畿の都市圏
3.住民自治と団体自治
住民自治
住民監査請求
団体自治とは、地方の運営はその地方に国とは別の、独立した、自治権を持つ地方統治機構(地方公共団体、地方政府等)により行われるべきという概念であり、ドイツで発達した。町村<郡・市<都道府県<中央北近畿の都市圏
兵庫県 豊岡都市圏 11万8565人 豊岡市・香住区・京丹後市久美浜町 京都府 舞鶴都市圏 約12万人 舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部 福知山都市圏 13万6096人 福知山市・綾部市・京都府京丹波町和知町・兵庫県丹波市市島町
※日本の都市圏設定基準 10%都市圏…通勤・通学者数の割合が10%以上島根県 中海・宍道湖経済圏 約68万人 出雲都市圏・松江都市圏・米子都市圏 出雲都市圏 17万3715人 松江都市圏 22万5937人 鳥取県 米子都市圏 25万2387人 倉吉都市圏 11万6650人 鳥取都市圏 24万9067人 鳥取市・兵庫県新温泉町 福井県 福井都市圏 56万0601人 武生都市圏 11万4823人 敦賀都市圏 8万8928人 小浜都市圏 4万4395人 石川県 金沢都市圏 73万2467人 小松都市圏 13万8908人 富山県 富山都市圏 54万1761人 高岡都市圏 37万4530人 魚津都市圏 13万4411人 新潟県 燕都市圏 121,606人 新潟都市圏 94万7310人 米子都市圏は松江都市圏、出雲都市圏と隣接しており、3つの都市圏は相互に重なり合った構造を示しており、全体としてつながりを持った大きな中海・宍道湖経済圏を形成しています。 福井県南部の嶺南(若狭湾沿岸)地方を1つの都市圏とすると、小浜都市圏4万4395人、敦賀都市圏8万8928人を合わせて、133323人です。但馬・丹後・丹波ならびに関西に依存度が高い福井県嶺南(若狭)地方は、歴史的経過から、本来一つの県として考えるべきであるともいえますが、明治初期の数回に及ぶ廃藩置県の歴史的経過から、3府県に分散されました。 2.豊岡市の概要
豊岡市の生活圏
放送大学准教授 山岡 龍一
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1.道州制
また、戦時統制経済のもとでは、各地の鉄道・電力・ガスといったインフラを中心に企業が、政府主導で統廃合された。2.北近畿地方の地方自治
福井県の場合
近畿地方
3.近畿地方の地方自治
放送大学准教授 山岡 龍一
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目 次 1.新憲法における地方自治
1.シャウプ勧告
国、都道府県、市町村の三段階の行政機関事務は明確に区別し、一段階の行政機関には一つの特定の事務が割り当てられ、さらにそれぞれの行政機関はその事務の遂行と一般財源によってこれをまかなうことについて、全責任を負うべきである。
それぞれの事務は、各段階の行政機関がこれを能率的に遂行するために、規模、能力、財源によって準備の整っているレベルの政府(機関)に配分されるべき。
地方自治のためには、事務の再配分は市町村に第一の優先権が与えられ、第二に都道府県に、そして国は、地方レベルでは有効に処理できないような事務だけを引き受けるべきである。
1.地方公共団体の財政
1.平成の大合併
日本の市町村数推移 1888年(明治21年)末 71,314 1889年(明治22年)末 15,820 1953年(昭和28年)10月 9,868 1961年(昭和36年) 3,472 2006年(平成18年)4月 1,820 2008年(平成20年)4月 1,788 2.平成の市町合併の目的
3.市町村合併のメリット・デメリット
メリット
住民生活の利便向上
地域づくりの進展
権限の拡大、行政能力の向上
また、計画的かつ体系的な職員研修プログラムなどを通じて、行政職員の政策形成能力の向上が図られる。
さらに、政令指定都市、中核市、特例市や市制への移行等により、自治体としての権限が拡大する効果も期待できる。デメリット
4.地方分権一括法
そして、その税収をどう配分するのかは国の判断で決定され、その決定に基づいて地方交付税や国庫支出金という形で、均衡の原則に基づいて全国の自治体へと配分されています。5.三位一体改革
放送大学准教授 山岡 龍一
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地方分権と市町村合併の歩み
概 要
目 次 1.日本の地方自治
単位
基礎自治体
広域自治体
2.地方自治の理念
3.日本の「村」の歴史
4.最小公共団体の自治
5.明治の大合併
6.戦前までの合併
7.昭和の大合併
8.高度経済成長期の合併
「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 放送大学准教授 山岡 龍一たじまる 地方自治-4
日本の政治との比較
目 次 1.国と地方の統治関係(官治と自治)
2.日本の政治との比較
立憲君主制であることの根拠は、次の3つに集約されます。
以上から、日本は立憲君主制を採る立憲君主国であるとします。一方、共和制であるとすることの根拠は、君主に措定された天皇が、国政に関する権能を有していないことを最大の根拠とします。現に、政治上の権力を行使するのは、司法部を除き、公選された者を中心として構成され、共和制に準じる体制を採ります。さらに、法律によって首相公選制が施かれた場合には、大統領を置く共和制とほぼ変わりなくなるからです。以上から、日本は共和制を採る共和国であるとするものです。他方、君主制、民主制といった区分によるよりも、民主主義国家と呼ぶのが実態に沿っているとの立場もあります。
衆議院で可決した法律案について参議院がこれと異なりました議決をした場合、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再可決したときは法律となる。日本(現在) 日本(改正案) イギリス フランス アメリカ 宮内庁 王室 フランス大統領 大統領官邸 首相官邸 首相官邸 首相官邸 内閣府 内閣事務局 総務省(旧総務庁・郵政省・自治省) 総務庁 内務省 郵便・電気通信 内務省 公共事業地方分権省 文化省 文化省 文化省 ラジオ放送局 文部科学省 教育省 教育雇用訓練省 教育・研究・技術省 教育省 青年・スポーツ省 科学技術庁 貿易産業省 経済産業省 貿易産業省科学技術庁 経済・財政・産業省 商務省 エネルギー省 ガス・電力市場管理局 水道局 防衛省 国防省 国防省 国防総省Defense 住宅都市開発省 厚生労働省 厚生省 保健省 雇用省 保健社会福祉省 労働省 社会保障省 労働省 農林水産省 環境食糧省 農務水産省 農務省 法務省 法務省 法務省 司法省 外務省 外務省 外務省 国務省 環境省 国土環境省 環境食糧省 地域計画環境省 国土交通省 交通省 交通省 設備・運輸・住宅省 運輸省 財務省 財務省 財務省 退役軍人省 消費者製品安全委員会 連邦緊急時管理庁 (FEMA) 環境保護庁 国際開発省 3.日本との行政区画比較
日本よりも早く州と県の行政区分を取り入れ、北と南に長いイタリアは、中央集権国家的で日本とよく似た特徴があります。
現行
「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられている。具体的には、天武天皇治世において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されている。イタリアと日本の比較
日本の山陰地方と似た例としてイタリアの州をみてみると、
県:5:ヴィボ・ヴァレンツィア、カタンザーロ、クロトーネ、コゼンツァ、レッジョ・カラブリア、コムーネ数 409たじまる 地方自治3
ヨーロッパの地方分権
目 次 1.イギリスの概要
面積:総計 244,820km2(76位)
人口:総計(2006年) 60,270,708人(21位)
人口密度:246人/km2
GDP(MER) 合計(2007年) 2兆7,773億ドル(5位)
GDP(PPP) 合計(2007年) 2兆1,374億ドル(6位)
1人当り:35,134ドル
イギリスは四つの非独立国 ― イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドよりなる。これらの非独立国は一般に「国」(あるいは country) と言われる (但し北アイルランドにも用いるかどうかは論争がある)。この構成はかつての主権国家であるイングランド王国 (征服されたウェールズ公国を含む) とスコットランド王国との1707年の連合法によるグレートブリテン王国 (1707年-1800年)の形成と、それに続くグレートブリテン王国とアイルランド王国との1800年の連合法に基づくグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の形成という政治的連合によって構築された。1922年のアイルランド自由国の独立ならびにアイルランド分割により、現在のグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となりました。2.イギリスの政治
さらに、英連邦王国は、自国の国王として英国王を戴く国家形式、また該当するオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、バハマ、ジャマイカなどの16の国家があります。いずれも国家共同体(英連邦)に属します。英国以外の英連邦王国は、かつて英国の植民地であったが、今日では英国に従属しない独立国です。3.第三の道
4.ドイツ連邦
人口:総計(2004年) 82,424,609人(14位)
人口密度:231人/km2
GDP(MER) 合計(2007年):3兆3,222億ドル(3位)
GDP(PPP) 合計(2007年):2兆8,097億ドル(5位)
1人当り:34,181ドル
形成 843年 統一(ドイツ帝国) 1871年
連邦共和国成立 1949年5月23日 東西統一 1990年10月3日
歴史的に見ると、ドイツは小国家(バイエルン王国、ハノーファー王国など)が分立していた期間が長く、ドイツ帝国時代も地方分権の気運が強かったのです。ヴァイマル共和政時代も地方分権制だったが、ナチ政権の時代になると州議会は解散させられ、州の行政権も中央に移されて強力な中央集権・中央主権体制が敷かれ、アドルフ・ヒトラーの独裁政権を作りました。
戦後のドイツ連邦共和国で地方分権が進んだのは、ナチ政権の再来を防ぐ意味と、ドイツの大国化を避けたい連合国の思惑もありました。5.イタリア
人口:総計(2004年) 58,057,477人(23位)
人口密度:193人/km2
GDP(MER) 合計(2007年:2兆1,047億ドル(7位)
GDP(PPP) 合計(2007年):1兆7,864億ドル(10位)
1人当り:30,448ドル
伝承に、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制開始。サムニウム戦争(紀元前343年 – 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。
その後は独立騒動による支持者の離反によって低迷しますが、不法移民への反感の高まりを背景にイタリア中部・南部の左派票を獲得して復活を果たしました。現在、南部でも「自治という選択」などの地域政党が成長しており、中央政府がこの動きにどう対応するかが注視されています。
全土で110の県(アオスタ県を含む)があり、増殖傾向にあること、最も狭い県であるトリエステ県は、面積順で100位のコムーネ(最小自治体)よりも狭く増加傾向にあります。7.中華人民共和国
8.主要国概要
日本
人口:総計(2008年) 127,288,419人(10位)
人口密度:337人/km2
GDP(MER) 合計(2007年) 4兆3,459億ドル(2位)
GDP(PPP) 合計(2007年) 4兆3,460億ドル(3位)
1人当り:34,023ドル
建国 紀元前660年2月11日フランス
人口:総計(2008年) 64,473,140人(20位)
人口密度:114人/km2
GDP(MER) 合計(2008年) 2兆8431億ドル(5位)
GDP(PPP) 合計(2008年) 2兆4,858億ドル(8位)
1人当り:33,188ドル
形成 843年中華人民共和国(中国)
人口:総計(2008年) 1,324,424,000人(1位)
人口密度:140人/km2
GDP(MER) 合計(2007年) 2兆4662億ドル(4位)
GDP(PPP) 合計(2008年) 12兆9,886億ドル(2位)
1人当り:5,869ドル
建国 統一王朝 紀元前221年
民国成立 1911年10月10日
人民共和国成立 1949年10月1日
註2: 中華人民共和国と面積順位第3位とされるアメリカ合衆国の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがあります。インド共和国
人口:総計(2005年) 1,131,043,000人(2007年)人(2位)
人口密度:324人/km2
GDP(MER) 合計(2005年) 7,719億ドル(11位)
GDP(PPP) 合計(2005年) 3兆6330億ドル(4位)
1人当り:3,100ドル
独立 イギリスより 1947年8月15日たじまる 地方自治2
アメリカの地方分権
概 要
目 次 1.アメリカの地方分権
アメリカ合衆国
人口:総計(2006年) 300,007,997人(3位)
人口密度:31人/km2
GDP(MER) 合計(2007年):13兆8,438億ドル(1位)
GDP(PPP) 合計(2007年):13兆8,438億ドル(1位)
1人当り:45,845ドル2.連邦制度と地方制度
3.アメリカの自治体
通常自治体
通常は郡内に市が存在する「郡、市」の形となるが、市が発展し「郡=市」となったり、極端な例では複数の郡が市に取り込まれた。日本のように、市になれば郡に属さないのは例外で、郡から独立し、どの郡にも属していないのは、43ある独立市(independent city)だけである。タウン/タウンシップ
コネチカット、メイン、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ロードアイランド、バーモント、ニューヨーク、ウィスコンシンの各州ではタウン、そのほかの州ではタウンシップと呼ばれることが多い。また、メイン州ではPlantation、ニューハンプシャー州ではLocation Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentと呼ばれることもある。インディアン居留地
4.アメリカの自治体の特徴
アメリカの地方自治体の特徴
シティー「市」
①支配人型(Manager System)
②強力市長型(Strong Mayor System)
③非力市長型(Weak Mayor System)
④委員会型(Commission)
近年の傾向
出典:ウィキペディアなど
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