1.縄文大海進
一万年前頃、ちょうど縄文草創期から、気温がわずかながら温暖化してくると、氷の融解が促進し、海水面が上昇していきます。これは「縄文大海進」と呼ばれています。いま、地球温暖化が地球的規模の大問題になっていますが、今から約6,000年前には、今より1~2度気温が高かったといわれています。そのころの関東地方は、今の沖縄県の気候に近かったそうです。最終氷期が終わって、徐々に温暖化が進んだ結果でした。縄文海進と呼ばれる地球温暖化です。
海面が10メートルも上昇すると、円山川が流れる国府平野以北の流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。豊岡市塩津や大磯町という地名もその名残なのかも知れません。早期や前期の縄文時代の人々は、低平な所で生活を営むよりは、気温が高いのだから、現在の我々が想像するほど寒冷な積雪地帯ではなく、比較的越冬の条件は厳しくなかったのでしょう。日本列島を囲む海面は、今より3~5メートルも高かったようです。日本列島はかなり奥まで海でした。関東地方で言えば、東京湾は埼玉県春日部を通り越して、古河のあたりまで入り込んでいたといわれています。そして、そこには豊富な魚介類が生息していました。各地にある国生みや入り江開墾の神話・伝承は、この地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。
2.寒冷化と海面低下

そのうち、暖かくなりつつあった気温がまたゆるやかに低下していきます。二千年前ぐらいが、その寒冷化の一つの頂点でした。寒地の氷は再び厚さを増し、海面が低下してくる。山岳地帯の植物相も変化し、いままでカシやシイの実の生活に頼っていた縄文人の食生活に変化を強いることになりました。
寒冷化に伴う生活難から、低地へ、北から南へと住民は移動したのでしょう。中期縄文の土器の出土がないのは、こうしたわけでしょう。神鍋の山麓に、永い間にわたって繰り広げられた生活も過疎化の波が押し寄せていきます。
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼります。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されましたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まりました。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存しましたが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消しました。
このように、高地の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。気候がそろそろ寒冷化してきて、海水面が下降してきたために陸化してきた地域です。
戦後の昭和の頃まで、円山川ではサケ・マスが産卵のため遡上していた。支流稲葉川でも、道場付近で漁獲が行われていたという。サケ・マスが遡上する西限は、但馬地方から因幡にかけての地域だった。川を遡上するサケ・マスは簡単に捕獲できるので、海の幸に恵まれ、豊かな生活が展開し、極度に発達した晩期縄文文化地帯が形成されたが、祢布ヶ森からはそのような土器が出土しています。
3.縄文人がやってきた
1万9千年前ごろが、現在に一番近い寒冷期の最寒期で、当時の海水面は今よりおおよそ120m低かったと考えられています。朝鮮海峡は幅約15km、水深約10mの浅く狭い水道でした。この時期、人と動物は陸続きのシベリアから歩いて渡ってくることができたのです。
こうして、日本列島に最初に住み着いた縄文人とは、縄文以前から住んでいた後期旧石器人をが縄文人になったのであり、縄文人が大陸からやって来たのではありません。
古モンゴロイド系であることは調査研究からわかってきました。南方系ポリネシア人と共通の民族です。ポリネシア人の祖(モンゴロイド)は、中国雲南地方(南部)辺りから南下して、インドシナ半島などに定住していきます。今でもポリネシア地方で見られるような、船の横にやや小さい木船が付いたアウトリガー・カヌーと呼ばれる船などであり、せいぜい2、3人乗りの小さな木船だったから、そんなに長距離は無理です。長い時間の間に南下していき、オセアニア(オーストラリア)やポリネシアの島々に渡りました。
そしてまた別のグループは、中国南部やフィリピン、台湾へ、また、対馬海流に乗った別のグループが壱岐、対馬、九州北部や出雲へと辿り着いたのではないだろうかといわれています。
やがて別のグループが、シベリアから北海道、・本州東北部、また、アラスカ(エスキモー)、アメリカ(インディアン)、南アメリカ(インディオ、マヤ、インカなどの文明)へと南下していったのでしょう。
誰だって大陸を後にして、他民族の侵略による避難なのか獲物を追って新たな新天地を求めたのかは分からないが、出航した船団にとって、充分な装備も持たず、ただでさえ心細いのに陸地が見えたら、一目散に上陸したいに決まってる。現在のように地理が分かっていても、飛行機でさえ何時間もかかる移動距離。
まさに命がけの亡命をしたボートピープルです。船団は農産物の種など、これからの新天地での生活に必要な物資も積みながら、まほろばの国、「日本列島」。何日も洋上を航海しながら、飢えに耐え、多くの者は航海中に死亡した者もいたであろうし、彼らの冒険心には本当に頭が下がるのです。(私は少なくとも無理です。
植村直己さんという我が町が生んだ世界的冒険家は、まさに縄文人の血が流れているのではないでしょうか?!すいません)
やがて氷河期は終わり、水位が上昇します。紀元前1万2千年頃から紀元前4千年にかけて約8千年間にわたる海面上昇により、タイ湾から南シナ海へかけて陸地は海底に没してしまいます
4.縄文文化
縄文時代は一万年を超える長い時代なので、その間の文化社会の変化は大きく、一括した縄文文化という言い方が適当でないことが多いのですが、土器形式を基準にして大きく6つに分けられています(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)。各時期の継続年数は均等ではなく、古い時期ほど長い傾向にあります。
縄文文化は日本列島全体で一様のものではなく、土器や生活形態の違いが相当大きいのですが、土器の系統的つながりを見ると、北海道の土器は本州からの流れの支流といってもよい位置づけができ、縄文土器の特徴である縄を転がしてつけた紋様は、北海道で縄文時代を通じて盛んに用いられたのに、宗谷海峡を越えたサハリンではほとんど見られません。一方、南では沖縄本島の土器は北の九州方面の縄文土器の流れを汲むもので、決して中国や台湾から北上したものではないそうです。また、縄文文様は九州や沖縄では見つかっていませんが、したがって、文化的つながりとしては沖縄本島までは日本列島の縄文文化の範囲であったと認められます。
縄文人は特定の場所に集落を構え、それぞれ孤立していて、相互の交流はあまりなかったと想像しがちですが、そうではなかったのです。自然のガラスとして鋭い割れ口を持ち、石器の材料として非常に好まれた黒曜石が、交易によって100kmも運ばれた例は珍しくなく、霧ヶ峰(長野県)の鷹山では黒曜石を掘った鉱山跡が多数残存し、その盛んな採掘を物語っています。日本では新潟県の姫川にしか産出が知られていないヒスイは、装飾品の材料として遠く関東や北海道まで運ばれていました。海の魚の骨が内陸の遺跡で検出されたり、ときには食料まで運ばれたことがわかります。後・晩期には、海水を煮つめて塩を作った遺跡が、関東や東北地方の海岸近くに知られていますが、その製造に用いられた粗雑な作りの土器が海から離れた内陸の遺跡でも発掘されています。
縄文早期の日本の人口は、2万人だったといわれています。
5.日本の文化的起源
日本という思想とは、日本語で展開されてきた思想です。人々が日本列島固有の意識を持ち始めた起源ががどのような様相をとっていたかを知ることは、難しいです。日本の自己意識を持つ人間のあり方は、長く文字を持たなかったために、他者すなわち中国大陸との関わりのなかで、大陸の列島にむける見方のなかに、文字(漢字)に残されることで、最初にあらわれました。
二千六百万年前、原日本海ができ、陸続きであった日本列島の原型が姿を見せたのは、一千万年前でした。その後人類が誕生し、造山・火山活動が活発になりました。氷河時代の中期には沖縄諸島がまず大陸から分離し、ついで列島が大陸から分離しました。氷河期と間氷期がくりかえされ、二万年前とされる最終のウルム氷期に海面が下がり、大陸と列島を結ぶ最後の陸橋が現れました。そのとき、人類動物が大陸から移住してきたとされます。その後再び海面が上昇し、一万八千年前には朝鮮海峡が、一万二千年前には宗谷海峡がひらき、今の日本列島のかたちが定まりました。沖縄諸島が本州や他の島よりも先に大陸から分離していたことは、現在日本とよぶ領域の中での言語・文化の面で沖縄諸島がもつ文化的独自性と深く関わっているといえます。
万物を神と捉えるアミニズムの原点が芽生え、縄文人が墓を造営した様子からは、先祖崇拝の原型が伺えます。縄文人の自然崇拝と先祖崇拝が融合したものが、弥生時代からさらに発展し、現在の神道につながっています。記紀の世界観は縄文時代にすでに土台ができあがっていたといえます。
そして世界最古の土器をつくり、集団の結束と人々の平等性を重視した高度な社会を築いた縄文文化こそ、「日本文明」の起源と呼ぶにふさわしいのです。稲作の開始や弥生文化自体字体、以前よりも時代がさかのぼる見解がいわれています。弥生時代で後述しますが、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。岡本太郎は、縄文文化の美意識の復興を説いています。弥生式土器と比較して縄文式土器は、縄目文様(撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけたもの)の多様な模様が見られることがその特徴に挙げられますが。しかし実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、これは土器型式によって様々です。 縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で、彩色による文様は少ないですが、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達しました。この特徴は、日本周辺の土器にはみられないものです。
縄文土器の形は深鉢が基本ですが、中頃から淺鉢のような器形が現れ、、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様です。信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られました。
6.縄文人はグルメ?
縄文人は、太陽、風、雷、雨と雪、地震や台風などの自然の恐怖は、神々の行いであるとして恐れると同時に敬い、神がいると信じていた。狩猟民族である彼らは、旬な恵みを接収して、家族が一つに寄り添い、人々が助け合いながら暮らし、次の世代へ智慧を伝承していった。いま我々が想像する以上にある意味では豊かな暮らしをしていたのではないだろうか? 多くの動植物と同じく自然に適応しながら進化していった。自然との共生であり、天変地異との戦いであった。しかし、境界線もなく、国という意識もない。まさにボーダーレス社会です。テリトリーにこだわず平和に自由に暮らしていた社会は、今を生きる我々よりもある意味でははるかに文化的で人間らしい生活だったのではないのでしょうか(多分・・・)。
先日パプア・ニューギニアで暮らす人々がテレビの番組(ウルルン滞在記)で紹介されていました。必要最低限の獲物をとり、椰子からデンプンをとって餅のように丸めて焼きます。家族や村単位で仲良く暮らす姿は、縄文時代の人類の暮らしぶりが想像出来ます。
食料の入手は人間が生きるための基本条件であり、縄文人にとっても最も大きな課題でした。動物や鳥の狩猟、海・川・湖での漁労、貝の採集、植物質食料の採集に大きく分けられますが、イノシシの一時的な飼育や有用な植物の栽培も行われていました。地理的に北の地域では狩猟や漁労の占める役割が大きく、南の地域では植物質食料の果たす役割が大きかったと見られますが、もちろん個々の遺跡を取り巻く環境によって生業の形は違いました。
狩猟の最も重要な対象はシカとイノシシですが、その他にも様々なほ乳類や鳥類が獲物とされ、食肉ばかりではなく毛皮や骨角器の材料として利用されました。弓矢が一般的ですが陥穴も広く用いられました。狩の補助に用いるために飼われた犬の墓も各地で発掘されています。
漁労は湖、川、入り江、外洋などの環境や魚の種類に合わせ、網、釣り、ヤス、銛(モリ)などが使い分けられました。縄文時代には氷河時代に浸食された谷の中に上昇する海が入り込んできました(縄文海進)。北海道や東北地方では、秋になると産卵のために群をなしてさかのぼってくるサケが特別な重要性をもつ食料源でした。北海道石狩市紅葉山遺跡で、小川に作られたエリと呼ばれる縄文中期の柵の跡が発掘されています。集中的に捕獲されたサケは干物や薫製などに保存処理して利用されました。
植物質食料としてはクリ、クルミ、ドングリ、トチなどのナッツ類が主ですが、ヤマイモ、ユリなどの根茎類、山菜の類も大いに利用されたでしょう。キノコや海草が利用された証拠もあります。遅くとも縄文前期にはリョウトウ、エゴマ、ヒョウタンなどの有用な植物の栽培が始めらていたことが、福井県鳥浜遺跡の調査などで確認されています。最も重要なのは、クリの木を集落の周りに増やしていくことが行われるようになったことです。青森県三内丸山遺跡の調査では、人が来る前にはブナの林であったものが、人が来ると集落の周りはクリの林になったことがわかります。クリと人の生活が緊密に結びついていたことを示しています。クリの実はおいしく食べやすい食料になるだけでなく、クリの木は耐久性が強く、建築材として最適であり、薪として火持ちが良いので、縄文人にとって最も重要な樹木でした。
後・晩期は、地域によって違いはありますが、停滞ないし衰退の時期と捉えられています。とくに中部高地や西関東の急激な衰退は、その主な原因が植物質食料の減少にあったと思われています。しかし、多くの入り江に恵まれた東関東では海の資源に支えられ、しばらくは繁栄が維持されました。近年、各地で縄文後・晩期のトチの実のアク抜き施設が発掘されています。埼玉県の赤山陣屋遺跡など、谷あいに木を組んで水槽を作り、水を溜めたもので、周辺には貝塚のようにトチの実の殻が堆積しています。トチの実の粒は大きいけれど強い渋味があり、これを除くには水でさらしたり木炭を水に溶かして漬けたりするなど相当な手間がかかります。この時期にはなぜかクリの収穫が減ったようで、それを補うために、当時の環境変化で増加したトチの実の利用が盛んになったようです。
7.お酒の発見
人類がいつごろお酒を知るようになったのかははっきりわかりませんが、世界各地に伝わる「猿酒」の伝説のように、気候が温暖な地方では自然発生的にできた酒に猿が出会い、やがてお酒を自分らの手で造ることを学び、嗜むようになったのでしょう。でも何かの中に溜まらなければ飲めるほどの酒にはならない・・・。ある南の島の伝説にこのようなお話があります。
猿が落とした椰子の実など、木の実が割れてそのまま放って置いたままにしていた。それを翌日猿が旨そうに飲んでいるのを見た人間が恐る恐る飲んでみたら、こりゃ旨い!不思議な気分になって寝てしまった。それを翌日王様に報告し献上すると、王様も飲んでみたらこりゃ旨い。こうした伝説が世界各地に残っています。
木の実の汁や果汁を何かに溜めるために、中国では石器を、また別の国では貝殻や土器を使うようになりました。こうして人類は、液体を容器に入れて保存することを発明したのです。日本でも俗にいわれる自然発酵を応用した「猿酒」が最初のようです。
秋田県池内(イケナイ)遺跡では、ヤマブドウやクワの実と一緒に絞られたニワトコの絞りカスの塊が発掘されました。ニワトコの表面には自然のコウジ菌が繁殖するので、今でもヨーロッパの一部では酒の材料として用いられています。
それを証明するものとして、長野県富士見町の井戸尻古墳で「有孔つば付土器」というう珍しい土器が出土しています。
どうやら中期縄文人たちは、自生した山ブドウやクサイチゴ、サルナシなんかの果物をそのままこの土器に仕込んで、軽くつぶした後フタをして孔(あな)にツルを通し、住居の柱などにくくりつけたのではないかといわれています。
しばらくの間すると液果類は糖分が含まれとるので、「野生酵母」の働きで温度が上昇し、果汁が炭酸ガスとともに吹き上がりますが、中身がこぼれない深さになっていて、主発酵が終わるころには酒も出来あがり、芳しい香りが漂うようになりました(これはブドウ酒などの果実酒造りと同じ原理だ!)。
したがって、縄文中期(紀元前三千年)には酒造りがすでに人間の手によって計画的に行われていたのでないかと考えられるます。また縄文晩期には日本に原生するお米の陸稲作が始まり、米による酒や粟、稗などによる雑穀酒作りが口噛み酒として始められました。
8.自然との共存
縄文時代は1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動も経験しています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったのです。縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなりました。
縄文中期の安定を物語るもう一つの証拠が貝塚です。中期になると東京湾沿岸、利根川下流域などに、集落の形を反映した馬蹄形や環状の貝塚が多数形成されました。貝殻以外に魚や動物の骨、壊れた土器や石器も捨てられました。なかでも東京都北区中里貝塚は、当時の海岸線に沿って500m以上も続き、厚さも4mに達する巨大なもので、土器や石器がほとんど残されておらず、海岸にあるのに魚の骨さえ稀です。海岸で貝の身を殻から外して保存加工するような特殊な作業の跡と考えられています。その貝のほとんどはハマグリとカキという味の良いものに限られ、しかも大型のものだけが選択されているのです。おいしい貝だけを採集するという自然の資源保護の姿勢を見ることができます。
縄文人の狩猟、漁労、植物の採集、その様々な方法を見ると、彼らが日本列島の多様な環境と食糧資源をきめ細かく開発し、その自然によく適応する生活の形を作り上げていたことが分かります。それは自然の営みをよく理解し、乱獲を避け、自然と共存するものであり、できればその資源を増やしていこうとするものでした。このような縄文人の知恵と生き方は現代の我々にも大いに学ぶべき点があります。
9.縄文人の精神
縄文時代には生活に必要な実用の道具以外にも、さまざまな儀礼のための道具と思われるものが作られました。土で女性の姿を表現した土偶は草創期からありましたが、後・晩期に盛んになります。男性性器をかたどった石棒は前期からありましたが、この時期には石剣などの形を生み出し、さらに儀礼に用いられた見られる土面、土版、石版などが大量に作られるようになりました。透谷地方の亀ヶ岡式土器では、さまざまな形が作り分けられ、その表面は複雑な文様で埋め尽くされました。生活に息詰まった縄文人がその打開を願って神に祈ることが多くなったのでしょうか。集団墓地に石組みを加えたストーンサークルや、北海道に見られる墓地の周りを円形の土手で囲った周提墓のような大きな建造物も多くなります。祖先とのつながりを重んじ、その庇護を求める気持ちの表れかと思われます。このような後・晩期のありかたに、縄文文化というものの限界が認められるものであるといえるでしょう。
しかし、目を移して西日本をみると、後・晩期になると増加や拡大など一定の上昇傾向が見られます。土器で見ると初め東日本の影響が強いのですが、やがて文様が質素になり、黒色に焼き上げた表面を磨き上げるものが増えていきます。ドングリや栗は秋の一時期に集中的に収穫される為、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる為、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方もあります。
九州西北部の佐賀県や長崎県のリアス式海岸では、縄文時代を通じて外洋での漁労が盛んな地域でした。シカの角で作った軸の部分とイノシシの牙で作った針先の部分を結びつけた西北九州型と呼ばれる独特の釣り針が作られました。この特徴的な釣り針が韓国の南岸の遺跡で発見されています。また、韓国独特のオサンリ型と呼ばれる結合式の釣り針が九州側で見つかっています。このように縄文時代にも朝鮮海峡を越えての交渉が両方にわたって分布しています。
このように、縄文時代にも九州や北海道では大陸との交渉を示す遺物が発見されています。しかし、弥生時代や古墳時代における朝鮮半島や中国との活発な文化的政治的な交渉から受けた大きな影響に比較するなら、縄文時代における大陸とのつながりはずっと弱いものでした。日本列島の中で独自に育った文化という点にこそ、縄文文化の基本的特徴があるといえます。
縄文文化の伝統は、弥生時代に薄まりながらも、東日本ではやや強く残り、北海道ではさらに強く、そのまま維持され「続縄文文化」と呼ばれるものに移行します。また、南の沖縄でも弥生文化の影響に比べ、縄文の伝統が比較的強く残ったと考えられています。こうして日本列島は大きく三つの文化地域に分かれることになります。
10.但馬の貝塚
円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。
太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。二つの伝説に共通しているのは、円山川が流れる国府平野以北の下流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。「神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点です。
実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのです。縄文時代で書いたように、今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられています(縄文海進)。但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いているそうです。豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっています。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚ですが、現在の海岸線からは十数kmも離れています。長谷貝塚はさらに内陸寄りにありますが、縄文時代後期の貝塚が見つかっています。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っています。縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないでしょうか。
中谷貝塚(なかのたにかいづか)
豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。
長谷貝塚(ながたにかいづか)
豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。
現代-9 地方分権
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政治と非政治のあいだ
1.グローバリゼーション
「ナショナリズム」といわれる19世紀に始まった標準化された言語・文化による国民国家。それに対して現在、輸送や通信のシステムが世界規模で整い、距離と時間を越えて互いに関連し合う状況が生まれました。「グローバリゼーション」の波である。グローバリゼーションは、二種類の評価が存在する。一種の進歩、チャンスとする見方で、今後の世界が進むべき方向を示唆する現象と考えられます。「世界市民」という理想は古くから存在したし、国家間の相互依存の強化が、平和構築に貢献するという考え方は古くからありました。グローバリゼーションは、民主主義のような価値が、国境を越えて広がり、実現していくチャンスだと考えることもできます。これとは対照的に、グローバリゼーションを偽装したアメリカ化ととらえる見方もあります。グローバルな基準が、結局は現在政治、経済、軍事的な覇権を握っているアメリカに有利なものとなる傾向があります。文化のような個性を重んじるべき領域でさえ、アメリカ的、もしくは物質・商業的価値が侵略していると考える人々も出てきました。それは結局、世界的に広がる資本主義体制の促進(それに伴う不平等の促進)を隠蔽する、イデオロギーにすぎないのではないか、という批判です。
こうした評価とは別に、グローバリゼーションという言葉を、現在の主な現象として四つのことがあげられます。
第一に、大量の人口移動です。大量の人間が国境を越えて移動する時代になっており、例えば難民問題を計算に入れない国家戦略は難しくなってきています。
第二に、人の移動は、文化の変容を巻き起こします。情報産業や娯楽産業の世界規模での発展が加わり、文化の単位としての国家という考えは大きく揺らいでいます。
第三に、経済のグローバル化があります。国民国家の特徴は、国家政府の統治を通じて国民経済を発展・維持させるという点にありました。雇用や金融、貿易量といった問題に、政府は制御を加えていました。市場のグローバル化は、こうした一国政府の統治能力を著しく低下させました。
第四に、リスクのグローバル化があります。経済のグローバル化は、経済危機のグローバル化を伴います。コミュニケーションの国際的促進は、犯罪のグローバル化を生みました。違法な物や犯罪者の移動を、一国の警察だけで監視することは難しくなりました。現在極めて容易に国境を越えて移動しています。
2.政党とは何か
かつて政党はイギリスの政治学者E.パーカーによって「国家と社会の架け橋」と評されました。またアメリカの政治学者E.E.シャットシュナイダーは、政党を「民主主義的な政治のメーカー」であり、「政党は、単に近代政治の付属物ではなく、近代政治の中核であり、そしてそのなかで決定的にして創造的な役割を演じている」と表しました。確かに20世紀の前半までは選挙制度と並んで代表制民主主義を駆動させるエンジンの一つとして、このような政党を賞賛する声が満ちあふれていました。しかし今日においては、政党に対する不信感が世の中に充満しています。日本における近年の世論調査が示す、時には50%を超える無党派層の存在はその象徴です。
我々が考えてきた政治は、民主主義と自由主義の思想に基づいています。しかし、この二つは同一ではありません。民主主義は「統治者と被治者の同一性」という原理を含んでおり、自由主義は、「公と私の分離」という原理を含んでいます。自由民主主義という政治は、この容易には両立しがたい葛藤を抱え込んでいます。この葛藤は、政府をはじめとする公的領域を、すべての私人が選んだ代表者によって制御するという方法で対処されてきました。そしてこの代議政治の諸問題を解決するために、さまざまな方法が試されてきたのです。
つまり、公と私の区別という、自由主義的な政治観の再検討です。これは言い換えるなら「政治的なもの」と「非政治的なもの」の区別を再考することです。この問題こそ、現代の政治のあり方を考える際にしばしば提起される重要なテーマだといえます。
我々は、「政治的なもの」に関する再検討の必要性を確認したいと思います。
我々が政治に無関心である一つの問題点としては、戦後の日本の政党がわかりにくいことです。もともと民主主義の理念による自由党と民主党が合併し自由民主党(以下自民党)が発足しました。政治学の定義では上記のように民主主義と自由主義とは同一ではありませんが、かといって旧社会党を中心に発足した民主党や自由党が合併して今の民主党という政党も自民党に対して違いがわかりにくいものです。また政教分離に反するような政党が与党に参加していることこそ問題であるといえます。しかし、日本以外でも宗教思想と政治が全く関連がないことはないのですが、そうした個人個人の意志ではなく組織的な選挙は危険であります。政治に関心を持とうとしても、とくに国会は国民生活から乖離した議論を繰り返してあまりにも膨大な国家予算と公的な時間を浪費している以外の何者でもありません。
前出のシャットシュナイダーは、1942年にその著書『政党政治論』の中で、「近代民主政治は、政党競争の副産物なのである」と述べています。すなわち今日民主政治は国民自らが選挙において指導者也代表者なりを選べることを最大の特徴とするようになったが、そのような選挙の存在が政党を発展させたというよりは、政党の選挙を通じての権力獲得のための努力が、政党よりも古い歴史を持っている選挙に大きな意味を与えていたとおうのです。
3.政党の機能
政党の第一の機能は、利益の集約による選挙民の組織化であう。そのままではそれぞれ異なった利害関心を有し、個々バラバラのまま、自分自身や社会の未来に関してどのような選択を行えばよいのかわからない選挙民に対して、市民の中から表出されたさまざまな要求を政策という形で具体化された少数の選択肢として提示し、選挙民の選択に関わる負担を軽減するという役割を担います。第二の機能は、政治的リクルートと政治的リーダーの選出です。政党に所属していなくても無所属という形で誰しもが自由に立候補でき、その首長が多くの支持を得て選挙に勝ったならば、代表として議会に臨んだり、大統領といった政治的リーダーになることが可能です。しかし必ずしも彼らが政治家たるに相応しい決断力、責任感、さらには情熱といったものを備えているわけではありません。多様な国民の中から、政治家として相応しい人物を発掘し、国民に提供するという責任を担っているのが政党です。すなわち、政党は所属する個々の政治家の保証人としての役割を果たしているのです。さらには政党は党内におけるリーダーシップ獲得の競争を通じて、国家の舵取りを担うに相応しい指導者を養成し、国民に提示します。
第三の機能は、政治的社会化です。人は生まれてから政治社会に有権者としてデビューするまでに、ある一定の政治的指向や知識を持つことが期待されています。政党は、街頭演説、パンフレット、ビラ、さらには今日ではホームページ等のさまざまな手段を用いて政治問題に関する情報の提供を国民に行っています。そのことは選択に必要な情報の蓄積に役立っています。ただし、今日においては、政治的社会化を担うアクターとして政党以外に、家族、仲間集団、学校、マスメディア等も存在しています。さらにいえば、政治的社会化の担い手は政党というよりはマスメディアとなっています。
かつては、選挙民の第一の目的は選挙で代表を選ぶことであって、選ばれた代表は政策をつくり決定するという政治的分業を市民も受け入れていたといえます。「市民たちはたいていの場合、代表制のコストの一部として容認している」とまで述べたのは、現代民主主義の代表的な研究者として知られるR.A.ダールでした。
しかしそれは、政治についての情報があまり行き渡っていなかった時代で通用したことです。新聞以上に単純化した形で政治のことを伝えるようになったテレビの普及と共に、新たな反政党論がわき起こったのは偶然ではありません。さらに今日においては、インターネットという新たな情報メディアの発展が市民における政治的情報の蓄積に大きな役割を果たすようになってきています。今まで余り知ることのできなかった政治の世界におけるさまざまな出来事を、以前より容易に知ることができるようになりました。テレビに映し出される居眠りをしている国会議員にとどまらず携帯電話をしたり、無用な揚げ足取りをして党利党略を行う議会、その議員の表情を見ればその議員が何を言っても、嘘かどうかが瞬時に伝わってしまいます。議員数削減が急務であるとか、参議院は不要だ、という声が多いのもわかります。何より諸問題が山積みとなっている現代に、相変わらず提案から審議・可決まで、あまりにも時間がかかる現状の国と行政のシステムを改善することこそが、地方自治体以前に行うべき最大の改革ではないでしょうか。
一般市民の基本的な政治参加である選挙において、中心的な役割を果たしている政党に対して、もっぱらその不満の矛先が向けられるのも当然の話です。国民自らが判断し得なかったことのツケを負わされることに、もはや市民は我慢できなくなったのです。
以上のように自らが主体的に考え判断し得るようになった市民を前にして、かつては国家と社会の架け橋といわれた政党が政治的決定を独占することはもはや不可能となりつつあります。そのような時代にふさわしい役割を新たに見つけることが、政党の生き残りを左右することは間違いありません。政党が提案し、国民自らが決定するよいう新たな政治的分業、すなわちイギリスの政治学者I.バッジが提案したような「政党民主政としての直接民主政」、すなわち政党に媒介された直接民主制の構想もその一つでしょう。代表制と直接制とを両立させる半直接民主制の提案です。現在の代表制の下において、政策を提案し洗練させ、市民の投票を指導し組織化するという二つの役割を担わせるかわりに、重要な問題の決定は市民の投票に任せようというのです。政党自らが特権の一部を放棄することが、新たな政党政治の未来を切り開くのです。
4.政治と非政治のあいだ
グローバルなネットワークの形成に国家以外の主体として、NPO(非営利組織)やNGO(非政府組織)があります。こうした公共的な問題に、公共的な仕方で貢献する国会外の組織の重要性が、注目されています。一見私的に見える活動でありながら、その性質上公共的な利益の実現を促進する可能性をもつ、さまざまの自発的な組織や団体を「市民社会」と呼ぶことがあります。それには、NPOやNGOといった言葉が生まれる以前から、各種ボランティア団体、教会、文化サークル、学術団体、労働組合、スポーツ団体、市民運動等といった、さまざまな協同社会が含まれます。
市民社会が注目されるようになった理由の一つとして、1989年の民主革命に結実した東欧の民主化闘争において、教会や労働組合に集う普通の人々のネットワークが、政党に支配された権威主義的な官僚制国家に対抗する、批判的な公共圏として働いたのです。こうした普通の市民が自発的に形成する公共性の可能性が、国家の統治能力の問題性と限界性が指摘されるなかで、再評価されるようになってきています。こうした「市民」論は、代表制によって形骸化した民主主義を再活性化させるものとして期待されています。とはいうものの、市民社会の内部にも権力は存在します。そして市民社会が現実として国家の内部に存在しているがゆえに、活動は間接的に国家の統治を被っています。その限界を考慮に入れつつ、新たな政治の空間として、市民社会の可能性を探っていく必要があるでしょう。
公私の区別に依存する政治は、しばしば現実に存在する対立や抗争を適切な仕方で公的領域に吸い上げず、非政治的な問題として私的領域に封じ込めてしまう危険性があるといわれます。圧力団体や政党、マスコミ等を通じて、議会のような公的空間において論争化されるものだけが「政治的なもの」なのではありません。こうした政治の制度や慣行が無視し隠蔽する問題のなかに、我々が公的に対処するものが潜んでいるのかも知れないのです。公と私の区別は、固定的な基準として考えるべきではない。むしろ、その区別をすることの「政治」に配慮すべきであり、いかなる「政治」を求めているかが問われています。
自由に国境も存在せず環日本海を交易していた古代のアジア。今と比べて文明の進化といったものの以前に、古代の人々がはるかにグローバルな視野を持っていたのではないかと想像すると、この21世紀において「ナショナリズム」と「グローバリゼーション」の対峙は、一種の進歩、チャンスとすると、あまりにも議会や行政の仕組みが波についていけず、時間や財源の浪費以外の何者でもないことにわれわれは癖壁としています。
現在を特に、市民にとって必要なのは、政治に関する想像力、つまり「いまある政治のあり方」以外の「政治」を構想する力である。それは自分たちの生活世界を足掛かりとして、より善い、少なくともよりましな社会をつくろうと、努力することではないでしょうか。
<http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司放送大学准教授 山岡 龍一
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たじまる 地方自治-8
北近畿の都市圏
3.住民自治と団体自治
国は公正かつ普遍的な統治構造を維持するため、国家全体の運営について画一的、均一的運営を行うことが要請されるが、地方の実情や地方における住民からの要望は各地方によって様々であることからこれをすべて同一に運営することは不可能であり、地方の運営に当たっては地方の独自性を考慮する必要が生じる。
そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、国は国家に係る根幹的な事柄を担当し、かつ、国家全体の総合的な調整を図るという役割分担がなされることになる。すなわち、地方自治とは国による統治に対立する側面を有しており、住民自治と団体自治というふたつの概念を持つ。
住民自治
住民自治とは地方の運営はその地方の住民の意思によって行われるべきという概念でありイギリスで発達した。地方自治法で認められているもの
直接請求
イニシアティブ(住民発案)条例の制定、改廃請求(第74条)
事務の監査請求(第75条)リコール住民投票が必要なもの
- 議会の解散請求(76条)
- 議員の解職請求(80条)
- 長の解職請求(81条)役員の解職請求(86条)
- 役員は、副知事・助役・出納長・収入役・選挙管理委員・監査委員・公安委員のこと。
住民監査請求
住民は、長・委員会・職員について、違法もしくは不当な公金の支出等があると認めるときは、これを証する書面を添え、監査委員に対し監査を求めることが出来る(242条1項) 住民訴訟(242条の2)
団体自治とは、地方の運営はその地方に国とは別の、独立した、自治権を持つ地方統治機構(地方公共団体、地方政府等)により行われるべきという概念であり、ドイツで発達した。町村<郡・市<都道府県<中央
北近畿の都市圏
都市圏とは一般に、核となる都市および、その影響を受ける地域(周辺地域、郊外)をひとまとめにした地域の集合体であり、行政区分を越えた広域的な社会・経済的な繋がりを持った地域区分のことを指します。自然、歴史、文化など生活を取り巻く環境を概ね共有し、圏域内に居住する人々が概ね域内に通勤・通学先を求め、医療、買物、公共サービスなど都市的サービスも概ね圏域内で享受できるような地域的まとまりのことです。例えば、新しい国のかたち「二層の広域圏」を支える総合的な交通体系最終報告(2005.5、国土交通省)では、人口規模30万人前後、時間距離で1時間前後のまとまりを目安とした圏域としています。
車社会化が発達した20世紀末には、中心都市の市域を大きく超えて生活圏が形成されるようになり、21世紀になって「平成の大合併」と呼ばれる広域合併が行われました。しかし、アメリカでは都市圏について公式に定められているそうですが、日本においては公式の定めはありません。兵庫県但馬地方は、豊岡都市圏(経済圏)を形成する兵庫県北部の中心都市です。豊岡市の人口は86,895人(推計人口、2008年7月1日)、697.66k㎡となり、豊岡都市圏は11万8565人です(10%通勤圏:毎日の決まった人の移動に注目した都市圏。周辺市町村の定義は、通勤・通学者数の割合が10%以上としています。)。
北近畿では舞鶴市90,121人、342.15k㎡、福知山市80,302人、552.57k㎡。福知山都市圏は、福知山市全域と、綾部市全域、京丹波町の一部、丹波市の一部を指す。兵庫県の丹波市や周辺市町村からの通勤や買い物客も多く、2000年現在で13万6096人で北近畿最大。豊岡都市圏、舞鶴都市圏と並んで北近畿の中心的な都市圏となっています。舞鶴都市圏は、舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部などを含み、その都市圏人口は約12万人。
これに福井県嶺南地方を含めて北近畿開発促進協議会が昭和62年に発足しています。地域の歴史を検証すると、この4地域は古来より風土・文化面で交流がさかんであり、鳥取豊岡宮津自動車道の早期開通などに総合整備が進められています。
兵庫県 | 豊岡都市圏 | 11万8565人 | 豊岡市・香住区・京丹後市久美浜町 |
京都府 | 舞鶴都市圏 | 約12万人 | 舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部 |
福知山都市圏 | 13万6096人 | 福知山市・綾部市・京都府京丹波町和知町・兵庫県丹波市市島町 |
10万人以上の都市雇用圏(2000年国勢調査時点の10%都市圏。アメリカでは都市圏について公式に定められているが、日本においては公式の定めはない)
「10%通勤圏」。金本良嗣、徳岡一幸両氏が「応用地域学研究」(2002) で、DID(Densely Inhabited District:人口集中地区)人口を利用して中心地域を決め、その地域の雇用求心力を基準に設定された都市圏。
※日本の都市圏設定基準 10%都市圏…通勤・通学者数の割合が10%以上
島根県 | 中海・宍道湖経済圏 | 約68万人 | 出雲都市圏・松江都市圏・米子都市圏 |
出雲都市圏 | 17万3715人 | ||
松江都市圏 | 22万5937人 | ||
鳥取県 | 米子都市圏 | 25万2387人 | |
倉吉都市圏 | 11万6650人 | ||
鳥取都市圏 | 24万9067人 | 鳥取市・兵庫県新温泉町 | |
福井県 | 福井都市圏 | 56万0601人 | |
武生都市圏 | 11万4823人 | ||
敦賀都市圏 | 8万8928人 | ||
小浜都市圏 | 4万4395人 | ||
石川県 | 金沢都市圏 | 73万2467人 | |
小松都市圏 | 13万8908人 | ||
富山県 | 富山都市圏 | 54万1761人 | |
高岡都市圏 | 37万4530人 | ||
魚津都市圏 | 13万4411人 | ||
新潟県 | 燕都市圏 | 121,606人 | |
新潟都市圏 | 94万7310人 |
米子都市圏は松江都市圏、出雲都市圏と隣接しており、3つの都市圏は相互に重なり合った構造を示しており、全体としてつながりを持った大きな中海・宍道湖経済圏を形成しています。 福井県南部の嶺南(若狭湾沿岸)地方を1つの都市圏とすると、小浜都市圏4万4395人、敦賀都市圏8万8928人を合わせて、133323人です。但馬・丹後・丹波ならびに関西に依存度が高い福井県嶺南(若狭)地方は、歴史的経過から、本来一つの県として考えるべきであるともいえますが、明治初期の数回に及ぶ廃藩置県の歴史的経過から、3府県に分散されました。2.豊岡市の概要平成17年4月1日、豊岡市、城崎郡日高町、城崎町、竹野町、出石郡出石町、但東町の1市5町が対等合併し誕生しました。新しい市章はとよおかの「と」とコウノトリがはばたく姿をイメージして一般公募によるものです。 豊岡市の隣接する自治体は、兵庫県では養父市、朝来市、香美町、京都府では京丹後市、福知山市、与謝郡与謝野町。豊岡市は、日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、コウノトリの保護・繁殖・共生の事業が行われています。また、城崎温泉、但馬海岸、城下町出石、神鍋高原等観光資源も日本海から高原まで豊富です。日本海に面しているところでは海水浴場や海の幸、山ではスキー場、また城崎温泉があるなどレジャー施設が非常に多く、但東町は日本標準時間である子午線(統計35度)が通過し、豊岡市は、日本一のかばん(バッグ)の生産地として広く知られています。 合併後の豊岡市は、兵庫県内で最大面積を占めます。ちなみに兵庫県で豊岡市に次いで面積が広い神戸市は、豊岡市合併までは県内最大の面積:552.23平方キロ(※境界未定部分あり)、総人口:1,533,172人、人口密度:2,780人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)でした。東京23区の総面積:621平方キロ、人口:8,727,326人、人口密度:14,043人/平方キロに対し、豊岡市は、面積:697.66平方キロ、総人口:86,873人、人口密度:125人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)です。 豊岡市の生活圏とくに兵庫県は、政令指定都市神戸市を県庁所在地として、5つの旧国から構成されています。それが多彩なカラーを持ったユニークな県として成立しています。しかし、但馬地域から県庁の神戸市までよりも、大阪・京都へのアクセスが便利で、鳥取・福知山・姫路の方がさらに近い土地柄です。日高町の場合、かつて昭和大合併で旧気多郡内の6つの町村(日高町・国府村・八代村・三方村・清滝村・西気村)が昭和に合併し新日高町になりました。ほぼ一つの郡域が一つの町になったことから、但馬の市町の中でも面積は最も広いですが、大部分を山林が占めています。それぞれ旧町村は、それぞれの地区単位の公民館、小学校校区として残っています。 豊岡市は旧豊岡市(町)しての機能もあるのと同時に、かつての郡・広域自治体として共同自治を行っていく必要があり、それはかつての出石・城崎郡役所が置かれていた機能とどう違うのかが分かりづらいのではないでしょうか。かつて郡役所が廃止されたのかは、二重行政の簡素化にあったといえるでしょう。新豊岡市は、こうした複雑な二面性を兼ね備えた自治を問われることになるのではないでしょうか。それは、規模は異なりますが、東京都における特別区、大阪府における大阪市など全国の自治体も同様ではないでしょうか。 このように広域なため、旧市町間の疎通はあまりなく、緊急体制に時間を要するようになるのは必至で、政府が進める機能集約化と地域住民の利便性は矛盾するものであって、少子高齢化が進む中において役場機能の集約化による旧町の衰退、医療、買い物等の不便さは増しており、今後合併後の広域行政のあり方には多くの問題点を含んでいると思えます。 政府(総務省)の特例法による平成の合併を考えるとき、国→地方自治体という流れで効率を追い求めては行けないと思います。車で移動する手段がない時代までは、小さな村社会がコミュニティを形成して、それは閉塞的な面はあるが、しかし、少子高齢化が進む中で、歩いて生活できていた各区の、隣保のコミュニティの機能が、相好援助の細やかな自治機能が守られていたのではないでしょうか。日常の疎通が希薄になっている昨今、果たして合併という効率化の方向がまったく正しいひとつの手段だとは思えないのです。 各地域がそれぞれ培ってきた伝統・文化は、長い歴史の中で改めて自然に、必要、必然的に生まれてきた、最も合理的でベストな経過でもあるのではないでしょうか。その最も小さなコミュニティ社会である村を基本に大切に守り育てこそ、町が成り立ち、県、州、それぞれの役割をしっかりと機能を果たせるものにしながら、国が形成されるのではないでしょうか。 歩いて生活できる範囲、目の届くエリアこそがムラが生成された生活の根本です。それは省エネ、コミュニケーションでもあり、合理的な智慧であったのではないのでしょうか。国が出来て村が生まれたのではないからです。まず人が集まりはじめ、村が発生し、小国家が生まれ、国が生まれたのです。小さなコミュニティでできることは小さな単位で、できないことは大きな単位で。それが機能的、合理的な役割分担社会の地方自治の基本であるといえるであろう。 合併は、地理歴史や交通体系、住民の生活圏が異なる複数の地域を併せ持っている市町村で実施されることが一般的です。第二次世界大戦中に国策で合併した町村が戦後に再分離されたり、昭和の大合併で合併した町村が、新市町村内の対立で分離されるといった例がありました。農協の合併、市町村合併、郵政事業、医療制度など、必ずしもデメリットばかりではないと思いますが、果たして合併は本当に正しい方向に向かっていくのでしょうか。 欧米では市町合併はそんなに進んでいません。イタリアでも行政の合併が図られていますが、町の数は中世からあまり変わっていないようです。大きく異なる点は、議会や行政を専業ではないボランティアで行ったり、地域に合ったさまざまな行政体が存在するようです 出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 たじまる 地方自治-7さて、いま「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。 1.道州制道州制を考える際には、「現行の都府県より広域の地方公共団体をどう設置するか」が論議される事になります。道州制の論議は今に始まったことではなく、明治維新までにおける、現行の都府県より広い地域を統治した広域行政体やその範囲の変遷は、大雑把に以下のようになっています。
たじまる 地方自治-6
1.新憲法における地方自治明治憲法は、地方自治に関する規定は存在せず、あくまで国の行政の一環として地方行政があるという位置づけでした。しかし、市町村には一定の自治が認められており、大正デモクラシー期には地方自治の拡充という動きもありましたが、それら市町村は、国の地方機関としての都道府県下に置かれるものであって、本来的な意味での地方自治が達成されていたとは言い難いものでした。 これに対して1946(昭和21)年に公布された新しい憲法は、第八章に地方自治の章を設け、国家体制のなかで明示しています。憲法のなかでは「地方自治の本旨」がうたわれ、さらに1947年には「地方自治法」が施行され、府県知事は官選から公選に、また府県の役割自体も広域自治体としての性格を持つようになりました。 その一方で、自治に「不慣れ」な市町村に対する中央省庁の不信感も根強く、いかにして地方をコントロールするかが大きな問題となっていました。こうしたなか、各省は国の事務権限を都道府県から引き上げる方針が明らかにされたことをきっかけに、その妥協の産物として都道府県知事や市町村長などを国の機関と見なして国の事務を行わせる、「機関委任事務」を多用するようになりました。これ以降、1990年代に地方分権改革論議が高まり、機関委任事務が廃止されるまで、機関委任事務は、国の地方に対する重要なコントロールの手段として用いられることとなりました。 1.シャウプ勧告1949年に提出された「シャウプ勧告」は、地方公共団体の財政的基盤を強化することをめざして以下の三つの原則を示しました。その内容は、国庫補助負担金の大幅整理、税源分離原則、のちの地方交付税の原型というべき「平衡交付金制度」などからなるものでした。
実際には、シャウプ勧告は、日本の実情に合わないとする中央省庁の強い反発にあい、その内容が反映されるのはごく一部にとどまりました。また市町村優先主義の明示は、戦前に地方行政の機関として機能してきた都道府県の反発をも招きました。 やがて1952(昭和27)年、講和条約により日本の再独立が認められると、こうしたシャウプ勧告に示された方向性は転換されました。そして1956(昭和31)年に改正された「地方自治法」では、都道府県と市町村の指揮監督の関係が明確にされ、終戦直後に目指された市町村を中心とする地方自治を構築しようとする試みは、いったん閉ざされることとなりました。こうした動きが再燃するのは、1990年代の地方分権議論に際してでした。 「政治学・行政学の基礎知識」 著者: 堀江湛・真下英二 1.地方公共団体の財政膨大な借入金残高を抱えるなど、現在、日本の地方財政はさまざまな問題を抱えていることが指摘されています。そもそも戦後日本の地方財政は、自治体の税収が歳入全体の三割程度にしかならないことから生まれた「三割自治」と言う言葉に象徴されるように、憲法に保証された自治を可能にするための基盤が極めて弱い。シャウプ勧告は市町村財政の基盤強化を唱えましたが、中央省庁や都道府県の反発により頓挫した経緯もあり、地方公共団体の中央への財政的依存度は非常に高いものです。 国や地方公共団体の活動のための歳入の基本となるのが「国税」及び「地方税」です。2001年度の国民が負担する租税のうち約六割にあたる約50兆円は、国の財源となる国税です。これに対し同年度の歳出は、国と地方の歳出純計額約160兆円のうち、地方は約96兆円と、国の約1・5倍になります。つまり、地方は収入が少なく支出が多い状態にあるわけです。地方公共団体が活動するためには、国から相当の財源移転を行わなければならないわけです。 地方公共団体の主な財源は、地方公共団体の税収である「地方税」と、国税として徴収され、一部または全部が一定の基準で地方公共団体に譲与される「地方譲与税」「地方特例交付金」「地方交付税」「国庫支出金」、さらに借金にあたる「地方債」です。 このうち「地方特例交付金」や「地方交付税」は国からの財政移転ですから、地方独自の収入となるのは「地方税」と、実質的に地方税とほぼ同じ性格を持つ「地方譲与税」です。そして地方公共団体の歳入のうち、これら財源が占める割合は、平均で三~四割程度に留まっています。つまり、必要とされる財源のうち六割は、国からの支出や借金に頼らざるを得ないということになります。 「国庫支出金」は、いわゆる補助金で、公共事業や義務教育など、地方公共団体が行う特定の事務や事業に関わる経費について、国がその使途を指定して支給するもので、地方公共団体としては、獲得するために特定の事業を行ったりするために地方行政が硬直化する可能性があります。また、地方行政体制の縦割り化を促進することにもつながります。 「地方交付税」は、富裕団体とそれ以外の団体との格差をなくそうとするもので、使途も限定されていませんが、財源の乏しい地方公共団体ほど多額の交付税を公布されることにつながり、地方が自助努力によって収入を増やそうとする意欲を失わせてしまうとの批判もあります。 これら国からの支出に、歳入の六割を依存している現状では、地方公共団体の活動に一定の裁量権が与えられたとしても、これを自主的に実施できる可能性は大幅に低下します。その結果、地方公共団体の活動は、財政を通じて国のコントロールを受けることにつながっていると考えられています。 1.平成の大合併明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。 次ぎのような大きな流れを経ています。
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2.平成の市町合併の目的
政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。
- 地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
- 車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
- 政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。 しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
- 住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
- 合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
- 合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
- 合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
- 「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
- 財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
- 各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
- 初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
- 財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。
これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。
反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。
もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。
3.市町村合併のメリット・デメリット
以下にメリット・デメリットを記載するが、規模等により大きく異なることがあるので、あくまでも一般的なものである。
メリット
- 住民生活の利便向上
- * 住民の生活行動圏に見合った行政サービスの広域化
- 通勤・通学、通院、買い物等の行動圏域は従来の行政区画を越えている場合が多いが、行政区域が広域化することによって、住民票の写しの交付等の窓口サービスが勤務地や外出先などの近くで利用できるようになる。また、文化会館、図書館、スポーツ施設等の各種公共施設については、それまで利用に制限がある、利用料金に差がある等した隣町の施設についても、同条件で利用が可能となる。
- * 住民サービスの高度化
- 住民の価値観の多様化により市町村行政に求められる機能も高度化・複雑化しているが、専門的知識を備えた職員を確保することにより、専門的かつ高度な行政サービスを提供できるようになる。
地域づくりの進展 - * 地域のイメージアップ
- 「市」への施行、あるいは新しい市町村名とすることにより、地域としての全国的なイメージアップが図られ、地域経済の活性化や若年層の定着、観光交流客の誘致、大型プロジェクトの誘致等へのプラス効果も期待できる。しかし、「市」の数が増えてしまうとせっかく「市」になっても知名度が上がらず意味がないことが多い。むしろ今まで知名度のある市町村名を消すことで知名度が下がることもある。
- * 地域づくりの契機
- 合併の議論を通じて、自らのまちを見直す機会となる。合併後も、まちづくりビジョン実現のため、住民、諸団体の地域づくりへの主体的参画が期待される。
- * 行財政の効率化
- 個々の自治体が行ってきた管理業務を一つに集約することにより、職員数や経費を削減する一方、新たな行政ニーズの発生している部門に充てることができる。職員数も人口当たり少なくなすることができるため、行政サービスの向上を図りつつ、人件費や経費を抑制することができる。ただし、合併で消滅する自治体においても市町村職員の地位は法律で保証されているため、人員抑制・削減効果が期待できるのは合併後数年以上経過してからとなる。また、支所の配置方式によってもその効率化効果はかなり異なってくる。
- * 施設の効果的配置
- 住民の生活行動圏に即した広域的な視点から公共施設を計画的かつ効率的に配置することとなり、隣接した地域での類似施設の重複を避けることができる。ただし、合併前の駆け込みで事業実施する等の弊害も生みがちである。
権限の拡大、行政能力の向上 - * 行政の高度化・専門化
- 長期的には、行政規模拡大により生み出された財源や人員の余裕を、現代においてニーズの高い都市計画、環境政策、情報化、法務等、高度に専門性を要する分野へと振り向けることにより、多様で専門的な人材を長期的に確保し、行政サービスの高度化・専門化を図ることができる。
また、計画的かつ体系的な職員研修プログラムなどを通じて、行政職員の政策形成能力の向上が図られる。 - * 広域的な地域づくり
- 広域的な視点に立った交通基盤や各種公共施設の整備、総合的な土地利用の推進などにより、一体的な地域づくりを効果的に実施することができるようになる。さらに、環境問題や観光交流振興など従来の市町村域の枠を越えた広域的な取組みが求められる領域においても、一体的な対応が可能となる。
さらに、政令指定都市、中核市、特例市や市制への移行等により、自治体としての権限が拡大する効果も期待できる。 - * 大型事業の実現
- 行財政の効率化によって生み出される財源を、選択と集中により、新たな地域づくりや産業振興のために重点的に投資することが可能となる。財政規模の拡大によって、重点的な投資が可能となり、今までの個別自治体の規模では困難だった大型事業を計画的に実施することができる。
デメリット
* 端々の地域が寂れる庁舎の存在する地域は市町村の目も届き、各種事業が実施される。しかし、周辺部においては強く事業実施を要望しても、取り残されることはほぼ確実であり、中心部と周辺部の格差が拡大しがちである。また、それまで行なってきた地域づくり活動が継承されず、その成果が省みられなくなってしまう。例えば、2005年に合併した北海道の(新)石狩市では、南北に細長い地形と住宅密集地が南部の地区に集中していることも相まって、北部の旧厚田村(今の同市厚田区)や旧浜益村(今の同市浜益区)で顕著である。
ひいては、従来の歴史、文化、各種伝統行事といった地域の特徴が失われる恐れがある。地区出身の町村職員が自発的に地域文化を支えてきた面も一部にはあり、これら職員が本庁に吸い上げられることによって、担い手が確保できず消滅することになりかねない。
* 市町村行政と地域住民との距離の拡大行政組織が大きくなって、また議員の数も減少し、地域の住民の意見が市町村行政に届きにくくなる。また、行政の広報委員としての役目の他に、地域と市町村行政との実質的なパイプ役となってきた区長等の地区役員制度も都市部の様式に統一されることによって、機能が削がれる恐れがある。合併により誕生した岐阜県の新・高山市や同県の飛騨市が顕著な例である。
* 行政サービスの低下役所や公共施設への距離が遠くなり、不便になる。効率化によって、行政サービスが高度化するとはいえ、それらは長期的に効果発現するものであり、また直感的には感じられにくいものである。また、分庁舎方式で各旧自治体役場に各部署を分散させる方式を採った場合、申請や手続きの度にその部署を有する遠く離れた分庁に足を運ばなくてはならない。
* 住民・事業所負担の増大町村から市に移行する場合、今まで安かった公共料金が合併で大幅に値上がりしたりなど税等の住民や事業所の負担が増大することがある。例えば、函館市と合併した南茅部町、椴法華村、恵山町、戸井町では水道料金が大幅に値上がりし、ゴミと託児所が有料化された。
* 意見が通らなくなる比較的大きな市と小さな町村が合併した場合、両者の産業の種類に大きな差があると、小さな町村の産業は無視される。また、市長選挙でも大きな市ひとつの人口が他の町村の人口を上回ることがよくある。市議会選挙においても同様で、当選には旧町村議会とは比べものにならない票数を必要とするため、旧町村内で候補者を調整しても、数名の議員しか当選させられず、議会の主導権は完全に旧市側に握られる例が多い。また、選挙日の事務効率化で合併により開票所までの距離が遠いことで繰上げ投票時間を設定する必要が出てくる。
例えば、石狩市は石狩市と厚田村と浜益村が合併して誕生したが、旧石狩市は札幌のベッドタウンと商業港の町だったのに対し、厚田・浜益両村は漁業を中心とした村である。石狩市の人口は両村合わせた数の10倍以上であり、両村の意見はほとんど通らなくなる。
4.地方分権一括法
日本の中央地方関係について、その特徴を「集権的分散システム」と表現することがあります。実際、地方財政は国庫に、つまり中央政府による地方への財政移転に大きく依存しています。これは中央政府よりも地方政府の歳出額の方が圧倒的に大きいことを意味します。それに対して、歳入額は、税制上地方が受け取る金額は少なくなっています。
米国の場合、連邦政府が税財源を持ち、州や市、郡もそれぞれ税財源を持っており、必要な予算を賄う際には、一定の要件を満たせば、税率を変更することができます。これに対して、日本では多くの税財源について国、中央政府が一括して国民からの税金を集めるシステムになっており、国を介さずに地方へ直接納められる税金は限られています。
このように国に一旦税金を集め、それを配分していくシステムはある意味で集権的であるといえるでしょう。
そして、その税収をどう配分するのかは国の判断で決定され、その決定に基づいて地方交付税や国庫支出金という形で、均衡の原則に基づいて全国の自治体へと配分されています。
歳入の自治において、自治体は制約を受けており、各自治体は歳入の規模と内容を自ら決定することができません。つまり、自治体には「課税自主権」がないため、たとえば福祉を充実させるために、あるいは財政的な苦しさを理由に税率を上げたいと考えてもできないことになります。さらに、特別な税を自治体が独自に課そうとしても、中央政府の承諾なしには実施することはできません。
また、自治体からみると、歳入は「自主財源」と「依存財源」の二つに分かれますが、そのうち地方税は自主財源、地方交付税は依存財源にあたります。これらは地方自治体の一般会計に入るので、何にいくら使うかは自治体が決めることになります。これに対して、「国庫支出金」とよばれる補助金があり、これは各省庁が自治体に対して国が指定する業務を行わせるために配分される予算です。この他にも、予算の不足を補うために地方債という債券を自治体は発行しています。このように地方自治体は国の支持を受けることが多くなっているわけです。
地方分権一括法制定前
1990年代半ばから、こうした状況を改善すべく地方分権改革が本格化し、1999年「地方分権一括法」という法律が制定され、翌年4月に施行されました。これは均衡の原則よりも自治の原則を、より重視した内容です。この際に設置された、有識者などからなる地方分権推進委員会は、中央省庁による「縦割り画一的行政システム」をなくして住民主導による行政システムに改めようという結論を出しました。
この法律が施行される前の時代の地方自治制度についてみてみますと、一言でいえば、自治体の仕事の大半が国の仕事を肩代わりすることで占められていました。当時の自治体の事務には、公共事務、団体委任事務、行政事務、機関委任事務がありました。
- 「公共事務」…住民票を発行するなど自治体が本来行うべき事務
- 「団体委任事務」…法令によって自治体に実施が義務づけられた事務
- 「行政事務」…地方公共のための規制や取締りに関する事務 この三つの事務は自治体が当然に行うべき事務として位置づけられていました。そして、自治体のすべての事務の中で多くを占めていたのが、「機関委任事務」でした。それは、本来国が行うべき事務ではあるものの、国(各省庁)が3200市町村(当時)に出先機関を作って、国道や橋の管理を行うのは効率的ではないという考えから、地方自治体が国が決めたことをその通りに行う事務のことであり、所轄大臣が指揮監督して知事が執行し、さらに知事が指揮監督して市町村が執行するという図式になっていました。
そして、この機関委任事務が都道府県の仕事の80%、市町村の仕事の40%を占めていました。つまり、選挙で都道府県知事や議員を選んでも、実際に彼らは住民を向いて仕事をしなくなります。霞ヶ関に対して責任を負い、国から言われた通りにやっているかどうかが問われるからです。そうすれば、国から国庫支出金をもらうことができ、財政的にその自治体は維持されることになります。これが地方自治の問題の一つといわれてきました。自治体に委ねられた仕事の大半が中央省庁に決定権があり、自治体としての仕事と国の下部機関として行う中央省庁の仕事(機関委任事務)が融合しており、これを「集権融合型システム」と呼んでいました。
機関委任事務の廃止と法定受託事務、自治事務
機関委任事務を廃止しようという機運が1990年代になって高まり、やがて地方分権一括法の制定、施行にいたり、機関委任事務の見直しが行われました。
具体的には、機関委任事務の全704項目のうち、事務自体廃止となったのが11項目、国立公園の管理のように国の直接執行事務になったものが20項目、飲食店の営業許可や病院開設許可など、これまで国の事務だった398項目が「自治事務」として自治体、特に都道府県レベルの事務になりました。そして、これまで通り国が責任を負うもの、効率性、利便性を考慮して都道府県に処理を委ねられた事務が275項目あり、これを「法定受託事務」としました。これは以前の機関委任事務と似た性格を持つ項目といえます。公共事務、団体委任事務、行政事務も廃止され、自治事務に統合されました。
法定受託事務は、機関委任事務と似ているものの異なる点は次の三つです。
- 自治体が条例を作れるようになりました。
- 国と地方の間で対立した場合、国地方係争処理委員会が設置され、形式的には国と地方が対等な立場で話し合えるようになりました。
- 国が関与する最良並びに事務が減らされた。 しかし、裁量が広がったかわりに、自治体が国の言うとおりに処理しなければ補助金の支給等に影響が出てくるために、実際には地方が国の意向に反することはなかなか難しいよいう指摘もあります。▲ページTOPへ
5.三位一体改革
このように自治体の自助努力が促されない財政調整制度によって、より大規模な財政移転を迫られている国の財政が圧迫され続けています。そこで、国の負担を軽減するとともに自治の原則をより重視して自治体の財政基盤の強化を図るために、まず、自治体同士の合併が促されることになりました。つまり、財政規模が大きくなればより安定し、さらに首長や議会は一つに統合されるなど自治体経営も効率的になるという考えからです。
それまで100万人前後が目安となっていた「政令指定都市」は、70万人規模でも認められることになり、静岡市がその例として挙げられます。また、人口が30万人以上で面積が100平方キロ以上の自治体になると「中核市」ななることができるとし、旭川市、青森市、宇都宮市などが認められました。人口20万人以上の自治体は「特例市」に指定されることができるとし、盛岡市、福井市、鳥取市などが指定を受けました。
しかし、自治体への権限委譲の内容をめぐっては、地方分権推進委員会とそれに抵抗する霞ヶ関との折衝の末、政令指定都市や中核市、特例市になっても、さほど大きな権限が自治体に与えられませんでした。このように、地方分権一括法や大都市への権限委譲という過渡的処置では限界があったため、小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。これは、国から地方への補助金削減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直しの三つを一度に行おうというものでした。具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。
また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。
しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。
削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。
「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。
出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たじまる 地方自治-5
地方分権と市町村合併の歩み
概 要 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本の市町村の廃置分合とは、日本における市町村の分割・分立・合体・編入をいいます。地方自治法第7条の「市町村の廃置分合または市町村の境界変更」の一形態に当たる。 合体と編入とは合わせて合併といわれるため、合体・編入がほとんどである市町村の廃置分合は、一般には市町村合併といわれることが多い。 日本では過去、1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年の71,314から15,859に減少した「明治の大合併」と、1953年の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年を経て1961年までに9,868の基礎自治体が3,472に減少した「昭和の大合併」の大規模な市町村合併がありました。現在は日本では過去、1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年の71,314から15,859に減少した「明治の大合併」と、1953年の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年を経て1961年までに9,868の基礎自治体が3,472に減少した「昭和の大合併」の大規模な市町村合併がありました。現在は「平成の大合併」が進行中です。 日本では、明治以降、大局的に見れば市町村数は一貫して減少する傾向にあり、合併の例が分割の例に比べて圧倒的に多い。また、合併や分割の協議の決裂により、飛地が発生する場合もあります。 1.日本の地方自治「地方自治」という言葉は、元来、日本語ではなく、Local Self-Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentという英語を訳したものです。意味は、まさに自分たちで自分たちを統治する「自己統治」を意味します。米国では日本のような地方交付税制度はなく、義務教育をはじめさまざまな地方自治体による行政サービスの多くが地元の負担で行われています。これに対して、日本では中央政府が地方税に関して標準税率を定めており、課税については自治体側には決定権がほとんど認められていません。また、米国では消費税率は州によって異なり、独自に税金を課すこともできます。そのため、税負担が重くても行政サービスが良い自治体もあれば、その逆の自治体もあります。それが、自分たちがどういう自治体にするかを自分たちで決めることができるという、自己統治の意味になります。 地方自治を担うのが「地方公共団体」であり、この地方公共団体にはさまざまなレベルのものがあります。まず基礎的な地方公共団体としては、「市」「町」「村」があり、それは国、都道府県に対して末端に位置づけられる基礎的な行政単位となります。このような基礎自治体の上にあるのが市区町村を包括する広域の自治体で、都道府県になります。これらを合わせて一般に「普通地方公共団体」と呼びます。 「普通地方公共団体」の他に「特別地方公共団体」と呼ばれる自治体があります。東京都の23区がそうで、「特別区」といいます。東京都はかつて東京府であった時代には東京市が置かれ、郡・町・村の呼称を廃し、6の大区の下に97の小区を置き、「大区小区制」が敷かれました。1943年(昭和18年)1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され、同年7月1日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置されました。都下の各区は特別区と呼ばれ、「特別地方公共団体」に含まれます。区長や区議会が設置されており、政令指定都市の中に設置される区とは区別されます。政令指定都市の区は、基礎自治体が設定して行政区分であり、区長は選挙で選ばれるのではなく、市長が任命した職員が就いています。特別区は都道府県の市町村と同格といえます。
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