【但馬の歴史】(5) 大岡山と進美寺

大岡山と進美寺

南北朝のころ、気多郡(豊岡市日高町)の南東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、気多郡の西に位置する大岡山は、なだらかな稜線をした女性らしい山です。

『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。
山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。
引用:『日高町史』

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。

近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。

将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。

しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。

足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。

南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。

新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。

その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。

山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。

貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。

伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。

三開山城(みひらきさんじょう)

豊岡市駄坂  国道312号佐野付近から北方に見える

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会による話です。

豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。

室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。

延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。

その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。

このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。

しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

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室町 但馬守護 太田氏

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国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。

鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。
設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

■但馬守護
1185年~?  小野時広(惣追捕使)
1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
1285年~1321年 太田政頼
?~1333年 – 太田氏
1336年 今川頼貞
1336年~1338年 桃井盛義
1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
1340年~1351年 今川頼貞
1361年~1365年 仁木頼勝
1366年~1372年 長氏
1372年~以降1536年まで 山名氏

安達親長

但馬守護で最初に記録があるのは安達親長です。親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力しました。

豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

太田氏の繁栄と滅亡

むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘(おそらく大阪府高槻市土室)と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」に伺われます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。
武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

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多遅麻国造から国司但馬守へ

多遅麻国造から国司但馬守へ

但馬守たじまのかみ

960年頃 源経基
1010年頃 源頼光
1110年頃 平正盛
平経正
1130年頃 平忠盛
1182年 平重衡(権守)
矢沢頼康 柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主 戸田氏西 美濃大垣藩主 山口弘豊 常陸牛久藩主 浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主 遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主

但馬介たじまのすけ

? 源満頼
1224年 平有親
714(霊亀元)年 安部安麻呂
737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ)  記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。
天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。
地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ) 曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。 気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

気多神社

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世界では軍人は最も尊敬されている

産経
「家の小さなころからの行事。大臣だろうとなかろうと野田聖子として参拝している」。自民党には消費者行政担当相の野田のような閣僚もいるが、多くの議員は「中韓との軋轢(あつれき)は避けたい」と、靖国から遠ざかる。
自民党群馬県連で長年事務局長を務めた戸塚一二(77)(いちじ)は“戦略的参拝”を提唱する。
「自民と民主の決定的違いは、民主が異なるイデオロギーの寄せ集め集団ということ。国家観の伴うイデオロギー論争を徹底的に挑めば民主には絶対に負けない。靖国参拝も同じだ」

憲法改正と主権国家を目指すという結党以来の自民党精神をもっている現議員は一割程度だと聞く。
政治的に靖国を利用している中韓が大事なのか?今日の日本があるのは国のために尊い命を捧げられた英霊のおかげです。国の政治家としてどちらが主で副なのか。サンフランシスコ講和条約で決着していることだ。よその人にいわれたら、自分の国の英霊の供養をやめる理由がどこにあるのか?
あまりにも政治家は勉強不足。どちらのことを考えているのかが今問われている。
靖国神社や明治維新から大東亜戦争の敗戦、東京裁判の不当性、吉田元首相のサンフランシスコ講和条約による決着を知らない認識で、国の政治家として相応しいかが分かるのだ。政党を問わずこの国の将来を任せられる歴史を勉強した候補者に投票する。歴史を理解しているかで選ぶ目安として、ふるいにかけたらどうだろうか。
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靖国神社宮司に豊岡ゆかりの京極高晴氏就任

靖国神社で以下の記事をみつけた。

産経 2009/06/12 22:42

靖国神社は12日、総代会を開き、1月に急逝した南部利昭前宮司の後任に、京極高晴氏(71)を決めた。就任は15日付。南部氏に続き、2代続けて旧華族で神職経験のない民間企業出身者の宮司となる。

京極氏は旧但馬豊岡藩(兵庫県)の藩主だった京極家15代当主。東大法学部卒業後、日本郵船事業部長、氷川丸マリンタワー社長、関東曳船社長などを歴任した。

第10代宮司就任に当たって京極氏は、「御創立140年にあたるこの年に、宮司の大役を仰せつかることとなり、身の引き締まる思いでいっぱいです」とのコメントを出した。

前宮司の南部氏は1月7日、虚血性心不全のため急逝。後任人事は難航し、宮司は5カ月間、空席となっていた。

ロシアとアメリカの交渉

ロシアが北方領土への日本側の人道支援を拒否する姿勢を打ち出した背景には、「ソ連崩壊以降の困窮状態を脱し、経済復興を成し遂げたロシアには、もはや支援は不要だ」という自負がちらつく。崩壊したときが交渉のチャンスだったと思いますが、日本政府の外交や緊急時の対応には敏速さが欠けていることに苛立ちます。
ロシアが石油が高騰し崩壊の危機が免れたのですがここにきて石油が値下がりしたことによって、サハリンの開発に消極的になり、日本との開発協力や供給にメリットが薄れたのが今はない、また、グルジアとの問題があり、第二次大戦前に中国とアメリカに日本をやらせといてドイツとの戦争に集中した戦略経験から、石油がまた高騰するまではひとまず北方領土の外交カードを引っ込めたのが本質ではないでしょうか。KGB出身のプーチンならそれぐらいのことは熟知しているでしょう。もちろん、日本の政権交代でごたごたの中で今の政府では進展しないことも承知のはずです。
また、同じくしてクリントン元大統領の訪朝です。報道を見るとさすがに元大統領はすごいなと思いがちです。私的な訪問で資産家のプライベート機で費用の20万ドルは資産家の自費だったとか見え透いたうそをつく。勝手に国交のない北朝鮮や青森三沢の米軍基地で補給など許可しない。まして民間機のプライベート機なら軍事空域を飛行はできない。
アメリカ女性記者の開放に向かう動きは、政府諮問機関が水面下で何ヶ月も動いていたといいます。クリントンは元大統領だから実行できたというよりも、米政府の交渉ではなく非政府の人道支援であることを強調し、落としどころとしてオバマ大統領と同じ民主党の元大統領だから北朝鮮も拒否できない態勢にすることで、瀕死状態でアメリカしか頼るところのない北朝鮮のメンツを立てるというお互いのメリットを出し、すみやかに実行しただけに過ぎません。オバマにしても国内事情からの支持率低下と民主党の名目をアップさせるねらいがあったのです。

君主ではなく大統領や首席が最高位である米・ロ・韓、共産党一党独裁中国・北朝鮮などは、世界情勢にすみやかに対応するための判断が国の代表に絶対的権限がありますが、独断で行っているのではなく、政府とは別のトップ集団がいます。それらの国は、ついこないだまで核攻撃や軍事衝突という緊張体制から、いつでも緊急に動くことができる体制に慣れているのでしょうか。
それに引き替え立憲君主制の日本政府は、国防を日米安保に守られてきたことで、緊急対応ができないばかりか、平和主義を知っていますから攻めてこないと相手国に足元を見透かされてています。しかし、戦前の世界大戦でも日本は天皇や首相に絶対的権限がありませんから、開戦のときも終戦の決断も協議が難航した経験があります。
だからといって、ナントカ実現党などは大統領制にしようというマニュフェストですが、日本は立憲君主制をとっている古い国家なのでできませんしその必要性はあまりありません。それに引き替え、米朝は君主を否定した歴史が浅い国なので外交を行うにははっきり主張することでリーダーの存在感を内外に示す必要があります。日本は文化的に成熟した国なので、そこまでいわずとも分かるだろうという意識があり、いいたいことをずけずけ言う人を嫌いますが、そのような新興国を相手にする時は通用しません。また、真っ向から反論をするには、核も辞さない強力な防衛力が不可欠です。日本は有史以来、唯一大戦で米軍に本土を攻撃されたことを除けば経験がないので、世界も同じように平和な民族だと思っています。しかしそうした国こそいつも攻められはしないかと脅威を感じています。日本民族が本気で怒った時の団結力が恐ろしいことはまだ忘れていませんから。
日本でも2001年(平成13年)、総理府を内閣機能強化の観点から、内閣府とし、内閣を助けて内閣の重要政策に関する企画立案及び総合調整での決定権を強化しました。
外交交渉の駆け引きのタイミングを逃さぬように、内閣・外務・防衛との速やかな連携が最重要です。
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戦争と日本(5) 日本化する米国、米国化する日本

日下公人の「現実主義に目覚めよ、日本」 縛りのない相互信頼など世界では誰も守らない 2009/07/24
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090724/169746/?P=1

世界はもともと略奪主義であり、それがまだ抜けていない。略奪された人が文句を言えば、それは「自己責任」とする。世界は実態としてそういうふうに動いている。

「相互信頼が理想だ」などというのは、だましの手段でしかない。何らかの縛りがなければ、相互信頼を守る人は皆無である。縛りというのは、国連の規程で言えば、国際社会から外れたことをする国には国連の軍隊が罰を与えに行くということである。

しかし、国連はいまだに独自の軍隊を持っていない。国連常任理事国は、まずそれぞれの軍隊を派遣しなければいけないと決められている。そして、日本やドイツがまた侵略をすることがあれば、みんなでつぶすと決められている。ところが、それは発動されたことがない。国連が何を決めても、常任理事国が守らない。守るのに熱心なのは小沢一郎さんだけだろう。

それが世界の現状である。世界は、多少は文明化しようと思ってまだ努力中で、日本はもう文明化が完了している。完了しているがゆえに、日本は世界ではお人よし国家になっている。

日本がこれだけ大きな国になってしかも文明化されているのを、分かる人は分かっている。だから、日本には「国徳」がある。徳によって外国を感化している。最近ではそれがだいぶ進行している。しかし日本人の方が分かっていない。もう一息だと思ってお人好しを続けるべきか。それとも少しはごねてみるか。どちらにせよ、単なるお人好しでは世界をスポイルする。

日米の違いが、次第に小さくなっている

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090724/169746/?P=2

世界がようやく日本の恩に感謝するようになりかけたら、今度は日本人が「もうやめた」と言い始めた。そして今、日本は主体性を発揮し始めている。麻生外交がそうだ。麻生外交がやっていることを、テレビや新聞は、自分たちが主張してきたことと違うから褒めない。たとえ褒められなくても、麻生首相は主体性のある外交を行っている。

米国は日本の徳に感じたのかどうか、米国人は日本人そっくりになりつつある。まず米国人は貯金をするようになった。かつて、米国人は貯金をしない、借金で暮らすと言われたが、最近では貯蓄率が2%になっている。日本の貯蓄率は、ピーク時は10数%まであったが、最近は2%で、今や、米国と並んでいる。.

それから、米国はかつて豊かで月給が高いといわれたが、今は低賃金国になった。今回の大不況とドル安でもっと低賃金国になるだろう。日本もかつては月給が高いといわれたが、今は、同じように低賃金国になった。それを「格差」と言っているが、「米国並みになった」と喜んではどうか。

ドル安のため輸出が伸びれば、米国人は外国人の好みを謙虚に学ぶようになる。財政赤字のため、もう軍事力は使えない等々の諸条件が進むというのもある。貯金をする、質素倹約する、勤勉に働く、低賃金でも頑張る等々を合計すれば、米国人はこれから、かつての日本人のようになる。来年の統計が出れば、はっきりするだろう。
日本の思想は、日本語の会話の中に自然に入っている。「すまない」とか「もったいない」とか、そういう日本語の中に、日本の思想が全部入っている。それらをきちんと取り出して英語にすれば、外国人は感心する。
日本のメディアに載っている注目すべき論文・タイトル・著者、あるいは反米主義者の論文などを、片っ端から英語に翻訳して、会員限定で配っている。それを読んだ人から反響がある時代になった。

日本人はもう英語を勉強するより、自分の文明・文化・思想をいっそう磨いた方がよい。向こうが日本語を勉強してついてきてくれる。

とすれば、世界に誇れる古い歴史と世界教ともいえる多信仰である「神道」を、わざわざ否定するのはもったいないのではないでしょうか。

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戦争と日本(4) 原爆記念式典も大事だが靖国参拝をわすれてはならない

 外遊演説やテレビ出演、講演より、もいま麻生総理がやるべきことは、まず8月15日の靖国神社公式参拝です。
それは多くの識者がみんなそういっています。

日下公人の「現実主義に目覚めよ、日本」 世界宗教のいいところを取り込んだ「日本教」 2009/07/24

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090724/169746/?P=4

 日本はどうして立派な国になったのか。それは、世界宗教を取り入れて、真面目に勉強し、真面目に実行したからだと思う。世界中を見回しても、そんな国は他にない。普通に言う世界宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教、それから儒教、道教である。日本の神道は違う。

 日本の神道は、いいものは何でも取り入れてしまう宗教である。日本は何でもいいところを取る。悪いところは取らない。すべてを総合して飲み込んで、丸く角が取れた日の丸にする。

 仏教や儒教、キリスト教など、世界宗教にはいずれも変な「角」が付いている。そういう「角」は取り入れず、日本は「日本教」ともいうべき思想をつくった。それをきちんと実行している。世界宗教のあとに出てきた世界思想、たとえばギリシャ哲学やローマ哲学、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス経験論哲学などについても、日本人は真面目に勉強して、いいところは取り入れて実行している。

 神道、あるいは俗信、民間信仰など、文字で遺されていない日本人特有の思想は、1万年くらい前からあった。そこに、外国から伝わってきた儒教や道教、仏教、キリスト教などの思想が、みんな取り込まれた。

 日本人は、赤ん坊のときは神社にお参りして、結婚するときはキリスト教で、死んだときは仏教で葬式を行う。そんな日本人を「おかしい」「曖昧だ」と批判する向きもあるが、批判する人は、外国かぶれの人である。日本人は、多様な思想を吟味して、それぞれのいいところを取り込む。首尾一貫が尊いという考え方は、日本教にはない。

 日本では、融通無碍のほうが尊い。首尾一貫していないからあの総理大臣はおかしいとか、日本人はいいとこ取りをするからダメだとか、そんな批判の方がおかしいのである。世界ではだまし合いばかりやっているのに、他国には首尾一貫を要求している。

日本は戦争国家になり、米国は平和国家になる

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090724/169746/?P=3

 では、日本人はどうなるのか。貯金はしない、借金はする、若い人はぜんぜん働かない、勉強もしない、遊んでばかりいる。かつての米国人にそっくりである。日本と米国が逆転しているが、長い間付き合っていると、そうなるものなのだ。

 米国は今や平和国家になってきた。もう戦争はしない。北朝鮮に喧嘩をふっかけない。もうアフガニスタンの話などしない。オバマ大統領は世界から核兵器を廃絶しようと言い始めた。

 日本は逆に、戦争国家になりかけている。田母神俊雄さんが人気者となり、「日本人は戦争をするくらいの覚悟を持て」などと言っている。それを聞いて大拍手が起こる。日本は戦争国家になり、米国は平和国家になる。日米すれ違いである。

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原爆記念式典も大事だが靖国参拝をわすれてはならない

外遊演説やテレビ出演、講演より、もいま麻生総理がやるべきことは、まず8月15日の靖国神社公式参拝です。
それは多くの識者がみんなそういっています。

日下公人の「現実主義に目覚めよ、日本」 世界宗教のいいところを取り込んだ「日本教」 2009/07/24

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090724/169746/?P=4

日本はどうして立派な国になったのか。それは、世界宗教を取り入れて、真面目に勉強し、真面目に実行したからだと思う。世界中を見回しても、そんな国は他にない。普通に言う世界宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教、それから儒教、道教である。日本の神道は違う。

日本の神道は、いいものは何でも取り入れてしまう宗教である。日本は何でもいいところを取る。悪いところは取らない。すべてを総合して飲み込んで、丸く角が取れた日の丸にする。

仏教や儒教、キリスト教など、世界宗教にはいずれも変な「角」が付いている。そういう「角」は取り入れず、日本は「日本教」ともいうべき思想をつくった。それをきちんと実行している。世界宗教のあとに出てきた世界思想、たとえばギリシャ哲学やローマ哲学、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス経験論哲学などについても、日本人は真面目に勉強して、いいところは取り入れて実行している。

神道、あるいは俗信、民間信仰など、文字で遺されていない日本人特有の思想は、1万年くらい前からあった。そこに、外国から伝わってきた儒教や道教、仏教、キリスト教などの思想が、みんな取り込まれた。

日本人は、赤ん坊のときは神社にお参りして、結婚するときはキリスト教で、死んだときは仏教で葬式を行う。そんな日本人を「おかしい」「曖昧だ」と批判する向きもあるが、批判する人は、外国かぶれの人である。日本人は、多様な思想を吟味して、それぞれのいいところを取り込む。首尾一貫が尊いという考え方は、日本教にはない。

日本では、融通無碍のほうが尊い。首尾一貫していないからあの総理大臣はおかしいとか、日本人はいいとこ取りをするからダメだとか、そんな批判の方がおかしいのである。世界ではだまし合いばかりやっているのに、他国には首尾一貫を要求している。

日本は戦争国家になり、米国は平和国家になる

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090724/169746/?P=3

では、日本人はどうなるのか。貯金はしない、借金はする、若い人はぜんぜん働かない、勉強もしない、遊んでばかりいる。かつての米国人にそっくりである。日本と米国が逆転しているが、長い間付き合っていると、そうなるものなのだ。

米国は今や平和国家になってきた。もう戦争はしない。北朝鮮に喧嘩をふっかけない。もうアフガニスタンの話などしない。オバマ大統領は世界から核兵器を廃絶しようと言い始めた。

日本は逆に、戦争国家になりかけている。田母神俊雄さんが人気者となり、「日本人は戦争をするくらいの覚悟を持て」などと言っている。それを聞いて大拍手が起こる。日本は戦争国家になり、米国は平和国家になる。日米すれ違いである。

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