日下部氏流(2) 朝倉氏

朝倉氏の起源


三つ盛木瓜
(日下部氏流)

養父郡八鹿町朝倉(養父市八鹿町朝倉)は、越前国(福井県)の守護となって北陸に勢力を張った朝倉氏の出身地として知られています。この村の高さ60mばかりの山の上に残る城跡が朝倉城です。室町時代の末頃、朝倉大炊守(おおいのかみ)が城主であったといわれています。

朝倉氏は但馬最古の豪族、彦座王を始祖とする日下部(くさかべ)氏の一族で、平安時代末期に余三太夫宗高がここに居住し、地名をとってはじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。宗高の子高清には興味深い話が伝わっています。

白猪を退治した豪傑高清と朝倉城

朝倉氏の歴史を述べた『朝倉始末記』によると、高清は豪勇の人として知られていました。寿永年中(1182~84)平氏にしたがって西国で戦いましたが、平氏の滅んだ時密かに逃げ帰り、七美郡(美方郡東部)小代谷の山の中の洞窟に隠れました。しかし、鎌倉方の平家残党さがしがきびしくなり、建久五年(1194)捕らえられて鎌倉へ送られました。

このころ鎌倉地方に長さ2.1mもある大きな白猪がいて、人々を襲い悩ませていました。対峙に出かけた者はことごとく殺されてしまう有様でした。

占ってみますと「西国に異様な姿をした武士がいる。その人なら必ず退治してくれるだろう。」ということです。高清は身の丈1.8m、色黒く体中毛に覆われ、熊の皮の衣服を着ていました。人々は高清を見て、「この人こそお告げの人だ。」と思い、そこで白猪退治を頼みました。これを引き受けた高清はm三七日の暇を与えてもらうことを願い出て、許されると彼は風のような早さで但馬に帰りました。わずか七日間であったといいます。そして七日七夜養父明神にこもり、一心不乱に神に祈りました。そして満願の夜のことです。いつものように神前におこもりをしていますと、深夜にわかに辺りが騒がしくなったと思うと、腹を揺さぶるような鳴動が起こり、神前のとびらが大きな音を立てて倒れました。と同時に、神々しい光が辺り一面にみなぎり、その光の中に尊いお姿が浮かびました。

「汝の願い聞き届けたり。すみやかにこの矢を持ちて関東に下り、白猪を撃て」とのお告げを聞き、「ハハ-ッ」とひれ伏した途端、高清は我に返りました。辺りは元の静けさに戻っていました。夢を見ていたのでした。うつろな思いで前の床を見て、高清は「アッ」と驚きました。ほの暗い光の中に夢で見たそのままの鏑矢(かぶらや)がそこにあるではありませんか。この矢を持ち、高清はいさんで鎌倉へ下りました。そしてめざす獲物に遭うと明神のお加護を祈りながら、ヒョーッと射ると、さしもの魔獣も一矢で倒されてしまいました。この功により高清はとらわれの身を許されて但馬に帰ることができました。

ところが、国にはまた意外なことが待っていました。高清の一族の者たちが高清の豪勇を恐れ、彼を亡き者にしようとはかっていたのです。このたびの大功で鼻を高くし、前以上に一族のものをさげすみはしまいかというのでした。建久六年(1195)5月23日、高清は帰る途中堀畑村(養父市)に泊まりました。その夜、一族の者たちは高清の寝所を襲い、あわやその命は風前のともしびとなって消えようとした瞬間、例の鏑矢が赤々と光を放って飛び出してきました。そして一族の者どもに襲いかかったのです。この不思議に圧倒され、一族の者どもは高清を撃つことができなかったのです。

かずかずの神徳をよろこんだ高清は、但馬に落ち着くと養父明神の近く、奥米地(養父市)に表米神社を建て、城崎郡の妙楽寺(豊岡市)には等身大の阿弥陀仏をつくって祭ったということです。

高清には鎌倉方に捕らえられるまでに一人の男の子がありました。関東へ下るにあたり、同族奈佐太郎知高の養子にやって奈佐氏を継がせました。奈佐春高といいます。帰ってからさらに四人の子をもうけましたが、最初の子を又太郎高景といい、彼に朝倉氏を継がせました。この子孫が朝倉城を築いたのです。高清から八代の孫広景は南北朝のころ越前に移り住んで活躍し、朝倉氏繁栄のもとをつくりました。また高清の三男次郎重清は八木荘(養父市八木)に、四男三郎右衛門尉高房は宿南荘(養父市八鹿町宿南)に、五男四郎清景は田公荘(美方郡西部)に住まわせました。それぞれの地名をとって姓としたのでした。

越前朝倉氏

数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。
天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。

出典: 「校補但馬考」「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家列伝さん他

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【但馬の歴史】(22) 日下部氏族(1)

但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)
出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった 。
越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。

■参考略系図 (但馬国造)
開化天皇━彦坐王━若筒木王━船穂足尼━豊忍別乃君━島根尼君━太尼古尼君・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・(日下部君/国造)  (養父太郎)
・・表米王━━荒嶋・・貞祢┳利実━用樹━蕃在━親泰━┓
┃                         ┃
┗安樹━公基                    ┃

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┣則方━則国━家貞
┃   (日下部)
┗広佐━佐清┳清季━┳清国(小和田)
┃(三方)  ┣季平        ┏俊経
┣清泰   ┣季貞(山本)  ┏俊直━┻長家
┃     ┗家清     ┃
┃(軽部)           ┣俊村━━━━━━━━┓
┣俊通━┳俊家━━━╋光家━┳光広        ┃
┃    ┗俊真   ┗家村 ┣家高(大谷)      ┃
┃(朝倉)  (八木)     ┣家恒(釜田)      ┃
┗宗高━┳高清┳安高    ┗光綱━安元      ┃
┗高綱┗信高    (太田垣)(田公)     ┃

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┃(石和田)
┃┏光村━光高━光時┳光茂
┗╋光忠┳光春    ┗光秀・・・・氏秀
┗俊高┗光保┳保喜━光喜━光氏━光継━光朝━光景
(建屋)    ┗保俊━保久


┗景光
土佐守? 新左衛門
┏景近━┳宗朝━┳朝定
┃    ┃    ┃加賀守 土佐守 土佐守━╋景安

┗宗近  ┗宗寿━━朝延━┳輝延
┣信喬
┗宗喬

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【但馬の歴史】(21) 明延(あけのべ)鉱山と明神電車

平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

明延(あけのべ)鉱山

明延鉱山(あけのべこうざん)とは、兵庫県養父市大屋町で世界的に有名な多金属鉱脈鉱床です。日本最大の錫鉱山で日本の産出量の90%をしめていました。かつて操業していたスズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていました。

歴史

明延鉱山は平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。明治初年(1868年)、生野銀山とともに官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられました。
昭和48年(1973年)に三菱金属株式会社(現三菱マテリアル株式会社)となり、昭和47年(1972年)のオイルショックをきっかけに、昭和51年(1976年)に三菱金属の子会社として分離・独立し明延鉱業株式会社となる。最盛期には、鉱山関係の人口が4,123人(963世帯)おり、娯楽施設の協和会館では、最新の映画が上演され、多くの芸能人(島倉千代子、村田英雄、フランク永井など)が歌いました。

大正元年(1912年)に明延鉱山の鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所に運ぶためにつくられた5.75kmの鉱山列車「明神電車」は、昭和27年(1952年)以来、乗車賃「一円」で乗客を運んだことから、「一円電車」として有名になったこともあります。

粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から昭和26年(1951年)頃には月産35,000トン、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500トンであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、昭和62年(1987年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山しました。

平成19年(2007年)11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「25.我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」、「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」、「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が選定されました。

神子畑鉱山・選鉱所


創業当時の神子畑(みこばた)選鉱所
選鉱所は現在は撤去されています。

  
ムーセ旧居」。ムーセ旧居前には樹齢約200年の百日紅の木がある。

朝来市佐嚢。1878年(明治11年)の鉱脈再発見により、加盛山と呼ばれ、生野鉱山の支山として稼働していましたが、1896年(明治29年)の生野鉱山の三菱合資会社への払い下げ後、1917年(大正6年)採鉱の不況により閉山しました。明延鉱山で採鉱された鉱石の選鉱場となり、1919年(大正8年)に竣工。昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設となりました。

最初の建設が1919年(大正8年)の選鉱場跡は、2003年(平成15年)の調査で、内部の階層延べ22階、幅110m、斜距離165m、高低差75mという規模が確認されました。木造部分と鉄骨部分があり(木造部分が初期の建設と考えられる)、一部鉱石などを入れる容器としての鉄筋コンクリート造の部分がある。 2004年(平成16年)に取り壊され、現在はコンクリートの基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部等が残るのみとなりました。

神子畑鋳鉄橋

  

兵庫県朝来市の神子畑川に架かる鋳鉄一連アーチ橋。明延(あけのべ)鉱山から採掘されたものを神子畑選鉱所(最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設)や生野精錬所まで輸送するための鉱石運搬道路として手引車や牛車(後に鉄道馬車等のトロッコ用の線路が引かれる)などのためにかけられた鉄橋群の一つである。鋳物で作られたものとしては日本では最古のもので横須賀製鉄所で作られ飾磨まで海輸し運ばれたとされ、生野鉱山の開発などで呼ばれたフランス人技師たちの指導のもと作られました。

他に5箇所架けられていたが現在は他に羽淵鋳鉄橋を含めて2つだけが現存するものとなっています。 1977年6月27日に重要文化財に指定されています。老朽化のため1982年には一年かけて修繕が行われました。2007年に近代化産業遺産に認定されました。

明神電車(めいしんでんしゃ)

明神電車は、かつて兵庫県大屋町(現・養父市)・朝来町(現・朝来市)の明延鉱山にあった鉱山用軌道。明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)を結ぶことからその名がついた。延長:5.75km

鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行されました。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。その運賃はその後、1985年11月の廃線まで変わらなかった。「1円電車」と呼ばれる所以はここにある。

なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事があり、その後は関係者かどうかに関係なく運賃を1円に統一した。しかし、1960年代にマスコミで「運賃が1円」ということが取り上げられた結果、興味本位の部外者の乗車が増え、その中には運行を妨害するような者も少なからずいたことから、業務に支障が出るという本末転倒の事態になり、部外者の乗車を禁止せざるを得なくなった。(小学生の時に乗った時は11円でした。)

円高の進行で錫鉱山としての国際競争力が低下し、明延鉱山が1987年に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。

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【但馬の歴史】(20) 生野銀山

[catlist categorypage=”yes”] 平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

生野銀山の歴史

生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山。

生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられていますが、詳細は不明です。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が銀鉱脈を発見、石見銀山から灰吹法といわれる採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まりました。

このようにして山名氏の時代が約十五年続き、その後弘治二年(1556)家臣である竹田城主太田垣朝延の反逆によって約二十年経営され、天正五年(1577)から慶長三年(1598)までの約十六・七年間、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、江戸時代にはただちに徳川家康が間宮新左衛門を代官として「銀山奉行」を設置。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の財源的な存在でした。徳川幕府が滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されています。

慶安年間(1648年~1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称しました。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増しました。

明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。数年後、但馬南部・播磨を生野県として成立。

明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しています。
2007年、日本の地質百選に選定されました。

その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など70種にも及んでいます。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。

天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。

生野平城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。
しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

銀の馬車道

「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には 「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。 完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、 一部は新幹線姫路駅になっています。 しかしながら、「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、 往時のおもかげを残しています。

1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。 道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。 この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。

ジュール・レスカス(JulS. Lescasse)

明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。

ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)

(1835年 – 1902年6月18日)は、フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力した。

コワニエは、フランス・サンテチェンヌの鉱山学校を卒業したのち、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州など世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。

明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1868年(慶應4年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニエは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。

坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野~飾磨間に幅員6m・全長50kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1878年(明治11年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。

着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minerale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテチェンヌにて67歳で死去。

銀山現地にはコワニエの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。

鉱山資料館

現在は、史跡・生野銀山(三菱マテリアル関連会社の株式会社シルバー生野が管理・運営)となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館は、「和田コレクション」、「石亭標本」、「藤原寅勝コレクション」など常時2,000余点を展示しております。国内産出鉱石標本としては世界的にも貴重な国内最大級の鉱物博物館として知られております。「和田コレクション」は、和田維四郎博士が明治8年から30年間にわたって収集したもので、明治年間に我が国で産出した鉱物の大半を網羅し、最初の完全な日本産鉱物標本として国宝的評価と名声を博しています。和田維四郎の標本の散逸を惜しんだ三菱合資会社の岩崎小彌太社長が、同コレクションを一括して譲り受けました。その後当地に移管され、現在の三菱ミネラルコレクションの主体を成しています。 「和田コレクション(和田維四郎)」、「石亭標本」は、木内石亭が苦労の末に日本全国から集めた2千余点の奇石や鉱物類の標本で、我が国最古の岩石・鉱物コレクションです。

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【但馬の歴史】(19) 垣屋氏(5) 垣屋氏と山名氏の対立

轟・垣屋氏と楽々前・垣屋氏

垣屋氏は板東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだのが垣屋家が山名氏に仕えた始まりで、以後代々山名氏の家老となる。 山名氏から気多郡の西気谷の三方郷に所領を与えられたようであるが、弾正の孫の代になると、所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立したようだ。義遠の息子ら三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものである。 明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端である。その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳の乱で但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦った。その結果、執事の小林氏をはじめとして、山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけた。

応永の乱とは大内義弘が将軍義満に起こした叛乱で、これに関東公方らが加担して一大争乱となったものである。さらに、明徳の乱で没落した氏清らの一族も丹波で義弘に呼応した。時熙は丹波を平定、堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、乱後、但馬守護代に抜擢された。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。

明徳の乱で活躍した垣屋弾正の孫の代になると所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立した。 嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえている。『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いている。おそらく、垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようだ。

このころから垣屋氏は 越前守熙続(長男)・ 越中守熙知(次男)・ 駿河守豊茂(三男)に別れ、それぞれ越前守家は三方郷の楽々前城、高田郷の越中守家は宵田城、駿河守家は竹野谷の轟(とどろき)城を受け持った。なお彼らは 垣屋弾正の孫、すなわち遠江入道の子である。

日高(高生・たこう)平野の南、円山川支流の稲葉川が大きく南に流れを変える岩中佐田連山の東端にある山城で、場所に永享二年(1430)、築城された。北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。  本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は車で登れる道が整備され城跡は区が整備する公園になっています(ただし一般通交禁止)。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

応仁の乱(1467年-1477年)以降、山名氏に付き従っていた垣屋氏は没落し、戦国時代後期には垣屋続成が田結庄是義に殺される。

かくして、天正三年の秋、野田合戦が起こった。田結庄是義が他出した隙を狙った垣屋続成の子の轟・垣屋豊続(光成)が鶴城を攻撃したのである。急をきいてかけ戻った是義と豊続軍は野田一帯で対戦、敗れた是義は自害した。垣屋豊続は続成の仇をとったことになった。そして轟城から鶴城に本居を移した。この戦いに際して、楽々前城の垣屋播磨守らは田結庄氏を支援したようで、垣屋氏は毛利方と織田方に分かれて一族の対立は深刻化していた。
着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。

嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松氏は六千、山名氏は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。

なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。  垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになる。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成(気多郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し但馬を四分割した。
この後、田結庄との「野田合戦」が起きた。

垣屋氏と山名氏の対立

本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
さらに播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。

永正元(1503)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。

永正2(1505)年6月、垣屋氏との争い後、将軍義澄は山名致豊に命じて垣屋氏と和睦させたが、内書では「先年和与を申しつけておいたのに実を挙げていない」と叱責する。
問題は、この和与調停にある。和世の条件等は不明であるが、山名氏の出石への退去の要因・動機であり得た可能性は極めて高い。義澄の調停の意図は、復権を目指す前将軍義稙の上洛に対抗して「腐っても鯛」である山名氏国衆の統一と団結とその和解に期待したものといえる。

結局、義稙は復権し(永正5年)、義稙派の垣屋光成は行粧諸道具使用を許されて将軍直参の資格を得、永正9年、山名致豊引退とともに本拠を宵田城(日高町)から城崎城(今の神武山豊岡城)に移した。後に豊岡に残した宵田の地名(現・中央町)は邸があった場所である。

この時点で、垣屋氏は山名政権下の国人筆頭の地位を脱して名実ともに、但馬の支配者としての地歩を固めた。

田結庄是義の父・右近将監は垣屋氏の出であり、太田垣氏・田公氏を始めとするかつての山名氏の有力被官にも養子を送り込まれている。

野田合戦後、田結庄氏の居城鶴城(愛宕山城)に入った轟・垣屋豊継は城崎城の但馬山名氏が衰えたあと、垣屋豊継は宵田城から城崎(木崎)城に入った垣屋氏と組んで「但馬一円を知行」したとされ、天正8(1580)年、但馬を征服した豊臣方の宮部善祥房がまず鶴城に入ったのは、但馬支配者の城だったからと説く向きもあります。

天正二(1574)年に山名祐豊が有子山城に復帰したとき、垣屋氏を含めて旧被官が傘下に列したのは、但馬を制圧した織田氏が、但馬の新秩序を固めるために強制した体制であったが、天正三(1575)年の田結庄氏滅亡といった傘下被官同士の争乱に見られるように、山名氏にその統制力はなかった。

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【但馬の歴史】(9) 山名氏(4) 生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいた。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(武士のトップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていた。

応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである播磨守護赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である京都東山龍徳寺で行っていた。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡した。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであった。これにはいろいろ原因があるとされるが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられている。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいとたびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかった。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまった。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」

ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようだ。

生野城

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上(古城山)に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれている。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれている。

一方播磨国に引き上げた赤松満祐は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しなかった。
ところが、翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられている。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。

生野平城


生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられている。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。
この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれている。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。
この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていた。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。
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【但馬の歴史】(8) 山名氏(3) 応永の乱と山名氏後退

応永の乱(おうえいのらん)と山名氏後退
 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
 室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。
明徳の乱
 そして、明徳2年(1391年)、義満は、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
 山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に山名氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。
 義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
 周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。
応永の乱
 有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです(応永の乱)。
 乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた山名時熙(ときひろ)は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
 垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかで危うく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。
 一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。
山名氏の再興
 その後、時熙は室町幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。
 このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
 神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
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【但馬の歴史】(7) 山名氏(2) 山名時氏 六分一殿

山名氏


家紋:二つ引両
清和源氏新田氏流

山名氏 守護大名に成長


14世紀後半の主な守護大名 図: 『日本人の歴史教科書』

室町幕府は、地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限を与え、守護の力を強めて全国の武士をまとめようとしました。守護は荘園や公領を自分の領地に組み入れ、地元の武士を家来にしました。さらに、国司の権限も吸収して、それぞれの国を支配する守護大名に成長しました。

1337(建武四)年、山名時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、山名時氏は、山名氏発展の端緒をつかんだのです。
1341(暦応四)年、室町幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国の出雲に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、山名時氏は、伯耆・因幡・出雲・隠岐を支配下におきました。
1363(貞治2)年、将軍義詮からの誘いもあって幕府に帰参し、義詮から切り取った領国の安堵を条件に、伯耆国・因幡国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護職補任を認められ、子供たちを各国の守護とし、自身は丹波守護となりました。

山名氏はこののち幕政で重きをなすことになるが、その基礎は時氏によって作られた。二代将軍足利義詮の時代に、出雲国・隠岐国の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。

その後、出雲・隠岐守護職は塩冶高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられました。そして、時氏は貞和二年(1345)に将軍を補佐する管領には細川氏、斯波氏、畠山氏の三管とよばれる有力守護大名が交替で、幕府を警護する武士の筆頭である侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました

南北朝時代と但馬

このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名氏の支配下に置かれたようです。
1336(延元元)年、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。
その翌年の1337(延元二)年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の豊岡盆地中央部東縁の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

観応の擾乱と守護職安堵

擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息しましたが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ山名時氏は北朝の尊氏に味方していましたが、のちに時氏の長子、山名師義は、観応の擾乱では父時氏とともに直義方で戦い南朝に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。
時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。山名氏の勢力拡大に貢献しました。

やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、1350(観応元)年、観応の擾乱が勃発しました。
一時、山名時氏、師義の父子が三開山城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して1353(文和二)年には京に攻め入り、京を一時は支配下におきました。

その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の1358(延文三)年に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、1363(貞治二)年、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、周防の大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。

山名時氏の5人息子と「六分一殿」

時氏の父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など、 嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。時氏死後は、師義が家督を継ぎましたが、わずか5年で師義も死去する。49歳の若さでした。
1363(貞和2)年、時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、師義も丹後・伯耆の守護に任じられました。いつごろからか定かではありませんが、但馬国もこの頃守護になったと思われます。
1370(応安三)年、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、1372年~1376年、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。
1376(永和二)年、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、

惣領の師義丹後国・伯耆国
次男の義理紀伊国
三男の氏冬因幡国
四男の氏清丹波国・山城国・和泉国
五男の時義美作国・但馬国・備後国

の守護となりました。
その後、師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。

但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
時義は父時氏が亡くなったあと、わずか5年で師義も死去し、時義は惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代として但馬に送っていた記録もあります。城崎城(のちの豊岡城)主に上野国時代以来の重臣、垣屋氏を城代にあてているので、垣屋氏ではないかと思います。
時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。

山名家臣団

四職:侍所頭人 但馬国守護 山名氏
重臣(四天王):垣屋氏(気多郡)、太田垣氏(朝来郡)、八木氏(養父郡)、田結庄氏(城崎郡)
山名一族 磯部氏(夜久野城主)、海老名氏、宮田氏、犬橋氏、村尾氏、馬来氏
守護代 荻野氏、小林氏〈一部関東公方家収録〉、高山氏、土屋(垣屋)氏、古志氏、内藤氏、蓮池氏、大葦氏、入沢氏、石原氏
日下部氏族 八木氏(養父郡)、太田垣氏(朝来郡竹田城主)、田公氏(二方郡)、宿南氏(養父郡宿南城主)、七美氏、朝倉氏(養父郡朝倉庄)、長氏(美含郡訓谷城主)、奈佐氏(城崎郡奈佐庄)、山本氏、西村氏(気多郡水生城)、
但馬国人 三上氏、田結庄氏(城崎郡田結郷)、佐々木氏(養父郡浅間城主)、丹生氏(美含郡養山城主)、塩冶氏(美含郡無南垣城主)、高岡氏、野間氏、小野木氏、篠部氏(美含郡)、福富氏(朝来郡高生田城主)、上道氏(東河城主)
因幡国人 伊田氏、武田氏、草刈氏、中村氏、加陽(かや)氏、佐治氏、吉岡氏、福田氏、毛利氏
伯耆国人 金持氏、南条氏、小鴨氏、山田氏、相見氏
首藤一族 備後山内氏、多賀山氏、湯川氏、懸田氏、滑氏、河北氏
宮一族 宮氏、有地氏、久代氏、小奴可氏、高尾氏
杉原一族 本郷氏、木梨氏、目崎氏、三谷氏
波多野一族 広沢氏、江田氏、和智氏、上村氏、尾越氏、安田氏、上原氏
備後国人 三吉氏、有福氏、長谷部氏、馬屋原氏、吉原氏、上山氏、渡辺氏、宮地氏

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【但馬の歴史】(6) 山名氏(1) 山名(やまな)氏の起源

 
二つ引両/桐に笹「武家列伝」さん

概 要

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。 守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
山名時氏は「六分一殿」とまで勢力を馳せ、山名宗全は応仁の乱の西軍総大将として有名。

山名氏の起源

山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。

源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてきませんでした。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのでしょう。

鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされますが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。

山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。

しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。

モンゴル帝国と元寇の襲来

13世紀初め、モンゴル(蒙古)の高原にチンギス・ハンがモンゴル帝国を建てました。モンゴル帝国は無敵の騎馬軍団を各地に侵攻させ、またたくまに西アジアから中国まで、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土を築きました。この動きにヨーロッパ人もおびえ、モンゴル人を恐れました。モンゴル帝国5代目の皇帝、フビライ・ハンは、大都(北京)という都をつくり。国号を中国にならってと称しました。

フビライは東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本も征服しようと企てました。フビライは、まず日本にたびたび使者を送って、服属するように求めました。しかし、朝廷と鎌倉幕府と一致してこれをはねつけました。幕府は執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えました。
元軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本を襲いました。日本側は略奪と残虐な暴行の被害を受け、新奇な兵器にも悩まされました。
しかし、鎌倉武士はこれを国難として受け止めよく戦いました。また、2回とも元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨におそわれ敗退しました。こうして日本は、独立を保つことができました。この2度にわたる元軍の襲来を元寇といいます。

鎌倉幕府の衰え

元寇との戦いで、幕府を支える御家人は、多くの犠牲を払いました。しかし、外敵との戦いだったので新しいと地を獲得することなく、幕府は十分な恩賞となる土地を与えることができませんでした。そのため幕府は御家人たちの信頼を失うことになりました。

また、御家人たちは兄弟による分割相続のくり返しで、領地がしだいに狭くなり、生活の基盤が弱まりました。そのうえ商工業の発達とともに、武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなり、領地を質に入れたり、売ったりする者もあらわれました。幕府は御家人を救うために徳政令を出して、領地をただで取り戻させようとしました。しかしそうなると、御家人に金を貸すものがいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になりました。こうして鎌倉幕府の支配は、陰りを見せ始めました。

鎌倉幕府滅亡と山名氏

鎌倉幕府の支配が揺らぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めました。
14世紀に即位した後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために倒幕の計画を進めました。はじめは計画が漏れてしまい二度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に流されました。後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりよししんのう)や河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して幕府と粘り強く戦いました。
やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると形勢は一変しました。幕府軍からは御家人の脱落が続き、足利尊氏が幕府にそむいて京都の六波羅探題を滅ぼしました。ついで新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて鎌倉を攻め、ついに1333(元弘三)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。

建武の新政

後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇の親政を目標として、新しい政治を始めました。幕府滅亡の翌年、年号を建武と改めたので、建武の新政といいます。
しかし、建武の新政は公家を重んじた改革で、武家の実力を生かす仕組みがありませんでした。また、倒幕をめぐる戦乱でうばわれた領地を元の持ち主に返すこととしましたが、はるか昔に失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、方針を交代せざるを得なくなりました。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すこととなりました。
そうした中、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げ、建武の新政はわずか2年あまりでくずれてしましました。

山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、山名時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。

やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。後醍醐天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発し、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、山名時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。

南北朝の争乱

1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めました。これは幕府を京都に開くなど武家政治再興の方針を明らかにしたものでしたが、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。
吉野におかれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士に呼びかけて、約60年間も全国にわたる戦いを続けました。これを南北朝時代といいます。
足利尊氏は、1338(暦応元)年、北朝の天皇から征夷大将軍に任じられ、幕府を開きました。のちに尊氏の孫の義満が京都の室町に邸宅を建て、そこで政治を行ったので、この幕府を室町幕府とよび、足利氏が将軍だった時代を室町時代といいます。室町幕府は、北朝によって承認されていたので、しばらく南朝と対立しました。

勘合貿易と倭寇

14世紀後半に、中国では漢民族の反乱によって元が北方に追われ、が建国されました。
明は日本に倭寇の取締りを求めてきました。倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことです。彼らには日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていました。
義満はさっそくこれに応じて倭寇を禁止し、明との貿易(日明貿易)を始めました。この貿易は、倭寇と区別するために合い札の証明書(勘合)を使ったので、勘合貿易とよばれます。日本は刀剣・銅・硫黄・蒔絵などを輸入して、室町幕府の重要な財源としました。しかし、幕府の力が衰えると、守護大名の大内氏が貿易の実権を握りました。
16世紀の中ごろ、勘合貿易が停止すると、ふたたび倭寇がさかんになりましたが、その構成員はほとんどが中国人でした。朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回ったため、明は国力を弱めました。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
「日本人の歴史教科書」自由社
武家家伝さん
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