【丹国の歴史】(25) 彦坐王と谿羽(丹波)道主命

彦坐王・日子坐王(ひこいますのみこ・-おう)

彦坐王は、「記・紀」に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも書きます。
開化天皇の第3皇子で、母は姥津命(ははつのみこと)の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父にあたるとされます。『古事記』によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛退治のために丹波に派遣されたとあります。
妃は以下の通り4人記されています。

『稗史』[*1]によれば、彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子王(やつりいりひこのおう)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられていますが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・息長氏・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布しています。岐阜市岩田の伊波乃西神社でも祀られており、同社の近くには日子坐命の墓(宮内庁が管理)とされる巨岩があります。
彦坐王(日子坐命)の王子女は『古事記』に詳しいですが、なぜか『日本書紀』ではほとんど触れられていません。

時代は下りますが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子である神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖 山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいます。

大阪府堺市西区草部(くさべ)にある日部神社(くさべじんじゃ)の祭神で、日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたといいます。

妃:袁祁都比売命(おけつひめのみこと、彦姥津命の妹)
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)神功皇后の曽祖父・但馬国造日下部氏の祖
比古意須王(ひこおすのみこ)
伊理泥王(いりねのみこ)
妃:沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ。春日建国勝戸売の女)
狭穂彦王(さほびこのみこ、沙本毘古王・沢道彦命?) 甲斐国造の祖
袁邪本王(おざほのみこ)
狭穂姫命(さほびめのみこ、沙本毘売之命・佐波遅比売) 垂仁天皇の皇后 (前)
室毘古王(むろびこのみこ)
妃:息長水依比売(おきながのみずよりひめ。天之御影神の女)
丹波道主王(たにわのみちぬしのみこ、旦波比古多多須美知能宇斯王)
日葉酢媛命(垂仁天皇の皇后(後)・景行天皇の母)の父・三河穂別の祖
水穂之真若王 (みずほのまわかのみこ) 近淡海安直の祖
神大根王(かむのおおねのみこ、神骨・八瓜入日子王) 本巣国造・三野前国造の祖
水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)
御井津比売(みいつひめ)
妃:山代之荏名津比売 (やましろのえなつひめ)
大俣王(おおまたのみこ) 品遅部君の祖
小俣王(おまたのみこ)
志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)

[*1]…「正史」の対語。民間の細々としたことを記録したもの。野史。

四道将軍(シドウショウグン

『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(オオビコノミコト)、武渟川別命(タケヌカワワケノミコト)、吉備津彦命(キビツノミコト)、谿羽(丹波)道主命(タニワミチヌシノミコト)の4人を指します。

彼らの遠征により諸国は大和朝廷に服属したとされています。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、都に近い、北陸、東海、西道、丹波に派遣されました。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされています(実際には4世紀初めのことと思われる)。
なお『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在しますが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていません。また、吉備津彦命の名前もない(別名は記載されています。)。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されています。

大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。東海に派遣される。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。 また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した武渟川別(建沼河別命)が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。また、天皇の命により吉備津彦と共に出雲振根を誅した。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。一説にはこの時の逸話(温羅伝説)が桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

引用:ウィキペディア 四道将軍

丹波道主王命たにわのみちのうしのみこと)

丹波道主王命(生没年不詳)は、『記紀』における皇族(王族)です。『日本書紀』では谿羽(丹波)道主王命、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王。四道将軍のひとりで、丹波に派遣されたとされる。『古事記』では開化天皇の第三皇子、または孫に当たる。彦坐王(ひこいますのみこ・日子坐王とも書く)の子。景行天皇の外祖父に当たります。

なお、『古事記』では丹波道主命ではなく、父の彦坐王が丹波に派遣されたとあります。母は天之御影神の女・息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。

同母兄弟に、水穂之真若王(近淡海安直の祖)、神大根王(本巣国造・三野前国造の祖)、水穂五百依比売、御井津比売がいる。 一説に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、開化天皇の子)の子。 妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命(ひばすひめ)(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。記には他に歌凝比売命。
また、日子坐王は一説によると「大江山の鬼退治伝説」のモデル一つであったとも言われています。
神谷神社(京都府京丹後市)等丹国一円(丹後・但馬・丹波)に祀られています。

彦坐王や丹波道主命ゆかりの神社

・神谷(かみたに)神社
京都府京丹後市久美浜町小谷
旧郷社
御祭神:丹波道主命
網野神社
京都府京丹後市網野町網野789
式内社 祭神:日子坐王、住吉大神、浦嶋子神
竹野神社
京丹後市丹後町宮字宮ノ谷245
式内大社 祭神:天照皇大神
相  殿  竹野媛命、建豐波豆羅和氣命、日子坐王命
彌伽宜(みかげ)神社(大森神社)
舞鶴市字森
開創は丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)で、祭神は、その母の 息長水依比賣(おきながみずよりひめ)の先祖である 天御影命(あめのみかげのみこと)。 同神は「古代製鉄」の神で、御上(みかみ)神社(滋賀県野洲町)の神と同じです。
鬼嶽稲荷神社
京都府福知山市大江町字北原
丹波道主命が、父、日子坐王の旧蹟に神祠を建立した。
若宮神社
南丹市園部町横田
御祭神は品陀別命
丹波道主命の后神を祀つたのが始まりと伝へる。
小幡神社
亀岡市曽我部町穴太宮垣内
式内社 祭神:開化天皇(かいかてんのう)、彦坐王(ひこいますのみこ)(開化天皇の皇子)、小俣王(おまたのみこ)(彦坐王の子)
紀元前90年(皇紀570年)頃 崇神天皇の勅命により、丹波地域を治めた四道将軍の一人 丹波道主命が、開化天皇を祀ったことが由来  開化天皇の皇子の彦坐王と、その御子 小俣王の三代が祀られています。
粟鹿(あわが)神社
兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
式内社 御祭神 彦火々出見命あるいは日子坐王との説もある
夜夫坐神社5座
兵庫県養父市養父町養父市場字宮ノ谷827-3
「倉稻魂尊、大己貴命尊、少彦名尊、谿羽道主命、船帆足尼命」
出石(いずし)神社
兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
式内社 御祭神 天日槍命
谿羽(丹波)道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀った。

丹波道主命(たにわのみちのうしのみこと)と神谷太刀宮


式内社 丹後國熊野郡 神谷(かみたに)神社
京都府京丹後市久美浜町小谷
旧郷社
御祭神:丹波道主命
配祀 八千矛神(ヤチホコノミコト) 天神玉命(アマノカムタマノミコト) 天種子命(アマノタネコノミコト)
京都府久美浜の地名は、丹波道主命の伺帯した「国剣」から「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」など久美浜の地名の起源になったと言われる。
崇神天皇十年九月、四道将軍・丹波道主命が勅命を受けて山陰地方を巡視された時、 武運長久を祈願して、久美浜の地に社地を定めて 出雲国・八千矛神・天神玉命・天種子命を祀ったのが当社の創祀。
もとは、神谷小字明神谷に祀られていたが中世の頃、戦乱にため社屋が破壊されたので現在地の太刀宮に合祀されました。太刀宮(たちのみや)は、丹波道主命薨去の後、命を追慕して創建された神社。

御由緒

当社は崇神天皇十年秋九月、四道将軍旦波道主命、出雲国なる八千矛神を迦へ奉りて、字神谷の地に齋き祀られしを始とす。 垂仁天皇の代道主命薨去後国人同命を追慕し、久美の地を卜して神社を創建し、佩かせ給ひし国見剱を神霊として此処に齋き祀る。 世呼んで太刀宮と称す。古来久美は国見の假字也といひ、国見は宝剣より超れる名称也と言ひ伝ふ。 期の如く神谷神社と太刀宮とは、全く別社なりし事は、神社覈録丹哥府志丹後旧事記等に記せるが如し。 而して創立後壹干年間に於て、神谷神社の大破に及ふや、之を太刀宮に合祀せしは、遠く延喜以前に属す。 爾来一般には神谷太刀宮又は省賂して単に太刀宮と唱ふ。奉額神宝祭器等に神谷太刀宮とあるは、両社合併の古を物語れるなり。 古文書等は省略せる通称に做ひ、太刀宮を以て称するを例とし、現今一般にも太刀宮と唱ふ。 諸書記述せる処大同小異なりと雖も、多くは実地史実の片影を誤れり。太刀宮は道主命を祭神とせるものなれど、 神谷神社と太刀宮とを合併せる以来、八千矛神と旦波道主命との事歴を混同せるは、甚た遺憾とする処なり。 神祇志に大巳貴命刀を奪ひ巨巖を割断せられたりといへるは、太刀宮即ち旦波道主命の事歴にして、 現社地中剣岩として特に保存し、古來清浄の地となせる処あり、これ実物を以て保存せる一の伝説記念物と見るべき乎、 同社の例祭に字奥馬地より大根を奉るは、剣岩の伝説より起れる事柄なり(右の伝説等は神谷神社考に委曲を述べる)。  神谷神社の旧社地なりと言へるは、久美谷村字神谷(かんだに)小字明神谷にして今尚存す、右等の関係上毎歳字神谷より特に幟を建つるを例とせり。 ≪京都府熊野郡誌より抜粋≫

拝殿 冬季のためシートがかけられています。  通称「神谷太刀宮」「太刀宮」と称し延喜式の神名帳に記される神社です。現在の本殿は天明元年(1781)に建てられました。桁行き 二間 入母屋造りの桧皮葺の出雲地方に多い大社造の系統をひく建物であり、彫刻も精巧なものとなっており「太刀宮造」と称され この地方では例のない神社建築です。神門も切妻造の四脚門で格天井を張るなど意匠に優れ、 境内社八幡神社本殿も 小規模なこけら葺、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾豊かな建物です。


磐座
丹波道主命は、丹波河上摩須郎女をめとり、五子を授かる。その娘の 日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后となる。神谷神社は 旧郷社であり、社蔵文書によると文禄五年(一五九六)城主 松井康之から用地寄進を受けていることがわかります。
もともと同じ境内だった真ん中を道路建設によって寸断されてますが、もともと磐座や中剣岩、摂社がある山が聖域。

八幡社
神谷神社本殿 京都府指定文化財 昭和六十年指定
神谷神社神門 京都府登録文化財 昭和六十年登録
八幡神社本殿 京都府登録文化財 昭和六十年登録
鳥居 京都府登録文化財 昭和六十年登録
参考館(旧久美浜県庁舎玄関の一部) 京都府指定文化財 昭和六十年指定
文化財環境保全地区 京都府指定文化財 昭和六十年指定

同じく熊野郡の式内社・村岳(むらおか)神社の神は、 この太刀宮の神(丹波道主命)の臣下で、神谷神社の社地選定を命じられたという。

ところが、村岳の神は良地を秘して別の地(当社の元地)を上申した。 このことが露見し、怒った太刀宮の神は剣を抜いて村岳の神を追った。 大石に隠れた村岳の神を斬ろうとしたが 誤って大石を断ち割った。 怖れた村岳の神は、大根を下物として和睦の宴を開き和解した。 よって、以後、太刀宮(当社)の例祭には 奥馬地部落より大根が奉納されているという。

似たような伝承が、丹後の隣り、但馬(豊岡市)の葦田(あした)神社にも残っています。 話の筋は同じだが、葦田神社の神が騙したのは天日槍であり、 石だけでなく、葦田神社の神の足も傷つけられています。
八千矛神が祭神として祀られており、途中で丹波道主命が主祭神に替えられたような由来は粟鹿神社や出石神社にも共通していて面白いです。

関裕二氏は、四道将軍が各地を平定し凱旋して、崇神天皇はハツクニシラス(はじめて国を治めた)天皇と称賛している。『古事記』にしたがえば、崇神天皇と四道将軍の説話が、まったくの作り話とするこれまでの定説を疑わざるを得ないのである。そればかりか、神武天皇と崇神天皇、二人のハツクニシラス天皇の業績を合わせれば、そのまま「ヤマト建国の考古学」を裏付けてしまうわkである。

こうしてみると、神話とヤマト建国の考古学の大きな食い違いは「強い天皇がヤマトを征服した」という一点であったことに気づかされる。とするならば、八世紀の朝廷はヤマト建国の歴史を熟知していたからこそ、ヤマト建国を神話の世界に封印し、しかもそれを「征服劇」に仕立て上げてしまう必要があったのではあるまいか。もし仮に、この逆転した発想を投げかけてみれば、事態は意外な方向に進むのである。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【丹国の歴史】(24) 丹国と鉄資源

丹波と鉄資源

大和(奈良)に中央王権を開始した祭祀王国のヤマト王権がどこと手を握ったかといえば、まず丹国です。
昔の丹波(丹国)には但馬と丹後が含まれていたのですが、“鉄の国”にふさわしいのは丹後です。ヤマト王権にすれば、丹波と握手したのは鉄製の農具や武器を手に入れるのがねらいでしょう。門脇禎二氏は、丹波王国は大和の勢力とは対等の力関係にあったと説いています。

ヤマト王権は婚姻によってじわじわと丹波へ触手を伸ばしていきます。くわしくは下記の垂仁天皇で触れますが、その一例が垂仁の妻となった日葉酢媛命(ひばすひめのみこ)です。彼女の父は、崇神に任命された四道将軍の一人、丹波道主命(たにわのちぬしのおおきみ)でした。
それは卑弥呼の流れを汲む祭祀中心の王権であるということです。

丹波国は、ヤマト王朝の畿内に接する山陰道最初の国で、朝鮮半島に最短距離で往来でき、早くから開化天皇の妃・竹野媛(たかのひめ)の出身地としてすでに記紀に名が見えています。

鉱山としての大江山(大江山ニッケル鉱山と河守鉱山)

大江山の位置する丹波・丹後地方は古くから大陸との交流が深く、渡来人は高度な金属精錬技術により大江山で金工に従事、多くの富を蓄積していた、これに目を付けたヤマト王権の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置きました。多分このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説と同時に 、渡来人が寄り集まって山賊化して非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もあります。

小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌があります。ここでの大江山は京都市西京区の大枝山をかけているとの説もあります(生野は丹波路でみると福知山市生野で、まだ生野には遠いと歌っているので)。

大江山は、地質学的には地球の深部から隆起した地層で超塩基性の岩盤。金属鉱脈が豊富で周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られました。1917年に鉱床が発見され、1933年から太平洋戦争末期にかけて兵器に不可欠なニッケルを確保するため大江山から採鉱されました。日本海に面した岩滝町の精錬場まで専用鉄道(加悦鉄道)で輸送し、精製しました。

『日本書紀』において鬼の烙印を押された物部、蘇我、伽耶、新羅を結ぶ共通点、鬼退治伝説が残る丹後と桃太郎伝説が残る吉備はどちらも伽耶色が強い。与謝野町加悦、豊岡市加陽

3つの鬼退治伝説

大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山。標高833m。別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽といいます。酒呑童子伝説で知られています。また、雲海の名所としても知られています。これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年大江町(現在は福知山市の一部)によって日本の鬼の交流博物館が作られました。2007年(平成19年)8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されています。
大江山には3つの鬼退治伝説が残されています。

一つは、古事記に記された崇神天皇の弟 日子坐王(ひこいますのみこ)が土蜘蛛 陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話
二つめは聖徳太子の弟 麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話
三つめが有名な酒呑童子伝説です。
そして鬼退治伝説の立岩があります。
なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もあります。
丹波と丹後・但馬がまだ分立せず「大丹波(丹国)時代」といわれた古代、この地方は大陸の文化をうけ入れ、独自のすぐれた古代文化をもっていました。
しかし、平安京が政治の中心となってから、この地方は、都に近い山国として、日本の歴史の中で、王城の影の地域としての性格を色濃くにじませるようになります。
隠田集落であると伝承する山里が散在することは、そのことを如実に物語っているといいます。また、王朝時代、大きな役割を果たした陰陽道(おんみょうどう)で、乾(北西)は忌むべき方角とされましたが、当地は都の乾の方角に当たっていたのです。

酒呑童子や羅生門の鬼に代表されるように、京の都に出没する鬼は、王権を脅かす政治的な色合いの強い鬼であります。天皇が勅命を下し、武将に鬼を退治させる物語―それは、王権が自らの権力を誇示し、その物語を通して王権を称掲する手段にしようとして、つくり出したものではなかったのでしょうか。あるいは、中世に入り、地に堕ちた王権を支えようとした人々の願望としての王権神話ではなかったのでしょうか。大江山―ここに鬼退治伝説が三つ残されていることは偶然ではないのかもしれない。丹後の海を見ているとそんなロマンが感じられてきます。  これは能の演目、大江山(五番目物の鬼退治物)にもなっています。これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年日本の鬼の交流博物館が作られました。

1.大江山の鬼伝説(その一)

「陸耳御笠(くがみみのみかさ)-日子坐王(ひこいますのみこ)」
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠(たんごふどきざんけつ)」[*1]に記された陸耳御笠[*2]の伝説です。
青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*3]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。
崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*4]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。

この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察] 陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。
陸耳御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。
一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。
「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。
[*1]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*2]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*3]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。
[*4]…土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。

2.大江山の鬼伝説(その二)

麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治
用明天皇の時、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり庶民を苦しめたので、天皇は麻呂子親王(まろこしんのう) に征伐を命じた。
命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐にむかった。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓をたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇った。掘り出してみると俊足の竜馬であった。(ここを名づけて馬堀という。)親王はこの馬に乗り、生野の里を通りすぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上した。この犬は頭に明鏡をつけていた。
親王はこの犬を道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻した。この地を仏谷という。 そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓した。それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとったが、土熊を見失ってしまった。そこで、さきの鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、これも退治することができた。末世の証にと土 熊を岩窟に封じこめた。これが今の鬼が窟である。(土熊は逃れて竹野郡に至りここで討たれたというものもある。)鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営した。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号した。(かつて大虫神社の境内にあったという。)また、仏徳の加護 に報いるため、宿願のとおり丹後国に七か寺を造立し七仏薬師を安置した。この七か寺については、享保二年(1717)の「多禰寺縁起」によれば加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多禰寺の諸寺とされるが諸説のあるところである。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、この伝説を書きとめた最古のものと考えられている「清園寺古縁起」には麻呂子親王は17 歳のとき、二丹の大王の嗣子となったとある。この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似性も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立にかなりの影響を与えていることがうかがえる。
この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。  この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

3.大江山の鬼伝説(その三) 

「酒呑童子(しゅてんどうじ)」―源頼光の鬼退治―
時は平安朝、一条天皇の頃である。西暦1000年前後、京の都は栄えていたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていた。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から、姫君たちを次々にさらったのである。
姫君たちを奪い返し、酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが 源頼光(みなもとのらいこう)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに天王の面々坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名である。 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会う。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着く。
酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待するが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を討ち、手下の鬼共も討ち果たす。捕らわれている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がるのである。討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすめ、持ち帰られるが、途中、丹波・山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたのである。
酒呑童子は、日本の妖怪変化史のうえで最強の妖怪=鬼として、今日までその名をとどろかせている。  平安京の繁栄―それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。
酒呑童子という人物は史実に登場しないから、この話はフィクションの世界のできごとである。 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられ、絵巻にかかれ、あるいは能の素材となり、歌舞伎や人形浄瑠璃にもとり入れられ、民衆に語り伝えられていった。
酒呑童子は、フィクションの中の妖怪=鬼ではあるけれども、日本の文化史の中で果たした役割は、きわめて大きいものがある。
そしてその物語の背景となった、破滅しながら、しぶとくあくどく生きた、底辺の人々の怨念が見えかくれする。  酒呑童子という名が出る最古のものは、重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容は現在私たちが考えている酒呑童子のイメージとはかなりちがっている。
まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼王」であり「鬼神」である。 また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。 あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興味深い内容がある。 そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。
また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを待っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。
ところで、童子といえば童形の稚児のことで、神の化身でもある。したがって、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。
それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山―もっと古い時代から鬼のすんだ山―土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは日本最初の庶民むけ説話集である「御伽草子」の出現により、広く民衆の心の中に入り込んでいった。
中世的怪物退治物語の代表作としての酒呑童子物語には、源氏を標榜した足利将軍家の意向をうけた「頼光=源氏の功名譚」としての要素、地におちた王権を支えようとする人々の願望としての「王権説話」、あるいは「神仏の加護」など多様な内容をもりこんでいるがもう一つ、この大江山に伝わっていた「大江山の鬼伝説」が大きな要因となっていることを見落としてはならない。  酒呑童子は頼光に欺し殺される。頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。 このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。
「鬼に横道はない」酒呑童子の最後の叫びは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫び声であったのかもしれない。
小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌があります。いく野は行く野と福知山市生野の地名をかけたものだと思われます。ここでの大江山は本項でのものと京都市西京区の大枝山をかけているとの説もあります。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹
2009/08/29
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【環日本海の歴史】(8) 弥生人はどこから来たのか

環日本海の歴史

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった時代です。紀元前473年、中国が戦乱時代であったために、それから逃れた人々が順次日本列島にやってきたと考えられています。まず中国の春秋戦国時代に江南地方(長江以南)から、南西諸島を伝って南九州に上陸し、秦の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。
紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、縄文時代に日本列島にはいなかった多くの人々が大陸から流入したことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

大量の人々が、日本列島にやってきた

それではなぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのでしょうか。
当時、縄文海進から水位が下がりはじめたとされていますが、外洋航海は、今も昔も大変危険なもので、出航した人々の一部しか日本列島にたどり着けなかったものと考えられます。したがって、平和時に多くの人々がこのような危険なことをおかしてまでやってくるとは考えられず、中国に何か大事件が起こったためと考えるのが自然です。

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。
北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っていますが、これによると、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代のはBC473年に滅亡していますから整合性はとれます。
「呉の太伯の子孫」というのは日向地方に住んでいた人々のことではないかと考えられます。

弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられますが、弥生時代前半の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考えられます。

緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられるのです。このような場合、縄文人との対立は考えにくく、むしろ融和的に稲作や土器、木製品などの新技術を教えて溶け込んでいったのではないでしょうか。
日本列島にわたってきた弥生人は、水田耕作に適した住めるところを探して移動していったために、船を使って海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになりました。

このような人々によって、多くの技術がもたらされ、大変革をもたらし弥生時代が始まったと考えるのです。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていません。これは、このような状態で逃げてきたわけですから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断されます。
板付遺跡のように、縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、戦争による勢力拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな統合だったのです。
いまだよく分かっていませんが、同じく倭人と呼ばれる人々が暮らしていた中国江南の紹興を中心とした地には、古くから「越人」と呼ばれる人たちが住んでいました。紀元前473年には越は呉を滅ぼした。

しかし、紀元前334年、楚(ソ)の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡しますが、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑されました。こうして越は楚に滅ぼされました。

一部の越王族が現在の福建省に逃れ弱小勢力になっていましたが秦に滅ぼされてしまいました。一説ではベトナム(越南)は南下した越部族の末裔と称しています。また、越人たちは航海術にすぐれていて、海岸づたいに朝鮮半島へ行き、半島南部に住み着く者、または海を渡って直接日本へ亡命する者(ボートピープル)が続出したようです。

かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。

山口県豊北町の響灘に土井が浜遺跡があります。この遺跡から出土する弥生人骨は保存状態が良く、発掘は九州大学の医学部解剖学教室の金関丈夫(形質人類学)教授と日本考古学協会の手で行われました。

縄文人

時期や地域による変異は顕著ではない。顔は上下がやや寸詰まりで幅が広く、骨太で、顔の幅が広く寸づまり、鼻や眉間が高くて彫りが深い、歯が小さいが顎は頑丈で、上下の前歯の端を毛抜き状に噛み合わせる。体毛が濃い。平均身長は成人男性で158cm前後、成人女子は150cm未満と小柄。 南方系「古モンゴロイド」

弥生人

地域的な変異が顕著、顔はやや面長で、鼻が低いのっぺりとした顔立ち、歯は大きく、上の前歯が下の前歯の前に重なるはさみ状の噛み合わせ。体つきは手足が長く、成人男性の平均身長は163cm前後、成人女子で151cm前後とやや高身長。 北方系「新モンゴロイド」
土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、戦乱を逃れて日本に亡命してきたボートピープルだったことが裏付けされたのです。

縄文+中国渡来人=弥生?

日本列島に人類が住み始めて何万年というゆったりとした流れのなかで、弥生時代は急速に文明化が進みます。カルチャーショックをもたらした原因は、自然発生的に国内から生まれ発展したと考えることは無理があります。

それは統一国家 秦(シン)の始皇帝による王朝のころには、倭(ワ・やまと)国も百済や新羅(しらぎ・ジルラ)・加耶(カヤ)といった国もまだ誕生していない、はるか以前の時代です。朝鮮文化が伝わったと考えるのではなく、秦から朝鮮半島と日本列島にほぼ同時期に、あるいは朝鮮半島南部を経由して伝わった、「徐福」に例える先端文明をもった集団の渡来であったと考えるのです。

九州北部や出雲・吉備・丹後・越などクニが生まれていきます。徐福伝説が各地で同時に作られ伝わっている意味は、ルーツが同じ人々がそれぞれの新天地に共通の歴史を残し、またさらにその一族から別の土地に移住を繰り返していったことを示しています。

浦嶋太郎・桃太郎・鬼退治・土蜘蛛伝説、ククヒ(鳥取部)など、それらは徐福とされる呉や越人、朝鮮王族が縄文人を野蛮人として苦労しながら同化していったような話です。神話や民話として語り継がれ、日本書紀には天孫降臨や神武東征にすり替えられて記されているのではないかとも思えます。
日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。

しかし、縄文海進により、弥生時代にはすでに現在の日本列島の姿に近く、大陸から船で渡ってくることはそんなに簡単ではなかったと考えられます。早い時期に渡来人が移住したと考えられる北部九州・瀬戸内海・近畿地方ですら、弥生初期の遺跡から渡来系とされる人骨の出土は少ないので、水田稲作の先進地域でも縄文人が中心となっていたことが想定されます。また、少数を除くと、縄文人の戦傷例がないことからも、弥生人対縄文人の大規模な戦闘はなかったといえます。日本列島に住んでいた旧石器からの縄文人が、少数の渡来人がもたらした、より進化した道具や栽培方法などの文化的影響のもとで農耕社会へ移行したと考えるべきでしょう。

そのような研究から、秦が国家統一を果たす以前には朝鮮半島も倭国(日本)もまだクニと言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が伝わった時代は大差がないと考えられますし、東アジアという朝鮮半島のみ日本人のルーツとこだわるのは生産的ではありません。

このようなシナリオが実情に近いなら、弥生時代の始まり頃の渡来人は、当時の縄文総人口に比べてごく少数であったものが、その知識と遺伝子は再生産されて、弥生時代は東アジア交流に基づいて、文化の多くの分野において大きな変革がなされた大変革時代です。その契機は、おそらく中国からの少数の人々の渡来にあり、日本列島の歴史に大きな影響を与えることになりました。その変革は一気に達成されたのではなく、北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

2009/08/28
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【環日本海の歴史】(7) ムラからクニヘ

ムラからクニヘ

稲作によって食料が備蓄でき豊かになると、ムラの人口は増えました。ムラ同士の交流がさかんになる一方で、水田や用水、収穫物をめぐる争いもおこり、ムラを守るために周囲に濠や柵が作られました。ムラの中には共同作業を指揮し、祭りを取り仕切る指導者があらわれ、争いのときにも大きな役割を果たしました。
やがて、いくつものムラがまとまって、小さなクニ(邦・国)が生まれました。これら小国の指導者は王と呼ばれました。

この時期の集落跡でもっと大きいものの一つに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡があります。集落の回りは、全長2.5kmもある二重の濠で囲まれ、巨大な建築物や多くの住居、倉庫、神殿が建てられていました。人々を葬った棺が2000個以上も発見されており、当時の共同体の様子がうかがえます。

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」とされていました。

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義だから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

弥生時代の政(まつりごと)

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。

しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。
また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

「ハレとケ」

「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表しています。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)といいます。

ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別しました。ところで、葬式をハレとするか、ケガレとするかということがあります。一般通念では葬式は不幸ごとであり、結婚式などのお祝いごとと区別したくなるところですが、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊いていたと思われる民俗事例や晴れ着を着て喪に服した民俗事例などを念頭に、「非日常」という点で葬式もハレだとしています。しかしながら、いずれの立場も理論が十分でなく、なぜ葬式がケガレであるのかについて説明しきれていません。

日本において葬祭として葬儀と祭事を分けてきましたが、元々の漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことによって明確な区別が無くなったとの説もあります。

日本神道では、塩が穢れを祓い清める力を持つとみなします。そのため祭壇に塩を供えたり、神道行事で使う風習があります。また、日本においては死を穢れの一種とみなす土着信仰(神道に根源があるという)があるため葬儀後、塩を使って身を清める風習があります。これは仏教式の葬儀でも広く行われますが、仏教での死は穢れではないとして葬儀後の清めの塩を使わない仏教宗派もあるそうです。

日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは「魏志倭人伝」(弥生後期、三世紀前半)です。当時の倭国(日本)について、
「人が亡くなると十余日喪に服し、その間肉類は禁じ、喪主は号泣し、他人は歌舞飲酒ス。…その会は父子男女別なく同座し、人酒を嗜む」 と書いてありあります。これが米から造られた日本酒の最古の記録です。元々漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことのもこの頃からではないでしょうか。紹興酒の故郷は中国江南です。
いずれにせよ、今も約二千年前の昔も日本のお葬式の風習は大差ないですね。それだけ延々脈々と受け継がれてきた日本人の文化は古くから確立していたようです

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
「日本人の歴史教科書 自由社」

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【環日本海の歴史】(6) 中国統一と徐福伝説

[catlist id=8 orderby=title order=asc]中国統一

中国北部の黄河地域に早くから漢民族が住み着き、農耕や牧畜を行っていました。約3500年前には殷(イン)という王朝がおこり、青銅器を祭器として用い、漢字の原型がつくられました。殷が亡び、かわっての時代になると、鉄製の兵器や農具が使われるようになりました。周が衰えると国内は分裂し、その後、戦乱の時代が長く続きました。この時代には多くの思想家があらわれ、政治のあり方を説きました。孔子はその一人で、その教えを儒教とよばれました。

中国を初めて統一したのは秦(シン)の始皇帝で、紀元前3世紀のことです。始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号をはじめて名乗った人物です。重い刑罰で秩序を守るべきとする徹底的な専制政治をしき、数多くの大改革を断行、中国に統一国家の礎を築きました。この時代には、文字や貨幣が統一され、北方の遊牧民の侵入に対して万里の長城も整備されました。しかし、彼の政治はあまりにも厳しいものであったため、秦はすぐに滅んでしまいました。

かわって中国を統一したは、紀元前後400年にわたって栄え、大帝国を築きました。同じころ西洋で栄えていたローマ帝国との間に交易路が開かれ、中国の絹がローマに、西方の馬やブドウが中国に伝えられました。この交易路をシルクロード(絹の道)とよびます。インドの釈迦がおこした仏教も、紀元前1世紀ごろ、この道を伝わって中国にもたらされました。

徐福伝説

狩猟・漁労主体の縄文時代から、稲作をはじめ農耕社会の弥生時代へと変わる画期的な文明移行の過程に、いったい何が起こったのだろう。まずこの時代に相当する伝承として、その謎を解くひとつに「徐福伝説」があります。

この伝説は浦島太郎伝説と同様に全国に残っています。まったく根も葉もないところから伝説が生まれたり、長く語り継がれることはないとすると、紀元前200年ごろのことが語り継がれてきた徐福伝説を、単なる作り話だと軽率に否定することはできないと思います。縄文時代から弥生時代へと変わる過程の史実が隠されているのではないかと思います。

司馬遷が著した中国で最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が登場します。

秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述があります。

『史記』は、紀元前100年頃に完成されたものと推定されていますが、非常に高い学術的権威をもった大著とされています。それは、記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされているのです。徐福(じょふく)の事件は『史記』の完成わずか100年前の出来事なのです。

この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説ありますが、浙江省寧波市慈渓市が有力とされます。 途中、現在の韓国済州島(済州道西帰浦市・ソギッポ市:地名の由来は徐福が西(中国大陸)に帰って行った港との説もあります。)や朝鮮半島の西岸に立寄り日本に辿り着いたとされます。
『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。

その後も徐福について、『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されています。

なのに、日本の史書である「記紀」以下の六国史にも徐福の記述はありません。しかしその後も、中国では徐福の渡海から1200年ほどが経過しても、徐福の日本渡来説が現れはじめます。釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている。」と伝えたとあります。しかし、長い間、徐福伝説は実在の人物ではないと思われていました。
徐福のルーツ
ところが、1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の羅其湘氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見しました。今更地名が発見されるところに中国らしさを感じますが、同氏は、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとしています。この村が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐福村」と呼ばれ、「徐福」の伝承が残っている事をつきとめました。

その後、プロジェクト・チームが現地に入り、村に残る「徐副廟」を調査したところ、驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいました。代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。そして古老の語る次の伝承を採録しました。

「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」

全国各地に残る徐福伝説地

日本では徐福渡来にまつわる話が全国各地に伝わります。佐賀県内数ヵ所、鹿児島県串木野、青森県八戸・小泊村、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡伊根町、愛知県などが有名です。

東シナ海を出た船は、黒潮(日本海流)か対馬海流に乗れば、沖縄・九州、日本海沿岸、太平洋沿岸のどこかにたどり着きます。ある船は対馬海流に乗って韓国済州島や対馬・壱岐、九州北部から丹後、北陸、東北日本海側の地方まで、またある船は黒潮に乗って四国や熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島など各地に流れ着いたのだろうといわれています。

東シナ海を大船団なのでひとかたまりで動くことはなく、ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などにばらばらに流れ着いたはずです。

まず辿り着くのは九州の長崎・佐賀・福岡、もしくは黒潮に乗れば鹿児島西部か四国南部・紀伊半島でしょう。伝説として土地にとけ込んで語り伝えられているのは、中国からも近い佐賀県のようです。

佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生します。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたといいます。

紀伊半島の熊野にある徐福渡来伝承地は、和歌山県新宮市と三重県熊野市波田須(はだす)の2ケ所です。どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。

日本海側では丹後半島の網野と伊根には、紀伊半島の熊野・伊勢地方と同名や似た地名・神社が多いことに気が付く方は多いのではないでしょうか。まるで鏡を置いて写したような偶然です。豊橋市にも熊野神社があります。もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。

佐賀県徐福会のHPによると、「吉野ヶ里から発見された絹は、京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎氏の鑑定によると前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていたので、それが最初に国外に出たことを確認できたのが日本で、しかも北部九州であると述べており、さらに吉野ヶ里から出土した人骨が江南の人骨に似ているということから、貝紫や茜で染められた薄絹をまとっていた、佐賀平野の弥生人は、徐福の子孫ではないかと。佐賀に伝わる徐福伝説を考える点で興味深いものです。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から機織り、秦、幡、波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。

2009/08/28

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【環日本海の歴史】(5) 弥生時代のはじまり


[wc_skillbar title=”環日本海の歴史” percentage=”100″ color=”#6adcfa”] [catlist id=8]概 要
弥生時代とは、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続く、古墳時代に先行する時代の名称です。
弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって、研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。
弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。
これによると、
弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、
・早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
・前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
・中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
・後期(紀元50年頃~三世紀中頃)
の四期区分論が主流になりつつあります。
しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く未知な世界です。
弥生時代の新たな研究
小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。
このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭(ワ・やまと)と呼ばれました。
つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。 出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。
こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。
環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。
関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』には、
稲作民は日本を征服したのか
「騎馬軍団を率いた征服者」の存在を想定することは、あまり現実的ではない。そうではなく、むしろ弥生時代の「武装した渡来稲作民」の存在の方が問題である。
弥生時代の到来は、大量の稲作民族の渡来によってはじまった可能性が高い。少なくとも、北部九州に稲作文化を根付かせる基礎を作っていったのだった。
彼らは半島や大陸の戦乱をくぐり抜けてきた人々で、日本列島にも、防御力の高い環濠集落や、金属製の武器をもたらした。稲作民族と騎馬民族を比較すれば、騎馬民族の方が好戦的に思えるが、実際には稲作民もよく戦う人々なのだ。
温厚そうに見える稲作民族が、なぜ戦いを好むのかというと、「農業」が土地の奪い合いを前提としているからだ。農耕民は貪欲に食べるだけではない。「膨張する農地」も無視できない。
農業は「余剰」を生み出し、その「余剰」が、人口爆発を引き起こす。
人口爆発が、今度は新たな農地(田んぼ)を求める。
新たな農地を獲得すれば、さらに「余剰」が再生産される。
この連鎖が「農業の宿命」であり、しかも周囲の集落でも同じ事をやっているのだから、当然土地をめぐっていさかいが起きる。その紛争が大規模なものになって、強いリーダーが求められる。
また、金属器の登場によって、農作業の効率が上がり、そのため、「競争」は激化し、「もっと広い農地」を求めて、農耕民は戦ったわけである。
このように、稲作や農業という「システム」そのものが、戦乱と強いリーダーを求めたのである。
稲作文化は軋轢と融合を重ねて広まっていったわけで、「農耕そのものが戦争を呼び寄せる」のだkら、弥生時代は混乱のじだいとなったのである。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

(4) 文明の発生

約1万年前に氷河時代が終わると、地球は気候の変化によって植物の分布が変わり、大型動物も減っていきました。こうした環境変化の中で、人々は、植物を栽培したり、動物を育てるようになり、農耕・牧畜が始まりました。また、表面をみがいて性能を高めた磨製石器を用いるようになり、火を使って土器をつくるようになりました(新石器時代)。

文明の発生 道具

約5000年から3500年前、エジプト、メソポタミア、インド、中国の各地域に文明が生まれました。土器や磨製石器だけでなく、青銅器や、少し遅れて鉄器も用いられるようになりました。小さな集落に分かれていたクニが数万人の規模で集まり住む都市国家が生まれました。多数の人々を動かす灌漑工事には、工事を指揮する指導者が必要でした。彼らは、戦い、祭り(祀り)なども指揮しました。彼らは広い地域を統合するにつれて、やがて王となっていきました。王のもと、税が納められ、また記録のために文字が発明されて、書記が雇われました。こうして国家ととよばれる仕組みが整えられていきました。
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができます。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作りました。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削されました。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使いましたが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられました。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられました。

青銅器は大陸から北部九州を中心とする地域では銅矛(どうほこ)銅剣(どうけん)銅戈(どうか)などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸(どうたく)がよく知られています。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに日本国内で生産も開始されました。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられていますが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわかっていません。

出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから、実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高いです。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかります。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できます。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられますが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌(ぜつ)を内部につるして鳴らすものとして用いられましたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられています。また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになりましたが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられました。このように、大型の青銅器は出現当初を除いてほとんどが祭祀に用いられるものでした。このほかに鋤先(くわさき)などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられますが、大型の青銅器に比べて非常に少量です。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)を除き、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産されました。青銅器の鋳型は、列島での初期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られます。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになります。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられています。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられていますが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多いです。
コメの他にもう一つ、弥生時代と縄文時代を大きく分けるものとしては鉄があります。鉄もコメと同じように大陸からやってきました。かつては水田耕作と鉄は同時に到来したと考えられてきました。水田を開発するためには鉄が必須とであると思われていたからです。豊になった富を狙って鉄は武器として使われ、弥生時代は縄文時代と異なり、最初から戦争の時代だったというのも半ば常識でした。ところが最近の研究では、鉄の方が数百年も遅れてやって来たことが判明しました。弥生時代前半には小競り合いはあったとしても、殺戮を伴う戦争はあまりなかったようです。

製鉄の技術を知らない弥生人は、少ない鉄器をリサイクルして大切に使う一方で、縄文以来の石器も当たり前の道具として利用し続けていました。鉄器がなかなか広がらなかった理由としては、少数のグループが技術と物流を抱え込んでいたことが大きいのです。鉄器の原材料は半島から持ち込まれていたのですが、それを運んだのは実は半島の人ではなく日本に住む弥生人でした。韓国釜山市で見つかった鍛冶炉のまわりから出る土器の94%が、なんと九州北部の人々が使っていたものと同じだったのです。九州北部の弥生人は、原材料の現地生産・輸入・日本での加工、そして流通まで担っていたことになります。

こうした特権を持つ人々は力を集約していきました。弥生時代の前期が終わるとされる紀元前4世紀ごろに、鉄や青銅器の武器などを使った戦闘が九州北部を中心に繰り広げられるようになりました。そして、紀元前50年頃までに日本で初めての王が、奴国(ナコク)と伊都国(イトコク)(いずれも福岡県)に登場したと考えられます。階級社会の誕生はコメではなく鉄によって生まれたといえます。

鉄はもともと武器として使われたわけではありません。最初は斧や鍬であり、狩猟に使う矢じりとして使われました。おそらくこの狩りに使う弓矢が、まず人を殺す武器に転用されていったのでしょう。戦国時代に伝来した鉄砲も、最初は合戦用ではなく、狩のための道具でした。計画的に稲作を行っていた弥生人は、隣りに豊かな人がいるからといって、本能としてすぐに襲いかかるような野蛮な性質とは思えません。特に日本では、縄文と弥生がゆっくりと統合していったように、「和」の価値観の強い世界でした。

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
「日本人の歴史教科書」自由社
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

全国的にも式内神社が多い但馬

但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。

アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。

但馬一宮は粟鹿神社から出石神社に変わっています。同じように出雲一宮 素餓社から出雲大社へ、丹後一宮も真名井神社から元伊勢籠神社へ、角鹿社から気比神宮へと、もともとの神様から天皇系の神様に替えられているようです。

西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。

今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

但馬(たじま)国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が多く存在していますが、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。

但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。
新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國286座大128小158
伊勢國253座大14小235
出雲國187座大2小185
近江國155座大13小142
但馬國131座大18小113
越前國126座大8小118

近隣で比べると、
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43

となっています。決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国も丹波国の一部ですから、合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位です。

ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡朝来市粟鹿神社名神大・旧県社
養父郡養父市養父神社(夜夫坐神社)名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社名神大・旧村社
出石郡豊岡市出石町出石神社(伊豆志坐神社)名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社名神大
気多郡豊岡市日高町山(やま)神社名神大・旧村社
戸(へ・との)神社名神大・旧村社
雷(いかづち)神社名神大・旧村社
豊岡市竹野町?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社名神大・旧村社
城崎郡豊岡市海(カイ・あまの)神社名神大・旧村社

但馬一の宮

一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。

山陰道但馬国
一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。

但馬五社

またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

粟鹿神社 朝来市
養父神社 養父市
出石神社 豊岡市出石町
小田井縣神社 豊岡市
絹巻神社 豊岡市

2009/08/28

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【丹国の歴史】(11) 徐福伝説と浦島太郎

丹後と徐福伝説

京都府北部の丹後半島は、若狭湾の西端に張り出した日本三景の一つ「天橋立」の近く、「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に浦嶋太郎と徐福にかかわる次の伝説が残っています。

日本海を対馬海流にのって北上した徐福(じょふく)の船は丹後半島にたどり着きました。

海上に浮かんでいるように見える冠島。常世島(とこよしま)とも呼ばれており、ここに生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われています。佐賀にもフロフキが自生しており不老不死がなまってフロフキとなったといわれています。

冠島は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれており、「天火明命」は伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社(宮津市)の祭神ともなっています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したといわれています。

丹後半島では岩が浸食されてできた地形が至るところで見られます。徐福は「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着しました。丹後半島の先端に近い京都府与謝郡伊根町新井の海岸に「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」と碑が立つ場所があります。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で、現在の海水面からはやや高い位置にあります。

「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」

「ハコ岩」から山の斜面を登ると新井崎(にいざき)神社があります。この神社には、医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた徐福が産土神として祀られ、今も土地の人たちが大切にしているそうです。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って、ここに住みついたと伝えられているのです。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)とも呼びますが、徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われます。実際、ご神体は男女二体の木像であるらしいのです。

霊亀(れいき)は、古代中国の神話等に登場する怪物の一種とされ、四霊の一つにあげられている。 中国神話等では、背中の甲羅の上に「蓬莱山(ほうらいざん)」と呼ばれる山を背負った巨大な亀の姿をしており、蓬莱山には不老不死となった仙人が住むと言われている。

浦嶋太郎と亀に共通するものですが関係あるのか。

2009/08/28

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。