【丹国の歴史】(38) 丹後国 与謝郡(よさぐん)

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与謝郡(よさぐん)・加佐郡
与謝郡式内大社
与謝郡 籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町
加佐郡 大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です。

野田川の古墳

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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

2000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

弥生人はウルトラマン?
与謝野・温江遺跡で人面付き土器
京都新聞 2月26日/2009


弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)

京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。

土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。

顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。

後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。

古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)  この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

■舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。

■大川神社(おおかわじんじゃ)

京都府舞鶴市
大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)
相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)
大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。

社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。 1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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丹後の古墳 丹後国 与謝郡(よさぐん)

与謝郡(よさぐん)・加佐郡

与謝郡式内大社
与謝郡 籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町
加佐郡 大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です。

野田川の古墳
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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

2000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。

古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)  この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

■舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。

■大川神社(おおかわじんじゃ)
京都府舞鶴市

大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)

相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)
大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。

社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。 1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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丹後の古墳 神明山古墳

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

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丹後の古墳 竹野川流域の古墳群

丹後半島最北端経ヶ岬

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

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楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。その後、秀吉政権下の有子山城主の支配化におかれ、 現在みられる縄張りはそのおりに改修されたものと考えられている。

宵田村には市が開かれ、気多郡の集積地として栄えました。「宵田表の戦い」で羽柴軍により降参し、豊臣方へつきます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」では、このような話が書かれてあります。

宵田城主垣屋隠岐守峯信は、天正八年(1580)、羽柴秀吉が但馬征伐に向かってきてからは恐れおののき、心安らぐ日はありませんでした。

ある日、魚売りが江原村を行商していました。そのころは商人が津居山港から歩いたのではなく、円山川を上下して船で行き来しました。商人は売り声を張り上げて歩いていました。その日は、カキ・どこう・このしろの三種類であったので「かきや・このしろ・どこう」とふれました。

秀吉が今日攻めてくるか、明日攻めてくるかと、びくびくしている時ですから、この売り声が「垣屋この城どこう(退陣せい)」と聞こえてしまいました。そこで、これは秀吉の征伐の前触れと、てっきり思いこんでしまい、一族を引き連れて楽々前城へ逃げました。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。


宵田城 南方向から 下は国道312号城山トンネル

その年の五月、征伐に来た秀吉軍のうち、斉藤石見守近幸、小田垣土佐守らが大軍を率いて宵田城を攻めた時には、城中は音なしの構えどころか、一人残らず楽々前城へ退き、もぬけの殻であったといわれています。そこで秀吉の命により、宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子を城代として守らせました。
楽々前城では、父子家臣ともども籠城しましたが、ついに二百二十年続いた垣屋氏は城とともに滅んでしまいました。

しかし、天正八年(1580)、第二次但馬征伐で秀吉の弟秀長と宮部善祥房が但馬に軍を進めたとき、はじめて秀吉軍と敵対しましたが、宵田表の戦いなどのあと秀吉軍に従いました。そして、「但州・因州境目」の重要拠点岩経城主に起用され、因幡鳥取城攻撃には主力部隊として活躍しています。

垣屋氏と関ヶ原の戦い

垣屋光成の子が恒総で、父と同じく秀吉に仕えました。恒総は天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原征伐、さらに文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、一万石を与えられ、因幡桐山城の城主となりました。関ヶ原の合戦で垣屋隠岐守恒総は、因幡国若桜の木下備中守と一緒に大阪に着陣し、西軍に属します。諸将と共に伏見城、大津城を攻め、やがて関ヶ原へ向かわんとしていましたが、既に戦が始まり、どうやら西軍の旗色が好くないとの情報が伝わります。垣屋としては為すすべもなく、高野山に逃れて日頃師檀の関係を結んでいた僧侶の許に身を寄せました。
やがて天下の赦免があろうかと心待ちにしていたのですが、徳川軍の検使が来て自害すべしとの命を伝えたので自刃しました。こうして垣屋は、関東から但馬にやってきて、二百年の年月を積み重ね、但馬を追われて因幡に新住の地を得たものの、それは二十年しか保てませんでした。留守の桐山城では城主を失い、鳥取城同様にこの城も攻められるのかと勘違いして、家中の者が隠岐守恒総の内室や子供を引き連れて、但馬の故地気多郡西気谷を目指したといいます。

また幸いにも垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、江戸時代に至って竹野轟(とどろき)城主垣屋家(駿河守)の家系は、徳川重臣 脇坂氏の家老になります。駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としています。このように垣屋は生き残っているのであり、滅亡したと記述している諸所の文献は間違いであるといわざるを得ないのです。現実に子孫の方は多く但馬におられます。

関ヶ原の戦いの頃、日本の人口は、500万人の状態が続いていました。農耕の開始に次ぐ人口革命の時期であり、戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられ、約3倍に膨れあがり1200万人を超えます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

【丹国の歴史】(36) 古墳時代

古墳時代とは、一般に3世紀半ばすぎから7世紀末までの約400年間を指します。中でも3世紀中葉過ぎから6世紀末まで前方後円墳が、北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれます。前方後円墳が造られなくなった7世紀には、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ、終末期と呼ばれています。

日本国家の成立から考察すれば、前期・中期の古代国家の形成期を経て、後期から終末期にかけて日本の中央集権国家が成立したと考えられています。

この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられています。

ヤマト政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。

古墳とは

一般には墳丘を持つ古い墓のこと。古代の東洋では特定のわずかな人たちである位の高い者や権力者の墓として盛んに築造されました。日本史では、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別しています。

古墳は規模や化粧方法の違いとともにその平面形状によって、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造や形態によって細かく分類編年されています。墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥や奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明しています。

古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代の墓制にとって変わったものでなく、非常に変化した墓制としてあらわれました。それは、特定のわずかな人たちの埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と著しく隔絶したもので、地域的にも不均等に出現します。すなわち、古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にととどまらず、社会・政治の全般に関わる問題としてあらわれたのです。そうした変化から古墳時代と呼ばれます。

日本の古墳は、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)などの種類があります。日本の主要な古墳は、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つあるタイプの古墳であることが多いです。

多くの古墳は築かれてから長い時間が経過したため、上に木が生えている事が多いですが、建造当時の木のない状態が多くの古墳の本来の姿でした。

日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼります。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となります(平成13年3月末 文化庁調べ)。

■3世紀の後半

奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現。
西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。

■4世紀中頃から末まで

半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王[*1]墓クラスの前方後円墳が築かれる。
4世紀の後葉
河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。

■5世紀の半ば
各地に巨大古墳が築造されるようになる。

■6世紀の終わり
日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなり、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ終末期と呼ばれています。
これは、ヤマト王権が確立し、中央・地方の統治組織をできあがり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されています。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられています。大王の墓は特別に八角墳として築造されました。

時期区分

■古墳時代前期

大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)写真:ウィキペディア  3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中しました。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られます。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れました。
この時期の主な王墓

・奈良県桜井市 、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
・奈良県桜井市 、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル)
・奈良県桜井市 、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵)
・奈良県天理市 、柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(伝景行陵、310メートル)
この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
・奈良県桜井市 、桜井茶臼山古墳(280メートル)
・奈良県桜井市 、メスリ山古墳(240メートル)
主な首長墓
・山梨県甲府市 、甲斐銚子塚古墳(168メートル)
・岡山市 、神宮寺山古墳(約150メートル)
・東広島市 三ツ城古墳

■古墳時代中期

5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

一部の地域首長古墳が巨大化
・岡山市 造山古墳(360メートル) 岡山県総社市 作山古墳(270メートル)
畿内の盟主墓
・大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳 (伝仁徳天皇陵、486メートル)
・大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳 (伝応神天皇陵、420メートル)
・大阪府堺市 上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)

■古墳時代後期

6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。

古墳時代後期の大王陵
・大阪府高槻市 今城塚古墳 (真の継体陵、墳丘長190メートル)
・大阪市松原市 河内大塚山古墳 (墳丘長335メートル)
前方後円墳最終段階の大王陵
・奈良県橿原市 見瀬丸山古墳 (みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318メートル)
・大阪府南河内郡太子町 敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、大王陵最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

■古墳時代終末期

全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。
終末期古墳の代表的なもの
・大阪府南河内郡太子町 春日向山古墳 (磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60メートルの方墳)
・大阪府南河内郡太子町 山田高塚古墳 (磯長谷古墳群、現推古天皇陵、63×56メートルの方墳)
・奈良県高市郡明日香村 石舞台古墳 (蘇我馬子の墓と推定、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
・奈良県北葛城郡広陵町 牧野古墳 (押坂彦人大兄の墓である可能性が高い、径43メートルの円墳
・奈良県桜井市 ムネサカ1号墳 (中臣氏一族、径45メートルの円墳)
・奈良県天理市 峯塚古墳 (物部氏一族、径35メートルの円墳)
・奈良県高市郡明日香村 高松塚古墳
・奈良県高市郡明日香村 キトラ古墳
埋葬施設
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがあります。

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はありません。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがあります。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものです。古墳時代前期から中期に盛行する。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされます。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行しました。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法です。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法です。

石材は二上山のサヌカイト[*2]が一般的ですが、徳島県の吉野川下流域の結晶片岩[*3]もよく使われています。石室の構築には、相当な量の石が運ばれたと想定できます。 割竹形木棺の内・外の面と石室の壁面とにベンガラ(赤色顔料)[*4]が塗られている。棺の内側には朱(水銀朱)[*5]が塗られている場合もあり、ベンガラと朱の両方が用いられる場合もあります。埴輪を造ることが埋葬祭祀の一部であるととられられているので、石室構築も同様に埋葬祭祀行為であったと考えられます。

■横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、日本においては、古墳時代後期に古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室(げんしつ)へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓室のことをいいます。横穴式石室、横口式石槨などがあります。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼びます。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々です。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれているますが、それを空ければ追葬が可能です。古墳時代後期以降に盛行すしました。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られます。

高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、主に6~7世紀の古墳で盛んに造られました。奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いるもの(石舞台の場合は墳丘が喪失している)が典型的ですが、中国の墓を意識したような切石や平石を互目積(ごのめづみ)にした磚槨式石室と呼ばれるものもあります。

■棺(かん・ひつぎ)

古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬しました。棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺などがあります。

但馬の主要古墳

名称         郡      所在地     時代区分 種類   遺物
トチ三田遺跡   美含郡 香住町下浜栃三田 古墳 散布地
伊津神古墳    美含郡 香住町原     古墳   古墳  型式不明(金銅装)1点
夕垣8号墳    養父郡 八鹿町下網場 古墳   古墳 頭椎大刀または圭頭大刀(銀象眼八窓鍔)1点
長者ヶ平古墳 美含郡 香住町下岡藤谷 古墳   古墳/幅は奥で2.3m、但馬では最大級の石室
山谷墳墓群
(平成20年08月21日) 美含郡 香住町油良 古墳 古墳
文堂古墳 美含郡 村岡町寺河内 古墳 古墳 双龍環頭大刀1点・頭椎大刀1点(金銅製六窓鍔)・方頭大刀1点・型式不明(銀装)
八幡山古墳群  美含郡 村岡町福岡 古墳 古墳
三の谷壁画古墳  美含郡 村岡町高井 古墳 古墳/線刻の壁画
長者ヶ平2号墳  美含郡 村岡町寺河内 古墳 古墳・須恵質 四注式屋根形
以上美方郡香美町
見手山1号墳 城埼郡 豊岡市妙楽寺 古墳   古墳 須恵器蓋杯2個体よりハマグリ各2個
森尾古墳跡 城埼郡 豊岡市森尾 古墳 古墳 「正始元年」(240年)三獣鏡
大師山1号墳 気多郡 豊岡市引野 古墳 古墳
深谷1号墳     気多郡 豊岡市中郷 古墳 古墳
深谷2号墳     気多郡 豊岡市中郷 古墳 古墳
東山1号横穴墓 城埼郡 豊岡市上鉢山 古墳 古墳 太刀型式不明1点(円頭、圭頭、方頭のいずれか)
田多地小谷遺跡 出石郡 出石町田多地 古墳 古墳 山陰型甑形土器
二見谷1号墳 城埼郡 城崎町二見 古墳 古墳 圭頭大刀2点
二見谷4号墳 城埼郡 城崎町二見 古墳 古墳直径18m、円墳 頭椎大刀1点(金銅製六窓鍔)
ケゴヤ古墳 城崎郡   城崎町上山 古墳 古墳 須恵器・タガイ2個
カヤガ谷2号横穴 城埼郡 豊岡市出石町袴狭 古墳   古墳・横穴墓 型式不明(銀装)1点
荒神塚古墳 城埼郡 豊岡市大谷 古墳   古墳 太刀型式不明(銀装)1点
小見塚古墳 城埼郡 城崎町今津 古墳 古墳 但馬海直一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在一番古い埴輪が出土している。
ケゴ谷南1号墳 美含郡 竹野町草飼字毛子谷 古墳 古墳
鬼神谷2号窯 美含郡 竹野町鬼神谷字宮の下 古墳 生活遺跡
阿金谷古墳群 美含郡 竹野町阿金谷 古墳 古墳/鉄剣
楯縫古墳    気多郡 日高町鶴岡 古墳 古墳 円頭大刀1点(銀象眼)
カヤガ谷1号墓 出石郡 出石町袴狭 古墳 その他の墓
茶臼山古墳 出石郡 出石町谷山 古墳 古墳
内町1号窯址 城埼郡 豊岡市内町 古墳 古墳・須恵質 亀甲形
耕地谷古墳群 城埼郡 豊岡市 古墳 古墳/城館跡 鉄器や玉
以上豊岡市
国木とが山1号墳 養父郡 八鹿町国木 古墳 古墳
箕谷2号墳    養父郡 八鹿町小山箕谷 古墳 古墳 戊辰年銘大刀
禁裡塚古墳 養父郡 養父町大薮字中西 古墳 古墳
大藪古墳群(伝 野塚18号墳) 養父郡 養父市大薮字下山 古墳 古墳 単龍環頭大刀
観音塚古墳 養父郡 養父町上野字平野 古墳 古墳
山際古墳
(平成20年01月23日) 養父郡 八鹿町高柳 古墳 古墳
以上養父市
春の木田1号墳 朝来郡 和田山町久田和   古墳 古墳 型式不明大刀(銀象嵌鍔)1点
池田古墳     朝来郡 和田山町平野字イケダ 古墳 古墳
春日古墳     朝来郡 和田山町林垣小字上山 古墳 古墳 頭椎大刀1点
上山5号墳     朝来郡 和田山町林垣小字上山 古墳 古墳・直径12m、円墳 頭椎大刀1点(金銅製八窓鍔)
長塚古墳     朝来郡 和田山町岡田字兜塚 古墳 古墳
城ノ山古墳     朝来郡 和田山町東谷字城山 古墳 古墳 三獣鏡
向山1号墳     朝来郡 和田山町加都字向山 古墳 古墳
筒江中山23号墳 朝来郡 和田山町筒江字中山 古墳 古墳全長60m
小丸山古墳 朝来郡 和田山町岡田字小丸山 古墳 古墳
梅田1号墳 朝来郡 和田山町加都字向山 古墳 古墳
宮内中山古墳群 朝来郡 和田山町宮内 古墳 古墳 方頭大刀1点を含む3点
茶すり山古墳 朝来郡 和田山町筒江字梨ヶ谷 古墳/中世 城館跡/古墳・大型円墳で、円墳としては奈良県富雄丸山古墳と並んで、近畿地方最大規模(直径約86m) 各種玉類・櫛・鏡4面・甲冑・刀剣・鉄鏃・盾・鉄製工具類・家形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪など
若水A11号墳 朝来郡 山東町粟鹿字若水 古墳 古墳
船宮古墳 朝来郡 朝来町桑市字野篠 古墳 古墳
大同寺古墳 朝来郡 山東町早田 古墳 古墳 須恵質 亀甲形、2基
内高山東古墳群 朝来郡 山東町 古墳 古墳 刀、小刀・鉄鏃・須恵器・土師器・鉄斧・石突・刀子・玉類(勾玉、管玉、ガラス小玉)
岩屋谷古墳 朝来郡 和田山町 古墳 古墳 須恵質 亀甲形
長尾古墳(1号墳) 朝来郡 和田山町筒江 古墳 円墳か?(詳細不明) 頭椎大刀1点
秋葉山古墳群 朝来郡 和田山町林垣 古墳 古墳 土師器・直刀・鉄鏃(てつぞく)

以上朝来市

*註

[*1]…天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。

[*2]…讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)はカンカン石とも呼ばれ、 名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。石匙(いしさじ)、削器(さっき)などの各種のナイフ類、また、鏃(ヤジリ)などに使われる。固いもので叩くと高く澄んだ音がする。玄関のベルの代わりに使われたりしている。楽器としての演奏者も存在している。

[*3]…変成岩の一種。片岩(へんがん、schist[1])ともいう。
[*4]…赤色顔料のひとつ。酸化第二鉄(赤色酸化鉄、酸化鉄(III)、Fe2O3)を主要発色成分とする。
[*5]…赤色顔料のひとつで硫化水銀。赤、辰砂。丹生を参照

-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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【但馬史パラドックス】 こうのとり神社の真相を探る

兵庫県豊岡市は日本でただ一か所の国の特別天然記念物コウノトリの生息地です。
その近くにある久々比神社。しかし、いつからかコウノトリゆかりの神社と思われてきた。久々比は鵠と書き、白鳥など鳴く鳥をいう。コウノトリは鳴かない鳥であるし、そもそも久々比神社は、城崎郡司久々比命を祀った神社で、コウノトリとは関係ない。

コウノトリとは関係ないとはいっても、別に同じ鳥に因んだ名前なのだし、全国で兵庫県立コウノトリの郷公園に行く機会には、このの式内久々比神社と式内酒垂神社を立ち寄られることをおすすめする。ともに豊岡最古の本殿(国指定文化財)
鵠を追って但馬で捕らえたとされるのは、養父郡和那美。今の式内和那美神社(養父市下網場)
コウノトリと誉津別命は無関係だ

『日本書紀』』巻六 第六話 伊勢の斎宮[*1] 治世23年秋9月2日、群臣を集めて詔して言った。
誉津別皇子(ほむつわけのみこと)[*2]は父の垂仁天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
「誉津別命(ほむつわけのみこと)は三十歳になり、長い顎髭が伸びるほど成長したが赤子のように泣いてばかりいる。それに声を出して物を言うことがないのは何故だろう。皆で考えてくれ。」
冬10月8日、天皇は大殿の前に誉津別命と立っていた。そのとき鵠(くぐひ)[*3]が空を飛んでいた。皇子は空を見上げて白鳥を見て「あれは何者ですか。」と言った。天皇は誉津別命は皇子が白鳥を見て口を利いたので驚き、そして喜んでそばの者に詔して言った。
天皇 「誰かあの鳥をとらえて献上せよ。」
臣下の一人 「手前が必ず捕らえてご覧に入れましょう。」
天皇 「よし。もし捕らえることが出来たら褒美をつかわす。」
こう申し出た者は鳥取造(ととりのみやつこ)の祖で、天湯河板挙(あめのゆかわたな)という者だった。天湯河板挙は白鳥の飛んで行った方向を追って、出雲まで行って捕らえた。ある人は(但馬)で捕らえたともいう。
11月2日、天湯河板挙が白鳥を献上した。誉津別命はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。

治世25年春2月8日、阿部臣の先祖である武渟川別(たけぬなかわわけ)、和珥臣の先祖の彦国葦(ひこくにぷく)、中臣連の先祖の大鹿島(おおかしま)、物部連の先祖の十千根(とおちね)、大伴連の先祖の武日(たけひ)らの五大夫達に詔して言った。

天皇 「先帝の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ・崇神)天皇は聖人であられた。慎み深く、聡明闊達(そうめいかったつ)であられた。よく政務を取り仕切り、神祇を祀られた。それで人民は豊かになり、天下は大平であった。私の代でも怠りなく神祇をお祀りしようと思う。」

3月10日、天照大御神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)からはなして、倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。倭姫命は大御神が鎮座あそばす地を探して宇陀(うだ)の篠幡(ささはた)に行った。さらに引き返して近江国に入って美濃をめぐって伊勢国に至った。
そのとき天照大御神は倭姫命に言った。

「伊勢国は波が重ねて打ち寄せる国だ。国の中心というわけではないが美しい国だ。この国に腰を下ろしたいと思う。」

そこで大御神の言葉に従ってその祠(ほこら)を伊勢国に建て、斎宮(いつきのみや)を五十鈴川(いすずのかわ)の畔(ほとり)に建てた。これを磯宮(いそのみや)という。
同様な話が久々比神社等に伝わります。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられています。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。

久々比(くくひ)神社

祭神:久久遲命(くぐひのみこと)

式内小社 コウノトリに縁のある神社。 室町末期の建物と推定され、三間社流造の本殿は、中嶋神社・酒垂神社・日出神社(但東町畑山)とともに 【国指定重要文化財】に指定されている。
一説には天湯河板挙命(あめのゆかわぞなのみこと)を祀るともいわれています。
ご由緒には、コウノトリは古くは「鵠(くぐひ)」と呼び、大きな白鳥を意味する言葉です。霊鳥なのでその棲んでいる土地も久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくちのみこと)をお祀りした。これが久々比神社の始まりでした。
ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(きぬさきのうみ)」といって、このあたり(下宮)はその入り江の汀(なぎさ)でした。また、あたりは樹木が繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地でした。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことでしょう。

和名抄では城崎を「支乃佐木」と訓じています。木の神がきのさきと訛ったとも考えられます。

鳥取造の祖、天湯河板挙命

このコウノトリの伝説はお隣の鳥取県にもあります。こちらが伝承の本家なのかも。
「鳥取」の語は『古事記』や『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話がみえます。
誉津別王子が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙が鳥を追いつづけ各地を巡り、ついに出雲の地で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓:かばね)を拝命した。『記』にも同類の説話が見えるが、結末は違っているが、上記の久々比神社の御由緒と同じです。単なる偶然かも分からないが、同じ気多郡という郡名がそれぞれ存在しています。
鳥取県のHPに鳥取県の名前の由来があった。

「鳥取」とは、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する人たち「鳥取部(トトリベ)」に由来しています。』…鳥取県の名前の由来は、平安時代に書かれた和名類聚抄に出てくる因幡国の「鳥取郷」まで遡ることができます。
そして、その「鳥取郷」という地名は、古代、白鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥 取部」という部民の住んでいた土地に由来するといわれています。ちなみに鳥取県史によると、「鳥取部」は、河内・和泉・伊勢・美濃・上野・越前・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・備前・備中・肥後など広く日本中に分布していたそうです。

北海道・福島県・群馬県・千葉県・富山県・愛知県・三重県・京都府・大阪府・兵庫県・鳥取県・岡山県・愛媛県・熊本県・佐賀県に、「鳥取」を含む地名がある(あった)ことが分かりました。なんと、全都道府県の約3分の1にあたる数です。

ところでこのほかにも、古事記中に2か所、「鳥取」という言葉を見つけました。「鳥取」という地名の起源は「鳥取部」にあるはずなのに、「鳥取部」より前に「鳥取」という地名(や神名)が出てくるのは面白いなと思ったので、ちょっと紹介しておきます。

ひとつは上で紹介した話の少し前で、垂仁天皇の御子が「鳥取の河上宮」で太刀を千振つくらせた、という記事が出てきます。「鳥取の河上宮」というのは、和名類聚抄に出てくる和泉国の「鳥取」で現在の大阪府阪南市に当たると考えられています。日本中に数ある「鳥取」の中でも、最も由緒ある地名といえるかもしれません。垂仁天皇の在位は(西暦で)紀元前29年から紀元70年ということですから、阪南市内にある「鳥取」、「和泉鳥取」、「鳥取中」、「鳥取三井」といった地名は2千年の歴史を持っていると言えるかもしれません。

また、古事記の中で、大国主命は6柱の女神と結婚していますが、6番目の妃は「鳥取神」という名前です。この「鳥取神」という神は他の古代史料に現れないため、残念ながらその名の由来までは分からないようですが、大国主命の最初の妃が「稲羽之八上比売(因幡の八上姫)」で、最後の妃が「鳥取神」というのも、なんだか不思議な縁を感じませんか。

ただ、これは神話の世界を含んでいますので、本当に2千年の歴史があるかどうかは、残念ながら誰にも分かりませんね。では、古代の史料で裏付けられる最古の「鳥取」はどこになるのでしょうか? 調べてみたところ、どうやら藤原宮跡から出土した木簡に記されている「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」が最古のもののようです。

これは、現在の京都府京丹後市弥栄町鳥取に当たると考えられていますが、藤原京といえば、694年に飛鳥京から遷都され710年に平城京へ遷都されていますから、京丹後市弥栄町の「鳥取」は、正真正銘1300年の歴史を誇る地名と言えるのではないでしょうか。「太田南古墳」の近くです。

丹後に似た伝説

由緒
『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。
現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。

当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。
当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)

「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)

但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)は、なぜか成長しても言葉が話せませんでした。天皇は残念に思い、とても可愛がっていました。ある日、大きな白鳥が鳴きながら群れをなして飛んで行きました。これを見た皇子は初めて何か言いました。それは「あれは何という鳥か」と言われたように聞こえ、天皇は驚き、大変喜びました。そこで、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者にこの白鳥を捕まえる役を命じられました。天湯河板挙は白鳥を追って但馬から松原村(網野町)に来て水之江に綱を張り、日子生命(網野神社の祭神のうち一柱)の御神霊にお祈りし、とうとう白鳥を捕えて天皇に献上しました。皇子は白鳥を友達のようにして遊び、ついに話すことができるようになりました。天皇は大喜びされ、天湯河板挙に厚く賞を与え、鳥取造(とっとりのみやつこ) という姓を賜りました。

「網野神社明細帳」に、白鳥を捕らえようと網を張った地を以後「網野」といい、白鳥を捕えた地を「鳥取(弥栄町鳥取)」というようになったと記されています。

垂仁天皇は大和国纏向宮(まきむくのみや)で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。 田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」(丹後木津)に至っています。

出雲大神の祟りを畏れて修理した

それは、七世紀の飛鳥に君臨した女帝・斉明天皇にまつわる話です。

この『日本書紀』の記述には、誉津別皇子の「口が利けない」こととクグヒの伝承と似ています。誉津別皇子の話では、その原因が「出雲神の祟り」であったとは記されていませんが、『日本書紀』編者が、出雲の祟りと知っていたらしいことは、意外な場所からはっきりします。

ある晩、斉明天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占(ふとまに)[*4]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、それは出雲大神の祟り(たたり)とわかった。天皇は皇子を曙立王(あけたつのおう)[*5]、菟上王(うなかみのおう)とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売(ひながひめ)と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神(出雲)の宮を造らせた。また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。

斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

要するに出雲大社を修理(建立)したという。これに続けて、出雲のキツネが意宇(おう)郡の葛(かずら)を食いちぎって去っていった話し、犬が死人の手首を、ある神社に置いていった話しなどが載っています。
不気味な内容ですが、なぜ斉明天皇が出雲大社を修繕したのか、その理由がはっきりと書かれていません。ただ、どうやら垂仁天皇の故事にならったらしいことは分かっています。というのも、斉明天皇には建皇子(たけるのみこ)という孫がいて、生まれて以来口がきけなかったこと、しかも早逝し、斉明天皇は深い悲しみに包まれていたと『日本書紀』は記しています。

要するに、斉明天皇は建御子(たけるのみこ)の不具は、出雲神の祟りに違いないと憶測していたのでしょう。それほど、「出雲は祟る」という伝承は、強いインパクトを以て伝わっていたことを証明しています。
そしてそれは、平安時代に至っても変わることはありませんでした。

平安時代中期に記された『口遊(くちずさみ)』には、有名な「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という言葉がありました。当時の建物の大きさを語ったもので、出雲大社が一番、大和の大仏殿が二番、京都の平安京の大極殿が三番目の大きさだったという意味です。出雲大社が京都の天皇がおわします大極殿よりも大きく、日本一の大きさを誇っていたといいます。

『日本書紀』では、「天皇と同等の宮を建てろ」と出雲国造に脅していたのが、時代とともに、いつしか、「天皇のものよりも立派な宮」になってしまっていたわけです。「出雲」が「天皇」を抜いてしまったかというと、「出雲」が祟る神という伝承が恐怖を呼び、さらに増幅されていったからでしょう。
近年発掘された柱から、室町時代には、出雲大社の本殿が、約48mもあったとという伝承が証明されたのです。

伝承の内容や(出雲)大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神(おおくにぬし)の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。
記紀に出雲について相当あてています。

[註] [*1] 斎宮は斎王(今でいう宮司)のこもる宮。
[*2]…誉津別皇子 のちの応神天皇。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(サホヒメノミコト。彦坐王の娘)。
[*3]…鵠(クグイ・クグヒ)は現在の白鳥あるいはコウノトリの古名です。鴻と共に大きな鳥の代表として引用された中国の故事成語で有名。片手刀の一つ。性能は相方の鴻と極めて近く、敏速性は勝る。
鴻(おおとり)はその名が示す通り大型の水鳥で雁の近縁種。菱食い(ひしくい)とも呼ばれる。片手刀の一つ。鴻ノ鳥とは、大きな白い鳥という意味。 京丹後市観光協会

記紀に崇神天皇と垂仁天皇の話が集中したワケは

コウノトリは、鴻の鳥と書きますが、古くは鸛(こうのとり)、鵠(くぐい)と書きます。鴻(おおとり)は現在の白鳥の古名です。鵠は鴻と共に大きな鳥の代表と読み、ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないため、クラッタリングと呼ばれるくちばしをたたく行為を行います。

コウノトリを捕らえ、献上したところ、誉津別命(ほむつわけのみこと)は話すことができるようになったという話は、ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないという、そのコウノトリの特性を、三十歳になっても口が利けない誉津別命と合わせたのではないかと想像します。

崇神天皇と垂仁天皇の代になって初めて、記紀に日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、このころ全国規模(九州から東日本)の政権になったのではと考える説もあります。また、大漢国(丹波国・越・近江)中心の話が集中的に記されています。垂仁天皇は、『古事記』では153歳、『日本書紀』では140歳、『大日本史』では139歳で崩御と記されています。これは「一年二歳論」といい、古代の日本には6ヶ月をもって1年とし、1年を2歳とする数え方があったとする説で、当時の年数は実際は2で割ると、それぞれの年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になるとする説です。

記などの多様な伝承を集めているので、整合性がとれない矛盾点が多くあるのは承知で、天皇は神であり人間の寿命とはかけ離れた絶大な存在であるとしたのか、日本という統一国家がまだ成立していな時代であり、複数の王統を一息に神武・崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后に集合したのか、苦心があります。また、この崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后の代に丹波・但馬の記述が集中していることから、この時代に丹波・但馬がヤマト王権に組み入れられたのではないでしょうか。

9代開化天皇の皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと。物部氏の祖・大綜麻杵の女)で次の后はやはり丹波から大県主由碁理の女 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ。)で丹波からです。10代崇神天皇は丹波から后を娶ってはいませんが、四道将軍の一人 丹波道主王を派遣して丹波を平定させたということは、一時期、丹波勢力と不仲になっていた丹波を支配下におくことに成功したことを意味したのだろうか。

次の垂仁天皇になって、にわかに実に沢山の皇后・后を娶っていることです。先代の10代崇神天皇が、皇后一人、后二人のみで、しかもまったく丹波に姻戚関係が見られないのに、11代垂仁天皇になるとにわかに最初の皇后と二番目の皇后、3人の后と宮人までが丹波(丹後)から同じ丹波道主王の子の姉妹で同じ日に宮廷に入っている、神功皇后は天日槍の後裔とするなど、どう信じていいものか?それだけ丹波(但馬を含む)との関わり方を誇張したかったのだろうか。籠神社から伊勢神宮に遷宮したことへの(祟りを畏れて)謝意だろうか。

『古事記』では、垂仁天皇は即位すると丹波から狭穂姫命を娶り、但馬の天日槍から始まり、本牟智和気が生まれると河内から出雲・因幡・但馬・丹波に向かわせてコウノトリを捕らえる

そして、出雲から野見宿禰を見つけて相撲をとらせる。

狭穂彦と狭穂姫命によって暗殺されかかり、狭穂姫命は焼身自殺したのに、いくら愛していた狭穂姫命が進言したからといって、姫の兄弟の丹波道主王から娘をもらう。それだけで政略的なのに、しかも一人でいいものを、5人も一度に娶るなど信じがたい話ですが、それだけ日本海の要衝・丹波・但馬との政略結婚で姻戚関係を強固なものに築き上げたかったということだろうか。

それは何が何でも丹波を朝鮮諸国との要害かつ鉄資源を手中に収めねばならない理由だったのではないだろうか?

日葉酢媛が丹後与謝宮(籠神社)から伊勢神宮に移す。

それは出雲神祇の力を丹波・但馬から遠ざけたかったのではないだろうか?
出雲神社を建てて、祭神をスサノヲから大国主に替えて国作りを大国主に、出石神社に大和から長尾市を派遣して、祭神を天日槍に代えて?、但馬を切り開いたのは天日槍であるとすり替えているからだ。
その後19年後には山背(山城)から国造であろう大国不遅から二人の娘をもらうという記載は、丹波はそのころ支配下として安定したので、次は丹波と大和を結ぶ山城を臣下に置くねらいとも読める。
それは、こう考えられる。

丹波はようやく制圧できたが、但馬の王はなかなか言うことを聞かない。田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせるが、ようやく田道間守が帰ってきたときには天皇はすでに崩御された後だった。手に入れたら許してやろうと思っていたのに。時すでに遅し。だから神様をオオナムチ(大国主)からヒボコ(天日槍)に替えよう。常世国の非時香菓、それは新羅征伐に向かっていたことを表しているのか?大和傘下にしたことを意味するのでは。

[註] [*4]太占(ふとまに)…事記や日本書紀に吉凶を占う占法として登場する神道の秘法で、ト骨(ぼっこつ)と呼ばれるものの中でも鹿の骨が多く、鹿ト(かぼく)と呼ばれ、多く使用されている。鹿の肩甲骨を焼き、串で刺したうえ、オキにかざしその亀裂の大きさや方向を持って吉凶を判断する。
[*5]…曙立王(あけたつのおう)は、『古事記』に登場する皇族。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気郡多気町の式内社・佐那神社は天手力男神と曙立王を祀る。
『古事記』によると、唖の誉津別命が出雲国に赴くさい、そのお供をするべき人物として占いに当たったので、曙立王がウケイをすると、一度死んだサギが蘇り、また一度枯れた樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に大和師木登美豊朝倉曙立王という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。
一説に曙立王が唖の皇子の伝承と関係を持っているのは、伊勢の佐那造がこれを語り伝えたためであるとされる。伊勢の佐那(三重県多気郡)近辺は古来より水銀の産地として知られるが、尾畑喜一郎氏は佐那造が古代の水銀採掘に携わった人々であるとし、気化した水銀を長時間呼吸することによって喉の病を患い、その職業病が誉津別命と曙立王の伝承を結びつけたとしている。
出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
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天日槍とゆかりの神社というこじつけとその真相

「天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、出石神社と御出石神社を囲むように周辺に集中しています。」

  1. 耳井神社/豊岡市宮井 アメノヒボコの妻が多遅摩前津見(タヂママヘツミ)
  2. 諸杉もろすぎ神社/出石町内町 アメノヒボコの子 多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)
  3. 比遅神社/但東町口藤 多遅摩斐泥(タヂマヒネ)
  4. 多麻良岐たまらぎ神社/日高町猪爪 多遅摩比那良岐(タヂマヒナラキ) 第三子
  5. 中嶋神社/豊岡市三宅 曾孫が、菓子の神とされるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)
  6. 日出神社/但東町畑山 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)、清日子(スガヒコ)
  7. 須義神社/出石町荒木 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/
    一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。
  8. 鷹貫神社/日高町竹貫 葛城高貫比売命(神功皇后の母で、 多遅摩比多訶と菅竈由良度美の子として誕生)

以上のこのようなヒボコゆかりの神社とされている神社のうち、『国司文書 但馬故事記』出石郡故事記によれば、アメノヒボコに関係するのは、
諸杉神社日出神社須義神社・中嶋神社
のみである。

いずれも旧出石郡内であり、『国司文書 但馬故事記』出石郡故事記以外の郡故事記には、ヒボコについては全く記されていない通り、城崎郡の耳井神社や気多郡の多麻良岐神社と鷹貫神社はヒボコと無関係なのだ。

耳井神社をヒボコの妻が前津耳と「耳」というだけで錯覚したのか?御祭神、耳井神社の御祭神は耳井命と言って城崎郡司であり、前津耳を祀っていない。

多麻良岐神社を多摩比那良岐(タヂマヒナラキ)としているが、
竹貫区が神社の現在の御祭神は、鷹野姫命=葛城高額比賣命としていることにある。
もちろん、神社の御祭神は長い時間の中でに変遷していった例はたくさんあり、誰を祀ろうが区の自由であることだ。

『国司文書 但馬故事記』気多郡故事記には、
気多県主の当芸利彦命、又の名を武貫彦命 竹野別(現豊岡市竹野町)の祖、気多県主を祀るとある。

但馬国一の宮 出石神社(いずしじんじゃ)


兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
伊豆志坐神社八座座[イツシノ](並名神大)
式内社 旧國幣中社 但馬國一宮
【国指定重要文化財】
祭神:天日槍命 出石八前大神
御出石(みいずし)神社
豊岡市出石町桐野986
名神大 式内社 旧村社
御祭神 日矛神 配祀:伊豆志袁登売(出石乙女)神
お菓子の神様-中嶋神社
【国指定重要文化財】
祭神:主祭神:田道間守命(たじまもりのみこと・多遅麻毛理命) 配祀:天湯河棚神(あまのゆかわたなのかみ)
住所:兵庫県豊岡市三宅1

2009/08/29

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初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

天日槍伝説

『日本書紀』では、以下のように記している。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)[*1]を一揃え、胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]であった。

一説によると、ヒボコは船に泊まっていたが播磨国宍粟邑にいた。ヒボコの噂を聞いた天皇は、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(またお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記 「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。
『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。

[註]

*1 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
*6 比売碁曾(ヒメコソ)神社 大阪市東成区にある式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社の論社の一つ。(もうひとつは高津宮摂社・比売古曽神社)下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。

但馬国の成立

丹波国から但馬国、丹後国が分国した記録は、7世紀、丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。しかし、国名がみえる最も古い記録が天武天皇4年(675年)であって、その頃誕生したかどうかではない。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)は天日槍命についてくわしい。
第六代孝安天皇の61年春2月、天日槍を以って、多遅摩国造と為す。
これが但馬国8郡全8巻中、県主の上に多遅摩国造が置かれた最初の記録となる。初代の多遅摩国造が天日槍である。第六代孝安天皇の実年は、BC392-291とすると、紀元前300年頃に但馬国が丹波国から分国されたことになるので、675年より約千年前である。

自ブログに「天日槍(あめのひぼこ)の謎」として載せています。

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