6 渤海 失われた王国

渤海の成立と新羅

新羅が唐との関係を修復するころ、旧高句麗の将軍であった大示乍栄が東牟山(吉林省)に拠点を構え、高句麗民をを結集して震国を興しました。やがて唐から渤海郡王に冊封されると、国名をあらため渤海を称するようになりました。渤海はかつての高句麗領域の大半を治めましたが、その際に在地社会を改編することなく、かつて高句麗の支配下に靺鞨(マッカツ)族をはじめとする諸族の首長を通じてかれらを支配しました。

渤海は698年から926年まで、朝鮮半島の付け根の東寄りの地域、現在でいえば、中国の遼寧・吉林・黒龍江三省、北朝鮮、ロシアの沿海州にまたがっって存在しました。日本や新羅と並んで、唐の強い影響の元に国造りをした「律令国家群」のひとつであり、五つあった都城の遺構や出土遺物は、中国風に洗練された貴族文化の香りを漂わせています。唐の諸制度に習い中央官制、軍制、地方制度(五京・十五府・六二州)が整備されて国力も充実しました。王都となった上京竜泉府には、中国の都城を模倣した整然とした条坊制がしかれ、他の四つの京と地方の15府、および唐・契丹・新羅・日本などの国外に至る交通路を整備しました。積極的に唐文化を受容し、地名・人名も唐風に改めました。九世紀には唐から「海東の盛国」といわれるまでにいたりました。

対外関係では、唐と日本との関係を重視して頻繁に交渉しました。727年にはじまった対日本外交は、九世紀になると定期的にほぼ105人で構成される使節団は日本に派遣され、交易もさかんにおこなわれました。一方で、南に境界を接した新羅との交流は、二百年にわたってほとんどなく、時に敵対することがありました。

渤海の中央集権的な国家体制の成立は、統一後の新羅の国家体制に次ぐものでした。紀元前より、中国東北地方から朝鮮半島にかけては、多様な言語・文化をもち、生業を異にした諸民族が居住していました。そうした諸民族が興亡を経て、中国王朝から受容した漢字・儒教・律令・仏教を通して諸族を統合し、新羅・渤海の領域内に社会的・文化的な共通基盤を生み出していきました。こうした基盤は、これ以後に形成されていく朝鮮文化の基層となっていきました。
762年、唐が大欽茂(大示乍栄の孫)を「郡王」から「国王」に格上げするなど、対唐関係が好転し、北東アジアは緊張緩和へ転じました。766から780年には25回もの遣唐使が送られています。新羅・渤海の両国が朝鮮半島の南北で並立する体制は、10世紀に至ると動揺し、まず渤海は北方の契丹族の侵入によって926年に滅亡しました。南の新羅も900年を前後して、後百済と高麗が勢力を増し、後三国とよばれる分裂状況となり、935年に新興の高麗に降伏して滅亡しました。

日本海を越えて 渤海使来航

九世紀を境に日本の外交姿勢は内向きとなり、遣唐使は838年出発の使節を最後に途絶えてしまうし、新羅からの使者は779年、新羅への使者も836年で終わります。そのなかで、727年に始まった渤海との関係はおおむね良好でした。その後、926年までの間に、渤海からの使者が34回、渤海への使者が13回記録されており、とくに前者は滅亡寸前まで途絶えることはありませんでした。九世紀半ばから十世紀にかけて、渤海は日本と国交のあった唯一の国だったのです。

727年、渤海二代目の王、大武芸から聖武天皇に宛てた啓書は、「高麗の旧居を復し、扶余の遺俗を有(たも)つ」と述べて、渤海が高句麗(高麗)を復興したことを強調します。また、使者はテン皮300張を献じました。730年の渤海の遣唐使が献じた海獣皮が8張だったことと比較すれば、渤海の日本に対する期待がいかに大きかったかがわかります。

初期には武官が起用されていましたが、762年の渤海「国王」柵封後は文官中心になります。国際社会での地位が上昇した渤海は、対日関係を対等なものに近づけようとして、高句麗の後継国との解釈をとる日本側との摩擦が生じました。他方、使節団の規模が759年以降の数倍になるなど、貿易の比重が高まります。

日本は811年を最後に使者派遣を停止し、824年には渤海からの使者を12年に1回に制限しました。人員が105名に固定するとともに、構成も地方首長や商人の比重が大きくなりました。右大臣藤原緒嗣は、この傾向を端的に「実に是れ商旅なり、隣客にあらず」と指摘しています(826年)。

渤海使の目的は、八世紀には遣唐使の護送や大陸情勢の伝達など政治的なものが多いですが、しだいに貿易を中心とするようになり、日本側に入京を拒否される例が多くなります。日本からの使節の多くは渤海使を本国に送り届けるのが任務で、出発地や航路は不明な点が多いです。

以下、福井県史より

式内社として、白木(シラギ)神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。

日本と外国との交渉は八世紀になり、従来の唐・新羅に加えて、渤海との交渉が始まる。迎使や送使を除きほぼ二〇年間隔で遣唐使を派遣するが唐からの使(唐使)は地方官の私的な使も含め、わずか二例のみである。

また、新羅とは、八世紀前半は使の往来が活発であったが、入京を許さず大宰府から帰国させる場合もあり、宝亀年間(七七〇~八〇)を境に公的な交流はほとんどなくなる。このように八世紀後半以降、唐・新羅との公的な国家間の交流は減少する傾向にある。

そのころ活発となるのは渤海との交流であった。唐・新羅との交流においては大宰府がその窓口となったが、渤海は日本海を隔てていたため、渤海使は例外を除いて北陸道をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、また遣渤海使は越前(加賀)や能登など北陸道から出発した。西域や唐の先進文物は大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれるが、公的な使の回数では奈良から平安初期にかけて、渤海との交渉が最も多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。したがって最近の研究では、日本海ルート、とくに都から比較的近かった北陸道経由で中国大陸の文化が日本にもたらされた場合が注目されている。このような意味で福井県の県域は、古代において大宰府と並び、外国との「窓口」であったといえよう。

渤海と日本との交渉は、七二七年、国書と方物(贈り物)をたずさえた渤海使が日本に来航し、翌年、日本の送使を同行させたことに始まり、九二六年、契丹に渤海が滅ぼされる直前の九一九年までの間、渤海使は約三四回派遣された。

一方、日本からは約一三回の遣渤海使が派遣されたが(表36)、ほとんどが送使であり、弘仁二年(八一一)に出発した使を最後に、日本からの使の派遣は途絶える。このほか、遣唐使が渤海経由で入唐および帰国したこともあった。日本と渤海との交渉は、初期は唐・新羅との対立という東アジア情勢のなかで、渤海側からの政治的な目的で行われた。

渤海との公的な交渉で両国の友好関係が保たれるとともに、貿易および文化交流が行われた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であり、平安貴族が貂裘(貂の皮ごろも)を愛用していたことは有名である。このほか、貞観元年(八五九)正月ごろ、能登国に来航した渤海使によってもたらされ、貞観三年から貞享元年(一六八四)まで八二四年間も用いられた『宣明暦』(『長慶宣明暦経』)、貞観三年に渤海大使李居正が将来し東寺や石山寺に所蔵された『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表されるように、渤海使は大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。さらに南海産の玳瑁で作られた盃や麝香の将来など、唐と日本との中継貿易的な役割を果たしていた。反対に日本からは、絹・・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などが渤海にもたらされた。

来航の季節と航路

渤海使は主に秋から冬にかけて日本に来航したが、若干の例外を除き来航の季節で大きく分けると(以下、すべて陰暦)、弘仁五年を境に、前半は十月中旬から十一月中旬ごろに(出港は九月下旬から十月下旬ごろか)、後半は十二月中旬から三月上旬に(出港は十一月下旬から二月中旬ごろか)、それぞれ集中している。前半の場合、入京後は元日朝賀に参加することが多く、一方、後半の場合は、入京後も元日朝賀に参加することはなく、かわりに五月の節会に参加するという特徴がある。これはおそらく、弘仁年間以前は元日朝賀に、それ以降は五月の節会に参列できるように来航することが義務づけられていたためであろう(田島公「日本の律令国家の『賓礼』」『史林』六八―三)。

また、季節風の利用からいえば、前半が北西の季節風の吹き出しを、後半は真北の季節風を利用し一気に日本海を横断したとの説がある(上田雄「渤海使の海事史的研究」『海事史研究』四三)。

今の北朝鮮の清津(チョンジン)かロシア沿海州のポシェト港を出向し、日本海を突っ切る航路をとりました。到着地は、風の具合で対馬から蝦夷地にまで及んでいますが、北陸道の越前・加賀・能登が多いです。能登半島西岸の福浦津(石川県富来町)は、小さいが水深があり風も避けられる良港で、使者の宿泊施設や帰国船の造船所があったといいます。敦賀や羽咋(福浦の少し南)には客館が置かれ、使者到着が報じられると、京都から特使が赴いて接待に当たりました。二つの客館はともに砂州上にあり、砂州の付け根には、それぞれ日本海の海の神として名高い気比社(敦賀・越前国一宮)、気多社(羽咋・能登国一宮)が鎮座します。祭りや祓いを通じて神社と客館が深くつながっていたことを想わせます。  また、海流の状況を考慮にいれた最新の研究によれば、北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され、初期は航海技術の未熟さから、能登半島より東に流されたが、後期はうまく横切ることができるようになり、西の方にたどり着くことができるようになったと考えられている(日下雅義「ラグーンと渤海外交」『謎の王国・渤海』)。

また、渤海使の帰国航路についても、これも直接日本海を横断するのではなく、奥田説を逆に考え、対馬海流に乗っていったん東北地方の沿岸を北東に進んだあと、北海道またはサハリンの沖で西に梶をとってリマン海流にのり、沿海州の沿岸を南下するという説も考えられている(稲垣直「美保関から隠岐島まで(再考)」『季刊ぐんしょ』再刊一八)。

しかし、当時の航海技術および造船技術からみて、渤海使は季節風を利用したといっても、結局は風波に任せたため、到着地は表35のごとく、東(北)は出羽国から、西(南)は対馬島・長門国まで広範囲に来航している。しかし、来航地は前半から後半にかけて東北から西南に変化しており、前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。

25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。

継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなりました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
『東アジアの中の日本文化』村井章介 東京大学大学院教授

5 新羅の台頭と半島統一

[catlist id=8] 新羅の台頭
新羅は、もともと辰韓12国の一つであった斯盧(シロ)国を中核として国家を形成しましたが、その歩みは平坦ではありませんでした。377年には、中国の前秦に高句麗とともに新羅の使者が訪れたとの記録があり、このころに新羅の国家的活動が認められます。新羅は、北方の高句麗や海を隔てた倭の勢力に苦しみながら、まず高句麗との従属的な関係を取り結び、その影響のもとで成長をとげていきました。
しかし五世紀なかごろになると、新羅は百済と結んで高句麗に対抗姿勢をみせるようになり、六世紀に入ると攻勢に転じました。とくに法興王と真興王の二人の王の時代には、法律制度・官僚制度、軍事制度の整備が飛躍的に進められ、その後の発展の基礎を築きました。なかでも重要なのは、法興王代に確立された十七等の官位制で、935年の新羅滅亡にいたるまで、新羅の王権を支える身分制として機能しました。
百済・高句麗の滅亡と新羅の統一
朝鮮半島の古代国家の形成は、まず北部の高句麗が勃興し、それに対抗するように百済が台頭し、後れて新興勢力の新羅が六世紀のなかごろに成長し、高句麗、百済に挑むという展開をみせました。
急成長をとげた新羅に対抗するため、高句麗と百済は同盟関係を結んだり、さらに倭国との積極的な外交を展開したりするなど、三国の対立は複雑に推移していきました。
これに加えて、この過程で重要なのは、中国大陸の情勢で、南北朝対立の状況を利用した高句麗、百済、新羅による戦略的な外交が展開され、三国間の抗争にも影響を及ぼしました。589年に隋が統一帝国を出現させるとその余波は朝鮮半島に波及しました。
隋は百済と新羅の要請もあって三度に渡って高句麗遠征を行いましたが、その失敗で隋が滅び、618年に唐が興ると、三国は唐に使者を派遣して、ともに冊封を受け、一時的に安定したかのように見えましたが、三国の抗争は激しさを増し、破局に向かって突き進んでいきました。
唐の西域への軍事行動を契機に、高句麗では642年に、最高実力者であった泉蓋蘇文を殺害してクーデターをおこし、また百済では義慈王が反対派を追放して権力を集中すると、両国は同盟して新羅を攻撃しました。一方、新羅では唐との外交路線をめぐって647年に内乱がおこり、善徳女王が死去しました。この危機のなかで、金春秋(のちの武烈王)が金庚信とともに内乱を鎮圧し、再び女王を立てて権力を集中しました。
唐の衣服の制度や年号を採用するなど、唐との関係を密接にして百済・高句麗に対抗する戦法に出ました。そして新羅と唐との連合軍は、まず660年に百済を破り、663年に、百済復興軍と倭を白江(ペクカン)=白村江(ハクスキノエ)で破ると、これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させました。668年には高句麗をも滅ぼしました。
しかし唐は、新羅のために戦ったわけではなく、平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島に支配力をおよぼすことをめざしていたため、これに反発した新羅と唐との対立は深まり、両国は武力衝突を重ねました。新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結びました。新羅は六年間におよぶ戦争を経て、唐の排除に成功します。
これによって、高句麗の南半分と百済の故地が新羅の領域となり、百年以上にわたった三国の抗争は終わりを告げました。
新羅の官僚制は、機密を守る執事部が651年に設置されると、中央官制の整備にはずみがつき、七世紀後半の文武王・神文王代には、中央集権的な官僚組織の体制が整えられていきました。また地方官制では、唐との抗争に勝利したあと、拡大された領土に対して軍事的、行政的な改革がおこなわれ、687年には九州五京の郡県制的な支配が完成しました。
一方、積極的に旧高句麗・百済の民の吸収につとめ、両国の旧支配層に新羅の官位を授け新羅の身分制への編入をはかりました。この過程で、それまで王都と地方を区別して与えていた京位と外位という二本立ての官位制を廃止して、京位に一本化しました。
新羅には、個人的な身分制である官位制とは別に、王都に居住する人々(六部)には、血族的な身分制である骨品制(こっぴんせい)[*1]という閉鎖的な身分制がありました。元来、王都に居住する人々の特権的な身分制でしたが、官僚機構をはじめ諸方面にわたって新羅の国家と社会のありかたを規制しました。
破綻する「小中華帝国」
842年8月15日、太宰府の藤原衛から朝廷に上奏文が届きました。その趣旨は「今後は新羅国人の入境をいっさい禁止したい」とうものです。提案理由として次のようなことが記されていました。
新羅はずっと前から日本に朝貢してきた。ところが、聖武皇帝の代から始まって、仁明朝の今に至るまで、旧例に従わず、つねによこしまな心を懐き、贈り物を献上せず、貿易にかこつけてわが国の状況を探っている。もし不慮のことがあったら、どうして凶事を防げばよいだろうか。
これを受けた朝廷では、「天皇の徳が遠方まで及び、外蕃が帰化してきた場合、いっさい入境を禁止してしまうのは不仁ではないか。よろしく流来に準じて、食糧を与えて放還すべきである。商人が飛帆来着した場合は、持ってきた物は民間に自由貿易を許可して、取引が終わればすぐに退去させよ。」という官符を発しました。
中央政府の決定は、「徳の高い天皇が外蕃を従える」という建前から、大宰府の提案に比べて穏便なものに落ち着きました。とはいえそこには重大な対外政策の変更がありました。そのことは、以下の官符との比較で明らかになります。
701年施行の大宝令を改訂した養老令(757年施行)の戸令没落外蕃条に、「化外の人が帰化してきたら、余裕のある国に本貫を与えて安置せよ」とあるように、積極的に国内居住を許すことで徳化を誇示するところにありました。また、759年の太宰府に下した勅においては、帰化新羅人が「墳墓の郷」を想うあまり帰還を願った場合の恩恵的特例として、「給ろう放却」という措置が規定されています。
しかし、774年官符は、来着する新羅人を「帰化」と「流来」とに分類します。流来の場合は、彼らの意志に基づいて到来したのではないから、放還して日本の恩情を示すこと、その際には、乗船が破損していれば修理を加え、食糧がなければ給与することが定められています。他方、帰化の場合は、「例により申し上げよ」とあるだけですが、少なくとも従来の原則である国内居住許可を排除していません。これに対して842年官符では、帰化の場合も放還するとしていますから、新羅人の帰化を一切受け入れない方針に転換したことになります。
「小中華帝国」という自己認識を支えてきた徳化思想は、年を追うごとに明らかに破綻を来しています。
東夷の小帝国
「倭の五王」のころ以来、倭は、朝鮮半島の百済・新羅および加耶諸国を朝貢国として従える小帝国として、自己を位置づけることに、外交的努力を注いできました。一方、百済以下の各国には、倭に朝貢することで、朝鮮半島の分立状況において優位を確保しようよいう動機づけが存在しました。
660年代、唐が新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼし、さらに唐は朝鮮半島の直接支配を試みますが、新羅がこれに抵抗して、676年に唐の勢力を朝鮮半島から駆逐しました。660年、百済滅亡後、百済王族の亡命先となった倭(やまと)は、百済復興支援を掲げて軍事介入を試みますが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に敗北を喫しました。律令体制の本格的導入はこの危機への対応という面があり、このころ「日本」という国号も確立します。
新羅は、統一後しばらくは日本との良好な関係を維持するために朝貢国の立場を変更せず、701年元日の文武天皇に対する朝賀の儀式にも、藤原宮の大極殿に新羅使が「蕃夷の使者」として参列しています。このような新羅の位置づけは、前年に完成した大宝令において法的規定を与えられました。『令集解』に収められた令の本文や注釈によれば、天皇を戴く国家の統治の及ぶ空間を「化内(けない)」、その外の天皇支配の及ばない空間を「化外(けげ)」として区別します。化外は「隣国」である唐、「蕃国」である新羅、蕃と称するに足りない「夷狄(いてき)」としての毛人(えみし・蝦夷)・隼人(はやと)の三カテゴリーからなります。
令文のなかには唐までも「蕃国」に含めるものがあり、遣唐使を朝貢使として受け入れていた唐を蕃国とみなすのは、当時の国際関係からかけ離れています。中華思想からは出てこない「隣国」という用語は、このようなギャップを埋めるべく開発されたと思われます。
この後中世にかけて、中国の王朝とは対等、朝鮮半島の諸国よりは一段上という位置づけを、国家関係の理想像とする思想が、日本の支配層を強固に貫いて流れる伝統となります。この自己規定を存続させるには、朝鮮半島に唯一残った新羅を朝貢国として従えることが、必要不可欠でした。
新羅の外交攻勢と新羅討伐計画
七世紀末、朝鮮半島北部から中国東北地方に書けての地域に渤海が興り、唐の支配から自立して最盛期を迎えた新羅との並立状況が生まれました。渤海は靺鞨(マッカツ)をめぐって唐と対立し、732年には山東半島の登州に奇襲をかけたので、翌年、唐は新羅に命じて渤海の南境を攻めさせました。孤立を恐れた渤海は、727年を皮切りに日本に使者を派遣し、「蕃国」の増加を歓迎する日本との間に親密な関係を築きました。735年、新羅は唐から大同江以南の領有を正式に認められ、日本に朝貢を続ける積極的な意味はほとんど失われました。新羅が日本との関係を対等なものに改めるべく、外交攻勢に出てくるのは必至でした。
その動きは、842年官符が強調するように、聖武朝(724~49年)から明瞭になります。734年、日本に国号を「王城国」と変更する旨を告げる使者を送りますが、翌年日本はこれを追い返しました。この新名称には日本との対等関係の含みがあったらしいです。
「王城国」の一件があった翌736年、日本は新羅に大使 阿倍継麻呂以下の使者を送り、翌年帰国して「新羅は常礼を失し、使の旨を受けず」と伝えました。朝廷は上下の官人を内裏に招して諮問し、これに答えて「使者を遣わして詰問せよ」とか、「兵を発して征伐を加えよ」とかの意見が出ました。また、伊勢神宮、大和の大神(おおみわ)社、筑紫の住吉社・宇佐八幡・香椎宮に奉弊使を遣わして、「新羅無礼の状」を神に告げました。この発想は、神功皇后の三韓征伐伝説とも結びついて、日本の支配層のなかに長期にわたって持続し、事あるたびに露頭するようになります。
752年に使者の往来があり、両国の関係修復が試みられたものの、日本側の高圧的な態度により不調に終わりました。そのうえ、翌年唐の朝廷で遣唐使大伴古麻呂が席次を新羅使より上位に変更させたことが重なって、両国関係は冷え込み、同年新羅に赴いた使者小野田守は、謁見されず追い返されています。こうして日本と渤海が同盟して新羅を挟み撃ちにする構図が生まれました。
これが実現しなかった原因は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が国内で政治的孤立を深め、764年に反乱を起こし滅んだことにありますが、国際的には、762年に唐が渤海王を「郡王」から「国王」に格上げするなど、唐・渤海関係が好転し、北東アジアが緊張緩和へ転じたことにありました。
出典: 『東アジアの中の日本文化』村井章介 東京大学大学院教授
『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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4 加耶諸国

[catlist id=8] 加耶諸国

百済の南には。三韓時代に弁韓とよばれた地域があり、百済や新羅の対等のはざまで、小国が分立するという状況が続いていました。半島東南の洛東江両岸には小国が散在し、この地域は、加耶(伽耶)あるいは加羅とよばれました。早くから鉄の生産や海上交易で栄え、これらのなかから、金官加耶(金海)、安羅(やすら・アンラ=咸安(かんあん[ハマン]))、大加耶(高霊[コリョン])といった国々が頭角を現し、しだいに国家統合の動きもみせはじめました。
加耶諸国には、高霊地方にその典型的な形式をもつ土器が一定の地域圏に分布していることが確認されており、その土器の中には「大王」銘が彫り込まれていたものがあります。小国の王を束ねる大王の実力をもつ者が加耶諸国に実在したことを示すものとして注目されています。479年に大加耶王が南斉に朝貢を果たしたのも加耶諸国における統合化への動きにかかわっていました。
こうした独自の動きがあったものの、百済や新羅の侵攻は激しさを増し、これに対して日本列島の倭国との連携をしのぐという抵抗もありましたが、それも限界にいたり、532年には金官加耶が、やがて安羅も新羅に降伏しました。最後まで抵抗し続けた大加耶も562年に新羅に滅ぼされました。

古墳と出土遺物

加耶諸国の有力国の一つに安羅国があって、高句麗に対抗する勢力の一員として「広開土王碑」にもその名がみえます。その王族たちを葬った末伊山古墳群は、加耶諸国のなかでも最大級の規模をほこり、当時の国力のほどが推察されます。
伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。
一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。新羅から鉄は産出しない。竪穴式石郭や横穴式石室はない。
まったくの『記紀』や風土記は創作かというと、そうは思えないのが出石や丹後に残る地名や遺跡の多さです。
・豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と近くには出石町安良  新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。
・丹後加悦町(与謝野町)と古墳群、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する?  入江から入った地理が似ている。
・敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。 円山川河口にも気比神社がある。祭神は気比神宮と同じで敦賀から遷宮されたと伝わる。 気比神社の付近に畑上や飯谷と書いてハンダニ。畑上は秦(ハタ)?。韓国(からくに)神社など。
・日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する)
・伊福部神社は出石町鍛冶屋(カジヤ)にあり、伊福とはふいごのことで、伊福部とは鍛冶職人に関係する。鍛冶屋は砂鉄がとれたらしい。
・出石入佐山古墳から砂鉄が納めれていた。

今に伝わる加耶文化

加耶のなかで大国であった大加耶では、独特の形態をもつ一二弦の琴がつくられていましたが、于勒は加耶琴の名手として知られ、于勒は新羅に亡命して加耶琴を新羅に伝えました。今日、朝鮮の代表的な楽器の一つに加耶琴がありますが、彼の亡命と新羅における活動に求めることができます。


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3 百済の成立・発展

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半島の国家
高句麗(0年? – 668年)
百済(346年 – 660年)
新羅(4世紀? – 935年)
伽耶諸国(? – 562年)
耽羅(済州島)(? – 476年)
于山国(鬱陵島)(? – 512年)

高句麗が国家発展を遂げていたころ、南部の韓族社会にも大きな変化がみられました。313年に楽浪・帯方の二郡が滅びましたが、それより前に西部の馬韓諸国の北部に伯済国が頭角をあらわし、周辺の小国を統合して、四世紀中ごろまでには周辺諸国を統合する実力をもつようになりました。
百済ははじめ都を漢山城(のちのソウル)に置きましたが、ここはかつて帯方郡に近く、その滅亡時には土着化した中国系の人々が初期の百済勃興に少なからず寄与しました。百済は北から攻めてくる高句麗と対抗するため、いち早く半島南部の伽耶諸国に接近し日本列島の倭との戦力的な連携を模索しました。
371年に百済は、高句麗の故国原王を戦死させるという大勝利をあげましたが、翌年には百済の近肖古王は中国の東晋王朝に朝貢して冊封を受けました。
こうして百済は、高句麗に対抗するために伽耶の国々や、倭と緊密に結びながら中国南朝と通交関係をもつという外交政策は、長く百済の基本的な外交戦略となりました。しかし高句麗との対決姿勢は、その後の百済に苦難の道を歩ませ、ついに475年には都の漢山城は、長寿王の攻撃によって陥落し、蓋ろ王は殺害され百済は一次滅亡しました。
しかし、能津城(公州)に逃れた百済の支配者たちは、文周王を立てて百済を再興させ、たがて支配層内部の混乱も収まり、国政は安定に向かいました。高句麗の百済への圧力はその後も続きましたが、それをしのぎながら武寧王のころには半島の西南部に領域を広げました。やがて538年には、聖王が都を南の泗比城(扶余)に移しました。
そのころには、中央の官僚制度が整備され、官僚制度を支える個人的な身分制度、十六等の官位制が完備しました。さらに国内を五つに分割して統治する地方制度が施行されるなど、国家体制の充実を図りました。

百済文化

百済は四世紀頃からソウル地方で急成長をとげました。中国南朝としきりに外交を展開し、積極的に中国の文物を取り入れ、洗練された百済独自の文化をつくり上げていきました。
積石塚古墳などに初期国家の痕跡がみられます。とりわけ百済文化の精華を今日に伝えるのは、百済第二の都・能津城(公州)付近の宋山里古墳群で発見された武寧王陵です。1971年に偶然に発見された王陵は、アーチ状の天井をもつ横穴式の古墳で、内部からは「百済王斯麻王(武寧王)が62歳で523年五月七日に亡くなった」と記した誌石(墓誌)がみつかり、武寧王と王妃の冠飾りや華麗な装身具、武器など、その遺物は三千点に達しました。
また、扶余の陵山里古墳群の一角から発見された金銅香炉は、百済芸術の白眉といわれるものです。

百済仏教

384年に東晋から胡僧・摩羅難陀が訪れ、仏寺が創建されたといいます。六世紀になって百済が日本に仏教を伝えたことはよく知られていますが、最後の都が所在した扶余には、「寺院甚だ多し」と中国にも伝わっていました。扶余の中心部には定林寺址の石塔がたたずみ、軍守里廃寺も一塔一金堂式の伽藍を今に伝えています。また、扶余の南。益山に造営された弥勒寺は、三つの塔とそれぞれに金堂を配した三塔三院式の巨大な寺院であり、半壊したまま残った西塔は現存最古の石塔です。
渡来した百済王氏には、八世紀に敬福(きょうふく)が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。
大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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2 高句麗と三韓

[catlist id=8] 高句麗は漢王朝の郡県支配に抵抗するなかで、いち早く国家として成長をとげましたが、遅くとも紀元前後のころには、王を中心に周辺の有力な首長たちを組織するされたとみられます。高句麗の根拠地は、はじめ鴨緑江(オウリョクコウ)支流の渾江(コンコウ)流域にある桓仁(カンジン)に置かれていました。しかし王族内部の抗争から支配層は分裂し、その一派が鴨緑江の中流域まで南下して、209年に新都・丸都城(国内城)を今の集安に置きました。高句麗の新たな発展はここから始まりました。

同じころ、半島の中部から南部にかけての地域には、農耕を主たる生業とする韓族が居住していました。二世紀から三世紀始めに、遼東半島を支配するようになった公孫氏政権が楽浪郡の南に帯方郡を設置したのも、この韓族の成長への対応策でした。韓族の地は、三世紀ごろには、70を超える小国があったと伝えられ、それらの国々は、言語や習俗に多少の違いがあり、それによって馬韓50余国、辰韓12国、弁韓12国に分かれていました(三韓)。

そのころ中国の魏は、楽浪郡と帯方郡を受け継いでいましたが、二郡は、三韓諸国の首長をはじめとする千以上二昇る者たちに印章や衣服を与えていました。これは当初、高句麗の王権が郡との交通を独占・管理していたのとは大きく異なります。魏は諸小国の首長たちに広く権威の象徴となる文物を与えて、この地域の人々の政治統合をはばんでいたといえます。それは弁韓地方で豊かに産出されていた鉄の確保に関わっていたとみられています。

高句麗の発展

三世紀から四世紀にかけての高句麗の国家体制は、飛躍的な進展がみられました。内政面では、十三等からなる官位制が再編・整備されました。王を頂点として部族的な秩序を排除して王の下に一元的な身分編成を押し進めようとするものでした。一方、対外的には313年に楽浪郡・帯方郡を滅ぼして、半島南部へ進出する足場を固めました。これによって四百年に及んだ中国の郡県支配を終わらせ、その地域に基盤をおいていた中国系の人々も編入することによって半島北部を掌握したようにみえました。

ところが、対外的には、二つの勢力に悩まされました。一つは急成長した前燕に、王都の国内城を奪われ、高句麗には深刻な打撃を受けました。もう一つは、馬韓のなかから生まれた新興国。百済が北上してきて、371年には故国原王が百済との戦争で戦死するという事件が起きました。高句麗は西方と南方から押し寄せる二つの勢力に挟まれ試練の時代でもありました。

その後、父の戦死を受けて即位した二人の兄弟の時代には、仏教の導入や、大学の設立、律令の制定など、国政の充実に努めました。こうした内政の整備を受けて391年に広開土王が即位すると、高句麗は領域を拡大し、その後の発展の基礎を築きました。
414年に「広開土王碑」を建てた長寿王は、父の南進政策を継承して、427年には国内城から平壌へ都を移して、半島の国々を威圧しました。そのころ中国では南北朝が鋭く対立していました。長寿王は南北双方に使者を派遣して安定した国際的地位を築き、積極的に半島南部への支配力を強めていきました。そして475年には、百済の都であった漢山城を陥落させ、今のソウルの韓江以南まで領域を拡大し、西方の遼東地方の確保とあわせて高句麗最大の領域を誇りました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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1 朝鮮半島と日本海

[catlist id=8] 朝鮮半島の歴史は、五千年の歴史といわれ、古代国家の形成は、紀元前三千年前までさかのぼることになります。そのころには古朝鮮とよばれる国家が、現在の中国東北地方からシベリア大陸までまたがる広大な地域に形成されたとの主張もあります。しかし、ここでは文献資料で確実にたどることができる紀元前数世紀の古朝鮮の時代から、やがて、高句麗、百済、加耶、新羅といった王朝が相互に抗争し、新羅、渤海という王朝が滅びるまでの数千数百年間の歴史を、朝鮮半島における古代国家の形成と展開の過程として調べてみたいと思います。
古朝鮮
朝鮮古代の最初の国家は古朝鮮といいます。これは檀君朝鮮・箕子(キシ)朝鮮・衛氏朝鮮の三朝鮮を近世の朝鮮王朝と区別して、三朝鮮を総称する際に一般的に用いられています。
しかし、檀君朝鮮は、資料の成立は紀元後10世紀以上をさかのぼることができず、後世につくられた神話としての性格が強いので、初期国家を語るに対象にはしがたいものです。
また箕子朝鮮についても、後世の史家によって少なからず手が加えられており、その実像はとらえにくいものです。
三世紀末の『魏略』は、紀元前四~三世紀ごろに、中国の戦国七雄の燕(エン)が朝鮮の西方に攻め込んで満潘汗(マンバンカン)を境界としたときに朝鮮王を称する者がいたこと、さらに紀元前三世紀末に秦(シン)が燕を滅ぼし遼東に万里の長城を築くと、朝鮮王・否(ヒ)が秦に服属したこと、その後、否の子・準へと王位が受け継がれたことを記しています。一方同じ頃に記された『魏志』は、準のことを箕子の40余世と記しています。ここに矛盾があり、確かな根拠は今のところありません。
いずれにしても、紀元前二世紀から三世紀ごろに、朝鮮王・準の時代には、中国の秦漢交代期の動乱を避けて、燕・斉・趙などの国々から、多数の人々が朝鮮付近に流入したとみられます。その中に、燕から千余人の配下とともに亡命してきた衛満がいました。朝鮮王・準は、その衛満を受け入れて西方国境の守備に当たらせるなど重用しましたが、衛満は王倹城(平壌)を都と定め、半島の南部や東岸をも支配下に収めました。これが衛氏朝鮮の成立です。
衛氏朝鮮は、衛満から孫の右渠(ウキョ)へと三代にわたって引き継がれました。王のもとには有力者が結集して支配層を形成しました。衛氏朝鮮の国家の性格は、亡命中国人のほかに領地内の土着の首長も支配層に吸収して組織した連合国家であったとみられています。
漢の四郡
このころ、中国の漢王朝は、衛氏朝鮮に対して、周辺の諸民族が漢王朝へ行くことを妨げないことを条件に、衛氏朝鮮の王を「外臣」として重んじました。しかし、右渠の代になると、朝鮮王の朝貢も途絶えがちになり、しだいに漢王朝に強硬な姿勢を取ったために、漢の武帝は大軍を遣わして王倹城を攻撃しました。激しい攻防ののち、王倹城は陥落し、三代80年余り続いた衛氏朝鮮は滅亡しました。
衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝は、紀元前108年に、その故地に楽浪(平壌)・真番(慶州か)・臨屯(江陵)の三郡を、翌年には玄菟郡(げんとぐん・感興)を設置し、郡県制度を通じて、これらの地域に対する直接支配に乗り出しました。これを漢の四郡といいます。
漢の郡県支配は、朝鮮半島をはじめ北東アジアに多大な影響を及ぼしながら、紀元後313年までの約420年間続きました。しかし各地域の諸民族の抵抗にあって名実ともに直接支配とよべるような地域と時期は限られていました。まず20年後の紀元前82年には、真番・臨屯の二郡が廃止され、ついで紀元前75年には、玄菟郡も西方に後退し、朝鮮半島では楽浪郡を残すのみでした。
楽浪郡は、三郡の一部を吸収して、平壌地方を中心に半島に影響力を及ぼし続けました。大陸から移ってきた漢人やその子孫が居住した楽浪郡治(郡役所所在地)の平壌を中心に中国文化が流入しました。諸族の有力な首長たちは、このような郡との交渉を通じて、しだいに成長を遂げていきました。
日本はそのころ弥生時代で、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中国文明受容に大きな役割を果たしました。
壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるといわれています。より直接的な例としては、弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明しています。楽浪郡には中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味します。
3世紀初頭には楽浪郡南部の荒地を分離して再開発し、帯方郡(たいほうぐん)を設置しています。『魏書』倭人伝には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて中国王朝と通交しています。
日本列島への渡来は、以上のように先史時代から続いてきたもので、一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられています。また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域、満州~朝鮮半島、北方・南方など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっています(最近の遺伝子研究ではおおむね渡来人は北東アジア起源が有力です)。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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【但馬の城ものがたり】 出石(いずし)此隅山城と有子山城


風景写真

■沿 革
山名時氏以来、城崎荘(豊岡市九日市)を本拠とし、その後、守護所としたが、今の九日市上町の国道と旧道の間にお屋敷があった。当時の円山川は国道の堤防付近まで湾曲して流れていて、少し上流の出石川が合流する上佐野には船着き場があった。女代神社にはその当時の舟が飾ってある。当時水路をさかんに利用していたことを考えれば交通が集まる便利な場所だった。
本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
永正元(1508)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。
因みに最近の研究では此隅山城の築造時期は比較的新しく、永禄12(1569)年の織田方豊臣秀長の但馬征伐に至る情勢の経過の中で織田氏対策として着手されたと説いている。
いずれにしても出石に蟄居したのは応仁の乱以降なので、応仁の乱に武将たちが結集して出陣式をこの城下で行ったというのはあり得ない。おそらく出陣は九日市守護所である。
そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。
山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きました。此隅山城は長らく六分一殿山名氏宗家の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城しました。一旦、山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって領地に復帰しました。
1574年(天正2)、標高321mの有子山山頂に有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移しました。此隅山城が縁起が悪いとして有子(こあり)山城と名づけました。
しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、山名堯熙は因幡国に逃走、滅亡しました。

民話「小盗山(こぬすみやま)と有子山(こありやま)」

今から四百年ほど前、出石(いずし→兵庫県北部)は山名氏(やまなし)の城下町でした。
室町時代には出石の中心である比隅山(このすみやま)に城を築き、その子どもの時ひろの時代には、全国六十余州のうち、十一ヶ国を山名一族(やまないちぞく)が占めていたそうです。
これだけ全盛を極めた山名氏も、だんだんと勢力を失っていき、室町の末の祐豊(すけとよ)の代の頃には、やっと但馬一国が守れる程度になっていました。
ところでこの祐豊には二人の男の子がいましたが、二人とも若くして死んでしまったのです。  そこで祐豊の隠居後は、氏政(うじまさ)が城をついだのですが、不幸なことに、いつまでたっても世継の子どもが出来ません。
そこであるとき、氏政は易者を呼んで占わせました。
すると易者は、
「比隅城は場所が悪い、半里ほど南の山に城を移せばよいでしょう」
と、いうのです。
天正二年、さっそく言われた通りに新しい城を築くと、まもなく子どもが生まれました。  それからいうものは、不運の続いた比隅山を『小盗山』と呼び、新しく城を築いて子どもの生れた山を『有子山』と呼ぶようになったのです。


「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会他

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【環日本海の歴史】(9)環日本海


気比神宮

環日本海

日本列島の日本海側と朝鮮半島など大陸の間に日本海を囲む地域を「環日本海」といいます。

古来から西洋の船がやってくるまで、日本の表玄関は日本海でした。
日本海文化は、(一)「北の海つ道」による渡来人と文化、(二)潟湖を港とし、その近辺をも支配する地域勢力の形成、(三)独自の特色をもつ支配理念や文化の形成、の三点において特色づけられる(門脇禎二『日本海域の古代史』・『日本海文化とコシ』)。
弥生人が中国や朝鮮半島から日本海沿岸では九州北部を皮切りに、出雲(石見・伯耆・因幡含む)・丹波(但馬・丹後含む)、若狭・越前(加賀・能登含む)へと海岸づたいに移住していきました。

『紀』崇神紀の末尾に蘇那曷叱知の来航を伝えるが、垂仁紀には、「一に云わく」として越の笥飯浦に来着したのはツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)またの名を干斯岐阿利叱智干岐であると記す(編一四)。

越前敦賀を中心とする新羅・加羅系の渡来者は、おそらく三人や五人ではなかったであろう。彼らはそこに定着するとともに祖国の文化を伝えたに違いない。式内社として、能登国羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古神社、同能登郡加布刀比古神社・阿良加志比古神社、越前国敦賀郡白城神社・信露貴彦神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。(福井県史)

継体天皇

25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。
継体天皇の皇后は手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)、24代武烈天皇の姉(妹との説もある)
継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。

『日本書紀』によれば、継体天皇は、
507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
大和にいたのは最後の5年のみである。

越前か近江か

『日本書紀』(以下『紀』)は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』(以下『記』)は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。
『紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。?オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。

一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『紀』とほぼ同様の説話を伝えている。

まず継体天皇の父系の考察から始めよう。『紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫とするが、その系譜については何も記さない。また三尾の別業にいたと記すが、その本拠地についてはまったく触れていない。一方『上宮記』は、継体天皇の父を斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えているが、これは『記』の伝える系譜にきわめて近似したものである。
敦賀の登場の頻度からみて、古墳時代にもさかのぼりうるものであろう。

応神天皇

15代応神天皇は、ホムタワケ(誉田別尊)とよばれ、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれました。
『古事記』
アメノヒボコ(天日槍)とタヂママヘツミ(多遅摩前津見)の間に生まれた子がタヂマヒナラキ(多遅摩比那良岐)で、その第二子がタヂマヒタカ(多遅摩比多訶)と(スガカマノユラトミ(菅竈由良度美)のの間に生まれた子がカツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)。
オキナガノスクネ(息長宿祢王)と葛城之高額比売命の間に生まれた子がオキナガタラシヒメノミコト(息長帯比売命[神功皇后] )。
仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた子がホムタワケ(誉田別尊[応神天皇])。
歴史学者の間では、仲哀天皇は実在性のほとんど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)をもっている人物であるため実在性の低い天皇の一人に挙げられている。

しかし、応神天皇は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われますが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。応神天皇の名とされる「ホムダワケ」は和風諡号であり、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。
しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。

息長氏の性格

息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を美濃・越への交通の要地を根拠地とした豪族です。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とする。
但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長氏は、オキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)によって古代史上有名な氏族ですが、神功皇后の実在性については多くの議論があり、その系譜の古い部分は信頼性に乏しいようです。しかしオキナガタラシヒメ(息長帯比売命)がホムタワケ(応神天皇)の母と位置づけられている伝承は、応神天皇が継体天皇の五世の祖と伝えられているだけに、無視しがたい重みをもっている。

ヒボコと継体天皇

『日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。

『古事記』に、ヒボコ(天日槍)の曾祖孫カツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)が近江のオキナガノスクネ(息長宿祢王)の妃となりオキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)が生まれたとしている。

近江国の吾名邑とは穴師つまり鉱山師の集団であろうし、ヒボコは鉾という名前から武器・神具の製造にも深い。日槍の神社があるのは近江と但馬。ヒボコも息長氏も、ともに伽耶・新羅渡来系であろう。中国の『梁書』には古代、大漢国は丹国・若狭・越国・近江の大きな国だったと記されています。したがって同族の婚姻も多かっただろうし、ヒボコもツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)、そして応神天皇が継体天皇の五世の祖であり、越前や近江は朝鮮半島ととても縁が深いことになります。

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小見塚古墳 (豊岡市城崎町)

兵庫県豊岡市城崎町今津

 但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。