【たんご昔ばなし】 羽衣天女伝説

羽衣伝説(はごろもでんせつ)は日本各地に存在する伝説です。その多くは説話として語り継がれています。最古とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県伊香郡余呉町の余呉湖は近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる。最も有名とされているのが静岡県静岡市清水区に伝わる三保の松原。なお天女はしばしば白鳥と同一視されており、白鳥処女説話(Swan maiden)系の類型といわれています(白鳥処女説話は異類婚姻譚の類型のひとつ。日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる)。天橋立の松も羽衣に例えられます。

「丹後風土記」(715年)の中に、日本最古の羽衣伝説の記述がある。

「丹後の比治の山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に真奈井(まない)という池(女池)がある。 奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の縁起によれば、 むかし、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、 万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。

「天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも」

と詠って、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。

この天女とは豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)、豊受大神(とようけのおおみかみ)のことである。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)でまつられる。  その後、伊勢神宮の外宮に移られるが、分霊は残されている。

■奈具(ナグ)神社

丹後國竹野郡 京都府京丹後市弥栄町船木奈具273
式内社 旧村社
御祭神 「豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)」

風土記によると「ここに来り てわが心奈具志久なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。 奈具岡遺跡が近くにある。 水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期 (約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。
隠野とは、黄泉に通じる国という意味。

■奈具(ナグ)神社

丹後國加佐郡 京都府宮津市由良宮ノ上
式内社 旧村社
御祭神 「豐宇賀能賣命(とようかのめのかみ)」

社名「奈具」は、やすらぎを意味する「奈具志久」に由来するらしい。 同じく丹後国の竹野郡にあり、天女羽衣伝説の残る、 同名の奈具神社からの勧請という説もあり、 そちらの社名の起こりは、天女が老夫婦に放逐され、 各地を放浪した後、その地で「心なくしく(つまり、やすらか)」なり、 落ち着いたという。

■比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

京都府京丹後市峰山町久次宮谷
式内社 旧村社
御祭神 「豊受大神(とようけのおおかみ)」
「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」
「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」
「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」

■静岡県静岡市清水区の羽衣天女伝説

昔々のおはなし。三保の村に伯梁という漁師が住んでおりました。ある日のこと、伯梁が浜に出かけ、浦の景色を眺めておりました。ふと見れば、一本の松の枝に見たこともない美しい衣がかかっています。しかし、あたりに人影はありません。誰かの忘れ物だろうと、伯梁が衣を持ち帰ろうとしたそのとき、どこからともなく天女があらわれてこう言いました。『それは天人の羽衣。どうそお返しください』ところが、それを聞いて伯梁はますます大喜び。『これは国の宝にしよう』とますます返す気配を見せません。

すると天女は『それがないと私は天に帰ることができないのです』とそう言ってしおしおと泣き始めます。さすがに伯梁も天女を哀れに思い、こう言いました。『では、天上の舞いを見せてくださるのならば、この衣はお返ししましょう』天女は喜んで三保の浦の春景色の中、霓裳羽衣の曲を奏し、返してもらった羽衣を身にまとって、月世界の舞いを披露しました。そして、ひとしきりの舞いのあと、天女は空高く、やがて天にのぼっていったといいます。頃は十五夜。それは月明かりが美しい宵のことでした。

■余呉町の羽衣伝説

伊香刀美(『帝王編年記』より)

余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水浴びをした。それを見た伊香刀美(いかとみ)は、天女に恋心を抱き、白い犬に羽及を一つ、盗み取らせた。天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最も若い天女一人は、羽衣がないため飛び立てない。地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いぜりひめ)、妹娘は奈是理比賣(なぜりひめ)。  これが伊香連(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。妻を失った伊本刀美は寂しくため息をつき続けたという。

~解説~  古い文献によれば、奈良時代のころ、余呉ではこのような羽衣伝説が語られていたようである。  羽衣伝説は白鳥処女説話の一種といわれる。多くの人が天女という言葉からイメージする、中国風の衣装をまとい、薄い布の羽衣をたなびかせる姿は、仏教の影響を受けて変化したもの。白鳥の姿をした天女が登場する余呉湖の伝説は、日本の羽衣伝説の中で最も古いといわれている。

丹生(ニュウ)神社二座 近江國伊香郡 滋賀県伊香郡余呉町
式内社 旧村社
御祭神 「彌都波能賣命 丹生都比賣命」
創祀年代は、不詳。
式内社・丹生神社の論社の一つ。

社伝によると、天武天皇の御宇、 丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、 山土と丹生川の水を供え、天津神を祀ったという。 後、天平年間に現在の地に社殿を創建した。
よって、当社は土と水の神。
丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、 息長氏の一族。息長丹生真人とも呼ばれていたらしい。

■倉吉に伝わる伝説

【伝説】  ひとりの百姓が、山腹の石の上に美しく芳しい衣が置いてあるのを見つけました。さらによく見ると、そばの流れで、若い美しい女性が水を浴びているではありませんか。「天女にちがいない」石の上の衣は、天の羽衣ということになる。百姓はその羽衣を盗みました。天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、百姓の妻になりました。

数年たち、二人の子どももできました。天女は、子どもに羽衣のありかをたずねました。子どもは、父親の隠していた羽衣を、母親に渡しました。天女は、まさにも天にものぼるよろこびで、羽衣を着けると、天上に帰ってしまったのです。

二人の子どもは、母を慕って泣きました。母が好きだった音楽で、母を呼びもどそうと考えました。近くの山に登り、太鼓と笛を演奏しました。-天女が衣を置いていた山を羽衣石山、また、子どもたちが一生懸命、大鼓を打ち笛を吹きならした山を打吹山といいます。

鳥取県倉吉市

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【たんご昔ばなし】 丹後海人伝説

■海部(アマベ)

丹後にはかつて、航海術に秀でた「海人族」と呼ばれる一族が住んでいたと言われています。彼らは凡海郷海没後、丹後半島へ移住を余儀なくされた。古代この地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(アメノホアカリ)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(アマベ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに脚光をあびてきました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

■幻の大地「凡海郷(オオシアマ)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)

この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名です。「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

■海人の聖地・冠島

丹後風土記によると、若狭湾上の冠島は、大地震(大宝元年=七〇一年)で陥没した幻の大地「凡海郷」の山の頂であり、海部直と凡海連によって天火明命と目子郎女神をまつると伝えています。

天皇家より古いとされる国宝「海部氏系図」(籠神社、宮津市)には、海部氏の始祖として天火明命が記されています。
島内にある老人嶋神社の祭神はこの天火明命と目子郎女神であり、今も「雄島(老人嶋)まいり」として受け継がれ、市内の野原・小橋・三浜地区をはじめ、広く若狭や丹後地域から海上安全や大漁などを祈願する参拝が行われています。
海部と呼ばれた海人たちの聖地・冠島と彼らのクニ・凡海郷は、現在の舞鶴と深く関わっているといえるでしょう。
■古代製塩と海部
昭和51年、大浦半島の三浜ではじめて、古代の土器製塩が、少なくとも奈良時代には存在し、しかもかなり大規模なものだったらしいことが判明しました。このことで、奈良時代には、海岸に、現在に近い砂浜が成立し、一緒に出土した土器には、弥生時代にまでさかのぼるものもあって、凡海郷の存在は、一時遠のいていきました。
ところが、つづいて、瀬崎の白石浜、黒石浜、大丹生、千歳とつぎつぎに古代製塩の遺跡が発見され、昭和58年には、神崎も加わりました。全国の海部研究の成果から、海部と製塩はつよく結びついていることがわかり、凡海郷は舞鶴海岸地帯を製塩と海部でつなぐ郷名である可能性もでてきました。
その後、古代、海が奥深く入りこんでいたと見られる行永(ゆきなが)からも製塩土器がみつかり、行永は、海部の祖神の一つである「天御影命(あめのみかげのみこと)」をまつる「弥加宜(みかげ)神社」の旧地を発祥と伝えることから、近江のミカゲの故郷「息長(おきなが)族」とのつながりが、浮かんできました。
「息長」と「行永」のかかわりが、新羅からの渡来集団とする息長族と新羅の王子、「天日槍(あめのひぼこ)の伝説にある、浪速から、近江へ入り、若狭へぬけ、丹後から、但馬にいたる古代の開拓民伝説の道筋として、丹後海部の息長とのかかわりを示し、さらに尾張海部との関係もにおいます。
■海部系図は、何をかたるのか
宮津籠(この)神社の国宝『海部系図』のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(、あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名「オオミカゲシラクワケ」といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。
■海岸古墳と海部
舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。
現在でも久美浜町海部(かいべ)地区には「海士(あま)」という地名が残っています。小見塚古墳(こみづかこふん、兵庫県豊岡市城崎町今津) は、但馬海直(あまのあたえ)一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在北但馬で一番古い埴輪が出土している。
今津の円山川対岸に田井と同音の田結(タイ)があり古い漁村である。一帯は田結郡(荘)と呼ばれ中世、山名四天王田結庄氏の領地であった。また韓国(カラクニ)物部神社、飯谷(ハンダニ)、畑上(ハタガミ)など大陸・半島系の地名や神社が多い。
■海と関わる集団の根拠地
遺跡が集中する三浜・小橋、 浦入

三浜・小橋地区は、アンジャ島や磯葛島、沖合いの冠島などの島々とともに、海に関わる伝承や遺跡が集中しています。三浜丸山古墳をはじめ、三浜遺跡(古墳後期~平安時代の製塩遺跡など)、アンジャ島遺跡(丸木舟の製作に使ったと見られる石斧二本など)、小橋古墳(六世紀前半)などがあります。
わが国最古・最大級の丸木舟が出土した浦入遺跡群(千歳)からは、古墳時代後期の鍛冶炉をはじめ、奈良~平安時代の製塩・鍛冶遺構、銅銭(奈良時代)、墨書土器(「政」「与社(謝)と記載」)、さらには「笠氏」刻印の製塩土器などが出土。製鉄・製塩などの最先端の技術を持った集団が存在したことが明らかとなりました。
これらの遺跡は、海沿いの耕地が少ない地域に在ることから、海と関わりのある経済基盤を持った集団で、凡海郷や海部に関連する遺跡であることが推定されます。
■文献に見る凡海・加佐と大海人皇子(天武天皇)
大海人皇子(後の天武天皇)は、尾張(現・愛知県西部)の海部の加勢を受けて「壬申の乱(六七二年)」に勝利し皇位 についたとされています。「日本書紀」(七二〇年)には、「丹波国訶佐郡」(※3)が天武天皇の新嘗祭の主基(すき=神饌としての米)の国に選ばれたと記されています。また、老人嶋神社の祭神・目子郎女は、尾張海人の娘であることから、凡海郷が天武天皇と密接な関係にあったことが想像されます。
■各地の凡海郷
凡海郷の地名は、十世紀の百科辞典『和名類聚抄』に登場します。丹後の熊野郡海部郷と加佐郡凡海郷、隠岐(島根県)の海部郡海部郷(隠岐郡海士町(あまちょう))、越前(福井県東部)の坂井郡海部郷の四か所に、海部の伝承を持った海人の郷があるとしています。
■各地のアマベ
そして、「九州-丹後半島の久美浜-尾張」この三点を結ぶ者として海部氏がおり、彼らは久美浜を本貫地としていたといいます。海部は海人部とも書く。漁業をもって仕えた部民で、船上で漁を行う者、磯で漁を行う者、潜水して漁を行う者に分けられます。海士は男性、海女は女性と区別して記されることがあるが、いずれも「あま」と呼ばれます。海人の最古の記録は『魏志倭人伝』にあり、海中へと潜り好んで魚や鮑を捕るとあります。
他にも輪島市海士町、徳島県海部郡などがある。
引用:舞鶴市HP他
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ポツダム宣言と治安維持法

政権転覆扇動罪で民主活動家に懲役5年 中国
産経IZA 2010/02/09 13:14

香港の人権団体、中国人権民主化運動情報センターによると、四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動で知られ、国家政権転覆扇動罪に問われた民主活動家の譚作人氏に対し、四川省成都市の裁判所は懲役5年の判決を言い渡した。

譚氏の罪状の詳細は不明。香港紙は、譚氏が昨年、1989年の天安門事件当時の民主化運動の学生リーダーだった王丹氏にメールを送り、事件20年の記念活動を呼び掛けたことなどから起訴されたと伝えていた。(共同)

四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動自体が違法になる方がおかしい。地方の公共事業請負に共産党幹部が汚職にまみれていることはよく知られている。中国共産党=政府であり国家なのだ。国家政権転覆扇動罪とは、正義よりも党の汚職による欠陥工事を隠蔽しなければ国家が危なくなる国とはいかがなものか。

しかし、最近「治安維持法」という法律がなくなっていることは問題ではないかと思えるほど政府の特に小沢が中国共産党に140人も謁見し、帰り際には韓国の大学で天皇陛下訪韓を発言している。その前にも韓国に「外国人地方参政権」実現を約束している。また、中国の副首相習近平氏をルールを破り天皇と強引に引見させたことだ。国益よりも党益・私益を優先しているのではないか。国家の主権・道議を侵す憲法違反である。献金疑惑は過去最大規模のもので、不起訴になったといっても証拠不十分でありシロだといっていない。

そこで「治安維持法」についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で引いてみた。

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。

当初治安維持法制定の背景には、とくにロシア革命後国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。
前身

1920年より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。また、1921年4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年8月、司法省は「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。

これらの内容は、平沼騏一郎(元首相・現衆議院議員平沼赳夫氏の養父)などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。

また、1923年に関東大震災後の混乱(在日朝鮮韓国人等)を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定

1925年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行[1]。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから飴と鞭の関係にもなぞらえられ、普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

廃止

1945年の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死し、10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張した。さらに、岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。こうしたことなどから同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も解散を命じられた。

1948年に制定された韓国の国家保安法は治安維持法をモデルにしたと言われている。

中国の言論統制

中国は自国民だけではなく、外国メディアに対してもしばしば統制をはかる。日本のマスコミも実質的に中国の検閲下にあるといわれている。この背景には親中派議員たちが訪中して締結した1964年(昭和39年)の「日中記者交換協定」、さらに1968年(昭和43年)の「日中関係の政治三原則」という両国間の検閲協定がある。これにより「1中国を敵視しない、2二つの中国の立場に立たない、3日中国交正常化を妨げない」が日中記者が記者交換する原則とされた。これは事実上日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。日本の憲法に照らすと違憲性が強く推定される協定だったが、日本のメディアはほぼ追随した。現在に至るまで日本の報道機関はこれらの協定に従順であり中国へ不利な報道や対中ODAに関する報道はほぼしない。

文化大革命の際に些細なことで日本の報道各社が次々と中国を追放されていたこともマスコミの上記の記者諸協定への強い順守の原因となっている。文化大革命の際には次々と外国メディアが追放され、日本の報道機関も朝日新聞をのぞいてすべて追放されている。そのため当時唯一中国の情報を報道できた朝日新聞は他の報道機関から羨望のまなざしで見られていた。その後、中国への再入国を許された他の日本の報道各社もこの追放の過去が一種の「トラウマ」になって中国共産党当局から目をつけられないよう諸協定に必要以上に従順となっているのではないかともいわれる。

なお唯一産経新聞だけがこの協定に反発し、傘下のフジテレビを含めて特派員をすべて引き上げた事は有名である。このため産経新聞社の発行する各新聞、雑誌、及びFNS系制作のテレビ番組、ニッポン放送のラジオ番組では、しばしば中華人民共和国に対する挑戦的とも取れる批判的内容が盛り込まれることがある他、台湾(中華民国)に対する友好的な記事・番組が多いことでも知られる。

米国愛国者法

テロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年の法 (英: Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001 公法律 107-56) は、正式名称の頭文字を取って米国愛国者法[1] (USA PATRIOT Act) あるいは単に「愛国者法」(Patriot Act) とも呼ばれる。2001年10月26日に米国大統領ジョージ・W・ブッシュが署名して発効した連邦議会制定法(en)である。

当法は十章から成り、各章は複数の条に分かたれる。各章は以下のとおり。

第1章 テロリズムに対する国内の安全性の向上 (Title I: Enhancing Domestic Security against Terrorism)(en) テロリズム対策について定める。

第2章 監視手続の改善 (Title II: Enhanced Surveillance Procedures)(en) 政府のさまざまな部局の捜査権限を強化する。二十五条から成り、そのうちの一条 (224条) がサンセット条項(一定期間ごとの見直し規定)を含む。

第3章 国際マネーロンダリングの阻止及びテロリストへの資金供与防止のための2001年法 (Title III: International money laundering abatement and anti-terrorist financing act of 2001)(en)

第4章 国境の保全 (Title IV: Protecting the border)(en)

第5章 テロリズムの捜査に対する障害の除去 (Title V: Removing obstacles to investigating terrorism)(en)

第6章 テロリズムの被害者、公共保安職員及びその家族に対する支援 (Title VI: Providing for victims of terrorism, public safety officers and their families)(en)

第7章 重要基盤の防護のための地域的情報共有の増進 (Title VII: Increased information sharing for critical infrastructure protection)(en)

第8章 テロリズムに対する刑法の強化 (Title VIII: Strengthening the criminal laws against terrorism)(en)

第9章 諜報活動の改善 (Title IX: Improved intelligence)(en)

第10章 雑則 (Title X: Miscellaneous)(en)

つまり、GHQによって憲法はじめ自国民が国家解体を図る売国的政治家や左翼を処分できないのである。
戦えない国、主権を守れない国、スパイ天国。これでも独立国家だろうか。

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19世紀ドイツの地図も竹島は日本領

19世紀ドイツの地図も「竹島は日本領」

産経IZA 2010/01/20 14:36
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/348219/
 竹島(島根県)と朝鮮半島の間に境界線を引き、日本領とした19世紀後期のドイツ製の地図が複数現存していることが20日、島根県竹島資料室の調べで分かった。大阪大付属図書館ではこのうち最も古い1870年製の地図を所蔵。これまでにも竹島を日本領とする19世紀の西洋製地図は見つかっているが、さらに複数の地図が確認されたことで、日本の領有権確立を補強するとともに、韓国側の主張への反論材料になるという。
 竹島資料室によると、大阪大のほか、海外の大学や古書店などへの調査で印刷時期の違うドイツの「シュティーラー地図」の所蔵を確認。1870~1899年の間に作製された約10枚で、竹島が日本領とされていた。
 シュティーラー地図は、日清戦争後の1896年版では、台湾と中国大陸の間に境界線を引くなど、当時の国際情勢を反映。だが、現在は韓国領の鬱陵島を日本側に含むのは、日本人が同島に渡り活動していた影響とみられ、その経緯を詳しく検証する必要があるという。
 韓国側研究者は「1920年代まで西洋地図では独島(竹島の韓国名)を韓国領に属すると分類していた」と主張している。
 竹島資料室の杉原隆竹島研究顧問は「国際的に認められてこの内容で発行が続いたとみられ、さらに分析を進めたい」としている。

よしこれで、実力行使をしなくても国際裁判所へ上告できる。
いっそ台湾も千島列島も連邦制を敷いて日本国の連邦国にしよう。嫌中の台湾の人も喜ぶ人は多いと思います。


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近代1 近衛文麿と東亜新秩序

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近衛文麿と昭和の戦争
『日本近現代史』 小風秀雅

近衛文麿に鳩山総理との類似点を感じる。

プリンス近衛の登場

近衛文麿は、昭和戦前期を代表する政治家であり、日本の近代を象徴する政治家といってもよいであろう。その出自は五摂家筆頭で、皇族以外では天皇に最も近い人間であった。彼の父近衛篤麿も学習院院長・貴族院議長を務め、特に対外硬運動の指導者として有名な政治家であった。

近衛文麿は篤麿の長男として生まれ、12歳の若さで侯爵を継ぎ「殿様」「閣下」と呼ばれるようになった。しかし、父が政治活動のために使った借財の取り立てが厳しくて家は貧しくなり、そのため彼は取り立てをした富豪に対する不信感と、政治に対する失望を強めたという。その結果、青年近衛は哲学を志望して東京帝国大学哲学科に進学したが、次第に社会科学に対する興味を増し、特に社会主義的傾向を帯びるようになった河上肇に惹かれて京都帝国大学法科大学に転学した。

日本で最も恵まれている青年が、それゆえに社会の矛盾を感じ、正義感から反体制的な思想を持つのはある意味自然であり、当時の青年貴族にも共通してみられるものであった。(省略)

1916(大正5)年満二五歳で貴族院議員となった。貴族院内での彼の権威は高まる一方で、1931(昭和6)年に副議長、1933年には議長に就任した。

このような青年の正義感は、また国際社会にも向けられた。1918(大正7)年12月の雑誌『日本及日本人』に、近衛が執筆した「英米本意の平和主義を排す」が掲載された。第一次世界大戦は民主主義・平和主義を掲げた英米が軍国主義ドイツに勝利し、世界は英米の平和主義を賞賛したが、その平和とは領土などを持てる国が現状維持を主張したまでのことであり、ドイツや日本のような持たざる国が発展しようとすれば、どうしても現状打破的にならざるを得ない、その方法として積極的外交によって「正義人道」に基づき、植民地解放・人種平等を実現することによってのみ日本の活路が見出せる、というものであった。この論文も一つの契機になって、日本国内では人種平等論がにわかに高まった。特にインテリ青年層にその傾向が強かった。近衛はその先頭に立っていたといえよう。

近衛の時代感覚

「正義人道」のうえにたつ近衛は、それを軍国主義化によって達成するのではなく、英米以上に進歩的、革新的に「現状打破」を行うことを目指した。その実行には「現状維持」的な既成政党や特権階級の貴族院ではなく、新しい主体的積極的政治組織を考えていたのであろう。

しかし他方で、受け身の意識も強くなっていった。1910年代の社会主義革命に対する危機意識とは異なり、1930年代には右翼テロに対する危機感に変わった。近衛はしばしば軍部の先手を打って革新的政策を実行すべきであると主張していた。つまり、部分的に軍部の革新的主張を取り込み、それによって革新的政策を実行すると同時に、彼らをある程度満足させることで全面的軍国主義化を抑制しようとしたのである。この結果、近衛は軍部など「現状打破」勢力から首相候補に推されるようになった。また、西園寺公望を頂点とする英米派の「現状維持」勢力も、プリンス近衛に正面から反対しなかった。西園寺個人は、近衛が「現状打破」勢力に取り込まれることを強く懸念していた。彼は、主体的積極的な反面、受動的で敏感な近衛の言動に不安定さを感じていたのであろう

近衛と日中戦争

1937(昭和12)年、近衛が初めて内閣を組織した。

現内閣は各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命とす。是等対立の内最も深刻なるものは「持てるもの」と「持たざるもの」との対立なり。国際間にありては、所謂「持てる国」と「持たざる国」との対立あり。今日の世界不安は之に基づく。国内にありては「持てる者」と「持たざる者」との対立あり。社会不安多く之に因す。

是等の対立を緩和するには、国際間にありては国際正義、国内にありては社会主義を、指導精神とすべし。正義とは何か。結局分配の公平に帰す

多くの国民から歓迎されて誕生した近衛内閣を待ち受けていたものは、日中戦争の勃発であった。北京郊外で日中両軍が衝突して盧溝橋事件が起こり、戦果は上海から内陸へと広がり、ついに日本軍は首都南京を占領した。中国側では第二次国共合作が成立し、国民政府は強い民族意識や米英ソの援助に支えられて徹底抗戦し、日中戦争は次第に長期化の様相をほどこしていった。1938(昭和13)年1月16日近衛内閣は「爾後国民政府を相手とせず」という有名な言葉を発して、交渉打ち切りを通交した。

「東亜新秩序」声明

この過程で、近衛は陸軍を抑制することができなかったことへの反省として、1938(昭和13)年、陸軍に影響力を持つと思われる陸軍出身の有力者たちを入閣させた。しかし、ここでも近衛は指導力を発揮することができなかった。近衛は自らを陸軍のロボットと表現し、会議でも沈黙することが多くなり無気力になったといわれる。「各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命」として有力者を網羅したはずの近衛内閣であったが、実際の内閣は群雄割拠的状況となり、近衛の人気と政治力のギャップが目立った。そんな近衛を支えたのも陸軍だったのである。

近衛内閣は1938年末、いわゆる「東亜新秩序」声明を発した。これは王兆銘らに親日政権を作らせ、日・満・中三国連携による東アジアの新国際秩序を樹立しようというものであったが、結果的には日中間をますます引き離すことになった。そして、1939年1月第一次近衛内閣は総辞職した。

昭和14年(1939年)1月に発足した平沼内閣は、第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列 (無任所大臣) として残留してこれに協力した。最大の懸案である対中問題では、「自今国民党(蒋介石政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、汪兆銘政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。

平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結されるに至って、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としていた平沼は衝撃を受け、8月28日「欧州の天地は複雑怪奇」という珍声明とともに総辞職した。

近衛新体制

ところで、近衛内閣の「無気力」に反し、政界では近衛新党論が多方面から起こった。特に1940(昭和15)年5月ドイツ軍が電撃作戦に成功してフランスなどを占領したことが契機となって、日本国内でもドイツナチスをモデルにした一党体制を目指す動きが現れた。

ただし、そこにはさまざまな思惑が含まれていた。陸軍、あるいは親軍的でドイツ的な体制を目指す「革新派」と呼ばれるグループ以外にも、解党のうえで近衛新党に合流し、32年以来遠ざかっていた政権に復帰しようという既成政党グループもいた。また、平沼騏一郎(平沼赳夫衆議院議員・たちあがれ日本代表の義祖父)などの観念右翼や陸軍皇動派も、一国一党には警戒しつつも近衛内閣は支持した。同年6月に新体制運動に乗り出すことを声明した。この近衛の声明を契機に陸軍は米内光政内閣の倒閣に動き出し、各政党は解党へ動き出した。そして実際に7月22日第二次近衛内閣が成立した。

近衛の基本的発想は、地方名望家中心の既成政党とは異なり、国民をより深く取り込んだ国民組織(新体制)を背景に、陸軍を抑え込み日中戦争を解決しようというものであった。しかし、観念右翼や自由主義的政党人(民政党町田忠治、政友会鳩山一郎)、皇動派軍人らの、大政翼賛会はあたかも幕府のようなものであり、天皇の統治権を侵すものであるという批判によって、10月12日に発足した大政翼賛会では、公事結社として「臣道実践」のみを綱領とすることが宣言された。ここにおいても、近衛の構想は他権力の干渉によって大きく変質してしまうのであった

近衛と大東亜戦争(太平洋戦争)

欧米に対抗するため、外相松岡洋右は1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟を締結。西欧諸国の植民地であった東南アジアに進出して「大東亜共栄圏」を建設し資源の確保を図ると共に、アメリカから中国への援蒋ルートの遮断を狙った。こうして日米関係は危機的なものとなったのである。松岡だけを閣外に追い出す形で第三次内閣を組織し、日米交渉をやり直すことにしたが、独ソ開戦を契機に南部仏印進駐を望んでいた軍部が主導して7月末に実行された。アメリカは在米日本資産凍結、対日石油輸出禁止で対抗した。ここについに総辞職することになった。

終戦工作

自らの行動が、結果的にはことごとく意に反して戦争への拡大に向かっていったことに気づき、近衛および近衛周辺は拡大派である陸軍の背後には共産主義者の陰謀があるのではないか、という見方を強めていった(皇動派史観)。大政翼賛会=「幕府」論批判によって、自らが共産主義者ではないかと非難された近衛であったが、これらからも近衛やこの時代がいかに不安定であったかが分かろう。特に太平洋戦争の戦局が悪化し東条英機内閣が弾圧を強めるに従って、このままでは天皇制は崩壊し共産主義国になるだろうという強い危機感を持つようになった。

彼らは東条内閣打倒を目指した。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

1943(昭和18)年頃から近衛あるいは海軍の小林せい造を首相とし、皇動派将軍を陸相として終戦内閣を作ろうというのである。多くの重臣(平沼騏一郎・岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎ら)や陸軍の宇垣一成らも関与したといわれる。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

しかし、次の小磯国昭内閣も積極的に和平工作を行おうという気配はなかった。そこで、近衛たちは昭和天皇に状況を直訴しようと試みた。細川護貞(旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。初婚は近衛文麿の二女・温子とで、二人の間には護熙(元熊本県知事・元日本新党代表・元内閣総理大臣)を通じて高松宮宣仁親王と接触を深めたり、東久邇宮稔彦親王・賀陽宮恒憲親王と連絡を持ちつつ天皇への拝謁の機会を窺った。そして1945年2月14日にそれが実現した。しかし、天皇自身が政府要路者以外の政治関与を嫌ったため、この拝謁で状況が大きく変わることはなく、逆にこの後に吉田茂(孫に麻生太郎)らが拘束されたことによって近衛たちの動きは封じられてしまった。その後7月に天皇から、社会主義国家ソ連を訪問し和平工作の準備に当たるように命じられたが、訪ソの機会を得られないまま敗戦を迎えることになった。近衛はポツダム宣言受諾が決まり、A級戦犯容疑者として逮捕されることを知ると、その寸前に自殺した。
登場人物や時代背景に似た箇所があると思うのは私だけだろうか。

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=fvejDtRIrHQ&h=344] 心のこり 細川たかし
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歴史の両側 米国務省の公文書公開!「真珠湾は奇襲ではなかった」

草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/
>1)周知:左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し日本中にこの史実を周知していただきたい。
以上によりそのまま転載します。
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
ソ連の崩壊で米ソから貴重な情報が公開され、戦後の反日歴史観が見直されています。しかし最近、歴史をゆがめ日本人を外国に隷属させようとする悪だくみが見られます。
こうした状況で本情報は日本人全体にとって非常に重要と考えます。ぜひ友人、知人に至急転送しご回覧願います。
東京近代史研究所 代表 落合道夫
***********************************************************************
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
1.事実:
米国ウィスコンシン大学の国務省外交文書図書館で戦前の駐日大使グルーの国務省あての公電が公開されている。この中に日本の真珠湾攻撃の十ケ月前の1941年1月27日に日本軍の真珠湾攻撃計画を国務省のハル長官に報告したものがある。
その内容は、「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」というものである。
これで長年の日本近代史の大きな疑問がひとつ解けたことになる。
2.意義:
1)反日宣伝からの解放:日本人は戦後占領軍と左翼に長く真珠湾攻撃が卑怯であるという誤った贖罪感を埋め込まれてきた。しかしこれで解放された。ルーズベルトは明らかに日本の反撃計画を知っていた。その上で対日貿易封鎖をおこない過酷な対日要求ハルノートを出してきたのである。
2)歴史の真実:
  それでは日本の攻撃を挑発したルーズベルト大統領の狙いは何だったのか。それは言われているように、欧州大戦への参戦契機づくりと満州を狙う邪魔もの日本の排除のためと考えるのが合理的であろう。これで東京裁判史観は誤っていることがわかった。必然的に日本に戦争責任がない新しい近代史観が必要になってきた。
3)なぜ国務省は公開するのか:
  現在の米政府が戦前のルーズベルト外交の対日陰謀の重要証拠文書を公開しているのは、米国の極東政策が戦前とはガラリと変わったからである。戦前の日米は満州を争う競争者だった。しかし今は共通の敵を持つ同盟国である。
  そこで米国は極東の要となる自由主義国家日本を再建したいと考え、そのために日本人の時代遅れの敗戦ボケからの覚醒を待っているのであろう。
3.日本人の対応:
1)周知:左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し日本中にこの史実を周知していただきたい。
2)靖国神社や護国神社はこの情報の常時掲示をお願いしたい。
3)歴史教科書へ盛り込む:生徒が誤った歴史教育を受けているので、文科省はすぐに教科書の補正資料として印刷し生徒に配布すべきである。
4.本米国公文書情報へのアクセス方法は以下の通りである。
1)グルーの電報の元のファイル: 米国ウィスコンシン大学 外交文書図書館
 http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=header&id=FRUS.FRUS193141http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif02&isize
2)ここのSearchのところにGrewと入力すると、グルーの電報のリストが出てくる。(Gは大文字)
3)問題電報は133ページにある。公文書番号は711.94/1935である。
以上
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城崎(きのさき)という地名の由来

城崎(きのさき)の由来

『城崎町史』(1988年)は、豊岡市で出土した木簡に「絹前…」または「縄前…」とも読める文字があることから、「絹前」=キヌサキ説の可能性に触れている。

また一節では、太古、海の入江だった豊岡盆地が紀元前二万年ごろから隆起と海の後退によって次第に陸化、当時円山川河口から日高町水上(ミノカミ)あたりまで沼地状になった一帯を「黄沼前の海(きぬさきのうみ)」と呼んだ。同様に出石町出石川流域にも水上(ムナガエ)という地名がある。

太古はこの付近までが黄沼前(キノサキ)という入江だった。

しかし、いずれも現在の城崎温泉が城崎というようになった事実をどこにも記してはいない。江戸までは湯嶋と呼ばれていてのである。つまり今の豊岡市街地が城崎郷であって、城崎であった。

昭和になってどこの市町村もこぞって「市町村史」を編纂した。しかし本当なのかという部分は在り得るのだ。

戦後それどころではなかった当時は、誰もそんなゆとりはなかったし、日の目を見なかった地域の歴史研究。ブームによって急遽、郷土の史料を編纂するにあたり、数少ない郷土歴史研究家の存在は貴重だった。そのなかでそうした方々の苦労と叡智に敬意を抱くし、それを批判するのではなく、新たな発見や歴史認識等を踏まえて、検証していくことこそ、後の時代の我々の恩義につなぐものであると思うのである。

ではさっそく。城崎は城崎温泉そのものではない。

かつて「城崎」という地名は、旧城崎郡と城崎郷(豊岡市街地中心部)の呼び名だった。温泉地帯は城崎郡湯島と呼ばれていた。

奈良時代から平安時代にかけて、古代の日本国家は、地方行政の単位として国-郡-里(郷)を設けたが、但馬国は八郡に分けられた。当時の但馬国城崎郡は、今日の豊岡市市街地(旧豊岡町)と城崎町を合わせた地域とほぼ重なっている。

城崎の名が現われる最古の記録は奈良・平城京跡から出土した木簡(古代、紙と同じように木片に文字を墨書したもの)で、奈良時代の神護景雲三年(769)の年号が入っており「城崎郡」と書かれている。このほか古代には、「木前」「木埼」「木崎」などと表現されていた。

平安時代の承平年間(931~37)に成立した、わが国初の百科事典『和名抄』は、それぞれの地名に万葉仮名で和訓を付けており、城崎を「岐乃佐木」または「木乃佐木」と万葉仮名で読ませている。城崎郡内の新田(にった)、城崎、三江(みえ)、奈佐(なさ)、田結(たい)の五郷と余戸(あまるべ)が記されている。余戸は現在の香住町余部とは無関係で、所在地は不明。他の五郷は、現在にも生きているおなじみの地名だ。

城崎温泉は、湯嶋、湯島と云われ、古くは城崎郡田結郷湯島と云われていた。とくに田結郷は広範囲で近世には、田結郷をさらに大濱庄、下鶴井庄、灘、気比庄に分れていた。
気比庄は気比、田結、湯嶋、桃島、小島、瀬戸、津居山の七村。

「但馬考」に、湯嶋 この湯の名、古書にあらわれるのは、古今集を始めとす。順の「倭妙抄」には、他の二方の温泉(ユノ)郷を載せしたしは、但馬の湯とのみ云うには、まぎらわしき方もあれど…考えるに、此の地の名、上古は大渓(オオタニ)と云しを、温泉あるゆえ、俗に湯嶋と唱えて、終わりに古名を失えり。

「但馬考」に、「城崎温泉」という呼び名が現れるのは、

温泉

(香川修徳の)一本堂薬選籍編曰く、但州城崎温泉、三敷座(座敷)ありて、…此邦諸州(日本全国)、温泉極めて多し。而して但州城崎新湯を最第一とす。(香川修徳は)新湯を一の湯、二の湯と分けて、二つありとした。

新湯に続いて、中湯、上湯、御所湯、曼陀羅湯、他一か所を記している。

引用:校補「但馬考」、豊岡市教育委員会、与謝野町

たじまる 奈良7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

  • 『日本書紀』     720   神代~持統
  • 続日本紀     797   文武~桓武
  • 日本後紀     840   桓武~淳和
  • 続日本後紀    869   仁明
  • 日本文徳天皇実録 879   文徳
  • 日本三代実録   901   清和~光孝書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあてているのも特徴です。これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。

    そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
    このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

    『日本書紀』

    2.『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

    では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。
    なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

    この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。
    対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

    古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。

    まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。
    記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

    大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

    何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。
    紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

    『風土記』


    『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵

    『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
    『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

    1. 郡郷の名(好字を用いて)
    2. 産物
    3. 土地の肥沃の状態
    4. 地名の起源
    5. 伝えられている旧聞異事

    が挙げられています。

    完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之

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たじまる 奈良6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

日本最古の歴史書.1

1.日本の思想~他者によって描かれた日本

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。
わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

2.『古事記』と『日本書紀』


『古事記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じ、たのが『古事記』全三巻です。
その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。
一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。
大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。
それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。
ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

3.『古事記』

『記紀』はその叙述の仕方に大きな差が見られます。『古事記』は本分が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋を持った本文を掲げてはいますが、それにつづき複数の異なる伝承を「一書曰(あるふみにいはく)」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。『記紀』の神話は、その叙述態度・叙述の様相をかなり異にしていることは確かです。

『古事記』は「序」と「上巻」「中巻」「下巻」の三巻からなります。

「序」には古事記編纂の意図とその経緯が上表文の形をとって説明されています。(日本書紀には序は無い)。序の末尾の日付と署名によって和銅5年(712)正月28日に太安万侶が撰進したことがわかりますが、この事は「続日本紀」には記録されていません。(日本書紀は記録されている)。
「上巻」は神代の時代から神武天皇の誕生まで、「中巻」は神武天皇から応神天皇まで、「下巻」は仁徳天皇から推古天皇までの事績が描かれています。この中で、古事記の成立について記録している部分は「序」です。言い換えれば、古事記の成立について書かれたものはこの序文しかありません。

冒頭の「序」は、漢文体で書かれ、変体漢文を屈指した本文とはやや異なった体裁ですが、
「この世のはじめはくらくてはっきりしないが、この教えによって国と島の生成を知り、神が生まれ人をたてた時代を知ることができる」と、神代は遠くなったが、神代になった国土が「大八洲(おほやしまぐに)」として時間的に展開していく様を描いたという次第が述べられます。

「上巻」の神代では、高天原の「天地のはじめ(天地開闢(てんちかいびゃく))」、イザナキ・イザナミ男女二神の神生み国生み、黄泉の国、天の岩戸と天照大御神(あまてらすおおみかみ)、出雲を舞台に追放されたスサノヲと大蛇退治、大国主の国づくり・国譲り・海幸山幸」、それにつづき日向を中心とする天孫の天降り等と続き、さらに神武天皇までの出来事や系譜が描かれています。中巻以降の人代は、神武天皇から推古天皇に至るまでの神話的伝説・歴史あるいは歌謡の大系であり、多層にわたる要素がこめられています。

ここでは天皇の国土統治の始源・由来が語られており、漢文体で書かれ歌謡は一音一字の仮名で記され、古語の表記・発音をあますところなく伝えています。

3.神話は「真実」を語る

世界中にはさまざまな神話があります。キリスト教を例にすると、『旧約聖書』は神が六日間で世界をつくったという「天地創造神話」から書き始められています。これも記紀神話の国生み同様、科学的にはあり得ません。同書の大洪水にまつわる「ノアの箱舟伝説」や、また『新約聖書』の「福音書」には、マリアが処女懐胎してキリストを身ごもるという逸話が紹介されていますが、科学的には人が単独で受胎するはずはありません。
聖書学では『聖書』は史実を記した歴史書ではなく、当時の信仰が記された信仰書であると理解されていますが、「聖書の記述は史実ではない」という主張は欧米社会には存在しないのです。『聖書』の史実性を議論することはまったく無意味であり、読み方としては誤っているのです。記紀神話についても同じで、たとえば「天孫降臨は非科学的であり史実ではない」との主張は、「マリアの処女懐胎は非科学的であり史実ではない」というのと同じだけ愚かな主張なのです。と竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』で述べています。
しかし、一見事実ではないと思われる神話の記述には、事実でなくとも真実が含まれている場合があります。欧米社会では、天地創造神話にもとづき、神が六日で天地を想像し、七日目に休息を取ったとの神話にもとづいて、七日目を日曜日として休日とし、教会でミサが行われます。アメリカでは大統領が就任するときに『聖書』に手を当てて誓いを立てます。『聖書』に書かれたことはすべて、事実性はともかく、「真実」であると見なされます。

4.『日本書紀』と祝日

そして日本も、『古事記』『日本書紀』に書かれたことが「真実」であることを前提に国が形成され、運用されています。記紀と日常の生活のつながりは実感することはありませんが、記紀は現在のわが国のあり方、そして国民生活に絶大なる影響を与えています。
たとえば祝日が挙げられます。いかなる国も建国を祝う日は祝日とされ、国を挙げて盛大な祝賀を行います。わが国の「建国記念日」は2月11日で、戦前まで「紀元節」と呼ばれていました。この日は初代の神武天皇が即位した日であり、記紀の記述を根拠としています。ほかには、11月23日の「勤労感謝の日」は、宮中祭祀のなかでも最も重要な祭祀の一つ、新嘗祭が行われる日です。新嘗祭の起源は『日本書紀』の、天照大御神が天孫に稲穂を授けて降臨させ、その後、稲穂を用いて祭儀を行ったことに由来します。その他にも「天皇誕生日」がそうです。。

4.天地のはじまりの神話

『古事記』は、天智の開闢をもってはじまります。
天地(あめつち)初めて発(ひら)けし(発(おこ)りし)時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。この冒頭部分を、一神教の聖典『旧約聖書』の冒頭部分におかれた創世記とくらべるだけでも、この多神教的な世界の形成が明らかになります。神は複数性をはらんで生まれること、またこの神たちは、創世記のようにこの宇宙ないし世界を創造したのではなく、世界の生成とともに、「成った」存在として描かれていること、しかも姿をかき消すことで、世界と一体化し、その後の世界の奥に潜む生成力ないし力動性の根源というかたちで描かれていることです。そのことは人の生成にも関わります。人は、『古事記』では、「青人草(あをひとぐさ)」と表現されますが、その起源は必ずしも明確ではなく力動性を秘めた世界の一構成員としてあります。このことは天つ神のいる「高天原」という領域が、ひとつの完結した世界として描かれるのではなく、物語の展開のなかで、あくまでも神と人とが生き織りなす「葦原中国(あしはらなかつくに)」という領域の生成と展開へと物語が収斂していくことと関わっているのでしょう。神世七代の神々の最後に一対の男女神、イザナキ(伊耶那岐命)、イザナミ(伊耶那美命)が生まれる。「葦原中国」は、天つ神による、いまだ不定形の国土を「修理固成(おさめつくりかためなせ)」との命を受けた、この二神聖婚・性的交わりによってできる。命を受け、潮を「かきなし」たとき滴った塩が固まってできたオノゴロシマ(淡路島)に降り立った、この男女二柱の神は、国土・自然は神そのものであると描く。国土の生成の描写は、本州の西の島々、瀬戸内海にその記述は厚く、後の記述でも本州は今日の糸魚川あたりまでであることなどに、当時の地理感覚があらわれています。
この冒頭に展開するイザナキ・イザナミ神話は、人間の生活に資する文化的生の起源話であるとともに、人間の生と死の起源の神話ともなっています。『古事記』にみる限り、国生み・神生み神話の「生む」型と、開闢(かいびゃく)の「成る」型の二重性の解釈は単純ではなく、津田左右吉のいう政治的作為があるとみなすこともできます。

5.高天原の神の降臨

「葦原中国(あしはらなかつくに)」の呼称は、高天原からの命名でした。国生み神話に続く、天つ神の領域の物語は、イザナキの黄泉の国からの帰還を期に生まれた、三柱の尊い御子(三貴子)[*2]のうちアマテラスとスサノヲをめぐって展開します。海原を支配せよとの父イザナキの命に背いたスサノヲは高天原にのぼり、乱暴をはたらく。弟に最初は理解を示した妹もついに怒り、岩屋戸に隠れ世界は闇に支配されす。神々の機知でふたたび世は光が戻りますが、スサノヲは追放されます。追放されたスサノヲは、出雲で大蛇を退治するなどの功績を残し、根の堅州国の支配者となります。

「中巻」は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っています。ここにみる神武東征は「天神御子」の「天降り」とされ、古事記においても史実としてより神話として書かれたもののようにも思えます。上巻の延長のような気もするのだ。古代豪族は、殆どがその祖を天皇家にあるとしたものが多いが、その多くがこの中巻に記された応神天皇までに祖を求めています。仁徳天皇以後のいわゆる皇別氏族は数えるほどです。これはこの時代が、神と人との混じり合った曖昧模糊とした時代だった事を豪族達も看破していた事を物語っています。

自家版帝紀に都合のいい系図を書き入れ、太安万侶へ持参した者もいたかもしれない。古事記は古代豪族の研究にとってもかかせない資料としての価値が高いが、原資料として採用された旧辞は混合玉石だったことを忘れてはなりません。

下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までを扱っています。仁徳天皇以下、履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻の各天皇、そして33代推古迄の天皇紀です。
それぞれの天皇の事績については、「天皇陵めぐり」のコーナーを参照していただきたいが、その内容はご存じのよ
うに波瀾万丈の恋物語と皇位をめぐる争いの歴史です。大雑把に言えば、下巻時代の始まりが弥生時代を抜けて古
墳時代へ移っていく時代のように思える。倭の五王の時代もここです。

古事記は日本書紀に比べれば、顕宗・仁賢天皇以降の各記には事績が殆ど記されていない。継体天皇記は特にその差が顕著です。それ故、24代仁賢から33代推古天皇までの十代を「欠史十代」と呼ぶ見方もあります

これは古事記編纂者の隠蔽工作なのかそれとも、古墳時代の皇位継承の争いに明け暮れる中で、記録など皆無だった時代背景をそのまま反映しているのでしょうか。或いは、仁徳以後の皇別氏族が少ないことは、時代が新しいので虚史を主張しがたいのかもしれません。中巻が、いわば神人未分化の時代だとすれば、下巻は人代の時代と言えるでしょう。

古事記が推古天皇までで終わっていることについてもさまざまな見解があります。推古の次の舒明天皇は天智・天武の父です。あまりにも身近なため、天武としては稿を改めて詳述する必要を感じ、とりあえず推古で止めたのだろうと言われています。その別稿は日本書紀に結実しているわけです


[*2]…三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

  • アマテラス – イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
  • ツクヨミ – イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
  • スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之▲ページTOPへ