弥生.徐福と兵主神社

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が日本列島外から渡来して、北部九州に移住することによって始まった時代です。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、縄文時代に日本列島にはいなかった多くの人々が大陸から流入したことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っていますが、これによると、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡していますから整合性はとれます。

福岡板付遺跡のように、縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、侵略による拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな弥生人と中国大陸の渡来人との混合が弥生人だったのです。

秦から斉の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で常世の国に仙薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。

『出雲と大和のあけぼの: 丹後風土記の世界』斎木雲州氏(元日本大学教授)にアメノヒボコと製鉄集団についての興味深い内容があった。

兵主(ヒョウズ)とは、中国の山東半島方面の古代信仰であった。戦国時代の中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の斉(セイ)国では、八神を崇拝した。徐福の家系は斉国の出身であったので、八神の信仰を倭国(日本)に伝えた。

八神について『史記』の「封禅書」には、「八神の第一は天主である(これはユダヤ教の信仰に基づくという)。兵主は八神のうちの第三で、蚩尤(しゆう)を祀る。蚩尤は、西方を守る神だとされる。(戦の神と考えられている。また戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。)

徐福の息子イタケの時代には、ハタ(秦)族は出雲のおもに太田(市)の東に住んでいた。その西を守るために建てられた社が、五十猛神社になった。

丹後の地に移ってからは、ハタ(秦)族は漁民になった者が多かった。その宮津湾(あそ海)の漁村を守る西の位置に、カゴヤマは真名井神社(宮津市)を建てた。カゴヤマ(香具山)は『書紀』に一書として、天火明命の子で、尾張連らの遠祖とある。

射楯兵主神社は播磨国にも祭られた。「播磨風土記」に飾磨の郡因達(いだて)の里の記事がある。

因達というのは…伊太代(いだて)の神がここに鎮座しています。それで神の名前より、里の名前になった。

射楯兵主神社は今は姫路市に鎮座するが古くは八丈岩山に祭られていた。因達の里のとなりに昔は安師の里があった。
大和に住まわれた天村雲命は、三輪山の神奈備を守るために、その西麓の穴師で兵主の神を祀った。

イタケの発音から、イダテやイタチにもなった。戦国大名の伊達氏は、因達の神を拝む家系であった、といわれる。伊達藩の支倉常長がローマ法王に書いた書状には、ローマ字で「イタチ藩」と書かれている。
カツラギ王家のタタラ五十鈴姫の御子に八井耳がおられたが、出雲王の血を引くので、臣の名称を使い多(おお)臣の祖となった。多家では、苗字に「太」の字も使った。

その一族は磯城郡田原本町の南端・多の地を本拠としたので、そこに多神社が鎮座する。そこには八井耳命とともに、子孫の太安万侶もまつられている。太安万侶は、古事記を書いたことで知られる。かれは晩年に、出雲国庁の脇(松江市竹矢町)に住んだと伝わる。その屋敷跡が「オウ(太)の杜」といばれる。

ヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

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【出雲神政国家連合】 神話に隠された謎

『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、

神話に隠された謎

「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。

権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。
つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。
『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。

この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。
伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。

神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。
そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。

神話に秘められた二重構造

伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。
伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。
どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。

なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。
ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。

アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。

ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。

出雲は祟る?

つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。

「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」
出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。
たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。

『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。

「神」と「鬼」の二面性

日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。

日本人はなんの抵抗もなく、葬式を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。
しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。

多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。
つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。

このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

神話に隠された嘘と本当

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。
だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。

どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。

しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれ、皇祖神は敵のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。「先祖は北部九州・出雲系ではないうよ」という史実だからこそ、あえて南部九州が舞台になったのではないでしょうか。そしてスサノオ・オオナムチなど出雲系の御神体には、敬意と福の「神」と祟る「鬼」の二面性から、神域と現世を隔てる結界の意味で注連縄を張って封じ込めたのでしょう。

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世界最古の天皇を仰ぐ独立国家『日本』宣言

五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

『日本書紀』    720   神代~持統
続日本紀      797   文武~桓武
日本後紀      840   桓武~淳和
続日本後紀     869   仁明
日本文徳天皇実録  879   文徳
日本三代実録    901   清和~光孝

書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあ てているのも特徴です。

これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。

確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。

大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。

『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。

『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。

『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。 なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。

対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。
まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。

記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。

紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

『風土記』


『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵(見学しましたが撮影禁止なので)

『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもの。『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものとは思われないが、参考にしたふしがあるのは、「一書曰く」と諸説を併記していることだ。『風土記』は、国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。他と区別するため「古風土記」ともいう。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

郡郷の名(好字を用いて)
産物
土地の肥沃の状態
地名の起源
伝えられている旧聞異事
が挙げられています。

完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記が唯一ほぼ写本で残り、総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。

他には「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

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『古事記』にみる天皇の日本統一への思い

日本最古の歴史書『古事記』にみる天皇の日本統一への思い


[youtube http://www.youtube.com/watch?v=N85-qJFuW2w&hl=ja_JP&fs=1&] 1/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年

捏造と反日のNHKですが、大阪放送局製作はわりとまともだと思っている。

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。

『古事記』と『日本書紀』

『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じたのが『古事記』全三巻です。

その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。

一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。

なぜわずか数年後に『日本書紀』を編纂したのだろうか?

ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。

それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。

ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

天皇は地方豪族の治める諸国を日本に統一する思いがこめられて『古事記』を編纂させました。そしてようやく日本は外交へ進んでいったのです。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=EqfNzkaOxtg&hl=ja_JP&fs=1&] 4/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年  heiankyoalienさん
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=qz5V61iOKMk&hl=ja_JP&fs=1&] 5/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年 heiankyoalienさん

『古事記』にみる天皇の日本統一への思いを、NHKは敗戦という一点にどうしても導く道具として利用したと付け加えねばならない後味の悪い締め方をするのが決まりだ。そこで止まってしまう。
その責任転嫁から脱却できない限りNHKや朝日は、日本を明るくしない。

逆に言えばNHKや朝日が報道を正せば、日本は明るくなる。

そんな簡単なことを難しくインテリぶってその異常な思想停止をくり返してきた。日本史のはじまりを戦争へと結びつける思考とは何か。世界に誇れる長い歴史を愛する多くの普通の日本国民に、自らの使命と存在価値がいま改めて問われていることをいまだ覚醒できていないばかりかその責任を放棄して誰かが悪いと押しつけ続けている。人のせいにすれば結局自らに跳ね返ってくる。それでは日本の日本人による日本人のための公共放送であるからだ。

NHKや朝日など反日思想よりも、もっと大切な守らなければならない日本がたくさんある。稗田阿礼が二十九年間かけて誦習し太安万侶が四ヶ月かけて筆録させ、北畠親房が天皇家の南北朝分裂からこの国の道を救おうとし、本居宣長が三十五年もかけて解読し光を当てた。いまだ研究され続ける偉大なる最初の古代長大歴史ロマンである『古事記』・・・。たった45分の番組で片づけられないにせよ、その先人たちの国を思う努力に尊敬の念を抱かずにはいられない。進むべき方向がわからなくなるとき、日本人の矜持(自信と誇り)、プライド。国の原点を思い返してみることも必要な気がする。

引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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01.破壊されたミステリー

謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな歴史区分として、「銅鐸(どうたく)」を取り上げたいと思います。

砕かれた銅鐸見つかる!

わが町日高町は、全国でも稀な打撃により粉々に破壊されて出土した「久田谷銅鐸」があります。

歴史研究家 谷川健一氏は、

謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな出土品、それが銅鐸だ。
まず、出土の状態からしてわからない。専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見される。

まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。
なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷の銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあり、それらの時期は弥生時代中期から末期に集中しているという。
一方で「古事記」「日本書紀」の記述---。

記紀には、銅剣や銅鉾が姿を見せるにもかかわらず、銅鐸に関してはただの1文字すら記されていない点も大きな疑問だ。こうした事実はいずれも、古く畿内を中心に存在した銅鐸の文化と4世紀以降の古墳文化(ヤマト王権)の間に、大いなる断絶、戦争などの破局的事態があったことを物語はしないだろうか?歴史の記憶から抹消された銅鐸のミステリー、その背後には、「日本(ヒノモト)」という国名の誕生にまつわる、壮大な「アナザー・ヒストリー」が浮かび上がってくる。

何々・・・?破壊された銅鐸がみつかったってそんなに珍しいものなんか?!

ここから「気多(けた)とは何か?日高町の先住者、気多人はどこから来たのか?」という、以前から知ってはいたけど。興味のあったテーマにようやくとりかかることになってしまいました。

久田谷(クタダニ)銅鐸

銅鐸発見場所の付近(豊岡市日高町久田谷)

出土地は、神鍋に通じる旧道沿いと思われる付近で、昭和53年(1977)5月、県営ほ場整備の工事中、発見された。
当時発見された銅鐸破片についてくわしく調査された結果が日高町史(資料編)に記載されています。

久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、

—これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた

—-形式は弥生終末期—–遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、最近工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。

また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない—–


但馬国府国分寺館銅鐸展示展(ピンぼけしていてすいません。)
破壊銅鐸
銅鐸は現在470口あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及びます。なかでも、粉々に破壊された事例が見られます。破壊銅鐸は、この久田谷銅鐸を含め、兵庫県内4例をはじめ、大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されています。
兵庫県内4例
久田谷銅鐸(豊岡市日高町久田谷)突線紐5式鐸身3分の1程度117片
女代銅鐸(豊岡市九日市上町女代)とっせん紐2式片側鰭(ひれ)部下端断片
岩野辺銅鐸(宍粟市岩野辺)
姫路市大井川第6地点
日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、気比銅鐸よりも後の弥生後期のものとされ、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。
ではなぜ、久田谷銅鐸はバラバラだったのでしょうか。その理由には、
・砕いて別の銅製品の原料にした
・砕くことで銅鐸を祀る「カミ」が否定された
などの説があります。
但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。
そこでずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることにしました。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、史料を紐解き、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。
但馬地方ではこの他に2か所で発見されています。

<table class=” aligncenter” style=”width: 500px;”>
<tbody>
<tr>
<td style=”width: 500px;”>[catlist id=446]</td>
</tr>
</tbody>
</table>

11.実験『銅鐸を壊す』

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実験『銅鐸を壊す』

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兵庫県加古郡播磨町大中
銅鐸破壊実験見学のため、かねてから一度訪ねてみたいと思っていた兵庫県立考古博物館に行って来ました。
豊岡市から播磨町へは兵庫県(本州)の北端から南端です。播但連絡道から加古川バイパスで行くのが正統ですが、節減のため時間的に余裕もあったので豊岡自動車道の氷上までの無料区間から国道175号線で行きました。
加古川バイパスがすでに無料になっているのを忘れていたのですが・・・。
いつ行っても加古川平野は周囲が平坦な丘陵で道路がゆっくりとカーブし方向がつかめません。
兵庫県の考古学の拠点として2007年10月13日に開設され、兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所も 神戸市兵庫区荒田町から兵庫県立考古博物館へ移転しました。


下に伸びる手をイメージしたシンボルマークがいいです。

県指定重要文化財の深田遺跡出土品(豊岡市日高町)の木簡や「但馬」と記された墨書土器が保存してあり、実物を見たかったのですが、訪ねてみると定期的に常設展示ではないようで特別公開があるそうです。
国指定史跡大中遺跡の隣接地にあり、この史跡を整備して「播磨大中古代の村」として公開・管理する役割を担うとともに、従来の展示物を観てもらうという展示物主体の博物館ではなく、来館者に参加し体験してもらう新しいスタイルの参加体験型博物館として設置運営されており、常時体験学習を実施してされています。

昨日何げに兵庫県立考古博物館のHPを見ていたところ、2月8日(日)にこの実験が行われるというので、兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中500)に行って来ました。豊岡市久田谷遺跡は当住処からすぐのところで、全国でも珍しい破壊銅鐸片が見つかった場所です。どのようにして上手に正方形に切り刻んだのかは謎です。
-体験-『銅鐸を壊す』
弥生時代のナゾ、壊された銅鐸に迫る!
講演と破壊実験:
兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生
銅鐸(どうたく)はナゾに包まれた弥生時代の祭器です。兵庫県の豊岡市の久田谷遺跡では粉々に破壊された銅鐸が出土しました。このような祭器の破壊行為は銅鐸を祀る“宗教的な行為”が否定されたと考えられます。しかし、どうやって破壊したのか実態がよくわかっていません。今回は復元した銅鐸をつかって破壊方法を検証してみます。
破壊実験に用いるレプリカ銅鐸
1 朝日銅鐸(愛知県:弥生時代中期末から後期初期)
レプリカ成分:神於(こうの)銅鐸(大阪岸和田 弥生時代中期)
(銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%)
4つのパターンでレプリカ銅鐸を破壊する。
Ⅰ:カケヤで叩く
Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
以下パターンⅢを繰り返す

  

  

現在470点あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及ぶ。弥生時代前期から後期にかけて出現。
破壊銅鐸:兵庫の豊岡市久田谷遺跡(県内4例:宍粟市岩野辺・豊岡市九日市・姫路市大井川第6地点)をはじめ大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されている。

 

いろいろ試した結果、Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く、
でついに割れました。しかし、久田谷銅鐸のようにきれいに細かくは砕けませんでした。
ますます謎です。

2009/02/08
[catlist id=96]

09.銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[/wc_box] 銅鐸はなぜ消えたのか?
森浩一先生の資料(新しい発見数などは修正しています)と石野博信館長(兵庫県立考古博物館)のお話しをまとめますと、

「銅鐸は現在470あまり確認されています。その分布は北部九州から東海地方に及びます。弥生時代前期から後期にかけてつくられています。銅鐸が出土している国単位では、加茂岩倉遺跡の発見により今のところ一番多いのは出雲です。二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。その次が紀伊・近江です。それに対して、大和の国は19個でわずかとしか言いようがないです。

前方後円墳がつくられる時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っており、銅鐸がなくなってすぐ前方後円墳ではないのです。奈良県がものすごい富と権力の中心になるのは、箸墓古墳とか、西殿塚古墳とか、そういう2百メートル級の大きな前方後円墳が造られた後なのです。それは、3世紀の終わりと言ってもいいです。それ以後に大和が強大になるのです。それ以前は並の土地です。大和にあるぐらいの弥生遺跡ならばどこにでもあります。そういう古墳から銅の鏡が20枚も30枚も出ていますが、しかし、弥生時代の奈良県には銅の鏡があったという証拠はほとんどありません。また銅鐸が古墳から発見された例はありません。それを謎だという人がいますが、いずれにしても、銅鐸は他の遺物と違って、弥生時代の中で生まれて完全に消えていきました。そして宗教改革ともいえる飛鳥時代の仏教伝来です。飛鳥時代になって、崇仏派の推古天皇・聖徳太子や蘇我氏が「もう、こんな神様はいらん!」ということで、仏教が注目されました。仏教を嫌ったとされる物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であると思えるのです。物部氏の信頼とシンボルの銅鐸が久田谷(兵庫県豊岡市)では叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかという可能性が高いと思います。

銅鐸を拒否した新王権

しかし、銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。ヤマト王権が統一する過程で銅鐸はすでに用をなさず自然に忘れられてしまったのかも知れません。いえ、そんなはずはありません。高価なものを再利用もせずに生めてしまうには大きな政治的力が起きたのです。
銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。

つまり、古墳を造る際には銅鐸は忘れ去られていたことになります。ヤマト王権が中央集権化をすすめる過程で銅鐸文化を担った地方豪族を組み入れるために、銅鐸を埋設あるいは破壊していったわけではない[*2]のです。

ヤマトを地盤にした新王権は、明らかに銅鐸を拒否したのです。弥生末期、ヤマト及びその周辺で巨大銅鐸が作られていますが、出雲と吉備は青銅器祭祀を止めています。一方、分布から北部九州は銅鉾が主流で、銅鉾圏と銅鐸圏が対立していたとされます。これは祭祀のうえでヤマト王権が起こる直前の時期です。
銅剣と銅鐸が消えた三世紀初め頃の出雲には、四隅突出型方墳という、倭人のものとは思えない奇怪なヒトデみたいな墳墓が安来地方や荒神谷近辺に出現しました。鳥取大山の妻木晩田遺跡から、最も古い形式らしい四隅突出型方墳が発掘されました。この日本最大の妻木晩田遺跡の人々が安来地方などに移動したとも考えられます。

一方、瀬戸内海の吉備(岡山県)では、銅剣時代を経て古墳時代前夜へと入り、墳墓群が出きつつありました。ほぼ同時期、出雲と吉備にそれぞれ王と呼んでもいい首長が現れ、銅剣や銅鐸の祭祀を村落共同体から排除してしまうのです。ということは、その頃さかんに巨大銅鐸を作っていた近畿の文化圏からの離脱を意味します。銅鐸を作らなくなった時点で、出雲は近畿の敵になりました。出雲大社では、スサノオを祀る素鵞社を覆い隠すように巨大な出雲大社本殿が建てられています。スサノオが「すさぶる王=荒ぶる神」として憎しみを込めて追放されているのは、この間の事情を繁栄しているのかも知れません。

また弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。特に福岡県では2百枚は十分出ています。だから、大和(奈良県)は弥生時代は並の土地で、前方後円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平安遷都する必要はありません。だから長い目で見たら、
大和が、勢力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまでの、(長い歴史のわずか)4百年間の出来事です。
ヒトデみたいな奇怪な墳墓(四隅突出墓)を造っている祭祀王国-そんな出雲への認識や記憶が近畿人に定着し、祟(たた)る神として恐れられ、『古事記』で多くを「出雲神話」にあてているのも、大和の天皇家をなんとか正統化したいという苦心の原型になったとも考えられます。

銅鐸から考える

キリスタンの踏み絵ではありませんが、荒神谷や加茂岩倉遺跡のように、銅剣や銅鉾、銅鐸をなぜ人目のつかない場所に隠すように埋めたのでしょうか。

蘇我氏=ヤマト朝廷によって埋めさせられたのか。のちの6世紀半ばの欽明天皇期には仏教が伝わり、物部守屋と蘇我馬子が対立。後の仏教推進派の聖徳太子は蘇我氏側につき、神道派の物部氏を滅ぼしました。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として仏教を権力に政治を握り、記紀の編纂では、藤原不比等によって歴史の解釈がややこしくなってしまいました。

しかし物部氏は、そのあと飛鳥時代までのおおよそ600年間も、武力と祭祀を司る重要な氏族として存続していました。なぜ、神の祭器である銅鐸や銅剣を破棄することを条件にその後も政治や神事に関与することが許されたのでしょうか。物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であるとするならば、物部氏自らが宝物といえる大切な神具を二度と使えないようになるまで、粉々に砕くことができたでしょうか?それは祖神=ニギハヤヒやウマジマシへの神への冒涜であり、氏族の尊厳を捨てることを意味することだと思えるのです。

ヤマト政権が天皇をいだいて日本を統一していく時代。『播磨風土記』で天日槍(アメノヒボコ)が但馬の養父と気多に葛を落としたという記載と、気多郡で見つかった全国でも珍しい粉々の銅鐸片は、単なる偶然なのか?私なりに想像しますと、それは、養父郡と気多郡の王が最後までヤマト政権に抵抗したのだという史実を語っているのではないかと思います。

[*1]…大和の国は銅鐸出土が19個でわずかとしか言いようがない。
[*2]…前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っておりヤマト朝廷の関与は考えにくいこと。大和朝廷が勢力の中心であったのは、400年間。
[*3]…中国・朝鮮半島の小銅鐸小銅鐸と日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っている。
[*4]…北部九州起源論
[*5]…銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説
[*6]…原料は全部大陸からのスクラップ説というのは無理がある。銅製品の原料国産説。
[*7]…加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布から、銅鐸が山陰地方や近畿地方に配布されたのならば、出雲特有の四隅方形墓が因幡・但馬に出現しない事は、銅鐸を使用した祭祀集団と、四隅方形墓の集団は別の時代の別のルーツを持った集団である。
[*8]…弥生時代の住居から土器とは一緒に見つからないこと。弥生時代末期に集中して山裾などに埋められているか、意図的に破壊されている。

出典: 兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座

2009/08/28
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07.銅鐸はどのように埋められたのか

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銅鐸はどのように埋められたのか

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埋納状況

埋納状況については、村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多いのです(逆さまに埋められた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多く、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(最多の39個)のような十数個同時に出土した例も五、六あります。あまり注目される事がありませんが、頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられています。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされています。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中しています。 銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説あります。

調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。

銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。

多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。

埋納した理由の推測

米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説
しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということであります。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題であります。
平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)

特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためといいます。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたといいます。

大変事にあたり神に奉納したのではないかという説

十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要があります。

地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説

古代華南にそのような風習が見られた。

文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説

そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には銅剣、銅鏡のように、同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである)。

銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)です。

この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もあります。
しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論があります。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊れた状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明がつくという説もある。
政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)
つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れるとして、人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものであります。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとします。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。

しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険であります。[catlist id=96]

06.銅鐸は何に使われたか

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銅鐸は何に使われたか

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現在のところ用途は未だ定かではありませんが、第一に、銅鐸は日常の物ではないのです。つまり家庭用品ではありません。銅鐸は特殊なものであるということがまず大前提です。2番目は、銅鐸を鏡のように副葬品として故人の墓には入れません。銅鐸の中で現在確実に墓に入った例は小銅鐸以外ありません。

初期の小型の物は鈕(チュウ=つまみ)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられています。

本来、中国の銅鈴が起源とされているので家畜牛の首に付けられていたカウベルではないかとも言われていますが、日本では祭祀に用いられる小国の威厳を誇示する特別な神楽器となったのではという説では、1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はありますが、)音を出して「聞く銅鐸」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる銅鐸」目的へと変化したのではないかと言われています。
しかし、森 浩一氏はこう書いています。

「古い小型の銅鐸ほどいい音がします。ただし1メートルくらいの銅鐸が全くいい音がしないというのではありません。実は1メートルくらいの大きい銅鐸ほど実験をすると釣鐘で言うと余韻が残るのです。だから古い小型の銅鐸はいい音がするけれども、ボワンと消えてしまいます。1メートルくらいの銅鐸は叩くと釣鐘の余韻のようにウーウーと残っています。橿原考古学研究所の紀要にその実験データが載っています。だから大きい銅鐸は見るだけだと強弁している学者がいますが、それは違うと思います。銅鐸には最初から最後まで見る要素と聞く要素の両方あるのです。

音の要素についていえば、単に鳴るだけではなくて、大きくなって余韻が響くようになったのです。考古学者榧本亀次郎さんの解釈では、銅鐸というのは毎日ぶら下げているのではなくて、お祭りの時だけとかあるいは10年に1回の重要な時とかに、しかも粗紐ではなくておそらく柔らかい幅のある布のような物でV字型にそっとぶら下げたのではないかと思われます。だから、そんなにひどい擦り目というのは出ないと言うわけです(森 浩一)。」

銅鐸は、銅鐸そのものがもつ意味もさることながら、銅鐸にかかわる祈りが存在していたと考えられます。弥生時代の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続と維持発展にあったと考えられます。耕地の確保といった土木事業を展開するためには人々が心をひとつにする必要があり、ここに共同体の祭器として銅鐸のまつりが最もふさわしいと考えられるのです。ベルは古くから神々を招き、願いを聞き届けるために重要な役割を果たす儀器であり、シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣と祖霊を崇め、ムラムラの発展を祈願する祭祀がとり行われたのでしょう。

弥生の社会が必要としたのは、王のリーダーシップだけではなく、むしろ重要視されたのが、人間の及ばない自然をコントロールすることです。

どれだけ優れたリーダーのもと、完璧な計画を立てて灌漑や作付けを行っても、収穫前に来る台風ひとつですべてが台無しになりかねない。彼らが自然を神に見立てて祈りに力を入れたのは、その自然だったのです。

展示されている青銅器は青っぽく錆びていますが、当時は黄金に輝いていました。金や銀はまだ使われていなかったため、初めて見る金属の輝きは現代人にとってのダイヤモンド以上にまぶしかったはずです。

三品彰英氏は佐原氏の地中保管説を受けて、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことであり、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻すもので、やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたと説明されています。
扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式

そして突線鈕式銅鐸の段階になると銅鐸は「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」という二つの大形銅鐸にまとまり、分布は畿内周辺部と東海地方へ移っていきます。弥生時代後期、畿内勢力は新しく大きな近畿式銅鐸によって、周辺地域と東海地方への連携施策を講じたものと推定されます。

実際に荒神谷や兵庫県立考古博物館のレプリカをたたいてきました。「コ~~ン」と響くいい音でした。

銅の特長

青銅(せいどう、bronze)は、銅Cu を主成分とし錫(スズ)Sn を含む合金のことで、銅と錫の鉱石は混在することから、メソポタミアでは紀元前3500年頃から銅に錫が混ざった青銅で道具を作るようになりました。青銅器はエジプト、中国(殷王朝)などでも使われるようになり、世界各地で青銅器文明が花ひらきました。加工しやすく表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぎ耐食性の高さなどから 古来貨幣の材料としても利用されてきました。

本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を持ち、その見た目から古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられています。添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるように純銅に近い赤銅色に、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じ緑青となります。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になるので、青銅器といいます。青銅には、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さや流動性があり、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されて普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属でした(青銅器時代)。

かつて緑青は、教科書や百科事典にも有毒や有害と記載され、間違って教育されてきた経緯があります。東京大学医学部衛生学教室の元教授・豊川行平氏は、「緑青のグリーンが毒々しく見えたから、いつのまにか毒だと信じ込んでしまったのではないでしょうか」と語っています。その長い歴史のなかで、緑青によって生命がおびやかされたことはありません。いたずらに恐れたり、心配する必要はないのです。人と銅との長い歴史がそれを証明しています。しかし、銅は生物の代謝が正常に行われるうえで必須の元素でヒト一人当たり100から150 mgの銅が含まれ主に骨や肝臓に存在しますが、同時に過剰供給されると、足尾銅山鉱毒事件に見られるように毒性を示します。

銅は他の金属に比べ抜群の導電率を持ちます。この特性からコードや電子機器に欠かせない部品として活躍しています。また熱伝導性にすぐれています。この特性は鍋などの調理道具やマグカップなどに生かされています。
銅管は、すぐれた抗菌力を発揮するので給水、給湯をはじめとして水道管にも利用されています。
たとえば、神於(こうの)銅鐸(大阪府岸和田市 弥生中期)を分析すると、銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%です。
これは合金を人為的に行ったのではなく、前出の通り自然界に銅と錫の鉱石は混在することから、そのまま鋳造したのでしょう。
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