縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していった。

なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範である。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準はない。

多神教の神には二つの顔があるのだ。ひとつは、人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神である。これは、良い神と悪い神の二種類が存在するということではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるという意味である。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身する。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しているのだ。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけで、おそらくこの辺りにも、「日本は異質だ」、といわれる特性の根本があるのだろうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのである。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものである。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なる。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがある。しかし、世界各地に仏教が広まった際に、土着の信仰との間に起こった摩擦だ。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていた。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていた。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っている。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にある。

縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』 著者: 武光誠氏などを参考にすれば、
縄文時代中期にあたる紀元前1000年ごろまでは、出雲の遺跡数は少ない。その時期の出雲は後進地帯であったと考えてよい。さて、吉備政権もヤマト朝廷も、九州北部の人びとが瀬戸内海を東進して作り出したものだ。ゆえに大和、吉備、北九州の勢力は、縄文文化との縁を絶ち切った上に生み出されたといえる。

しかし、古代にあっても現在にあっても、日本人の多くは間違いなく縄文時代の日本の住民の系譜を引いている。弥生時代に朝鮮半島や南方から渡ってきたのは、ひと握りの有力者であった。

出雲でより強く縄文的信仰の伝統を受けついだ大国主命信宏が生まれた。出雲の神は北九州の神やヤマト朝廷の神より、古代の庶民層の支持を受けやすいものであったといえる。それゆえに、大国主命信仰が九州から東国に至る各地で受け入れられることになった。古代にあってその広まりは、邪馬台国連合の信仰の系譜を引く宗像信仰、宇佐信仰やヤマト朝廷の天照大神信仰のそれよりはるかに勝っている。

分類

武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
精霊信仰は縄文人の信仰で、山・川・風・動物・植物など、あらゆる事象に精霊が宿るとする考えである。

自然物や自然現象を神格化した神

最も古い、自然物や自然現象を神格化した神。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになっていった。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになった。

祖霊信仰は、弥生時代中期に江南(中国長江以南)からもたらされたもので、亡くなった祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである。

そして、首長霊信仰は弥生時代のごく末に、ヤマト朝廷によってつくられた。それは、大王や大王に仕える首長たちの祖先の霊は 、庶民の霊よりはるかに強い力をもつとする信仰である。そこで、朝廷は民衆に自分の祖先を祀るとともに、王家の祖神の祭りに参加する事を命じるようになった。

古代の指導者・有力者の神格化

武光誠氏は、祖霊信仰は、ヤマト朝廷によってつくられたとしているが、これはくわしくいうとそうとは限らない。一族が祖先の霊を祀ることは、ヤマト朝廷が成立する以前からあった。もともと祀られていた各地域の首長を祀っていたので必ずしも天皇家を合祀していない神社の方が圧倒的に多いからだ。

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられている。

その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれる。

ヤマト朝廷が成立する以前から、さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。祖霊信仰と首長霊信仰を合わせたものとして、それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっていった。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていく。
主祭神の他に、時代によって祭神が増えていき、また摂社としてあらゆる祭神が祀られていく。

神政国家だった出雲政権

出雲が邪馬台国の卑弥呼の出現の約三十年前に出雲を統一できた…につては、出雲という土地の特殊性をつかむことによってその答えが明らかになると思われる。
首長霊信仰の発生が日本統一のきっかけになった。天皇家は、大和や河内の有力豪族の祖神を天皇家の祖神の下位に位置づける。それとともに地方豪族の祖神も朝廷がつくる神々を組織した秩序の中に組み込んでいく。

これによって、全国の首長は天皇家の祖神の保護下におかれることになった。そして、首長支配下の民衆は、首長霊を祀ることを通じて、その上にいる天皇家の祖神に従う。そのようなヤマト朝廷の支配のもとでは、天皇家への貢納物は、天皇家の祖神へのささげ物とされた。
ヤマト朝廷は武力で各地の首長を討って日本を統一したのではない。自家の祖神が日本列島の住民すべてを治めるべきだとする信仰上の動機によって、天皇家は地方豪族を次々に従えていった。

ならば、そのような首長霊信仰が生まれる前の邪馬台国や出雲の、小国に対する支配は、どのような名目でなされたものであろうか。
九州北部の小国は、古代ギリシャで栄えた城壁都市ポリスに近い交易国家であった。彼らは、遠距離の交易によって他地域から来る有益な物品を独占し、周辺の小国に分け与えることを通じて豊かな生活を享受することに満足し、領域を広げて統一国家になろうとする野望はもたない。

それゆえに、交易国家の段階では小国分立の状況になり、小国同士が相手の内政に干渉しない形がつくられる。したがって、国の統一の機運は生じない。九州北部の小国は、紀元前一世紀末にしきりに朝鮮半島北部にあった中国の植民地・楽浪郡と交易した。その段階で北九州に公益国家が芽生えたといえる。やがて、魏の洛陽に使者を通じて奴国が巨大化した。

しかし、出雲氏を中心とするまとまりは、交易のためにつくられたものではない。彼らは荒神谷での祭祀を通じてまとまった。ゆえに出雲政権を「神政国家」とよぶのがふさわしい。と記している。

大国主は出雲氏の祖神ではない

したがって、ヤマト朝廷以前の出雲の小国連合は、出雲氏の祖神であるアメノホヒノミコト(天穂日命)を、小国の首長たちの祖神と同列におく形をとった。そして、自家の祖神の上に新たに有力な神をつくりだした。出雲氏は祖神である天穂日命を重んじずに、大国主命の祭祀をその職務にした。これは、出雲氏が大国主命の祭祀により出雲の豪族をまとめたが、彼らの内政に関与しなかったことを意味する。出雲氏が、自家の祖神を配下の豪族に拝ませる形をとったなら、出雲の統一はこれほど早く行われなかったろう。

そのため、『出雲国風土記』に数多くの神の活躍がみられることになった。ヤマト朝廷の支配が強化される段階で、出雲の神のいくつかは中央の神統譜に組み込まれた。スサノオにはじまる系譜も、出雲氏がつくったものではなく、朝廷の指導のもとに形づくられていったものである。としている。

【出雲神政国家連合】 一宮にみる日本海勢力図

弥生時代に繁栄を支えた潟湖

山陰地方の古代に繁栄したところは、潟湖や湾であること、温泉があることが多いことに関心を持っていた。元同志社大学教授の森浩一氏は、環日本海地方は「潟」を中心として古代文化が栄えた、という説を述べています。

恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』によると、
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。
武光誠氏『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』には、
日本海航路が開けた理由は、次の二点に求められる。第一に日本海沿岸に、自然の地形のままで良港になる潟湖とよばれる砂州が多いことである。第二に対馬海流の存在である。

出雲周辺には、波根潟、神西湖、淀江潟の三つの潟湖がある。しかも、中海と宍道湖の中に安全な港がいくつもできる。そして神戸川、斐伊川、日野川をさかのぼることによって、出雲の海岸部と内陸部との交流がなされる(ちなみに斐伊川と日野川は「肥の川」であり、それは砂鉄が多いことを意味しているという)。
北九州の文化は、間をとばして真っ先に良港の多い出雲に入る。そして、東郷湖、湖山池と久美浜湾・浅茂川湖(離湖)・竹野湖の二か所の中継地を経て能登半島に達する。

(補足すれば、一宮との関連から、因幡と丹後の間の但馬は出石神社と円山川・津居山湾が、籠神社と宮津湾が、若狭彦神社と小浜湾、気比神宮と敦賀湾などもある。)
このような航路を通じて、出雲政権は越までの日本海沿岸をその指導下におくことになった。

航海技術の未発達な古代にあっては、海流に乗ることが効率よく船を進めることにつながった。日本海側の寒流であるリマン海流は海岸から遠いところを流れており、暖流である対馬海流は沿岸部にある。

そのため、日本海航路では南西から北東に行くのは容易であったが、北東から南西に進むのは手間がかかった。その結果、北九州から出雲に多くのものがもたらされ、されに対馬海流を利用して南方の文物も伝わった。

出雲に残る海蛇信仰は、南方の文化への憧れから来るものである。出雲大社には、神官が十月に、沖縄から対馬海流に乗ってきたセグロウミヘビを稲佐浜で捕らえて神前に奉る習慣が見られる。出雲の日御碕神社や佐太神社にも、セグロウミヘビを三方にのせて祀る神事が見られる。佐太神社では「あやしき光、海を照らす」という祝福を行う。

古くは出雲では海蛇だけでなく、南方から海路で伝わった異文化をすべて「あやしき光、海を照らす」と言って重んじた。美保神社には、島根半島に漂着した沖縄の漁具とフィリピンのくり船を収めた倉があるが、そこに「あやしき光、海を照らす」と書かれている。

海流を利用できる出雲には、海流のない瀬戸内海航路上にある吉備や大和より早く、北九州の先進文化が伝わったのだ、と記している。
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。

倭文神社の近くには、弥生人の脳がはじめて見つかった青谷上寺地遺跡がある。今でこそ平野になっているが、弥生時代には内陸まで海が入り込んだ良港だった。渡来人の技術者が様々な工芸品を作り出し、豊かな暮らしの村があったことが考古学の調査でわかっている。羽合温泉がある。

一宮(いちのみや)

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。準公的な一種の社格として機能した。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
1.原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。

2.祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。
3.全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。
必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに預かっている。

一宮の起源

江戸時代後期の国学者である伴信友は、天保8年(1837年)の著書 『神社思考』の中で、一宮を定めた事は信頼できる古書類には見えず、いつの時代に何の理由で定めたか詳しく分からないと前置きした上で次のように考察した。それによれば、『延喜式神名帳』が定められた後の時代に神祇官あるいは国司などより諸国の神社へ移送布告などを伝達する神社を予め各国に1社定め、国内諸社への伝達および諸社からの執達をその神社に行わせたのではないか。また、それらの神社は便宜にまかせ、あるいは時勢によるなどして定められた新式ではないか。以上のように考察しながらも、伴信友は自説に対して「なほよく尋考ふべし」と書き添えた。
現在、一宮の起源は国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある、とするのが通説になっている。

一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
二宮、三宮の起源も国司の神拝順とする説があるが、『時範記』に国内をぐるりと一周してくる国司神拝順路が記述されている因幡国では二宮が不詳である。それとは逆に九宮まである上野国では、地図上で一宮から九宮までを順番に線で結ぶと同じ道を行ったり来たりすることになり、『一宮ノオト』では国司神拝の順路として変ではないかと指摘している。通説では11世紀~12世紀にかけて成立したとされる。

■山陰道

出雲国 「出雲大社」「熊野大社」
出雲大社 島根県出雲市 名神大 官大 勅祭社 別表 主祭神 大国主大神
社家 千家・北島両家
本殿様式:大社造

まず日本海国家連合体を語るなら、ここからはじめなければならない。出雲大社は平安時代の『口遊(ずさみ)』は、巨大な様を「雲太、和二、京三」と形容していた。出雲大社が一番大きく、大和の東大寺大仏殿が二番目、京都へ案教の大極殿が三番目だったと伝えている。さらに本殿の高さは十八丈(約48m)とも、三十二丈(約97m)ともいい、このような巨大建造物が平安時代、しかも出雲にあるはずがないといわれていた。ところが近年、本殿近くから巨大神殿の三本柱が見つかったことで証明されたのである。

出雲大社(杵築大社)は、古代の有力豪族は、おおむね一族の祖神を祀っている。ところが、出雲氏の祖神である「天穂日命」を重んじずに大国主の祭祀を職務とした。
別ページに書いているので、詳細は省くが、出雲の一宮はオオクニヌシの「国譲り」神話にあるように、オオクニヌシが出雲大社(杵築大社)へ鎮まることを約束して出雲は平定したと伝える。ではどこからなのか。それはもう一つの一宮・熊野大社からとなるだろう。

熊野大社 島根県松江市 名神大 国大 別表
主祭神 熊野大神櫛御気野命
本殿様式:大社造

全国に熊野神社は多く、紀伊国の熊野三山が有名だが、この熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

『出雲国風土記』には熊野大社と記されていた。その後『延喜式神名帳』では熊野坐神社と記された。
祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。明治に入り、本来の形に復するとして祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」として素戔嗚尊の名を廃したが、後の神社明細帳では「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」となり、元に戻っている。

二宮 佐太神社 島根県松江市鹿島町 式内小社、国幣小社、別表
主祭神 正殿:佐太御子大神、北殿:天照大神、南殿:素盞嗚尊

石見国 「物部神社」

物部神社 島根県大田市 名神小社 国小 別表 主祭神 宇摩志麻遅命
社家 金子家
本殿様式:春日造変形
物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿の右座に物部氏祖神で主祭神の父神である饒速日命と所有していた剣の霊神である布都霊神、左座に天御中主大神と天照皇大神、客座に別天津神と見られる五神と鎮魂八神を祀る。
宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。
社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという。戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
石見銀山(大田市)に近い。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山(火山)は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場する。 国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。 『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。

隠岐国 「水若酢神社」「由良比女神社」

水若酢神社 島根県隠岐郡隠岐の島町 名神 国中 別表
本殿様式:隠岐造茅葺
祭神 水若酢命
由良比女神社 島根県隠岐郡西ノ島町 名神 村社 主祭神 主祭神 由良比女命

名前に残る織物技術 伯耆一宮「倭文(しとり)神社」

倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町 名神小社 国小 別表
祭神 タケハズチ

安産の神として有名な倭文神社は、美しい東郷湖を見下ろす山の中にひっそりとある。
祭神のタケハズチは、古代にこの地方の主産業だった「倭文(しずおり)」という織物技術を持っていた一族の祖先神なのだが、むしろ妻の祭神シタテル姫の方が隅々まで浸透している。

伝承によれば、シタテル姫は出雲のオオクニヌシの娘で、海を伝ってこの地に嫁入りした(山陰海岸の孤立集落では、隣の集落から船で行き来することは、つい戦前まで続いていた)。助産婦のような技術を持った女性だったのだろう。そのまま定住して死ぬまで多くの子どもを取り上げた。地場産業の織物は消えて、安産の信仰だけが残ったという。

このことは、倭文の祭神が実は女神であるシタテル姫そのものだった可能性を示している。古代には男系継承だけでなく女系継承する豪族がいたことがわかっている。天皇家の祖先神・アマテラス(天照大神)が女神であったように、始祖が女性であるのは一般的なことだった。何より織物の技術を持つのは女性であることが多い。

二宮 大神山神社 主祭神 大己貴命 名神小社・伯耆国二宮・国幣小社・別表神社
(本社)鳥取県米子市尾高1025
(奥宮)鳥取県西伯郡大山町大山

蘇我氏を鎮める因幡一宮「宇部神社」

宇倍神社 鳥取県鳥取市国府町 名神大 国中 別表
タケノウチスクネ(武内宿祢)を祀る。
本殿様式:三間社流造檜皮吹

神功皇后は、夫の仲哀天皇の喪に服してから、タケノウチスクネを従え住吉の三神を守り神として新羅征伐に行った。この遠征の帰途に生まれたのが応神天皇だ。この苦難を乗り越えた母子をさせた、端午の節句「こどもの日」に掲げる幟には、応神天皇を抱くタケノウチスクネが描かれるのが定番である。それゆえに子どもを守る神でもある。上り昔の五円札には、タケノウチスクネの肖像画と宇部神社の本殿が描かれていたそうである。当時の五円札は家が建つほどの高額紙幣だった。ここから商売繁盛の神としての性格も加わるようになった。

山陰地方の東端である因幡にタケノウチスクネが祀られているのは、じつは大化改新で滅ぼされた蘇我氏の先祖がタケノウチスクネなのだ。蘇我氏が政治の表舞台で活躍するきっかけとなったのは、出雲を制圧した功績とも言われている。

山陰地方の中心には出雲があり、その東には因幡と伯耆が、反対の西には石見(島根県)がある。歴史・考古学的に見ると、どうやら六世紀ころに蘇我氏の勢力が東から、ライバルの物部氏が西から出雲をめざして争っていたことが読みとれる。それを裏付けるように、因幡一の宮の神は蘇我氏であり、一方の石見一の宮は「物部神社」なのである。こうしてみると大化改新の三年後に宇部神社が創建されたのも、蘇我氏を鎮魂するという深い理由がありそうだ。

二つの但馬国一宮 「出石(いずし)神社」「粟鹿(あわが)神社」

出石神社 兵庫県豊岡市出石町 名神大  国中 別表 主祭神 天日槍命(あめのひぼこのもこと)、出石八前大神
本殿様式:三間社流造
社家 長尾家

粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町 名神大  県社 本殿様式:流造
主祭神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)あるいは 日子坐王
但馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。粟鹿神社の近くに但馬最大の前方後円墳 池田古墳や円墳など大きな古墳が多い。鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。出石を本拠とした応仁の乱西軍大将・山名宗全が関係しているのだろうか?)

三宮 水谷神社/養父神社

天皇家よりも古い系図国宝「海部系図」の丹後国 
「元伊勢 籠(この)神社」

丹後国一宮 籠神社 京都府宮津市 名神大 国中 別表 本殿様式:神明造
主祭神 彦火明命(ほあかりのみこと)
社家 海部家

彦火明命(ひこほあかりのみこと、別名:天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命)を主祭神とし、豊受大神(とようけのおおかみ、別名:御饌津神)、天照大神(あまてらすおおかみ)、海神(わたつみのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)を相殿に祀る。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊(いざなぎ)としている。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためである。

社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮(当社と比定)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。したがって、天皇家の菊の御紋が掲げられているのは、山陰では出雲大社と当神社。

二宮 大宮売神社 名神大 府社 京都府京丹後市大宮町
日本海側の丹後国は丹波国の中心であったが、のち丹波国は丹波国・但馬国・丹後国に分立
■北陸道
若狭国 若狭彦神社 福井県小浜市 上社 名神大  国中 別表 本殿様式:三間社流造
二宮 下社 若狭姫神社 名神大 本殿様式:三間社流造
主祭神 (若狭彦神社)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
(若狭姫神社)豊玉姫命(トヨタマヒメノモコト)
越前国 氣比神宮 福井県敦賀市 名神大 官大 別表 主祭神 伊奢沙別命(気比大神)  二宮 劔神社
加賀国 白山比咩神社 石川県白山市 名神小社 国中 別表 主祭神 白山比咩大神(白山比咩神)
伊邪那岐尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ) 二宮 菅生石部神社
能登国 気多大社 石川県羽咋市 名神大 国大 単立 主祭神 大己貴命
二宮 伊須流岐比古神社/天日陰比咩神社
越前国から、のちの加賀国、能登国は分立
引用:恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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【出雲神政国家連合】 山陰の弥生時代を塗り替えた鳥取県の歴史

『「出雲抹殺」の謎』関裕二氏

近年、考古学史上の最大級の発見が相次いだ。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)や三内丸山遺跡(青森県)などがよく知られている。だが、日本海側の出雲では西谷古墳群についで、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡などの大発見は、古代出雲王国が実在した可能性を浴びているが、鳥取県でも二つの遺跡、青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町青谷)と妻木晩田遺跡(米子市淀江町・大山町)の発見も同等かあるいはそれ以上の意味を持っている。

二つの遺跡は、これまでの古代史観を根底から覆すほどの意味を持っていた。二つの遺跡共に日本海に面し、天然の良港を持ち、朝鮮半島から出雲、そして越へという流通の要にあったこと、邪馬台国や大和建国の直前、弥生時代後期に繁栄を誇っていたことである。これらの遺跡は、弥生後期の山陰地方の交流が、「出雲」という点から、日本海づたいに「線」でつながっていたことを今に伝えている。

さらには、青谷上寺地遺跡から大量の傷ついた遺骸(殺傷人骨)が出土し、しかもこれが、『魏志』倭人伝などに記される「倭国乱」の時代にあたることがわかった。つまり、鳥取県周辺で何かしらの争乱が起きていた可能性が出てきたのである。
鳥取県は、これまで古代史の空白地帯といっても過言ではなかった。

大仙の麓に位置する妻木晩田遺跡はとにかく広大である。邪馬台国ではないかと一時騒がれた佐賀県の環濠集落・吉野ヶ里遺跡の1.3倍という日本最大の弥生集落である。標高100~150mの丘陵地帯全体に、ありとあらゆる遺跡が散らばっている。眼下には、かつて日本海から潟が入り込んだ地形が広がっていた。つまりこの地も、交易を主体とした可能性が強いのである。そして妻木晩田遺跡でも青谷上寺地遺跡同様、200点以上という大量の鉄器が発見されている。

鉄器は農具や工具が中心で、朝鮮半島や北部九州のものや、この地でつくられたものが混じっていた。これほどの鉄器を保有し生産していた地域は、この当時、北部九州を除いて考えられず、山陰地方の特殊性を明らかにする遺跡となったのである。

島根県の西谷墳墓群、そして鳥取県の両遺跡の出現は、ひとつの事実を示している。三つの遺跡が、これまで「なにもない」と信じ込まれてきた出雲やその周辺の地域から出てきたこと、そして繁栄の時期が弥生後期の「倭国乱」の時代と重なっていたことである。

大和建国の前夜、「出雲」は、たしかに「そこにあった」のであり、記紀神話を単純な絵空事と切り捨てるのではなく、その裏に、何かしらの史実が隠されていたのではないかという好奇心を、もう一度もつ必要があるということである。

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但馬に式内社が異常に多い謎は日本海の防衛基地だった

式内社(延喜式神名帳記載の神社)が多い但馬で触れたように、但馬国は式内社の数が、畿内ではないし、他の旧国と比べて決して面積的にみても特別大きいといえないにも関わらず、式内社の数が大和・伊勢・出雲や近江に次いで、131座で全国で5番めと異常に多いのである。

さて、なぜ延喜式神名帳が重要なのか。「式」とは、天皇の命により編纂された格式(律令の施行細則)で、弘仁式は、701年(大宝元年)から819年(弘仁10年)、次の貞観式は871年(貞観13)完成。そして延喜式は、平安時代中期の905年(延喜5年)に編纂され、三代格式の一つである。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。つまり、延喜式の前の二つの格式を引き継いでさらに改編していると考えられるから、八世紀(奈良期)の神社の位置づけが判る。

式内社は当時朝廷が認定した官社・国社で、日本の律令制下において、地方の要として重要視された神社であることを示している。但馬国は131座(名神大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも名神大社の位の神社数は大和に次いで多い。名神(みょうじん)大社というのは、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。名神は神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、名神祭(みょうじんさい)は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。

旧丹波として丹波・丹後を合わせると267座・大30座。
大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲國:187座 大2 小185
近江國:155座 大13 小142
但馬國:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118
このことが朝廷から見て消し去ることのできない重要な場所であったのではないかと思えるのだ。それは関裕二氏の神と鬼から、天皇家が神であり、多くの豪族を鬼として抹殺した祟りを恐れていたことに他ならないのではないだろうか。
しかも但馬国は近隣で比べてみても、
但馬國:131座 大18 小113
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43
となっていて異常な数なのだ。
但馬が決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかった。平安京の近くばかりと思わなくもないが、22年の歳月を掛けて全国の神社を調べている。しかも延喜式は三大格式の初期から260年も経て編纂されたのが三代格式で、その最後のものが延喜式であり、唯一ほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけである。
それは大和朝廷が確立したころは、その勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国もかつての丹波国の一部ですから、旧丹波国を合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位なのだ。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い自然神・出雲系などの神社を、どうしても無視できなかったのではないか、大和・伊勢は天皇家の本拠であり当然だろうけれども、その他の但馬、丹後、越前、近江などは出雲系神社が多い。しかもそれは神功皇后と天日槍=ツヌガアラシトにゆかりがある国ばかりである。
記紀は、天日槍の末裔とされる神功皇后から、実際の初代大王とされる崇神天皇、その子の垂仁天皇の時代になると但馬や丹後の記載が圧倒的に多くなる。
武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
但馬国も縄文時代のから弥生、そして天皇家のヤマト朝廷になって以降の三段階があるとする。
まず精霊信仰である神奈備(神鍋山)の自然神が祀られている神名大社は気多郡四社と城崎に海神社一社
次の時代の祖霊信仰である物部系出雲系神社が先であり一宮が二つあるが、粟鹿神社が先にあった。
だとすると、天日槍の出石神社は、天皇家の首長霊信仰となる。

縄文時代-精霊信仰

死火山神鍋山を神奈備とする自然神が祀られている神名大社は、気多郡(日高町)四社「山神社」「雷神社」薬の神「椒神社」火之神「戸神社」と城崎(豊岡市港地区)に「海神社」一社。

弥生時代-祖霊信仰

・弥生時代 出雲神政国家連合
秦漢から半島や北部九州に渡来人が移住してきて、稲作と青銅器、祖神を祀る人間神信仰をもたらした。
縄文人と渡来人は融和しながら弥生人が形成される。
ニギハヤヒ、オオナムチなど出雲系・物部系が日本海や朝鮮半島との交易と越(北陸)までに住み着いていった。
古社である粟鹿(日下部)、養父、小田井神社は、沼地だった但馬を開削したとしている。

ヤマト王権時代-兵主信仰

ヤマト政権が誕生する有史以前に、出雲系物部一族の吉備・山陰・丹後・若狭・北陸の出雲神政国家連合の祖、ニギハヤヒが大和に東征した。一族は纏向宮を建て諸国は連合体の日本を建国した。
但馬及び丹後が重要なポジションに位置していたのではないか。ヤマトに穴師兵主神社を建て、天日槍を祀る出石神社、崇神・垂仁両天皇との関わりが濃密になっていたことが『日本書紀』の記述から伺えます。
記紀では但馬を開削したのは天日槍となった。銅鐸は埋められ粉々にして放棄された。気比銅鐸、久田谷銅鐸片
ヒボコ系神社や兵主神社が但馬に集中して造られた。
天日槍系および兵主神社はすべて式内社であるから、延喜式以前には古社として確固たる神社であったことは間違いない。各郡に1社という割で、交通の要所に均等に配置されたのではないだろうか。

大和朝廷国家統一-丹後籠神社が元伊勢へ 伊勢神宮遷宮

丹波國から但馬國が分立。それは、朝鮮半島との玄関口が、都に近い但馬に移り、また出雲神政国家連合勢力への抑えから大和の都に近い但馬・丹後に必然的に要衝として重要視されていたからではないか。
但馬国造に日下部氏、社家に長尾市、丹後国造と社家に海部氏 ?
大宝律令発せられる。
丹波國から丹後國分立。
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1. 渡来人は日本を征服したのか?

天孫降臨の謎: 『日本書紀』が封印した真実の歴史 著者: 関裕二

めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を1とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは2~3に上っていたと考えれている。この数字を見れば、渡来人が先住民を圧倒したと考えるのは当然である。

そして第二に、『古事記』や『日本書紀』に記された天孫降臨神話が、大きな意味を持っているように思われる。天孫降臨からカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦=神武天皇)の東征というヤマト建国に至る神話は、まさに、「海外からの侵略」を想像させるからである。

ところで、小山修三氏は遺跡の数などから先史時代の人口を試算し、縄文後期の日本列島全体の縄文人が16万3百であり、晩期に75,800に激減したこと、しかも弥生時代になると59万4900と爆発的に増加したことを指摘している。このこともあって、渡来人が土着の縄文人を駆逐したと信じられてきたわけである。
たしかに、単純にこの数字を追っていけば、縄文人は弥生時代の到来とともに、「滅亡」に近いほどの打撃を受けたかのように思えてくる。それを征服と呼ぶのも間違っていないかのようだ。しかし、ここには落とし穴があると思われる。

はたして渡来人は日本を征服したのか?

縄文晩期から弥生時代にかけて、縄文人と渡来人の接点では、しばしば縄文人による呪術的な土器が生産されている。魔よけのまじないをしていたようだ。では、彼らは何を恐れていたのだろう。

渡来人が恐ろしかったことが一つ考えられる。それは、渡来人の武力に対する恐怖だったのだろうか。しかし、武力には目に見える恐ろしさである。それには矢じりなどを作れば良かったはずである。縄文人が恐れたのは、目に見えない「なにか」であり、その正体は「病魔」ではなかろうか。

島国のなかで無菌状態のなかにあった縄文社会に、突如新たな病原菌やウイルスが持ち込まれ、抵抗力のない人々が次々に倒れていった……それが縄文晩期から弥生初期の日本列島の姿ではなかったか。
古代人は悪霊が病気を運んでくると信じていた。渡来人の到来とともに、病魔が襲ってきたのである。縄文人たちは必至に悪霊を退散させようと呪術を施したに違いないのである。ただ、病原菌やウイルスは宿主を全滅させることはない。病魔に屈しなかった人々は、ここから活発に動き出し、人口はふたたび回復基調に戻るのである。また、縄文後期の日本列島は寒冷化の時期に当たり、食糧不足も手伝っていたであろう。これに対し、弥生時代の日本列島は温暖な気候に恵まれていたのである。

崎山理氏は、縄文人といっても単一の民族ではなく、北方系のツングース語に、南方系のオーストロネシア語が日本列島のなかで重なって「縄文語」が成立し、これが日本語になった、というのである。縄文期と弥生期の遺伝子の比率を見れば、渡来人の圧倒的な優位を想像しがちだが、渡来人たちは徐々に同化していったのであり、だからこそ、縄文人のつくり上げた「日本語」は、今日に継承されていったと考えられるわけである。
『日本書紀』のなかで「神武東征」と華々しく描かれたヤマト建国も、実際には征服劇ではなかったことは、考古学的にほぼ立証されている。ヤマトは、ひとりの独裁者の征服劇によって成立したのではなく、いくつもの首長層の緩やかな連合体であった可能性は高くなる一方なのだ。

三世紀のヤマトには、前代未聞の政治と宗教の都市・纏向(まきむく)も前方後円墳も、どちらも吉備、出雲、北部九州、ヤマトという当時の巨大化した勢力圏のそれぞれの文化を持ち寄った代物だった可能性が高く、そのなかで吉備が優位性を保っていたようだが、唯一突出した存在というものがなかった。したがって、三世紀のヤマトの「大王」は、征服者でも独裁王でもなかったと考えられるようになったのである。
今だに指示されている王朝交替説は、五世紀頃、ヤマトから河内(大阪府)方面に王朝が移ったことが根拠のひとつにあげられている。三世紀の時点でヤマトが都に選ばれたのは、ヤマトが大阪方面を望む盆地で、天然の要害だったからである。河内の利点は、古代の交通の要衝・瀬戸内海に接し、流通と情報収集の拠点として最適だった、ということになろう。だからこそ、ヤマトから河内の都を遷すことに大きな意味があった。
もし仮に、多くの人が信じるように、五世紀に「河内王朝」が武力をもって「ヤマト王朝」を倒したのだとすれば、新たな政権は、都を河内に移すようなことはしなかっただろう。旧政権の遺民がヤマトで反旗ののろしを上げれば、河内王朝は太刀打ちできなかったはずである。それほど、ヤマトは西からの攻撃に強いのである。河内への王朝の移動は、「新王朝樹立の証」ではなく、ヤマト王朝の安定と発展の証に過ぎないのである。
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韓国神社の古名は物部神社

人皇15代神功皇后二年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が亡くなった。その子・物部多遅麻連公武が多遅麻国造となった。


式内 氣比神社(豊岡市気比)

豊岡市気比。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、同じ気比の松原で知られる福井県敦賀市にある気比神宮「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

気比銅鐸

(写真 東京国立博物館)

福井県敦賀市の越前國一宮気比神宮と美しい気比の松原。豊岡市気比にも同じ気比神社(五十狹沙別命・豊岡市気比)と海水浴場で知られる気比ノ浜があってよく似ている。気比の南から、1912年(大正元年)、但馬では唯一の完形の銅鐸4個が発見された。

1996年(平成8年)、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町岩倉)で日本最多の39口ものおびただしい銅鐸が見つかった。出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、気比銅鐸と同じ鋳型で作ったと思われる兄弟銅鐸が含まれていたのである。出土した銅鐸にはその他にも同笵関係(同じ鋳型で製作された銅鐸)も各地で確認されていることから、各朝廷と出雲、あるいは朝廷と但馬とのつながりが濃いもので、出土地との関連を含めた今後の研究が待たれる。

この地域はかつては田結(たい)荘という村で、田結は気比から北の円山川河口にある日本海の漁村。話が逸れるので触れないが、山名四天王の一人田結庄氏の出生地でもある。舞鶴にも宮津にも田井という地名があり、いずれも同じように日本海に面した漁村で、渡来人が上陸した雰囲気がある。

気比から南に気比川に沿って丹後久美浜へ抜ける三原峠に向かう県道11号をさらに南に行くと畑上という集落がある。この区の氏神様は物部韓國連神津主命を祭神とする重浪神社が、また飯谷峠という峠を越えた反対側に円山川に近い飯谷(はんだに)という集落がある。この区には物部韓国連真鳥、物部韓国連渚鳥を祭神とする物部韓国神社がある。「震旦国明神」と呼ばれていたという。

韓国神社は韓国人にゆかりがあるのではない

飯谷(ハンダニ)という地名と韓国神社から、朝鮮からの渡来人ゆかりがあるのではないかと想像する人もいるのではないかと思う。私もその一人だったからである。

実はその逆で、社伝によると、武烈天皇の命を受けて韓國からくに(朝鮮)へ派遣された物部眞鳥(まとり)が但馬の水戸(楽々浦)に着き、都へ報告に上った。その功績によって、韓國連を賜わり、以後、物部韓國連眞鳥と称した。

眞鳥の子・渚鳥(すとり)は欽明天皇の頃、城崎郡司(郡の最高者)となり飯谷付近を開墾した。
渚鳥は、名を墾麿(はりまろ)と改め、地名を墾谷(はりだに)とし、墾谷が針谷となり訛って現在の飯谷となったという。

墾麿(渚鳥)は、墾谷の丘に父・眞鳥を祀り、韓國神社と称したという。

まったく同じ記述が、『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記にある。

第29代欽明天皇の25年(564) オオメフ(物部連大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿を城崎郡司とする。
物部韓国連は、武烈天皇の勅を奉じて韓国に遣わされ、天皇にご報告申し上げた日、姓、物部韓国連をいただく。榛麿はその子なり。
韓国連榛麿は針谷を開き、住処と為す。故に榛谷と云う。物部神社という。

第33代推古天皇の35年(627)冬12月 物部韓国連榛麿の子、神津主を城崎郡司と為す。神津主は物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

第39代天武天皇白凰3年(674)夏6月 物部韓国連神津主の子、久々比命を城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(式内重浪神社:豊岡市畑上)

しかし低い峠を越えると畑上集落があることから、秦谷(はただに)が訛ったのではないかという推察もしたが、針谷、榛谷、墾谷が気多・城崎県主オオメフ(大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿が開墾したので物部韓国神社である。

さて、平成の合併前には、氣比神社のある港地区は豊岡市で、重浪神社のある飯谷は旧城崎町であったが、『但馬郷名記抄』に、余部郷 墾谷・機紙(今の畑上)・御原(今の三原)とあるので、田結郷である北の気比、南の赤石以南とは異なる郷だった。余部郷とは50に満たない集落をいう。江戸時代までは、豊岡市市街地北部の円山川と両岸一帯、江野からの大浜川流域、田鶴野小学校区から城崎温泉・津居山・気比までは、同じ城崎郡田結(たい)郷だった。

震旦とは

韓国神社の石碑に「震旦国明神」とある。「震旦国明神」の震旦国とはどこなのだろう。

震旦国とは支那の当て字である。インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ”China staana”」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。付近のケゴヤ古墳から金箔が検出された。渡来人にかかわる古墳であろうといわれている。韓国とは当時「からのくに」のことで外国である中国大陸の一部を意味する。今の韓国(Korea)のようなものではない。あるいは朝鮮半島まで秦国の一部としてそこに渡った。

「記紀」が編纂されたのは、そうした天日槍の伝承以降の奈良時代(712年・720年)のことだ。少なくとも古墳時代が3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までとされるから、天日槍や崇神・応神天皇などの記載については400年から100年前の伝承の記憶である。倭人が半島から北部九州にかけて文化圏を築いていた馬韓・弁韓・辰韓・対馬・壱岐・北部九州は、すでにない。弥生時代には国家もないし、南西部の百済の元となる馬韓は朝鮮民族の濃い所だそうだがそれ以外の、弁韓(伽耶)・辰韓(新羅)は朝鮮民族が多くは暮らしていない土地だったと思われる。馬韓に渡った秦から逃れた人びと(中国人)を東へ住めといって追い出している記述がある。中国から移住した人びとの村を、韓国人だと言う意味もない。伽耶が鉄資源に恵まれていることを知ったのはそうした秦・漢人だ。だから最初に日本に渡来したのは朝鮮半島だとする意味はないと思う。そこにあったのは、秦・漢の文化だからだ。

日本でも邪馬台国が、そういう意味で倭人のクニの連合体であり、天日槍は新羅国の王子ではないばかりか倭人であり、今の韓国人ではないことは確かだ。また、天日槍は個人ではなく、新羅から倭国へ里帰りしたテクノクラート(技術集団)である。

日本は最初に朝鮮半島から文化の影響を受けたというよりも、秦(中国)から逃れた人びとが日本列島や半島南部に渡来・漂流して倭人圏をつくったと思う方が理解できる。それは元々朝鮮人ではないのだ。徐福伝承が佐賀や丹後などに残って浦島太郎伝説になったように、兵主は秦の信仰であるように、天日槍は元々江南から朝鮮半島南部に移住した中国人の子孫である。そして同じ北部九州などの倭人であろう。

要するに、「韓国神社」という社号から、韓国朝鮮にゆかりがある神社で、渡来人の神社だと思われがちだが、韓の国へ使いとして功績のあった物部連眞鳥が韓国連という姓を賜ったかれであって、むしろ倭(日本)から韓国に使者である。逆である。

物部氏の謎2.鬼と童子の関係とは?

天皇で“神”の名がついた天皇と皇后が4人存在する。神武・神功・崇神・応神。そのことはすでに触れたので割愛するが、いずれも平安期に記紀の内容から名付けられた名前であり、当時には深い意味はないと思う。
消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史 著者: 関裕二

鬼(天皇)が神(出雲)を征伐し、神(天皇)が鬼(出雲)を祀る。まったく矛盾するかに見えるこのような現象が顕著なかたちで表されるているのが、昔話に現れる“鬼退治”説話である。
英雄による鬼退治、これが昔話の主題と思われがちだが、裏側には、鬼による鬼退治という秘密が隠されていたのである。

たとえば、桃太郎、一寸法師、酒呑童子(しゅてんどうじ)といった有名な説話のなかで、鬼を退治する英雄か、あるいはその家来のなかに、必ず童子(子ども、または子どもの身なりをした人)が含まれていることに気づかされるはずだ。
一寸法師は身丈が一寸(約3.3cm)の子ども、桃太郎は巨大な桃から生まれた小さな子、酒呑童子は討たれる側の鬼だが、征伐軍のなかにはまさかりをかついだ金太郎が入っていた。
是等の話がおとぎ話であるため、子どもに面白おかしく聞かせるために主人公たちを子どもにしたと考えるのは間違いで、じつは“童子”といえば、鬼そのものをさす場合が少なくないのである。
(中略)

出雲神には、荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)という両面性があって、前者が天皇家に祟りをもたらす神であるのに対し、後者は天皇家を守る神とされている。
この神の両面性は、神と鬼の両面性でもあるが、人間にもこの両面性があって、童子が若く生命力の溢れた荒魂であるのに対し、翁(おきな)は穏やかな和魂と考えられていた。
たとえば、ヤマトタケルはクマソ退治、東国征伐と縦横無尽の働きをするが、そのきっかけは父・景行天皇にとって手に負えぬ乱暴者であったために、宮中から外に出されたといういきさつがあった。ヤマトタケルも童子で鬼だったのである。『古事記』には、クマソを討つに際して女装してだまし討ちをしたことはよく知られてるが、童女となったとあるのは、ヤマトタケルがクマソという鬼を退治するために鬼と化したことを証明している。

■天皇と鬼

鬼退治の英雄が鬼であったことがわかり、また、この鬼を差し向けた天皇も、やはり鬼であったことになる。つまり、権力側にいようと、またその逆の立場にいようと、一般の人々から見て人を越える力を発揮するものは鬼と見なされたということなのだ。

大和岩雄氏は、『鬼と天皇』(白水社)のなかで、天皇と鬼の関係について三つの例を引いて述べている。
一、天皇に対する存在、『まつろわぬもの』としての蝦夷(えみし)や酒呑童子のような鬼
二、鬼を討つ側の天皇権力としての鬼
三、天皇権力の側にいたものが権力から追放されてなる鬼

一は権力に対立する鬼で、周辺、辺境の存在である。二は権力としての見える鬼である。この権力から追放され、周辺、辺境の存在になった者が、死後、見えない鬼(怨霊)となって二の鬼に祟るのが、三の鬼である。
このように天皇と鬼は、一見、対立関係にあるようにみえるが、一つの実体の表と裏の関係にある」
じつは大和氏が指摘するように、鬼と天皇が表裏一体の関係にあったことこそ、天皇家が今日に続いた最大の理由であったのではないかとするのが、近年いわれている説である。
(中略)
権力者がいかに天皇家を煙たく思っても、この神の一族の背後には、“無縁”の人々というとらえどころのない鬼、闇の世界が控えていたのである。したがって、天皇を倒すにはまず裏社会を壊滅させる必要があり、となれば、目に見えぬ敵を相手に戦をするような事態に陥り、収拾のつかない羽目に陥るのは必定であった(ちなみに、この闇の社会をつぶしにかかった人物は、歴史上、織田信長一人と考えられる)。
逆に被支配者“無縁”の人々から見れば、みずからの自由な活動が、“天皇”という権威を根拠にしているのだから、彼らにとって“天皇”は、かけがえのない存在なのであった。

したがって、彼らがすすんで天皇をつぶそうなどと考えるはずがなく、日本に市民革命という一神教的で独裁的な“正義”がなかったのは、あるいはこのような経緯が背景にあったからかも知れない。
いわば、“天皇”というシステムは、鏡に映した三権であり、また支配のベクトル(方向性)が天皇から始まり、一巡して天皇に戻ってくるという循環する王権システムでもあったといえよう。
つまり、日本の不思議さが“天皇”という現象に凝縮されているのは、日本の支配者がいったい誰であったのか、探れば探るほどわからなくなってくるためであった。それは天皇なのか、時の権力者なのか、あるいは無縁の人々、鬼であったのか-。

そして、このような図式はいったい、いつごろからはじまったのであろうか。
その答えの鍵を握る者こそ、八世紀に鬼のレッテルを貼られた“モノ”の一族物部氏なのだが、

【出雲神政国家連合】 物部氏の謎1.幻の神政国家“出雲”

物部氏の謎

神武東征の謎: 「出雲神話」の裏に隠された真相 著者: 関裕二

幻の神政国家“出雲”三百九十九社の三つの時期
399社のうちの184社が、神祇官の神社台帳に登録された政府公認の神社であったことを意味する。そのような政府公認の神社は、「式内社」とよばれる。それは、延長五(927)年に完成された『延喜式』の中の、神祇官に関する規定に盛り込まれた「神名帳(じんみょうちょう)」に登録されたことに基づく名称である。

出雲国の式内社の数は、大和国の286座、伊勢国の253座についで多い。しかし、大和朝廷の本拠である大和や伊勢神宮のある伊勢では、大部分の神社が官社とされていた。

そのことからみて、官社以外のものを含めた神社の数では、出雲国が日本一であったと考えられる。さらに、出雲では『出雲国風土記』にみえない山川海野の神々が祀られていた。天武ニ(673)年に語猪麿の娘がサメに殺された話がある。このとき猪麿は、

「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地祀(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国に鎮まります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」

に娘の仇を討ってくれるように祈ったとある。前に掲げた出雲の399社の神社のほかに、海に関する出来事について、人々を守る多くの海の神ワタツミがいるとされたのだ。

399社という神社の数は重要である。それは荒神谷で発見された銅剣の数358と同じ意味をもつもので、ある時期の出雲の首長の総数を示すものだ。それらの神社の数は多彩である。出雲神話に出てくる神、そうでない土着的神々、大和朝廷がつくった高天原神話に登場する神などがいる。さらに、渡来系の韓神(からかみ)もみられる。
そして、そのような神々のあり方を整理すると、それらが三つの段階を経て展開していることが明らかになる。

鶴丸英雄氏は、
1.国津神の大物主命
2.天津神のオオナムチ(大己貴)
3.天津神の少彦名(天皇家)

1番目の大物主
増す名前から原始宗教の「物には神が宿る」思想に基づき、「物」の前後に「大」と「主」をつけていることから、明らかに国津神を想像します。そして天津神の崇神天皇に祟ったことからも、明らかに国津神です。では大物主の正体は誰でしょうか。単純に考えれば、この地で不幸な死に方をした人になり、それは神話からいえばニギハヤヒに殺されたナガスネビコになります。

2番目のオオナムチ(大己貴)
この神はオオクニヌシ(大国主)と同一神といわれています。
『消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史』 著者: 関裕二
大和最大の聖地・三輪山の大神神社の祭神は大物主神である。大和朝廷の最大の聖地が出雲神なのだ。
出雲神が鬼であったことは、いくつかの例から割り出すことができる。
たとえば、出雲を代表する神の一人、大物主神は葦原醜男(あしはらしこお)ともよばれ、この二つの名の中に、“鬼”を示す言葉が隠されている。

鬼が“オニ”と訓じられるようになったのは平安朝以降で、それまでは鬼は“モノ”“シコ”“カミ”と訓じられていた。したがって、大物主神の“モノ”、葦原醜男の醜“シコ”は、鬼そのものであった可能性が高いのである。西郷信綱氏はこの「しこを」について、彼を鬼類・魔性のものと見なしていたためで、たんに醜い男ということではない。(『古事記注釈』)と述べている。
大和最大の聖地・三輪山の神は、蛇とも雷ともいわれ、大物主神と同体とされるが、雷といえば虎のパンツをはいて太鼓を打ち鳴らす典型的な鬼の姿を思い浮かべるように、古代、雷は祟りをもたらす鬼として恐れられていた。

したがって、三輪の雷神・大国主神は、鬼であったことになる。
さらに、『日本書紀』も、出雲神が鬼であったことを認めている。
出雲神話は、高天原から追放されたスサノオが国津神と同化し出雲を建国した話や、この出雲を天照大神ら天津神が譲り渡しを強要した話から成り立っているが、ここで『日本書紀』は、天津神の言葉として、地上界には“邪(あ)しき神”がいて、この神々は同時に“邪しき鬼”であったとしている。

このとき地上にいた神は出雲神であり、彼らが鬼と見なされていたことは間違いない。鬼はまつろわず(祭らず)征服される者。だから天津神に征服された出雲神が鬼であったことは、まったく矛盾しない。問題は、その後の天皇家の生き様である。

悪の代名詞“鬼”を懲らしめたあとに、なぜ天皇家は過剰ともいえるほどの畏敬の念を、この鬼どもに持つ続けたのであろうか。しかも、この鬼を建国の記念に祀っているのは何故だろう。
一つの推理として、出雲の怨霊を恐れ、これを祀ったのではないかと考えることができる。
“出雲”は実在しないと一般にいわれるが、たとえそうであっても、天皇家が大和に王朝を開くに当たっては、少なからず手を汚し、まつろわぬ者どもを退治したはずだ。

権力を握った者が、その過程で滅びた者たちの遺恨を恐れ、これを祀るのは世の常であろう。とするならば、天皇家の出雲重視は、滅び去った者の名を正史にとどめることができず、“出雲”という架空の存在に見立てて祀ったと推理することも可能なのである。

大和岩雄氏は、「大国主神の名前の変化に注目している。大国主は記・紀では大穴牟遅(おほなむぢ)神とも名乗るが、「根の国」(中略)に行ったとたん、この大穴牟遅の名は葦原色許男に変わっている。根の国には黄泉の国のイメージがあり、(中略)この国から逃げて黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜け出ると、大国主に名を変えている。

大国主神は、黄泉国にいるときにのみ「しこを」を名乗っており、「しこめ」は「黄泉(よも)」がつくように、黄泉国にいる「しこめ」である。いずれも「しこ」は死の国にかかわっている。
「しこ」の漢字表記に「鬼」を用いたのは「しこ」が死の国とかかわる言葉だったからであろう。」と推論している。

祟りにおののく神・天皇家

“怨霊”という言葉を不用意に出せば、そのような概念は『日本書紀』の記されたこの当時、まだ日本には伝わっていなかったという反論が出てくるであろう。

しかし、“出雲”が天皇家に祟ったことは、『日本書紀』そのものが認めていることであった。
崇神天皇六年の条には、国内に疫病がはやり多くの人々が死んだこと、農民らが土地を離れ、背く者まで現れ、困り果てた天皇は、翌七年、占いによって神託を得ようとしたことが記され、さらにこのとき大物主神が現れ、自分を祀ることを崇神天皇に命令したとある。

天皇はさっそくこの神を祀るが、験(しるし)がない。そこでもう一度大物主神にお伺いを立てると、国が治まらないのは大物主神の意志であること、もし子の大田田根子なる人物をもって祀らせれば、おのずから世は平らぐ、ということなので、天下に告げて大田田根子を探し出させ大物主神を祀らせたところ、神託通り世は平静を取り戻したという。

ここでは出雲神・大物主神が明らかに祟っており、また『古事記』は、崇神天皇の子・垂仁天皇の時代の別の話の中で、「その祟りは出雲の大神の御心なりき」と、出雲神が祟り神であることを明示している。
天皇家の異常ともいえる出雲偏重は、“出雲神の祟り”のおびえていたからであることは間違いないだろう。天皇家は“鬼”の出雲を退治し征服したのち、逆に“鬼”の毒気、祟りを恐れるあまり、皇祖神そっちのけで、鬼の怒りを鎮めることに躍起になったのであった。

神と鬼を結ぶ“モノ”の意味

神の末裔であり、神そのものでもある天皇が、神ではなく鬼を最も重視し、祀っていた不可解さ。しかも、天皇という王権には、さらに不思議な謎が横たわる。
神と鬼という正反対の存在が、なぜ同一なのか。そしてなぜ、神が鬼を祀らねばならなかったのか。
じつはこの奇妙な現象のなかに、天皇家の不可侵性をめぐる謎が隠されていたといっても過言ではない。そして、この現象を理解するためには、“鬼”とはそもそも何であったかを知っておく必要がある。
そこで注目されるのが、鬼の本来の呼び名“モノ”なのである。
“モノ”は“物”であるが、なぜ“物(物質)”が“鬼”なのかは、現代的な感覚では非常に分かりづらい。ただ“モノノケ(物怪)”といえば妖怪、霊などを意味するところから、“モノ”は物質であると同時に、“非物質”的な要素を兼ね備えていたのではないだろうか。

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但馬に集中する兵主神の謎

兵主(ひょうず)とは?

兵主神社(ひょうずじんじゃ)ってご存じですか?

兵主とは、「つわものぬし=武士」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。

大国主は天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表します。大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) 、大物主神(オオモノヌシ)、大國魂大神(オホクニタマ)。

但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

兵主神社は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては但馬と同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみなのですが、不思議と但馬には式内社7社、式外社7社、計14社と但馬国に集中しているのです。

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。宇佐八幡や全国的には最多の八幡神社で知られる八幡神も武神ですが、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

大国主

『古事記』『日本書紀』では八千矛神とは大国主の別名である。須佐之男(スサノオ)の別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表している。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされている。大国主とは出雲や但馬、越など各国の王の総称であり、個人名ではないと思う。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社だし、全国的に天皇家よりも物部・大国主系の神社が圧倒している。

大国主は国津神の総称で多くの別名を持っています。

出雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

・大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=・旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前
・大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称
・大名持神(オオナムチノミコト)
・八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
・葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す
・大物主神(オオモノヌシ)
・大國魂大神(オホクニタマ)
・顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)
・国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
・所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

二つある天孫降臨

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家(おおきみけ)と物部氏(もののべうじ)である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」。兵主は哮神とも。

式内小田井懸神社(豊岡市小田井町)の祭神国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)とあります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様(鉄の神=蚩尤)だそうだ。秦氏ゆかりの神である。

延喜式神名帳で認められた式内社に現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。但馬国は、奈良時代までは丹波国(丹後王国)といわれる北近畿一円のクニで、九州北部・出雲や若狭・越国(越前から越後)同様に太古から日本海を介して朝鮮半島南部との交易があった国です。

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)です。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。伊福部神社(豊岡市出石町)など伊福部という青銅器鋳造をおこなった部民で山陰各所に伊福部にちなむ神社があります。大変多い八幡神社も、八神の秦氏が八幡となったと勝手に想像します。

滋賀県野洲市の兵主大社のように、八千軍(やちぐさ)という呼称からきたと思われる「八千矛神」は、「矛」を介在して、ヒボコ(天日槍)の伝承が近江に残っていることとから関わりがあるように思いますが、八千矛の名称そのものが、オオナモチ(大己貴命)の別称であることは『日本書紀』に記されているので、葦原色許男神(葦原醜男)と称せられた大国主神であろう。天日槍がオオクニヌシと同一神でない限り、ヒボコと兵主神は同一神ではないように思います。但馬国を開拓した伝説は天日槍以外の他の大己貴命を祀る但馬の神社と共通しています。

それはまた、丹後の浦島太郎伝承や佐賀など全国に伝わる徐福の伝説、秦の始皇帝の命で、常世の国(日本列島)に不死の薬を採りにきた徐福の伝説に共通する。

ここで、伽耶=韓神は、もともとそのルーツは秦氏が半島南部の鉄の産地・伽耶に住み着き、また出雲にたたら製鉄を伝えて同化した?スサノオが但馬に稲作をもたらし切り開いた渡来系人と縄文人が融合したのが弥生人だったと思えるのです。

「延喜式神名帳」記載の式内社兵主神社一覧

(壱岐→山陰→兵庫→近江→三河→畿内→大和への移動か?)

大和國城上郡奈良県桜井市穴師1065穴師坐兵主神社兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神(稲田姫命)
和泉國和泉郡大阪府岸和田市西之内町蛇淵兵主神社八千鉾大神
参河國賀茂郡愛知県豊田市荒井町松嶋兵主神社大物主命、三穗津姫命
近江國野洲郡滋賀県野洲市五条兵主大社八千矛神
伊香郡滋賀県長浜市高月町横山兵主神社素盞嗚尊
丹波國氷上郡兵庫県丹波市春日町黒井兵主神社大己貴大神、少名彦大神、天香山神
但馬國朝來郡兵庫県朝来市山東町柿坪兵主神社大己貴命
養父郡兵庫県朝来市和田山町寺内更杵村大兵主神社素盞嗚尊
兵庫県豊岡市日高町浅倉兵主神社大己貴命
氣多郡兵庫県豊岡市日高町久斗久刀寸兵主神社素盞嗚尊、大己貴命
出石郡兵庫県豊岡市奥野大生部兵主神社大己貴命
兵庫県豊岡市但東町薬王寺大生部兵主神社武速素盞嗚命
城崎郡兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城兵主神社速須佐男神
兵庫県豊岡市赤石兵主神社二座速須佐之男命
因幡國巨濃郡鳥取県岩美郡岩美町河崎佐弥乃兵主神社
鳥取県岩美郡岩美町浦富許野乃兵主神社大國主神、素盞嗚尊
播磨國餝磨郡兵庫県姫路市本町射楯兵主神社二座射楯大神(五十猛尊)
兵主大神(伊和大神、大国主命)
多可郡兵庫県西脇市黒田庄町岡兵主神社大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命
壹岐嶋壹岐郡長崎県壱岐市芦辺町深江兵主神社素盞嗚尊 大己貴神 事代主神

式外兵主神社一覧 平成祭礼CDから

青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」
千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」
福井県丹生郡清水町山内 兵主神
滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」
奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

播磨
兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神」
兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命」
兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命」
兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命」
兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」
兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命」

但馬
兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」
兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」
兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命」
岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」
鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」
鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」
奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命」
福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」
福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命」

■但馬国式内社

但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 素盞嗚尊
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代不詳

■式外社

但馬國美含郡 豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町田井字村中448 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町指杭字御城338 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)である。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。天日槍を祀る出石神社を取り囲むようにして重要路に祀られているように見えますが、郡境に土地の守り神として配祀されたのではないでしょうか。

ちなみに同じく武神である八幡神は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。

概 要

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社やその子孫の神社が出石郡近辺に集中しており、そのまわりを兵主神社が取り囲むように建っている。全国でも関西以西のしかも但馬国に集中している。

但馬国はかつて同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです。八幡社の式内社は皆無。関西で見ても岩清水八幡宮、近江國高嶋郡の八幡神社(祭神:譽田別命)のみです。

また、神功皇后は天日槍の子孫であるとされているので、ずっとヤマト朝廷が但馬を平定するために出石神社を置いたのではないかと考えてきた。古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされている。ただし、古い記録には養父水谷神社と表示されているから元々ひとつであり、現在の奥米冶にある水谷神社はのちに遷されたのかもしれない。

但馬に圧倒的に多い兵主神社の謎

兵主神は、『史記封禅書』に見られる、「天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主」の一とされている武神。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。

大己貴命を祭神とする神社は、出石神社をはじめとする天日槍ゆかりの神社を除くと、粟鹿、養父、小田井、絹巻の五社を筆頭に他にもたくさんあります。でな何故但馬では好んで兵主と名づけたのでしょう。

■但馬の式内古社で大己貴命を祭神とする主な神社

養父神社:創祀年代は不詳だが、社伝によると崇神天皇三十年(紀元前118年)の鎮座。
祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
和奈美神社 大己貴命 天湯河板挙命 兵庫県養父市八鹿町下網場156
小田井縣神社:創祀年代は不詳だが、第十代崇神天皇の御代(紀元前148年~紀元前29年1月9日)谿羽(丹波)道主命が国作大己貴命及び天火明命を祀った。久刀寸兵主神社と同じ祭神。
などと比較しても久刀寸兵主神社は、古い神社ということになります。
石部神社 大己貴命 兵庫県朝来市山東町滝田字マリ559  創祀年代は不詳
気多神社 大己貴命 但馬國総社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
石部神社 天日方奇日方命
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
兵庫県豊岡市出石町下谷62
桑原神社 稻倉魂神 大己貴命 兵庫県豊岡市竹野町森本字苗原463-1

徐福(鉄の神=蚩尤)→半島・伽耶(韓神)→出雲・但馬(大国主)→ヤマト朝廷成立(武神)

ということで、物部氏の大国主(別名:大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・葦原色許男神など)の治める出雲連合の・小国但馬に、あとから天日槍が現れたのではないかと想像していた。しかし、兵主神社もまた、速須佐男や大己貴命を祀る神社だった。

アメノヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

しかしこれは、伽耶(任那)は鉄の産地で交易商人だったらしいが、伽耶滅亡直前の欽明天皇二年(541)、任那と新羅が謀略をめぐらし、百済がこれを深く責め罵ったという記事が載り、欽明天皇四年には、天皇から出された詔勅、「任那日本府とともに任那を復興せよ」を楯に、百済は任那に対し、任那復興会議への出席を呼びかけるが、任那はこれを三度断り続けたという。

それでも翌年11月、任那復興会議がようやく開かれ、新羅と阿羅(伽耶の小国)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための策が練られたが、結局、任那は、この決定を無視するのである。

さらに、欽明天皇九年四月には、高句麗の百済への攻撃に対し、任那と阿羅は結託して救援に向かわなかった。任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とてもヤマト朝廷の出先機関とは思えないのだ。
また、文書作成のころは、半島南部は562年、伽耶は新羅に滅ぼされ、新羅・百済になっているが、崇神天皇・垂仁天皇の物語の頃はまだ新羅は存在していない。「記紀・風土記」完成は704年から712年ころで、伽耶滅亡は150年近い昔のことだ。伽耶は忘れられたか、または故意に新羅と記した可能性もあるからだ。作者が、朝廷にのヒボコは、伽耶の人であるのに新羅と記しているからであって、同一であろうと信じている。

-出典: 「神奈備へようこそ」
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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