七美郡(旧村岡、美方町)の式内神社

[catlist categorypage=”yes”] 式内社を訪ねることはかつての村々の歴史を知る貴重な手がかりだ。

黒野神社 (式内社 志都美神社)と伊曽布神社を訪ねた。(神社についてはライブラリーhttps://jinja.kojiyama.net/

どちらも旧郷名神社である。志都美は七美郷、伊曽布は射添郷。万葉仮名であり、志都美、伊曽布の漢字自体に意味はないものである。

美方郡(七美郡、二方郡)は中国山地の東端に当たり山陰道最大の山岳地帯で難所だ。また但馬牛の産地で但馬杜氏のメッカである。現在は国道9号が改修され長いトンネルが貫きスピードアップされたが、八鹿を過ぎると鳥取県までに八木谷峠(但馬トンネル)、春来峠(春来トンネル)、蒲生峠(蒲生トンネル)なそ難所多い。但馬に生まれ暮らしていてもあまり知らないだが鳥取へ一週間に一度は行く用事があるので、むしろいま興味が沸いている。

美方郡は現在でも豊岡市や養父市、朝来市よりも学校、医療、仕事や買い物は鳥取市内が多い。

桜井勉著「校補但馬考」によれば、

七美郡

兎束 七美 小代 射添 駅家 以上五郷
延喜式神名帳 七美郡十座、弁小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座
伊曽布神社 等余神社 高坂神社 葛野神社 春木神社
今延喜式を考えるに、八座のみあり。
と書いてあるのであとの二社は明治にはすでに不明。

七美郡も現在の小学校区が旧村ごとに名前を残している。七美郡と二方郡が合併し美方郡に、駅家郷は、養父市関宮町の中心部と中瀬地区の旧郷名。兎束は福岡地区。七美郷は村岡地区。小代は香美町合併で旧美方町が小代区として復活した。

校補但馬考 但馬国の郡・郷 式内神社

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桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ。

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【転載】銅鏡は中央から下賜したものなのか?!

◆ハリマ大中トーク◆
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石野博信館長が語る ハリマ大中トーク40 「正始元年銘鏡の背景-但馬・森尾古墳と日本海交易-」

資料はこちら↓

http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000002156-att/p6krdf000000215m.pdf

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 時代は卑弥呼の時代です。3世紀に倭国連合が日本列島にあって、その 国の都が邪馬台国です。邪馬台国は、九州説、大和説などありますが、倭 国の女王卑弥呼が西暦239年に中国・魏の都である洛陽に使いを出してい ます。どんな船で、何人くらいで行ったのか。奈良時代から始まる中国へ の正式の外交、遣隋使とか遣唐使とか教科書で習いましたけど、あの船で もしょっちゅう難破しているんですよね。大きなりっぱな船でも難破して ます。それなのに丸木舟に板を貼った程度の船で、よく行けたなと思いま す。朝鮮半島の帯方郡に魏の出張所がありました。そこの役人に同行して もらって洛陽へ行ってますけど、何千キロですから。陸路も大変だったと 思います。

 ともかく239年に一回目の使いが行った。それが景初3年、西暦の239年 で、その次の年が正始元年です。景初3年1月に皇帝が亡くなっていますん で、次の年には年号が変わる。使いが出発して、洛陽に着くまでに半年、 6か月もかかっていまして、12月くらいに着いて、そして次の年に帰って 来ています。帰ってきた時が正始元年。つまり、日本から使いが来る、そ のために正始元年という最新の年号が入った鏡を何枚か渡してくれていま す。いわゆる『魏志倭人伝』には銅鏡を100枚渡したと書いてます。魏の皇 帝からの下賜品には錦や絹の高級織物をはじめ五尺刀などがあり、銅鏡100 枚は後の方に書いてます。中国側の意識としては、織物の方がはるかに高 価で良いものだ、銅鏡はオマケみたいなものという意識なんですね。ただ 倭国の人間は鏡が好きだったみたいで、「汝好物」(汝の好きな物)と書 いています。魏の年号を刻んだ鏡が3番の表にありますように、今現在12 面、最近、奈良県桜井茶臼山古墳で出たのも含めると13面が日本中で出て います。他にも、「三角縁神獣鏡が『銅鏡100枚』の中心」と考えている 人たちがおりますが、それが正しかったら、その種類の鏡は500面以上出 ていますからあふれますけどね。

 で、今日話題にしますのが、1番・2番にあります鏡で、左側が正始元 年の三角縁神獣鏡で、2番目が但馬の豊岡市森尾古墳の銅鏡です。3番の 表で3世紀の年号鏡の分布をみますと、瀬戸内側の山口県10番とか大阪湾 にも3面程ありますけれども、ぱっと見た感じでは日本海側に多いことが わかります。その中でも、但馬と丹後にかたまっているんですよね。普 通は、魏と倭の交流・貿易は、瀬戸内海がメインルートのように言われ ていますが、日本海側になぜ多いんだろう?、というのが私の疑問の出発 でした。よくこの手の鏡は邪馬台国が手に入れて、邪馬台国の王が各地域 の、邪馬台国の命令に従った地域の王に下賜したと言われているんです。 邪馬台国が大和にあって、そのまんま大和政権として発展していったんだ と言ってます。それにしては瀬戸内海の豪族よりも日本海沿岸の古墳から 出てくるのはなんでやろ。しかも、日本海沿岸の古墳はみんな小さいん です。3番の表の右端に方墳とか円墳とかあり、前方後円墳と書いてある のが3つありますけど、12個の内3つだけが前方後円墳で、後は小さな古墳 です。特に日本海沿岸は一つを除きますと、みんな方墳・円墳から出てき ている。

 先に結論から言いますと、私はこれは中央政権からもらったんじゃな くて、日本海沿岸のクニグニの王は独自に貿易を行っていたんじゃないか、 というのが、サブタイトルに『但馬・森尾古墳と日本海交易』と付けた 理由です。ひとつだけ例を4番にあげてます。丹後の太田南4号墳です。 そこに太田南古墳群の測量図がありますけど、右側の2号墳からはりっぱ な鏡が出ています。問題の『青龍三年銘鏡』は景初三年よりも数年前の 235年でちょっと左側にあります太田南5号墳、山の尾根をちょこっと平ら にした程度の小さな墓から出ています。鏡を専門にやっている先生方は、 もし俺に鏡をくれるんだったら青龍三年銘鏡より2号墳の出土鏡だったら もらいますと言ってます。という事は、学問的には年号が入った鏡は大変 重要だけれども、鏡の質としてはしょうもない鏡だということです。これ がはたして邪馬台国政権や大和政権が下賜するようなモノだろうか。そう いう疑問もあります。

 6番の地図の上に刀の図面を入れています。『魏志倭人伝』に「五尺刀 二本」と書いてあります。2本ですから、「銅鏡100枚」よりは貴重品です。 魏の国の一尺が23cm余りですから、五尺だったら1m20cmぐらいになります。 そんな長い刀は今のところ3世紀の日本列島のどっからも出ておりません。 古墳時代になるとありますけれど。それに近い1mクラスの刀はこの地図 にある分だけ出ています。それが全部日本海沿岸というのも凄いことで すよね。1番は韓国、2番は福岡県糸島市で伊都国という都があった所で す。島根県から1本、11番が兵庫県但馬の妙楽寺、それから12番が兵庫丹 波の内場山遺跡です。長野県の3世紀の墳墓から、渦巻の取っ手がついた 鉄刀が出ています。これは、日本中で3本だけ出てまして、その内の1本 は但馬です。これは韓国製です。韓国で造られた刀が日本海沿岸で、長 野県の北と但馬から出ています。長野県木島平村根塚は、川が日本海に 流れ込んでいる信濃川流域です。

 もうひとつ資料を入れないといけないのが、兵庫県から変わった鏡が 出ていまして、博物館で作りました研究紀要という雑誌の中で「放射状 区画珠文鏡」という難しい題のレポートを書きました。3世紀の日本海 沿岸に多い鏡です。

 つぎに、馬形のバックルです。ベルトの飾りです。それが3世紀の長 野市から出ています。3世紀では初めてで、韓国ルーツです。2・3世紀 の木棺を礫で囲む礫床墓が、長野県の北部と群馬県の北部にあります。 長野県の北と群馬県の北の土器は、この時期同じ顔つきをしています。 長野県の方は箱清水式、群馬県は樽式。名前は違いますけれど、土器 の顔つきはそっくりです。と言う事は、文化的な交流が日常的にあっ た。お墓の作り方もこの二つの地域に集中して礫床墓があります。

  なぜ、今ここで長野県北部と群馬県北部の共通性を言い出したのか。 一番最初に戻りまして、なんでこんなお墓の形が出たのかと言うと、 群馬県の古墳と兵庫の古墳に同じ年号を刻んだ鏡がある、その背景は 日本海交易を通じて但馬の人と、群馬の人がともに、直接か間接か中 国・朝鮮半島と交流をしていたんだ、必ずしも大和政権のお世話にな っていたわけじゃない、という事が考えられるんじゃないかという事 を主張するために礫床墓の例を入れました。そしたら疑問として、同 じ「正始元年銘鏡」が瀬戸内沿いの山口県竹島古墳から出ていること をどう考えるのか。竹島古墳の年代は新しいんです。4世紀になります んで、中国との直接交流ではなく、後世に誰かに貰ったに違いない、と いうことにしております。

 考古学者は大和政権中心の考え方を持つ人間が多くて、僕もその傾向 はあるんですけれども、兵庫県に来て改めて思うのは、兵庫の遺跡は凄 いのに何でマスコミの人が注目しないんだろう。こっちの情報の出し方 も大人し過ぎるんじゃないか、真面目なんですね。ということは、私が 前いた研究所は不真面目なのかとなりますけれども、奈良県は『万葉集』 とか『古事記』とかで、大王一族につながりやすいからマスコミ受けす るんですよね。遺跡の質としてはあまり変わりません。

 今、邪馬台国の時代のネックレスが、館内で展示されています。ロビ ーで梅田東古墳の青いネックレスが展示されてます。この古墳は弥生か ら古墳の初めと言う説明がありますけど、弥生から古墳の初めと言うの は女王卑弥呼の時代です。だからどこか博物館でそういう年代が書いて あったら、「あっ、これ卑弥呼さんの時代だ」。そして、この古墳に葬 られた人は青いネックレスをしていた、とイメージをふくらませて下さ い。終わります。

【2011.5.10】
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【編集後記】 今回のメルマガはいかがだったでしょうか。次号は8月のイベント案内 と、ハリマ大中トークをお届けする予定です。お待ちください。
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発行 兵庫県立考古博物館〒675-0142 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1
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    TEL (079)437-5589 FAX (079)437-5599
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延喜式神名帳 但馬の神社

[catlist categorypage=”yes”] 神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。

-「神社人」-

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。

神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別で、但馬国の式内社数の多さに驚く。

全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

 新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

 但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

 大小合わせて131座というのは、例えば

 大和國:286座 大128 小158
 伊勢國:253座 大14 小235
 出雲国:187座 大2 小185
 近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
 越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

 丹波国:71座 大5 小66
 丹後國:65座 大7 小58
 若狭国:42座 大3 小14
 因幡國:50座 大1 小49
 播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六 

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社

気多郷の行政区画の変遷

室埴村を調べに国府国分寺館に行き、気多郡地名についても資料をコピー(一部10円)してもらったのでかつてのブログを書き直してみた。

気多郡地図(日高町史より)

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡です。
古文漢文得意ではないのでおかしいところはご指摘下さい。

『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編

但馬國氣多郡

郷名万葉仮名読み記述郷社・村社
氣多(ケタ)山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府(コフノ)市場、堀、野野荘、池(ノ)上、芝 (上郷・下郷)原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府、此に在り。後徒治高田郷云、延暦三年紀、但馬國氣多團が此処に在り。神明式、氣多神社。天平十九年紀、氣多(ノ)君十千代、弘安大田文、氣多ノ上郷(ノ)田百十一町、氣多ノ下郷(ノ)田百七十三町、但馬考 今(ノ)府中組領、山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、芝 (ノ)九邑、是此域也祀典所 伝、伊智神社(國府市場村)、御井神社(土居村)、三野神社(野野荘村)
太多タダ十戸・此垣(コロガキ)・漆垣・山(ノ)宮・石井・太多・栃本・東河内・水口・稲葉・萬却・山田・萬場・名色(ナシキ)・栗栖野・荘境・久田谷・田(ノ)口・羽尻 (ノ)十九邑訓が見当たらないので多陀と云う読みを当てる。出雲に多太郷在り、弘安大田文 伊勢大神宮領太多荘田八十町、地頭楽ノ前 藤内兵衛が神領目録を作る。…但馬考に郡西に太多荘在り。此垣村ノ気多郡比曾寺ノ田十一町。祀典所 山(ノ)神社(山ノ宮村)、戸(ノ)神社(十戸村)< /br>此垣
三方美加太ミカタ但馬考に今(ノ)、芝・安良川・猪(ノ)子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所 (ノ)十邑(一か所足らない?数え間違いか?)横川ノ中堂領三方荘 五十九町、熊野山觀音寺領ノ田九町、寛仁紀に建寺された觀音寺が有り、寺の後ろに鶴峰城趾が有り。弘安三年始め、安良川(荒川?)村山名(ノ)老臣垣屋氏菩提寺隆國寺有り。但馬國の巨刹と為った。祀典所 謂 神門(カント)神社、山王社と稱(たと)えられるのは此である。
楽前佐佐乃久萬(ササノクマ)伊府・篠垣・佐田・野村、伊原萬葉集には佐左那美と按じる、神楽馨波ノ字ヲ用イル、…篠ハ小竹ナリ、…本居(宣長?)氏曰く、天祖が天窟ニ隠れられた際に天鈿女(あまのうずめ)(2)の命が香山の小竹葉を採って舞った故事に因むとする(天岩戸の舞)。その音が佐佐と聞こえたので小竹の故名を佐佐(笹)と為す。楽前は即ち篠ノ隅(クマ)の段を借りる。

…弘安大田文 國分寺領氣多郡楽前ノ南荘田四十八町、楽前ノ北荘田二十四町 地頭楽前入道(垣屋隆国だろう)、一つ、但馬考 楽前ノ荘と云う、今は二つに分ける。曰く、北荘は伊府・篠垣・佐田 三邑、曰く、東方の野村、伊原(ノ)二邑…

備後考には祀典所 佐久神社(佐田村)
高田多加多タカタ但馬考には今の高田郷は、夏栗・久斗・禰布・石立ち・國分寺・水上(みのかみ)(ノ)六邑。安芸、石見、播磨、美作にも高田郷在り。…弘安大田文 高田郷田六十七町、地頭高田忠貞、國分寺領三十四町。祀典所 久刀村ノ兵主神社
日置比於岐ヒオキ但馬考は今の日置郷は、日置・多田ノ谷・伊福(ゆう)・上(ノ)郷・中(ノ)郷(ノ)五邑大和・伊勢・丹波・丹後・因幡・出雲にも日置郷有り。姓氏録に日置部氏の出自は天櫛玉命男、天櫛耳命、今(ノ)日置神社(日置村)。弘安大田文 田百四十六町、地頭越生長経、伊福別宮領田五町、祀典所 謂われには氣多神社(上郷村)、総社明神と称える。葦田神社(中郷村)、井田神社(伊福村)、楯縫神社(多田(ノ)谷村)
高生多加布タコフ・たこう但馬考は地下・岩井・宵田・江原(ノ)四邑。武蔵にも高生郷有り。多介布とも訓じる。姓氏録に武生宿禰、祖王仁の孫 河浪古の首。天平神護元年紀、河内国の人馬益人等が登って武生の連の姓を賜る。…但馬考は今の宵田村に高生の代の地が有り。是を持って(高生の)の名とする。高負神社
狭沼左乃サノ但馬考には今の佐野の荘の佐野・上石(アゲシ)・竹貫の三邑。八代谷の藤井・奈佐路・谷・八代・猪ノ爪・奥八代・河江・椒(ハジカミ)・三原・段(ノ)十邑。丹後にも佐濃ノ郷有り。弘安大田文 田三十四町、公文八木高貫に歓喜光院領八代荘田五十三町祀典所 鷹貫神社(竹貫村)、天日槍五世ノ孫 葛城ノ高額比売命、即ち神宮皇后の妣(ヒ)也。雷神社(佐野村)は曰く佐野天神、[木蜀]椒ノ神社(椒村)、は八幡宮とも称える。…多麻良伎(ノ)神社(猪爪村)、須谷(ノ)神社(藤井村)、また段村に氣多軍団の遺趾有り、八代(ノ)薬師堂、大岡寺の号により白山権現を祀る。大岡神に従五位下授かる。
賀陽加也カヤ但馬考は今(ノ)引野・土淵・加陽・八社宮(ハサミ)・伏村・清冷寺(ノ)六邑。備中に賀夜郡、伯耆に蚊屋郷、大田文 上賀陽ノ荘田十七町六段、南方、地頭、小林三郎、北方(ノ)地頭、小林眞重、下賀陽(ノ)荘田五十九町、上村(ノ)地頭河越修理亮、下村(ノ)地頭野元孫三郎

(2)鈿=音:テン、デン、婦人のかんざし。青貝細工。「花鈿」は、唐人の婦人がひたいに貼った装身具

気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、九つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)、(気多郷)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:自然村:今の概ね区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。

弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。

■気多郡の沿革

平安時代中期に作られた日本語辞書である「倭名類聚抄」などを江戸期のものまで集成した『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編に、 「気多郡」…因幡にも気多郡有り、遠江に気多郷有り、本郡には大己貴神(オオナムヂ)を祀る気多神社…、高田、日置、高生、気多、狭沼の五郷、多太、三方、楽前、八代、賀陽、伊福の六荘、今の八十村を領し、出石郡出石町に在し気多郡を治める。…

と記し、 「気多(郷)」が四角い枠で囲まれて気多郡のトップに記されています。

「気多」…「原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府在此、後徒治高田郷云、弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考、今府中組、領山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、ノ九邑、是此域也、…」としつつ、気多の後に、太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)を記しています。

「気多(郷)」…「郷名は現存せず。弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考には今の府中組で、山本、松ノ岡(松岡)、土居、手邊(辺)、國府市場(府市場)、堀、野野荘(野々庄)、池ノ上(池上)、芝の九村がその域である。」と記されている。

手邊(辺)は現存しないが、和名抄は記載順が所在地に忠実に記載されているので土居と府市場の間に記されていることからその中間にあったと考えられる。それ以外の村はそのまま区名として現存している。

※脱簡(1)書物の中の一部が抜けていること。章・編の脱落や落丁のあること。

しかし、大田文に伝える日置郷は、日置、多田ノ谷、伊福、上ノ郷、中ノ郷の五邑、とされていてまた、弘安大田文には気多上郷、下郷とあり中郷がなく、日置郷には上ノ郷、中ノ郷があり下郷が抜けてしまっている。上ノ郷、中ノ郷は現存するから、下郷はのちに中郷と呼ばれるようになったのではないか。この時代に円山川をはさんだ対岸の気多上ノ郷、中ノ郷は日置郷に加わったことがわかるから気多郷名は消滅したのだろうか。あるいは気多の上ノ郷とは気多郷でないと、気多郷には上下の二郷しかなく、今の府中組が気多郷なら上下二郷では分けられないから、今の府中組は気多郷ではないはずだ。しかし、その後、他の郷にも上ノ郷、中ノ郷を除いたその他の(今の)府中組九村が記載されていない。

また出石郡の項では、同様に神戸郷が四角い枠で囲まれてトップに記され、「現存せず…但馬考は宮内、坪井二邑(村)と伝える。」としている。宮内、坪井二村は出石郷に編入され神戸郷は現存しないことが分かる。ところが、気多郷はすっかり消えてしまっているのだ。これは気多郡だから気多郡気多郷ではダブルので省略しているのだとする考えもある。但馬考は(気多郷は)今の府中組だとしてある。

「気多(郷)」に続いて、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷が記されている。

明治以降の気多郡(旧日高町)の変遷

1889年(明治22年)4月1日町村制施行(7村)
気多郡中筋村(賀陽郷)・日高村(日置の日と高田・或いは高生の高から日高)・国府村・八代村・三方村・西気村・狭沼郷三椒村
1894年(明治27年)12月15日清滝村が西気村より分立
1896年(明治29年)4月1日気多郡が美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅
1925年(大正14年)11月1日町制を施行し城崎郡日高町となる
1950年(昭和25年)4月1日城崎郡豊岡町、五荘村、新田村、気多郡中筋村が新設合併し、豊岡市発足
1955年(昭和30年)2月1日養父郡宿南村の一部(浅倉、赤崎)を日高町へ編入
1955年(昭和30年)3月3日竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒村が合併し、新たに竹野村となる
1955年(昭和30年)3月25日日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足
1958年(昭和33年)1月1日城崎郡日高町上佐野地区を豊岡市へ編入
1976年(昭和51年)9月1日城崎郡日高町西芝字大向野の一部と豊岡市の間で境界変更
2005年(平成17年)4月1日豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅

但馬の国司(守)

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都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。

但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

・源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)
平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。

・源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺

一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。

・平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。

一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
・平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。

・平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。

応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官

寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。

重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。

しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。

山陰道 旧蒲生峠(兵庫鳥取県境)

[catlist categorypage=”yes”] より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示

国道9号線蒲生峠は蒲生トンネルで通過するが、一度旧道を通ってみたかった。山陰道は、鳥取から京都を結ぶ要路として、江戸時代には鳥取藩が主要街道として峠を整備した。調べるとその当時の峠道は「山陰道・蒲生峠越」として国の史跡に指定され、現在では今でも残る石畳や石碑などに当時の思いを馳せながら散策できるハイキングコースとして、多くの人々に親しまれている。

現在は国道9号が、1978年開通の蒲生トンネル(延長1745メートル)で抜ける。トンネルを含めた蒲生バイパス開通前は鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線(全線)と鳥取県道31号鳥取国府岩美線(鳥取県岩美郡岩美町洗井~岩美町蒲生国道9号交点)が国道9号として峠を越えていた。

国道9号蒲生トンネル鳥取県側から鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線を行き、鳥取県道31号鳥取国府岩美線(国道9号旧道)

国指定史跡の山陰道は、蒲生峠越(がもうとうげごえ・鳥取県岩美郡岩美町)

徳城峠越(とくじょうとうげごえ)

野坂峠越(のさかとうげごえ・島根県鹿足郡津和野町)

の3か所のみである。

同じ岩美町には鳥取市との境の駟馳山峠の傾斜地に残されている美しい石畳道がある。

 


旧蒲生峠 鳥取県側から兵庫県側を見る

  

  

峠から旧山陰道へはNTT電波送信塔までの私道と重なり、NTT電波塔までの私道は進入禁止の表示がある。

山陰から京都に通じる道で人はもとより人力車、荷馬車など往来で賑わい、豊臣秀吉軍が鳥取城攻めに向かった時に利用されたなど歴史的ないわれも多く、幕末の戊辰戦争では西園寺公望らが山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦する際に村岡からこの峠を越えて鳥取に入っただろうことなど思いにふせる。

峠から案内板を少し歩くと、新しい蒲生峠の案内票石が立てられている。

また、平成8年には文化庁によって「歴史の道百選」に選定されています。


現在でも一部石畳が残っているらしいが、捜すうちに夕方が近づいていたので一人では薄気味悪くなってきた。
指定年月日:20050302

管理団体名:

史跡名勝天然記念物

近世の山陰道は、京都から山陰地方へ通じる主要街道で、鳥取県側では但馬往来、但馬街道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代道は志戸坂峠(八頭郡智頭町)を越えて姫路に出る智頭往来であったが、鳥取藩は山陰道を京都への重要な交通路として整備し、鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726)の『因幡国大道筋里数』によれば、鳥取から蒲生峠までの里程は6里12町であった。山陰道は岩美町浦富で海沿いに進むルートと蒲生峠へ向かうルートに分岐するが、蒲生峠越が本道とされていた。 天正8年(1580)の因幡攻めの際に羽柴秀吉が、慶応4年(1868)の明治維新の際には山陰道鎮撫使が、蒲生峠を越えて鳥取に向かったと伝えられている。

山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、蒲生峠で県道千谷蕪島線に合流する。合流点付近には、明治25年(1892)9月に往来人の安全を祈願して建立された「延命地蔵大菩薩」の台座が残されている。この間の約2km程の峠道が明治時代中期までの街道である。このルートは、明治時代になっても一般国道に選定されて整備が進められ、人力車や荷馬車の往来で賑わった。明治25年に山陰道が現在の県道ルートに変更されると次第に寂れていったが、現在も地域住民の林業や生活用の道路として利用維持されているために、遺存状態は比較的良好である。

平成2年度に鳥取県教育委員会によって文化庁補助事業「歴史の道調査」が行われ、平成10から12年度にかけて岩美町教育委員会により「歴史の道整備事業」が実施された。

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気多郡高生郷とは

高生郷とは

高生郷(タカフ、たこう)とは、かつて但馬國氣多郡(現在の豊岡市日高町及び豊岡市中筋地区、佐野地区、竹野町椒地区)にあった郷名で私が生まれ住んでいる場所です。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学には、読みは多加布。神名式(延喜式)、気多郡高負神社。姓氏録に高生宿祢の出自。宿祢の文には同祖の王仁の孫、河浪古の首、天平神護元年紀、河内国の人馬を伴い、武生の辺に居す。弘安太田文には気多郡高生郷田百七町、公文矢部の尼。

但馬考では、

宵田 河合道記曰く豊岡より三里、馬駅なり。先ずは豊岡の馬を大方ここにて そうじて、姫路までの街道、馬は多し。自由なり。
今この辺の田地を高生代と云う。俗に(北の)日置郷と合わす謂われなり。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

「日高町史」には、その日置村と高田村が合併して日高町になったと記しています。

高田郷はその高生郷の西に隣接し、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府の存在が考えられます。
移転後の所在地については、近年の発掘調査により、但馬国府国分寺館に隣接する祢布(にょう)ヶ森遺跡(豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近)であると考えられるようになりました。

7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部(現在の丹後)、兵庫県の北部(但馬)および中部の東辺(兵庫県丹波地域)に及んでいました。年号は不明ですが北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離して成立したとする説もありますが確証はありません。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されています。後世まで長く続く領域が定まりました。

古丹波王國とは

丹波・丹後・但馬は、大古は同じ丹波に属し、総称して三丹、丹但、北近畿などという呼び方もありますが、これまでは勝手に「丹国」と名づけていました。

このブログは、「丹国ものがたり」のホームページからブログへ移転更新するためのブログです。

但馬国府は条里制に収まっていた?!

20111.5.22 「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会
「祢布ヶ森(ニョウガモリ)遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏

見つかった施設・遺構から、大型建物跡などが確認されている。かなり大きな役所跡だった。
また、全国的にみても多数の木簡が見つかっており、当時の役人の業務が分かる。


祢布ヶ森遺跡と周辺の遺跡 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

但馬国府の推定と発掘

全国的にも国府(国衙)はさまざまな理由によって官庁を移転している例があります。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

『日高町史』によれば、古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、高田郷に国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。和妙抄は高田(タカダ)郷は「多加多」と記され、夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上が含まれるとされています。国府が国保と記されていたとも考えられます。

『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。

したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。
『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。高田郷とは祢布ヶ森を含む現在の旧日高町中心部なので、どこからか祢布ヶ森へ移されたことは間違いないようです。

総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
役所跡と判断する理由

塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと

庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと

但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。
水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。但馬国は上国・近国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、但馬国は中国の実態しかない国だったようです。

2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。なかにはまだ若い(だろう?)役人が九九の計算を練習して間違えていたり、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。
但馬史説
国府村誌説
日置郷説
八丁路説
八丁路南説
国司館移設説

なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

川岸遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市日高町松岡
第1次但馬国府か?(昭和59年)
都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。

八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。

前岡さんは個人的な考察として、国府地区から祢布ヶ森へ移転したのではなく、12世紀以降の遺物はほとんど出土しないので、祢布ヶ森から国府地区へ移転したのではないかと想像すると語る。
祢布ヶ森遺跡の位置と、これまでの発掘調査箇所 S=1:2,000 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

条里と条里(青線)の間は218m(2町)で左の条里以西からは遺跡が見つかっていない。
祢布ヶ森遺跡・但馬国分寺周辺の条里復元図 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

天平13年(741)造営開始から天平勝宝年間(750年代)に一応の完成をみた但馬国分寺は条里制に東西は一致しているものの、条里からはずれているが、延暦23年(804)に移転してきた但馬国府(祢布ヶ森)は、律令制による条里制の区画にすっぽりと合致しており、条里制が布かれた後に条里制を反映したものかということが想定されるということが興味深い。
気多郡の条里が施行されたのは、8世紀後半~末であろう。

国庁は、中央の正殿とその左右にある脇殿や、周りを囲む塀などで構成され、「コ」や「品」字の型に計画的に配置されている。規模の違いは国の等級が在る程度反映されているようです。40mほどのものから100mを超える大規模なものもある。但馬国府は正殿らしき遺構から脇殿まで約100m。

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