十戸(じゅうご)
神鍋高原へ向かう国道482号は、かつては西気道といって、但馬国府から稲葉川上流まで西へ進み、蘇武峠を越えて村岡の山陰道に合流する近道として因幡へ抜ける重要な道であったようだ。
十戸には名神大 戸神社があり、その神戸から由来するのかと、長い間思っていたが、どうやら十戸という漢字と戸神社に関連はないようだ。
『国司文書 但馬神社系譜伝』には、戸の村とある。『国司文書 但馬郷名記抄』には止美村、今は止辺というなり。また止美部とある。古くは止美(とべ)と書いた。
とあるからである。当時の止美の読み方が不明だが、トビでもトミでもなく、止美の字が、戸ノ村、十戸となるには、トベではないだろうか。戸神社は、元々どう読むのか、随分考えてきた。延喜式神名帳や『国司文書 但馬神社系譜伝』でも「トノカミヤシロ」と読みがながあり、「ヘ」も併記されているので、どちらの読み方もあったらしい。
『国司文書 但馬郷名記抄』にみつけた。
止美村
田道公の裔、止美連吉雄の子孫在住の地なり。この故に名づく。田道公を止美村に祀る。止美、今は止辺というなり。
これだ。
トベが正解だと思う。いつからか止美が十戸と書くようになったとすれば、「とび」と読むなら「十戸」と書かないからである。戸は「へ、べ、と」であり、「び・ビ」とは発音しない。止美はとべであり、十戸(トベ)がやがて訓読みで「ジュウゴ」と読むようになったと思われる。
山口邑(村)とはどこなのか
『国司文書 但馬故事記─第一巻・気多郡故事記』に、
人皇十六代仁徳天皇元年五月 将軍荒田別命は、御子 多奇波世(タケハセ)君の弟 田道公を山口邑に置き、田道公の子 多田毘古を多他邑(太田)に置く。
この山口邑(村)とはどこなだろう。この山とさしているのは、どこの山かは別としてこれから先は神鍋への坂が続くという玄関口に当たる村は今の栃本の分岐点に他ならないだろう。山の口は山の宮(山神社)の口をさすのか、太多・多他(太田)の神鍋山をさすのか分からないが、太田への旧道は支道が山神社から太田へつながっていたと思われる。
『国司文書 但馬神社系譜伝』に山神社は
太多郷 山ノ神社
気多郡山守(ママ)部村鎮座
山守部は、原本によれば「山間郡村」とあるが、但記・大観録・郷名記・世継記などによって「山守部」と改めた。
止美村が今の十戸とあるので、今の山宮から栃本辺りだろうと思う。
田道は田道公(一に田路と書す)とあるように、「田路=トウジ・トジ」ならトジの元が栃本(トチモト)に転訛したものと想像するのである。
石井の神社を訪ねた時、ご老人がおられ、「石井の村と田んぼはここいらでは大部落で、十戸の田んぼあたりも字は石井なんじゃ」と、お話されていたことも気になる。
田道とは今の国道ではなく、稲葉川西岸の石井内であったことは神社があることから間違いないだろうと思う。因みに石井は但馬郷名記抄には記されておらず、石作(いさく)部が、石棺を作るとあることから、石の産地で石工にすぐれた民部が石作部であるから、石井は古くから重要な集落のひとつであったと思われる。