たじまる 古墳-3 南但馬の古墳

南但馬の古墳

概 要

三世紀後半、倭(大和)には地方の指導者よりも優位にたつ「王」が誕生しました。但馬で育ちつつあった指導者たちは、ヤマトの大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬王が誕生しました。当時は祀りや儀式で地域を支配していた但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきましました。

しかしそれは、ヤマト王権による中央集権的な国家統一ではなく連合国家なものではなかったかともいわれています。弥生中期初頭の前方後円墳である池田古墳もそれより数百年も前ですので、但馬は丹後・越前・出雲などと同様に、ヤマト王権下にまだ組み入れられていなかったと思われます。いずれにしても、タマト政権は、祀りや儀式によって地域を治めるだけでなく、強大な武力と政治力を背景として、ヤマト近国から治めはじめます。丹国(丹波)の一部であった但馬王も、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきましました。

若水古墳群A11号墳は、南但馬最古の大型円墳で、茶すり山古墳は、5世紀前半に築造された円墳で、全国で六番目の大きさです。弥生前期後半の城の山古墳、弥生中頃の船宮古墳、中期末から後期初頭の但馬初の方形貼石墓の粟鹿遺跡など、古墳時代の有力な首長墓が、和田山町とその周辺に集中し、連続的に造られていることは日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な史料です。粟鹿の駅家跡、豪族の居館跡(古墳時代では全国2位の面積)と120軒以上の竪穴住居跡であった柿坪遺跡、古墳中期から後期を中心とする108軒もの竪穴住居跡、加都(カツ)の3つの遺跡は、今まで但馬では発見されていなかった古墳時代の大きなムラです。養父市の6世紀から7世紀にかけての大薮古墳群の時期には、六世紀初頭にヤマト王権は大きく動揺し、王統の断絶という危機を迎えます。

『日本書紀』によると、507年、応神の五世孫と称する越前のオオド王が、即位しました(継体)。オオド王は、近江・越前を基盤として、日本海沿岸から琵琶湖・淀川・伊勢湾、さらに朝鮮半島にかけての水運を掌握した人物とされています。継体は、前王朝の手白香(てしらか)王女との婚姻により、いわばヤマト王権への婿入りという形で即位の正当性を求めたものと思われています。しかし、ヤマト王権には、その即位を認めない勢力も多かったため、継体は容易には大和に入らず、淀川水系に沿った宮を長い間転々としていたと伝えられています。また、粟鹿遺跡から但馬で初めての方形貼石墓を1基が発掘されました。方形貼石墓は出雲・吉備地方から丹後・越国にかけて、日本海沿岸や中国山地で確認されていますが、山陰・丹後・越前地方独特の形式で、丹後の貼石墓は、同時期に営まれた出雲や伯耆のように隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる出雲の墳墓の形が中国山地から出雲・伯耆・因幡、そして日本海を北上して越前・越中へとその広がりを持っているのとは異なり、なぜかこれまで発見されませんでした。但馬地方は、同じ日本海沿岸の出雲・伯耆から山陰東部と丹後地域から北陸との間に位置しながら、日本海沿岸との土器の交流が希薄で、畿内のものだと指摘されています。

1.若水古墳群A11号墓・若水城跡

写真:兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所朝来志山東町一品同遺跡は、粟鹿神社の西側の小さな山塊。『若水城跡』は、山塊の最高所を中心に展開する城跡であり、本城跡は、北方から南下してくる山名氏の軍勢をいち早く察知できる唯一の場所であり、竹田城への東からの谷口を押さえる重要な位置にあることが分かります。天正5年(1577)あるいは天正8年(1580)に、羽柴秀吉(実際には弟の秀長)が但馬侵攻に際して造った陣城と考えることができるそうです。若水A11号墓は、直径40m、高さ5mを誇る円形の墳丘墓(古墳?)です。直径20m~25mの広さをもつ墳頂の平坦面からは、2つの埋葬施設が発見されました。木棺の両端に石を積むという構造で、似た例としては舞鶴市川向古墳群がありますが、全国的に見ても他には例がありません。第1主体部は10m×5mの大きさの墓穴の中に、長さ約6m、幅約80cmの木棺を納めています。遺物は、鏡(飛禽鏡:ひきんきょう)が1面、漆塗り木製品(容器?)、鉄製品(鉄鏃?)が出土しています。木棺の形態は、円筒形の形をもつ「割竹形(わりたけがた)木棺」の可能性を現在のところ考えています。出土した飛禽鏡(ひきんきょう)は、全国的にみても9例しか存在しておらず、また中国大陸、朝鮮半島でも10数例程度しか確認しておりません。日本での確認例は、弥生時代末から古墳時代初頭の時期に集中しており、時期を決定する決め手となる遺物があまりない若水A11号墓も、鏡や墓の構造などから、この時期の墳丘墓(古墳)であると考えています。第2主体部は、6m×3m以上の大きさの墓穴の中に、長さ約5m、幅約60cmの木棺を納めています。遺物は小さなガラス玉(直径2~3mm。その中に穴を空けています)が10点以上出土しています。

木棺の形態は、箱形木棺と考えています。この埋葬施設で注目すべき点は、木棺の周囲を拳大~人頭大の石で囲み、底には平坦な石を敷いていることです(礫槨状)。また、若水古墳群A11号墳は、内行花文鏡という銅鏡2面(1面は飛禽鏡といわれるもので日本で十数例しかない珍しいもの)、鉄製のナイフ(刀子)1点と、直径2~4mm程度のガラス小玉50点以上出土しています。南但馬における最も古い大型古墳で、池田古墳、城の山古墳、茶すり山古墳同様、南但馬の王墓の一つと考えられています。若水古墳群A11号墳は南但馬最古の大型円墳で。

2.粟鹿遺跡(あわがいせき)

兵庫県朝来市山東町粟鹿

2000年、北近畿豊岡自動車道予定地内の発掘調査で、丹波側では和同開珎や銅印が出土した氷上町の市辺遺跡、但馬側には粟鹿の駅家跡と判明した柴遺跡、粟鹿遺跡、加都遺跡、豪族の居館跡であった柿坪遺跡、但馬最古の王墓と考えられる若水A11号墳、大量の鉄製品が副葬されていた和田山町の茶すり山古墳などが発見されました。

弥生時代(1~2世紀)や古墳時代(5~6世紀)を中心とする竪穴住居跡が100棟以上検出されたほか、奈良時代の粟鹿神社に関連がある「着到殿」と考えられる大型建物遺構や遺物が出土しました。これまで大型建物遺構や遺物は豊岡市日高町の但馬国分寺調査で見つかっています。古代山陰道の粟鹿駅は平安時代の書物「延喜式(えんぎしき)」に掲載されています。粟鹿駅推定地で建物群が発見されたことは、道や文字資料が出土していない段階ではなんとも言えませんが、駅長の家などの駅関連施設である可能性もあります。また、但馬地方では今回初めて方形貼石墓が発見されました。弥生時代中期末~後期初頭のもので、南北1辺20m以上、東西15m以上、深さ0.7mあります。そして角杯が出土しました。見つかったのは12~13センチぐらいで赤焼きです。普通出てくるのは須恵質という、灰色の硬い焼き物の角杯が多いのですが、柿坪遺跡で見つかったのは柔らかい素焼きの(須恵器も素焼きですけど)、赤焼きの状態で出土しています。豪族の館の一角から出て来ているのはたぶん初めてです。そうすると5世紀終わりぐらいの時期に、但馬国の朝来の辺りの豪族の館に出入りしていた人物、あるいは豪族そのものが、馬に乗る習慣を持った人たちの文化を取り入れていたということかもわかりません。このように遺跡は古墳時代を通して但馬最大の集落遺跡であり、ほぼ古墳時代の終わりとともに集落も廃棄されます。その間の古墳時代中期には大形掘立柱建物を中心とした豪族・首長居館の祭場域が形成されています。そして他地域との交流も盛んに行われ、多様な社会生活、発達した文化を持ち、豪族居館を中心に古墳時代全般にわたって栄えた遺跡であると言えます。

掘立柱建物跡は約34棟が検出されています。切妻造り、入母屋造り、高床倉庫など様々な建築方法のものが見つかりました。特に東区のみで検出された四面庇付付き屋内棟特柱をもつ建物は珍しいものです。規模の上でも極めて大規模なものから小規模なものまでがあります。東区では四面庇付き建物などの大規模の建物跡が検出され、西区や中区で検出された建物跡が小規模なもののみで構成されているのと大きく異なっています。また、弥生時代中期末~後期初頭の方形貼石墓を1基発掘しました。南北1辺20m以上、東西15m以上、深さ0.7mあります。北側の溝は後世に削平されていましたが、溝が「コ」の字に巡らされていました。残念ながら、埋葬施設も既に削平されていました。周溝の貼石は50cm×30cm前後の板状の河原石を用いられ、一部の基底石のみ残っていました。出土遺物には弥生時代中期末~後期初頭の土器があります。弥生時代の方形貼石墓は山陰地方や丹後地方に分布することが知られていますが、但馬地方では今回初めて発見されました。方形貼石墓はそれらの地方では分布することが知られていますが、粟鹿遺跡から発見されたものは、前方後円墳の池田古墳が弥生中期初頭とされるので、時代を比較すると、それより後に造られていることになります。ヤマト王権の影響で全国的に前方後円墳が造られるようになった王墓とは別に、丹後と繋がりの深い独立した豪族が粟鹿にはいまだ存在していたということかも分かりません。また、同じ粟鹿遺跡からは、中世につくられた粟鹿神社の石敷きの旧参道が幅3m、長さ80mにわたって発掘されました。粟鹿神社の参道は、中世の道の資料としては全国的にも稀です。この参道は古代末から中世ごろに粟鹿神社の祭主が「神部直」から「日下部」に交代し、この勢力を誇示するために条里方向と異なった方向に石敷きの参道を造ったものと考えられます。粟鹿神社は、四道将軍の丹波道主命の子、彦火々出見命あるいは彦坐王を御祭神としているからです。しかし、方形貼石墓が但馬からも発見されたことにより、古丹国の頃には南但馬も丹後の日本海勢力にあったことを立証したことになるかも知れません。ちなみに丹後の加悦谷から峠を夜久野を通ると粟鹿に至ります。

柴遺跡

兵庫県朝来市山東町柴字方谷
『柴遺跡』では、8世紀から9世紀にかけての建物・井戸が、また、遺物では木簡、人形・馬形などの木製祭祀具、墨書土器などが見つかっていますが、古代山陰道に設置された駅(駅家=うまや)に関する遺物・遺構を発見しました。特に注目されるのは「駅子・‥」の記述のある木簡が出土したことです。これらのことから、今回調査を実施した地点は粟鹿駅家に関連する施設であった可能性が高くなりました。

加都遺跡

円山川右岸の「加都千石」と呼ばれる広大な平地にあります。播但連絡道
路と北近畿豊岡自動車道の合流するインターチェンジが建設される場所で、古墳時代中期から後期を中心とする108軒もの竪穴住居跡が検出され、集落南側の谷には大規模な水田跡も発見されました。

柿坪遺跡

但馬一の大河円山川上流域や、円山川の支流の与布土川、粟鹿川の流域には但馬でも有数の平地が広がっています。加都遺跡は、円山川右岸の「加都千石」と呼ばれる広大な平地にあります。播但連絡道路と北近畿豊岡自動車道の合流するインターチェンジが建設される場所で、古墳時代中期から後期を中心とする108軒もの竪穴住居跡が検出され、集落南側の谷には大規模な水田跡も発見されました。柿坪遺跡は与布土川が形成し、段丘化した扇状地のほぼ全域に営まれており、その範囲は東西400m、南北1kmにも及ぶ「但馬最大の古墳時代集落」です。これまでの調査では古墳時代を通して120軒以上の竪穴住居跡が確認されたほか、整然と並んだ掘立柱建物群が注目されました。最も大きい建物では床面積が201㎡にも及び(古墳時代では全国2位)、棟持ち柱や4面に庇を持つ特殊な構造で、従来の調査例では祭祀に関連する建物であることが推定されています。他の建物も棟持ち柱を持ち、やや大きな柱穴からなる大規模の建物であり、但馬でも有数の有力者が存在した空間(居館や倉庫、神殿)です。-参考:兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所-
日下部氏(くさかべうじ)日下部(くさかべ)氏は、古事記や日本紀といった神話をはじめ、丹後や肥前、豊後、播磨などの風土記にもその名が見える一方、平城京跡や佐賀県唐津市の「中原遺跡」などから日下部の名を記した木簡が出土していることから8世紀初頭には、全国的に展開していたことはほぼ間違いないようです。

南但馬の歴史には、彦坐主王と四道将軍の一人丹波道主命(たんばみちぬしのみこと・娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる)、粟鹿神社、山中家臣の日下部一族の朝倉氏、太田垣氏、八木氏など、絶えず登場する重要な一族です。

朝来市(とくに朝来町・生野町)は日下部、日下、姓が多いです。古事記には、次のとおり記されている。開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)

「この天皇(仁徳天皇)の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部(かつらぎべ)を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部(みぶべ)を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ・住之江)の津を定めたまひき。」とあります。それぞれの部が何の職務かわかりませんが、大日下王は別名「大草香皇子」なので大阪草香邑でニギハヤヒの子孫であるでしょう。秦人は渡来系ですから、崇神・垂仁から続く半島との繋がりを明確に正当化しているのでしょうか。『朝倉始末記』では、出自は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市)であり、はじめは日下部(くさかべ)を姓とした。『越州軍記』によると開化天皇、『朝倉始末記』によると孝徳天皇の後裔とされている。粟鹿神社の社家 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、 日下部宿禰の後裔。『播磨風土記』の意奚(仁賢天皇)と袁奚(顕宗天皇)の項では、「意奚と袁奚の父である市辺天皇(市辺押磐皇子)が近江国の摧綿野で殺された。このとき、2人は日下部連意美を連れて美嚢郡志深里にある岩室に隠れた。後に日下部連意美は罪の重さから、馬を放し、荷物を焼き払って自殺してしまった。意奚と袁奚はあちこち転々としたが、志染村首伊等尾の家で仕えることになった。」と日下部連の名があります。天孫族説では、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギノミコト)と木之花佐久夜卑売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた火須勢理命(ホノスセリノミコト)を祖としています。

火須勢理命は日本書紀における海幸彦、弟は山幸彦

天神説では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫である天照国照彦火櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)(元伊勢籠神社)を祖とする。地祇族説では、近畿から九州にかけて分布していたと思われる先住民族・隼人(ハヤト・ハヤヒト)を祖とする。隼人は九州南部の阿多・大隈・日向・薩摩などの地に居住していたとされる人々の呼称。「古事記」では木之花佐久夜卑売の御子神、火照命が隼人阿多君の祖とする。「日本書紀」では火須勢理命は隼人等が始祖と註がある。▲ページTOPへ

3.茶すり山古墳

兵庫県朝来市和田山町筒江茶すり山古墳は、5世紀前半に築造された円墳で、全国で六番目の大きさです。弥生前期後半の城の山古墳、弥生中頃の船宮古墳、中期末から後期初頭の但馬初の方形貼石墓の粟鹿遺跡など、古墳時代の有力な首長墓が、和田山町とその周辺に集中し、連続的に造られていることは日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な史料です。5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳では近畿地方最大の古墳と言われています。全国でも第4位という大古墳です。そして兵庫県下でも最大の木棺を埋葬していました。墳丘の一部は壊されていましたが、幸いにも埋葬部は無傷で、見つかった二つの木棺からは、大量の副葬品が出土しました。北近畿豊岡自動車道の建設に伴って発掘調査がおこなわれ、頂上部に埋葬された2基の木棺から、畿内以外では初めてとなる「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」をはじめ、多数の鉄製品、銅鏡、玉類などの副葬品が出土しました。同じ朝来市和田山町にある、城ノ山(じょうのやま)古墳、但馬最大の前方後円墳である池田古墳などに後続する、5世紀前半の但馬地域の王墓と考えられています。なお古墳は、道路の設計を変更して保存され、2007年現在整備工事中です。

4.城ノ山古墳(じょうのやまこふん)


兵庫県朝来市和田山町東谷

4世紀末に築造された円墳で、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。長さ6.4mという長大な木棺を埋葬しており、人骨のほか、銅鏡6面、石製腕輪、玉類、鉄製品などが出土しています。城ノ山古墳の築造は、南但馬における王墓の成立として重視されています。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。

昭和46(1971)年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。和田山バイパスの池田古墳をまたぐためにつくられたアーチ橋に続く古墳を守るためにつくられた短いトンネルが古墳の下を通っています。

三角縁獣文帯三神三獣鏡は国の重要文化財は畿内の大和政権が配付したものといわれています。
これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。


道の駅「但馬のまほろば」


古代あさご館/朝来市埋蔵文化財センター
で出土した埋蔵品が展示されています。

5.池田古墳(いけだこふん)

兵庫県朝来市和田山町平野古墳は、昭和40年の分布調査で発見され、昭和45年の国道9号バイパス工事において保存が図られ、古墳をまたぐようにアーチ橋(池田橋)がかけられることとなりました。1971年(昭和46年)以降何度か調査が行われています。また、明治期に国鉄の山陰線敷設の採土地になっていたため、古墳の上部が削られてしまっています。全長136m、後円部の直径76m。1重の周濠(しゅうごう)をめぐらせていますが、埋葬施設は、古くからの土取り作業によって完全に破壊されているため不明です。墳丘からは埴輪類が、周濠からは木製品が出土しています。

主催:兵庫県立考古博物館 池田古墳現地説明会に行って来ました。 H21/3/1寒模様ですが大勢のファンが集まっておられました。
長らくアーチ型の橋が架けられていましたが、橋を撤去し盛土の道路にこのたび橋をつけかえるため、発掘調査が行われました。

【概要】全長約141mと但馬最大、兵庫県内では4番目の規模を誇る前方後円墳。方形部分が北東、後円部が南西を向いて海抜100mのなだらかな斜面に円山川を見下ろすように設けられている。但馬国王の墳墓ではないかと見られる。
築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)とされており、若水古墳(朝来市山東町)、城ノ山古墳(朝来市和田山町)に続き、茶すり山古墳(朝来市和田山町)に先行する但馬の王墓である。

に築造。三段築成で楯形の周濠を従えている。但馬で発見された古墳では珍しく、大量の埴輪や葺石が装飾に使われています。

2月20日新聞発表によると、今回の調査では、大きく2つの成果がありました。ひとつは、「渡土堤(わたりどて)」の全容が明らかになったこと。もうひとつは、「水鳥形埴輪(はにわ)」が8体出土し、その置かれていた状態を明らかにすることができたことです。水鳥をかたどった「鳥形埴輪(はにわ)」の今回の発見は、古代人の死生観解明につながると考える専門家もいます。風土記などにはヤマトタケルが白鳥になったとの伝説が記されており、祭事に使われたとみられる埴輪は死者の霊を運ぶ象徴だったとも考えられています。

前方部の西側と東側に葺き石が2段に置かれたままの状態で見つかっています。鳥形埴輪は、墳丘を囲む堀「周濠(しゅうごう)」から七体(さらに計1個)の八体が出土。渡土堤から墳丘の裾にかけてほぼ等間隔に並べられていたが、長い間に周濠に転落し埋没したとみられる。

下段と上段の間にテラスと呼ばれる幅約1.8mの平坦部があり、円筒埴輪がずらりと並べられています。
兵庫県立考古博物館(播磨町)によると、鳥形埴輪は高さ三十五-四十五センチ、幅三十-三十五センチ。損傷が少ない良好な状態で、ほぼ完全に復元できる見通し。これは極めて珍しいという。 七体のうち一体がひなのいる子持ち鳥形埴輪。親鳥部分が高さ四十五センチ、幅三十センチ。親鳥部分の台座にひさしのような部分があり、近くから出土した四体の幼鳥(幅約十センチ)が置かれていたらしい。-産経新聞-

渡土堤は河原石と砕いた山石がブロックではっきりと別れています。これは各村毎に分担が分けられていたのだろうということです。古墳築造に但馬の人々が駆り出されていたことが伝わります。

6.大薮(おおやぶ)古墳群

画像:養父市兵庫県養父市大薮
兵庫県養父市養父地域の円山川右岸道路に隣接した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。

コウモリ塚古墳(2008.10.12)大薮古墳群の大型古墳は、東からコウモリ塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が作られています。また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがあります。道林古墳群は石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳をすべてあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳群が造営されています。北近畿でも最大規模の石室墳として注目されており、考古学や歴史ファンの間では「但馬の飛鳥が大薮だ」とも言われています。石室大薮古墳群では6世紀から7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西の岡古墳・コウモリ塚古墳といった順番で但馬最大の大型古墳が次々と作られました。しかし5世紀に朝来市和田山町で但馬最大の古墳である池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はありません。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

大薮古墳群は、はたしてだれが作ったのか。簡単には説明ができません。禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室です。但馬らしい田園空間に今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群だ大薮古墳群クラスの古墳はなく、こうした事から6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。養父市ページより

7.箕谷(みいだに)古墳群

2009/02/07 兵庫県養父市八鹿町小山字箕谷昭和58年(1983)度から59年度にかけて、公園整備のため行われた箕谷古墳群の発掘調査により、須恵器、金環3点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など103点の遺物が出土しました。八木川下流域左岸の谷奥に立地し、2号墳は東西12m、南北14mの円墳であり、長さ8.6m、幅1.2m、高さ1.7mの横穴式石室。出土した須恵器により、6世紀末から7世紀初旬に築造されたと考えられており、出土状況から2回以上の追葬が行われたとみられています。3号墳は3段の列石を巡らせた円墳で兵庫県下でもこれだけです。2、3、4号墳(直径7mの円墳)、5号墳(直径6mの円墳)の4基の古墳が現地保存され、平成4年(1992)12月18日に「箕谷古墳群」として国の史跡の指定を受けています。石室はすべて谷の入り口方向である南に開口するよう規則的に造られています。そして2・3・4・5号墳と順次標高の低い方から高い方へ築かれています。時期が新しくなるにつれて墳丘・石室が小規模化しているのが特色で、この時期の古墳の変遷過程をよく示しています。


3号墳(南北13.5m、東西9.5mの3段の列石を巡らせた円墳)

なかでも全国2例目の年号入り鉄刀が出土したことで知られています。出土した鉄刀(刀身68.8cm、推定長77cm前後の圭頭系大刀)を奈良国立文化財研究所においてエックス線検査したところ、刀身の柄寄りの部分に「戊辰年五月(中)」と刻まれた銅象嵌による銘文が発見されました。干支年号をもつ鉄刀の出土例としては、稲荷山古墳(埼玉県)の辛亥年銘鉄剣【しんがいねんめいてつけん】(国宝)に続いて全国2例目です。銅象嵌銘としては本例が唯一のものです。「戊辰(つちのえたつ)」については、出土した須恵器の特徴から、608年(推古天皇16年)と推定され推古天皇や聖徳太子の時代に活躍した人を埋葬したお墓です。この銘文から「戊辰年銘大刀」(国宝)と呼ばれており、金具等から、飛鳥地方で製作されたものと推定されています。この2号墳から国指定重要文化財の「戊辰年銘大刀」(ぼしんねんめいたち)が出土したことから、「つるぎが丘公園」と名づけられています。この当時、但馬を支配した国造の古墳と考えられるのは、約4km東南にある養父市の大薮古墳群で、箕谷古墳群の埋葬者も彼ら但馬支配に貢献した一族と考えられています。

強化ガラス製の天窓現在、築墳当時の姿が復元され、公園として整備されています。中でも、2号墳は天井石を一枚取って強化ガラス製の天窓を設け、そこからの光で石室の内部がよく見えるようになっています。天窓を使った古墳の整備は、全国でも初めての試みで、石室内の壁は、もともと使われていた古い石材の上に新しい石材を積んで復元されています。古い石材はもろくなっているため、撥水(はっすい)強化処理が施されています。石室の床には礫を敷き、その中央に人を型取った板を設置。人型の周りには、2号墳から出土した戊辰年銘大刀や鉄刀、矢、土器など約35点の復元品が置かれ、埋葬当時の様子が再現されています。残念ながら天窓の内側に水滴がたまり曇っていて室内は見えませんでした。

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