とよおか市民学芸員養成講座第九回 「豊岡の近代化遺産」
講師:松井敬代さん(豊岡市教育委員会主幹)
日時:平成26年11月16日10:00-12:00
とよおか市民学芸員養成講座第9回に参加してきました。
ポカポカした陽気に恵まれ、近代化遺産と京町の城下町界隈に残る遺産を歩いてまわりました。
とよおか市民学芸員養成講座第九回 「豊岡の近代化遺産」
講師:松井敬代さん(豊岡市教育委員会主幹)
日時:平成26年11月16日10:00-12:00
とよおか市民学芸員養成講座第9回に参加してきました。
ポカポカした陽気に恵まれ、近代化遺産と京町の城下町界隈に残る遺産を歩いてまわりました。
兵庫県豊岡市日高町八代
かわいいアーチ型の窓が目を引きます。
新しい道ができるまでは旧道からは高い場所で気がつかなかったのですが、ドライブ中に変わったデザインの建物がふと目に留まり、寺院かな?と訪ねてみました。
今まで町内に住んでいてまったく知りませんでした。
玄関にはダイコンやネズミが描かれています。
表側に 「領徳碑」 兵庫県知事 阪井時忠
裏に書かれた内容(一部文字が読めませんでした)
井東勇先生は明治二十四年四月十五日医師逸太郎氏の嫡子として生まれ
県立豊岡中学校を卒し 大正五年三月金沢医学専門学校卒業 二年間附属病院 研究後この地にて医院開業 今日まで 十有余年 八代地区は元より奈佐地区民の医療に精魂を尽くされ□て 村医 校医 町医 城崎郡医師副会長を歴任されました
先生は温厚至誠刻苦勉励人 権勢おもねず営利に走らず 常に病人を看い 鋭意地区の診療にあたられ 「医は仁術なり」を身をもって示されました
人心軽薄功利に走る現世情に 人の道を教えられた先生の仁徳を仰ぎ その功績を永久に讃えるため 関係地区の善意によって この碑を建立する
昭和四十四年四月十五日
県立豊岡高等学校教諭 細川泰翆書
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旧豊岡中学校本館(現・達徳会館 -達徳会:豊岡高校の同窓会)
兵庫県豊岡市京町
1896年(明治29年)に、当時の本館として建設された建物。木造2階建てで、当時の流行であった擬洋風で建設されており、明治時代の近代化遺産として豊岡市指定文化財に指定されている。老朽化が烈しく現在は利用されていません。数年前に28期生同窓会が百年記念館であったとき以来、拝見しましたが外壁のペンキが剥がれかけており寂しい感じです。補修が必要です。
旧豊岡中学校本館でしたが、公売されかけたとき、校友会「達徳会」により救われたことがきっかけで保存され現在地に。現在はこの名称で呼ばれている。玄関には旧制豊岡中学、旧制豊岡女学校の校章が掲げられている。
和魂碑
達徳会館と校舎の間。豊高が火災に遭った年に1年で、プレハブ校舎が1年半、新校舎は2年後半からで、和魂ホールも建て替えられ、火災から免れた建物は今は達徳会館と木造建築とこの和魂碑が当時の面影を残しています。
グループ毎の卒業写真では、和魂碑をバックに人気が高いスポットです(でした)。
達徳会館奥にある木造平屋建て現存する唯一の和建築。
茶道部が使用していたが、今は不明です。
2016.12
旧豊岡中学校本館(現・達徳会館 -達徳会:豊岡高校の同窓会)
兵庫県豊岡市京町
1896年(明治29年)に、当時の本館として建設された建物。木造2階建てで、当時の流行であった擬洋風で建設されており、明治時代の近代化遺産として豊岡市指定文化財に指定されている。老朽化が烈しく現在は利用されていません。数年前に28期生同窓会が百年記念館であったとき以来、拝見しましたが外壁のペンキが剥がれかけており寂しい感じです。補修が必要です。
旧豊岡中学校本館でしたが、公売されかけたとき、校友会「達徳会」により救われたことがきっかけで保存され現在地に。現在はこの名称で呼ばれている。玄関には旧制豊岡中学、旧制豊岡女学校の校章が掲げられている。
和魂碑
達徳会館と校舎の間。豊高が火災に遭った年に1年で、プレハブ校舎が1年半、新校舎は2年後半からで、和魂ホールも建て替えられ、火災から免れた建物は今は達徳会館と木造建築とこの和魂碑が当時の面影を残しています。
グループ毎の卒業写真では、和魂碑をバックに人気が高いスポットです(でした)。
達徳会館奥にある木造平屋建て現存する唯一の和建築。
茶道部が使用していたが、今は不明です。
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾(若狭湾)のリアス式海岸を臨む都市舞鶴は、天然の良港です。北近畿を代表する国際港湾都市であり、行政・経済面において中心的な立場を担っています。市内東部にある軍港のほか、造船や硝子といった重厚長大産業都市として発展し、舞鶴都市圏を形成しています。
舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は丹波(丹国)の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹国は丹波国と丹後国に分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられました。
平安時代にまとめられた「和名抄」「延喜式」とも、国府は加佐郡、現在の舞鶴市内と思われます。ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、現在の宮津市府中と推定されます。最初は加佐郡に置かれ、のちに与謝郡に遷されたのではないかとも思われます。与謝郡には丹後一の宮である籠神社、国分寺跡などがあって、山陰道の支道が通り駅家が置かれており、古代の政治、文化の中心がここにあったことは確実で、府中という地名から想像しても、丹後国府がこの地に営まれたことは間違いないようです。
南北朝時代には、醍醐寺の荘園が置かれました。室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり、田辺(舞鶴)を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれました。以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落し、細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱します。
戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落しました。信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治しました。
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与しました。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川藤孝の項目を参照)。戦後細川家は、九州の豊前小倉藩に転封されました。
京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。
京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。[くわしくはこちら]
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明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称しました。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入されました。1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が明倫小学校として開校し、1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生しました。その後1901年(明治34年)10月には、舞鶴湾が日本海有数の軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画され、京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置されました。(現在でも舞鶴市内いたる所に海軍の遺跡が存在します。)
軍都として順調に発展を遂げた舞鶴でしたが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小され、一時期人口が減少、市況は沈滞しました。同年9月には関東大震災で被災した横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設されることになり、1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達しました。
1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになりました。また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請します。旧舞鶴市側は難色を示しますが、市役所の位置など諸条件を提示、東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任し、舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併しました。市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至りました。
戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加しましたが、1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲しました。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出しました。
1945年(昭和20年)8月15日、終戦。終戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となりました。1945年(昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめました。その頃の岸壁の母は有名です。現在は、当時の引揚桟橋があった平に、舞鶴引揚記念館が建てられています。
舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増しました。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に合併。新しい舞鶴市が誕生しました。当時の人口は154,953人。
しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化しました。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至りました。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議されました。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決しました。舞鶴は(かつて明治の廃藩置県までは田辺と呼ばれていました)東西を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展しています。東舞鶴はかつて1901年に舞鶴鎮守府が設置され、軍港として計画して造られ軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区でもあります。一方、西舞鶴は古代から丹国の中心として発展したかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区です。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、旧舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っているとされています。
西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接し、東舞鶴の東は福井県に接しています。西南部は福知山市、南部は綾部市に接しています。
市内をJR舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っています。また舞鶴若狭自動車道があります。現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われています。
日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすいですが(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」=北近畿共通)、盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもあります。舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mmは、全国152気象台の平均値に近い数値です。
1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、国政調査において初めて人口が10万人を超え、京都府内では京都市に次ぐ規模の都市になり、北近畿の中核都市としての地位を確立しました(舞鶴都市圏)。しかし、近年の人口は減少傾向が止まらず、現在では京都府南部の宇治市・亀岡市に追い抜かれています。
現在でも日本海最大の海上自衛隊舞鶴地方総監部(1952年設置)や第八管区海上保安本部(1948年設置)と海上保安学校(保安大学校は広島県呉市)があり、国防拠点都市としての性格と、舞鶴港が1951年(昭和27年)に重要港湾に指定、また1995年(平成7年)には日本海側港湾では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中国や韓国、ロシアなど定期コンテナ航路を有する国際貿易港を持つ交流・物流都市としての性格、また中丹広域振興局や近畿財務局などが立地する行政都市として発展を続けています。
平成20年4月、海上自衛隊所属である南極観測船「しらせ」がユニバーサル造船にて新造され、進水式が執り行われました。
対ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を設置する事が悲願となっており、1889年(明治22年)に、湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、舞鶴に鎮守府を設置する事が閣議決定されました。
しかしながら、呉、佐世保の整備が優先され、舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた賠償金があてられる事になりました。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事には莫大な費用を要しましたが、1899年(明治32年)末には、土地造成工事がほぼ出来上がりました。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。
周辺の名所・文化施設・祭事
赤れんが博物館(旧兵器廠魚形水雷庫)(国重要文化財
舞鶴赤レンガ倉庫群(国重要文化財および近代化産業遺産)
護衛艦隊(ごえいかんたい、JMSDF Fleet Escort Force)とは、日本の海上自衛隊自衛艦隊に属する護衛艦[*1]によって編成された艦隊。潜水艦部隊や掃海部隊、航空部隊と共に、日本の海上防衛を担っています。
護衛艦隊は日本の自衛艦隊の中核となる艦隊で、司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。海将が務める護衛艦隊司令官が、総数47隻の護衛艦と多数の補助艦艇よりなる護衛艦隊を指揮し、これらの練度管理にあたります。2008年(平成20年)3月に護衛艦部隊の大規模な改編が行われ、それまでの12個護衛隊を8個護衛隊(DDH中心4個とDDG中心4個)に再編され、また6つの地方隊直轄護衛隊はすべて解隊されて地方隊直轄であった護衛隊は護衛艦隊に新編、編入されました。2008年現在では、4個護衛隊群(Escort Flotilla)が編成され有事に備えており、海将補が群司令を務めます。各護衛隊群は4隻ずつ、2つの護衛隊(Escort Squadron)より構成され、搭載するヘリコプター8機が含まれる。護衛隊の1つはヘリコプター搭載護衛艦(DDH)が旗艦となりミサイル護衛艦(DDG)1隻を含むDDHグループと呼ばれ、別の護衛隊はミサイル護衛艦1隻を含むDDGグループと呼ばれる。護衛艦隊の編成
各護衛隊群の気質
各護衛隊群の気質の違いは以下の通り
地方隊とは、海上自衛隊に置かれて、主として担当の区域(警備区)の防衛・警備及び自衛艦隊の支援に当たることを目的としている部隊です。機動運用が行われる外戦の基幹部隊である自衛艦隊の隷下ではありません。旧海軍の鎮守府、陸上自衛隊の方面隊に相当するものです。
1999年(平成11年):舞鶴警備区内で不審船事案が発生する。防衛庁設置法に基づく「調査・研究」として、舞鶴地方隊の護衛艦「あぶくま」(DE-229)が、舞鶴基地を主たる母港とする護衛艦隊第3護衛隊群の「はるな」及び「みょうこう」とともに出動したが、「あぶくま」は地方隊配備護衛艦であって比較的低速だったため、充分に活躍できなかった(能登半島沖不審船事件)。2001年(平成13年)3月22日:舞鶴市長浜地区に舞鶴飛行場が完成し、今まで館山航空基地から飛来していた哨戒ヘリSH-60Jも舞鶴に常駐とする事ができるようになった。DE型護衛艦[*2]が配備され、日本海側の警備を担当することが主任務です。 北朝鮮への工作船の暗躍などに備えるためミサイル艇、高速警備艇の配備や特別警備隊なども順次配備され、島根県・山口県県境から秋田県・青森県県境までという広大な守備範囲を持ち、日本海側唯一の海上自衛隊の基地として増強が図られています。機動運用が行われる上記の自衛艦隊と異なり、警備区内での運用が中心であることからから旧型のDD護衛艦や、あぶくま型護衛艦などの小型のDE護衛艦や、さらに小型で高速のミサイル艇などを運用しています。
編制
海上保安庁は、海上の安全及び治安の確保を図ることを任務とする行政機関であり、国土交通省の外局となっています。主に、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務の内訳となりますが、現実には海洋権益の保全(領海警備・海洋調査)をも任務としています。
諸外国では沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊等と呼ばれる準軍事組織に相当し、戦争の際は軍隊の一部として参戦することが国際法では認められていますが、日本はこれを否定しています。有事の際に防衛大臣の指揮下に組み込まれる可能性はありますが、自衛隊には編入されず常に警察任務と海難救助に徹することが目的とされています。英称は1948年の開庁以来 Maritime Safety Agency of Japan(略称:MSA または JMSA 「日本国海上保安庁」の直訳)を用いてきました。しかし、諸外国の船員等の間で「海上警備機関か海事サービス機関か不明瞭」との声が多かったため、2000年から Japan Coast Guard(略称: JCG 「日本国沿岸警備隊」の意)に改められました。第八管区海上保安本部とは、海上保安庁の管区海上保安本部の一つで、北近畿と山陰地方の日本海沿岸、列びに京都府・福井県・兵庫県・鳥取県・島根県・竹島を管轄範囲とします。略称は八管。英語表記は8th Regional Coast Guard Headquarters。本部は京都府舞鶴市字下福井にあり、下部組織として4つの海上保安部、6つの海上保安署、航空基地1カ所、情報通信管理センター1箇所を有します。
第八管区は、山口県・島根県境から石川県・福井県境までの広い海岸線に特徴を持っており、日本海でも山陰地方の沖合には、日本以外にも中華人民共和国・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と記述)・ロシアの多くの船が行き交っています。第八管区管内では、日本海中部海域不審船事件やナホトカ号重油流出事故などが発生しており、その反省から警備業務、海難救助業務、災害防除業務を拡充しています。その他、日本海最大の好漁場である「大和堆」等における大韓民国の不法漁民による排他的経済水域内の密漁の摘発、北朝鮮工作員の不法入国や北朝鮮工作員や暴力団による麻薬・偽紙幣の密輸の阻止、海上自衛隊舞鶴基地周辺海域や若狭湾の原子力関連施設群、島根原子力発電所の警備業務、韓国が不法占拠を行っている竹島周辺海域で、韓国海洋警察庁による日本漁船拿捕を阻止するための警戒等も大きな仕事であります。組織第八管区海上保安本部
海上保安庁は、1948年(昭和23年)、芦田内閣の下で設立されました。これは第二次世界大戦後、それまで日本周辺海域における法秩序の維持にあたってきた日本海軍が掃海部隊を除いて解体され、日本の海上における救難・治安の維持および海上交通を担当する世界初の海上警察・救難総合機関として、運輸省(現国土交通省)外局に設立されたものです。
1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊が海上保安庁附属機関として組織されましたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となりました。保安庁創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていました(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により結局、保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま、それに代わる自衛隊法の制定によって廃止となります。そのため、海上保安庁は改組を免れてそのまま存続することとなりました。
海上保安庁は、戦後にアメリカ沿岸警備隊をモデルに誕生した組織であり、一方の海上自衛隊地方隊は、独立した沿岸警備組織がなかった戦前に沿岸警備を行っていた「海軍鎮守府」の伝統を受け継いだ組織である。創立時から、それぞれの職域が大きく重複していた。近年、不審船事件の発生などを受けて海上保安庁の体制が拡充しており、地方隊と海上保安庁との線引きが曖昧になってきている。海上警備任務では、日本近海で続発した不審船事件のうち能登半島沖不審船事件では、自衛艦隊の護衛艦隊の第3護衛隊群所属護衛艦と共に舞鶴地方隊所属護衛艦も出動したが速力不足で十分な活躍はできなかった。
脚注