第6章 3.ヒボコは日本人だった。天皇の皇胤

終章、まとめとしてこのタイトルの結論に。

縄文時代からヒボこの頃まで、今の韓国に当たる半島の南部湾岸部はワ・やまと国の一部である

『古事記』応神天皇記(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、『日本書紀』(720年)では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されている。

当時の新羅は、金海市周辺の任那伽耶諸国であって、記紀のころ(712・720)の「新羅国」と「倭国」の関係では、新羅国は存在したが、ヒボコの時代には、半島南部には百済・新羅もまだ存在していないし、その前の馬韓・弁韓・辰韓三国より倭国統一がずっと古い。そして新羅としてまとめていった母体の王は倭人によるものであって、その子孫がヒボコなのだ。その証拠に日本列島の前方後円墳よりも後に当たる前方後円墳が、そうした半島の西南端から5世紀後半から6世紀前半14基は確認されているのだ。それは、縄文から当時まで、朝鮮半島はまったく未開地に等しく、対馬に近い半島南部は倭国の一部であった。いない最盛期に都を置いた半島東部の慶尚南道の慶州とは無縁である。その後の南端中央部が弁韓となるのが、任那伽耶諸国である。

天日槍(ヒボコ)は、天皇の皇統である=倭(大和)の天皇の血統

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には、「人皇六代孝安天皇53年、新羅王子天日槍命帰化す。」とあるが、さらに「天日槍命は(神武天皇の父にあたる)鵜草葺不合ウガヤフキアエズ命の御子、稲飯命五世の孫なり。鵜草葺不合命は海神豊玉命の娘、玉依姫命を娶り、五瀬命・稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生み給う。」

そして稲飯命と豊御食沼命は海路を紀の国へ出ようとしたところ強く激しい風に遭い、漂流して稲飯命は新羅に上がり国王となりとどまられたと記している。このように新羅の皇子が帰化、または渡来したとされるが、当時の百済、新羅は倭国の属国であり、国王稲飯命は神武天皇の父にあたる鵜草葺不合命の二番目の子であり、天日槍命はその五世孫であるから神武天皇とは同じ系統である。

『三国史記(新羅本紀)』(1145年)には、

57年 4代王「脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。」(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)この多婆那国は但馬あるいは丹波ではないかとする説がかなりある。

しかし、私はこの「但馬あるいは丹波」の分類が時代的に間違っているように思う。この時代には但馬も丹波(丹後)もまだなく、丹波の中心は今の丹後で、のちに丹波は丹波と丹後・但馬三国に分国されたのだから、今の但馬だとか丹波・丹後だというのはあまり意味はない。多婆那国は但馬も丹波・丹後も含まれるからである。

多婆那国の那は奴とも書き、隋書東夷伝には「倭奴国」とあり、倭も奴も中国や朝鮮における派生的な蔑称であるので多婆国とした方が正しいと思う。多婆と丹波は発音が似ている。

当時日本の文献では田庭とも記され、但馬は元は多遅麻や谿間と記された。それらの漢字に意味はなく、タニワ、タンバ、タニマ、タヂマ等同じことを指すように思える。

伽倻・新羅建国の王は倭人

(斜線部分は伽耶諸国)

なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。また、秦(中国)の秦氏ではないかという説もある。新羅王族であった昔氏は、日本(倭)の多婆那国から新羅に渡り王となったとする。金という姓が最大だが、金氏も地方に異なるようだ。その中でも金海金氏が韓国では最も高貴で由緒があるとされるらしい。

しかし、金海とは任那伽耶である。その金氏のルーツは日本人であると知れば、益々何もかもデタラメな朝鮮半島の歴史は、崩壊しかねない。

(新羅王族の王子であるヒボコは、但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。

日本書紀の意富加羅国とは、朝鮮半島南西部の伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)であり、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶・加耶、百済や中国では伽耶カヤ、あるいは加羅カラと表記されていたためだと言われ、日本(倭)では任那(みまな)とも表記され、南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那は日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

 

朝鮮半島から伝わったのではなく、日本人の祖先は二度朝鮮の基盤をつくった

今日の研究では未開地だった半島に弥生土器や稲作も北部九州から半島南部へ伝わったようで、モンゴル系統の高句麗、南は縄文人から倭人によって土器や稲作が伝わり、やがて村に近いクニを形成していった。中央部にはワイ族という先住民がいた。

イギリスのかつて大英帝国として植民地があったように、百済・新羅は外国というより倭国の属国あるいは朝貢国であった。但馬国の国と新羅の小国の加羅・安羅・任那などの国は同じ倭国の中の小国(くに)といった方が正しいだろう。同じ大英帝国であったインド領や今でも英連邦のオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから本国イギリスに戻ったからといって国籍は違っても帰化したとは言わないだろう。

紀元前150年頃は、中国の『漢書』に記された前漢代、日本の弥生時代中期にあたる。『漢書地理志』によ倭、倭人が登場する。1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国家というよりクニすなわち囲まれたムラの規模)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。

倭人は北部九州をはじめ壱岐、朝鮮半島南部やに当たる。の百済の前進である馬韓、や任那日本府、加羅、安羅などのクニがあった弁韓、東部の新羅の元となる辰韓はその倭国107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。

 天日槍の出自と倭韓一国説

最後に、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記の巻末に以下の文が注解として著者、吾郷清彦氏も、天日槍の出自で倭韓一国説として付記しています。

天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。ことに、神功皇后すなわちお息長帯姫命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

依って今、ここに天日槍命の帰化と新羅王が稲飯命の子孫であるか否かについていささか触れてみよう。

天日槍は、勅使(三輪君の祖大友主命、倭直の祖長尾市命)の問いに対し、

「僕は新羅王の子、我が祖は秋津州(日本列島)の王子稲飯命。しかして僕に至り五世におよぶ。只今秋津州に帰らんと欲して、吾国を弟の知古に譲りこの国に来る。願わくば一畝の田を賜りて御国の民と為らん」(本郡記・孝安天皇五十三年の条)

いま『日本古代史』(久米邦武)を見るに、天日槍命の帰化を孝元朝と考定し、この命が但馬および伊[者見]の主となった事由を次のごとく述べる。

「孝元帝の時は倭国大乱の最中なるに、天日槍命の但馬および伊[者見]の主となりたるは、伊[者見]県は儺県に近接し、伊[者見]津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要衝となしたれば、その接近の地を占領せしたるは、伊[者見]県に去りがたき縁由のありての帰化なるべし」

(中略)

この命が但馬に定住するに至った左の一文は、記紀・ホツマおよび本巻によって肯定することができる。
「丹波主家は、息長宿祢に至って、但馬日高の娘・高貫姫を娶り、息長帯姫皇后(神功)の新羅遠征など、但馬氏・息長氏と丹波主家とは浅からぬ縁故のありて、新羅と気脈を相通するに似たり。また日本書紀に天日槍は但馬出島人太耳の娘・麻多鳥を娶り、但馬諸助を生むとある。太耳は以前よりの県主にて、天日槍を迎えたるものにあるべし」

息長帯姫(神功皇后)は天日槍の七世孫・高貫姫を御母とするので、新羅王の血が混じっていることになる。けれども、この新羅王が新羅国の祖、朴赫居世干ザツキョセカンすなわち稲飯命いないのみことの子孫と伝える記録を事実とすれば、神功皇后の血統は本来皇胤こういんであることとなる。

従って、これは血族の里帰りと云うべきだろう。

(*1 長尾氏は代々出石神社の宮司(神官)家)

久米邦武は自著『国史八面歓』で、
「元来新羅は神代より出雲の兼領地で、周漢寄りの半島をカラと称し、筑紫(いまの北部九州)・中国・四国等の連島を倭と称したが、その頃においては、倭・韓は一国であって云々」と論じ、韓史に基づき倭韓一国説を主張する。


[註] 新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。天日槍が任那・加羅の王子であったことは充分考えられるが、新羅(半島東部)は新しい国家で、倭や古墳時代には縁がない事。
記紀を編纂した当時にはすでに新羅あったが、天日槍の伝承の頃には半島に国家はないのだ。ずっと以前にあった事を聞きながらまとめあげたのだから、(いまの)新羅の皇子と記したとも考えられる。

以上、『国司文書 但馬故事記』解説 吾郷清彦
、他から拙者が加筆した。

新羅王族は日本語を話していた

『韓国人は何処から来たか』長浜浩明氏

最初に朝鮮半島へ移り住んだのが縄文人ですから、最初に話された言葉は縄文語であることは容易に想像できます。そして三国時代から任那滅亡までは半島南部は倭人の地であり、当然日本語が話されていました。

その北は韓人が住んでいましたが、彼らは倭人との交渉もあり、日本語と相通ずる言語が話されていた状況証拠はいくらでもあります。

記紀には天日槍は新羅の王子とあるが、「今の新羅にあたる半島南端部は、かつては伽倻・任那といって倭国の分国であったが…」この補足が欠けているのである。天日槍がいたクニとは、九州北部と同じく倭人の国・加羅・任那であると考える。

その理由として、

  • 日本には1万ともいわれる旧石器遺跡が発見されているが、朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無人地帯に近かった。
  • 前5,000年から紀元前後まで、5千年の長きに渡り、縄文人(日本人)が半島へ進出していた
  • 新羅王族は日本語を話していた
  • 辰韓人と弁辰人(伽倻)は習俗が、風俗や言語は似通っていたが、辰韓(のちの新羅)は異なっていたこと。
  • 加羅国、安羅国は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ弁韓の少国であること。
  • 倭の前方後円墳は北はソウルから西は栄三江流域から釜山までつくられている。

天日槍がいたクニとは、おそらく馬韓(のちの百済)の東、辰韓(のちの新羅)の南で、日本海に接し、後の任那・駕洛(伽耶)と重なる場所にあった地域である。

九州北部・対馬・壱岐・済州島などの島々・半島南部は縄文人から倭人が開発した地域であった。

『日本人ルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

当時の九州の人たちは、縄文時代から半島南部に根を張り、日本と半島、場合によっては大陸を含む交易に従事していた。(中略)

今まで「大勢の渡来人が日本へやって来た」とされた時代、逆にかなりの日本人が半島へ進出していた。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。(中略)平成十年(1998)、青森県の太平山遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまで世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアは勿論、「偉大なる中国民族」より何千年も前から、日本列島の人々は土器を作っていた。世界四大文明より数千年も早い9千6百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界最先端であり、世界最古の文明は日本列島だったのだ。縄文晩期の水田稲作や尺で図った精巧な木組みの高床式建築の遺構が多く見つかり、技術力はその頃から巧みであったのだ。

天日槍は神功皇后の血統、本来皇胤こういんである

かつて学校で、「弥生時代に大量に渡来人がやって来て弥生土器と水田稲作を伝えた」と習った人もいるであろう。縄文人はお酒(山葡萄酒)もたしなんでいた痕跡も見つかり、コメ以外に麦・粟・稗・豆の五穀も栽培し栗の木を植え栃の実からもちを作り食べていた。また野山の果実や山菜、海の幸はアサリ、ハマグリ、サザエから魚介類は取り放題。そういう意味では現代人よりグルメだった。

弥生人は渡来人だとの固定観念に縛られた考古学者などの執筆者の固定概念が新しい発見により違っていたことが分かってきたのだ。日本は半島や中国からやって来た人が稲作や文化を教えられたなどでは自虐的な教科書がなら日本史が楽しいはずがない。

また、弥生時代の稲作は朝鮮半島ではなく、中国大陸の江南(長江以南)から日本列島及び半島南部にもたらされたとされたという説も根強い。しかし、大陸からわたって来た人は年に2、3家族程度だったようである。今の日本の方が中国永住者は圧倒的な数だ。

半島南部に稲作が伝播したのはおそらく縄文人・弥生人であり、また日韓併合により全土に稲作を広めたのは植林・農地改革によるものである。

倭(日本)人と朝鮮半島の人とくに女性のDNAに同じD系統を持つ人がいるのは、元々倭人の子孫だからであり、日本人のルーツが半島にあるのではなく、逆で半島が倭人のDNAが混在しているからなのである。


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第4章 3.ヒボコの時代の半島南部は倭人のクニ

1~2世紀の朝鮮  『古朝鮮』NHKブックスより「韓国人は何処から来たか」長浜浩明

『日本人ルーツの謎を解く』長浜弘明氏によると、
例えば司馬遼太郎は、『街道を行く1』(週刊朝日 1971)で次なる文言を連ねていたが、そこには腐臭が漂っていた。

「日本民族はどこからきたのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば日本人の血液の中の有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」
「日本人の血液の6割以上は朝鮮半島を伝ってきたのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、我々日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは、否定すべくもない」
(中略)
それでも20年余りの間に多くの発見がなされ、考古学、人類学、生物学、DNAから言語学まで新たな発見が積み上がっていった。
先の司馬遼太郎の言い様は、次のように言い換えなければならない。

「韓国人は何処から来たのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば韓国人の血液の中の有力な部分が、玄界灘を北上し、日本から大量に流入した縄文時代の人たちに依ることは紛れもないことである」
「韓国人の血液の6割以上は玄界灘を北上して行ったのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、韓国人の先祖の大多数は日本から流れ込んできたことは、否定すべくもない」

旧石器時代、朝鮮半島はほぼ無人地帯だった

『韓国人は何処から来たか』長浜弘明氏によると、
先史時代、人が住んでいたことは遺跡で知ることができます。では半島の旧石器遺跡はどの程度発見されているのでしょう。
古代研究家・伊藤俊幸氏は、韓国人の祖先は遠い昔に北方から半島へたどり着き、sこから海を渡って日本へやってきたと信じていました。(中略)
しかし、韓国の前国立博物館館長、韓炳三が示す図は衝撃的である。
朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は北朝鮮・韓国で50ヶ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000から5,000ヶ所に上るのにである。(中略)
今、日本からは1万とも言える旧石器遺跡が発見されており、対する朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無きに等しかったのです。
相対的に見ると日本は人口が多く、半島はほぼ無人地帯だったのです。

韓国の歴史は4,000年に満たなかった

伊藤俊幸氏は「次の表は衝撃的である。BC1万年から5千年の間、遺跡が、すなわち人の気配が半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは7千年前からである。
(中略)
日韓の専門家の他に、韓国の国家機関や博物館が総力を結集して作成した『韓国の歴史』(河出書房新社)に次の一文がある。
「旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の祖先ではなく、直接の祖先は約4千年前の新石器時代人からである。そう推定されている」
(中略)
では7千年前、即ち前5千年頃やって来て、3千年以上の長きに渡り、韓半島の主人公だった人々は何処からやってきたのか。
その後、約4千年前、即ち前2千年頃やって来て、韓国人の直接の祖先につながる人々はどこからやって来たのか。

まず、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に登場する天日槍命が出石で帰化したのは、人皇6代孝安天皇の五十三年(推定年代:長浜浩明氏の算定で孝安天皇在位期間は西暦60-110年)と記されている。

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ加羅カラ任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。加羅と任那といっても入り組んでいて、その頃の国は、高句麗・百済・新羅・加羅・任那が流動的に動いており、とくに加羅・任那には三韓の地域の一つである弁韓を母体とする。

その時代の半島南部を知っておきたい。3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

最初に「 日本府」の呼称を使ったのは新羅王

『知っていますか、任那日本府-韓国がけっして教えない歴史』大平 裕は

「日本府( 倭府)」 という機関名が初めて出てくるのは、『 日本書紀』 の 雄略天皇八( 四六四)年のことです。 そして注目されるべき は、 この機関名を言葉にしたのが 新羅 王( 慈悲麻立 干、 在位四五八 ~ 四 七 九)だったことです。 新羅王は、 新羅が高句麗の来襲を受け、国は累卵 の危機にあると、使を任那王に出し、「 日本府の軍将ら」の救援を願い出たのでした。 記録に残るかぎり、「日本府」という名称を使ったのは日本( 倭)人ではなく、 新羅王だったのです。

三韓

1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島南部は、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる地域を西から馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
天日槍命が記紀に登場する年代は、年号の解釈には諸説あり断定的なことはいえないが、孝安天皇の在位期間をおおよそ西暦60~110年とすると、建武20年(44年)が「韓」の初出とされ、馬韓の初出は建光元年(121年)であり、辰韓・弁韓も同時期に分かれたとすれば、辰韓は三韓以前の韓とよんでいた地域となる。1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部には種族とその地域があった。朝鮮半島南部に居住していた種族を「韓」と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる西から「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の3つの地域に分かれていったことから「三韓」といった。

したがって、記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条(244年)において天日槍(ヒボコ)が渡来した頃に、半島北部は高句麗であり、朝鮮半島南部には国と呼べる地域に国家は成立していない。『日本書紀』が完成された養老4年(720年)には新羅・百済という国家といえるが、三世紀中頃は、新羅の前身の辰韓、加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、半島南部の海岸部は、縄文時代から北部九州から対馬・朝鮮半島最南部は、倭人が移り住んでいた倭国(任那)で、半島南部は、同じ倭国の勢力範囲だったことをまず念頭に入れなければならない。土器・稲作などの文化は半島から日本に伝わったのではなく、韓はもとの字は空(から)ともいわれ、未開の空白地域であり、九州北部から半島南部へ伝わっていったのがわかってきた。そして村々が生まれていった。倭人・倭種・半島土着民の混合であった。

『三国志』東夷伝による諸民族の住居地域 『古朝鮮』NHKブックス 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

 

この頃の半島中南部は、伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

また、任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。

任那(みまな)

3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。4世紀初めに中国の支配が弱まると、馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。

任那加羅の名が最初に現れるのは、414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
「百済と新羅は高句麗の属民だった。故に朝貢していた。ところがその後、日本が辛卯かのとうに海を渡り来て、百済、□□、新羅を討ち破り、日本の臣民にしてしまった。」

辛卯とは391年と信じられており、応神天皇の御代と重なる。応神七年、「高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝し、彼らを使って池を作らせた」とあるから、□□とは任那に違いない。この頃から、百済、任那、新羅は日本の臣民、即ち分国の民となっていたことを、高句麗は忌々しげに刻んでいたのだ。

新羅・百済は倭(日本)の臣民だった

『日本書紀』は、この時代、新羅や百済は大和朝廷に朝貢し、三国志が「倭人の地」とした半島南部の任那は「日本の分国だ」と記述している。この時代、百済や加羅(任那)を臣民としていたことがあらためて確認された。

『三国遺事』(1275年)によれば、駕洛カラ国が西暦42年から10代532年まで存在していたことになっているが、『三国史記』新羅本紀(1145年)には金官国(金仇亥)の記録しかなく、また『南斉書』加羅国伝には、建元元(477)年に、国王荷知が、遣使、朝貢を果たしたことしか遺されていない。王統が一時断絶したり、倭国人系の王がとってかわって統治したり、有力国の王家が登場したのかもしれない。

加羅カラ(大伽耶カヤ・伽耶・伽那)

『知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史』大平 裕氏によると、慶尚北道高霊コリョン郡に比定される。ただし、『日本書紀』に出てくる加羅は、加羅連合体、あるいは金海加羅を指す場合もある。

南加羅(金海伽耶・金官伽耶)

慶尚南道金海キメ・きんかい市に比定される。『三国史記』地理志に「金海小京、金官国(一云、伝伽落国、一云、伽耶)」とある。(中略)安羅伽耶は咸安ハマンに、古寧伽耶は咸寧ハムニョンに、星山伽耶は星州ソンジュに、小伽耶は固城コジョンに大伽耶は高霊コリョンにそれぞれ都を定めたという。

安羅アラ・やすら(阿羅・安邪)

慶尚南道咸安ハマン郡に比定される。

高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。新羅という国号と国は誕生したのは、繰り返しになるが、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で、新羅建国と合わないのだが、『記紀』が編纂されたのは、白村江の戦い(天智2年8月・663年10月)朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争から間もない。

 

新羅(シンラ・しらぎ)

国と言えるような百済・新羅が誕生するのは6世紀以降で、この頃の半島中南部は、弁韓地域の伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

まず、新羅(しらぎ/しんら)の誕生期を留めておきたい。したがって、記紀が記された頃には、新羅が成立していたのであるが、新羅という国号と国は誕生したのは、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で新羅建国と合わないのだ。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆シロ国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王なもつおう以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

新羅は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家だが、そもそも新羅国が誕生したのは、紀元356年- 935年とされる。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となったもので、6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。

3世紀後半から4世紀の朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していた。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用したが、402年までは鶏林の国号が使用された。

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

4世紀末の半島と高句麗軍南下に対する日本軍の反撃想定路(『日本史年表・地図』吉川廣文館
『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

*1 日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。(ウィキペディア)

韓国の前方後円墳
『韓国の前方後円墳』森浩一 『韓国人は何処から来たか』長浜弘明

全羅南・北道に散在する日本古来の前方後円墳14基や韓国西海岸辺山ピョンサン半島の突端にある竹幕洞チョンマクドン祭祀跡から、日本との関係を示す埋葬品は、4世紀後半から6世紀にかけての鉄製武器、金銅製馬具、銅鏡、中国製陶器などの出土品、特に注目される石製模造品は、福岡県沖ノ島祭祀遺跡の出土のものと酷似していて、それらは倭国からもたらされたものと考えられている。
(中略)

 

 

 

百済、新羅は、馬韓54ヵ国、辰韓12ヵ国といった小国群をまとめながら、ようやくそれぞれ346、356年頃、一つの国として東洋史に登場する。それほど古い国ではない。一方倭国は、百済・新羅にはるか先行し、『魏志倭人伝』の記述があるように、西暦200~240年当時には慶尚南道(朝鮮半島南東地域)沿岸部を「倭地」として管理している。この地域のすぐ北方ないし周辺地の狗邪(伽耶・加羅)韓国を傘下に、鉄資源の確保から、楽浪郡・帯方郡その他の地と交易をさかんに行っていたのである。
(中略)

 

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、

「列島か流れてきた賢者が新羅の王になる」話しについても、戦後日本の朝鮮史学者たちは「そんな説話は嘘に決まっている」として、『三国史記』の前半部分を“古史書の墓場”に深く埋葬している。しかし“歴史の事実”であるかどうかはさておき、「ただの古史書ではなく、一国の正史が現にそう書いている」という“記載の事実”は、どこまでも重い。

(中略)

『三国史記』が出来上がったのは12世紀、高麗王朝の時代だ。『三国史記』そのものが、“高麗とは山賊が打ち立てた国家”ではなく、「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」と主張することを目的にした正史といえる。

そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくった」という“危うい話”を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。(中略)『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が決して捏造ではないこと、年代については疑問があるにしても、事実の確実な反映であることが見えてくる。考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。

10.銅鐸・鰐口・神社の鈴

身近な祭式に用いられたかも知れない銅鐸は、地中に埋められ人々の前から姿を消してしまう。
寺院などの軒先にある風鐸、鰐口、鈴は残った。本来鈴の清らかな澄んだ音色には、悪いものを祓う力があると信じられてきた。
神社で拝殿前に吊るされた鈴も、お参りする人が鳴らすことで祓い清めるという意味を持っている。しかし神社で鈴を鳴らして拝むのは、戦後に広く行われるようになったもので、出雲大社などでは昔も現在も拝殿に鈴はないし、地域の社や祠などにももともと鈴はさげられていなかった。
「鈴」とは、音を出す道具の一つである。土器や金属、陶器などでできた中空の外身の中に小さな玉が入っており、全体を振り動かすことで音を出すものである。銅鐸も鈴の原型であったと考えられる。似たものに鐘がある。英語ではbell。鈴は内部に玉や鐸は舌という棒状のものを吊るし音を出すが、鐘の場合、舌や撞木は人間が触れることができ、紐やワイヤーで鐘の外身あるいは鐘の置かれた建造物とつながれている。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』-長浜浩明氏は、

古事記は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記しているが、どのような意味なのだろうか。
(中略)
実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりに生ったからだ。
では何故、鈴なり=鈴というのか。
(中略)この褐鉄鉱は時に内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離し、振ると音が出ることがある。鈴石などと呼ばれる。褐鉄鉱=スズが密生した状態が「すずなり=五十鈴」の原義であった。(中略)どこか銅鐸に似ているように思えないか。
(中略)
ここに至り、「豊葦原」の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人びとは製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。
当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源でることを知っていた。従って、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」という意味なのだ。
(中略)
高知県西部の四万十川上流、窪川町の高岡神社には五本の広峰銅矛があり、それを担いで村々を回る祭りがある。(中略)その本義は、葦の玉葉が生い茂るのを祈り、葉が茂ればその根にスズがたくさん生み出される、それを願って行われたに違いない。

また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴。これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして、祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅器を用いるようになっていった。このような考えに逢着したのである。

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