サンフランシスコ講和条約で戦争問題は終結している
基調講演に立った渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、次のように発言されました。
「日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判の諸判決を受け入れたが、講和条約とは過去についてこれ以上は問わないというのが原則だ。A級戦犯「平和に対する罪」で禁固7年に処された重光葵は鳩山内閣の外相になり、国連でも日本代表として演説し、そうした重光の死に対して国連では黙祷を捧げている。講和条約の締結から日本は全員を無罪にすることに成功した。講和が成ったため、日本は韓国や中国に一言も謝罪しなかった。
それが謝罪するようになったのは、昭和60年、外務省が土井たか子氏の質問に対し、日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰したとの趣旨の答弁をした頃からだ。安倍政権時の麻生外相も同じ趣旨を述べている。東京裁判を受け入れて国際社会に復帰したというのは完全な誤解である。それを政府答弁で認めたから中韓に謝罪するしかなくなった。この外務省答弁が以後の謝罪決議や村山談話にまで引き継がれており、田母神論文事件のように今も日本を縛っている」
と述べ、東京裁判に対する誤解が今も日本の外交や国益を損なっている実情を指摘しました。
続いて、シンポジウム第一部の「パネリスト提言」で、櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)は、
「GHQは占領時に新聞・ラジオをはじめメディアを厳しく検閲し、『日本が悪かった』という歴史観を植え付けた。そのため、諸外国の一流の学者たちが東京裁判について疑問を呈している中で、日本だけが『東京裁判は正しく、重要であり、異議を唱えてはならないものである』というような解釈をし、それがまかり通っている。東京裁判史観を葬り去るために、私たちは正しい歴史認識をしなければならない。幸い東京裁判について多くの分かりやすい資料や書籍が出てきたので、私たちはまずそれらを読むことから、真の立ち直りができるのではないかと思う」
と、満州事変などを例に、東京裁判史観に対する日本人の心構えと、私たち一人ひとりができることついて提言をされました。
坂元一哉氏(大阪大学教授)は、
「サンフランシスコ講和条約を結んだことで、日本が東京裁判の正当性を認めたというのは誤解だ。外務省は、判決を含めた裁判全体を、東京裁判が正しいかどうかの評価とは別にして『受諾した』と考えているようだ。しかし、当時日本が東京裁判を正しいとして受け入れたはずはない。アメリカも講和条約によって東京裁判を正当化しようとしたわけではない。吉田茂であっても戦争責任を認めて謝罪して受け入れたのではなかった。また講和条約11条も、よく条約集で見るような戦争犯罪に関する条文ではない。戦犯の処遇の問題であって、草案当初はなかったが『水漏れを防ぐ』ために加えられたものだ。朝鮮戦争を背景にして『和解と信頼の調和』として講和条約は結ばれ、日本の過去が良いとか悪いとかは一切分からない条文になっている」
と、講和条約をめぐる東京裁判の問題について誤解を除かなければならないことを主張しました。
八木秀次氏(高崎経済大学教授)は、
「今でも国際的に、ナチスドイツの行為と日本の戦前における行為を重ね合わせるような議論や発言がなされているが、その淵源は東京裁判にあると思う。
『侵略戦争は戦争犯罪である』というのは、ドイツの戦争遂行の裏にあったユダヤ人虐殺という衝撃の事実を裁くために、ニュルンベルク裁判の方針として英米仏ソにより決められたものである。このナチスドイツを裁くための枠組みが東京裁判にも適用された。日本が、ナチスドイツと同様に『計画的な大量の住民虐殺を伴う邪悪な侵略戦争』を行ったとするために出されてきたものこそが、いわゆる『南京大虐殺』である。まさに、『日本はナチスドイツのとばっちりを受けた』のである」
と、ニュルンベルク裁判でナチスドイツを裁いた枠組みが、東京裁判の大きな体系を作り上げていたという事を強調されました。
また、日本国内においては、1952年、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は、当時日本の全人口の約半分にも相当する4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
国際法からみた東京裁判は裁判と認められない
1945年、ポツダム会談で第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここでという新しい戦争犯罪の概念が登場。A級戦犯「平和に対する罪」が登場した。極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の定義。ABC級は等級ではなく文字自体に罪の軽重を示す意味は含まれない項目で、日本ではイロハ項と訳されているが級と訳したことで誤解されている。つまり事件が起きた後に決められた事後法で裁くことは認められていない原則に反する裁判である。
極東国際軍事裁判(東京裁判)では、(イ)平和ニ対スル罪、(ロ)通例ノ戦争犯罪、(ハ)人道ニ対スル罪の3つに定義され、戦争犯罪者として裁かれた戦争中の指導者たち全員に有罪が宣告され、東条英機元首相以下7人が(イ)平和ニ対スル罪として絞首刑になりました。
この裁判で、被告は「A級:平和に対する罪」を犯したとされました。これは自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とする者でした。こうした罪で国家の指導者を罰することは、それまでの国際法の歴史にはありませんでした。その行為を禁ずる法律がなかった時点でのできごとを、後からつくった法律(事後法)で裁くことはできない、というのも、それまでの世界の法律学の一致した理解でした。
東京裁判でただ一人の国際法の専門家だったインドのパール判事は、 「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」「この裁判は国際法上の根拠を欠いている」
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」 とA.J.ノックの言葉を紹介している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。
として、被告全員の無罪を主張しました。しかしGHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、この裁判への一切の批判を許しませんでした。
また、フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。
オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。
A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。
なお、イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2ヶ月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。
また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマンアメリカ合衆国大統領と会談した際に、「戦犯裁判は、戦争防止のためには役に立たない」と述べたといわれる。
GHQは日本に於いてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したとされる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた。
日本国内においては1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
東京裁判については、国際法上の正統性を疑う見解と、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていません。
将兵への戦争犯罪裁判
国家指導者たちとは別に連合国側は日本の内外で「連合軍側の将兵や民間人を違法に処刑したり虐待した」という容疑で数千名におよぶ日本軍将兵を裁判にかけ、971名を銃殺や絞首刑で判決を受けた例もあるといわれ、さらに遺族が日本の社会で差別の苦しめられることもありました。
GHQの思想政策
GHQは、占領直後から、書籍、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対する厳しい検閲を行いました。また、戦争を起こした日本は悪い国家で、連合国が正義である、とマスメディアを通じて宣伝しました。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、戦後の日本人の自国に対する見方にさまざまな影響を与えました。
靖国神社問題
靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案により明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。
「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦記念日である8月15日の参拝は大東亜戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。
日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであったが、中国(中華人民共和国)、韓国(大韓民国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の3カ国はA級戦犯が合祀されていることから、日本の首相参拝が行われる度に激しい反発を繰り返しており、外交問題となっています。
しかし、本来、靖国問題というのは、政治問題にも外交問題にもなり得ません。神道は日本の文化の問題であり、古来から中華圏の宗教観とは一致しません。宗教も祭祀も認めない国が「日本の文化」に注文を付けるべきではありませんし、日本には死者をむち打つ文化はありません。死ねば等しく神です。A級戦犯を合祀しているというが、上記のように、ABCは戦争犯罪の重さを示すものではなく単なる区分であり、そもそも東京裁判は、国際法による軍事裁判ではなく、極東国際軍事裁判所条例による裁判であり、判決自体が無効です。中国は、日中平和友好条約で戦犯問題に何の留保条件もつけていないばかりか、「内政の相互不干渉」の原則を約束していました。日韓基本条約もそうですが、条約は過去のあらゆるトラブルを解消して再出発しようという取り決めです。本音は、覇権の確立を狙っており、秦の時代からの中華思想そのもので、内モンゴル、チベット、その中に台湾同様、日本を組み込もうとしているのです。対日圧力になるものがあれば何でもいいのです。
法治国家でない国に法治国家で民主主義である日本や他の国々の価値観が通用しないことはいうまでもないのです。
引用:「今あらためて問う! 東京裁判」(主催:東京裁判判決60年シンポジウム実行委員会
:『靖国問題と中国』岡崎久彦
:『日本人の歴史教科書』自由社
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