歴史の両側(1) 『東京裁判』 学校で教えてくれなかった近現代(55)

サンフランシスコ講和条約で戦争問題は終結している

基調講演に立った渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、次のように発言されました。

「日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判の諸判決を受け入れたが、講和条約とは過去についてこれ以上は問わないというのが原則だ。A級戦犯「平和に対する罪」で禁固7年に処された重光葵は鳩山内閣の外相になり、国連でも日本代表として演説し、そうした重光の死に対して国連では黙祷を捧げている。講和条約の締結から日本は全員を無罪にすることに成功した。講和が成ったため、日本は韓国や中国に一言も謝罪しなかった。
それが謝罪するようになったのは、昭和60年、外務省が土井たか子氏の質問に対し、日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰したとの趣旨の答弁をした頃からだ。安倍政権時の麻生外相も同じ趣旨を述べている。東京裁判を受け入れて国際社会に復帰したというのは完全な誤解である。それを政府答弁で認めたから中韓に謝罪するしかなくなった。この外務省答弁が以後の謝罪決議や村山談話にまで引き継がれており、田母神論文事件のように今も日本を縛っている」

と述べ、東京裁判に対する誤解が今も日本の外交や国益を損なっている実情を指摘しました。

続いて、シンポジウム第一部の「パネリスト提言」で、櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)は、
「GHQは占領時に新聞・ラジオをはじめメディアを厳しく検閲し、『日本が悪かった』という歴史観を植え付けた。そのため、諸外国の一流の学者たちが東京裁判について疑問を呈している中で、日本だけが『東京裁判は正しく、重要であり、異議を唱えてはならないものである』というような解釈をし、それがまかり通っている。東京裁判史観を葬り去るために、私たちは正しい歴史認識をしなければならない。幸い東京裁判について多くの分かりやすい資料や書籍が出てきたので、私たちはまずそれらを読むことから、真の立ち直りができるのではないかと思う」
と、満州事変などを例に、東京裁判史観に対する日本人の心構えと、私たち一人ひとりができることついて提言をされました。

坂元一哉氏(大阪大学教授)は、
サンフランシスコ講和条約を結んだことで、日本が東京裁判の正当性を認めたというのは誤解だ。外務省は、判決を含めた裁判全体を、東京裁判が正しいかどうかの評価とは別にして『受諾した』と考えているようだ。しかし、当時日本が東京裁判を正しいとして受け入れたはずはない。アメリカも講和条約によって東京裁判を正当化しようとしたわけではない。吉田茂であっても戦争責任を認めて謝罪して受け入れたのではなかった。また講和条約11条も、よく条約集で見るような戦争犯罪に関する条文ではない。戦犯の処遇の問題であって、草案当初はなかったが『水漏れを防ぐ』ために加えられたものだ。朝鮮戦争を背景にして『和解と信頼の調和』として講和条約は結ばれ、日本の過去が良いとか悪いとかは一切分からない条文になっている」
と、講和条約をめぐる東京裁判の問題について誤解を除かなければならないことを主張しました。

八木秀次氏(高崎経済大学教授)は、
「今でも国際的に、ナチスドイツの行為と日本の戦前における行為を重ね合わせるような議論や発言がなされているが、その淵源は東京裁判にあると思う。

『侵略戦争は戦争犯罪である』というのは、ドイツの戦争遂行の裏にあったユダヤ人虐殺という衝撃の事実を裁くために、ニュルンベルク裁判の方針として英米仏ソにより決められたものである。このナチスドイツを裁くための枠組みが東京裁判にも適用された。日本が、ナチスドイツと同様に『計画的な大量の住民虐殺を伴う邪悪な侵略戦争』を行ったとするために出されてきたものこそが、いわゆる『南京大虐殺』である。まさに、『日本はナチスドイツのとばっちりを受けた』のである

と、ニュルンベルク裁判でナチスドイツを裁いた枠組みが、東京裁判の大きな体系を作り上げていたという事を強調されました。

また、日本国内においては、1952年、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は、当時日本の全人口の約半分にも相当する4000万人に達したと言われ、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。

国際法からみた東京裁判は裁判と認められない

1945年、ポツダム会談で第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここでという新しい戦争犯罪の概念が登場。A級戦犯「平和に対する罪」が登場した。極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の定義。ABC級は等級ではなく文字自体に罪の軽重を示す意味は含まれない項目で、日本ではイロハ項と訳されているが級と訳したことで誤解されている。つまり事件が起きた後に決められた事後法で裁くことは認められていない原則に反する裁判である。

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、(イ)平和ニ対スル罪、(ロ)通例ノ戦争犯罪、(ハ)人道ニ対スル罪の3つに定義され、戦争犯罪者として裁かれた戦争中の指導者たち全員に有罪が宣告され、東条英機元首相以下7人が(イ)平和ニ対スル罪として絞首刑になりました。
この裁判で、被告は「A級:平和に対する罪」を犯したとされました。これは自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とする者でした。こうした罪で国家の指導者を罰することは、それまでの国際法の歴史にはありませんでした。その行為を禁ずる法律がなかった時点でのできごとを、後からつくった法律(事後法)で裁くことはできない、というのも、それまでの世界の法律学の一致した理解でした。
東京裁判でただ一人の国際法の専門家だったインドのパール判事は、 「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」「この裁判は国際法上の根拠を欠いている」

「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。」 とA.J.ノックの言葉を紹介している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。

として、被告全員の無罪を主張しました。しかしGHQは、このパール判事の意見書の公表を禁じ、この裁判への一切の批判を許しませんでした。
また、フランスのアンリー・ベルナール判事は裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。
オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。

A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
ヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされ、裁判に不備があったという意見が大部分であったといわれている。

なお、イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2ヶ月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」を引合いに出し「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。

また、当時の日本統治を担当し、裁判の事実上の主催者ともいえた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、後にハリー・S・トルーマンアメリカ合衆国大統領と会談した際に、「戦犯裁判は、戦争防止のためには役に立たない」と述べたといわれる。

GHQは日本に於いてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したとされる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた。
日本国内においては1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
東京裁判については、国際法上の正統性を疑う見解と、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていません。

将兵への戦争犯罪裁判

国家指導者たちとは別に連合国側は日本の内外で「連合軍側の将兵や民間人を違法に処刑したり虐待した」という容疑で数千名におよぶ日本軍将兵を裁判にかけ、971名を銃殺や絞首刑で判決を受けた例もあるといわれ、さらに遺族が日本の社会で差別の苦しめられることもありました。

GHQの思想政策

GHQは、占領直後から、書籍、新聞、雑誌、ラジオ、映画のすべてにわたって、言論に対する厳しい検閲を行いました。また、戦争を起こした日本は悪い国家で、連合国が正義である、とマスメディアを通じて宣伝しました。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、戦後の日本人の自国に対する見方にさまざまな影響を与えました。

靖国神社問題

靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案により明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。

「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦記念日である8月15日の参拝は大東亜戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。
日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであったが、中国(中華人民共和国)、韓国(大韓民国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の3カ国はA級戦犯が合祀されていることから、日本の首相参拝が行われる度に激しい反発を繰り返しており、外交問題となっています。

しかし、本来、靖国問題というのは、政治問題にも外交問題にもなり得ません。神道は日本の文化の問題であり、古来から中華圏の宗教観とは一致しません。宗教も祭祀も認めない国が「日本の文化」に注文を付けるべきではありませんし、日本には死者をむち打つ文化はありません。死ねば等しく神です。A級戦犯を合祀しているというが、上記のように、ABCは戦争犯罪の重さを示すものではなく単なる区分であり、そもそも東京裁判は、国際法による軍事裁判ではなく、極東国際軍事裁判所条例による裁判であり、判決自体が無効です。中国は、日中平和友好条約で戦犯問題に何の留保条件もつけていないばかりか、「内政の相互不干渉」の原則を約束していました。日韓基本条約もそうですが、条約は過去のあらゆるトラブルを解消して再出発しようという取り決めです。本音は、覇権の確立を狙っており、秦の時代からの中華思想そのもので、内モンゴル、チベット、その中に台湾同様、日本を組み込もうとしているのです。対日圧力になるものがあれば何でもいいのです。
法治国家でない国に法治国家で民主主義である日本や他の国々の価値観が通用しないことはいうまでもないのです。

引用:「今あらためて問う! 東京裁判」(主催:東京裁判判決60年シンポジウム実行委員会
:『靖国問題と中国』岡崎久彦
:『日本人の歴史教科書』自由社

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独立の回復 学校で教えてくれなかった近現代史(49)

国際連合と冷戦の開始

1945(昭和20)年10月、連合国は、2度の世界大戦への反省に立ち、新たな戦争を防ぐための国際組織として、国際連合(国連)を結成しました。しかし、戦争の芽はなくなりませんでした。東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通じ、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めました。アメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。

一方、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。ドイツも東西に分断され、世界はアメリカ率いる自由主義陣営とソ連が率いる共産主義陣営が勢力を争う、冷戦の時代に突入しました。

中国では日本の敗戦後、それまで抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、国共内戦を再開しました。1949年には、毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立しました。一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れました。朝鮮半島では1948年、南部にアメリカが支持する大韓民国、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がちくられ対立しました。こうして冷戦はアジアへと広がりました。

占領政策の転換

冷戦が始まると、アメリカは日本の経済発展を抑える政策を転換し、共産主義に対抗するため、日本を発展した経済をもつ自由主義陣営の一員として育てる方針に変えました。

1950年6月、北朝鮮は、南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如として韓国へ侵攻しました。韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍がこれに反撃しましたが、北朝鮮側には中国義勇軍も加わり戦況は一進一退をくり返しました。戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続きました(朝鮮戦争)。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出動したあとの治安を守るために、日本はGHQの指令により警察予備隊(のち保安隊、1954年から自衛隊)を設置しました。また、日本は国連軍に多くの物資を供給し、その生産で日本経済は息を吹き返しました(朝鮮特需)。

独立の回復

朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えました。1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由主義陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結びました。さらにアメリカと日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、米軍の駐留を認めました。

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復しました。ただし、沖縄・小笠原諸島は引き続きアメリカの施政したに置かれました。

ソ連は、国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため、日ソ間で平和条約は提携できず、1956年10月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復しました。これでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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日本の復興と国際社会 学校で教えてくれなかった近現代史(48)

占領の開始

1945(昭和20)年8月末、アメリカ軍を主体とする連合国軍による日本占領が始まりました。
アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカの驚異にならないよう、国家の体制をつくり変えることでした。日本政府は存続しましたが、その上にマッカーサー司令官が率いる連合国軍司令部(GHQ)が君臨し、その指令を二被音声夫が実行しました。

ポツダム宣言にもとづき、陸海軍は解散させられました。外地にいた軍隊は武装解除され、日本への復員が始まりました。
1946(昭和21)年からは、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれ、戦争中の指導的な軍人や政治家が、「A級:平和に対する罪」などをおかした戦争犯罪者(戦犯)であるとして7人が死刑判決を受けるなどそれぞれ裁かれました。また、GHQは、戦時中に公的地位にあったものなど、各界の指導者約20万人を公職追放しました。

GHQは、日本政府に対し、婦人参政権の付与、労働組合法の制定、教育制度の改革などの五大改革を発しました。民主化とよばれたこれらの改革のいくつかは、すでに日本政府が計画していたものと合致し、矢継ぎ早に実行されていきました。また経済の面では、戦争中に大きな影響力をもったとして財閥が解体され、農村では農地改革が進められました。

日本国憲法

GHQは、大日本帝国憲法の改正を求めました。日本側ではすでに大正デモクラシーの経験があり、明治憲法に多少の修正を施すだけで民主化は可能だと考えていました。しかし、GHQは1946(昭和21)2月、わずか約1週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本的な改正を強く迫りました。

政府はGHQが示した憲法草案の内容に衝撃を受けましたが、それを拒否した場合、天皇の地位が存続できなくなるおそれがあると考え、やむを得ずこれを受け入れました。GHQの草案にもとづいて政府は憲法案をつくり、帝国議会の審議をへて、1946年11月3日、日本国憲法が公布されました(施行は1947年5月3日)。

日本国憲法は、世襲の天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めました。さらに国民主権をうたい、国会を国権の最高機関とし、議院内閣制を明記するとともに、基本的人権に関する規定が整備されました。また、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄と、そのための戦力を持たないと定めたことでは、世界で他に例を見ないものとなりました。これとともに戦後の諸改革も進められました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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終戦をめぐる外交と日本の敗戦 学校で教えてくれなかった近現代史(47)

空襲の被害

戦争末期、国民は直接、戦火にさらされることになりました。1944(昭和19)年7月、日本の委任統治領だったマリアナ諸島の一つサイパン島が陥落し、ここから日本本土を空襲できるようになったアメリカ軍は、年末から爆撃機B-29による無差別爆撃を開始しました。子どもたちは危険を避け親元から離れた地方の寺や親戚の家などに疎開しました(学童疎開)。1945(昭和20)年3月11日には、東京大空襲が行われ、一夜にして約10万人の市民が命を失いました。

4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、ついに陸上の戦いも日本の国土に及びました。日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヵ月半のちに連合軍は沖縄を占領しました(沖縄戦)。

ヤルタからポツダムまで

ヨーロッパでもアジアでも、戦争の体制は決まりつつありました。1945(昭和20)年2月、ソ連領クリミヤ半島のヤルタに、米・英・ソ3国の首脳が集まり、連合国側の戦後処理を話し合いました(ヤルタ会談)。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカの負担を減らすため、ソ連の参戦を求めました。スターリンは、ドイツとの戦争が終わってから3ヶ月後に対日参戦すると回答し、その代償として、日本領の南樺太と「千島列島を要求し両者は合意しました。

4月、ルーズベルトが急死し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格しました。連合軍がベルリンに侵攻すると、ヒトラーは自殺し、ドイツ政府は崩壊しました。5月、ドイツ軍は無条件降伏しました。

7月、ベルリン郊外のポツダムに米英ソ3国の首脳が集まり、26日、日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を、米英中3国の名で発表しました。

原爆投下とソ連の侵攻

日本政府内では、沖縄を占領された6月ごろから、戦争終結をめぐる最高指導者の会議が何度となく開かれていました。日本政府は、対日参戦を密かに決めていたソ連に、そうとは知らずに連合国との講和の注解を求めました。

ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要な閣僚は、条件付の幸福要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾きました。しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張して譲りませんでした。政府はしばらくソ連の仲介の返答を待つこととしました。そのあいだに、8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾(原爆)を広島に投下しました。日本政府も終戦を急ぐ他はありませんでした。8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌9日、満州に侵攻してきました。また同日、アメリカは長崎にも原爆を投下しました。広島では15万人、長崎では7万5千人が亡くなり、さらに多くの人々が放射能被爆の後遺症で苦しむことになりました。

聖断下る

9日深夜、昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれました。ポツダム宣言の即時受諾について、意見は賛否同数となりました。10日午前2時、鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断を仰ぎました。天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断しました。8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知りました。明治以後、日本の国民から初めて体験する敗戦でした。
日本の降伏によって第二次世界大戦は終結しました。大戦全体での死者は数千万人にのぼると推定されています。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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ロシアとアメリカの交渉

ロシアが北方領土への日本側の人道支援を拒否する姿勢を打ち出した背景には、「ソ連崩壊以降の困窮状態を脱し、経済復興を成し遂げたロシアには、もはや支援は不要だ」という自負がちらつく。崩壊したときが交渉のチャンスだったと思いますが、日本政府の外交や緊急時の対応には敏速さが欠けていることに苛立ちます。
ロシアが石油が高騰し崩壊の危機が免れたのですがここにきて石油が値下がりしたことによって、サハリンの開発に消極的になり、日本との開発協力や供給にメリットが薄れたのが今はない、また、グルジアとの問題があり、第二次大戦前に中国とアメリカに日本をやらせといてドイツとの戦争に集中した戦略経験から、石油がまた高騰するまではひとまず北方領土の外交カードを引っ込めたのが本質ではないでしょうか。KGB出身のプーチンならそれぐらいのことは熟知しているでしょう。もちろん、日本の政権交代でごたごたの中で今の政府では進展しないことも承知のはずです。
また、同じくしてクリントン元大統領の訪朝です。報道を見るとさすがに元大統領はすごいなと思いがちです。私的な訪問で資産家のプライベート機で費用の20万ドルは資産家の自費だったとか見え透いたうそをつく。勝手に国交のない北朝鮮や青森三沢の米軍基地で補給など許可しない。まして民間機のプライベート機なら軍事空域を飛行はできない。
アメリカ女性記者の開放に向かう動きは、政府諮問機関が水面下で何ヶ月も動いていたといいます。クリントンは元大統領だから実行できたというよりも、米政府の交渉ではなく非政府の人道支援であることを強調し、落としどころとしてオバマ大統領と同じ民主党の元大統領だから北朝鮮も拒否できない態勢にすることで、瀕死状態でアメリカしか頼るところのない北朝鮮のメンツを立てるというお互いのメリットを出し、すみやかに実行しただけに過ぎません。オバマにしても国内事情からの支持率低下と民主党の名目をアップさせるねらいがあったのです。

君主ではなく大統領や首席が最高位である米・ロ・韓、共産党一党独裁中国・北朝鮮などは、世界情勢にすみやかに対応するための判断が国の代表に絶対的権限がありますが、独断で行っているのではなく、政府とは別のトップ集団がいます。それらの国は、ついこないだまで核攻撃や軍事衝突という緊張体制から、いつでも緊急に動くことができる体制に慣れているのでしょうか。
それに引き替え立憲君主制の日本政府は、国防を日米安保に守られてきたことで、緊急対応ができないばかりか、平和主義を知っていますから攻めてこないと相手国に足元を見透かされてています。しかし、戦前の世界大戦でも日本は天皇や首相に絶対的権限がありませんから、開戦のときも終戦の決断も協議が難航した経験があります。
だからといって、ナントカ実現党などは大統領制にしようというマニュフェストですが、日本は立憲君主制をとっている古い国家なのでできませんしその必要性はあまりありません。それに引き替え、米朝は君主を否定した歴史が浅い国なので外交を行うにははっきり主張することでリーダーの存在感を内外に示す必要があります。日本は文化的に成熟した国なので、そこまでいわずとも分かるだろうという意識があり、いいたいことをずけずけ言う人を嫌いますが、そのような新興国を相手にする時は通用しません。また、真っ向から反論をするには、核も辞さない強力な防衛力が不可欠です。日本は有史以来、唯一大戦で米軍に本土を攻撃されたことを除けば経験がないので、世界も同じように平和な民族だと思っています。しかしそうした国こそいつも攻められはしないかと脅威を感じています。日本民族が本気で怒った時の団結力が恐ろしいことはまだ忘れていませんから。
日本でも2001年(平成13年)、総理府を内閣機能強化の観点から、内閣府とし、内閣を助けて内閣の重要政策に関する企画立案及び総合調整での決定権を強化しました。
外交交渉の駆け引きのタイミングを逃さぬように、内閣・外務・防衛との速やかな連携が最重要です。
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