平安時代
平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。
794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。
平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。
また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。
王朝国家体制
律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。
王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。
781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。
11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。
長岡京遷都
784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、
- 新王朝創設を中国思想によって位置づける
- 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
- 平城京に根強い仏教勢力を排除する
- 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
- 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
- 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
- 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。
平安京遷都
しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。
また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。
しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。
現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。
京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。
道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。
摂関政治
摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。
九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。
冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。
この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。
菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。
こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。
蝦夷(えみし)戦争
平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。
古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。
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