【出雲神政国家連合】 神話に隠された謎

『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、

神話に隠された謎

「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。

権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。
つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。
『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。

この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。
伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。

神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。
そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。

神話に秘められた二重構造

伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。
伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。
どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。

なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。
ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。

アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。

ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。

出雲は祟る?

つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。

「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」
出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。
たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。

『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。

「神」と「鬼」の二面性

日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。

日本人はなんの抵抗もなく、葬式を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。
しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。

多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。
つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。

このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

神話に隠された嘘と本当

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。
だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。

どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。

しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれ、皇祖神は敵のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。「先祖は北部九州・出雲系ではないうよ」という史実だからこそ、あえて南部九州が舞台になったのではないでしょうか。そしてスサノオ・オオナムチなど出雲系の御神体には、敬意と福の「神」と祟る「鬼」の二面性から、神域と現世を隔てる結界の意味で注連縄を張って封じ込めたのでしょう。

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【たんご昔ばなし】 羽衣天女伝説

羽衣伝説(はごろもでんせつ)は日本各地に存在する伝説です。その多くは説話として語り継がれています。最古とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県伊香郡余呉町の余呉湖は近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる。最も有名とされているのが静岡県静岡市清水区に伝わる三保の松原。なお天女はしばしば白鳥と同一視されており、白鳥処女説話(Swan maiden)系の類型といわれています(白鳥処女説話は異類婚姻譚の類型のひとつ。日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる)。天橋立の松も羽衣に例えられます。

「丹後風土記」(715年)の中に、日本最古の羽衣伝説の記述がある。

「丹後の比治の山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に真奈井(まない)という池(女池)がある。 奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の縁起によれば、 むかし、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、 万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。

「天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも」

と詠って、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。

この天女とは豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)、豊受大神(とようけのおおみかみ)のことである。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)でまつられる。  その後、伊勢神宮の外宮に移られるが、分霊は残されている。

■奈具(ナグ)神社

丹後國竹野郡 京都府京丹後市弥栄町船木奈具273
式内社 旧村社
御祭神 「豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)」

風土記によると「ここに来り てわが心奈具志久なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。 奈具岡遺跡が近くにある。 水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期 (約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。
隠野とは、黄泉に通じる国という意味。

■奈具(ナグ)神社

丹後國加佐郡 京都府宮津市由良宮ノ上
式内社 旧村社
御祭神 「豐宇賀能賣命(とようかのめのかみ)」

社名「奈具」は、やすらぎを意味する「奈具志久」に由来するらしい。 同じく丹後国の竹野郡にあり、天女羽衣伝説の残る、 同名の奈具神社からの勧請という説もあり、 そちらの社名の起こりは、天女が老夫婦に放逐され、 各地を放浪した後、その地で「心なくしく(つまり、やすらか)」なり、 落ち着いたという。

■比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

京都府京丹後市峰山町久次宮谷
式内社 旧村社
御祭神 「豊受大神(とようけのおおかみ)」
「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」
「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」
「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」

■静岡県静岡市清水区の羽衣天女伝説

昔々のおはなし。三保の村に伯梁という漁師が住んでおりました。ある日のこと、伯梁が浜に出かけ、浦の景色を眺めておりました。ふと見れば、一本の松の枝に見たこともない美しい衣がかかっています。しかし、あたりに人影はありません。誰かの忘れ物だろうと、伯梁が衣を持ち帰ろうとしたそのとき、どこからともなく天女があらわれてこう言いました。『それは天人の羽衣。どうそお返しください』ところが、それを聞いて伯梁はますます大喜び。『これは国の宝にしよう』とますます返す気配を見せません。

すると天女は『それがないと私は天に帰ることができないのです』とそう言ってしおしおと泣き始めます。さすがに伯梁も天女を哀れに思い、こう言いました。『では、天上の舞いを見せてくださるのならば、この衣はお返ししましょう』天女は喜んで三保の浦の春景色の中、霓裳羽衣の曲を奏し、返してもらった羽衣を身にまとって、月世界の舞いを披露しました。そして、ひとしきりの舞いのあと、天女は空高く、やがて天にのぼっていったといいます。頃は十五夜。それは月明かりが美しい宵のことでした。

■余呉町の羽衣伝説

伊香刀美(『帝王編年記』より)

余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水浴びをした。それを見た伊香刀美(いかとみ)は、天女に恋心を抱き、白い犬に羽及を一つ、盗み取らせた。天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最も若い天女一人は、羽衣がないため飛び立てない。地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いぜりひめ)、妹娘は奈是理比賣(なぜりひめ)。  これが伊香連(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。妻を失った伊本刀美は寂しくため息をつき続けたという。

~解説~  古い文献によれば、奈良時代のころ、余呉ではこのような羽衣伝説が語られていたようである。  羽衣伝説は白鳥処女説話の一種といわれる。多くの人が天女という言葉からイメージする、中国風の衣装をまとい、薄い布の羽衣をたなびかせる姿は、仏教の影響を受けて変化したもの。白鳥の姿をした天女が登場する余呉湖の伝説は、日本の羽衣伝説の中で最も古いといわれている。

丹生(ニュウ)神社二座 近江國伊香郡 滋賀県伊香郡余呉町
式内社 旧村社
御祭神 「彌都波能賣命 丹生都比賣命」
創祀年代は、不詳。
式内社・丹生神社の論社の一つ。

社伝によると、天武天皇の御宇、 丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、 山土と丹生川の水を供え、天津神を祀ったという。 後、天平年間に現在の地に社殿を創建した。
よって、当社は土と水の神。
丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、 息長氏の一族。息長丹生真人とも呼ばれていたらしい。

■倉吉に伝わる伝説

【伝説】  ひとりの百姓が、山腹の石の上に美しく芳しい衣が置いてあるのを見つけました。さらによく見ると、そばの流れで、若い美しい女性が水を浴びているではありませんか。「天女にちがいない」石の上の衣は、天の羽衣ということになる。百姓はその羽衣を盗みました。天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、百姓の妻になりました。

数年たち、二人の子どももできました。天女は、子どもに羽衣のありかをたずねました。子どもは、父親の隠していた羽衣を、母親に渡しました。天女は、まさにも天にものぼるよろこびで、羽衣を着けると、天上に帰ってしまったのです。

二人の子どもは、母を慕って泣きました。母が好きだった音楽で、母を呼びもどそうと考えました。近くの山に登り、太鼓と笛を演奏しました。-天女が衣を置いていた山を羽衣石山、また、子どもたちが一生懸命、大鼓を打ち笛を吹きならした山を打吹山といいます。

鳥取県倉吉市

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