03.常識を覆す日本最多の銅鐸 加茂岩倉遺跡

日本最多の銅鐸 加茂岩倉遺跡


2009年2月15日、出雲大社、島根県立出雲歴史博物館、西谷古墳群、荒神谷遺跡などとともに加茂岩倉遺跡を訪ねた。

平成8(1996)年10月14日、加茂町(現雲南市)岩倉で農道の法面工事のためパワーショベルで山の斜面を削っていたところ、大量の銅鐸の出土により加茂岩倉遺跡は発見された。突然、異様な音がしたため、運転者は直ちに重機を止め、「どこの誰がポリバケツをこんなところに埋めたのか」と考えつつそばに行くと、ポリバケツならぬ「銅鐸」だったのである。

当時、加茂町長であった速水雄一氏(後に雲南市長となる)が学問と教育の里というテーマで町おこしを行っていたことから、町役場にはただちに遺跡発見の連絡が入り、1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われた。

遺跡は狭くて細長い谷の最奥部手前の丘陵に位置し、南向きの丘陵斜面中腹にあたる標高138m、谷底から18mと見上げるような高い場所に39個の銅鐸が埋納されていた。一カ所から出土した銅鐸の数は日本最多で、大変注目を集めたのである。

出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定。

 

銅鐸は南向きの丘陵斜面中腹から出土[/caption]

発見当初に建設重機を停止したことが幸いし、埋納の痕跡も良く残っており、どのように配置されたのかといった詳細な学術情報が研究者にもたらされた。また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは遺物が全く出土していない。

そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されている。銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査に拠れば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されている。表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ある。絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれている。そのうちの数点が豊岡市気比銅鐸(流水文)と兄弟銅鐸とされている。

尾根の左が荒神谷、光っている場所が加茂岩倉

遺跡は先に発見され大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから、両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。

『倭の古王国と邪馬台国問題 上』 著者: 中島一憲

空前絶後の青銅器大量埋納は、荒神谷、加茂岩倉ともに一世紀半ば、つまり第一次倭国大乱が一段落し、倭奴国が後漢に朝貢したころに、時期を合わせたように行われていることが分かった。鴨居湧くの銅鐸の中に紀元前三~同二世紀前半に製造された「最古段階」の銅鐸が含まれていることが加茂町教育委員会の分析でわかった。「最古段階」の銅鐸は、加茂岩倉遺跡から直線距離で北西約4kmの荒神谷遺跡からも1個が出土。加茂岩倉の最古段階のものと同じく菱環紐式で、加茂岩倉のその銅鐸は高さ21.7cmの小型だった。

同笵銅鐸(兄弟銅鐸)

加茂岩倉遺跡の同笵銅鐸(兄弟銅鐸)は、越前(伝)(大石)銅鐸が気比4・伝陶器山、但馬気比銅鐸2個、岩美郡岩美町新井上屋敷と1個が加茂岩倉銅鐸と兄弟銅鐸であることが分かった。銅鐸の同一性からのみで判断することはできないものの、少なくとも丹後・若狭地方からは出土していない。弥生時代中期頃に丹後・若狭を避けたのは、すでに違う勢力が存在していたのかも知れない。弥生時代後期(200年ごろ)にはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視される。

『倭の古王国と邪馬台国問題 上』 著者: 中島一憲

海上交通のネットワークが古くから発達している日本列島では、産業・技術・文化にほとんど地域格差がみられず、広範にかつ均質に発達していると考えている私は、青銅原料の産地がどこであるかに関心をもっている。

まさに驚嘆の大発見となった加茂倉遺跡の銅鐸発掘は、一か所で39個という全国一のその圧倒的な量と特異な埋納状況、一部の銅鐸に刻まれた特殊な「×」サインや絵画の意味、そして何よりも荒神谷と関連する埋納時期や出雲という地域性から、この遺跡の評価をめぐって多くの学者・専門家が多様な説を展開しはじめている。

私もこの遺跡が荒神谷とともにヤマトの古代国家成立上きわめて重要な意義をもつことを予感しているが、以下に新聞が特集したシンポジウムや座談会に紹介された学者たちの見解を若干紹介したい。

森浩一氏は、「(加茂岩倉の)4、7、19,22号銅鐸は兄弟で和歌山市の太田黒田銅鐸と一緒。この兄弟のうち4つが出雲から見つかった。近畿から出雲をみるのか。それとも出雲から近畿を見るのか。私は多い場所から見ようと思う」と出雲説を展開。
佐原真氏は、古い段階(紀元前三世紀~同一世紀頃)の銅鐸の石の鋳型が10近くも近畿や香川県などで出土していることをあげ「現状ではいくら兄弟が出雲でたくさん出ていても(この段階のものは)近畿でつくったものをもってきたと考えるべきではないか」と主張。ただ、加茂岩倉の18,23同銅鐸などは近畿の銅鐸と違う特徴をもつことから「土の鋳型で銅鐸をつくりだした段階では、出雲に『銅鐸の会社』があった可能性がある」(としている)。

上田正昭氏は、各地で一つ、二つと出土したものと、40個近くが出土したものと「同列に論じてよいものか」
門脇禎二氏は、「私は加茂の岩倉が神が宿る磐座(いわくら)に通じ、一帯が神原(かんばら)、荒神谷が神庭(かんば)と呼ばれるのが気になります。…『旧辞本紀』の中の『国造本紀』から、七世紀の国造の祖先伝承などが伺えますが、そこから祖先を同じくする「同祖関係」を拾い出すことができます。それでたとえば出雲を見ると、隣り合った国ではなく、但馬のような日本海側のほかに、伊勢や美濃といった大きく離れた地域が出てきます。このあたりに加茂岩倉の兄弟銅鐸が存在する可能性が十分あるわけです(実際に但馬気比銅鐸は兄弟銅鐸であることが判明)。

気比銅鐸 但馬国府・国分寺館 銅鐸展

難波洋三氏は、『扁平紐式新段階』の時代になって出雲、あるいはその周辺でも銅鐸が製作されるようになった可能性があります。加茂岩倉の38個は、各形式とも比較的限られた工房の製品で構成されているようです。たとえば外縁付き紐二式の流水紋銅鐸8個は、すべて大和か河内の工人の製品。『扁平紐式新段階』のものも飾りなどに共通の特徴があり、多くの工人集団の製品がランダムに集められたとは考えにくいと思います」。

同遺跡の兄弟銅鐸は、計13組、22個、「兄弟」の出土地は西日本の8府県にまたがっていることが明らかとなり、広範な地域間交流が想定される。また36号銅鐸から「×」印が見つかった(荒神谷の銅鐸は「×」印が付けられていた)。

【国宝】考古資料の部

弥生時代の指定は次の6件(2008年(平成20年)まで)。
金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館)
桜ヶ丘町出土銅鐸・銅戈 (神戸市立博物館)
福岡県平原方形周溝墓出土品 (文化庁、伊都国歴史博物館保管 弥生時代~古墳時代)
袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉(東京国立博物館)
島根県荒神谷遺跡出土品 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)

全国の銅鐸出土数
国別出土数
菱環鈕式
Ⅱ外縁付鈕式Ⅲ偏平鈕式[聞く銅鐸] Ⅰ+Ⅱ+Ⅲ[見る銅鐸] Ⅳ突線鈕式
出雲501371048
近江3632522
摂津(東)1257
摂津(西)21714
摂津(計)331221267
阿波42322258
紀伊383131614
遠江291127
三河2811211
河内18111124
大和1976135
讃岐2047111
淡路1515281
尾張15246
伊勢1512257
和泉123473
備前151674
播磨111564
土佐11337
伯耆9246
備中8332
因幡84153
丹後7113
丹波3123
山城64151
但馬6442
越前51341
若狭51231
美濃42131
石見41231
信濃32
伊賀32
美作31122
備後2112
その他135232387243

・国別で出土数の多い地域(≧3)のみを示した。うち型式の判明分をⅠ~Ⅳ式に分類。
・Ⅰ~Ⅲ式およびⅣ-1式:「聞く銅鐸」、Ⅳ-2~Ⅳ-5:「見る銅鐸」
[佐古和枝氏作成の分布図よりまとめた]

銅鐸出土数箇所
1位兵庫県56点40
2位島根県54点9
3位静岡県46点26
4位徳島県42点29
5位滋賀県41点14
6位和歌山県38点38
7位愛知県33点36
全国約500点

2009/02/15

02.世紀の大発見!! 荒神谷遺跡

世紀の大発見!! 荒神谷遺跡

  
島根県出雲市斐川町神庭

昭和58(1983)年、広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見されました。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣(どうけん)が出土しました。

  

銅剣は昭和60(1985)年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていましたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されています。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定されました。斐川町が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備されました。2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われています。

銅剣は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。
358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

テレビ「ケンミンショー」を観ていると、仏教大学民俗学教授が、神社にお宮参りに行く時に京都では「昔は赤ちゃんの額に朱の墨で「×」は魔よけとして書いたいたものが、×は縁起が悪いから平安時代から男の子は「大」、女の子は「小」と書くようになった」と言っていた。(2010.3.7)

現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえます。 当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっています。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられます。 当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず調査発掘をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が土中から出てきました。次々に出土し、最終的に358本という数に達しました。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となりました。


県立古代出雲歴史博物館展示品(HPより)

銅剣、銅鐸、銅矛の複製展示

銅矛は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが。しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。
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【もう一つの日本】物部氏3/4 もう一つの日本(ひのもと)

倭国大乱

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

神武東征

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(クサカムラ・大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

二つの日ノ本

ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもあります。

「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのか?

それは、枕詞の転化であるとしています。
たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、
草香(クサカ)の枕詞は日下(ヒノモト)であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが、日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。日下部(クサカベ)氏もそうです。

しだいに日下が日本(ひのもと)という字が当てられ、倭(ヤマト)国から日本という国名に変わったというのです。
『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。
ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

谷川健一氏によると、
「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないか」と推理しています。

「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
としています。

4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)。

その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦ら蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
という想像が浮かび上がるのです。

[*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

[*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。
[*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命
2009/08/28

女代(めしろ)神社と女代遺跡


兵庫県豊岡市九日市上町460-1
但馬国城崎郡 式内社
御祭神:タカミムスビ「高皇産靈神」(タカミムスビノミコト)

かつて円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地でした。

御由緒 当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。 円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神 は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。子に八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ=知恵の神)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)がいる。往古祝融の災害により創立年月詳不明ですが古社であることは確か。

仁寿元年正月(文徳帝御宇・西暦八五一年) 、当時境内地は五町四面と伝えられており、広大なものでした。古くは浮島明神と称せられ、神殿が田圃の低地にありながら、円山川の氾濫に際しても未だ浸水したことはなく、ことから浮島の名称が付けられたようです。


摂社 八神社

天正五年(安土桃山時代)に社頭は没収せられ、祭祀は衰えました。寛永六年( 江戸時代初期)、神主住宅並に社務所・宝庫焼失し、当時の古文書はことごとくなくなりました。その後明和三年(徳川時代中期)、古社改築。

文化五年(徳川時代後期)、神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる。神祇官 西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実にあります。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため、現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものです。

女代遺跡銅鐸片

女代遺跡から銅鐸片が見つかった。但馬で発見された銅鐸3箇所のひとつ。

1992年、女代神社前から鞄団地にかけての工事では、周知の遺跡(女代神社遺跡)の近接地で、豊岡市教委が現状確認に出向いた際、女代神社南遺跡の土から銅鐸の鰭部分の破片を発見しました。同時に採集した遺物は、弥生時代から中世までの時期幅のある土器片が若干みつかりました。その時の遺物散布状況や急遽実施した簡易な試掘による所見では、銅鐸片を含む採集遺物は遺跡の緑辺部にあたる比較的希薄な包含層のものと見られた。

破片は、銅鐸の側面に取り付く鰭の一方の下端部分。両面に文様が鋳出されており、表面は緑青がふいて、淡い緑色を呈している。文様は明確に観察でき、2条の突線で縁取りがされた内部に鋸歯状の文様が1 1単位連続している。破片の中ほどの外部には、半円を2個並べた飾り耳が付いている。本体の長さは約1 3㎝、幅約2㎝、厚み1 . 5?3m mを測り、飾り耳は幅2㎝、高さ1 . 3㎝のものが2連取り付いている。重さは約4 0gであった。上端の折れ曲がりは比較的新しい可能性もあるが、本体と接合していた部分の破断面の状態をみると錆も古く、破損の際の力の作用からか一方向にわずかな盛り上がり(歪み)が観察できる。こうしたことから、意識的に破砕された銅鐸の例(いわゆる破砕銅鐸)である可能性がきわめて強い。

この段階の例としてはかなり小型である。聞く銅鐸から見る銅鐸への変換時期の資料として貴重な例である。時期的には気比銅鐸より新しく、日高町久田谷銅鐸より古く位置付けられ、但馬地方では新形式の銅鐸である。破片で見つかった例は全国に約20例あり、突如銅鐸が用いられなくなることの意味を考える上で、こうした破砕銅鐸の実態が注目されている。

-豊岡市教育委員会-

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【たじまる】 気比銅鐸

豊岡市気比の銅鐸出土地を訪ねてみた。
兵庫県北部で完全な形の銅鐸が発見されたのはここだけ。


大正時代に発見されたことが記されたプレートがあった。


複製


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