10 大韓帝国成立と民族運動

東学と甲午農民戦争

19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。
1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

日清戦争と農民軍の再蜂起

一方、朝鮮政府は、農民戦争鎮圧のため清国には兵を要請しました。日本はこれに対抗して居留民保護などを理由に朝鮮への軍隊派遣を決定し、清国から朝鮮は弊の通告を受けた後、混成一個旅団を朝鮮に派遣しました。ところが、日本軍が朝鮮に到着したときには、すでに全州和約が結ばれており、日本は軍隊派遣と駐兵の理由を失っていました。日本は、駐兵の口実として、清国に対して共同の朝鮮内政改革案を提示しましたが、清国はこれを拒否しました。朝鮮政府も相次いで日本軍の撤退を求めましたが、日本は単独改革を主張し、さらに朝鮮政府に清国との宗属関係による取り決めの破棄を迫りました。朝鮮側がこれを拒否すると、日本軍は7月23日に景福宮を占領し、閔氏政権を倒しました。さらに大院君を執政に据えて、その下に開化派政権を樹立させました。

7月25日、日本艦隊が忠清道の豊島(ブンド)沖で清国艦隊を攻撃し、日清戦争が開始されました。日本は開化派政権との間に攻守同盟を結び、朝鮮は日本側に協力することを強要されました。日本軍は人夫や物資を徴発しましたが、これを拒否したり軍用電線を切断するなどの抵抗が相次ぎました。しかし、平壌、黄海の海戦で日本軍が勝利するなど、戦況は日本有利に進んでいきました。
こうしたなか、一次撤退していた農民軍が、日本と開化派の駆逐を標榜して第二次農民戦争を起こしました。これには、第一次農民戦争に消極的だった忠清道の東学組織が加わり、また各地の農民らが蜂起しました。しかし、近代的兵器を誇る日本軍と朝鮮政府軍の前に農民軍は敗退を余儀なくされ、12月始めには、主力部隊が大敗し、間もなく鎮圧されました。

1895年4月、日清講和条約が締結されました。第一条には、朝鮮が「独立自主の国」であることを確認するとうたわれ、宗属関係を廃止することが清国によって承認されました。

甲午改革と王妃閔氏殺害事件

開化派政権は、甲午改革とよばれる広範な改革を実施しました。清国との宗属関係の破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税の金納化、両班と常民・賤民の差別の禁止、奴ひ制度の廃止など、朝鮮王朝全般にわたる近代的な改革が矢継ぎ早に決定されました。

1894年10月に朝鮮公使として赴任した井上馨は、大院君を政権から降ろして政治に関与することを禁じ、ついで急進開化派の朴泳孝らを内閣に加えて、強力な干渉のもとに改革を推進させました。この時期の改革では、内閣制の導入、徴税機構の改革、地方制度の改革など、急進的な近代的改革がおこなわれました。しかし、朝鮮政府には日本人の顧問が配置されたり、日本政府によって借款が供与され経済的に日本に従属させられるなど、日本による干渉が深まったことに、政府のなかでも日本に対しての反発がおこりましたが、とりわけ権力から疎外された高宗や王妃閔氏らの勢力はロシアに接近して日本を牽制しようとしました。

井上馨は閔氏らを懐柔しようとしましたが、結局6月に離任し、7月には朴泳孝が王妃閔氏殺害謀議の疑いをかけられ日本に亡命しました。さらに8月には兪吉しゅんらが失脚し、かわって親露・親米的な官僚が内閣に入りました。辞任した井上馨に代わって公使に着任した三浦梧楼は、王妃閔氏の排除を計画しました。10月、朝鮮軍人のクーデターを装って、日本守備隊・公使館員・日本人壮士らが景福宮を占拠して閔氏を殺害し、大院君を再び担ぎ出して親日内閣を樹立しました。ところが、この事件はアメリカ人とロシア人に目撃されており、日本は国際的な非難を浴びることになりました。日本政府は三浦公使をはじめ関係者を帰国させて軍法会議や裁判にかけましたが、全員証拠不十分で無罪・免訴となりました。朝鮮では日本と親日内閣に対する敵愾心が高まりました。

大韓帝国の成立

王妃閔氏殺害事件後に成立した親日内閣は、陽暦の採用、朝鮮独自の年号の採用などの急進的な改革をさらに進めました。ところが、1895年12月末に断髪令を公布すると、儒者たちが各地で兵を挙げました(初期義兵)。親日内閣はこの反日反開化の義兵への対応に追われましたが、親露的な官僚らがロシア軍の支援を受けて、高宗をロシア公使館に移しました。親露派はクーデターによって親日内閣を倒し、甲午改革は最終的に挫折しました。高宗は、1897年2月に、ロシア公使館からほど近い慶運宮に移り、8月に光武という年号を定め、さらに10月に皇帝に即位する儀式をおこない、国号を「大韓」と改めました。こうして大韓帝国が成立し、これによって高宗は中国皇帝と同格になり、また欧米・日本と同格の独立国の元首になったことを宣言しました。

1899年8月に制定された「大韓国国制」では、大韓帝国は国際法上での独立国であるとともに専制君主国であるとされ、この皇帝先制権力の元で、自主的な近代的改革を試みました(光武改革)。軍備の増強、土地測量事業、貨幣・金融制度の改革、また、官僚主導による会社設立、電気・電車事業、鉄道敷設や鉱山開発などの殖産興業政策が試みられました。しかし、その財源を確保するために税源が拡大されたり、税率が引き上げられ、また補助貨幣が濫発されました。拡大された財源の多くは軍備増強に遣われ、また王宮の造営・宴会費などの皇帝の権威強化のための支出も膨大でした。光武改革は外国に依存せず自主的な近代化をめざしましたが、その意図とは反対に借款に依存するようになりました。そうして、担保とされた鉱山採掘権などの利権をめぐって列強の争奪戦がおこったり、また列強の利害対立により借款経過于が妨害されるなど、大きな成果を上げないまま中断してしまいました。

引用:『韓国朝鮮の歴史と社会』吉田光男
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9 朝鮮の開国と開化政策

大院君の攘夷政策

19世紀の中ごろ、東アジアの中国・日本・朝鮮は、相ついで欧米諸国との開国を迫られました。
19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていました。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していませんでした。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進みませんでした。

1864年、幼くして即位した国王高宗に代わって実権を掌握した興宣大院君は、相ついで来航し開国・通商を要求する欧米諸国に対して、強硬な攘夷政策をもって臨みました。66年、アメリカ商船シャーマン号が平壌に侵入すると官民らはこれを焼き払いました。同じ年、大院君が天主教(カトリック)に弾圧を加えたことを理由に、フランス艦隊が江華島に侵入すると、大院君はこれも打ち払いました。また、71年には、通商条約を求めて江華島に来航したアメリカ艦隊を撤退させ攘夷を強めました。

また、大院君の攘夷政策を背景に、小中華思想にもとづき、天主教邪学としてしりぞけ、朱子学を正学として守るという衛生斥邪(えいせいせきじゃ)思想が高揚しました。しかし内政については、衛生斥邪派と大院君は対立しました。自らの権力を強化しようとする大院君は、景福宮の再建など大規模な土木工事を行い、さらに両班の勢力に規制を加えるため書院を撤去したり、両班には免除されていた軍布を徴収するようにしたからでした。

※軍布…形骸化した徴兵に代わり、年間綿布を徴収するもの。農民にはかなり重い負担だった。

日朝の対立

そのころ、日本との間にも外向的な問題が発生しました。1869(明治2)年、明治政府は、政権樹立後、対馬藩を通じて朝鮮に王政復古を通知し国交を結ぼうとしました。ところが、朝鮮側は日本の用意した書契(外交文書)に、中国皇帝しか使用できない「皇」という文字が使われているという理由で、受け取りを拒絶しました。

その後、日本政府は対馬から朝鮮に冠する外交権を接収し、朝鮮との条約締結を試みましたが、大院君政権によって拒否されました。

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

衛生斥邪派の崔益玄(金へん)が内政問題について大院君を攻撃すると、大院君と対立する王妃閔氏の一族らは大院君を政権から追放しました。そして、国王高宗の親政がはじまり、閔氏政権が成立しました。翌74年、閔氏政権は、日本の台湾出兵事件と朝鮮出兵の可能性に関する情報を清国から得ました。また、政権内でも、開国派が日本からの書契を受け取るべきだと主張しました。こうして、閔氏政権は日本との交渉を行うことになりましたが、交渉は難航しました。

江華島事件と朝鮮の開国政策

1875年、江華島事件(雲楊号事件)が起きました。日本政府が示威で江華島沖に送った軍艦雲揚から出た小船に江華島の砲台から発砲、雲揚が「応戦」した事件です。雲揚が許可なく朝鮮の領海を侵犯したので、これを排除しようとしたものでした。しかし日本政府はこれを口実として砲艦外交を押し出し、1876(明治9)年、江華島条約(日朝修好条規)が結ばれます。釜山・元山・仁川の3港を開港、ソウルに日本公使館を開設しました。これは中国がイギリスと結んだ南京条約(1842年)、日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約(1858年)と同様、治外法権の認定など、結ばされた側にとっての不平等条約でした。

これによって朝鮮は、帝国主義が渦巻く世界へ開国していくことになりました。日朝修好条規はれまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約ですが、その第一条で、「朝鮮国は自主の国」であるとうたいました。これは、朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記しすることで、清朝の影響から朝鮮を切り離すねらいがありました。従来もっていた華夷秩序との葛藤が起こっていきます。

1880年、朝鮮政府は金弘集を修信使として日本に派遣しました。金は日本を視察するとともに、東京の清国公使館に立ち寄り『朝鮮策略』を受け取りました。それには、ロシアの侵略を防ぐために、朝鮮は清国との関係を深め日本と連携するとともに、アメリカと関係を結ぶこと、国内改革を進めるべきことが述べられていました。これを直接の契機として、閔氏(びんし)政権は、対欧米開国や開化政策を進めていきます。閔氏政権は、新たな外交関係に対応する機関として統理機務衙門を設置し、日本から教官を迎えて様式軍隊を編成したり、近代的な政治制度や技術習得のために日本に朝士視察団、清国に領選使を派遣したりしました。朝鮮国内では『朝鮮策略』に対して反対運動が起こりましたが、開国・開化路線を固めた閔氏政権はこれを押さえつけました。

清国の李鴻章は、朝鮮国王から交渉に仲介を依頼されたという形をとって、アメリカ側と条約締結交渉を進め、1882年5月、米朝修好通商条約が調印されました。さらにイギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも同様の条約を結びました。

李鴻章は、伝統的な宗属関係を国際的に認めさせるため、朝鮮は清国の属国であり、その内政・外交は自主であるという内容の条文を設けようとしました。しかし、これはアメリカ側の反対にあい、李鴻章は同じ内容の書簡を朝鮮国王からアメリカ大統領に送らせることによってこれに代えました。朝米条約を契機に、これまでの清国との宗属関係と、日本や欧米列強国との条約関係が併存することになりました。

開化派と甲申政変

閔氏政権の開国・開化政策にともない、開化派が形成されました。朝鮮王朝後期の実学や清国からもたらされた書籍によって西洋の事情などを学び、外交使節や留学生として海外に渡航し近代西洋文明を吸収しました。
開化派は、清国の宗主権が強化されると二つの派に分かれました。一つは、閔氏政権の内部で清国との宗属関係を基軸に内政・外交の実務を担う穏健開化派で、もう一つが、清国との宗属関係を破棄し、さらに閔氏政権の打倒をめざす急進開化派で、日本の維新をモデルに朝鮮の富国強兵を試み、日本からの資金導入、日本への留学生派遣などをおこないました。

1884年12月、金玉均らは日本公使館守備隊の兵力を借りてクーデターをおこし、閔氏政権の要人を殺害して新政府を建て、清国との宗属関係を破棄、門閥によらない人材登用、税制・軍制の改革などを内容とする政策方針を作成しました(甲申政変)。ところが、閔氏政権の要請によって清国軍が出動すると、日本公使館守備隊は撤退し、新政府は間もなく倒れました。

清の宗主権強化と朝露密約

甲申政変によって朝鮮をめぐる日清の対立が深まると、日清は一時的妥協をはかって天津条約を結び、両国は朝鮮から軍隊を撤退することにしました。ところが、この条約の締結直前に、イギリスの極東艦隊が、ロシアの大平洋艦隊に対抗するため、巨文島(コムンド)を占領するという事件が起きました(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議しましたが、イギリスとロシアの調停を行ったのは、清国の李鴻章でした。

一方、朝鮮国王の高宗は、甲申政変の直後から、日本と清国を牽制するためにロシアへの接近を試みていました。高宗はドイツ人顧問のメレンドルフを通じて、ロシアから朝鮮への軍事顧問派遣の約束を取り付けました。しかし、この密約が露呈すると、李鴻章はメレンドルフを解任するとともに、高宗や王妃閔氏の一族を牽制するために大院君を帰国させました。そうして袁世凱を宗主国の代表として漢城に駐在させ、朝鮮国王・政府を指導させることにしました。

ところが、高宗は再びロシアと秘密交渉を進め、ロシアは朝鮮が独立国であることを認め、有事の際に朝鮮に軍隊を派遣することを求めました。ロシアへの接近を阻止された高宗は、さらに他の欧米諸国への接近によって、清国の宗主権強化に対抗しようとし、1887年、駐米全権公使とヨーロッパ五か国兼任の全権公使を任命しました。李鴻章は、はじめは全権公使の派遣に反対しましたが、結局朝鮮側の要請を容れ、清国公使の格下として行動することなどを条件に全権公使派遣を許可しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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9 朝鮮時代後期

日本の侵入

1592年4月、朝鮮半島南端の水軍基地釜山鎮の兵士たちは、目の前の海面を埋め尽くすような日本軍船の大軍を発見して驚愕しました(文禄の役)。豊臣秀吉の命令を受けた日本軍十数万の侵入です。この事件は、朝鮮王朝が滅亡の淵にたたされた、王朝開始以来最大の危機でした。朝鮮王朝はすでにその危機を察知し、その前年、外交使節(通信史)二人が秀吉と会見させて情勢を探らせていましたが、その時点では差し迫った危機的状況にはないと判断していました。この間に準備を進めていた秀吉は、明を侵攻するための通路を開く(仮道征明)という理由で朝鮮に軍を進める決定をしました。佐賀県唐津の北方、玄界灘に面した名護屋の地に設営された本営(名護屋城)に諸大名の軍勢を集め、一挙に軍を進めていきました。

防備の整わない朝鮮に対して日本軍は釜山鎮と東莱府城を攻め落とし、さらに要衝蔚山(ウツザン)などを撃破して進撃を続けました。翌月には加藤清正と小西行長の舞台が首都漢城(ソウル)に突入し、さらに北上して小西行長隊は平壌をも占領下におきました。加藤清正隊はかん鏡道の北端まで軍を進め、こうして朝鮮半島の広い地域が日本軍に踏破されていきました。

国家軍が壊滅するなか、慶尚道など各地で儒者を中心として朱子学の義を奉じた義兵が立ち上がり、抵抗運動の先頭に立ちました。朝鮮政府の要請に応じて明の救援軍が駆けつけると日本軍は後退を始め、1593年初めには平壌から撤退していきました。このころになると朝鮮政府も陣容を建て直し、明軍と協力しながら反撃に転じます。

日本軍は1593年4月には漢城を引き上げて大部分が日本に撤兵し、いったん戦争は終結するに思われました。しかし、明の使節を招じて大坂で行われた講和交渉は失敗に終わり、秀吉は1597年、全国の大名に対して再度、朝鮮への侵攻を命令しました(慶長の役)。今回は朝鮮側の防衛体制も整い、明の救援軍も早くから投入されたうえ、日本軍自体に嫌戦気分も高かったため、戦闘は全土に広がらず、南部地方に留まりました。李舜臣(リシュンシン)の率いる朝鮮水軍が全羅道南部(半島西南)の海戦で大勝利をあげ、秀吉の死去したこともあって日本軍はさしたる戦果もあげないまま、ようやく1598年11月に完全撤退を完了しました。この足かけ七年にわたる戦争は朝鮮に大きな被害を与えました。土地が荒れ果てただけでなく、多くの人々が死傷しました。

捕虜として日本に連れ去られた人々も数万に上りました。そのなかには、多くの陶工が含まれており、佐賀県の有田など各地で陶磁器生産に従事して日本の陶磁器産業の基礎を築きました。また、松山に連れてこられた儒学者姜沆(きょうこう)がその学識によって日本の人々に大きな影響を与えるなど、この戦争によって朝鮮から日本に伝わったものは少なくありません。一方、戦争のさなか、王宮である景福宮などが焼失し、漢城は荒廃してしまいました。

清の侵入

救援に駆けつけた明の被害も甚大でした。多大な軍事費負担が圧力となって国力の衰退を招き、明軍が朝鮮半島に進駐している間に、北京の東北(現在の中国東北地方)では、女真人の勢力が台頭してきました。交通ルートの結節点を抑えていた女真人は交易によって多大の利潤を上げ、大きな軍事力も蓄えていました。ヌルハチは諸勢力を糾合して後金(のちの清)を建国して明に圧迫を加えてきました。後金は明と戦いながら朝鮮にも軍を進め、服属を迫ってきました。宣祖の後を継いだ光海君は、明と後金との間で慎重な外交政策をとっていましたが、1619年、今度は明の要請で参戦し、後金軍に大敗してしまいました。これ以後、光海君は後金との衝突を回避する政策をとるようになります。

1623年、光海君の後を継いだ仁祖は、明と協力しつつ後金と対決する方向へと政策を転換しました。1627年、後金軍が朝鮮半島に侵入してきましたが、和議が成立し、朝鮮と後金は兄弟関係を結ぶことで事態は沈静化しました。しかし、その後も朝鮮が明との協力関係を継続していたため、1636年、ホンタイジの率いる後金がこの年に国号をと改め、大軍が再度攻撃してきました。漢城を占領され、抵抗した仁祖も翌年初めに降伏し、朝鮮は清の冊封を受ける臣属国となりました。また、ついに1644年、首都北京が清の攻撃で陥落し、300年近く続いた明王朝は崩壊してしまいました。

朝鮮の対外関係

16世紀末から17世紀前半にかけての戦乱が終息すると、朝鮮は中国・日本と平和で安定した関係を結びました。
朝鮮王朝は早くから、外交関係を重視していました。通訳養成所として司訳院を設置し、漢学(中国語)・倭学(日本語)・女真学(満州語)・蒙学(蒙古語)の教育が行われました。卒業生は合格すると訳官として政府に採用され、外交の第一線に立ちました。
朝鮮政府にとって最大の外交相手は柵封を受けた清で、1637年以来、歴代の国王は藩属国の君主として清皇帝から「朝鮮国王」に柵封され、元号も清皇帝の名を使っていました。漢城から燕京(北京)には毎年多くの朝貢使節が派遣され、その回数は500回ほどになります。国境の鴨緑江の江界には開市とよばれる交易場が設けられ、牛・毛皮・薬用人参などの取引が行われました。

豊臣秀吉の侵攻を受けた日本との関係は複雑です。朝鮮政府はとりたてて江戸幕府との交流を望んでいたわけではありませんでしたが、両国の間にあって古くから仲介貿易を経済基盤としてきた対馬の人々の多大な努力により、政治関係・経済関係とも戦前に復することになりました。1607年、宣祖は、徳川家康から送られてきたとされる手紙(国書)に対する回答の伝達と、戦乱のときに捕虜として日本に拉致された人々を調査して帰国させることを名目として、外交使節を派遣しました。のちに1631年、国書は対馬が偽造したものであることが判明し、大事件となりましたが、江戸幕府は対馬の責任を不問に付し、両国の関係は継続しました。1636年以降は、台頭の外交である「交隣」を取り結ぶために使節は「通信使」を称するようになりました。派遣された外交使節は、1811年の最終回までに約200年間で12回ありました。一方で、日本側の外交は対馬に委任されており、江戸幕府の外交使節は一度も漢城に派遣されることはありませんでした。

東莱に設けられた倭館には対馬の役人が常駐して交易を行っていました。倭館は広さ約10万坪、常駐する人員は400人以上にのぼりました。1609年、朝鮮政府は対馬の大名宗義智に交易権を認める権利を締結し、年間に往来する交易船の数などを規定して、この締結は1872年まで機能しました。朝鮮は薬用人参・米・木綿など、日本は銀・銅などを主要商品としており、その取扱高は長崎の出島貿易を凌駕するものでした。銀は中国に再輸出され、清の銀本位体制を支えるとともに、貿易の決済手段としても使われ、遠く西アジアからヨーロッパにまで運ばれていきました。

新たな時代の到来

18世紀末になると、北京経由で朝鮮にも天主教(カトリック)が入ってきました。正祖政権はこれを邪教として禁止し信者を弾圧しました。この政策は19世紀にも継続され、多くの殉教者が出ました。いよいよ朝鮮にも西洋との接触が本格化してきたのです。

正祖のあとを受けて1800年、純祖が第23代国王に即位します。わずか十歳で、政治の実権は母である正祖妃がにぎりました。純祖が15歳を過ぎて自立し、国王として動き始めたころ、母の父である老論時派に属する金祖淳が僻派を倒して主導権を握り、出身氏族である安東金氏一門が国王の外戚として政権の要職を占めていきました。このような政治形態を世道(勢道)政治といいます。純祖以降もあいついで王妃を出した安東金氏一門は権力の座を保持しました。

しかし、このような世道政治による権力集中に不満を募らせた地方有力者たちが、貧しさにあえぐ農民たちを巻き込んで、ついには1811年、平安道博川で政治に対決する反乱が起こりました。政府はこれを基盤を揺るがす重大事と受け止め、大軍を送って翌年壊滅させました。

これ以後も、さまざまな不満が暴動となって噴出してきます。漢城でも米価をつり上げた商人が襲われる事件が起きます。1862年、慶尚道晋州で起きた反乱は三南(忠清・全羅・慶尚)一帯に広がりました。この年の干支をとって壬戌民乱といいます。やがて済州島など各地に広がり、朝鮮は騒然としたなかで「開国」前夜を迎えていました。この動きは、さまざまな身分・職業をもつ人々が参加し、社会の矛盾とそれに根ざす不満が多様化していました。

社会変動と国家財政

日本・清軍の侵入をへて、17世紀の韓国朝鮮社会は深刻な状態にありました。農地が荒廃し、農民が死亡したり逃亡したりしてノン尊社会は大きな変動期を迎えていました。その影響を受けたのが、農業生産物からの税収に頼っていた政府の財政運営でした。それに加えて、戦乱による支配機構の混乱によって農地・農民の把握が困難となり、財政は危機的状況を迎えていました。

王朝創設以来、国家財政は、主として農民たちが生産物に賦課される田税で、大豆で収めるものでした。政府では税制改革が必要不可欠だと認識されるようになり、その第一歩が大同法の実施でした。邑ごとに収める貢納を、農地の広さに応じて定率制で米・銭を納入するようにしたもので、地代のようなものです。

しかし、建国以来はじめての大税制改革となる大同法は大きな抵抗があり、全国的に施行されるには100年という時間が必要でした。

経済の変動

水利施設の発達と農業技術の改良により、17世紀半ばには早くも戦乱の痛手から立ち直り、農業生産力は戦前の水準をこえはじめました。なかでも水稲耕作の発展が顕著で、田植え法が全国に広まり、南部の二毛作の普及とあいまって食糧供給が安定しました。綿花・麻・薬用人参・たばこなど商品作物の栽培も活発となり、それらを利用する農村手工業もおこって、綿布・麻布などが広く流通し、中国・日本にまで輸出される国際商品となりました。

大同法は漢城を中心とする流通経済に大きな刺激を与えましたが、農業発展も全国の商業に変化をもたらしました。地方住民が必要物資を入手する場として場市(市場)が各地に出現し、五日ごとに開かれる定期市になって、しだいに地域ごとにネットワークを形成していきました。

商品流通が活発化すると、交通の要衝や漢城には旅閣・客主とよばれる中間業者があらわれました。商品の委託販売や倉庫業をおこないながら、行商人などに宿泊施設も提供していました。貨幣もしだいに銅銭「常平通宝」が広く流通するようになり、貴金属の高額貨幣は、丁銀など、倭館貿易を通じて日本から流入した銀貨が流通しました。また大量の取引や遠隔地の取引には手形の一種である「於音」が用いられました。

常設店舗「市塵(してん)」は、漢城のほかに平壌、開城(ケソン)、水原(スウォン)のみにありました。漢城の市塵は、景福宮前の大路との交差点から東大門(トンデモン)までの両側と、一部は南大門(ナンデモン)に向かう幹線道路にも店舗を並べました。市塵はさまざまな国家義務を負担することを条件として認可を得て、特定商品を専売品として独占販売する権利を持つ商人組合でした。

身分と社会

人々は法律的には良民と賤民の二つに分けられ、良民男子は軍役など国家に対する義務を負担する一方、科挙受験の権利を持っていました。賤民の大部分は主人に所有される奴ひで、15世紀後半には良民を主人とする私奴ひが、全人口の80~90%を占めたという証言があるほど奴ひの人口が多かったのです。

伝統と歴史に根ざした序列があり、法的身分とも連動していました。地域によって違いがあるものの、おおむね最上位に士大夫の族として士族があり、以下、一般良民で官位・官職をもつ者、郷吏、一般良民、賤民という序列が成立していました。漢城には代々、科挙の雑科を通じて通訳・医師などの技術官僚となる家系の人々がおり、中人とよばれました。士族は、儒学を身につけることで立派な人物と認められ、科挙に合格し、官僚(両班)になって国家経営を担っていく母体と考えられていました。

人口の多くを占めていた一般良民(常民)は、賤民とともに農業などの生産活動を行っていました。良民と賤民の間の壁は低く、身分を超えて結婚する人々も多くありました。そのことが良民の数を急速に増大させていきました。

社会の変容

17世紀になると、急速に賤民数が減少して良民が増加します。18世紀になると、士族と同様に役を免除される人々が増加します。同じ父方祖先から出発したと考える人々(氏族)は強い血縁関係をもち、始祖の本拠地である本貫と、姓を同じくする意識が士族層以外の身分層にも広がり、18世紀末には、住民たちの大多数が本貫と姓をもつようになり、なかには族譜のなかに入り込んで士族の末裔を称する者まで出るようになります。人々は社会のなかで生き抜いていくため、自分の基盤を固めるつながりを模索して、氏族にたどりついたといえるでしょう。(例:金海金氏)

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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8 李氏朝鮮の建国

高麗の次の王朝。正式の国号は朝鮮國で李氏朝鮮ともいう。(1392年 – 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。

朝鮮王国の建国

朝鮮王国を建国した李成桂は、朝鮮半島の東北地方出身です。一族は高麗末期まで東北地方屈指の土豪に成長していました。李成桂は、父の後継者として政界への足掛かりをつかみ、倭寇討伐や紅巾軍の撃退などに大きな功績を挙げ、しだいに政権内部で実力を蓄えていきました。1392年に全権を掌握すると、改革派の支持を得て、1392年、恭讓王から禅譲される形で即位しました。翌年には明皇帝の裁可を仰いで国号を「朝鮮」と定め、さらに翌年に都を開京(ケソン)から漢陽(現ソウル)に移して漢城と改称しました。

建国当初、政治の主導権を握っていたのは、李成桂の即位に功績のあった侵攻儒臣たちでした。彼らは開国功臣の称号を授与され、朱子学理念に基づく政治運営を行いました。
ところが、こうした新興儒臣の活動は、やがて国王側と軋轢を生じ、14世紀末には王位継承をめぐる争いまでに発展しました。やがて国王に就いた太宗は、その治世期間を通じて開国功臣勢力を抑え、王権を強化して王朝の政治的・経済的基盤を固めました。

朝鮮王朝にとって、中国王朝である明からの柵封を受けることは、東アジア世界での自己の正統性を獲得するために不可欠の課題でした。李成桂は、即位するとすぐさま明への使者を派遣し、外交関係を結びましたが、当初、明は李成桂を朝鮮国王に柵封しませんでした。高麗末期以来、明は朝鮮側の対明姿勢に対して不信感を抱いていたからです。しかし、朝鮮側の粘り強い交渉の末、ようやく1401年に太宗が柵封されて以後は、両国間は安定的な事大関係[*1]が維持されました。こうして明の情報や文化が朝鮮にもたらされただけでなく、付随しておこなわれた貿易によっても朝鮮は大きな利益を得ました。

日本との関係

北部九州を主な根拠地とする倭寇の略奪行為は、前朝の高麗同様、朝鮮王朝にとっても頭の痛い問題でした。朝鮮政府は、室町幕府や九州探題などに使者を送って禁圧を要請する一方、投降した倭寇に対しては朝鮮の官職を授けて朝鮮国内に定住を認め、また平和的な通商目的での来航であれば積極的に奨励するなどの懐柔策を進めました。武力討伐も並行して進められ、1419年には2万人の兵員を動員して対馬を攻撃しました。

これらの政策の結果、ほどなくして倭寇は沈静化しましたが、かわって綿布などの貿易を目的とする渡航者が西日本各地から多数朝鮮に押し寄せてきました。その結果、経済的負担の増大と治安の悪化を恐れた朝鮮側では、日本人に対する開港場を釜山など三か所としましたが、やがて対馬からやって来た人々が定住するようになりました。居留民の数は15世紀末には三港全体で三千人を超え、朝鮮貿易の前線基地として大いに繁栄しました。

一方、足利将軍は1404年にはじめて日本国王使を派遣して以来、16世紀半ばに途絶するまで60回以上の使節を朝鮮に派遣しました。これに対して朝鮮側から京都を訪れたのはわずか3回にすぎませんでした。しかし、日本を訪れた朝鮮使節によって、日本についてのくわしい情報が伝えられました。

16世紀末の、豊臣秀吉の朝鮮侵略まで日朝間の貿易は続きました。

世宗の治績

太宗の後を継いだ世宗(せいそう)は、太宗時代に築かれた基盤の上に立って、儒教的な王道政治の実現をめざしました。王立の集賢殿を設立し、優秀な人材を集賢院学士に登用して学問や政治制度の研究に専念させました。その成果のなかでも、朝鮮独自の文字ハングルを制定し、1446年にこれを『訓民正音』の名で公布したことは特に注目できます。これによって人々は自国語を正確に表記できるようになり、漢文書籍の翻訳書も多数刊行されました。

このほか、農業技術を集成した『農事直説』、医学では朝鮮独自の『郷薬集成方』、また、天文学・気象学・暦学などの研究も進み、世界初の雨量計とされる測雨器がつくられ、天体観測器具や日時計・水時計なども製作されました。

世宗の治績としてとくに重要なのが、『経国大典』の編纂です。建国以来の多数の経令を整理・再編しました。

事大関係[*1]…「事大主義」とは、大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)である。漢代以降、中国で儒教が国教化されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊封体制、周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。

新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、中国大陸の中原を制した国家に対して事大してきたことになる。しかし中国王朝への朝貢しつつも、新羅や高麗は中国王朝との対決や独自の皇帝号の使用なども行い、硬軟織り交ぜた対中政策を取った。
しかし李朝の場合、その政策は『事大交隣』といわれ、事大主義が外交方針として強いものだったとされる。

出典: 『朝鮮半島の歴史と社会』吉田光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他


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7 高麗の建国と文化

高麗の建国

朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。

高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹が渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。

中央行政機構の整備

契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。
こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班(ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。

両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。

郡県制と地方支配

地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。

郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。

邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。

モンゴルの侵略と高麗の滅亡

13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。

1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。

1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。

高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。

仏教の浸透

平安初期の中央文化は、唐の影響を強く受けていました。桓武天皇は中国皇帝にならい郊天祭祀を行うなど、中国への志向が強かったと考えられています。桓武期には、奈良仏教が鎮護国家を目標として祈祷を主とする国家仏教であり、学問的な性格をもつものであったのに対し、平安仏教は、人々の心性への仏教の浸透という意味から、その後の日本仏教の源流であり、今日まで多大な影響を持っています。

そもそも平城京からの遷都は、光仁天皇が仏教の政治との深い関係を嫌い、仏教偏重をあらため、その後を桓武天皇が継いだことによります。奈良の諸宗派は旧地にとどめおかれ、あらたな都を守る宗教的精神的背景の空白の意味は大きかったでしょう。

平安仏教は、従来の日本に見られない中国仏教が最澄(766~822)による天台宗と、空海(774~835)を開祖とする真言宗の二宗によります。最澄と空海は、期せずして同じ遣唐使の一員として中国に渡りました。天台宗ですが、最澄は当時隆盛だった中国天台宗において最新の数学をおさめそれを伝えましたが、あらたな教義による国家的戒壇の創設を求める運動をはじめます。

最澄は、もと近江国分寺の官僧で、中国からの帰化人系の子として生まれました。19歳の時、東大寺の戒壇で具足戒を受けたあと、突然比叡山にこもり、12年間の思索と修行を過ごしました。修行のあと、遣唐使に加わって804年、唐に渡ります。一年という短期間の間に、円経(法華経)、密教、菩薩戒(大乗戒)、禅の教えを受け、おおくの法具や書籍を蒐集し、その後の四宗兼学の天台法華宗の方向性を決定づけました。わずかな期間での帰国は、当初からの予定とはいえ、我が国に大乗戒壇を設立しようという最澄の熱意によるものでした。

我が国に正式の戒壇が作られたのは、奈良時代の754年、鑑真の渡来によって東大寺において聖武天皇・光明皇后に菩薩戒を授け、僧に250戒からなる具足戒を授けたのがはじまりで、その後三戒壇(東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺)が設置されました。奈良仏教では小乗の戒律とともに、僧となるための具足戒を授け、さらに大乗戒も授けていました。最澄の主張は、僧が僧たるには大乗の菩薩戒でなければならないとし、大乗戒のみでたりるとしました。桓武天皇の知己を得た最澄は、大乗戒壇の独立をめざしました。

弘法大師として親しまれる空海は、讃岐国多度郡に、地方貴族佐伯氏の子として生まれました。讃岐さえ岸は、学者・宗教家を多数輩出した家系でした。自伝や伝記によれば、15歳の時儒教を学び、18歳で大学に入ります。31歳で唐渡までの足跡はあきらかではありませんが、大学に遊学中は学を怠り、都会の軽薄な文化に染まり、不定な生活をしていたようです。あるとき一沙門から、百万遍となえれば、この世にある一切の経文を暗記できるという「虚空蔵求聞持法」をしめされます。それを期に仏教にすすみ、四国の各地を修行したといわれ、僧としての授戒はそのあとのことのようです。24歳の時に華麗な漢文体で書かれた「三教指帰」で己の修業時代をふりかえっています。

804年、最澄もののなかにいた遣唐使に加わり唐渡した空海は、長安で金剛界胎蔵界の両部密教を伝授されると806年に帰国するや、嵯峨天皇の知遇を得て、次第に真言密教に浸透します。最澄とは、結果的には決別しますが八年ほどの交流があったようです。空海は、宗教家としてのみならず、三筆のひとりとされる名筆家であり、満濃池の開拓、最初の民衆の教育機関である綜芸種智院の開設等、活躍の場が広いです。それは従来の仏教では排除される人間の感性的・動物的な心性からどのように上位の悟りに達するかであり、深い人間性の洞察を含むものでした。

日本仏教は、平安仏教によって、宗教論理としての大系を持ち、はじめて民衆への浸透の手がかりを得たといえます。その開祖たちの独自の思索が、衆生救済としての大乗仏教の新たな足掛かりとなり、日本の仏教といえる独自の特徴をもつことになりました。

こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説があらわれて神仏習合が進んでいきました。嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期は、凌雲集などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書がはやるなど、唐風文化が花開きました。この唐風が非常に強い文化を弘仁・貞観文化といいます。

平安中期は、仏教の末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなりました。民衆に仏教信仰が拡がったのもこの時期であり、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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6 渤海 失われた王国

渤海の成立と新羅

新羅が唐との関係を修復するころ、旧高句麗の将軍であった大示乍栄が東牟山(吉林省)に拠点を構え、高句麗民をを結集して震国を興しました。やがて唐から渤海郡王に冊封されると、国名をあらため渤海を称するようになりました。渤海はかつての高句麗領域の大半を治めましたが、その際に在地社会を改編することなく、かつて高句麗の支配下に靺鞨(マッカツ)族をはじめとする諸族の首長を通じてかれらを支配しました。

渤海は698年から926年まで、朝鮮半島の付け根の東寄りの地域、現在でいえば、中国の遼寧・吉林・黒龍江三省、北朝鮮、ロシアの沿海州にまたがっって存在しました。日本や新羅と並んで、唐の強い影響の元に国造りをした「律令国家群」のひとつであり、五つあった都城の遺構や出土遺物は、中国風に洗練された貴族文化の香りを漂わせています。唐の諸制度に習い中央官制、軍制、地方制度(五京・十五府・六二州)が整備されて国力も充実しました。王都となった上京竜泉府には、中国の都城を模倣した整然とした条坊制がしかれ、他の四つの京と地方の15府、および唐・契丹・新羅・日本などの国外に至る交通路を整備しました。積極的に唐文化を受容し、地名・人名も唐風に改めました。九世紀には唐から「海東の盛国」といわれるまでにいたりました。

対外関係では、唐と日本との関係を重視して頻繁に交渉しました。727年にはじまった対日本外交は、九世紀になると定期的にほぼ105人で構成される使節団は日本に派遣され、交易もさかんにおこなわれました。一方で、南に境界を接した新羅との交流は、二百年にわたってほとんどなく、時に敵対することがありました。

渤海の中央集権的な国家体制の成立は、統一後の新羅の国家体制に次ぐものでした。紀元前より、中国東北地方から朝鮮半島にかけては、多様な言語・文化をもち、生業を異にした諸民族が居住していました。そうした諸民族が興亡を経て、中国王朝から受容した漢字・儒教・律令・仏教を通して諸族を統合し、新羅・渤海の領域内に社会的・文化的な共通基盤を生み出していきました。こうした基盤は、これ以後に形成されていく朝鮮文化の基層となっていきました。
762年、唐が大欽茂(大示乍栄の孫)を「郡王」から「国王」に格上げするなど、対唐関係が好転し、北東アジアは緊張緩和へ転じました。766から780年には25回もの遣唐使が送られています。新羅・渤海の両国が朝鮮半島の南北で並立する体制は、10世紀に至ると動揺し、まず渤海は北方の契丹族の侵入によって926年に滅亡しました。南の新羅も900年を前後して、後百済と高麗が勢力を増し、後三国とよばれる分裂状況となり、935年に新興の高麗に降伏して滅亡しました。

日本海を越えて 渤海使来航

九世紀を境に日本の外交姿勢は内向きとなり、遣唐使は838年出発の使節を最後に途絶えてしまうし、新羅からの使者は779年、新羅への使者も836年で終わります。そのなかで、727年に始まった渤海との関係はおおむね良好でした。その後、926年までの間に、渤海からの使者が34回、渤海への使者が13回記録されており、とくに前者は滅亡寸前まで途絶えることはありませんでした。九世紀半ばから十世紀にかけて、渤海は日本と国交のあった唯一の国だったのです。

727年、渤海二代目の王、大武芸から聖武天皇に宛てた啓書は、「高麗の旧居を復し、扶余の遺俗を有(たも)つ」と述べて、渤海が高句麗(高麗)を復興したことを強調します。また、使者はテン皮300張を献じました。730年の渤海の遣唐使が献じた海獣皮が8張だったことと比較すれば、渤海の日本に対する期待がいかに大きかったかがわかります。

初期には武官が起用されていましたが、762年の渤海「国王」柵封後は文官中心になります。国際社会での地位が上昇した渤海は、対日関係を対等なものに近づけようとして、高句麗の後継国との解釈をとる日本側との摩擦が生じました。他方、使節団の規模が759年以降の数倍になるなど、貿易の比重が高まります。

日本は811年を最後に使者派遣を停止し、824年には渤海からの使者を12年に1回に制限しました。人員が105名に固定するとともに、構成も地方首長や商人の比重が大きくなりました。右大臣藤原緒嗣は、この傾向を端的に「実に是れ商旅なり、隣客にあらず」と指摘しています(826年)。

渤海使の目的は、八世紀には遣唐使の護送や大陸情勢の伝達など政治的なものが多いですが、しだいに貿易を中心とするようになり、日本側に入京を拒否される例が多くなります。日本からの使節の多くは渤海使を本国に送り届けるのが任務で、出発地や航路は不明な点が多いです。

以下、福井県史より

式内社として、白木(シラギ)神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。

日本と外国との交渉は八世紀になり、従来の唐・新羅に加えて、渤海との交渉が始まる。迎使や送使を除きほぼ二〇年間隔で遣唐使を派遣するが唐からの使(唐使)は地方官の私的な使も含め、わずか二例のみである。

また、新羅とは、八世紀前半は使の往来が活発であったが、入京を許さず大宰府から帰国させる場合もあり、宝亀年間(七七〇~八〇)を境に公的な交流はほとんどなくなる。このように八世紀後半以降、唐・新羅との公的な国家間の交流は減少する傾向にある。

そのころ活発となるのは渤海との交流であった。唐・新羅との交流においては大宰府がその窓口となったが、渤海は日本海を隔てていたため、渤海使は例外を除いて北陸道をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、また遣渤海使は越前(加賀)や能登など北陸道から出発した。西域や唐の先進文物は大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれるが、公的な使の回数では奈良から平安初期にかけて、渤海との交渉が最も多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。したがって最近の研究では、日本海ルート、とくに都から比較的近かった北陸道経由で中国大陸の文化が日本にもたらされた場合が注目されている。このような意味で福井県の県域は、古代において大宰府と並び、外国との「窓口」であったといえよう。

渤海と日本との交渉は、七二七年、国書と方物(贈り物)をたずさえた渤海使が日本に来航し、翌年、日本の送使を同行させたことに始まり、九二六年、契丹に渤海が滅ぼされる直前の九一九年までの間、渤海使は約三四回派遣された。

一方、日本からは約一三回の遣渤海使が派遣されたが(表36)、ほとんどが送使であり、弘仁二年(八一一)に出発した使を最後に、日本からの使の派遣は途絶える。このほか、遣唐使が渤海経由で入唐および帰国したこともあった。日本と渤海との交渉は、初期は唐・新羅との対立という東アジア情勢のなかで、渤海側からの政治的な目的で行われた。

渤海との公的な交渉で両国の友好関係が保たれるとともに、貿易および文化交流が行われた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であり、平安貴族が貂裘(貂の皮ごろも)を愛用していたことは有名である。このほか、貞観元年(八五九)正月ごろ、能登国に来航した渤海使によってもたらされ、貞観三年から貞享元年(一六八四)まで八二四年間も用いられた『宣明暦』(『長慶宣明暦経』)、貞観三年に渤海大使李居正が将来し東寺や石山寺に所蔵された『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表されるように、渤海使は大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。さらに南海産の玳瑁で作られた盃や麝香の将来など、唐と日本との中継貿易的な役割を果たしていた。反対に日本からは、絹・・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などが渤海にもたらされた。

来航の季節と航路

渤海使は主に秋から冬にかけて日本に来航したが、若干の例外を除き来航の季節で大きく分けると(以下、すべて陰暦)、弘仁五年を境に、前半は十月中旬から十一月中旬ごろに(出港は九月下旬から十月下旬ごろか)、後半は十二月中旬から三月上旬に(出港は十一月下旬から二月中旬ごろか)、それぞれ集中している。前半の場合、入京後は元日朝賀に参加することが多く、一方、後半の場合は、入京後も元日朝賀に参加することはなく、かわりに五月の節会に参加するという特徴がある。これはおそらく、弘仁年間以前は元日朝賀に、それ以降は五月の節会に参列できるように来航することが義務づけられていたためであろう(田島公「日本の律令国家の『賓礼』」『史林』六八―三)。

また、季節風の利用からいえば、前半が北西の季節風の吹き出しを、後半は真北の季節風を利用し一気に日本海を横断したとの説がある(上田雄「渤海使の海事史的研究」『海事史研究』四三)。

今の北朝鮮の清津(チョンジン)かロシア沿海州のポシェト港を出向し、日本海を突っ切る航路をとりました。到着地は、風の具合で対馬から蝦夷地にまで及んでいますが、北陸道の越前・加賀・能登が多いです。能登半島西岸の福浦津(石川県富来町)は、小さいが水深があり風も避けられる良港で、使者の宿泊施設や帰国船の造船所があったといいます。敦賀や羽咋(福浦の少し南)には客館が置かれ、使者到着が報じられると、京都から特使が赴いて接待に当たりました。二つの客館はともに砂州上にあり、砂州の付け根には、それぞれ日本海の海の神として名高い気比社(敦賀・越前国一宮)、気多社(羽咋・能登国一宮)が鎮座します。祭りや祓いを通じて神社と客館が深くつながっていたことを想わせます。  また、海流の状況を考慮にいれた最新の研究によれば、北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され、初期は航海技術の未熟さから、能登半島より東に流されたが、後期はうまく横切ることができるようになり、西の方にたどり着くことができるようになったと考えられている(日下雅義「ラグーンと渤海外交」『謎の王国・渤海』)。

また、渤海使の帰国航路についても、これも直接日本海を横断するのではなく、奥田説を逆に考え、対馬海流に乗っていったん東北地方の沿岸を北東に進んだあと、北海道またはサハリンの沖で西に梶をとってリマン海流にのり、沿海州の沿岸を南下するという説も考えられている(稲垣直「美保関から隠岐島まで(再考)」『季刊ぐんしょ』再刊一八)。

しかし、当時の航海技術および造船技術からみて、渤海使は季節風を利用したといっても、結局は風波に任せたため、到着地は表35のごとく、東(北)は出羽国から、西(南)は対馬島・長門国まで広範囲に来航している。しかし、来航地は前半から後半にかけて東北から西南に変化しており、前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。

25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。

継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなりました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
『東アジアの中の日本文化』村井章介 東京大学大学院教授

5 新羅の台頭と半島統一

[catlist id=8] 新羅の台頭
新羅は、もともと辰韓12国の一つであった斯盧(シロ)国を中核として国家を形成しましたが、その歩みは平坦ではありませんでした。377年には、中国の前秦に高句麗とともに新羅の使者が訪れたとの記録があり、このころに新羅の国家的活動が認められます。新羅は、北方の高句麗や海を隔てた倭の勢力に苦しみながら、まず高句麗との従属的な関係を取り結び、その影響のもとで成長をとげていきました。
しかし五世紀なかごろになると、新羅は百済と結んで高句麗に対抗姿勢をみせるようになり、六世紀に入ると攻勢に転じました。とくに法興王と真興王の二人の王の時代には、法律制度・官僚制度、軍事制度の整備が飛躍的に進められ、その後の発展の基礎を築きました。なかでも重要なのは、法興王代に確立された十七等の官位制で、935年の新羅滅亡にいたるまで、新羅の王権を支える身分制として機能しました。
百済・高句麗の滅亡と新羅の統一
朝鮮半島の古代国家の形成は、まず北部の高句麗が勃興し、それに対抗するように百済が台頭し、後れて新興勢力の新羅が六世紀のなかごろに成長し、高句麗、百済に挑むという展開をみせました。
急成長をとげた新羅に対抗するため、高句麗と百済は同盟関係を結んだり、さらに倭国との積極的な外交を展開したりするなど、三国の対立は複雑に推移していきました。
これに加えて、この過程で重要なのは、中国大陸の情勢で、南北朝対立の状況を利用した高句麗、百済、新羅による戦略的な外交が展開され、三国間の抗争にも影響を及ぼしました。589年に隋が統一帝国を出現させるとその余波は朝鮮半島に波及しました。
隋は百済と新羅の要請もあって三度に渡って高句麗遠征を行いましたが、その失敗で隋が滅び、618年に唐が興ると、三国は唐に使者を派遣して、ともに冊封を受け、一時的に安定したかのように見えましたが、三国の抗争は激しさを増し、破局に向かって突き進んでいきました。
唐の西域への軍事行動を契機に、高句麗では642年に、最高実力者であった泉蓋蘇文を殺害してクーデターをおこし、また百済では義慈王が反対派を追放して権力を集中すると、両国は同盟して新羅を攻撃しました。一方、新羅では唐との外交路線をめぐって647年に内乱がおこり、善徳女王が死去しました。この危機のなかで、金春秋(のちの武烈王)が金庚信とともに内乱を鎮圧し、再び女王を立てて権力を集中しました。
唐の衣服の制度や年号を採用するなど、唐との関係を密接にして百済・高句麗に対抗する戦法に出ました。そして新羅と唐との連合軍は、まず660年に百済を破り、663年に、百済復興軍と倭を白江(ペクカン)=白村江(ハクスキノエ)で破ると、これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させました。668年には高句麗をも滅ぼしました。
しかし唐は、新羅のために戦ったわけではなく、平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島に支配力をおよぼすことをめざしていたため、これに反発した新羅と唐との対立は深まり、両国は武力衝突を重ねました。新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結びました。新羅は六年間におよぶ戦争を経て、唐の排除に成功します。
これによって、高句麗の南半分と百済の故地が新羅の領域となり、百年以上にわたった三国の抗争は終わりを告げました。
新羅の官僚制は、機密を守る執事部が651年に設置されると、中央官制の整備にはずみがつき、七世紀後半の文武王・神文王代には、中央集権的な官僚組織の体制が整えられていきました。また地方官制では、唐との抗争に勝利したあと、拡大された領土に対して軍事的、行政的な改革がおこなわれ、687年には九州五京の郡県制的な支配が完成しました。
一方、積極的に旧高句麗・百済の民の吸収につとめ、両国の旧支配層に新羅の官位を授け新羅の身分制への編入をはかりました。この過程で、それまで王都と地方を区別して与えていた京位と外位という二本立ての官位制を廃止して、京位に一本化しました。
新羅には、個人的な身分制である官位制とは別に、王都に居住する人々(六部)には、血族的な身分制である骨品制(こっぴんせい)[*1]という閉鎖的な身分制がありました。元来、王都に居住する人々の特権的な身分制でしたが、官僚機構をはじめ諸方面にわたって新羅の国家と社会のありかたを規制しました。
破綻する「小中華帝国」
842年8月15日、太宰府の藤原衛から朝廷に上奏文が届きました。その趣旨は「今後は新羅国人の入境をいっさい禁止したい」とうものです。提案理由として次のようなことが記されていました。
新羅はずっと前から日本に朝貢してきた。ところが、聖武皇帝の代から始まって、仁明朝の今に至るまで、旧例に従わず、つねによこしまな心を懐き、贈り物を献上せず、貿易にかこつけてわが国の状況を探っている。もし不慮のことがあったら、どうして凶事を防げばよいだろうか。
これを受けた朝廷では、「天皇の徳が遠方まで及び、外蕃が帰化してきた場合、いっさい入境を禁止してしまうのは不仁ではないか。よろしく流来に準じて、食糧を与えて放還すべきである。商人が飛帆来着した場合は、持ってきた物は民間に自由貿易を許可して、取引が終わればすぐに退去させよ。」という官符を発しました。
中央政府の決定は、「徳の高い天皇が外蕃を従える」という建前から、大宰府の提案に比べて穏便なものに落ち着きました。とはいえそこには重大な対外政策の変更がありました。そのことは、以下の官符との比較で明らかになります。
701年施行の大宝令を改訂した養老令(757年施行)の戸令没落外蕃条に、「化外の人が帰化してきたら、余裕のある国に本貫を与えて安置せよ」とあるように、積極的に国内居住を許すことで徳化を誇示するところにありました。また、759年の太宰府に下した勅においては、帰化新羅人が「墳墓の郷」を想うあまり帰還を願った場合の恩恵的特例として、「給ろう放却」という措置が規定されています。
しかし、774年官符は、来着する新羅人を「帰化」と「流来」とに分類します。流来の場合は、彼らの意志に基づいて到来したのではないから、放還して日本の恩情を示すこと、その際には、乗船が破損していれば修理を加え、食糧がなければ給与することが定められています。他方、帰化の場合は、「例により申し上げよ」とあるだけですが、少なくとも従来の原則である国内居住許可を排除していません。これに対して842年官符では、帰化の場合も放還するとしていますから、新羅人の帰化を一切受け入れない方針に転換したことになります。
「小中華帝国」という自己認識を支えてきた徳化思想は、年を追うごとに明らかに破綻を来しています。
東夷の小帝国
「倭の五王」のころ以来、倭は、朝鮮半島の百済・新羅および加耶諸国を朝貢国として従える小帝国として、自己を位置づけることに、外交的努力を注いできました。一方、百済以下の各国には、倭に朝貢することで、朝鮮半島の分立状況において優位を確保しようよいう動機づけが存在しました。
660年代、唐が新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼし、さらに唐は朝鮮半島の直接支配を試みますが、新羅がこれに抵抗して、676年に唐の勢力を朝鮮半島から駆逐しました。660年、百済滅亡後、百済王族の亡命先となった倭(やまと)は、百済復興支援を掲げて軍事介入を試みますが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に敗北を喫しました。律令体制の本格的導入はこの危機への対応という面があり、このころ「日本」という国号も確立します。
新羅は、統一後しばらくは日本との良好な関係を維持するために朝貢国の立場を変更せず、701年元日の文武天皇に対する朝賀の儀式にも、藤原宮の大極殿に新羅使が「蕃夷の使者」として参列しています。このような新羅の位置づけは、前年に完成した大宝令において法的規定を与えられました。『令集解』に収められた令の本文や注釈によれば、天皇を戴く国家の統治の及ぶ空間を「化内(けない)」、その外の天皇支配の及ばない空間を「化外(けげ)」として区別します。化外は「隣国」である唐、「蕃国」である新羅、蕃と称するに足りない「夷狄(いてき)」としての毛人(えみし・蝦夷)・隼人(はやと)の三カテゴリーからなります。
令文のなかには唐までも「蕃国」に含めるものがあり、遣唐使を朝貢使として受け入れていた唐を蕃国とみなすのは、当時の国際関係からかけ離れています。中華思想からは出てこない「隣国」という用語は、このようなギャップを埋めるべく開発されたと思われます。
この後中世にかけて、中国の王朝とは対等、朝鮮半島の諸国よりは一段上という位置づけを、国家関係の理想像とする思想が、日本の支配層を強固に貫いて流れる伝統となります。この自己規定を存続させるには、朝鮮半島に唯一残った新羅を朝貢国として従えることが、必要不可欠でした。
新羅の外交攻勢と新羅討伐計画
七世紀末、朝鮮半島北部から中国東北地方に書けての地域に渤海が興り、唐の支配から自立して最盛期を迎えた新羅との並立状況が生まれました。渤海は靺鞨(マッカツ)をめぐって唐と対立し、732年には山東半島の登州に奇襲をかけたので、翌年、唐は新羅に命じて渤海の南境を攻めさせました。孤立を恐れた渤海は、727年を皮切りに日本に使者を派遣し、「蕃国」の増加を歓迎する日本との間に親密な関係を築きました。735年、新羅は唐から大同江以南の領有を正式に認められ、日本に朝貢を続ける積極的な意味はほとんど失われました。新羅が日本との関係を対等なものに改めるべく、外交攻勢に出てくるのは必至でした。
その動きは、842年官符が強調するように、聖武朝(724~49年)から明瞭になります。734年、日本に国号を「王城国」と変更する旨を告げる使者を送りますが、翌年日本はこれを追い返しました。この新名称には日本との対等関係の含みがあったらしいです。
「王城国」の一件があった翌736年、日本は新羅に大使 阿倍継麻呂以下の使者を送り、翌年帰国して「新羅は常礼を失し、使の旨を受けず」と伝えました。朝廷は上下の官人を内裏に招して諮問し、これに答えて「使者を遣わして詰問せよ」とか、「兵を発して征伐を加えよ」とかの意見が出ました。また、伊勢神宮、大和の大神(おおみわ)社、筑紫の住吉社・宇佐八幡・香椎宮に奉弊使を遣わして、「新羅無礼の状」を神に告げました。この発想は、神功皇后の三韓征伐伝説とも結びついて、日本の支配層のなかに長期にわたって持続し、事あるたびに露頭するようになります。
752年に使者の往来があり、両国の関係修復が試みられたものの、日本側の高圧的な態度により不調に終わりました。そのうえ、翌年唐の朝廷で遣唐使大伴古麻呂が席次を新羅使より上位に変更させたことが重なって、両国関係は冷え込み、同年新羅に赴いた使者小野田守は、謁見されず追い返されています。こうして日本と渤海が同盟して新羅を挟み撃ちにする構図が生まれました。
これが実現しなかった原因は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が国内で政治的孤立を深め、764年に反乱を起こし滅んだことにありますが、国際的には、762年に唐が渤海王を「郡王」から「国王」に格上げするなど、唐・渤海関係が好転し、北東アジアが緊張緩和へ転じたことにありました。
出典: 『東アジアの中の日本文化』村井章介 東京大学大学院教授
『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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4 加耶諸国

[catlist id=8] 加耶諸国

百済の南には。三韓時代に弁韓とよばれた地域があり、百済や新羅の対等のはざまで、小国が分立するという状況が続いていました。半島東南の洛東江両岸には小国が散在し、この地域は、加耶(伽耶)あるいは加羅とよばれました。早くから鉄の生産や海上交易で栄え、これらのなかから、金官加耶(金海)、安羅(やすら・アンラ=咸安(かんあん[ハマン]))、大加耶(高霊[コリョン])といった国々が頭角を現し、しだいに国家統合の動きもみせはじめました。
加耶諸国には、高霊地方にその典型的な形式をもつ土器が一定の地域圏に分布していることが確認されており、その土器の中には「大王」銘が彫り込まれていたものがあります。小国の王を束ねる大王の実力をもつ者が加耶諸国に実在したことを示すものとして注目されています。479年に大加耶王が南斉に朝貢を果たしたのも加耶諸国における統合化への動きにかかわっていました。
こうした独自の動きがあったものの、百済や新羅の侵攻は激しさを増し、これに対して日本列島の倭国との連携をしのぐという抵抗もありましたが、それも限界にいたり、532年には金官加耶が、やがて安羅も新羅に降伏しました。最後まで抵抗し続けた大加耶も562年に新羅に滅ぼされました。

古墳と出土遺物

加耶諸国の有力国の一つに安羅国があって、高句麗に対抗する勢力の一員として「広開土王碑」にもその名がみえます。その王族たちを葬った末伊山古墳群は、加耶諸国のなかでも最大級の規模をほこり、当時の国力のほどが推察されます。
伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。
一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。新羅から鉄は産出しない。竪穴式石郭や横穴式石室はない。
まったくの『記紀』や風土記は創作かというと、そうは思えないのが出石や丹後に残る地名や遺跡の多さです。
・豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と近くには出石町安良  新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。
・丹後加悦町(与謝野町)と古墳群、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する?  入江から入った地理が似ている。
・敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。 円山川河口にも気比神社がある。祭神は気比神宮と同じで敦賀から遷宮されたと伝わる。 気比神社の付近に畑上や飯谷と書いてハンダニ。畑上は秦(ハタ)?。韓国(からくに)神社など。
・日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する)
・伊福部神社は出石町鍛冶屋(カジヤ)にあり、伊福とはふいごのことで、伊福部とは鍛冶職人に関係する。鍛冶屋は砂鉄がとれたらしい。
・出石入佐山古墳から砂鉄が納めれていた。

今に伝わる加耶文化

加耶のなかで大国であった大加耶では、独特の形態をもつ一二弦の琴がつくられていましたが、于勒は加耶琴の名手として知られ、于勒は新羅に亡命して加耶琴を新羅に伝えました。今日、朝鮮の代表的な楽器の一つに加耶琴がありますが、彼の亡命と新羅における活動に求めることができます。


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3 百済の成立・発展

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半島の国家
高句麗(0年? – 668年)
百済(346年 – 660年)
新羅(4世紀? – 935年)
伽耶諸国(? – 562年)
耽羅(済州島)(? – 476年)
于山国(鬱陵島)(? – 512年)

高句麗が国家発展を遂げていたころ、南部の韓族社会にも大きな変化がみられました。313年に楽浪・帯方の二郡が滅びましたが、それより前に西部の馬韓諸国の北部に伯済国が頭角をあらわし、周辺の小国を統合して、四世紀中ごろまでには周辺諸国を統合する実力をもつようになりました。
百済ははじめ都を漢山城(のちのソウル)に置きましたが、ここはかつて帯方郡に近く、その滅亡時には土着化した中国系の人々が初期の百済勃興に少なからず寄与しました。百済は北から攻めてくる高句麗と対抗するため、いち早く半島南部の伽耶諸国に接近し日本列島の倭との戦力的な連携を模索しました。
371年に百済は、高句麗の故国原王を戦死させるという大勝利をあげましたが、翌年には百済の近肖古王は中国の東晋王朝に朝貢して冊封を受けました。
こうして百済は、高句麗に対抗するために伽耶の国々や、倭と緊密に結びながら中国南朝と通交関係をもつという外交政策は、長く百済の基本的な外交戦略となりました。しかし高句麗との対決姿勢は、その後の百済に苦難の道を歩ませ、ついに475年には都の漢山城は、長寿王の攻撃によって陥落し、蓋ろ王は殺害され百済は一次滅亡しました。
しかし、能津城(公州)に逃れた百済の支配者たちは、文周王を立てて百済を再興させ、たがて支配層内部の混乱も収まり、国政は安定に向かいました。高句麗の百済への圧力はその後も続きましたが、それをしのぎながら武寧王のころには半島の西南部に領域を広げました。やがて538年には、聖王が都を南の泗比城(扶余)に移しました。
そのころには、中央の官僚制度が整備され、官僚制度を支える個人的な身分制度、十六等の官位制が完備しました。さらに国内を五つに分割して統治する地方制度が施行されるなど、国家体制の充実を図りました。

百済文化

百済は四世紀頃からソウル地方で急成長をとげました。中国南朝としきりに外交を展開し、積極的に中国の文物を取り入れ、洗練された百済独自の文化をつくり上げていきました。
積石塚古墳などに初期国家の痕跡がみられます。とりわけ百済文化の精華を今日に伝えるのは、百済第二の都・能津城(公州)付近の宋山里古墳群で発見された武寧王陵です。1971年に偶然に発見された王陵は、アーチ状の天井をもつ横穴式の古墳で、内部からは「百済王斯麻王(武寧王)が62歳で523年五月七日に亡くなった」と記した誌石(墓誌)がみつかり、武寧王と王妃の冠飾りや華麗な装身具、武器など、その遺物は三千点に達しました。
また、扶余の陵山里古墳群の一角から発見された金銅香炉は、百済芸術の白眉といわれるものです。

百済仏教

384年に東晋から胡僧・摩羅難陀が訪れ、仏寺が創建されたといいます。六世紀になって百済が日本に仏教を伝えたことはよく知られていますが、最後の都が所在した扶余には、「寺院甚だ多し」と中国にも伝わっていました。扶余の中心部には定林寺址の石塔がたたずみ、軍守里廃寺も一塔一金堂式の伽藍を今に伝えています。また、扶余の南。益山に造営された弥勒寺は、三つの塔とそれぞれに金堂を配した三塔三院式の巨大な寺院であり、半壊したまま残った西塔は現存最古の石塔です。
渡来した百済王氏には、八世紀に敬福(きょうふく)が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。
大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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