【韓国朝鮮の歴史と社会】(27) 新世紀の朝鮮半島

[catlist id=8] 2000年に入ると朝鮮半島の事態は一変しました。6月、金大中大統領が平壌を訪問し、北朝鮮の金正日委員長と初の南北首脳会談を実現させました。両首脳は、統一問題の自主的な解決、南北双方の連合、連邦制案の共通性の確認、離散家族訪問団の交換、経済協力や社会・文化などでの協力交流、合意事項実施のための早期の当局間の対話開始、の五項目からなる南北共同宣言に署名しました。宣言には金正日委員長のソウル訪問も明記されました。宣言の内容は、1972年の七・四南北共同声明以来の路線を踏襲するものでしたが、両首脳が直接会談したことは、南北和解の雰囲気を一挙に高めました。とくに、金正日委員長の姿と肉声が世界にテレビで生中継されたことは、北朝鮮のイメージを好転させ、その外交戦略を助けることとなりました。
以後も8月と11月の二回にわたる南北離散家族の相互訪問。9月シドニー・オリンピック開会式における南北の合同入場行進など、和解の動きは続きました。そして、12月には、長年の民主化への尽力に加えて、朝鮮半島の緊張緩和を進めた実績が評価され、金大中大統領にノーベル平和賞が授与されました。2002年6月には、日・韓共同開催のワールドカップ・サッカー大会が実現し、日韓関係の進展がみられました。また、同年12月の第十六代大統領選挙では、与党候補の盧 武鉉(ノ・ムヒョン)が当選しました。03年2月に発足した盧 武鉉政権は、基本的に前政権の政策を継承しながらも、社会の広範囲にわたり民主化の促進につとめました。しかし、金大中系列の議員との対立が深まって与党は分裂し、03年11月、盧 武鉉系列の議員によって、新与党である開かれたウリ党が結成されました。
北朝鮮は、2000年1月、イタリアと国交を樹立したのをはじめ、EU各国やカナダなどと相ついで修交するなど、積極的な外交を進めました。10月、趙明録国防委員会第一副委員長が訪米してクリントン大統領と会談したのに対して、同月オルブライト国務長官が訪朝して金正日委員長と会談するなど、米朝関係は急激な進展を見せました。しかし、01年1月、共和党のブッシュ政権が発足すると、米国は北朝鮮をイラン、イラクと並ぶ「悪の枢軸」であると非難し、関係は悪化しました。これに対して、北朝鮮は米国に現体制の存続を保証する不可侵条約の締結を求める一方で、反米姿勢を強めて核開発の再開を発表する瀬戸際政策を展開しました。
02年9月、日本の小泉純一郎首相が訪朝して、金正日委員長と初の首脳会談をおこない、日朝平壌宣言を発表しました。宣言は、日朝の国交正常化を再開する、北朝鮮のミサイル発射実験の凍結期間を延長する、賠償に変わる経済協力をおこなう、ことなどを謳い、従来の日朝関係を一変させるものでした。しかし、このとき北朝鮮が1970年代に日本人を拉致した事実を公式に認定し謝罪し、五人の拉致被害者が日本に帰国しました。しかし、このことは日本で反北朝鮮の世論を強める結果となりました。これに対して北朝鮮も態度を硬化させ、関係は冷却化の様相をみせました。また、同月北朝鮮は外国資本の誘致をねらい、新義州に香港をモデルとした特別行政区を設置するとの発表をおこないましたが、構想は頓挫しました。
さらに、02年10月、北朝鮮が米国に対して核兵器開発計画があることを認めると、これに反発する米国は、枠組み合意が無効になったとの認識にもとづき、KEDOの事業に対する見直しを表明しました。03年11月、KEDOは事業の中断を発表し、軽水炉の提供は事実上棚上げとなりました。また、8月、北朝鮮の核開発問題をめぐり、南北朝鮮、中国、日本、ロシア、米国が参加した六者協議が北京で開催されましたが、問題解決には至りませんでした。このように国の内外で社会的・経済的困難が続くなか、北朝鮮からの脱出住民は急増し、中国に潜伏する者だけでも数万人におよぶと推測されました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(26) 南北の対話と緊張

[catlist id=8] 中ソ対立と北朝鮮

建国以来、中国、ソ連と密接な関係を維持してきた北朝鮮にとって、中ソ対立は対応が困難な試練でした。反米闘争の堅持をかかげる北朝鮮は、1960年代前半、ソ連を批判して中国を支持しましたが、文化大革命の開始とともに中国との対立が深まり、ソ連との関係が改善されました。1970年、中国との関係も正常化されましたが、一連の事態は、北朝鮮に自主路線貫徹の必要性を痛感させました。
1961年に策定された人民経済発展七カ年計画は、翌年「人民の武装化、国土の要塞化、軍人の幹部化、軍備の現代化」からなる四大軍事路線の採択にともない、国防支出を増大させて、民生関連予算を削減する変更を強いられました。軍事費の突出により経済建設は困難を極め、計画は三年間延長して70年に達成されました。さらに、イデオロギー面でも自立化路線が追求され、1967年5月、解放前祖国光復会の活動を国内で支えた甲山派も粛清されて、「革命の首領」金日成が唱える「主体(チュチュ)思想」[*1]に全国民が従うことを求める「唯一思想体系」が確立されました。

[*1]…主体思想とは、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、防衛における自衛」を趣旨とし、自力更生を重視してマルクス主義を朝鮮に適用した思想。

南北の対話と緊張

中ソ対立や米中接近など国際情勢の変化を機に、軍事費の増大がそれぞれの財政を圧迫していた南北の政権は、対話路線に転換しました。極秘の折衝の末、1972年7月、「自主・平和・民族的大同団結」という祖国統一の三大原則をかかげる共同声明(七・四南北共同声明)が発表されました。これは、互いに存在を否定してきた南北の政権が、相手を一つの政権として認めたことを意味し、将来の統一に向けて、今後の対話と交流の拡大を期待する内外の民衆の熱狂的な支持を獲得しました。

南北の強権体制

韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)の長期政権に対する不満も高まり、1971年4月、第七代大統領選挙で野党候補の金大中が善戦しました。政府への支持拡大をねらった南北共同声明でしたが、依然として民間レベルでの南北交流を禁圧する反共体制を維持しようとする政府に対する世論の批判を招きました。支配の安定確保をもとめる朴正煕政権は、1972年10月、非常戒厳令を布告し、12月、大統領の権限を極限まで強化した「維新憲法」を公布して(第四共和国)、個人独裁体制を確立しました。また、1970年11月、青年工員全泰壱が劣悪な労働条件に抗議して焼身自殺した事件を機に高揚した労働者、農民の運動や野党や学生の反政府運動は、大統領緊急処置の発令により徹底的に弾圧されました。1973年8月、金大中がKCIA(中央情報部)の要員によって宿泊中の東京のホテルから拉致され、1974年4月、200余人が反国家団体結成の嫌疑で逮捕される(民生学連事件)など、政治的弾圧事件が続発しました。しかし、市民や学生の独裁批判は止まず、政治家の尹潽善前大統領や金大中、キリスト教会などが1976年3月、朴正煕大統領緊急措置撤廃・朴正熙政権退陣を呼びかけ、民主救国宣言を発表しました。
経済的には、1972年、重化学工業化をめざす第三次五カ年計画が開始されました。日本の技術援助を得た浦項総合製鉄所が完成し、現代(ヒュンデ)、三星(サムソン)などの財閥が輸出を推進して、「漢江の奇跡」とろばれう経済成長を実現しました。他方、解体しつつある農村の再統合をはかり、農民の所得増大と大衆動員をめざすセマウル(新しい村)運動が展開されましたが、離農は阻止できませんでした。1979年夏、第二次石油危機による不況下で労働争議が頻発しましたが、政府は弾圧方針を変えませんでした。争議は大統領退陣要求運動へと発展しました。釜山や馬山で市民と警察の衝突が続くなか、1979年10月、朴正熙が側近の中央情報部長に射殺され、個人独裁体制は崩壊しました。
北朝鮮では、1972年12月、新憲法が制定されました。金日成が新設の国家主席に就任し、党と国家と軍の権力を掌握しました。その理論的基盤は主体思想でしたが、前とは異なり、マルク主義の唯物論を超越した人間の意識の能動性が強調されました。1973年2月、思想革命、技術革命、文化革命をめざす三大革命小組運動が開始され、それとともに金日成の長男 金正日が台頭しました。個人崇拝の徹底につれ、後継者の資格を血統に求める主張が力を得たのです。以後、金正日の資質を賞揚し、社会主義国家における権力世襲を正当化する事業が推進され、1980年10月、朝鮮労働党第四回大会は、金正日が金日成の後継者であることを正式に内外に発表しました。
経済的には、1971年から重工業の発展に重点をおいた六カ年計画が開始され、重労働と軽労働、農業労働と工業労働など各部門間の労働格差解消と、女性の家事労働からの解放を唱える「三大技術革命」が提示されました。しかし、軍事費の圧迫により経済成長は鈍化し、西側から借款の導入がはかられましたが、第一次石油危機を機に対外債務返済の不履行が深刻化しました。

韓国の軍事政権

朴正熙暗殺後、首相崔圭夏が後継大統領になりましたが、1979年12月、全斗煥が「粛軍クーデター」で実権を握りました。全斗煥は、翌年5月戒厳令を全国に拡大し、光州の民主化抗争を武力で弾圧して、第11代大統領に就任しました。1981年3月、新憲法下に第五共和国を出帆させた全斗煥政権は、日米の保守政権と連携を強め、日本から40億ドルの借款を獲得しました。また、強権でインフレを解消した後、1982年からの第五次五カ年計画では民間企業主導の開発戦略を採用しました。しかし、日本に対する累積債務は深刻であり、1982年7月、日本の歴史教科書の記述訂正を求める運動が高揚したように、政府の対日依存の姿勢は野党や学生などに非難されました。80年代後半にはウォン安、原油安、金利安の恩恵で輸出が増大し、1986年貿易収支がはじめて黒字となりました。しかし、権力との癒着を背景に不正蓄財事件が続発し、政府を批判して大統領直接選挙の実施を求める運動に多くの市民が参加しました。
1987年6月、全斗煥の後継者に推挙された盧泰愚(ノ・テウ)が、大統領直接選挙実施のための改憲、民主化、金大中赦免をかかげる特別宣言を発表しました。12月、盧泰愚が第十三代大統領に当選しました。盧泰愚政権は軍事色の払拭につとめ、1990年1月、少数与党という窮地を脱するため与野党を合同し、民主自由党を結党しました。他方、88年9月、ソウル・オリンピック開催を機に、東欧諸国など社会主義国と修交する「北方外交」の延長線上に北朝鮮との関係改善がはかられ、90年9月、第一回南北首相会談の開催をへて、91年9月、韓国の主導下に南北は国連に同時加盟しました。

「われわれ式社会主義」

1980年代の北朝鮮では、革命第二世代の権力機構への進出が顕著となり、人民軍最高司令官、国防委員会委員長に就任して権力の継承を進める金正日に対する賛楊事業が展開されました。そして、東欧、ソ連の社会主義が崩壊するのに対して、「われわれ式(ウリシク)社会主義」をかかげて体制維持をはかりました。その理論的基盤は、国家における首領と党と大衆の一体性を唱える「社会的政治的生命体論」でした。
1992年4月、憲法が改定され、主体思想の脱マルクス主義化と国防重視の方針が明示されました。他方、経済建設は限界に達し、三年の調整期ののち、87年から第三次七カ年計画が開始されましたが、経済事情は好転しませんでした。また、ソ連の解体と中国の市場経済導入は、従来の「友好価格」での石油や食糧の輸入を途絶させ、状況を悪化させました。北朝鮮は合営法の制定や自由貿易地帯設置など、外国資本の誘致につとめましたが、在日朝鮮人企業家を除いて、進出は進みませんでした。韓国に対しては、ラングーン爆弾テロ事件(83年10月)や大韓航空機爆破事件(87年12月)など、諜略工作がおこなわれました。
1992年1月、国際原子力機関(IAEA)との核査察協定に調印しました。しかし翌年、査察を拒んで核不拡散条約(NPT)脱退を表明し、南北会談で戦争を示唆するなど情勢は緊迫しました。これに対して、米朝高官協議がはじまり、94年6月、南北首脳会談の開催が決定しました。7月、金日成が急死して会談は中止されましたが、10月、核兵器開発が可能な黒煙炉を軽水炉に替えることで米国と合意し、95年3月、日本、米国、韓国が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、軽水炉の建設に着手しました。
また、北朝鮮は、1994年以降連続して自然災害に襲われ、食糧危機の陥りました。国連機関や各国政府、NGOが支援しましたが、危機は解消されませんでした。89年以来のマイナス成長に加え、1994年からは経済計画さえ立案できなくなりました。北朝鮮崩壊による極東情勢の激変を憂慮した周辺諸国は、斬新的な開放政策の導入による「軟着陸」をはかり、97年12月、南北朝鮮と米国、中国の四者会談を開始しました。
日本に対しては、90年9月国交交渉を開始し、97年11月、食糧支援と引き換えに北朝鮮帰還者の日本人配偶者の一時帰国が実現しました。しかし、98年8月、テポドン1号発射を契機に再び緊張が高まりました。韓国の文民政権に対しては、食糧支援を求めて和解の姿勢を示す一方で、96年9月の潜水艦侵入事件など、冒険主義的な工作も併用しました。加えて、韓国よりも米国との直接交渉を優先させる姿勢を示すなど、社会主義国家としての生き残りのために複雑な外交戦略を展開しました。

韓国の文民政権

1992年12月の大統領選挙では、地域感情をあらわにした選挙戦の末、与党候補の金泳三(キム・ヨンサム)が当選して文民政権が発足しました。前政権の閣僚や有力者を多数逮捕して、独自色を鮮明にしました。省庁統合を断行するなど改革の姿勢を示しましたが、他方で聖水大橋崩落などの事故や公務員の不正が続発し、急激な成長の陰で社会の矛盾が噴出しました。93年からの新経済五カ年計画は先進国入りをかかげましたが、96年10月、経済開発機構(OECD)への加盟が承認され、宿願が実現しました。
また、金泳三政権は、日本の首脳との会談を通じて植民地支配に対する謝罪発言を引き出し、韓国内でも解体に賛否が分かれていた日帝時代の象徴たる旧朝鮮総督府庁舎を解体しました。さらに、95年10月、秘密政治資金口座の発覚を機に盧泰愚を逮捕し、全斗煥とともに「粛軍クーデター」から光州民主化抗争までの事態に関する軍反乱と内乱の容疑で訴追するなど、「歴史の清算」を実践しました。ところが、97年夏、自動車、製鉄など基幹産業の不振から韓国経済は極度の不況に陥り、これが通貨危機に発展しました。年末には対外債務の不履行が危惧されたため、11月、政府は国際通貨基金(IMF)や日本、欧米に緊急支援を要請し、辛うじて経済の破綻を免れました。
97年12月、第十五代大統領選挙で野党候補の金大中が当選し、与野党間の政権交代が実現しました。金大中政権は、社会・制度の民主化の推進とともに、国際競争力確保のため大企業の構造改革に着手し、国家信用度を短期間に回復しましたが、大量の失業者の出現など犠牲も大きいものでした。対外的には、日本の大衆文化の受け入れなど、未来志向の日韓関係の樹立を進めました。北朝鮮に対しては、「太陽政策」とよばれる協調政策を採用し、北朝鮮領内の金剛山(クムガンンサン)への観光船ツアー実施など、民間の交流を支援しました。しかし、北朝鮮の潜水艦の侵入や黄海上での南北艦艇の交戦など、不安定要因は完全には解消されませんでした。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(25) 南北の国家建設

[catlist id=8] 戦後復興

北朝鮮は1954年、戦後復旧三カ年計画を開始し、ソ連、東欧、中国など社会主義諸国の経済・技術援助を得て、工場再建と都市復興をおきないました。同時に、農業生産力を回復するために農業の協同化がはかられ、58年8月までに完了しました。社会主義への移行の基礎を整備した北朝鮮は、56年12月、「自力更生」をかかげて生産と労働を奨励する「千里馬(チョンリマ)運動」を開始しました。これは、戦争の犠牲や住民の日本や韓国への「越南」による人手不足を労働者の超過労働により克服しようとするものでした。続いて57年から第一次五カ年計画が推進され、予定より早く60年に完了しました。これによって北朝鮮は「工業国」に変身したとされ、農業における「青山里(チョンサルリ)方法」や工業における「大安の事業体系」など、朝鮮労働党の指導下に大衆の自発性を引き出す生産管理運営方式が確立されました。
政治的には戦争中に弱体化した朝鮮労働党を再建する過程で、戦争の指導責任として朴憲永[*1]ら旧南朝鮮労働党系幹部に転嫁され、「米国のスパイ」として処刑されました。他方、戦後復興の方針をめぐり党内が対立し、56年8月、延安派、ソ連派の幹部が金日成の個人崇拝を批判する意見を表明しました。しかし、金日成の反撃により反対勢力は粛正され、権力集中が一段と進みました。
韓国の復興は米国の援助に依存しました。経済協力局(ECA)や国際協力局(ICA)などから総額31億ドルの無償援助がなされ、忠州(チョンジュ)肥料工場などが建設されました。また、米国の余剰農産物援助によって三白工業(製粉・製糖・紡織)が発達しましたが、これは消費財中心で国内農業を抑圧した結果となり、韓国の経済自立にそれほど寄与しませんでした。むしろ農地改革により誕生した零細自作農を没落に導きました。加えて、戦争勃発前後から旧日本人財産の払い下げが本格化し、政権と結託し特恵を獲得した資本家が初期独占財閥として成長しました。さらに、1953年10月、韓米相互防衛条約が締結され、米軍が駐屯することとなりました。1957年に米国の援助が削減され、無償援助が有償援助に変わると、韓国経済は不況に陥りました。

四月革命と軍事クーデター

憲法の改定や政敵であったソウ奉岩の処刑など、長期政権のための工作を進めた李承晩は、1960年3月の第四代大統領選で四選を果たしました。しかし、行政府主導の不正に対して、馬山からはじまった抗議運動は全国に波及し、4月19日、ソウルの学生、市民が決起して大統領官邸を包囲しました。知識人、マスコミの退陣要求に加え、米国や軍部も支持を撤回したため、4月27日、李承晩は退陣し、ハワイに亡命しました(四月革命)。1960年6月、議院内閣制にもとづく新憲法が公布され(第二共和国)、民主党の張勉政権が成立しました。張勉政権下では言論と集会の自由など民主化が進みましたが、与党の内紛で政権は弱体であり、街頭デモが慢性的に発生するなど、社会が混乱しました。新政権の発足に合わせて北朝鮮が南北連邦制を提議すると、民間でも統一論議が高まり、1961年5月20日、板門店で南北学生会談を開催することが決定しました。
1961年5月16日、陸軍少将 朴正煕らの陸軍将校(後に大統領になる全斗煥、盧泰愚が含まれている)による軍事クーデターが勃発し、軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)が実権を掌握しました。張勉政権は無力であったことから米国も事実上黙認しました。「反共」を国是に自立経済建設を標榜する軍事政権は、経済開発計画を策定したほか、国家再建非常処置法、反共法の制定や中央情報部(KCIA)の設立など、権力強化のための処置を講じました。また、軍部、政界、財界の粛正を図る社会浄化運動を展開し、南北統一運動を推進してきた労働組合、学生団体の幹部の多くも逮捕されました。さらに、1963年10月、第五代大統領選挙で当選、12月、新憲法が発効して大統領に就任しました(第三共和国)。他方、韓国の軍事政権が対決姿勢を明確にしたのに対して、北朝鮮は、61年7月、ソ連、中国とそれぞれ友好協力相互援助条約を締結しました。

日韓国交正常化とベトナム派兵

1952年2月、国交樹立のために日韓会議が開始されましたが、植民地支配をめぐる日本側代表の発言などが韓国側の反発を招き、交渉は難航しました。しかし、軍政が発足すると、極東の安保体制確立を臨む米国、外資導入を切望する韓国、経済進出をねらう日本の思惑が一致し、交渉が急速に進展しました。1962年11月、金鍾泌KCIA部長と大平正芳外相との会談で、植民地支配にともなう損害の賠償や不利益の弁済に関する対日請求権問題が決着しました。1964年3月以後、韓国では「対日屈辱外交」反対運動が全国に拡大しましたが、政府は非常戒厳令を発して弾圧し、1965年6月、日韓基本条約が締結されました。日本は、韓国を「朝鮮半島唯一の合法政府」として承認し、無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することを約束しました。植民地支配に関しては、合法的支配を唱える日本の解釈の違いは放置されました。
また、韓国政府は米国の要請を受け、1964年10月、南ベトナム政府と韓国軍のベトナム派遣に関する協定に調印しました。その結果、1965年1月から73年1月まで、延べ30万人以上の兵士と要員が派遣されました。派兵の見返りとして、米国は駐韓米軍の維持、対韓軍事援助の増額などを約束しました。一方、韓国からの軍需物資の調達、派遣兵士の本国への送金などは、経済開発に必要な外貨の獲得に貢献しました。それにもとづき、67年から外資導入と輸出指向による工業化をかかげる第二次五カ年計画が実施されました。馬山や裡里に設けられた輸出自由地域には日本企業が進出し、低資金に支えられた労働集約型の繊維産業を中心とする軽工業部門が急激に成長しました。

日本への影響

朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、フランスなどを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えました。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結されました。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活しました。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。もっとも、日本の再軍備自体は、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していました。
経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給、製造などを依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済復興に弾みがつきました。日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになります。また、戦火を逃れるために朝鮮半島から様々な方法で日本に流入した難民は20万から40万人とも言われています。その一部は現在も日本に在留しているとみられています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※[*1]朴憲永…(パク・ホニョン・1900~55)。革命運動家。三・一運動後、火曜派社会主義者として活動。解放直後共産党を再建し、南朝鮮の革命運動を指導したが、46年北朝鮮に移り副首相兼外相となった。
※[*2]朴正煕…(パク・チョンヒ・1917~79)。慶尚北道出身。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で教員後、満州国軍の新京軍官学校を主席で卒業で学び特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学。3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。解放後、韓国の陸軍士官学校に再入学。卒業後、大尉に任官。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放された。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。
休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(24) 朝鮮戦争

[catlist id=8]

韓国政府樹立後も、南部では左派の遊撃闘争が継続しましたが、1950年春にはほぼ壊滅しました。他方、米国は西太平洋の防衛線内に韓国が入らないことを言明しました。米軍は、1949年6月までに軍事顧問団500名を残して撤兵しました。中華人民共和国の樹立により社会主義の優勢を確信した北朝鮮は南進を決意し、中国とソ連の同意を得ました。さらに、1950年5月、韓国総選挙での李承晩派の大敗は、北朝鮮に「祖国解放」を楽観視させる根拠となりました。
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破し、戦争が勃発しました。北朝鮮軍は28日ソウルを占領し、南下を続けました。これに対して、韓国政府は釜山に遷都し徹底交戦の姿勢を示しました。また、「内戦不介入」という北朝鮮の予測に反して、米国は国連安保理事会を招集、北朝鮮を「侵略者」と非難し、韓国を支援するため米軍を主力とする国連軍を派遣することを決議しました。
南部を占領した北朝鮮軍は、北部と同様の「民主改革」を実施しましたが、期待した民衆蜂起は起きず、性急な改革に対して反発が強まりました。1950年9月、国連軍が仁川に上陸すると、北朝鮮軍は退却を強いられました。国連軍は、ソウル奪回後、北朝鮮を解体することを決意し、10月、38度線を突破、平壌を占領して、一部は中朝国境にまで達しました。国連軍の北朝鮮進撃が自国の存亡にかかわると判断した中国は、「抗米援朝運動」を展開し、同月、中国人民志願軍(実態は正規軍)を派兵しました。中国軍の参戦で戦況は逆転し、平壌奪回に続いて、1951年1月、ソウルが再占領されました。これに対して国連軍も反撃、3月ソウルを再奪還しました。その後戦況は膠着し、国連軍司令官マッカーサーは中ソ各地への原爆投下を企てましたが、英国などの反対で阻止されました。
1951年7月、ソ連の提案を請け、国連軍と中国軍、北朝鮮軍の間で休戦会談が開始されました。交渉は軍事境界線設定や捕虜交換をめぐり紛糾しましたが、1953年7月、「単独北進」を唱える韓国を除く三者が、休戦協定に調印しました。戦闘は停止し、軍事境界線の南北に非武装地帯が設定されました。
戦争の人的被害は、韓国軍、国連軍側の死傷者や行方不明捕虜が115万人、中国軍側の死者142万人以上、非戦闘員の犠牲者と行方不明者も200万人以上と推定されています。物的被害も著しく、韓国の被害額は、総国民所得の二倍に当たる30億2000万ドルに達しました。また、北朝鮮も国土の大半が荒廃し、戦前に比べて製造業の36%、農業の24%が減退しました。加えて、戦争は南北の分断を固定化し、相互に憎悪し合う異質化を徹底しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(23) 朝鮮の解放と分断

[catlist id=8] 国内の抵抗運動

日中戦争の前後から、朝鮮国内での抵抗は散発的、象徴的なものに変質しました。1936年8月、ベルリン・オリンピックのマラソン競技で優勝した孫箕禎の写真を掲載する際に、『朝鮮中央日報』と『東亜日報』が日章旗を抹消し、当局から停刊処分受けました。また、労働強化が押しつけられるなか、労働争議や怠業、供出物資の隠匿など、戦争に対する非協力行為が多発しました。神社参拝の強要に対しては、各会派が参拝を容認した後も、各地の教会や牧師が独自に拒否を貫徹しました。さらに、42年10月、朝鮮語学会の研究活動が、総督府の推進する「国語」常用に反対し、民族意識を保存する抗日運動であるとして、弾圧されました(朝鮮語学会事件)。
そうしたなかで、一部の人々は解放後を視野に入れた活動を展開しました。42年12月、米国の海外向け放送である「ヴォイス・オヴ・アメリカ」の朝鮮語放送を密かに聴取した容疑で、京城放送局の職員らが検挙されました。また、朴憲永らは40年3月、京城コム・グループを結成し、共産党の再建工作に従事しました。さらに、44年8月、呂運享らが朝鮮建国同盟を結成しました。同盟は朝鮮の完全な自由独立、反動勢力の排除、民主主義の原則に立脚した建設などを行動綱領にかかげ、朝鮮の自力開放をめざして抗日軍事行動の準備を進めました。

国外の抵抗運動

中国東北では、「満州事変」を契機に反満抗日運動が高揚しました。民族主義者は、旧張学良軍など中国人の抗日義勇軍と連合作戦を展開しましたが、1934年ごろには弱体化しました。社会主義者は、中国共産党の指導下に赤色遊撃隊を組織しましたが、33年ごろから反帝統一戦線をめざす東北人民革命軍に改編されました。さらに、36年2月以降、人民革命軍は東北抗日連軍に再度改編されました。抗日連軍のなかには、のちに北朝鮮政府の最高指導者となった金日成、同じく北朝鮮の高級幹部となった崔石泉、金策ら朝鮮人幹部が含まれていました。同年6月には朝鮮独立を求める統一戦線組織として、在満韓人祖国光復会が結成されました。37年6月、金日成の指導下にかん鏡南道甲山郡普天ポに侵攻しました。この事件は、閉塞状況にあった国内民衆に独立の希望を与えました。しかし、日満軍の掃討作戦によって活動が困難になり、40年夏以降、小部隊に分散した抗日連軍は、ソ連領沿海州に移動しました。彼らは、ソ連軍の傘下で対日戦の準備を進めましたが、実践には参加しませんでした。
中国国内では、32年2月、上海事変が勃発して以来、日本軍の侵攻が強化されるなかで、独立運動団体の統合と分裂がくり返されました。右派の中心であった金九率いる大韓民国臨時政府(臨政)は、蒋介石政権との提携を深めて40年、重慶に定着し、9月には韓国光復軍を組織しました。臨政と光復軍は、米国戦略情報局(OSS)の支援を受けて対日戦の準備を進め、太平洋戦争勃発直後、日本に宣戦布告しました。しかし、臨政が「亡命政権」として国際的承認を受けることはありませんでした。
左派は、38年10月、朝鮮義勇隊を創設しましたが、その主力は40年から華北の中国共産党支配地域に移動し、朝鮮人社会主義者と提携しました。彼らは42年7月、延安において華北朝鮮独立同盟とその軍事組織である朝鮮義勇軍を結成し、中国共産党が指導する八路軍と共同作戦を展開しました。
朝鮮人の民族運動は日本の戦力を消耗させる役割を果たしましたが、解放戦争を準備しているうちに日本帝国主義の崩壊を迎えました。その結果、自力で民族解放を達成するという悲願はかないませんでした。

解放と分断

1945年8月15日、日本の降伏とともに、朝鮮は解放されました。それに先立ち、9日、ソ連軍が北部に侵攻しました。米国は、日本の降伏とともに急遽朝鮮進出の方針を打ち出し、朝鮮半島に最も近い沖縄駐屯の第10軍の派遣を決め、北緯38度線を境界に南北朝鮮を分割占領することで、ソ連と合意しました。
南朝鮮では、解放と同時に呂運享、安在鴻らが朝鮮建国準備委員会(建準)を結成しました。建準は、各地に結成された自治委員会や人民委員会を基盤に治安維持をはかるとともに、対日協力者を除く諸勢力を網羅する統一戦線の役割を果たしました。45年9月、建準は独立運動に関連する人士を総結集させた朝鮮人民共和国を樹立すべきことを宣言しましたが、進駐した米軍は軍政を宣布し、朝鮮人民共和国の存在を否認しました。米軍政は、左派主導の社会運動を抑制し治安維持を最優先する方針にしたがって、植民地期の官僚や警官、軍人を雇用し、韓国民主党など右派勢力を優遇しました。他方、再建された朝鮮共産党など左派勢力は、徐々に米軍政との対立を深めました。
北朝鮮では、45年8月末までにソ連軍の支配が開始されましたが、9月、金日成らが沿海州から帰国して主導権を握ると、10月、南朝鮮とは別個の朝鮮共産党北部朝鮮分局(46年4月北朝鮮共産党と改称)を設置し、独自の革命を追求しました。46年2月、実質的な政府である北朝鮮臨時人民委員会(委員長 金日成)が結成されました。無償没収、無償分配の土地改革や八時間労働制度、重要産業の国有化など、「民主改革」が推進されました。そして、まず北朝鮮の革命を完遂し、ここを「民主基地」として、次ぎに南朝鮮の解放に着手する、よいう戦略が樹立されました。46年8月には北朝鮮共産党は、北朝鮮新民党と合同して北朝鮮労働党となりました。
朝鮮の独立は、1943年11月カイロ宣言により、米国、ソ連の合意を得ていましたが、日本の敗戦まで具体的な進展はありませんでした。45年11月、米英ソ三国外相会談は、朝鮮に臨時民主政府を樹立し、米国、英国、中国、ソ連による五年間の信託統治を実施することを決定しました。会談の結果が南朝鮮に伝えられると、右派は信託統治反対運動を展開し、賛成を表明する左派との対立を深めました。46年3月、新政府樹立を援助するために、ソウルで米ソ共同委員会が開催されましたが、対立から5月に委員会は決裂しました。
48年5月、南部で単独選挙が強行され、8月15日、大韓民国(韓国 大統領李承晩)が樹立された(第一共和国)のに続き、9月9日、北部で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮 首相金日成)が創建されました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(22) 日中戦争と朝鮮 

[catlist id=8] 大陸兵站(へいたん)基地と植民地工業化

1937年7月、日中戦争が起こると、朝鮮は軍需物資を生産する後方基地となりました。これに先がけ、36年8月に関東軍司令官を経て朝鮮総督に就任した南次郎は、工業化の推進と産業の統制をかかげました。そして、臨時資金調整法を施行して軍需産業に対する資金の重点配分を進めるなど、戦争経済の確立につとめました。

その結果、工業生産額が急増し、1930年代末には農業生産額と肩を並べました。とりわけ重化学工業の成長が顕著で、日本窒素肥料系の企業が多数設立された北部のかん興や興南を中心に工業地帯が形成され、在来の精米業や紡織業を主軸とする京仁(京城、仁川)工業地帯とともに二大工業地帯をなしました。しかし、生産は完成品ではなく部品や半製品が中心であり、一部を除き朝鮮人資本は弱体であるなど、植民地工業化は朝鮮内の有機的連関を欠くものでした。

内鮮一体と皇民化

日中戦争の勃発は、朝鮮における全国的な戦争動員体制の確立を促しました。当時マスコミは未発達だったので、総督府は講演会や時局座談会、紙芝居などを利用して、戦果とその意義の宣伝につとめました。しかし、人々にもっとも身近な情報源は噂話でした。当局はこれを「流言飛語」とみなして取り締まりましたが、根絶は不可能でした。戦争を傍観する態度や日本の敗北を願う気分が蔓延し、動員政策に対する非協力が民衆感情の根底を成していました。それに対して朝鮮人の民族性を抹殺し、天皇に忠誠を尽くす「皇国臣民」とする政策、すなわち「皇民化」政策を徹底する必要を感じました。

そこで唱えられた標語が「内鮮一体」でした。「内地」と「朝鮮」とは一つであり区別はない、という単純な内容でしたが、朝鮮人から自発的な戦争協力を引き出すため、その時々の政策の必要に応じた意味づけがなされました。「内鮮一体」の究極目標は、将来の徴兵制実施に備えて、「皇軍兵士」を創出することでした。しかい、現実には「流言飛語」が飛び交うように目標の達成は困難であり、かつて激しい抗日闘争を展開した経験のある朝鮮人に武器を渡すことに対する不安は、尋常ではありませんでした。したがって、総督府と朝鮮軍(駐屯陸軍)は、徴兵制の実施には数十年の歳月がかかると想定しながらも、「皇民化」の三本柱といわれた、志願兵制度、朝鮮教育令の改定、創始改名の実施を、実施しました。

戦時動員体制

1938年2月、陸軍特別志願兵令が公布されました。志願兵制度は、朝鮮人に武器を与えるテストとしての意味をもち、実施の地ならしの役割をはたすものでした。行政当局は熱心に応募を勧誘した結果、名目は志願ながら強要に近い形をとり、兵志願者訓練所の定員を大幅に上回る応募者がみられました。また、43年7月、海軍特別志願兵令が公布されました。

38年3月に実施された朝鮮教育令の改定は、「内鮮教育の一元化」を唱えて、学校の名称、教科書、教育方針を日本国と同一としましたが、実際には本国以上に徹底した「皇民化」教育が実施されました。また、朝鮮語は必修科目から随意科目へと変更され、事実上の廃止処置がとられました。41年4月には国民学校令が施行され、小学校は国民学校に改められました。しかし、42年でも、就学率は55%、日本語普及率は20%に留まりました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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10 大韓帝国成立と民族運動

東学と甲午農民戦争

19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。
1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

日清戦争と農民軍の再蜂起

一方、朝鮮政府は、農民戦争鎮圧のため清国には兵を要請しました。日本はこれに対抗して居留民保護などを理由に朝鮮への軍隊派遣を決定し、清国から朝鮮は弊の通告を受けた後、混成一個旅団を朝鮮に派遣しました。ところが、日本軍が朝鮮に到着したときには、すでに全州和約が結ばれており、日本は軍隊派遣と駐兵の理由を失っていました。日本は、駐兵の口実として、清国に対して共同の朝鮮内政改革案を提示しましたが、清国はこれを拒否しました。朝鮮政府も相次いで日本軍の撤退を求めましたが、日本は単独改革を主張し、さらに朝鮮政府に清国との宗属関係による取り決めの破棄を迫りました。朝鮮側がこれを拒否すると、日本軍は7月23日に景福宮を占領し、閔氏政権を倒しました。さらに大院君を執政に据えて、その下に開化派政権を樹立させました。

7月25日、日本艦隊が忠清道の豊島(ブンド)沖で清国艦隊を攻撃し、日清戦争が開始されました。日本は開化派政権との間に攻守同盟を結び、朝鮮は日本側に協力することを強要されました。日本軍は人夫や物資を徴発しましたが、これを拒否したり軍用電線を切断するなどの抵抗が相次ぎました。しかし、平壌、黄海の海戦で日本軍が勝利するなど、戦況は日本有利に進んでいきました。
こうしたなか、一次撤退していた農民軍が、日本と開化派の駆逐を標榜して第二次農民戦争を起こしました。これには、第一次農民戦争に消極的だった忠清道の東学組織が加わり、また各地の農民らが蜂起しました。しかし、近代的兵器を誇る日本軍と朝鮮政府軍の前に農民軍は敗退を余儀なくされ、12月始めには、主力部隊が大敗し、間もなく鎮圧されました。

1895年4月、日清講和条約が締結されました。第一条には、朝鮮が「独立自主の国」であることを確認するとうたわれ、宗属関係を廃止することが清国によって承認されました。

甲午改革と王妃閔氏殺害事件

開化派政権は、甲午改革とよばれる広範な改革を実施しました。清国との宗属関係の破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税の金納化、両班と常民・賤民の差別の禁止、奴ひ制度の廃止など、朝鮮王朝全般にわたる近代的な改革が矢継ぎ早に決定されました。

1894年10月に朝鮮公使として赴任した井上馨は、大院君を政権から降ろして政治に関与することを禁じ、ついで急進開化派の朴泳孝らを内閣に加えて、強力な干渉のもとに改革を推進させました。この時期の改革では、内閣制の導入、徴税機構の改革、地方制度の改革など、急進的な近代的改革がおこなわれました。しかし、朝鮮政府には日本人の顧問が配置されたり、日本政府によって借款が供与され経済的に日本に従属させられるなど、日本による干渉が深まったことに、政府のなかでも日本に対しての反発がおこりましたが、とりわけ権力から疎外された高宗や王妃閔氏らの勢力はロシアに接近して日本を牽制しようとしました。

井上馨は閔氏らを懐柔しようとしましたが、結局6月に離任し、7月には朴泳孝が王妃閔氏殺害謀議の疑いをかけられ日本に亡命しました。さらに8月には兪吉しゅんらが失脚し、かわって親露・親米的な官僚が内閣に入りました。辞任した井上馨に代わって公使に着任した三浦梧楼は、王妃閔氏の排除を計画しました。10月、朝鮮軍人のクーデターを装って、日本守備隊・公使館員・日本人壮士らが景福宮を占拠して閔氏を殺害し、大院君を再び担ぎ出して親日内閣を樹立しました。ところが、この事件はアメリカ人とロシア人に目撃されており、日本は国際的な非難を浴びることになりました。日本政府は三浦公使をはじめ関係者を帰国させて軍法会議や裁判にかけましたが、全員証拠不十分で無罪・免訴となりました。朝鮮では日本と親日内閣に対する敵愾心が高まりました。

大韓帝国の成立

王妃閔氏殺害事件後に成立した親日内閣は、陽暦の採用、朝鮮独自の年号の採用などの急進的な改革をさらに進めました。ところが、1895年12月末に断髪令を公布すると、儒者たちが各地で兵を挙げました(初期義兵)。親日内閣はこの反日反開化の義兵への対応に追われましたが、親露的な官僚らがロシア軍の支援を受けて、高宗をロシア公使館に移しました。親露派はクーデターによって親日内閣を倒し、甲午改革は最終的に挫折しました。高宗は、1897年2月に、ロシア公使館からほど近い慶運宮に移り、8月に光武という年号を定め、さらに10月に皇帝に即位する儀式をおこない、国号を「大韓」と改めました。こうして大韓帝国が成立し、これによって高宗は中国皇帝と同格になり、また欧米・日本と同格の独立国の元首になったことを宣言しました。

1899年8月に制定された「大韓国国制」では、大韓帝国は国際法上での独立国であるとともに専制君主国であるとされ、この皇帝先制権力の元で、自主的な近代的改革を試みました(光武改革)。軍備の増強、土地測量事業、貨幣・金融制度の改革、また、官僚主導による会社設立、電気・電車事業、鉄道敷設や鉱山開発などの殖産興業政策が試みられました。しかし、その財源を確保するために税源が拡大されたり、税率が引き上げられ、また補助貨幣が濫発されました。拡大された財源の多くは軍備増強に遣われ、また王宮の造営・宴会費などの皇帝の権威強化のための支出も膨大でした。光武改革は外国に依存せず自主的な近代化をめざしましたが、その意図とは反対に借款に依存するようになりました。そうして、担保とされた鉱山採掘権などの利権をめぐって列強の争奪戦がおこったり、また列強の利害対立により借款経過于が妨害されるなど、大きな成果を上げないまま中断してしまいました。

引用:『韓国朝鮮の歴史と社会』吉田光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他


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9 朝鮮の開国と開化政策

大院君の攘夷政策

19世紀の中ごろ、東アジアの中国・日本・朝鮮は、相ついで欧米諸国との開国を迫られました。
19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていました。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していませんでした。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進みませんでした。

1864年、幼くして即位した国王高宗に代わって実権を掌握した興宣大院君は、相ついで来航し開国・通商を要求する欧米諸国に対して、強硬な攘夷政策をもって臨みました。66年、アメリカ商船シャーマン号が平壌に侵入すると官民らはこれを焼き払いました。同じ年、大院君が天主教(カトリック)に弾圧を加えたことを理由に、フランス艦隊が江華島に侵入すると、大院君はこれも打ち払いました。また、71年には、通商条約を求めて江華島に来航したアメリカ艦隊を撤退させ攘夷を強めました。

また、大院君の攘夷政策を背景に、小中華思想にもとづき、天主教邪学としてしりぞけ、朱子学を正学として守るという衛生斥邪(えいせいせきじゃ)思想が高揚しました。しかし内政については、衛生斥邪派と大院君は対立しました。自らの権力を強化しようとする大院君は、景福宮の再建など大規模な土木工事を行い、さらに両班の勢力に規制を加えるため書院を撤去したり、両班には免除されていた軍布を徴収するようにしたからでした。

※軍布…形骸化した徴兵に代わり、年間綿布を徴収するもの。農民にはかなり重い負担だった。

日朝の対立

そのころ、日本との間にも外向的な問題が発生しました。1869(明治2)年、明治政府は、政権樹立後、対馬藩を通じて朝鮮に王政復古を通知し国交を結ぼうとしました。ところが、朝鮮側は日本の用意した書契(外交文書)に、中国皇帝しか使用できない「皇」という文字が使われているという理由で、受け取りを拒絶しました。

その後、日本政府は対馬から朝鮮に冠する外交権を接収し、朝鮮との条約締結を試みましたが、大院君政権によって拒否されました。

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

衛生斥邪派の崔益玄(金へん)が内政問題について大院君を攻撃すると、大院君と対立する王妃閔氏の一族らは大院君を政権から追放しました。そして、国王高宗の親政がはじまり、閔氏政権が成立しました。翌74年、閔氏政権は、日本の台湾出兵事件と朝鮮出兵の可能性に関する情報を清国から得ました。また、政権内でも、開国派が日本からの書契を受け取るべきだと主張しました。こうして、閔氏政権は日本との交渉を行うことになりましたが、交渉は難航しました。

江華島事件と朝鮮の開国政策

1875年、江華島事件(雲楊号事件)が起きました。日本政府が示威で江華島沖に送った軍艦雲揚から出た小船に江華島の砲台から発砲、雲揚が「応戦」した事件です。雲揚が許可なく朝鮮の領海を侵犯したので、これを排除しようとしたものでした。しかし日本政府はこれを口実として砲艦外交を押し出し、1876(明治9)年、江華島条約(日朝修好条規)が結ばれます。釜山・元山・仁川の3港を開港、ソウルに日本公使館を開設しました。これは中国がイギリスと結んだ南京条約(1842年)、日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約(1858年)と同様、治外法権の認定など、結ばされた側にとっての不平等条約でした。

これによって朝鮮は、帝国主義が渦巻く世界へ開国していくことになりました。日朝修好条規はれまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約ですが、その第一条で、「朝鮮国は自主の国」であるとうたいました。これは、朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記しすることで、清朝の影響から朝鮮を切り離すねらいがありました。従来もっていた華夷秩序との葛藤が起こっていきます。

1880年、朝鮮政府は金弘集を修信使として日本に派遣しました。金は日本を視察するとともに、東京の清国公使館に立ち寄り『朝鮮策略』を受け取りました。それには、ロシアの侵略を防ぐために、朝鮮は清国との関係を深め日本と連携するとともに、アメリカと関係を結ぶこと、国内改革を進めるべきことが述べられていました。これを直接の契機として、閔氏(びんし)政権は、対欧米開国や開化政策を進めていきます。閔氏政権は、新たな外交関係に対応する機関として統理機務衙門を設置し、日本から教官を迎えて様式軍隊を編成したり、近代的な政治制度や技術習得のために日本に朝士視察団、清国に領選使を派遣したりしました。朝鮮国内では『朝鮮策略』に対して反対運動が起こりましたが、開国・開化路線を固めた閔氏政権はこれを押さえつけました。

清国の李鴻章は、朝鮮国王から交渉に仲介を依頼されたという形をとって、アメリカ側と条約締結交渉を進め、1882年5月、米朝修好通商条約が調印されました。さらにイギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも同様の条約を結びました。

李鴻章は、伝統的な宗属関係を国際的に認めさせるため、朝鮮は清国の属国であり、その内政・外交は自主であるという内容の条文を設けようとしました。しかし、これはアメリカ側の反対にあい、李鴻章は同じ内容の書簡を朝鮮国王からアメリカ大統領に送らせることによってこれに代えました。朝米条約を契機に、これまでの清国との宗属関係と、日本や欧米列強国との条約関係が併存することになりました。

開化派と甲申政変

閔氏政権の開国・開化政策にともない、開化派が形成されました。朝鮮王朝後期の実学や清国からもたらされた書籍によって西洋の事情などを学び、外交使節や留学生として海外に渡航し近代西洋文明を吸収しました。
開化派は、清国の宗主権が強化されると二つの派に分かれました。一つは、閔氏政権の内部で清国との宗属関係を基軸に内政・外交の実務を担う穏健開化派で、もう一つが、清国との宗属関係を破棄し、さらに閔氏政権の打倒をめざす急進開化派で、日本の維新をモデルに朝鮮の富国強兵を試み、日本からの資金導入、日本への留学生派遣などをおこないました。

1884年12月、金玉均らは日本公使館守備隊の兵力を借りてクーデターをおこし、閔氏政権の要人を殺害して新政府を建て、清国との宗属関係を破棄、門閥によらない人材登用、税制・軍制の改革などを内容とする政策方針を作成しました(甲申政変)。ところが、閔氏政権の要請によって清国軍が出動すると、日本公使館守備隊は撤退し、新政府は間もなく倒れました。

清の宗主権強化と朝露密約

甲申政変によって朝鮮をめぐる日清の対立が深まると、日清は一時的妥協をはかって天津条約を結び、両国は朝鮮から軍隊を撤退することにしました。ところが、この条約の締結直前に、イギリスの極東艦隊が、ロシアの大平洋艦隊に対抗するため、巨文島(コムンド)を占領するという事件が起きました(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議しましたが、イギリスとロシアの調停を行ったのは、清国の李鴻章でした。

一方、朝鮮国王の高宗は、甲申政変の直後から、日本と清国を牽制するためにロシアへの接近を試みていました。高宗はドイツ人顧問のメレンドルフを通じて、ロシアから朝鮮への軍事顧問派遣の約束を取り付けました。しかし、この密約が露呈すると、李鴻章はメレンドルフを解任するとともに、高宗や王妃閔氏の一族を牽制するために大院君を帰国させました。そうして袁世凱を宗主国の代表として漢城に駐在させ、朝鮮国王・政府を指導させることにしました。

ところが、高宗は再びロシアと秘密交渉を進め、ロシアは朝鮮が独立国であることを認め、有事の際に朝鮮に軍隊を派遣することを求めました。ロシアへの接近を阻止された高宗は、さらに他の欧米諸国への接近によって、清国の宗主権強化に対抗しようとし、1887年、駐米全権公使とヨーロッパ五か国兼任の全権公使を任命しました。李鴻章は、はじめは全権公使の派遣に反対しましたが、結局朝鮮側の要請を容れ、清国公使の格下として行動することなどを条件に全権公使派遣を許可しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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9 朝鮮時代後期

日本の侵入

1592年4月、朝鮮半島南端の水軍基地釜山鎮の兵士たちは、目の前の海面を埋め尽くすような日本軍船の大軍を発見して驚愕しました(文禄の役)。豊臣秀吉の命令を受けた日本軍十数万の侵入です。この事件は、朝鮮王朝が滅亡の淵にたたされた、王朝開始以来最大の危機でした。朝鮮王朝はすでにその危機を察知し、その前年、外交使節(通信史)二人が秀吉と会見させて情勢を探らせていましたが、その時点では差し迫った危機的状況にはないと判断していました。この間に準備を進めていた秀吉は、明を侵攻するための通路を開く(仮道征明)という理由で朝鮮に軍を進める決定をしました。佐賀県唐津の北方、玄界灘に面した名護屋の地に設営された本営(名護屋城)に諸大名の軍勢を集め、一挙に軍を進めていきました。

防備の整わない朝鮮に対して日本軍は釜山鎮と東莱府城を攻め落とし、さらに要衝蔚山(ウツザン)などを撃破して進撃を続けました。翌月には加藤清正と小西行長の舞台が首都漢城(ソウル)に突入し、さらに北上して小西行長隊は平壌をも占領下におきました。加藤清正隊はかん鏡道の北端まで軍を進め、こうして朝鮮半島の広い地域が日本軍に踏破されていきました。

国家軍が壊滅するなか、慶尚道など各地で儒者を中心として朱子学の義を奉じた義兵が立ち上がり、抵抗運動の先頭に立ちました。朝鮮政府の要請に応じて明の救援軍が駆けつけると日本軍は後退を始め、1593年初めには平壌から撤退していきました。このころになると朝鮮政府も陣容を建て直し、明軍と協力しながら反撃に転じます。

日本軍は1593年4月には漢城を引き上げて大部分が日本に撤兵し、いったん戦争は終結するに思われました。しかし、明の使節を招じて大坂で行われた講和交渉は失敗に終わり、秀吉は1597年、全国の大名に対して再度、朝鮮への侵攻を命令しました(慶長の役)。今回は朝鮮側の防衛体制も整い、明の救援軍も早くから投入されたうえ、日本軍自体に嫌戦気分も高かったため、戦闘は全土に広がらず、南部地方に留まりました。李舜臣(リシュンシン)の率いる朝鮮水軍が全羅道南部(半島西南)の海戦で大勝利をあげ、秀吉の死去したこともあって日本軍はさしたる戦果もあげないまま、ようやく1598年11月に完全撤退を完了しました。この足かけ七年にわたる戦争は朝鮮に大きな被害を与えました。土地が荒れ果てただけでなく、多くの人々が死傷しました。

捕虜として日本に連れ去られた人々も数万に上りました。そのなかには、多くの陶工が含まれており、佐賀県の有田など各地で陶磁器生産に従事して日本の陶磁器産業の基礎を築きました。また、松山に連れてこられた儒学者姜沆(きょうこう)がその学識によって日本の人々に大きな影響を与えるなど、この戦争によって朝鮮から日本に伝わったものは少なくありません。一方、戦争のさなか、王宮である景福宮などが焼失し、漢城は荒廃してしまいました。

清の侵入

救援に駆けつけた明の被害も甚大でした。多大な軍事費負担が圧力となって国力の衰退を招き、明軍が朝鮮半島に進駐している間に、北京の東北(現在の中国東北地方)では、女真人の勢力が台頭してきました。交通ルートの結節点を抑えていた女真人は交易によって多大の利潤を上げ、大きな軍事力も蓄えていました。ヌルハチは諸勢力を糾合して後金(のちの清)を建国して明に圧迫を加えてきました。後金は明と戦いながら朝鮮にも軍を進め、服属を迫ってきました。宣祖の後を継いだ光海君は、明と後金との間で慎重な外交政策をとっていましたが、1619年、今度は明の要請で参戦し、後金軍に大敗してしまいました。これ以後、光海君は後金との衝突を回避する政策をとるようになります。

1623年、光海君の後を継いだ仁祖は、明と協力しつつ後金と対決する方向へと政策を転換しました。1627年、後金軍が朝鮮半島に侵入してきましたが、和議が成立し、朝鮮と後金は兄弟関係を結ぶことで事態は沈静化しました。しかし、その後も朝鮮が明との協力関係を継続していたため、1636年、ホンタイジの率いる後金がこの年に国号をと改め、大軍が再度攻撃してきました。漢城を占領され、抵抗した仁祖も翌年初めに降伏し、朝鮮は清の冊封を受ける臣属国となりました。また、ついに1644年、首都北京が清の攻撃で陥落し、300年近く続いた明王朝は崩壊してしまいました。

朝鮮の対外関係

16世紀末から17世紀前半にかけての戦乱が終息すると、朝鮮は中国・日本と平和で安定した関係を結びました。
朝鮮王朝は早くから、外交関係を重視していました。通訳養成所として司訳院を設置し、漢学(中国語)・倭学(日本語)・女真学(満州語)・蒙学(蒙古語)の教育が行われました。卒業生は合格すると訳官として政府に採用され、外交の第一線に立ちました。
朝鮮政府にとって最大の外交相手は柵封を受けた清で、1637年以来、歴代の国王は藩属国の君主として清皇帝から「朝鮮国王」に柵封され、元号も清皇帝の名を使っていました。漢城から燕京(北京)には毎年多くの朝貢使節が派遣され、その回数は500回ほどになります。国境の鴨緑江の江界には開市とよばれる交易場が設けられ、牛・毛皮・薬用人参などの取引が行われました。

豊臣秀吉の侵攻を受けた日本との関係は複雑です。朝鮮政府はとりたてて江戸幕府との交流を望んでいたわけではありませんでしたが、両国の間にあって古くから仲介貿易を経済基盤としてきた対馬の人々の多大な努力により、政治関係・経済関係とも戦前に復することになりました。1607年、宣祖は、徳川家康から送られてきたとされる手紙(国書)に対する回答の伝達と、戦乱のときに捕虜として日本に拉致された人々を調査して帰国させることを名目として、外交使節を派遣しました。のちに1631年、国書は対馬が偽造したものであることが判明し、大事件となりましたが、江戸幕府は対馬の責任を不問に付し、両国の関係は継続しました。1636年以降は、台頭の外交である「交隣」を取り結ぶために使節は「通信使」を称するようになりました。派遣された外交使節は、1811年の最終回までに約200年間で12回ありました。一方で、日本側の外交は対馬に委任されており、江戸幕府の外交使節は一度も漢城に派遣されることはありませんでした。

東莱に設けられた倭館には対馬の役人が常駐して交易を行っていました。倭館は広さ約10万坪、常駐する人員は400人以上にのぼりました。1609年、朝鮮政府は対馬の大名宗義智に交易権を認める権利を締結し、年間に往来する交易船の数などを規定して、この締結は1872年まで機能しました。朝鮮は薬用人参・米・木綿など、日本は銀・銅などを主要商品としており、その取扱高は長崎の出島貿易を凌駕するものでした。銀は中国に再輸出され、清の銀本位体制を支えるとともに、貿易の決済手段としても使われ、遠く西アジアからヨーロッパにまで運ばれていきました。

新たな時代の到来

18世紀末になると、北京経由で朝鮮にも天主教(カトリック)が入ってきました。正祖政権はこれを邪教として禁止し信者を弾圧しました。この政策は19世紀にも継続され、多くの殉教者が出ました。いよいよ朝鮮にも西洋との接触が本格化してきたのです。

正祖のあとを受けて1800年、純祖が第23代国王に即位します。わずか十歳で、政治の実権は母である正祖妃がにぎりました。純祖が15歳を過ぎて自立し、国王として動き始めたころ、母の父である老論時派に属する金祖淳が僻派を倒して主導権を握り、出身氏族である安東金氏一門が国王の外戚として政権の要職を占めていきました。このような政治形態を世道(勢道)政治といいます。純祖以降もあいついで王妃を出した安東金氏一門は権力の座を保持しました。

しかし、このような世道政治による権力集中に不満を募らせた地方有力者たちが、貧しさにあえぐ農民たちを巻き込んで、ついには1811年、平安道博川で政治に対決する反乱が起こりました。政府はこれを基盤を揺るがす重大事と受け止め、大軍を送って翌年壊滅させました。

これ以後も、さまざまな不満が暴動となって噴出してきます。漢城でも米価をつり上げた商人が襲われる事件が起きます。1862年、慶尚道晋州で起きた反乱は三南(忠清・全羅・慶尚)一帯に広がりました。この年の干支をとって壬戌民乱といいます。やがて済州島など各地に広がり、朝鮮は騒然としたなかで「開国」前夜を迎えていました。この動きは、さまざまな身分・職業をもつ人々が参加し、社会の矛盾とそれに根ざす不満が多様化していました。

社会変動と国家財政

日本・清軍の侵入をへて、17世紀の韓国朝鮮社会は深刻な状態にありました。農地が荒廃し、農民が死亡したり逃亡したりしてノン尊社会は大きな変動期を迎えていました。その影響を受けたのが、農業生産物からの税収に頼っていた政府の財政運営でした。それに加えて、戦乱による支配機構の混乱によって農地・農民の把握が困難となり、財政は危機的状況を迎えていました。

王朝創設以来、国家財政は、主として農民たちが生産物に賦課される田税で、大豆で収めるものでした。政府では税制改革が必要不可欠だと認識されるようになり、その第一歩が大同法の実施でした。邑ごとに収める貢納を、農地の広さに応じて定率制で米・銭を納入するようにしたもので、地代のようなものです。

しかし、建国以来はじめての大税制改革となる大同法は大きな抵抗があり、全国的に施行されるには100年という時間が必要でした。

経済の変動

水利施設の発達と農業技術の改良により、17世紀半ばには早くも戦乱の痛手から立ち直り、農業生産力は戦前の水準をこえはじめました。なかでも水稲耕作の発展が顕著で、田植え法が全国に広まり、南部の二毛作の普及とあいまって食糧供給が安定しました。綿花・麻・薬用人参・たばこなど商品作物の栽培も活発となり、それらを利用する農村手工業もおこって、綿布・麻布などが広く流通し、中国・日本にまで輸出される国際商品となりました。

大同法は漢城を中心とする流通経済に大きな刺激を与えましたが、農業発展も全国の商業に変化をもたらしました。地方住民が必要物資を入手する場として場市(市場)が各地に出現し、五日ごとに開かれる定期市になって、しだいに地域ごとにネットワークを形成していきました。

商品流通が活発化すると、交通の要衝や漢城には旅閣・客主とよばれる中間業者があらわれました。商品の委託販売や倉庫業をおこないながら、行商人などに宿泊施設も提供していました。貨幣もしだいに銅銭「常平通宝」が広く流通するようになり、貴金属の高額貨幣は、丁銀など、倭館貿易を通じて日本から流入した銀貨が流通しました。また大量の取引や遠隔地の取引には手形の一種である「於音」が用いられました。

常設店舗「市塵(してん)」は、漢城のほかに平壌、開城(ケソン)、水原(スウォン)のみにありました。漢城の市塵は、景福宮前の大路との交差点から東大門(トンデモン)までの両側と、一部は南大門(ナンデモン)に向かう幹線道路にも店舗を並べました。市塵はさまざまな国家義務を負担することを条件として認可を得て、特定商品を専売品として独占販売する権利を持つ商人組合でした。

身分と社会

人々は法律的には良民と賤民の二つに分けられ、良民男子は軍役など国家に対する義務を負担する一方、科挙受験の権利を持っていました。賤民の大部分は主人に所有される奴ひで、15世紀後半には良民を主人とする私奴ひが、全人口の80~90%を占めたという証言があるほど奴ひの人口が多かったのです。

伝統と歴史に根ざした序列があり、法的身分とも連動していました。地域によって違いがあるものの、おおむね最上位に士大夫の族として士族があり、以下、一般良民で官位・官職をもつ者、郷吏、一般良民、賤民という序列が成立していました。漢城には代々、科挙の雑科を通じて通訳・医師などの技術官僚となる家系の人々がおり、中人とよばれました。士族は、儒学を身につけることで立派な人物と認められ、科挙に合格し、官僚(両班)になって国家経営を担っていく母体と考えられていました。

人口の多くを占めていた一般良民(常民)は、賤民とともに農業などの生産活動を行っていました。良民と賤民の間の壁は低く、身分を超えて結婚する人々も多くありました。そのことが良民の数を急速に増大させていきました。

社会の変容

17世紀になると、急速に賤民数が減少して良民が増加します。18世紀になると、士族と同様に役を免除される人々が増加します。同じ父方祖先から出発したと考える人々(氏族)は強い血縁関係をもち、始祖の本拠地である本貫と、姓を同じくする意識が士族層以外の身分層にも広がり、18世紀末には、住民たちの大多数が本貫と姓をもつようになり、なかには族譜のなかに入り込んで士族の末裔を称する者まで出るようになります。人々は社会のなかで生き抜いていくため、自分の基盤を固めるつながりを模索して、氏族にたどりついたといえるでしょう。(例:金海金氏)

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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