「佐渡の金山、生野(イクノ)の銀山」として知られる銀の町として有名な兵庫県生野。生野鉱山は約1200年前に開坑されたとも伝わる古い鉱山で、操業時の坑道は地下880m・坑道の長さ延べ350kmにも及び、採掘した鉱石は、金・銀・銅・亜鉛など70種類にも及びました。山名・織田・豊臣・徳川の直轄地を経て、明治22年以降皇室財産になりましたが、明治29年には三菱に払い下げられ昭和48年にその長い歴史を閉じました。
要衝の地に有りながら、町の中央を流れる市川の度重なる氾濫や、鉱毒の為に、田畑を耕しても育たず民家も少なかったので、あまり人の住めるところでは無かった様で、「死野」とも呼ばれていたようです。「播磨国風土記」には、垂仁天皇が「死野」から「生野」にするよう言ったと言う話も伝わります。もし生野に鉱山がなければ人は住まなかっただろうとさえいわれ、鉱山とともに栄えた町です。
童謡「とおりゃんせ」は、垂仁天皇の頃の本当は恐ろしい神の伝承だというものです。
「最新 日本古代史」恵美嘉樹著によると、
自由に坂道を往来する10人の旅人の5人を殺し、残りの5人を通す。20人が通ればそのうち10人は殺す。
『播磨風土記』で、「生野というところは、むかしこの地に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺した。このため死野(シニノ)と呼んだ。」とも一文である。童謡「とおりゃんせ」の原型ともいわれるが、この恐ろしい神の居場所は、但馬、丹波、播磨の3つの国の国境地帯にあり、近くには但馬一宮 栗鹿(アワガ)神社がある。祭神のアメミサリは神社の背後にある粟鹿山に鎮座します。大国主(オオクニヌシ)の子とされているが、元来はこの要地に独自の関所をもうけた氏族の神であったのだろう。そこに大和の三輪山の神官家のオオヒコハヤが颯爽と現れ、この粟鹿神を鎮めて、五穀豊穣の神にしてしまった。
神社の北側には、古代国家によって全国に張り巡らされた道路網の一つ、山陰道が通っている。近年、沿道から「駅子(エキシ)」と書いた木簡(墨で書かれた札)が発掘された(柴遺跡は朝来郡山東町)。
「駅」とは古代の緊急連絡網のために設けられた施設のこと。都までつながる道に等間隔に設置された。駅には馬が常時つながれており、緊急連絡がある場合、次の駅までリレー式に早馬で伝達していくわけだ。緊急でない場合は一役人も使っていた道でもありました。ちなみに陸上競技の駅伝の語源でもある。
この「駅子」の発見から、付近に駅があり、粟鹿神社の地が交通の要所であることがわかり、伝説の信憑性が裏付けられた山陰道など古代の道路網は飛鳥時代に整備されたといわれている。
交通の要衝で、荒ぶる神が通行人の半数を妨害し危害を加えるという伝承は、古代社会ではわりとポピュラーで、同じタイプの伝承は数多くみられる。神話学では「行路妨害」と分類されるこの伝承は、先住民が土地支配の正当性を語る思いが込められているのだという。地方豪族がまだ完全にヤマト王権に従属していなかった時代には、激しい縄張り争いから境界に見張りをつけ、場合によっては危害を加えた、といったことが日常頻繁にあったに違いない。「行路妨害」-それは地方の豪族が自らの土地を守る最大の抵抗だったのであり、境界が有名無実化した後世になって伝承として伝えられたのかも知れない。」
池田古墳(前方後円墳)や近年発見された「茶すり山古墳」(朝来市和田山町筒江)は、5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳としては近畿最大、全国でも第4位という大古墳が見つかりました。かりに朝来氏、粟鹿氏といった但馬王というべき豪族がいたことを裏付けます。