1.天地開闢(てんちかいびゃく)1/5 世界の始まり

現在、日本神話と呼ばれる伝承は、そのほとんどが『古事記』、『日本書紀』および地方各国の『風土記』にみられる記述をもとにしています。高天原の神々を中心とする神話がその大半を占めていますが、その一方で出典となる文献は決して多くはありません。

本来、日本各地にはそれぞれの形で何らかの信仰や伝承があったと思われ、その代表として出雲(神話)が登場しますが、ヤマト王権の支配が広がるにつれて、そのいずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」(祟る神)という形に変えられて、「高天原神話」の中に統合されるに至ったと考えられています。

また、後世までヤマト王権などの日本の中央権力の支配を受けなかったアイヌや琉球にはそれぞれ独自色の強い神話が存在します。自分達の世界がどのようにして生まれたか。このことは古代人にとっても大きな問題でした。『古事記』、『日本書紀』の最初の部分は世界誕生のころの物語となっていますが、『古事記』と『日本書紀』との間で、物語の内容は相当に異なります。

さらに、『日本書紀』の中でも、「本書」といわれる部分の他に「一書」と呼ばれる異説の部分があります。これはヤマト王権が各国の伝承・特産などを調べ『風土記』として提出させたのですが、このようにして、神々の誕生の神話は1つに定まっていないので、公平に一書として併記しているのは、すでに当時、日本は民主国家的であったということをすさしているとも思えます。

『古事記』(和銅5年(712年)は一般に一つのストーリーとなっている歴史書で、『日本書紀』(養老4年(720年)に完成)は、対外向け正史といわれていていますが、特に有名な出雲神話・日向神話(天孫降臨)は古事記以外の伝承も記載しました。

0.世界の始まり(天地開闢(てんちかいびゃく))

『古事記』によれば、世界のはじまった直後は次のようであった。『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、一般的には、日本神話における天地開闢のシーンといえば、近代以降は『古事記』のこのシーンが想起される。

『日本書紀』

『日本書紀』における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。

卷第一 神代上(かみのよのかみのまき)
第一段、天地のはじめ及び神々の化成した話(天地開闢)
本書によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神が生まれるのである。

第二段、世界起源神話の続き
天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となる。

■考 証

田辺広氏『日本国の夜明け: 邪馬台国・神武東征・出雲』には、

世に出雲神話としてよく知られているものに、須佐之男命の八俣の大蛇退治、大国主命の因幡の白兎の話であるが、いずれも記紀に著された神話で風土記にはまったく見えない。そこで是等は記紀の中でつくられたもので、たとえば、前者は「高天原による出雲平定を神話化し、正当化したものである。あとに続く国譲りの先駆的役割を果たすために作られたと見るべきであろう」とある。

しかし一方で、萩原千鶴氏は「記によれば、天から追われた須佐之男命は出雲の国の肥の河上、名は鳥髪の地に降ったとあるが、それは出雲国風土記が斐伊川の水源としてあげる鳥上山に一致する。記の出雲神話の地理は、出雲国風土記の記載によく適合しており、単なる中央の机上の製作とは思われない」という。

大国主命が主人公として出る神話は、稲羽素兎神話、根の国神話、八千矛神話、国作神話、国譲神話があり、記紀の出雲神話は、その神代の巻の約三分の一を占める。

(中略)

私の意見は、萩原説に賛成である。神話に書いてある細々とした説話は荒唐無稽で、事実としては信ずるに足りなくても問題ではない。史実として取り上げるべきことは、出雲の古代にスサノオという偉大な統率者と、その子孫にオオクニヌシという立派な後継者がいたことである。スサノオのオロチ退治も斐伊川の上流にいた、たぶん金属加工(たたら製鉄)を行って勢力を伸ばした豪族がいて、それを占拠した事実を神話・伝説化したものであろう。そして亡ぼしたのは大和の朝廷軍であったのか、東部の意宇の主であったのかは確たる証拠がないかぎりわからない。

それより問題は、記紀の編者、あるいはそのバックにある大和朝廷は、なぜ抵抗勢力であり、同族でもない出雲の神話をこのようにたくさんのページを割いて載せたのかということである。勝利者であれば、むしろ出雲神話は抹殺すればよいのではないか。(中略)

記紀の方から見れば、出雲の伝承に多くのページを割かねばならないにしても、それをどのように日向神話の中に入れ込むか、旧辞の編者というか太朝臣安万侶の考えというか、難しいところだが、次のように大雑把に言えると思う。

いろいろからみ合って天孫族の神と出雲の神が出現するが、ある一線を引いたと思う。それは陰陽(影と光)の別である。地域的には山陽と山陰、太陽と月、天と地、地上と地下、現世と冥土(黄泉国)、天津神と国津神、勝者と敗者、征服者と被征服者の別である。具体的には政権と宗教界という形で現在まで続いている。もちろん、のちの仏教その他の宗教を除いた神道の世界のことである。

神武東征の謎: 「出雲神話」の裏に隠された真相 著者: 関裕二

神武天皇をめぐっては、いくつもの誤解がある。
神武天皇が圧倒的な武力をもってヤマトを制圧した古代最大の英雄、という思いこみはその最たるものであろう。

(中略)
『日本書紀』を丹念に読んでいくと、神武東征はけっして神武軍の「一方的な勝利」ではなかったことがわかる。

ようやくの思いで大和に到着し、しかも、力ずくで王権を獲得したのではなく、相手が勝手に政権を放り投げてきたのである。これは「推理」ではなく、『日本書記』にそう書いていることだ。それにもかかわらず、神武天皇が偉大な勇者、武力に秀でた強い天皇と思われるに至ったのは、尋常小学校の教科書の記述が神武天皇の武功のみをクローズアップしたからに他ならない。もちろん、このような教科書の記述は、明治政府の意向でもあったろう。

(中略)
一方、神武天皇にまつわるもう一つの誤解は、神武東征は「神話」にすぎなかった、というのものである。

(中略)
(それは)戦前の偏った教育に対する反動に他ならなかった。史学者たちは「神の子・神武」という図式を比定するばかりか、神武天皇という存在そのものを疑ってかかるようになっていたのである。

たしかに、『日本書紀』や『古事記』は、神武天皇が今から二千数百年前の人物であったとしているのだから、これをそのまま素直に信じるわけにはいかない。考古学的に見ても、大和に「国」らしきものが誕生するのは、それから千年後のことになる。したがって、『日本書紀』や『古事記』の神武天皇にまつわる記述は疑わしい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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