豊岡市神美地区の兵主神社

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造いといのみやつこと池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍あめのひぼこゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)と書くことから、天日槍(天日矛)を武神とみなし、兵主と同一視する研究者や歴史家がおられる。

別記にくわしく書いているので割愛するが、天日槍は初代但馬国造となった人物で、権力は掌握できたのかも知れないが、天日槍≠兵主です。

 
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭はかざ遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

森尾古墳群は、中嶋神社のそばを流れる穴見川をはさんで、東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県の兵庫も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。

兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。

大生部兵主(おおうべひょうず)神社

但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった

鳥居


木造りの鳥居と参道


社殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。


拝殿

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。


鳥居


神門


社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社

あなみごう へぬしおおうべひょうず?
兵庫県豊岡市三宅字大森47

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

  
鳥居とと神門

  
社殿

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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