『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、
14 倭人の根拠地:朝鮮半島南部と北部九州
朝鮮半島南部と北部九州にいた「原倭人」は、早くから雑穀を栽培しており、ある程度の航海民的な性格をもち、稲作などをいち早く取り入れやすい条件をもっていました。ごく初期の稲作遺跡が、主に朝鮮半島南部(京畿道欽岩里遺跡出土炭化米で陸稲の可能性あり。紀元前1260±70~紀元前670±100など)と北部九州にみられます。
また、半島南部と北部九州から、耳飾り、釣り針、稲作遺跡・磨製石器、支石墓、管玉、合口式甕棺、漢代の銅鏡・銅矛・銅剣、広形銅矛、巴形銅器など、共通の遺物が出土しています。
共通の遺物の出土は、北部九州の文化が朝鮮半島南部へ伝わったとか、半島南部の文化が北部九州へ伝わったと考えるより、両地域にまたがって同じ民族の人々が居住していた、それが「倭人」である、と考えた方が上手く説明できるように思われます。
従来、弥生文化は、水稲栽培、金属器や弥生土器の使用などによって特徴づけられていましたが、水稲耕作と弥生土器の使用とは、分けて考える必要があります。
主に九州で水稲耕作が始まるのは今から3000年程度前で、その頃以降を「稲作時代」「稲作文化時代」と呼ぶことができます。そして、それから2400~2300年程度前まで、縄文晩期の土器が主に用いられる時代が続き、その後、弥生時代の土器が主に用いられるようになります。
この期間の変遷は、半島南部と北部九州の「原倭人」が、稲作などの文化を持った人々を受容し、融合して、「倭人」となっていく過程でもありました。
朝鮮半島南部には、かなり後の時代まで、倭人が住んでいたとみられますが、やがて白村江の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に敗れ、半島における足がかりを失います。
以上
したがって、江南から対馬海流に乗って漂流し、朝鮮半島南部・済州島、壱岐・対馬・北部九州などに漂着し、水田稲作とそれぞれ小さな村が連合して漁業を行い、やがて大規模な佐賀県の吉野ヶ里遺跡や福岡県の板付遺跡、さらに日本海沿岸に出雲国家連合やタニワ国家連合(中心は現丹後付近、但馬・丹波・若狭)から、越国家連合(越前、加賀、越中、越後)にかけて銅鏡・銅矛・銅剣、方形墓などを形成した時期だろう。
徐福伝承は中国の秦時代の人物で常世の国に薬をさがしにやって来たと言われているが、全国各地にあるが浦島伝説は徐福ではないかと思われ、とくに佐賀、丹後は多い。つまり秦氏でもあり、建築技術をもったテクノアラート(職人技術集団)であったと考えると、高床建築、銅鏡・銅矛・銅剣を製造できる人びとです。
倭人とは、東シナ海から日本海沿岸、あるいは瀬戸内海から紀国へ居住して弥生人という、縄文人と融合して独自の日本民族を形づくった製銅技術、織物技術、但馬牛の牧畜などをもっていたとすれば、それを弥生人と言うこともできる。
銅鐸が消える頃にあるいは消した勢力として、やや遅れて現れたのが新羅からやって来たとする天日槍(あめのひぼこ)で、記紀であえて「天日槍は新羅からやってきた王子」とするのは、その頃すでにそうした倭人が住んでいて、鉄の産地・伽耶(任那)から製鉄に必要な大量の森林を求めて銅に替わる製鉄集団が天日槍とされる集団ではないだろうか。「記紀」が記された頃の半島南部は馬韓は百済・弁韓は伽耶・任那、辰韓は新羅という統一国家からだったからなのであって、同じ原倭人が、鉄と森林を求めて当時の鉄の大産地・伽耶・任那からやって来たとも考えられる。
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