たじまる あめのひぼこ 3 気多に落ちた黒葛

塗り替えられた気多の歴史

旧気多郡 「日高町史」

拙者が生まれた旧日高町は、古くはほぼ気多(ケタ)郡全域だった。その後周辺の城崎郡と美含郡との合併で城崎郡となる。平成に豊岡市と周辺の香住町を除く城崎郡・出石郡が合併し豊岡市となる。もうすでに市町村合併によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがそもそも郷土の歴史を知りたいきっかけだった。

播磨風土記でも天日槍と伊和大神との争いに気多郡が登場する。

1.気多という地名

日本に初めて伝わった文字が漢字であり、気多という地名は、漢字にはない訓読みを表すために、万葉仮名という漢字をヨミガナに充てたものが、もちにカタカナやひらがなに発展する。つまり、漢字が伝わる以前から“ケタ”という地名はおそらく口頭ではあったのであって、気多という漢字にあまりこだわる意味はないかも知れない。

万葉仮名として日本語の訓読みに使用された漢字は一種類ではなく数種類ある。「ケ」では発音で“e”(エ段甲類)と“ae”(エ段乙類)の発音があった。「気」はそのエ段乙類に分類されるので当時のケタの発音は、カとケの中間の“k-ae ta”だったようだ。カタカナの「ケ」は「気」を崩したカナ、「タ」は「多」を崩してできたカタカナなので、万葉仮名の漢字としてそれぞれ最もポピュラーな漢字である。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている。(「好字令」という)これには2字とは記されていないが、この頃から一斉に地名が2字化したことがわかっている。により、ケタにも漢字が充てられた。地名のほとんどやその住む土地の名から派生した苗字が漢字2文字なのはこの名残りである。

したがって、漢字が伝わる弥生時代以前からケタという地名はあっただろうし、「和妙抄」の中でも例えばタヂマは多遅麻など、地名や人名を表すのに様々な漢字が使用されていることからも、漢字の意味にばかりこだわるというのは、そもそも漢字以前に「ケタ」はあり、漢字はあとからなので狭い解釈だと思えるが、カタカナのもとになったことでも分かる通り、最も一般的な気と多が用いられたことになる。好字を当てたという意味で掘り下げてみると、本来の漢字の意味は、気多の「気」とは、正字は「氣」で、中国思想および中医学(漢方医学)の用語でもある。目に見えないが作用をおこし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなるものをさす。本来は、中国哲学の意味だが、日本では「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主であり、「病は気から」の「気」は、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解されているそうである。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記には、第1代神武天皇の頃はケタは佐々前県で、人皇8代孝元天皇32年、櫛磐竜命をもって佐々前県主と為す。
当県の西北に気吹戸主命の釜あり。常に物の気を噴く。故にその地を名づけて、気立原という。その釜は神鍋山という。
よって、佐々前県を改めて気立県という。

これは、「ケタツ・ケダツ」と読みのではなく、最初から「ケタ、またはケタッ」だと思う。

縄文人と同じルーツを持つとされる南方系で、ニュージーランドの先住民族マオリ族のマオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解しておられる。
あながち、ハワイなどの地名をみても、日本語に近い発音であるし、なるほどと思った。
旧石器から縄文にここへやってきた先住民が、噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけ、びっくりし「ケ・タ」と呼んだのではないか、と冗談ともいえない想像もできる。

但馬で最も古く人が住み着いた形跡が残る新温泉町畑ヶ平遺跡、鉢伏山家野遺跡(養父市別宮字家野)、そして神鍋遺跡、この中国山地でつながる標高の高いエリアは、無理やり漢字を充てはめたかのような難解な地名が多い。神鍋周辺でも、名色ナシキ万場マンバ万却マンゴウ稲葉イナンバなど、まず一発で読めない。

「気多」という地名があるのは、意外に多く、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷、丹後国(京都府北部)加佐郡に気多保、因幡国(鳥取県東部)にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となった(現在は鳥取市)。伝説で有名な因幡の白兎は、この高草郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。奇しくもわが兵庫県気多郡も城崎郡と合併し明治23年(1890)に消滅しています(現在は豊岡市)。気多神社にある「鰐口(わにぐち)」も因幡白兎に関係あるのでしょうか。

気多神社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんあります。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。崇神天皇のときに社殿が造営されました。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。グーグル検索してみると、字名で、岐阜県飛騨市古川町上気多(飛騨国)、福島県河沼郡会津坂下町気多宮字宮ノ内(上野国)がありました。それぞれ気多若宮神社、坂下町は地名の通り気多神社(宮)で神社があります。

大己貴命と大国主(オオクニヌシ)は同一神で、全国の出雲神社で祀られています。

また、三重県に多気郡多気町丹生があります。関係が全くないとも思えないのが、丹生(にゅう)です。日高町には祢布(にょう)があり、日高町で最初に発掘調査が行われた場所で、古く縄文期から人が住んでいたところです。また、第二次但馬国府が置かれた場所だと確定されています。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出ています。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記しています。

さて、前出の『播磨風土記』では「アメノヒボコ(天日槍)とアシハラシコオ(葦原志許乎命・大己貴神の別称)との争いで、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。

ヒボコは出石を選び、アシハラシコオは気多を選んだ。それは鉄の産地争いではないかともいわれている。

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