第4章 3.ヒボコの時代の半島南部は倭人のクニ

1~2世紀の朝鮮  『古朝鮮』NHKブックスより「韓国人は何処から来たか」長浜浩明

『日本人ルーツの謎を解く』長浜弘明氏によると、
例えば司馬遼太郎は、『街道を行く1』(週刊朝日 1971)で次なる文言を連ねていたが、そこには腐臭が漂っていた。

「日本民族はどこからきたのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば日本人の血液の中の有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」
「日本人の血液の6割以上は朝鮮半島を伝ってきたのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、我々日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは、否定すべくもない」
(中略)
それでも20年余りの間に多くの発見がなされ、考古学、人類学、生物学、DNAから言語学まで新たな発見が積み上がっていった。
先の司馬遼太郎の言い様は、次のように言い換えなければならない。

「韓国人は何処から来たのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば韓国人の血液の中の有力な部分が、玄界灘を北上し、日本から大量に流入した縄文時代の人たちに依ることは紛れもないことである」
「韓国人の血液の6割以上は玄界灘を北上して行ったのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、韓国人の先祖の大多数は日本から流れ込んできたことは、否定すべくもない」

旧石器時代、朝鮮半島はほぼ無人地帯だった

『韓国人は何処から来たか』長浜弘明氏によると、
先史時代、人が住んでいたことは遺跡で知ることができます。では半島の旧石器遺跡はどの程度発見されているのでしょう。
古代研究家・伊藤俊幸氏は、韓国人の祖先は遠い昔に北方から半島へたどり着き、sこから海を渡って日本へやってきたと信じていました。(中略)
しかし、韓国の前国立博物館館長、韓炳三が示す図は衝撃的である。
朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は北朝鮮・韓国で50ヶ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000から5,000ヶ所に上るのにである。(中略)
今、日本からは1万とも言える旧石器遺跡が発見されており、対する朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無きに等しかったのです。
相対的に見ると日本は人口が多く、半島はほぼ無人地帯だったのです。

韓国の歴史は4,000年に満たなかった

伊藤俊幸氏は「次の表は衝撃的である。BC1万年から5千年の間、遺跡が、すなわち人の気配が半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは7千年前からである。
(中略)
日韓の専門家の他に、韓国の国家機関や博物館が総力を結集して作成した『韓国の歴史』(河出書房新社)に次の一文がある。
「旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の祖先ではなく、直接の祖先は約4千年前の新石器時代人からである。そう推定されている」
(中略)
では7千年前、即ち前5千年頃やって来て、3千年以上の長きに渡り、韓半島の主人公だった人々は何処からやってきたのか。
その後、約4千年前、即ち前2千年頃やって来て、韓国人の直接の祖先につながる人々はどこからやって来たのか。

まず、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に登場する天日槍命が出石で帰化したのは、人皇6代孝安天皇の五十三年(推定年代:長浜浩明氏の算定で孝安天皇在位期間は西暦60-110年)と記されている。

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ加羅カラ任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。加羅と任那といっても入り組んでいて、その頃の国は、高句麗・百済・新羅・加羅・任那が流動的に動いており、とくに加羅・任那には三韓の地域の一つである弁韓を母体とする。

その時代の半島南部を知っておきたい。3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

最初に「 日本府」の呼称を使ったのは新羅王

『知っていますか、任那日本府-韓国がけっして教えない歴史』大平 裕は

「日本府( 倭府)」 という機関名が初めて出てくるのは、『 日本書紀』 の 雄略天皇八( 四六四)年のことです。 そして注目されるべき は、 この機関名を言葉にしたのが 新羅 王( 慈悲麻立 干、 在位四五八 ~ 四 七 九)だったことです。 新羅王は、 新羅が高句麗の来襲を受け、国は累卵 の危機にあると、使を任那王に出し、「 日本府の軍将ら」の救援を願い出たのでした。 記録に残るかぎり、「日本府」という名称を使ったのは日本( 倭)人ではなく、 新羅王だったのです。

三韓

1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島南部は、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる地域を西から馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
天日槍命が記紀に登場する年代は、年号の解釈には諸説あり断定的なことはいえないが、孝安天皇の在位期間をおおよそ西暦60~110年とすると、建武20年(44年)が「韓」の初出とされ、馬韓の初出は建光元年(121年)であり、辰韓・弁韓も同時期に分かれたとすれば、辰韓は三韓以前の韓とよんでいた地域となる。1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部には種族とその地域があった。朝鮮半島南部に居住していた種族を「韓」と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる西から「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の3つの地域に分かれていったことから「三韓」といった。

したがって、記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条(244年)において天日槍(ヒボコ)が渡来した頃に、半島北部は高句麗であり、朝鮮半島南部には国と呼べる地域に国家は成立していない。『日本書紀』が完成された養老4年(720年)には新羅・百済という国家といえるが、三世紀中頃は、新羅の前身の辰韓、加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、半島南部の海岸部は、縄文時代から北部九州から対馬・朝鮮半島最南部は、倭人が移り住んでいた倭国(任那)で、半島南部は、同じ倭国の勢力範囲だったことをまず念頭に入れなければならない。土器・稲作などの文化は半島から日本に伝わったのではなく、韓はもとの字は空(から)ともいわれ、未開の空白地域であり、九州北部から半島南部へ伝わっていったのがわかってきた。そして村々が生まれていった。倭人・倭種・半島土着民の混合であった。

『三国志』東夷伝による諸民族の住居地域 『古朝鮮』NHKブックス 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

 

この頃の半島中南部は、伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

また、任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。

任那(みまな)

3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。4世紀初めに中国の支配が弱まると、馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。

任那加羅の名が最初に現れるのは、414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
「百済と新羅は高句麗の属民だった。故に朝貢していた。ところがその後、日本が辛卯かのとうに海を渡り来て、百済、□□、新羅を討ち破り、日本の臣民にしてしまった。」

辛卯とは391年と信じられており、応神天皇の御代と重なる。応神七年、「高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝し、彼らを使って池を作らせた」とあるから、□□とは任那に違いない。この頃から、百済、任那、新羅は日本の臣民、即ち分国の民となっていたことを、高句麗は忌々しげに刻んでいたのだ。

新羅・百済は倭(日本)の臣民だった

『日本書紀』は、この時代、新羅や百済は大和朝廷に朝貢し、三国志が「倭人の地」とした半島南部の任那は「日本の分国だ」と記述している。この時代、百済や加羅(任那)を臣民としていたことがあらためて確認された。

『三国遺事』(1275年)によれば、駕洛カラ国が西暦42年から10代532年まで存在していたことになっているが、『三国史記』新羅本紀(1145年)には金官国(金仇亥)の記録しかなく、また『南斉書』加羅国伝には、建元元(477)年に、国王荷知が、遣使、朝貢を果たしたことしか遺されていない。王統が一時断絶したり、倭国人系の王がとってかわって統治したり、有力国の王家が登場したのかもしれない。

加羅カラ(大伽耶カヤ・伽耶・伽那)

『知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史』大平 裕氏によると、慶尚北道高霊コリョン郡に比定される。ただし、『日本書紀』に出てくる加羅は、加羅連合体、あるいは金海加羅を指す場合もある。

南加羅(金海伽耶・金官伽耶)

慶尚南道金海キメ・きんかい市に比定される。『三国史記』地理志に「金海小京、金官国(一云、伝伽落国、一云、伽耶)」とある。(中略)安羅伽耶は咸安ハマンに、古寧伽耶は咸寧ハムニョンに、星山伽耶は星州ソンジュに、小伽耶は固城コジョンに大伽耶は高霊コリョンにそれぞれ都を定めたという。

安羅アラ・やすら(阿羅・安邪)

慶尚南道咸安ハマン郡に比定される。

高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。新羅という国号と国は誕生したのは、繰り返しになるが、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で、新羅建国と合わないのだが、『記紀』が編纂されたのは、白村江の戦い(天智2年8月・663年10月)朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争から間もない。

 

新羅(シンラ・しらぎ)

国と言えるような百済・新羅が誕生するのは6世紀以降で、この頃の半島中南部は、弁韓地域の伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

まず、新羅(しらぎ/しんら)の誕生期を留めておきたい。したがって、記紀が記された頃には、新羅が成立していたのであるが、新羅という国号と国は誕生したのは、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で新羅建国と合わないのだ。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆シロ国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王なもつおう以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

新羅は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家だが、そもそも新羅国が誕生したのは、紀元356年- 935年とされる。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となったもので、6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。

3世紀後半から4世紀の朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していた。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用したが、402年までは鶏林の国号が使用された。

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

4世紀末の半島と高句麗軍南下に対する日本軍の反撃想定路(『日本史年表・地図』吉川廣文館
『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

*1 日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。(ウィキペディア)

韓国の前方後円墳
『韓国の前方後円墳』森浩一 『韓国人は何処から来たか』長浜弘明

全羅南・北道に散在する日本古来の前方後円墳14基や韓国西海岸辺山ピョンサン半島の突端にある竹幕洞チョンマクドン祭祀跡から、日本との関係を示す埋葬品は、4世紀後半から6世紀にかけての鉄製武器、金銅製馬具、銅鏡、中国製陶器などの出土品、特に注目される石製模造品は、福岡県沖ノ島祭祀遺跡の出土のものと酷似していて、それらは倭国からもたらされたものと考えられている。
(中略)

 

 

 

百済、新羅は、馬韓54ヵ国、辰韓12ヵ国といった小国群をまとめながら、ようやくそれぞれ346、356年頃、一つの国として東洋史に登場する。それほど古い国ではない。一方倭国は、百済・新羅にはるか先行し、『魏志倭人伝』の記述があるように、西暦200~240年当時には慶尚南道(朝鮮半島南東地域)沿岸部を「倭地」として管理している。この地域のすぐ北方ないし周辺地の狗邪(伽耶・加羅)韓国を傘下に、鉄資源の確保から、楽浪郡・帯方郡その他の地と交易をさかんに行っていたのである。
(中略)

 

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、

「列島か流れてきた賢者が新羅の王になる」話しについても、戦後日本の朝鮮史学者たちは「そんな説話は嘘に決まっている」として、『三国史記』の前半部分を“古史書の墓場”に深く埋葬している。しかし“歴史の事実”であるかどうかはさておき、「ただの古史書ではなく、一国の正史が現にそう書いている」という“記載の事実”は、どこまでも重い。

(中略)

『三国史記』が出来上がったのは12世紀、高麗王朝の時代だ。『三国史記』そのものが、“高麗とは山賊が打ち立てた国家”ではなく、「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」と主張することを目的にした正史といえる。

そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくった」という“危うい話”を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。(中略)『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が決して捏造ではないこと、年代については疑問があるにしても、事実の確実な反映であることが見えてくる。考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。

第2章 1.記録に残された天日槍の足取り

この章では、ヒボコが辿った足取りを、

(史書の)アメノヒボコに関連する記事は、八世紀の初めに編纂された『古事記』および『日本書紀』(以下『記』『紀』、合わせて『記紀』)に記録されたものが、現在伝えられる最古のものである。

『記』が少し早くて和銅五年(712)、『紀』がその八年後の養老四年(720)、ほとんど同じ頃の成立だ。じつは『記紀』は共にそれまで各氏族に伝わっていた「帝紀」(天皇や皇后、皇子女の系譜)・「旧辞」(昔物語)を元にして、それを天皇家および国の歴史にふさわしく編集し直したものだったから、最古といわれるけれど厳密には誤りである。原典は、六世紀の前半、継体・欽明天皇の頃には最初に文章化されていたと推定されている。(中略)

それにヒボコの渡来伝承は、さらにいくつかの神話をベースにして成立したものであり、その起源をたどっていくと海を渡り、朝鮮半島を北上し、やがて大陸へとつながっていく。

(中略)

日本史は朝鮮半島や中国に起源があるものだという歴史学者の思い込みがあるが、この書が発売された平成9年(1997)、まだ20年前でさえ、そういう固定概念が大勢を占めていたのだから、仕方がない。

以降の解釈は、編者の想像を含んでおり、またこの他にヒボコについて記録された『播磨国風土記』にあるヒボコと伊和大神の土地争いについては第3章にゆずる。

 

1.記紀に記された天日槍の足取り

『古事記』

応神天皇記 [現代語訳]

今よりもっともっと昔、新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女がひとり昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事をうかがっていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかととがめられたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛がおごって女をののいると、とうとうたまりかねて、

「私はもう親たちの国へ帰ります。」と言って、天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。この七代目の孫にあたる高額媛という方がお生みになられたのが息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)です。

また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

  • 珠 2貫
  • 浪振る比礼(なみふるひれ)
  • 浪切る比礼(なみきるひれ)
  • 風振る比礼(かぜふるひれ)
  • 風切る比礼(かぜきるひれ)
  • 奥津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。

 

『日本書紀』

『日本書紀』垂仁紀3年条(二十六)

昔有一人 乘艇而泊于年但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻拖能烏 生 但馬諸助 是清彥之祖父也

[現代語訳] 昔、一人がいました。おふねに乗って但馬国に泊まりました。それで(但馬国の人がその船に乗っている人に)問いました。
「お前はどこの国の人だ?」
答えていいました。
「新羅の王こしきの子で、名を天日槍といいます」
但馬に留まって、その国の前津耳まえつみみ、ある伝によると前津見まえつみ、ある伝によると太耳ふとみみの、娘の麻拕能烏またのおを娶めとって但馬諸助たじまのもろすく(但馬故事記は天諸杉命)を生みました。これが清彦すがひこ(5代多遅麻国造) の祖父です。

『日本書紀』では、垂仁天皇3年(BC27年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが、羽太はふとの玉を一つ、足高あしたかの玉を一つ、鵜鹿鹿うかか赤石あかいしの玉を一つ、出石の小刀を一つ、出石のほこを一つ、日鏡ひかがみを一つ、熊の神籬ひもろぎ[*1]を一揃え謁見してきた。(八種神宝)

それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、三輪君みわのきみ[*3]の祖先にあたる大友主おおともぬし[*4]と、倭直やまとのあたい[*5]の祖先にあたる長尾市ながおち[*6]を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古ちこに譲ってやって来ました。」

天皇は、初めは、播磨はりま宍粟邑しそうむら[*7]と淡路あわじ出浅邑いでさのむら[*8]を与えようとしたが、「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡さかのぼり、北に入り、近江国の吾名邑あなむら、若狭国を経て但馬国に住処すみかを定めた。近江国の鏡邑かがみむらの谷の陶人すえびとは、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋いずしま[*9]の人、太耳の娘で麻多烏またおを娶り、但馬諸助もろすくをもうけた。諸助は但馬日楢杵ひならきを生んだ。日楢杵は清彦すがひこを生んだ。また清彦は田道間守たじまもりを生んだという。

『日本書紀』によると、ヒボコはひとりの童女阿加流比売アカルビメ神を追って日本にやってくるのであるが、その童女はヒボコに「私は親の国に帰る」と叫ぶのだ。

『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、アカルビメは、新羅王の子であるヒボコ(アメノヒボコ)の妻となっている。この話は『日本書紀』のツヌガアラシト来日説話とそっくりなのである。

[註]
*1…神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2…八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 三輪君(みわのきみ)…初めは姓(カバネ)の三輪君だったが、大神氏と名乗る。大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあった。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。
*4 大友主(おおともぬし)…「日本書紀」にみえる豪族のひとつ。三輪(みわ)氏の祖。
*5 倭直(やまとのあたい)…椎根津彦を祖とする。のち倭氏
*6 長尾市(ながおち)…市磯長尾市(いちしのながおち)。大倭直の祖。名称の「市磯」は、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)とされる。出石神社代々の神官家は長尾家。
*7 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*8 出浅邑 (いでさのむら)…「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*9 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石町の今の伊豆・嶋。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。または、出石の古名である御出石(ミズシ・水石とも書いた)をさすのかも知れない。

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神功皇后と朝鮮半島

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)に、

第6代孝安天皇の御代、新羅の王子天日槍が但馬出石で帰化し、初代多遅麻国造となった。
突如、よそ者、しかも新羅の渡来人が大丹波では中心から離れた但馬に入っていて、但馬国を分立する。そのようなことが出来るのは、大和朝廷が関与しているからに他ならない。

第10代崇神天皇の御代に丹波青葉山の陸耳の御笠・多遅麻狂(来日)の土蜘蛛を退治した話が詳細にわたって記されている。それは丹後・但馬の地方豪族を平定し、ヤマト王権下に完全に組み入れられたことを記しているのだろう。

それは半島南部との中継地として、但馬が有利であったからではないだろうか。
大和から日本海へ向かうルートとして若狭・丹後が使われていたが、摂津から氷上(本州一低い分水嶺)から日本海へ由良川・瀬戸内海へ加古川が流れる。さらに遠坂峠を越えれば但馬国の粟賀川から円山川で日本海で出られる最短コースが重要視されたのではないだろうか。宮津湾・舞鶴湾に出れば、丹後半島を周ることになるが、それより西の円山川あるいは久美浜湾から出航した方が半島に近いからである。また、大和から大阪湾に出て瀬戸内海から関門海峡を通るルートも考えられる。その方が波の影響もなく安全に思えるが、半島からの侵攻に備えて、北部九州から日本海側を防衛する目的も兼ね備えていたのだろうとも考えられる。

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)に、人皇15代神功皇后の2年、大県主・物部連大売布命もののべのむらじおおめふのみことの子・多遅麻国造たぢまのくにのみやつこ・物部多遅麻連公武きみたけ、府を気多県高田邑に置く。(今の久斗・東構境あたり・南構遺跡?)

45年、新羅が朝貢せず。将軍・荒田別命あらたわけのみこと(豊城入彦命4世孫)・鹿我別命しかがわけのみこと(大彦命の末裔)*1

は往きてこれを破る。

比自[火本]ヒシホ南加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平むける。兵を移して西に回り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラを屠はふり、もって百済クダラに賜う。

百済王は「もし草を敷いて座れば、おそらく火で焼かれ、木を取って座れば、おそらくは水で流されるであろう。もって、盟を表し、永久に臣を称する信条なり。」

新羅親征(征韓)となり、出石県主・須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功を上げ、皇后は特に竃遇を加えている。(第五巻・出石郡故事記)

なんとしても日本を守らねばならない国家的危機意識があったのではなろうか?袴狭遺跡の大船団を描いた木版画は、のちの神功皇后の新羅征伐を描いたものかも知れない。

のちの人皇37代孝徳天皇大化3(647)年、多遅麻国気多郡高田邑において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、もって軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どる。(同年、朝来郡にも同様の軍団を置いて、朝来・夜父・七美三郡を管どる。)

人皇40代天武天皇4(677)年になると、但馬国などの十二国に勅して、兵政司を置き、諸国の軍団を管せしめ、王(天皇)孫・栗隈王をもって長官と為し、大伴の御行をもってこれに副う。

として、諸国の軍事をさらに強化している。

丹後の巨大前方後円墳

丹後の巨大前方後円墳と池田古墳

かつては丹波(道)が丹波・但馬・丹後に分立するまで、丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。
記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄
弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。
そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。

丹後の巨大前方後円墳


網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)

画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。

築造年代は、4世紀末ごろ築かれたと推定される。
ところで、こうした山陰地方でも最大級の前方後円墳が丹後半島の竹野川・野田川流域に築造されたことと、関係が最も有力なのは、人皇9代開化天皇の妃に丹波大県主由碁理の娘・丹波竹野媛と妃:姥津媛(ははつひめ)との第三皇子:彦坐王(ひこいますのみこ)である。開化天皇までの八代の天皇は「欠史八代」といって記録が乏しいが、開化天皇の第二子で、次の人皇10代崇神天皇からは、3世紀から4世紀初めにかけて実在した天皇とされている。崇神天皇と彦坐王は、異母兄弟だが彦坐王の子が丹波道主命である。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

北部九州だけではなかった弥生時代の王

画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。

後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。

つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

巻末 参考にした本

『国司文書 但馬故事記』吾郷清彦
☆☆☆☆☆

但馬の歴史・神社研究に稀有まれな書です。桜井勉が『校補但馬考』ででためな記述が多いと酷評しているので、そうなのかと信じるのがこれまでの流れで、あまり注目されませんが、桜井勉は天気予報の考案者であり県知事等を歴任し、退官後郷里出石に戻り、祖父の「但馬考」を再度手を加えたのが『校補但馬考』です。当時としてはあらゆる資料を研究し、校補修正をおこないました。しかし、出石藩おかかえの歴史学者家系なのか、出石の歴史を汚すことは認められないという、むしろ桜井の方に私的な偏見がどこかにあるように思います。歴史家として客観的に考え、明治という時代だから仕方なかったような気もしますが、郷土愛なのか、出石を美化し思い込みが多いのは、むしろ校補但馬考の方なのではないかと思います。

校補但馬考は、国会図書館デジタルライブラリーでも読むことができます。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765808

但馬文教府、豊岡市立図書館にあります。

アメノヒボコ、謎の真相 関裕二
☆☆☆

『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著 神戸新聞総合出版センター
1997.7.10
☆☆

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! 長浜浩明
☆☆☆☆☆

日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった! 長浜 浩明 2010/6
☆☆☆☆☆

知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史 大平 裕
☆☆☆

韓国人は何処から来たか 長浜浩明
☆☆☆☆☆

日韓がタブーにする半島の歴史 室谷 克実
☆☆☆☆


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最初の但馬人

 

最初の但馬人(たじまじん)

但馬で最も古くから人がいたのはどこだろう。
現時点では、兵庫県と鳥取県境で氷ノ山の北、扇の山の東、兵庫県美方郡新温泉町畑ヶ平旧石器遺跡である。旧石器時代後期、同じく新温泉町海上東尾の上山旧石器遺跡と家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの集落跡複合遺跡)である。

2カ所は同じ中国山脈の山岳地帯で尾根でつながっている。人類は最初、山岳地帯から住み着いていたといえる。畑ヶ平(はたがなる)遺跡では、火山灰の下から約2万5,000年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された。見つかった石器や石材の種類はさまざまなので、人々が継続的に活動していた証だといわれる。ただし、ここは標高1,000mの高地であり、当時の気候は分からないが、季節を選んだ一時的な居住場所であったのではともいわれている。

家野遺跡(養父市別宮字家野 海抜6~700m)は、旧石器~縄文までの複合遺跡で、約8千年前の縄文時代早期の平地式住居跡・屋外炉跡・貯蔵穴・焼土抗・配石遺構が見つかっている。

兵庫県立考古博物館の遺跡データベースを調べてきた。その後、但馬の旧石器時代の遺跡の発見は増えている。

杉ケ沢遺跡第13地点 養父市関宮出合甲字轟野
西谷遺跡 養父市三宅字西谷
円光寺林遺跡 〃 古井字奥山
八木西宮遺跡 養父市八鹿町八木字西宮
大山田遺跡 〃

養父町と但東町で尖頭器が発見されている。、大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。

また、養父市関宮(せきのみや)町や豊岡市但東(たんとう)町で尖頭器が発見されています。また、上山高原遺跡(養父市大屋町上山字峯山、標高773mの御祓山から北東にのびる尾根の、標高480~520mの緩やかな斜面にで、一片の土器破片(縄文時代早期)が採集され、神鍋(かんなべ)遺跡(豊岡市日高町神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で爪型文土器が発見され、
鉢伏高原遺跡(養父市関宮町丹戸(たんど))で縄文時代前期前半の竪穴式住居跡、土坑、集積遺跡を検出した。尖頭器なども出土しました。

高柳ナベ遺跡(養父市八鹿町高柳)で発掘された遺跡は、縄文時代早期に土を掘った穴が1か所、古墳時代の竪穴住居跡が8棟、奈良時代の掘立柱建物跡が21棟、古墳時代から平安時代にかけて粘土を掘った採掘坑等で、早い時期から連続した遺跡です。

兵庫県神戸市や瀬戸内側では旧石器時代の遺跡がかなり発見されいる。これは道路工事や開発により偶然見つかるケースからで、但馬に人が住み着くようになったのが比較的に遅いということにはならない。山岳地帯の多い但馬には、手付かずの旧石器人の足跡がまだまだ眠っているだろう。

但馬人のルーツと思われる旧石器人は、まだ日本列島が大陸と陸続きだった頃、獲物を求めて北からやってきたのか?地形的には兵庫県西部まで続く中国山地を、氷ノ山、鉢伏や神鍋を尾根づたいに西の方から獲物を追って移住してきたとも考えられる。

豊岡市で考古学の先駆者として知られている但馬考古学研究会の故瀬戸谷晧氏は、HP「但馬最古の遺物を求めて」で、

「ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千年以上も前のことを本格的に調査・研究しようとする人は但馬にはほとんどいなかった。

そんな実態を、たとえば一九七四年に刊行された『兵庫県史』本編のなかに探ってみよう。その一巻によると、県下の遺跡分布図に三八箇所に点が落とされているなかで、わずかに二点が記されていたのみである。それも、もっとも新しい時期の「尖頭器」出土地として、但東と養父の二町の遺跡が紹介されているだけである。」

しかしここに疑問が湧いていた。なぜ最初に住み着いた原始人は山深い但馬にあってもさらに標高が高い豪雪地帯ばかりなのか?

たしかに、縄文時代以前は、今より気候は亜熱帯に近く、雪が積もる状態ではなかったのかも知れない。だから冬場でも住みやすかっただろうか。獲物や木の実、果実などを採集するのには、平地より山岳地帯の方が豊富だ。また平地は敵から狙われやすい。

それにしろ、こうした奥深い山岳地帯からのみ旧石器時代の遺跡がみつかるからといって、未開発だったから残っていただけではないかと。もっと住みやすい低地に人はいなかったのだろうか?低地になるほど後世に人が手を加え、棲家や耕作地にし、縄文以前の遺跡遺物を破壊してしまい、痕跡が残っていないだけかも知れない。山岳地帯からしか旧石器時代の遺跡が発掘されないからといって、原始人はかならず山岳地帯のみに暮らし、これを但馬人のルーツと断言することは無理だ。

市民学芸員講座 第6回 古文書の整理方法①

一年間、講座を聴いたり、宵田城山縄張り作図、豊岡近代化遺産見学等を体験してきたが、今回からは実際に古文書の整理を手伝う作業に。

この講座では、気多郡知見村(いまの豊岡市日高町知見)の谷垣家に残る村の古文書を主に活用しながら、くずし文字の読み方を学んできた。今回からは、実際に史料の整理を手伝う作業。

江戸時代の検地で田畑の所有者、面積などを克明に記録された古文書や銀の借用書等、筆でしかもくずし文字や右衛門などはつながって一文字のように書かれているので、なかなか苦労する。数を経験して慣れるしかないようだ。

10.銅鐸・鰐口・神社の鈴

身近な祭式に用いられたかも知れない銅鐸は、地中に埋められ人々の前から姿を消してしまう。
寺院などの軒先にある風鐸、鰐口、鈴は残った。本来鈴の清らかな澄んだ音色には、悪いものを祓う力があると信じられてきた。
神社で拝殿前に吊るされた鈴も、お参りする人が鳴らすことで祓い清めるという意味を持っている。しかし神社で鈴を鳴らして拝むのは、戦後に広く行われるようになったもので、出雲大社などでは昔も現在も拝殿に鈴はないし、地域の社や祠などにももともと鈴はさげられていなかった。
「鈴」とは、音を出す道具の一つである。土器や金属、陶器などでできた中空の外身の中に小さな玉が入っており、全体を振り動かすことで音を出すものである。銅鐸も鈴の原型であったと考えられる。似たものに鐘がある。英語ではbell。鈴は内部に玉や鐸は舌という棒状のものを吊るし音を出すが、鐘の場合、舌や撞木は人間が触れることができ、紐やワイヤーで鐘の外身あるいは鐘の置かれた建造物とつながれている。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』-長浜浩明氏は、

古事記は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記しているが、どのような意味なのだろうか。
(中略)
実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりに生ったからだ。
では何故、鈴なり=鈴というのか。
(中略)この褐鉄鉱は時に内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離し、振ると音が出ることがある。鈴石などと呼ばれる。褐鉄鉱=スズが密生した状態が「すずなり=五十鈴」の原義であった。(中略)どこか銅鐸に似ているように思えないか。
(中略)
ここに至り、「豊葦原」の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人びとは製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。
当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源でることを知っていた。従って、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」という意味なのだ。
(中略)
高知県西部の四万十川上流、窪川町の高岡神社には五本の広峰銅矛があり、それを担いで村々を回る祭りがある。(中略)その本義は、葦の玉葉が生い茂るのを祈り、葉が茂ればその根にスズがたくさん生み出される、それを願って行われたに違いない。

また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴。これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして、祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅器を用いるようになっていった。このような考えに逢着したのである。

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08.銅鐸はなぜ消えたのか

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銅鐸はなぜ消えたのか

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砕かれた銅鐸見つかる!


久田谷銅鐸片 豊岡市立歴史博物館(但馬国府・国分寺館)蔵(許可を得て拙者撮影)

久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた。弥生時代末期。遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない。
-『日高町史』資料編-

兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中500)で銅鐸の破壊実験があるというのでめったにない機会に行って来た。兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生らが4つのパターンで金属工場が製作したレプリカ銅鐸を破壊する。

Ⅰ:カケヤで叩く
Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
以下パターンⅢを繰り返す
いろいろ試した結果、ついに割れました。しかし、今の知識をもってしても久田谷銅鐸のようにきれいに細かくは砕けないことが分かった。

大己貴神おおなむちは素盞鳴尊すさのおおのみことの子であるあるとも、数代後の子孫であるとも、また娘婿であるともされており、系譜は不明瞭である。また、別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など複数の別名がある。

天火明命あめのほあかりのみことは大巳貴命おおなむちの子とされる。大巳貴命は大穴牟遅とも書くように、製鉄・青銅器に関わる。その原料の砂鉄のある山を鉄穴山かなやま、働く人々を鉄穴師かなし、穴師という。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、“「銅鐸」と「豊葦原」の謎を解く”で、
かつて和辻哲郎は、九州を銅剣・銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼び、弥生時代はこの2つ文化圏が対立してきたように思われてきた。(中略)その後、奈良の唐古・鍵遺跡から銅鐸・銅剣・銅戈の鋳型が同時発掘され、「銅矛圏が銅鐸圏を滅ぼした」や「殺し尽くした」なる推定が「誤り」であることを裏付けた。

荒神谷遺跡 6個の銅鐸と16本の銅矛が同時に発見された場所に複製品が再現展示されている。実物は出雲大社の東横手にある島根県立古代出雲歴史博物館に展示保存されている(拙者撮影)

(中略)昭和60年、島根県の荒神谷遺跡で6個の銅鐸と16本の銅矛が同時に発見された。長野県中野市柳沢遺跡からは、紀元前2世紀頃の銅鐸4個分の破片と7点の銅戈が刃先を千曲川に向けて埋納されていた。
この考古事実は、近畿を中心とする銅鐸文化圏と北部九州を中心とする銅剣
・銅戈文化圏なる見方を否定した。両者が「相容れざる祭祀圏」なら、同時埋納はあり得ないからだ。
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