八反の滝 豊岡市日高町名色
蒸し暑い時節ですので涼しい風景を。 地元近辺の2つの滝をご紹介します。 「八反の滝」 日高町名色 別荘地と但馬ドームがある。
「十戸(じゅうご)の滝」 豊岡市日高町十戸
国道482号 日 ニジマス釣りもできる。戸神社。
北近畿鉄道物語 |
特急「こうのとり」(新大阪~福知山・豊岡・城崎温泉、287系:旧「北近畿」)・特急「きのさき」(京都~福知山・豊岡・城崎温泉)(写真:JR西日本)
特急「はまかぜ」(大阪~(播但線経由)香住・浜坂・鳥取、キハ189系)
JR山陰本線が全通したのは意外にも昭和に入ってからである。1933年(昭和8年)2月24日、ついに須佐駅(山口県萩市) – 宇田郷駅(山口県阿武郡阿武町)間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅から幡生駅(山口県下関市)間(673.8km)が全通した。
しかし、在来線としての営業キロは日本最長の路線であるが、起点(京都駅)から終点(下関市の幡生駅)までの列車はなく、京都から居組駅(兵庫県美方郡新温泉町)間までを通して走る列車は全通以来一度もない本線の一つである。山陽本線や山陽新幹線開業以来、山陰本線沿いの各都市(福知山市・豊岡市・鳥取市・倉吉市・米子市・松江市・出雲市・益田市・長門市など)から直接山陽新幹線に至る路線を強化してきた結果である。1961(昭和36)年10月、山陰本線に初の特急「まつかぜ」(キハ80系気動車6連)が京都~松江間(福知山線経由)まで。1964(昭和39)年には一気に博多まで延長となったが最長列車だった。(その後、2003(平成15)年、「スーパーまつかぜ」(鳥取駅 – 米子駅・益田駅間)として、この名が復活する)
また、東京駅-浜田駅間を東海道本線、京都から山陰本線を通る寝台特急「出雲(いずも)」(1998年7月からは、1往復に285系を投入して電車化を行い「サンライズ出雲」として伯備線経由で運転開始。2006年3月に山陰本線経由は、車両の老朽化や利用客の減少などの理由により廃止)や、城崎温泉までの特急「きのさき」のみで、鳥取へは、智頭急行開通後、播但線経由の特急「はまかぜ」のみとなった。
山陰本線はそれぞれの区間で性格が多様だが、京都駅から園部駅間は近畿統括本部、園部駅から居組駅(兵庫県内)間(園部駅構内のぞく)は福知山支社、居組駅から益田駅間は米子支社*1、益田駅から 幡生駅間は広島支社下関地域鉄道部の管轄となっている。
*1 居組駅 – 赤碕駅間(居組駅構内のぞく) 米子支社鳥取鉄道部
赤碕駅 – 田儀駅間(赤碕駅構内のぞく) 米子支社
田儀駅 – 益田駅間(田儀駅構内のぞく) 米子支社浜田鉄道部
1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。
スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。
南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。
政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。
スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。
大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。
当時の天皇は、記紀に
中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。
ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。
そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。
『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。
「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。
『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。
原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。
それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。
つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。
荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。
これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。
資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。
邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。
例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。
ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。
現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。
神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。
神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。
2号墳墓
大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。
墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。
このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。
造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。
西谷2号墳墓
姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。
また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。
出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。
その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。
さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。
朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。
また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。
初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。
スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。
そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。
この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。
スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。
『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。
また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。
砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。
なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。
吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。
スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。
出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。
[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。
スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。
南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。
政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。
スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。
大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。
当時の天皇は、記紀に
中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。
ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。
そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。
『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。
「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。
『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。
原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。
それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。
つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。
荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。
これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。
資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。
邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。
例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。
ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。
現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。
神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。
神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。
2号墳墓
大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。
墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。
このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。
造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。
西谷2号墳墓
姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。
また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。
出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。
その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。
さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。
朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。
また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。
初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。
スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。
そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。
この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。
スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。
『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。
また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。
砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。
なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。
吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。
スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。
出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。
[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。
また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。 弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。
中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。
紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。
縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。
中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。
出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。
出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。 姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。
考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。
また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。
先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。
近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。
その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。
日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。
DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。
日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。
[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。
出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。
また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。 弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。
中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。
紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。
縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。
中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。
出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。
出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。 姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。
考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。
また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。
先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。
近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。
その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。
日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。
DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。
日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。
[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
亡命(あるいは新天地を求めて)のために渡来してきた中国の人たちは、大量に一度に日本に渡ってきたのではなく、その後も長い年月に渡って渡来したとされていますが、縄文人に稲作の水田技術と土器に変わる金属器の情報を提供して同化していきました。 もちろん、日本の古代文化は朝鮮半島からの影響や移住があったことは、地形的にも、鉄器の輸入、漢字(文字)の導入などで明らかです。しかし、まず、日本列島の弥生人の骨格が朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨と極めてよく似た形質を持っていることが確認されたこと、稲作の導入の点と日本酒の誕生について、どうしても朝鮮半島説は不自然に思う点があります。また、前出のDNA研究のように日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきました。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきました。
そのような研究から、秦が国家統一を果たす以前には朝鮮半島も倭国(日本)もまだクニと言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が伝わった時代は大差がないと考えられますし、東アジアという朝鮮半島のみ日本人のルーツとこだわるのは生産的ではありません。
上記の弥生人の特徴は北部九州に高い比率で分布し、北部九州以東、中部、関東まで点々と発見されています。福岡県板付遺跡では、朝鮮半島系の煮炊き具が他の集落よりも多く使用しています。この頃板付式土器を使わない環濠集落は廃絶するものが多かったのですが、板付遺跡は一層栄えていきます。
板付遺跡は、従来なかった水田適地に、縄文系の人々と渡来系の人々が共同して営んだ進出型環濠集落です。長い時間をかけて混血して、新しい形質をもつ人々の人口とその影響力が増加していき、「渡来系弥生人」になった可能性が高いとされています。
このようなシナリオが実情に近いなら、弥生時代の始まり頃の渡来人は、当時の縄文総人口に比べてごく少数であったものが、その知識と遺伝子は再生産されて、弥生時代は東アジア交流に基づいて、文化の多くの分野において大きな変革がなされた大変革時代です。その契機は、おそらく中国からの少数の人々の渡来にあり、日本列島の歴史に大きな影響を与えることになりました。その変革は一気に達成されたのではなく、北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。
弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。 弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。
弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」
しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。
血筋など関係のない実力主義だから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。
リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。
首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。
弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。 しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。
一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。
これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。
また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。
また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。
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3.「ハレとケ」 |
「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表しています。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)といいます。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別しました。ところで、葬式をハレとするか、ケガレとするかということがあります。一般通念では葬式は不幸ごとであり、結婚式などのお祝いごとと区別したくなるところですが、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊いていたと思われる民俗事例や晴れ着を着て喪に服した民俗事例などを念頭に、「非日常」という点で葬式もハレだとしています。しかしながら、いずれの立場も理論が十分でなく、なぜ葬式がケガレであるのかについて説明しきれていません。 日本において葬祭として葬儀と祭事を分けてきましたが、元々の漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことによって明確な区別が無くなったとの説もあります。 日本神道では、塩が穢れを祓い清める力を持つとみなします。そのため祭壇に塩を供えたり、神道行事で使う風習があります。また、日本においては死を穢れの一種とみなす土着信仰(神道に根源があるという)があるため葬儀後、塩を使って身を清める風習があります。これは仏教式の葬儀でも広く行われますが、仏教での死は穢れではないとして葬儀後の清めの塩を使わない仏教宗派もあるそうです。 日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは「魏志倭人伝」(弥生後期、三世紀前半)です。当時の倭国(日本)について、 「人が亡くなると十余日喪に服し、その間肉類は禁じ、喪主は号泣し、他人は歌舞飲酒ス。…その会は父子男女別なく同座し、人酒を嗜む」 と書いてありあります。これが米から造られた日本酒の最古の記録です。元々漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことのもこの頃からではないでしょうか。紹興酒の故郷は中国江南です。 いずれにせよ、今も約二千年前の昔も日本のお葬式の風習は大差ないですね。それだけ延々脈々と受け継がれてきた日本人の文化は古くから確立していたようです 参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社 「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎 「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信 ▲ページTOPへ |
画像:大中遺跡 兵庫県立考古博物館
具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代です。 小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。
このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれました。
水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。
弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。しかし最近では、大陸や島伝いに人びとの流入はあったかもしれませんが、このような大量の民族移動は比定されています。縄文時代にも世界でも古い土器や稲作がおこなわれていた遺跡も発見されてきました。
早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった時代です。紀元前473年、中国が戦乱時代であったために、それから逃れた人々が順次日本列島にやってきたと考えられています。まず中国の春秋戦国時代に江南地方(長江以南)から、南西諸島を伝って南九州に上陸し、秦の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。 紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。
それではなぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのでしょうか。
当時、縄文海進から水位が下がりはじめたとされていますが、外洋航海は、大変危険なもので、出航した人々の一部しか、日本列島にたどり着けなかったものと考えられます。したがって、平和時に、多くの人々が、このような危険なことをするということは考えられず、中国に、何か大事件が起こったためと考えられるのが自然です。
中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。
北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。
「呉の太伯の子孫」というのは日向地方に住んでいた人々のことではないかと考えられます。
弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられるますが、弥生時代前半の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられるのです。このような場合、縄文人との対立は考えにくく、むしろ融和的に稲作や土器、木製品などの新技術を教えて溶け込んでいったのではないでしょうか。
日本列島にわたってきた弥生人は、住めるところを探して移動していったために、船を使って海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになりました。
このような人々によって、多くの技術がもたらされ、大変革をもたらし弥生時代が始まったと考えるのです。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていません。これは、このような状態で逃げてきたわけですから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断されます。
縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、戦争による勢力拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな統合だったのです。
それでは弥生人はいったいどこから来たのでしょうか?
いまだよく分かっていませんが、同じく倭人と呼ばれる人々が暮らしていた中国江南の紹興を中心とした地には、古くから「越人」と呼ばれる人たちが住んでいました。紀元前473年には越は呉を滅ぼした。
しかし、紀元前334年、楚(ソ)の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡しますが、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑されました。こうして越は楚に滅ぼされました。
一部の越王族が現在の福建省に逃れ弱小勢力になっていましたが秦に滅ぼされてしまいました。一説ではベトナム(越南)は南下した越部族の末裔と称しています。また、越人たちは航海術にすぐれていて、海岸づたいに朝鮮半島へ行き、半島南部に住み着く者、または海を渡って直接日本へ亡命する者(ボートピープル)が続出したようです。
かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。
山口県豊北町の響灘に土井が浜遺跡があります。この遺跡から出土する弥生人骨は保存状態が良く、発掘は九州大学の医学部解剖学教室の金関丈夫(形質人類学)教授と日本考古学協会の手で行われました。
時期や地域による変異は顕著ではない。顔は上下がやや寸詰まりで幅が広く、骨太で、顔の幅が広く寸づまり、鼻や眉間が高くて彫りが深い、歯が小さいが顎は頑丈で、上下の前歯の端を毛抜き状に噛み合わせる。体毛が濃い。平均身長は成人男性で158cm前後、成人女子は150cm未満と小柄。南方系「古モンゴロイド」弥生人地域的な変異が顕著、顔はやや面長で、鼻が低いのっぺりとした顔立ち、歯は大きく、上の前歯が下の前歯の前に重なるはさみ状の噛み合わせ。体つきは手足が長く、成人男性の平均身長は163cm前後、成人女子で151cm前後とやや高身長。北方系「新モンゴロイド」 土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。
彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、戦乱を逃れて日本に亡命してきたボートピープルだったことが裏付けされたのです。
「土居ケ浜遺跡人類学ミュージアム」によりますと、
九州・沖縄と山口では弥生人の顔・かたちに地域差が認められ、人骨の特徴から1、北部九州・山口タイプ、2、西九州タイプ、3、南九州・南西諸島タイプの三つのタイプに分けることができます。
「北部九州・山口タイプ」の弥生人は、顔が長く、鼻が低く、鼻の付け根(鼻根部)が扁平で、身長は、男性の162cm~164cm、女性は150cm程度で、高身長です。「西九州タイプ」の弥生人は、顔が短く、横幅は広く、眉の部分が盛り上がり鼻骨が付け根から高く隆起し、顔を横からみると鼻根部が深く陥凹しており、ホリの深い容貌をしていました。
推定身長値は、男性が約158cm、女性は148cmで、男女とも低身長です。「南九州・南西諸島タイプ」の弥生人は、頭や顔が小さく、頭を上から見た形が、限りなく円に近い形をしています。
身長は著しく低く、男性で153cm~155cm、女性では143cm程度しかなく、きわめて小柄な弥生人でした。三タイプの弥生人のうち、「西九州タイプ」の特徴は、実は縄文人の特徴なので、「西九州タイプ」の弥生人は、縄文人直系の弥生人と考えられます。
一方、「北部九州・山口タイプ」の弥生人には縄文人的特徴がみられないことから、彼らは、日本列島に弥生文化をもたらした渡来人ではないかと考えられてきました。
しかし、この仮説は証明されたわけではありません。検証するためには大陸の古人骨、弥生時代の初め頃か、それよりもやや古い時期、日本でいえば、縄文時代の晩期から弥生時代前期のおよそ2,500年から2,300年前頃の古人骨、中国でいえば周代の末の戦国時代から、蓁・前漢時代の人骨の特徴を明らかにしておく必要があります。
これらの人骨群は、北部九州・山口の弥生人にそっくりでした。この事実から、「北部九州・山口タイプ」の弥生人のおおもと(ルーツ)が大陸にあるということはほぼ間違いないと思われます。
しかし、山東省の人骨が「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ていることがわかったからといって彼らは、山東省から来たのだ、ということにはなりません。
現時点では、あくまで、中国大陸のなかに「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ているものがあったから、彼らの起源は大陸にあるといってもいいだろうということが言えるに過ぎないのであって、どこから直接渡って来たのかという問題はまだ未解決です。
日本列に人類が住み始めて何万年というゆったりとした流れのなかで、弥生時代は急速に文明化が進みます。カルチャーショックをもたらした原因は、自然発生的に国内から生まれ発展したと考えることは無理があります。
それは統一国家 秦(シン)の始皇帝による王朝のころには、倭(ワ・やまと)国も百済や新羅・加耶といった国もまだ生まれていないはるかに以前の時代です。朝鮮文化が伝わったと考えるのではなく、秦から朝鮮半島と日本列島にほぼ同時期に、あるいは朝鮮半島を経由して伝わった、「徐福」に例える先端文明をもった集団の渡来であったと考えるのです。
九州北部や出雲・吉備・丹後・越などクニが生まれていきます。徐福伝説が各地で同時に作られ伝わっている意味は、ルーツが同じ人々がそれぞれの新天地に共通の歴史を残し、またさらにその一族から別の土地に移住を繰り返していったことを示しています。
浦嶋太郎・桃太郎・鬼退治・土蜘蛛伝説、ククヒ(鳥取部)など、それらは徐福とされる呉や越人、朝鮮王族が縄文人を野蛮人として苦労しながら同化していったような話です。神話や民話として語り継がれ、日本書紀には天孫降臨や神武東征にすり替えられて記されているのではないかとも思えます。
日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。
縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。
しかし、縄文海進により、弥生時代にはすでに現在の日本列島の姿に近く、大陸から船で渡ってくることはそんなに簡単ではなかったと考えられます。早い時期に渡来人が移住したと考えられる北部九州・瀬戸内海・近畿地方ですら、弥生初期の遺跡から渡来系とされる人骨の出土は少ないので、水田稲作の先進地域でも縄文人が中心となっていたことが想定されます。また、少数を除くと、縄文人の戦傷例がないことからも、弥生人対縄文人の大規模な先島はなかったといえます。日本列島に住んでいた旧石器からの縄文人が、少数の渡来人がもたらした、より進化した道具や栽培方法などの文化的影響のもとで農耕社会へ移行したと考えるべきでしょう。