桂小五郎最大の危機 久畑関所跡

  
旧久畑関所跡 豊岡市但東町久畑

旧京街道

旧山陰道(支道)の石畳が往時を偲ぶ。ここから但馬と丹波の境である登尾峠を越えると夜久野に出る。
元治元年7月、桂小五郎は蛤御門の変で、対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。


数年前まで木の関所門があったが撤去された。(残念です)

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。

  
一宮神社

式内社ではないから比較的新しい神社だろう。
どういう謂われで一の宮と呼ばれるようになったのかわからないけれど、
久畑関所そばにあるから、江戸時代に出石藩主が、京街道を出石領内に入る最初の守り神として建立したのではということは十分想像できます。
一宮神社には「兵庫県指定天然記念物」に指定されている大ケヤキ
(樹高35m幹周り7m)があります。

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【たじまる】 明治近代化遺産 余部橋梁(りょう)

特急はまかぜ(画像:JR西日本)

余部橋梁(りょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部(あまるべ)、JR西日本山陰本線の鎧駅~餘部駅間にある鉄橋(単線鉄道橋)。一般に余部鉄橋と呼ばれています。地名は「余部」であり、当橋りょうの正式名称も「余部橋りょう」なのに対し、駅名が「餘部」のため、一般的に地元で使用される「余部」と、観光客や一部の鉄道ファンの間で使用される「餘部」が併用されています(同じ兵庫県内に姫新線の余部駅があるため、それと区別するためでもある)。

  

明治後年、京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道が福知山から舞鶴までの鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきました。すでに開通した山陰西線と山陰東線は浜坂・香住間を残すのみとなりました。餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、山陰西線と東線が開通し、山陰本線が全通しました。

餘部橋梁は現在コンクリート橋に掛け替え工事中です。橋脚はほぼ姿を現しました。

 

コンクリート橋が完成した余部橋梁

兵庫県美方郡香住区余部


鉄骨の旧橋梁が一部保存で残されている

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【たじまる】 明治近代化遺産 桃観トンネルと余部橋梁掛け替え工事

桃観トンネル

  
桃観トンネル久谷側

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所


桃観トンネル余部側

余部橋梁

特急はまかぜ(画像:JR西日本)
特急はまかぜ(画像:JR西日本)

余部橋梁(りょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部(あまるべ)、JR西日本山陰本線の鎧駅~餘部駅間にある鉄橋(単線鉄道橋)。一般に余部鉄橋と呼ばれています。地名は「余部」であり、当橋りょうの正式名称も「余部橋りょう」なのに対し、駅名が「餘部」のため、一般的に地元で使用される「余部」と、観光客や一部の鉄道ファンの間で使用される「餘部」が併用されています(同じ兵庫県内に姫新線の余部駅があるため、それと区別するためでもある)。

明治後年、京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道が福知山から舞鶴までの鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきました。すでに開通した山陰西線と山陰東線は浜坂・香住間を残すのみとなりました。餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、山陰西線と東線が開通し、山陰本線が全通しました。


餘部橋梁は現在コンクリート橋に掛け替え工事中です。橋脚はほぼ姿を現しました。

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古代出雲6/6 西谷古墳群

[catlist categorypage=”yes”]島根県出雲市大津町字西谷

出雲市街南東部の標高40メートル程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に確認され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。

1983年(昭和58年)より1992年(平成4年)までの10年にわたり島根大学考古学研究室を主体に3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生式土器が出土し祭祀の跡も確認された。これらの様子からこの時代の出雲地方に「王」が存在したことがうかがえる。2000年(平成12年)に国の史跡に指定された。現在、1号墓~6号墓の並ぶ丘陵は「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」として整備が進められている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)

四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期から吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。四隅突出型弥生憤丘墓とも呼称します。


西谷古墳3号墳

方形部は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル、突出部の付け根の幅7~8メートル、長さ6~7メートルの幅広大形で、中期後葉にはささやかな突出部であったが、後期後葉になると大きく幅広い突出部に発達している。この突出部上面が墳頂への墓道と考えられている。斜面は貼石で覆われ、突出部から墳頂にかけての稜線部分は石を敷き詰めた道のようになっており、墳丘頂上には、八つの埋葬施設があり、首長とその家族のためのいくつかの墓壙が掘られていた。そのうちの最大の墓壙の上には4つの柱穴が検出されており、何らかの施設があったものと考えられている。その墓壙から他地域からの搬入されたものも多数含まれている。 方形周溝型弥生墳丘墓の周溝の堀残し部分が渡り土堤で出入り口になっており、それが四隅突出型弥生墳丘墓の突出部と関するのではないかとの考えも出されている。9号墓に次ぐ規模の四隅突出型弥生墳丘墓。

1983年より詳細な調査が行われ、上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。第1主体には深さ1メートルで二重の構造の土壙が掘られ、木棺の外側に木槨をもつものである。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものが多い。 墓穴の周囲に4箇所の柱穴が検出された。この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されている。 現在、斜面に葺き石が施されるなど築造当時の姿に復元作業が行われている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


4号墓

方形部は東西32メートル×南北26メートル。この墳墓群の中で最初に確認された墳墓で、1953年の造成工事の際に墳墓であることが確認された。この墳墓にも斜面に葺き石が施されている。地元産の壺などの大量の土器、吉備産の特殊土器が発掘された。2世紀末に築造されたと推定される。

出雲市の南東にある西谷墳墓群は山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中しています。発掘調査の行われた3号墓では墓の上で祭祀が行われた様子がわかっており、出土品からは葬られた王が吉備や北陸地方とも交流をもっていたと考えられています。ここからは斐伊川や出雲平野を一望することができます。
また、神戸川の東には日本最大級の家形石棺を持つ今市大念寺古墳、精美な石室を持つことで知られる上塩冶築山古墳など、この地に君臨した王を葬った古墳を見ることができます。

山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されていますが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考える人もあり、出雲国造家とのつながりを指摘されています。

2009/02/15

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【たじまる】 森尾古墳


豊岡市森尾字市尾

この古墳は、1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室。早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。

昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)によると、

古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。

ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。

発掘された青銅鏡は、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれる。一面には中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている。また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡」であることがわかった。「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後に中国でつくられた北近畿で最古の鏡で、山口県竹島古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。

しかし、従来は三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。しかし中国本土では1枚も出土していないことや、魏の元号が改正されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。

森尾古墳に近い神美台工業団地造成時に墳墓が大量の見つかり、豊岡市埋蔵文化センターが建てられ保存されています。土曜日で閉まっていました(土日は休館日とのことです)。

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【たじまる】 明治時代近代化遺産 達徳会館


2016.12


旧豊岡中学校本館(現・達徳会館 -達徳会:豊岡高校の同窓会)
兵庫県豊岡市京町
1896年(明治29年)に、当時の本館として建設された建物。木造2階建てで、当時の流行であった擬洋風で建設されており、明治時代の近代化遺産として豊岡市指定文化財に指定されている。老朽化が烈しく現在は利用されていません。数年前に28期生同窓会が百年記念館であったとき以来、拝見しましたが外壁のペンキが剥がれかけており寂しい感じです。補修が必要です。

旧豊岡中学校本館でしたが、公売されかけたとき、校友会「達徳会」により救われたことがきっかけで保存され現在地に。現在はこの名称で呼ばれている。玄関には旧制豊岡中学、旧制豊岡女学校の校章が掲げられている。

和魂碑
達徳会館と校舎の間。豊高が火災に遭った年に1年で、プレハブ校舎が1年半、新校舎は2年後半からで、和魂ホールも建て替えられ、火災から免れた建物は今は達徳会館と木造建築とこの和魂碑が当時の面影を残しています。
グループ毎の卒業写真では、和魂碑をバックに人気が高いスポットです(でした)。

達徳会館奥にある木造平屋建て現存する唯一の和建築。
茶道部が使用していたが、今は不明です。

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明治時代近代化遺産 達徳会館


旧豊岡中学校本館(現・達徳会館 -達徳会:豊岡高校の同窓会)
兵庫県豊岡市京町

1896年(明治29年)に、当時の本館として建設された建物。木造2階建てで、当時の流行であった擬洋風で建設されており、明治時代の近代化遺産として豊岡市指定文化財に指定されている。老朽化が烈しく現在は利用されていません。数年前に28期生同窓会が百年記念館であったとき以来、拝見しましたが外壁のペンキが剥がれかけており寂しい感じです。補修が必要です。


旧豊岡中学校本館でしたが、公売されかけたとき、校友会「達徳会」により救われたことがきっかけで保存され現在地に。現在はこの名称で呼ばれている。玄関には旧制豊岡中学、旧制豊岡女学校の校章が掲げられている。


和魂碑

達徳会館と校舎の間。豊高が火災に遭った年に1年で、プレハブ校舎が1年半、新校舎は2年後半からで、和魂ホールも建て替えられ、火災から免れた建物は今は達徳会館と木造建築とこの和魂碑が当時の面影を残しています。
グループ毎の卒業写真では、和魂碑をバックに人気が高いスポットです(でした)。

  
達徳会館奥にある木造平屋建て現存する唯一の和建築。
茶道部が使用していたが、今は不明です。

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【たじまる】 桂小五郎潜居跡


「八・十八の政変」で京都を追われた桂小五郎は、但馬に潜伏します。

小五郎は対馬藩邸出入りの商人・広戸甚助の手引きで京を脱出、幕府方から逃れるために但馬の出石(兵庫県)や養父の昌念寺、城崎温泉の旅館にも住み込みで働いていたそうです。現在の国道426号線の但東町久畑にある京街道の久畑関所で、船頭を名乗る男が厳しい取り調べを受けていました。

調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変の知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生の最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」

ということで、一般の町家に潜伏先を移したそうです。そのひとつが城崎温泉でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『つたや』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

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【たじまる】 豊岡県庁門


久美浜縣庁門を豊岡縣庁に移しました。(豊岡市図書館)

1868年(慶応4年)に久美浜縣(くみはまけん)が誕生。丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国の久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄する広大な縣でした。
久美浜は天領(幕府直轄領)だったので、縣名云々よりもとにかく旧藩(旧勢力)の解体を急いだのです。その処置は全国的に行われました。

しかし、久美浜縣は、その範囲があまりにも広く、生野代官所支配地を中心に分離運動が高まり、1869年(明治2年)、但馬北部を豊岡縣、但馬南部と播磨、美作3ヶ国を生野縣として分離しました。また、南東部の一部を篠山藩へ移管しました。
1868年(慶応4年)に久美浜縣(くみはまけん)が誕生。丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国の久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄する広大な縣でした。

1869年(明治2年)8月10日、但馬、播磨、美作を生野縣として分離、但馬南部の一部を篠山藩へ移管。
1871年(明治4年)11月2日、久美浜縣は舞鶴縣や篠山縣など11縣16郡を豊岡縣に統合され消滅。
それは、久美浜は北端に位置するため、播磨、美作などから遠すぎたためです。
但馬
生野縣/出石縣(3万石)/豊岡縣(1.5万石)/村岡縣(1.1万石)
丹後
宮津縣(7万石)/舞鶴縣(3.5万石)/峰山縣(1.1万石)/久美浜縣
丹波
篠山縣(6万石)/福知山縣(3.2万石)/柏原縣(2万石)
1869年(明治2年)8月10日、但馬、播磨、美作を生野縣として分離
1871年(明治4年)7月14日:生野縣のうち、但馬が豊岡縣、播磨、美作が姫路縣が設置。
1871年(明治4年)11月15日、美作が北条縣として発足。生野縣廃止。
1871年(明治4年)11月22日:舞鶴縣や篠山縣など11縣16郡を豊岡縣に統合。
1876年(明治9年)8月21日:豊岡縣廃止。但馬・氷上郡・多紀郡は兵庫縣へ編入。また丹後と天田郡は京都府へ編入。

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