応永の乱(おうえいのらん)と山名氏後退
応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。
明徳の乱
そして、明徳2年(1391年)、義満は、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に山名氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。
義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。
応永の乱
有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです(応永の乱)。
乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた山名時熙(ときひろ)は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかで危うく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。
一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。
山名氏の再興
その後、時熙は室町幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。
このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
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【但馬の歴史】(7) 山名氏(2) 山名時氏 六分一殿
山名氏
家紋:二つ引両
清和源氏新田氏流
山名氏 守護大名に成長
室町幕府は、地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限を与え、守護の力を強めて全国の武士をまとめようとしました。守護は荘園や公領を自分の領地に組み入れ、地元の武士を家来にしました。さらに、国司の権限も吸収して、それぞれの国を支配する守護大名に成長しました。
1337(建武四)年、山名時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、山名時氏は、山名氏発展の端緒をつかんだのです。
1341(暦応四)年、室町幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国の出雲に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、山名時氏は、伯耆・因幡・出雲・隠岐を支配下におきました。
1363(貞治2)年、将軍義詮からの誘いもあって幕府に帰参し、義詮から切り取った領国の安堵を条件に、伯耆国・因幡国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護職補任を認められ、子供たちを各国の守護とし、自身は丹波守護となりました。
山名氏はこののち幕政で重きをなすことになるが、その基礎は時氏によって作られた。二代将軍足利義詮の時代に、出雲国・隠岐国の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。
その後、出雲・隠岐守護職は塩冶高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられました。そして、時氏は貞和二年(1345)に将軍を補佐する管領には細川氏、斯波氏、畠山氏の三管とよばれる有力守護大名が交替で、幕府を警護する武士の筆頭である侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。
南北朝時代と但馬
このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名氏の支配下に置かれたようです。
1336(延元元)年、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。
その翌年の1337(延元二)年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の豊岡盆地中央部東縁の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。
観応の擾乱と守護職安堵
擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息しましたが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ山名時氏は北朝の尊氏に味方していましたが、のちに時氏の長子、山名師義は、観応の擾乱では父時氏とともに直義方で戦い南朝に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。
時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。山名氏の勢力拡大に貢献しました。
やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、1350(観応元)年、観応の擾乱が勃発しました。
一時、山名時氏、師義の父子が三開山城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して1353(文和二)年には京に攻め入り、京を一時は支配下におきました。
その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の1358(延文三)年に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。
そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、1363(貞治二)年、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、周防の大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。
山名時氏の5人息子と「六分一殿」
時氏の父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など、 嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。時氏死後は、師義が家督を継ぎましたが、わずか5年で師義も死去する。49歳の若さでした。
1363(貞和2)年、時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、師義も丹後・伯耆の守護に任じられました。いつごろからか定かではありませんが、但馬国もこの頃守護になったと思われます。
1370(応安三)年、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、1372年~1376年、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。
1376(永和二)年、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、
惣領の師義 | 丹後国・伯耆国 |
次男の義理 | 紀伊国 |
三男の氏冬 | 因幡国 |
四男の氏清 | 丹波国・山城国・和泉国 |
五男の時義 | 美作国・但馬国・備後国 |
の守護となりました。
その後、師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。
但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
時義は父時氏が亡くなったあと、わずか5年で師義も死去し、時義は惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代として但馬に送っていた記録もあります。城崎城(のちの豊岡城)主に上野国時代以来の重臣、垣屋氏を城代にあてているので、垣屋氏ではないかと思います。
時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。
山名家臣団
四職:侍所頭人 但馬国守護 山名氏
重臣(四天王):垣屋氏(気多郡)、太田垣氏(朝来郡)、八木氏(養父郡)、田結庄氏(城崎郡)
山名一族 磯部氏(夜久野城主)、海老名氏、宮田氏、犬橋氏、村尾氏、馬来氏
守護代 荻野氏、小林氏〈一部関東公方家収録〉、高山氏、土屋(垣屋)氏、古志氏、内藤氏、蓮池氏、大葦氏、入沢氏、石原氏
日下部氏族 八木氏(養父郡)、太田垣氏(朝来郡竹田城主)、田公氏(二方郡)、宿南氏(養父郡宿南城主)、七美氏、朝倉氏(養父郡朝倉庄)、長氏(美含郡訓谷城主)、奈佐氏(城崎郡奈佐庄)、山本氏、西村氏(気多郡水生城)、
但馬国人 三上氏、田結庄氏(城崎郡田結郷)、佐々木氏(養父郡浅間城主)、丹生氏(美含郡養山城主)、塩冶氏(美含郡無南垣城主)、高岡氏、野間氏、小野木氏、篠部氏(美含郡)、福富氏(朝来郡高生田城主)、上道氏(東河城主)
因幡国人 伊田氏、武田氏、草刈氏、中村氏、加陽(かや)氏、佐治氏、吉岡氏、福田氏、毛利氏
伯耆国人 金持氏、南条氏、小鴨氏、山田氏、相見氏
首藤一族 備後山内氏、多賀山氏、湯川氏、懸田氏、滑氏、河北氏
宮一族 宮氏、有地氏、久代氏、小奴可氏、高尾氏
杉原一族 本郷氏、木梨氏、目崎氏、三谷氏
波多野一族 広沢氏、江田氏、和智氏、上村氏、尾越氏、安田氏、上原氏
備後国人 三吉氏、有福氏、長谷部氏、馬屋原氏、吉原氏、上山氏、渡辺氏、宮地氏
【但馬の歴史】(6) 山名氏(1) 山名(やまな)氏の起源
二つ引両/桐に笹「武家列伝」さん
概 要
国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。 守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
山名時氏は「六分一殿」とまで勢力を馳せ、山名宗全は応仁の乱の西軍総大将として有名。
山名氏の起源
山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。
源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてきませんでした。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのでしょう。
鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされますが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。
山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。
しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。
モンゴル帝国と元寇の襲来
13世紀初め、モンゴル(蒙古)の高原にチンギス・ハンがモンゴル帝国を建てました。モンゴル帝国は無敵の騎馬軍団を各地に侵攻させ、またたくまに西アジアから中国まで、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土を築きました。この動きにヨーロッパ人もおびえ、モンゴル人を恐れました。モンゴル帝国5代目の皇帝、フビライ・ハンは、大都(北京)という都をつくり。国号を中国にならって元と称しました。
フビライは東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本も征服しようと企てました。フビライは、まず日本にたびたび使者を送って、服属するように求めました。しかし、朝廷と鎌倉幕府と一致してこれをはねつけました。幕府は執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えました。
元軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本を襲いました。日本側は略奪と残虐な暴行の被害を受け、新奇な兵器にも悩まされました。
しかし、鎌倉武士はこれを国難として受け止めよく戦いました。また、2回とも元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨におそわれ敗退しました。こうして日本は、独立を保つことができました。この2度にわたる元軍の襲来を元寇といいます。
鎌倉幕府の衰え
元寇との戦いで、幕府を支える御家人は、多くの犠牲を払いました。しかし、外敵との戦いだったので新しいと地を獲得することなく、幕府は十分な恩賞となる土地を与えることができませんでした。そのため幕府は御家人たちの信頼を失うことになりました。
また、御家人たちは兄弟による分割相続のくり返しで、領地がしだいに狭くなり、生活の基盤が弱まりました。そのうえ商工業の発達とともに、武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなり、領地を質に入れたり、売ったりする者もあらわれました。幕府は御家人を救うために徳政令を出して、領地をただで取り戻させようとしました。しかしそうなると、御家人に金を貸すものがいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になりました。こうして鎌倉幕府の支配は、陰りを見せ始めました。
鎌倉幕府滅亡と山名氏
鎌倉幕府の支配が揺らぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めました。
14世紀に即位した後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために倒幕の計画を進めました。はじめは計画が漏れてしまい二度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に流されました。後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりよししんのう)や河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して幕府と粘り強く戦いました。
やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると形勢は一変しました。幕府軍からは御家人の脱落が続き、足利尊氏が幕府にそむいて京都の六波羅探題を滅ぼしました。ついで新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて鎌倉を攻め、ついに1333(元弘三)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。
建武の新政
後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇の親政を目標として、新しい政治を始めました。幕府滅亡の翌年、年号を建武と改めたので、建武の新政といいます。
しかし、建武の新政は公家を重んじた改革で、武家の実力を生かす仕組みがありませんでした。また、倒幕をめぐる戦乱でうばわれた領地を元の持ち主に返すこととしましたが、はるか昔に失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、方針を交代せざるを得なくなりました。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すこととなりました。
そうした中、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げ、建武の新政はわずか2年あまりでくずれてしましました。
山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、山名時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。
やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。後醍醐天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発し、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、山名時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。
南北朝の争乱
1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めました。これは幕府を京都に開くなど武家政治再興の方針を明らかにしたものでしたが、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。
吉野におかれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士に呼びかけて、約60年間も全国にわたる戦いを続けました。これを南北朝時代といいます。
足利尊氏は、1338(暦応元)年、北朝の天皇から征夷大将軍に任じられ、幕府を開きました。のちに尊氏の孫の義満が京都の室町に邸宅を建て、そこで政治を行ったので、この幕府を室町幕府とよび、足利氏が将軍だった時代を室町時代といいます。室町幕府は、北朝によって承認されていたので、しばらく南朝と対立しました。
勘合貿易と倭寇
14世紀後半に、中国では漢民族の反乱によって元が北方に追われ、明が建国されました。
明は日本に倭寇の取締りを求めてきました。倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことです。彼らには日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていました。
義満はさっそくこれに応じて倭寇を禁止し、明との貿易(日明貿易)を始めました。この貿易は、倭寇と区別するために合い札の証明書(勘合)を使ったので、勘合貿易とよばれます。日本は刀剣・銅・硫黄・蒔絵などを輸入して、室町幕府の重要な財源としました。しかし、幕府の力が衰えると、守護大名の大内氏が貿易の実権を握りました。
16世紀の中ごろ、勘合貿易が停止すると、ふたたび倭寇がさかんになりましたが、その構成員はほとんどが中国人でした。朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回ったため、明は国力を弱めました。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
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【但馬の歴史】(5) 大岡山と進美寺
大岡山と進美寺
南北朝のころ、気多郡(豊岡市日高町)の南東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、気多郡の西に位置する大岡山は、なだらかな稜線をした女性らしい山です。
『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。
古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。
日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。
山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。
『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。
大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。
山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。
大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。
進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。
但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。
しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。
大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。
引用:『日高町史』
南北朝時代
内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。
近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。
将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。
しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。
足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。
南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。
新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。
その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。
足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。
その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。
山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。
貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。
伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。
三開山城(みひらきさんじょう)
豊岡市駄坂 国道312号佐野付近から北方に見える
城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会による話です。
豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。
室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。
延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。
その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。
秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。
このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。
この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。
しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。
室町 但馬守護 太田氏
国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。
鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。
守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。
通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。
設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。
平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。
なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。
■但馬守護
1185年~? 小野時広(惣追捕使)
1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
1285年~1321年 太田政頼
?~1333年 – 太田氏
1336年 今川頼貞
1336年~1338年 桃井盛義
1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
1340年~1351年 今川頼貞
1361年~1365年 仁木頼勝
1366年~1372年 長氏
1372年~以降1536年まで 山名氏
安達親長
但馬守護で最初に記録があるのは安達親長です。親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力しました。
豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。
源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。
太田氏の繁栄と滅亡
むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。
ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘(おそらく大阪府高槻市土室)と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。
その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。
昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。
前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。
このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。
昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」に伺われます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。
以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。
武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。
多遅麻国造から国司但馬守へ
多遅麻国造から国司但馬守へ
960年頃 源経基
1010年頃 源頼光
1110年頃 平正盛
平経正
1130年頃 平忠盛
1182年 平重衡(権守)
矢沢頼康 柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主 戸田氏西 美濃大垣藩主 山口弘豊 常陸牛久藩主 浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主 遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主
? 源満頼
1224年 平有親
714(霊亀元)年 安部安麻呂
737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。
天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。
陽胡史真身(やこのゑびとまみ)
その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。
聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。
この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。
地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。
ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。
源頼光と頼光寺
頼光寺(らいこうじ) 曹洞宗
但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。
頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。 気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。
気多神社
世界では軍人は最も尊敬されている
産経
「家の小さなころからの行事。大臣だろうとなかろうと野田聖子として参拝している」。自民党には消費者行政担当相の野田のような閣僚もいるが、多くの議員は「中韓との軋轢(あつれき)は避けたい」と、靖国から遠ざかる。
自民党群馬県連で長年事務局長を務めた戸塚一二(77)(いちじ)は“戦略的参拝”を提唱する。
「自民と民主の決定的違いは、民主が異なるイデオロギーの寄せ集め集団ということ。国家観の伴うイデオロギー論争を徹底的に挑めば民主には絶対に負けない。靖国参拝も同じだ」
憲法改正と主権国家を目指すという結党以来の自民党精神をもっている現議員は一割程度だと聞く。
政治的に靖国を利用している中韓が大事なのか?今日の日本があるのは国のために尊い命を捧げられた英霊のおかげです。国の政治家としてどちらが主で副なのか。サンフランシスコ講和条約で決着していることだ。よその人にいわれたら、自分の国の英霊の供養をやめる理由がどこにあるのか?
あまりにも政治家は勉強不足。どちらのことを考えているのかが今問われている。
靖国神社や明治維新から大東亜戦争の敗戦、東京裁判の不当性、吉田元首相のサンフランシスコ講和条約による決着を知らない認識で、国の政治家として相応しいかが分かるのだ。政党を問わずこの国の将来を任せられる歴史を勉強した候補者に投票する。歴史を理解しているかで選ぶ目安として、ふるいにかけたらどうだろうか。
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靖国神社宮司に豊岡ゆかりの京極高晴氏就任
靖国神社で以下の記事をみつけた。
産経 2009/06/12 22:42
靖国神社は12日、総代会を開き、1月に急逝した南部利昭前宮司の後任に、京極高晴氏(71)を決めた。就任は15日付。南部氏に続き、2代続けて旧華族で神職経験のない民間企業出身者の宮司となる。
京極氏は旧但馬豊岡藩(兵庫県)の藩主だった京極家15代当主。東大法学部卒業後、日本郵船事業部長、氷川丸マリンタワー社長、関東曳船社長などを歴任した。
第10代宮司就任に当たって京極氏は、「御創立140年にあたるこの年に、宮司の大役を仰せつかることとなり、身の引き締まる思いでいっぱいです」とのコメントを出した。
前宮司の南部氏は1月7日、虚血性心不全のため急逝。後任人事は難航し、宮司は5カ月間、空席となっていた。
ロシアとアメリカの交渉
ロシアが北方領土への日本側の人道支援を拒否する姿勢を打ち出した背景には、「ソ連崩壊以降の困窮状態を脱し、経済復興を成し遂げたロシアには、もはや支援は不要だ」という自負がちらつく。崩壊したときが交渉のチャンスだったと思いますが、日本政府の外交や緊急時の対応には敏速さが欠けていることに苛立ちます。
ロシアが石油が高騰し崩壊の危機が免れたのですがここにきて石油が値下がりしたことによって、サハリンの開発に消極的になり、日本との開発協力や供給にメリットが薄れたのが今はない、また、グルジアとの問題があり、第二次大戦前に中国とアメリカに日本をやらせといてドイツとの戦争に集中した戦略経験から、石油がまた高騰するまではひとまず北方領土の外交カードを引っ込めたのが本質ではないでしょうか。KGB出身のプーチンならそれぐらいのことは熟知しているでしょう。もちろん、日本の政権交代でごたごたの中で今の政府では進展しないことも承知のはずです。
また、同じくしてクリントン元大統領の訪朝です。報道を見るとさすがに元大統領はすごいなと思いがちです。私的な訪問で資産家のプライベート機で費用の20万ドルは資産家の自費だったとか見え透いたうそをつく。勝手に国交のない北朝鮮や青森三沢の米軍基地で補給など許可しない。まして民間機のプライベート機なら軍事空域を飛行はできない。
アメリカ女性記者の開放に向かう動きは、政府諮問機関が水面下で何ヶ月も動いていたといいます。クリントンは元大統領だから実行できたというよりも、米政府の交渉ではなく非政府の人道支援であることを強調し、落としどころとしてオバマ大統領と同じ民主党の元大統領だから北朝鮮も拒否できない態勢にすることで、瀕死状態でアメリカしか頼るところのない北朝鮮のメンツを立てるというお互いのメリットを出し、すみやかに実行しただけに過ぎません。オバマにしても国内事情からの支持率低下と民主党の名目をアップさせるねらいがあったのです。
君主ではなく大統領や首席が最高位である米・ロ・韓、共産党一党独裁中国・北朝鮮などは、世界情勢にすみやかに対応するための判断が国の代表に絶対的権限がありますが、独断で行っているのではなく、政府とは別のトップ集団がいます。それらの国は、ついこないだまで核攻撃や軍事衝突という緊張体制から、いつでも緊急に動くことができる体制に慣れているのでしょうか。
それに引き替え立憲君主制の日本政府は、国防を日米安保に守られてきたことで、緊急対応ができないばかりか、平和主義を知っていますから攻めてこないと相手国に足元を見透かされてています。しかし、戦前の世界大戦でも日本は天皇や首相に絶対的権限がありませんから、開戦のときも終戦の決断も協議が難航した経験があります。
だからといって、ナントカ実現党などは大統領制にしようというマニュフェストですが、日本は立憲君主制をとっている古い国家なのでできませんしその必要性はあまりありません。それに引き替え、米朝は君主を否定した歴史が浅い国なので外交を行うにははっきり主張することでリーダーの存在感を内外に示す必要があります。日本は文化的に成熟した国なので、そこまでいわずとも分かるだろうという意識があり、いいたいことをずけずけ言う人を嫌いますが、そのような新興国を相手にする時は通用しません。また、真っ向から反論をするには、核も辞さない強力な防衛力が不可欠です。日本は有史以来、唯一大戦で米軍に本土を攻撃されたことを除けば経験がないので、世界も同じように平和な民族だと思っています。しかしそうした国こそいつも攻められはしないかと脅威を感じています。日本民族が本気で怒った時の団結力が恐ろしいことはまだ忘れていませんから。
日本でも2001年(平成13年)、総理府を内閣機能強化の観点から、内閣府とし、内閣を助けて内閣の重要政策に関する企画立案及び総合調整での決定権を強化しました。
外交交渉の駆け引きのタイミングを逃さぬように、内閣・外務・防衛との速やかな連携が最重要です。
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