不平等条約改正への苦悩 学校で教えてくれなかった近現代史(28)

不平等条約の問題点

幕末に日本が欧米諸国と結んだ条約は、日本人の誇りを傷つける不平等条約でした。
江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだのですが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日)に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した(不平等)条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知しました。

第一に、治外法権が相手国にだけ認められ、第二に、関税自主権が日本には与えられなかった。欧米諸国との法的な差別を解消する条約改正は、明治の日本人の悲願であり、日本外交の最大の課題となりました。

この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣されました。従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきましたが、実情は刑法などの法律が整備されていないことを理由に、国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきています。

次ぎに日本は、イギリスとの間で関税自主権の回復を図ろうとしました。ところが、イギリス商人によるアヘンの密輸事件がおこり、イギリスは領事裁判権を行使し、アヘンは薬用であるとして無罪を言い渡しました。この事件は日本人を怒らせましたが、治外法権に手をつけない条約改正交渉は失敗しました(1878年)。

鹿鳴館とノルマントン事件

1883(明治16)年、政府は東京の日比谷に鹿鳴館という名前の洋風建築をつくり、外国人を招いてさかんに舞踏会を開きました。これは日本も欧米並みの文化を持つ国であることを世界に誇示し、条約改正を有利に進めようとする試みでした。

1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めました。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けました。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、全国的な民権運動が盛り上がり(三大事件建白運動)、条約改正交渉は中止となり、井上は辞任しました。

1886(明治19)年、ノルマントン事件が起きました。審査をしたイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヵ月という軽い罰を与えただけでした。この事件を境に治外法権を撤廃するための条約改正を求める国民の声はいっそう強くなりました。

40年がかりの条約改正

1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコとの間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。

黒田清隆内閣の外相大隈重信は1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がりました。大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折しました。

欧米諸国はそれでも簡単に条約改正に応じようとはしませんでした。日本はあくまで欧米並みの制度を取り入れることによって、対等な扱いを受けることのできる国になろうと努力を重ねました。1889(明治22)年、日本が時前の憲法を制定した動機の一つは条約改正でした。

山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされました。

やがて最大の強国イギリスは、こうした日本の近代化の努力を認め、また、極東に進出してきたロシアの南下に危機感を募らせていたイギリスは対抗するためにも、日本との交渉に応じました。第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光外務大臣が交渉の責任者となり駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせ努力が実を結び、日清戦争が始まる前の1894(明治27)年、日本の内地を開放するのと引き換えに治外法権が撤廃されました(日英通商航海条約)。このことは後の日英同盟への布石となりました。その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃しました。

関税自主権の条約改正はさらに遅れ、達成されるのは日露戦争において勝利した日本の国際的地位が高まった後のことです。1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成されました。岩倉使節団の交渉から40年の歳月が経っていました。

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岩倉使節団と征韓論 学校で教えてくれなかった近現代史(27)

東アジアが欧米列強に植民地化されていくなかにあって、日本が植民地化を免れたのは何故だろう。
江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結びました。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある)内容でしました。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになったのです。

岩倉使節団

1871(明治4)年、廃藩置県のあと、新政府として正式に条約締結国を訪問し、あわせて条約改正の予備交渉を行うために、全権大使岩倉具視を代表とする、大久保利通、木戸孝允らの使節団が、アメリカとヨーロッパに派遣されました。使節団は留学生を含め総勢110人からなっていました。
使節団は、2年近く欧米文化を実地に学び取った結果、欧米と日本との文明の進歩の差はおよそ40年と見積もるにいたりました。そして何よりも近代産業の確立(富国)を優先して欧米に追いつくべきだと考えるようになりました。

征韓論

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

「征韓論」は、すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられました。

吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していました。それらの主張は、尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭していました。

そもそも、維新後、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行いましたが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側にたびたび拒否されていました。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気大いにあがっていました。
日本は、平和のうちにことをおさめようと努めたのですが、朝鮮は頑としてこれに応じることなく、1873(明治6)になってからは排日の風がますます強まっていました。ここに、日本国内において武力で朝鮮を開国しようとする征韓論が沸騰したのです。

政府の分裂と西南戦争

廃藩で失業した士族たちは、全国民に徴兵令が施行されていたので、武士の誇りを傷つけられたとして不満を高めていました。彼らが期待をかけたのは、その留守を守るために組織された留守政府の首脳であった西郷隆盛でした。

西郷は政府にあって近代国家をつくる改革を進めながらも、士族たちの精神も重要だと考え、彼らの社会的な役割と名誉を守ってやらなければならないと考えていました。西郷は自分が使節として朝鮮 に行くことを協力に主張し、板垣退助・江藤新平など参議も同意して、政府の決定を取り付けました。西郷自身は戦争覚悟の交渉によって朝鮮に門戸を開かせようと考えていました。西郷・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた使節を朝鮮に派遣することを閣議決定しました。

しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで同年9月に帰国しました。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば、欧米の干渉を招くとし、本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消されました。

当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組(岩倉使節団)との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組(留守政府)に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えました。
これを明治六年政変(征韓論政変)といいます。これに怒った西郷と板垣退助、江藤新平ら、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞しました。これが1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となりました。
また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではありませんでした。
1876(明治9)年、政府は旧藩に肩代わりして士族に給付していた禄を、一時金の給付と引き替えにうち切りました(秩禄処分)。これを不満とした各地の士族が、政府に反対する兵を挙げましたが、次々に鎮圧されました。
西郷は鹿児島に帰って私学校を開いていましたが、不満を持つ全国の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げましたが、徴兵された平民からなる政府軍に敗れました(西南戦争)。
これ以降、士族たちの武力による抵抗はあとを絶ちました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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近隣諸国との国境画定 学校で教えてくれなかった近現代史(25)

近隣諸国との国境は、どのようにして画定していったのでしょうか。

北方の領土画定


画像:『日本人の歴史教科書』自由社

明治維新を成し遂げ、近代国民国家の建設をめざす日本は、近隣諸国との間の国境を定める必要がありました。国境を画定しなければ、住民の生命や財産を保証したり、国民としての平等な権利を住民に与えたりする範囲を明確に定めることができないからです。

北方の樺太(サハリン)および千島列島にはアイヌ民族が住んでいました。間宮林蔵の探検以来、日本人が居住していました。その後、ロシア人が移住を始め、ロシアは樺太が日本人とロシア人の雑居の地であると日本人に認めさせました。両者の間では紛争がたびたび起こりました

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていました。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着しました。

1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。

イギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと明治政府に警告してきました。新政府はロシアとの衝突を避けるために、 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。

その他の記録

1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出 この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻 占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す 同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。 この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。
1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。
太平洋方面では、小笠原諸島を日本領とし、1876(明治9)年、各国の承認を得ました。すでに英国船がここにも英国旗を立てていましたが、アメリカが反対し日本領となりました。

台湾出兵と琉球

日本は清との国交樹立のため、1871(明治4)年、日清修好条約を結びました。これは、国際法の原理に基づく、領国対等の関係を定めた条約でした。
同年、琉球の宮古島の島民66人が宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難、台湾に漂着し、54人が殺害される事件が起きました。当時、琉球は日本と清の両方に従属していました。日本は清国に対して事件の賠償などを求めますが、清国政府は「化外の民(管轄外)」として拒否しました。こうなると外交交渉の経験が少なく、国際慣習を知らない明治政府はどうしようもなく、事件はその後3年間も放置されることとなってしまいました。

そこで日本政府は、台湾の住民を罰するのは日本の義務であるとして、1874(明治7)年、長官に大隈重信、陸軍中将の西郷従道を事務局長に任命して全権が与えられました。政府内部やイギリス公使パークスやアメリカなどからは出兵への反対意見もあった。特に木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、4月18日参議の辞表を提出して下野してしまいました。そのため、政府は一旦は派兵の延期を決定するが、長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名(薩摩藩・藩士編成をした政府軍)はこれを無視して出兵を決断(台湾出兵)、5月2日に西郷の命を受けた谷干城・赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で長崎を出航すると政府もこれを追認、5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民と小競り合いを行う。5月22日に西郷の命令を受けて本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けました。

この衝突は、近代国民国家の観念をまだ十分に理解していない清と、日本の考え方の違いから起こった事件でした。清との協議の結果、問題は解決しましたが、清はこれにより、琉球島民を日本国民と認めました。翌1875年琉球に対し、清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年、琉球を日本領土とし、沖縄県を設置しました(琉球処分)が、それに反対する清との1880年北京での交渉において日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり清は調印に至らなかった。 このため、帰属問題が解決したのは日清戦争で日本が勝利した後のことでした。
日本はこうして、近隣諸国との間の国境をほぼ画定させることに成功しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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王政復古と鳥羽・伏見の戦い 学校で教えてくれなかった近現代史(21)

王政復古の大号令

徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。

翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。

しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、第一回の新政府会議が開かれました。従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。

同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。(大政奉還)会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。

鳥羽・伏見の戦い

12月25日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。

慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。

狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。

薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。

それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。

四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。

戊辰戦争

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。

旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。

「幕末のジャンヌ・ダルク」新島八重と川﨑尚之助

川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。

兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。

戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。

兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い明治8年(1875年)には女紅場を退職して準備を始め、翌明治9年(1876年)1月3日に結婚。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、キリスト教主義の学校同志社(同士社大学の前身)の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。

明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。

日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を授与される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。
墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。

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小五郎但馬に潜む 学校で教えてくれなかった近現代史(17)

開国攘夷に傾く

蛤御門の変(禁門の変)が起きる2年前の文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。

兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ
江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ
長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、吉田松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。

欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。

この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)。山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。この時点で小五郎は、長州藩急進派の尊皇攘夷派とは一線をかして西洋に学び開国しても同時に富国しなければならないと思っていたところが、龍馬などと世界観が合致していたのだろう。

八月十八日の政変

江戸時代末期の文久3年八月十八日(1863年9月30日)に中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した政変である。

尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。

文久3(1863)年8月18日、会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。

これによってこれまで京都政界を掌握してきた長州などの尊攘派が京都政界から追放された。後に池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけにもなった出来事であった。
蛤御門の変(禁門の変)


光村推古書院

八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、蛤御門の変(禁門の変)を敢行するが、結局失敗に終わる。

このとき小五郎は、幕府寄りの因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。

しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。

桂小五郎、最大の危機 久畑関所

元治元(1864)年八月二十日の蛤御門の変(禁門の変)で危険を感じた小五郎は、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。しかし、会津藩など幕府方による長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくるから逃れるため、桂小五郎(木戸孝允)が懇意にしていた対馬藩邸出入りで知っていた但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出した。

京街道(山陰道)の諸藩の関所をくくり抜けながら、福知山から出石に抜ける京街道(現在の国道426号線)を通り、もう少しで但馬出石城下に入る高橋村(但東町)久畑にある出石藩久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けた。小五郎、最大の危機である。

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変でも出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していた。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りった。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできた。広戸甚助である。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えた。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放したのである。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だった。もし甚助の助けがなかったら…。ここで維新の歴史が“変わった”かもしれない。

但馬潜伏期間

  
桂小五郎潜居跡(豊岡市出石町魚屋)

桂は但馬出石(兵庫県)に潜伏していた。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある広戸家の菩提寺でもある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移した。城崎温泉の旅館にも住み込みで働いたり場所を幾度も変更したそうである。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」 ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

小五郎は城崎温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。

10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。

小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。

温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。
ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。

城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。

出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。

慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて出石へ帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。

広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。

しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。かなりの男前でモテ男だったようだ。
その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。

維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰しました。

なぜ但馬に逃れたのか

しかし、ここで不思議に思うことは、小五郎はなぜ但馬に逃れようと思ったのかである。出石藩・豊岡藩は幕府寄りの藩であり、丹波も幕府よりの藩ばかりで禁門の変では幕府方で禁裏警護の配備図を見ても、長州藩邸の周囲には東海道入口に篠山藩、大原口に出石藩、鞍馬口に因州(因幡)藩、鳥羽伏見には園部藩が山崎には宮津藩、丹波街道には亀山(亀岡)藩が配備についている。丹波や但馬・因幡の諸国を通過するのは火の中に飛び込むようなものだ。というか朝敵とみなされた長州以外はすべて敵で長州人逮捕の命令が出ていたからである。当然小五郎が幕府寄りの出石へ逃亡するなどわざわざ捕まりにいくようなものだ。

小五郎はひとまず、長州へ帰り藩の意志を固めようとしたのではないだろうか。往来が盛んで取締りが厳しい瀬戸内海や山陽道を避けて、山陰道を選んだのではないか。そこで知り合いの但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待って長州へ帰ろうと考えたのではないか。

但東町の京街道

武知憲男氏が『但東町の京街道』と題して『但馬史研究 第24号』に投稿されているので参考にする。

兵庫県豊岡市但東町は、兵庫県は地図でタコのように見えますが、ちょうど口の様に見える場所が但東町です。出石川の上流に位置し、下流以外は山に囲まれ、西以外の三方は京都府と接している。従って、丹波街道・成相道(巡礼道)・丹後道などと呼んでいる峠道が幾つもあり、その一つが出石より福知山・京都へ通じる京街道である。また明石の真北に位置するため東経135度の子午線(日本標準時)が通過している。

江戸時代、出石藩参勤交代の重要な街道であり、現在も国道426号線として、但馬の経済・文化の交流に大きな役割を果たしている。

京街道は、江戸時代では最も新しい文化十二年(1815)以降のことが記されている『出石藩御用部屋日記』によると京街道は、福知山(上川口)から登尾峠-久畑関所-小谷-出合-矢根-寺坂-鯵山峠(県道253)-谷山-(出石高校)-出石城下への旧道だろうと思われる。久畑関所跡横には村の鎮守一宮神社がある。但馬一宮は出石神社で一宮ではないのになぜ一宮神社なのか不思議に思っていたが、登尾峠の反対側の京都府佐々木の次に一の宮集落があるので久畑の村人が分社されたのではないだろうか。

武知憲男氏によると京街道を記す道標が残っているそうだ。小谷には「左たんご、くみはま道」と石仏の道標があり、右は判別できないが「右京道」であろう。小谷も「茶屋地」の小字名が残り、矢根や南尾、久畑同様に宿屋・茶屋の屋号が残る。登尾橋の手前に「右京都。左志ゅん連い道(巡礼道・宮津成相山)」の道標が立つ。左は薬王寺で大生部兵主神社があり、交通の要所であっただろうが、かつては旧道で難所だったに違いない。また機会があったら探してみたい。

参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会・松本屋
参考資料:『京都時代MAP 幕末・維新編』 光村推古書院

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逃げの小五郎 学校で教えてくれなかった近現代史(16)

禁門の変(蛤御門の変)

蛤御門の銃弾跡

「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方です。蛤御門(はまぐりごもん)の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為です。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていました。
尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変(七卿落ち)で京都を追放されていました。7月18日、長州藩の攻撃が始まったころ、河原町の長州藩邸は加賀藩によって包囲されていました。しかし、加賀兵が踏み込んだとき、そこの桂小五郎の姿はありませんでした。桂はすでに対馬藩邸に逃れていました。

同日夜、対馬藩が長州藩の同情藩として断定され、幕軍が藩邸を取り巻き始めたため、御池通りを西へ油小路を北に向かい御所の西にある因幡藩邸へ向かいました。伏見方面で砲声が轟き、幕府対長州の激闘が始まりました。その中を因幡藩邸へ向かいました。
因幡藩邸に潜んでいると、夜明け前になって御所の中立売御門を目指して進軍する長州軍の一隊が藩邸前を通っていきました。それに遅れて桂は堺町御門向けて出ていきました。鷹司邸が炎上し長州軍は敗走します。その混乱の中、桂は朔平門(ざくへいもん)当たりへと戦場を見察して回りました。この戦いで鷹司邸に発した火災は、河原町の長州藩邸の出火とともに、三日間に及ぶ大火の原因となりました。

京都御所 蛤御門 2009/1/28

夜陰に乗じて、桂は天王山へ向かいますが、伏見付近に至ったとき、天王山へ退いていた長州軍の総指揮官であった真木和泉らが自決し、兵が四散したことを聞き京の町へ引き返しました。
7月19日午前七時頃、御所へ到着 長州藩は天皇の側近だった三条実美(さねとみ)らの公卿とともに、幕府を倒し、天皇による政治を復活させる企て(王政復古)を着々と進めていました。この勢力はかなり大きな流れとなり、幕府の存在を脅かすようになりました。これに対して巻き返しを図りたい公武合体派の会津藩と薩摩藩は密かに兵を集め、文久三年(1863)八月十八日、武力によるクーデターを起こしました。これを「八・十八の政変」といいます。

堺町御門

公武合体派は御所を囲む兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任し、京都からの退出を命じ、関与した公卿と長州へ向かいました(七卿落ち)。
長州藩(山口県)は公武合体に敗れ京都から退去、さらに池田屋事件をきっかけに元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)に敗れ、小五郎は幕府に追われる身となってしまうのです。

小五郎と幾松

京都には彼を捨て身で守った幾松という女性がいました。幾松はひいき芸者の一人でした。三条大橋の下に隠れながら幾松が差し入れに食事を運んだ話もあります。
この政変によって長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになります。戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。
このとき小五郎は、藩主と三条実美らの復権を求めて活動し、再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたがそれが聞き入れられることはありませんでした。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、三本木の吉田屋という料亭で桂小五郎と逢瀬を重ねていた幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら潜伏していました。しかし、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、三条大橋下に潜伏したり商人・広戸甚助の手引きで京を脱出し但馬出石に潜伏します。
一方、会津藩をはじめとする公武合体派は、京から尊壤派の志士たちを徹底的に排除しようと、新選組や見廻組を使って浪士狩りを行いました。ちなみに新選組は、この八・一八の政変の時に出陣し堺町御門の警備に当たった時に京都守護職松平容保から「新選組」という名前をもらい、正式に市中取締りの任に就きました。禁門の変では御所を囲むようにして幕府軍に北から備前藩・因幡藩・出石藩、東には尾張藩・篠山藩・桑名藩・見廻組・大垣藩・彦根藩、淀に宮津藩、丹波口には亀山(亀岡)藩、小浜藩、南は園部藩・鯖江藩、禁裏(御所)薩摩藩・筑前藩・会津藩・桑名藩などが布陣していました。

参考資料:京都時代MAP 幕末・維新編 光村推古書院
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日本海軍誕生 学校で教えてくれなかった近現代史(14)

尊攘派の蹉跌

この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化。尊攘派の擡頭により朝廷・幕府政治の混乱が起きていることを憂えた孝明天皇の意をくみ、中川宮朝彦親王は極秘に会津藩・薩摩藩に長州藩の追放を命ずる。文久3年8月18日、宮廷の御門を制圧した会津・薩摩は、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州への撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変、七卿落ち)、長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功しました。

いっぽう幕権強化・雄藩連合などの様々な思惑を孕みつつ、文久3年12月に徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城(宇和島藩主)・島津久光による参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われましたが、将軍後見職の徳川慶喜の非協力的態度に春嶽・久光らが反撥して帰国したため、早くも翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持ちませんでした。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなります(一会桑体制)。

この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっています。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。また土佐藩では武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が弾圧され尊攘勢力は次第に後退していきました。さらに水戸藩では元治元年(1864年)3月、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生しました(→天狗党の乱)。

このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京します。京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われました(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなります。さらに同じ頃、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥りました(四国艦隊下関砲撃事件)。

[*1]…一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治動向の中心地京都において、禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)三者により構成された体制。

[*2]…天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは、1864年5月2日(元治元年3月27日)に起きた、水戸藩士藤田小四郎ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵と、その後これに関連して各地で発生した争乱のことである(1865年1月14日(元治元年12月17日)に主導者投降)。武士階級以外の階層や水戸藩領以外からも多くの参加があり、行軍中に政治的な宣伝も行った。

勝海舟

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごします。この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなります。

万延元年(1860年)、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航しました。旅程は37日で、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船しました。米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗しました。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃していますが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれていますが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場でした。しかし、アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができました。

勝海舟は、維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙されました。徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生の全てを捧げました。その他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げ、名産としている。こうした努力から、新政府側の中心的役割を担った薩摩藩でさえも旧士族が反乱を起こし西南戦争という大規模な内戦にまで拡大したのに比べ、徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱を起こさずに職業の転換を実現しているのは勝の功績です。

勝は日本海軍の生みの親とも言うべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対し続けました。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様(ありよう)を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と後述している。

明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。

神戸海軍操練所

勝は帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている[11]。 勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[12]。さらに、神戸海軍操練所も設立している。 後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う。操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめたのが勝の師弟、坂本龍馬です。

勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。

慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。

参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
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アジア植民地化の危機 学校で教えてくれなかった近現代史(12)

http://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf歴史地図2000

「強圧的な手段」である軍事力と植民地化の危機をめぐっては、近代史研究者の間で長い論争が繰り広げられてきましたが、近年のイギリス側からの実態研究では、60~70年代にイギリスの軍事費は抑制され、アジアを植民地化するだけの軍事力は保有していなかったことが指摘されています。イギリス極東艦隊は、香港を根拠地に、商業的権益を擁護するため、東南アジアの海賊の取り締まりや、中国や日本の沿岸の海上警備にあたっていましたが、65年の39隻から74年の20隻へと急速に削減されていきました。こうした点から、「東アジアにおけるイギリスの軍事力は居留地防衛以上に出るものではなく、少なくとも東アジアに関する限り植民地化を可能にする条件はなかった」とする指摘もあります。

しかし、「居留地防衛」程度の軍事力という評価は、歴史的にみて過小評価なのではないでしょうか。63年八月の薩英戦争や64年九月の四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)、さらに65年11月に四国代表が、兵庫開港・条約勅許を求めて連合艦隊を兵庫沖に派遣したことなど、列強の軍事力は、まさにオールコックのいう「強圧的な手段」として、常に国内政局への政治的圧力となっていたのですが、では、植民地化の危機があったのかといえば、列強の軍事力は、あくまでも自由貿易を維持させるための軍事力であり、それ以上のものではありませんでした。逆にいえば、東アジアにおいて自由貿易が維持されている限りにおいて、列強は、現地の政権となるべく円滑な関係を維持しようとしていたのです。列強は不平等条約維持のための軍事力はなるべく協調して実施しています。それは列強の共通利益であり、日本市場の独占=植民地化への志向を読みとることは困難でしょう。

オールコックは、日本との条約はロシアの南下とロシアによる日本の植民地化を防止する外交上の機能を果たしている、と主張しています。条約は「少しも経費を要せずして艦隊や軍隊の代わりをつとめるひとつの力」であり、これがある限り日本を「我々の同意なしに征服したり併合したりすることは困難であろう」といっています。欧米列強との条約締結は、欧米が、日本や中国を主権国家として認めたということであり、条約の内容が不平等であるにせよ、近代国際法のルールでは、簡単に植民地化することができない、ということを意味するのです。

交通革命の時代

汽船と電信という技術革新を背景に、交通・情報ネットワークが一変して世界が交通革命の時代を迎えたのは1860年代末のことでした。

汽船は、1850年代にスクリューの開発、60年代には二段膨張エンジンの実用化、70年代には三連成機関の登場によって、航続距離の延長、船舶の大型化、高速化など飛躍的に高校性能を上昇させ、1870年代以降それまでの海上交通の担い手であった帆船を駆逐していきました。

1867年には、ペリーが開拓した太平洋横断行路が、太平洋郵船というアメリカの汽船会社によって実現しました。ついで1869年には、スエズ運河の開通、アメリカ横断鉄道の開通という、世界の交通網を一変させる事件が相次いで起きました。

新たな交通網の形成により、1869年にはロンドン・横浜間の移動日数は、スエズ運河経由の東回りルートで54日、太平洋経由の西回りルートで33日となりました。まさに「八十日間世界一周」が実現することになったのです。ジュール・ベルヌがこの小説を書いたのは1873年です。イギリスの旅行業者のトマス・クックは1872年に西回りでの世界一周ツアーを実施し、1871年、日本の岩倉具視使節団は東回りで欧米回覧の旅(実際は不平等条約)に出ています。

また、海底電信の敷設は、変動するヨーロッパの商況を早くしかも的確に把握することを可能にし、アジア貿易のリスクを大幅に減らしました。幕末期、セイロン以東には電信網は通じておらず、本国政府からの指令や日本からの情報は船で運ばれていました。1869年にスエズ運河が開通するまで、往復には四~五ヶ月かかっていたのです。電信線がデンマーク系の会社によりシベリア経由で長崎に延長敷設されるのは、1871年です。電信線は同年上海・香港へとつながれ、香港で、地中海・インド洋を経由して敷設された英国系会社の海底電線と接続されました。ヨーロッパと横浜や東京が電信でつながるのは73年のことです。

アジアの開港場に各国の植民地銀行が支店を開設して貿易金融を開始したため、資金力の弱い勝者にも貿易取引に参加する機会を拡大しました。不平等条約が締結された1850年代末とは比較にならないほど、経済的結びつきは拡大し、強固なものになっていきました。

そのネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。植民地金融、商業の拠点であり、定期海運網の基地であると同時に、通信・情報(海底電信網、外字新聞、領事館)のセンターでもありました。欧米の東アジア経営を支える貿易・流通機能の集中点としての三港体制は、定期汽船航路が拡充された1860年代に入って形成され、交通革命を迎えた1870年代に急速に整備されていいたのです。

こうして欧米によって形成された東アジアの国際的ネットワークは、欧米との経済関係のみならず、アジア相互の経済関係においても実権を握りました。しかし、1880年代にかけて、アジア相互の条約体制が整備されていくにつれ、アジア相互の直接貿易が発展し、朝貢(ちょうこう)貿易システムにかわる自由貿易状況が形成されると、貿易ネットワークは三港を中心としつつもその他の開港場相互のネットワークの拡充によって急速に多元化していきました。また、80年代における東アジア域内市場の拡大は、欧亜間貿易を独占していた欧米資本の地位を低下させていきました。その結果、アジアの海は、次第にアジア商人の手に握られるようになっていくのです。

上海・香港・横浜の三港は、いずれも在来の都市をなるべく避けて、現地との衝突を起こさない場所を選んで建設されました。たとえば、香港では、中国人には利用価値のない不毛の島と呼ばれた香港島を獲得し、港湾都市を建設して、やがてアジア最大の貿易都市へと発展させました。

日本では当初の開港場は神奈川とされていましたが、幕府はここを避けて当時の小さな漁村である横浜村を開港場に指定しました。ここに外国人の居留地を建設しても問題は少ないと考えたのです。列強は当初は異論を唱えましたが、商人たちは次々と横浜に進出したため、開港場として認め、やがて日本最大の貿易港へと発展したのです。

とはいえ、この三港は、ヨーロッパから東回りでも西回りでも終着点であったため、列強の複雑な利害関係が絡み合っていました。そのことが三港の性格の違いを生じさせたのです。

香港はイギリスのネットワークの拠点

香港は、南京条約でイギリスに割譲されたイギリスの植民地であり、イギリスの世界海運ネットワークの終結点でした。英国(頭脳)、インド(胴体)、シンガポール(肘:ひじ)、香港(手首)、上海・横浜(指)というたとえがありますが、まさに香港は、東アジアへの入口であり、アジア経営の要でした。

香港には、香港総督・全権大使・貿易監督官が設置され、イギリス海軍の極東艦隊が置かれていました。軍事的・外向的基地としての役割が重視されていたため、香港財政の構造は土地、アヘン、酒類ライセンス収入が主であり、支出の第一は人件費でした。

香港は、軍事基地およびイギリス国内法の保護を要する金融の中心でしたが、地代が高い、総督の東征が厳しい、後背地が狭い、貿易の可能性が少ない、などのデメリットから、住みにくい(上海との気候の違い、病死が多い)という欠点がありました。そのため初期には貿易商から嫌われていました。

上海はどちら回りでも終着点

香港(植民地)がアジア経営の政治的、軍事的センターであったのに対して、上海(居留地)は中国側の開港場であり、欧米の共同租界が設置され、租界の経営には列強が共同してあたりました。上海は東回り、西回りのどちらでもアジアの終着点であり、その先には長江や大運河を通じて広大な中国内陸都市が広がっていました。香港が欧亜間貿易の中継点であるのに対して、上海は内陸市場と外国貿易を結合する中国の経済ネットワークの拠点であったのと同時に、アジア域内最大の貿易・海運・布教の拠点でもありました。両者は分業関係が成立していました。

また、私見ですが、上海は長江の支流に位置しています。ロンドンもテームズ川を少し入った港でありよく似ています。

横浜は太平洋ネットワークの拠点

一方横浜は、西回りルートにおける東アジアの入口であり、その意味では、アメリカの東アジア戦略の拠点としての性格を有していました。イギリスにとって、横浜は最終点であり、香港・上海に比べればその地位は相対的に低かったというべきでしょう。アメリカは南北戦争によって一時的に後退したものの、1870年代には再び対日外交を積極化させて、英仏のアジア経営に対抗していきます。

参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
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開国と不平等条約 学校で教えてくれなかった近現代史(11)

ペリー来航

約200年にわたり平和と安定を楽しんでいた鎖国下の日本の門を叩いたのは、アメリカでした。1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入口に近い浦賀(神奈川県)の沖合に姿を現しました。軍艦には計100門近くの大砲が積まれていました。率いるのはアメリカ海軍提督ペリーで、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えていました。4隻の巨大な黒船はいきなり太平洋航路から来航したのではありませんでした。

1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー(Matthew Calbraith Perry)司令長官兼遣日大使を乗せた巡洋艦「ミシシッピー」を旗艦とする東インド艦隊は、一路アジアへと向かいました。ペリーはタカ派のフィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていました。艦隊は大西洋を渡って、インド洋、マラッカ海峡からシンガポール、マカオ、香港を経て、上海に5月4日に到着しました。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止しましたが、航海途上のペリーには届いていなかったのです。

上海で巡洋艦「サスケハナ」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊しました。最初はペリーの謁見を拒否しましたが、王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城しました。しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していました。王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用されました。

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言しましたが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになりました。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになります。

ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航しました。1853年6月3日(7月8日)に江戸湾浦賀に来航しました。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていました。その様子から、日本人は「黒船」と呼びました。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」(両船は蒸気外輪)、「サラトガ」、「プリマス」両船は帆船)の巡洋艦四隻は、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となりましたが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようです。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれています。

嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。

ペリー来航

ペリーが去ったあと、老中阿部正弘は、半年後にやってくるペリーへの解答に頭を悩ませていました。最も単純なやり方は、要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷を行うことでした。しかし、軍事力の乏しい幕府では実際に攘夷を行うことは不可能でした。

阿部正弘は幕府だけで方針を決めるよりも、すべての大名の意見を聞いて国論を統一しようと考えました。外交について外様大名はまったく発言の機会を許されていなかったので、これは画期的なことでした。しかし、大名の意見の中にも名案はありませんでしたが、これによって、国の重要な政策は、幕府の考えだけでなく多くの意見を聞いて合議で決めるべきものだとの考え方が広がり、幕府の権威はかえって低下していきました。

日米和親条約

嘉永7(1854)年1月、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、この条約の締結によって日本は下田箱館(現在の函館)を開港し、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれました。この条約は、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つです。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられます。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙いましたが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まったのです。

安政五カ国条約

日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していましたが、日本側は消極的態度に終始しハリスの強硬な主張で、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲得して世論を納得させた上で通商条約を締結することを企図しますが、勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれました。しかし、ハリスはアロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得しました。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切りました。

安政5年6月19日(1858年)、日本とアメリカの間で日米通商条約が結ばれました。この諸条約は、勅許の無いままに大老の井伊直弼によって調印されたために仮条約となされて、安政の大獄・桜田門外の変(井伊大老暗殺) といった国内政争を引き起こしました。1865年になってようやく勅許されました。

条約の内容

・神奈川(1859年7月4日)・長崎(1859年7月4日)・箱館(函館)(元から)・新潟(1860年1月1日)・兵庫(1863年1月1日)の開港。(下田の閉鎖(1860年1月4日))
・領事裁判権をアメリカに認める。
江戸(1862年1月1日)・大阪(1863年1月1日)の開市
・自由貿易。
・関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率。関税自主権がない状態)。
・内外貨幣の同種同量による通用。
・アメリカへの片務的最恵国待遇
江戸幕府は列強の外交圧力によって順次、日米修好通商条約調印後に同様の条約をイギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と結びました(安政五カ国条約)。

ただし、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜、兵庫ではなく神戸でした。このことは条約を結んだ各国から批判もされましたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化しました。幕府は、神奈川は江戸時代から東海道の宿場町として栄えてきた都市であり、ここを開港場として外国人の活動の場とすることを避けて隣接する横浜村を指定しました。当時の横浜村は小さな漁村であり、ここに外国人の居留地を建設しても問題はないと考えたのです。兵庫ではなく神戸村を指定したのもしかりです。

条約港の設定

安政条約で重要なポイントは、
1.自由貿易が開始されたこと
2.締結された条約がいわゆる不平等条約(領事裁判権の容認、協定関税、片務的最恵国待遇)であったこと

の二点です。

列強という言葉は英語でグレート・パワーズといい、強力な海軍力と豊富な商船隊により、世界のどこにでも自国の力だけで進出する力を持つ国、というかなり具体的な実態を持つ言葉でした。海を制する国家が列強だったのです。当時、列強の名に値する国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアなどです。すなわち安政の五ヶ国条約の締結国です。

イギリスの初代駐日総領事(のち特命全権公使)オールコックは、
「我々の常に増大する欲求や生産能力に応じるために、我々は絶えず次々に新しい市場をさがし求める。そして、この市場は主として極東にあるように思われる。我々の第一歩は、条約によってかれらの提供する市場に近づくことである。(中略)我々は唯一の効果的な手段を携える。それは圧力である。そして、必要な貿易の便宣や一切の権利を与えるという趣旨の文書を得る。残るはわずかにあと一歩である。それは条約を実施し、実行ある条約にしなければならないということだ。」-『大君の都』オールコック

自由貿易と不平等条約

第一に、不平等条約は、異なる文明が共存するためのシステムであった、ということです。

条約とは、そこに国家間の取り決めを結び条約を履行するだけの力を持った主権を有する国家が存在するということが前提になっています。欧米とは異なるものの法制度が存在しているので、欧米人といえどもそれを守らなければならないのです。一般に誤解されている領事裁判権というのは、アジアの法律に欧米人が従わなくても良い、という制度ではありません。

しかし、アジアの国家はヨーロッパ的な意味での近代国家ではなかったため、ヨーロッパでは保障される人権や、財産権などが守れない危険性があります。そこで、自国民の人権や財産権が侵害される恐れがある場合(被害になる場合)には、ヨーロッパの法律で裁判し、法律の体系が異なることから生ずる不利益を回避しようとする制度が、領事裁判制度です。領事裁判権は、異なる法制度の間に生ずる軋轢を改称するための緩衝処置として考え出されたものでした。

第二は、条約が東アジアの植民地化への防波堤になっていた、という点です。

たとえヨーロッパ的な意味での近代国家でなくとも、近代国際法の上では、主権国家として認められた場合、その国を勝手に併合したり植民地とすることは簡単にはできません。植民地化することができるのは、そこに主権を有する国家が存在せず(無主の地)、最初にそこを併合すると主張し(先占の権)、その国がその土地を実質的に支配していると各国が認めた場合である、というルールがありました。条約を締結したということは、そこに主権国家が存在することを列強が認めたということになるので、簡単には植民地化することはできない、ということになります。  十九世紀末において、アジア・アフリカ地域において独立を保ったのは、東南アジアのタイ、アフリカのエチオピア、リベリアなどですが、東アジアは、日本、中国、韓国が独立を保持し、広大な植民地化を阻んでいました。その理由は、自由貿易と不平等条約のシステムにあったということができるでしょう。

しかし、事実の上で植民地化の危機がなかったということと、アジア側が危機を認識していた、という問題は別のことです。アジア側から見ると、条約締結の過程において示された欧米の軍事力に象徴される「西洋の衝撃」は、植民地化の危機の意識として定着し、のちにヨーロッパに対抗していくナショナリズムの原動力になっていきます。

万国公法

19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、国際法学者であるヘンリー・ホイートンの代表的な著作である国際法解説書の翻訳名。東アジア各国に本格的に国際法を紹介した最初の書物で多大な影響を与えました。

前近代の東アジア世界の国際秩序、すなわち総体として華夷秩序に取って代わって、欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する「条約体制」と呼ぶ国際秩序を東アジアにもたらした。しかし欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともあります。

近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としていますが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていました。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としていますが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つに分類されます。

まず欧米を「文明国」、オスマントルコや中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられます。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定されます。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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