二・二六事件から日中戦争へ 学校で教えてくれなかった近現代史(42)

二・二六事件

1936(昭和11)年、桂園時代以来久しぶりに任期満了選挙が翌年2月に20日行われ、民政党205議席、政友会174議席で民政党が第一党に返り咲いたほか、社会大衆党が22議席と躍進しますが、選挙結果に示された民意を反映する方向への変化はまったく起こりませんでした。

1936(昭和11)年、2月26日早朝、陸軍の青年将校の一派が1400余の兵士を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃しました。彼らは宮中をおさえる斉藤実内大臣、財政をおさえる高橋是清大蔵大臣の二人や警護の警官らを殺害し、政党・財閥・重臣らを打倒し、天皇をいただく軍部独裁政権の樹立をならい、東京の永田町周辺を占拠しました(二・二六事件)。

ところが、昭和天皇は重臣を殺害した反乱分子を許さない断固たる決意を示しました。反乱軍は3日で鎮圧され、識者らは死刑に処されました。しかし、こののち、陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し、陸海軍が支持しない内閣の成立は困難となりました。

軍部の存在感と影響力は以前とは比較にならない程増大しました。また「憲政常道論」との完全な決別を余儀なくされた元老西園寺は、後継首班選定の幅を広げ宮中グループの制度化と人的増員を図りました。自らの生物的寿命と政権交代ができなかった以上、それを制度と宮中の人材でまかなうしか方法はなかったのです。それは、元老機能代替機関として内大臣・宮内大臣をトップとする宮中の制度化を進め、それに枢密院議長と総理大臣経験者による重臣グループの形成にありました。

こうして、二・二六事件以降、軍部と宮中が政治的肥大化をとげることになります。それは政治のリーダーシップが確立されなかったことを意味しました。近衛文麿と東条英機の二人を除けば、リーダーシップをとれる首相はいませんでした。新体制と日独伊三国軍事同盟という内外の枠組みの確立を過大とした近衛、日米戦争の遂行のために内外の制度整備を課題とした東条だけが、首相指名のそれなりの必然性を有していたのです。

二・二六事件の後、外務大臣広田弘毅が首相となります。それは本命の近衛が断ったために次善の策としか言いようのない巡り合わせでした。勢力を増大した陸軍は、自らリーダーシップを発揮することなく、拒否権集団として自らの組織利益を擁護するだけでした。

たとえば、特定の国務大臣候補への拒否権の発動、政治性交渉能力のある軍人をすべて排除しました。陸軍は巨大な官僚集団と化し、軍事費だけで四割強を占める有様でした。広田は一年後、ハラキリ問答という議会におけるハプニングで倒れると、元老西園寺は陸軍のコントロールを考慮に入れて満を持して親英米派の本命宇垣一成を後継に選びました。しかし今や拒否と排除を旨とする官僚集団化した陸軍は、現役武官制を盾に、宇垣内閣を実現させませんでした。1937(昭和12)年、林内閣の後、西園寺は意を決して政界のホープ近衛を首班に推しました。もはや近衛以外に首相候補はいなかったのです。五摂家筆頭という名門、45歳という若さ、「英米本意の平和主義を排す」という革新的色彩の強い態度、いずれもが近衛に対する各方面からの強い期待を呼び起こしました。

第一次近衛内閣は、一ヶ月後の盧溝橋事件など発展した日中戦争の処理と運命を共にすることとなります。内閣は不拡大方針でしたが、下克上状況にあって軍のコントロールはもはや利きませんでした。

西安事件

同じころ中国では、蒋介石が率いる国民党政権と、中国共産党とがはげしく対立し、内戦状態にありました(国共内戦)。中国共産党は、抗日で国共両党が抗日で協力することを呼びかけました。しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そののち、日本と戦うという方針を変えませんでした。共産党軍は圧倒的な兵力をもつ国民党軍に追いつめられました。

満州地方の軍閥で、関東軍に追い出された張学良は、蒋介石に共産党の討伐を命じられていましたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していました。張学良は、1936年、蒋介石を西安で監禁し、共産党との内戦をやめ、一致して日本と戦うことを認めさせました(西安事件)。

盧溝橋から日中戦争(支那事変)へ

一方、日本軍は満州国の維持や資源確保のために、隣接する華北地方に親日政権をつくるなどいsて、中国側との緊張が高まっていました。また日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5千人の軍隊を駐屯させていました。1937(昭和12)年7月7日22時40分頃、北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋、永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃する事件が起きました。翌日7月8日3時25分、竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けたと見られています。

この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していきました(盧溝橋事件)。事件そのものは小規模で、現地解決が図られましたが、日本側は大規模な派兵を決定し、国民党政府も直ちに動員令を出しました。同年8月、外国の権益が集中する上海で二人の日本人将兵が射殺される事件が起き、ここから、日中間の衝突が一挙に拡大しました。こうして日中戦争(支那事変)が始まりました。

日中戦争(事変)の用語ついて

「事変」とは本来「警察力でしずめることができない規模の事件、騒ぎ」という意味です。「事変」という呼称が選ばれたのは、「戦争とは国家観の戦闘を意味し、当時、大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず、公式には分裂政府の国民党軍や共産党軍は中華民国を代表するものではなく、国家間では戦争状態にない」という認識から、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間を事変と呼ぶことを双方が望んだからです。宣戦布告を避けたのは、両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためでした。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても、宣戦布告は不利とされたのです。

なお、日本軍が駐兵していた法的根拠は義和団の乱の講和条約である北京議定書に基づいています。
この戦争は日米を中心とした太平洋戦争のように、近代国家対近代国家の戦いではありませんでした。当時の中国大陸には、現在の中華人民共和国ような近代国家ではなく、清国が滅亡した後の主力勢力である国民政府(蒋介石の時代には国民政府も北京と南京に分列状態で北伐が行われていた)のほかに、共産党軍と複数の軍閥が各地を統治していました。いわば、日本の戦国時代のような戦国大名が群雄し覇を争っている様な地帯で、蒋介石の北伐などによって少しづつ統一され、ようやく祖国・愛国心というものが芽生えはじめていた時期でした。

日本はその頃満州国を建国し、建国まもない満州の安定を図ることを目的として北支駐衛権確保のため満洲と中国の国境に軍隊を移駐しました。現代的な感覚では、戦争とは主権国家同士の戦いですが、当時、中国には交渉できる主権国家がなく、「日本=近代国家」と「中国=前近代状態」の戦争と考えられ、日本が西欧的「近代ルール」の戦争をしても、講和など近代ルールに基づく目的を達成することは難しく、「近代」と「前近代」の埋めがたい価値観の違いが、結果的に戦争の泥沼化を招いた一要因であったと考えられています。

日本は日中戦争開始前、開始後、それぞれその地方を治めていた北京政府、南京政府と国際条約を結んで駐屯していましたが、最終的に太平洋戦争の敗戦によってそれらの存在が無効となり、そのような条約があったという事実も消滅してしまいました。

出典: 『日本人の歴史教科書』自由社
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日本の生命線 満州国 学校で教えてくれなかった近現代史(41)

満州国

日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲でした。

この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。

満洲は本来、地名ではなく民族名および王朝名である「満」と「洲」です。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「州」ではありません。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。(現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。)満州は、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域でした。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、「金」や「後金(後の清)」があります。

歴史的にこの地域はモンゴル系・ツングース系の北方諸民族の興亡の場でした。紀元前1世紀から紀元7世紀まで高句麗が存在しました。古代の中国ではこの地域は中華文化圏とは認めず、東夷・北狄の侵入を防ぐために万里の長城を築いて遮断されたことにより「封禁の地」、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれました。

中世に入ると、唐や遼の支配を受けて一時中華圏内に入るものの、12世紀には土着の女真族(満洲族)が金を建国、遼・北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の王朝明に倒され、一時は明の支配下となったが、後に女真族への冊封による間接統治に改められた。満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国本土全体が満洲民族の支配下に入りました。

近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が頻発したため、国境を定める必要が生じました。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも正式に清朝の国土と定められました。その後、清王朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させました。そして1860年には政策を転換して、漢民族の移入を認め、農地開発を進めて、次々と荒野を農地に変えゆき、この民族移動は「闖関東」と呼ばれます。

しかし王朝末期に弱体化した清朝は、ロシアの進出を抑えきれず、1858年の北京条約、1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域は、ロシアに割譲されることとなりました。

満洲国をめぐる国際関係

1929(昭和4)年のアメリカの大恐慌は、日本経済を不況のどん底に陥れました。折り悪く浜口内閣は井上準之助蔵相の下で金輸出解禁政策を行っていました。日本経済は通常以上の打撃を被ったといえます。大恐慌は同時にアメリカの豊かさやデモクラシーの機能を、イメージとして大いに傷つけました。日本でもアングロ・サクソンを主流とする西洋の没落を予感し、かわって共産主義のソ連や、ファッショのイタリアなど新興の全体主義国家が世界を席巻する予想が次第に鮮明になっていきました。

浜口内閣では、一方でロンドン海軍軍縮を進め、他方で宇垣陸相が軍備近代化に着手します。しかも、海軍内では条約派(軍縮派)と艦隊派(強硬派)とに二分されました。浜口内閣の緊縮財政と相容れない陸軍近代化は、陸軍中堅層から批判が日増しに強くなっていきました。

日本国内の問題として、昭和恐慌(1930:昭和5)以来の不景気から抜け出せずにいる状況がありました。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつありましたが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていきました。

ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていました。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができませんでした。

満州事変

日露戦争によって、日本は遼東半島南部の関東州を租借し、ロシアから長春より南の鉄道の営業権を譲り受け、南満州鉄道(満鉄)を設立しました。昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と関東州及び満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していました。

満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設しました。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んでいきました。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を強制移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施し、このことが反日組織の拡大へと繋がっていきました。

満洲は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していましたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいました。これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとしました。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立しました。

満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられました。さらに中国内地では蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れました。

さらに、1917(大正6)年、第一次世界大戦中にレーニンによってロシア革命が起こり、共産党一党独裁体制のソビエト連邦が成立しました。日本はシベリア出兵で満洲の北にあるソ連極東に内政干渉を行うも失敗しました。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになりました。南からは国民党の力も及んできました。こうした中、関東軍の一部将校は満州を軍事占領して問題を解決する計画を練り始めました。

こうした状況の中、1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになりました。

日本の生命線 満州国建国

1931(昭和6)年、関東軍は奉天(現在のシ審陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側の仕業として、満鉄沿線都市を占領しました(柳条湖事件)。政府と軍部中央は不拡大方針を取りましたが、関東軍は全満州の主要部を占領し、政府もこれを追認しました(満州事変)。

翌1932年(昭和7年)2月に、遼寧(当時は奉天省)・吉林・黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立による満州国建国を宣言を発しました。元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が満洲国執政として即位し、1932年3月1日に満洲国の建国が宣言されました(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名されました。

1934(昭和9)年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した。国務総理大臣(首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を迎えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となりました。満洲国は国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言しました。

9月の満州事変の勃発は陸軍中堅層の不満を現実化しました。関東軍にあって石原は全満州を手中に収める計画を構想します。関東軍は満鉄の一部を爆破し攻撃をかけ、全域を半年にして占領するという挙に出ました。陸相には反宇垣系の荒木が就任するなど、政党内閣の内外にも反政党的存在が台頭し始めます。かくてワシントン体制と政党政治は音を立てて崩壊の一途をたどりました。

関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆破するなど満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害や日本人への迫害などが頻発しました。

満州事変を世界はそう見たか

満洲国は、日本の影響下にあったことから、事実上日本の傀儡政権とされている国家である。しかし、現在歴史学上では受け入れられていないが、傀儡国家ではなかったと位置づける説もあります。

1932年5月15日、満州問題を話し合いで解決しようとしていた政友会の犬養毅首相は、海軍青年将校の一団によって暗殺されました(五・一五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ、その後しばらくは、軍人や官僚出身者が首相に任命されるようになりました。

アメリカをはじめ各国は、満州事変をおこした日本を非難しました。国際連盟は満州にイギリスのリットン卿を団長とする調査団を派遣しました。1932年3月から6月まで中国と満洲を調査したリットン調査団は、10月2日に至って、満州に住む日本人の安全と権益がおびやかされていた事実を認めつつも、満洲事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告しました。日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する二者択一的な性格を示した報告書を提出しました。

すでに9月15日に斎藤内閣のもとで政府としても満洲国の独立を承認、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送り、満洲国建国の正当性を訴えましたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後のタイ王国)で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退しました。

アメリカ移民の松岡は瀬戸際外交の強硬論者として振るまい、確かにマスコミ受けはしたものの、やがて近衛新体制下の外相として日本外交を破滅に導いていきます。もっとも満州事変は停戦協定によって一応の着地点に達することができました。

その後、日本と中国とのあいだで停戦協定が結ばれ、満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ、中国人などによる著しい人口流入もありました。しかし満洲国の実験は関東軍が握っており、一方で大小さまざまな抗日運動も耐えることがありませんでした。

引用:『日本人の歴史教科書』
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満洲国?「民族協和」の実像
吉川弘文館
塚瀬 進

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共産主義とファシズムの台頭 学校で教えてくれなかった近現代史(40)

二つの全体主義

ヨーロッパで生まれた二つの政治思想が、1920年代から30年代にかけて台頭し、世界に広まりました。
一つは、マルクスの思想に始まり、ロシア革命を引き起こした共産主義です。もう一つはドイツとイタリアを中心とし、他のヨーロッパ諸国の一部にも波及したファシズムです。
どちらも全体主義の一種で、各地に革命運動を生み出し、独特の政治体制をつくりあげ、20世紀の歴史を大きく動かしました。

共産主義

共産主義の考え方では、労働者階級が団結して革命を起こし、資本家を追放して経済を計画的に運営し、階級による差別のない理想社会を建設することが目標にかかげられました。それを実現するための手段が、共産党にすべての権力を集中する一党独裁体制でした。
ロシア革命以後、共産主義となったソ連では、レーニンの死後、スターリンが権力を握りました。スターリンは、重工業の建設、農業の集団化を進める一方、秘密警察や強制収容所を用いて、膨大な数の人々を処刑しました。ソ連は向かい旧社会の実現という理想を掲げていましたが、現実には強制的労働な膨大な数の犠牲者を生み出しました。

ソ連は世界中に共産主義を広める拠点でありました。そのため、1919年に、コミンテルンとよばれる指導組織がつくられました。世界各国の共産党は、コミンテルンの支部と位置づけられ、モスクワの本部の指示を実行し、自国の政府を打倒しようとしました。

ファシズム

イタリアでは、1922年にムッソリーニのファシスト党による独裁政治が始まり、1935年にエチオピアに侵攻しました。ファシスト党にみられるような独裁的な軍国主義の傾向をファシズムとよび、世界恐慌後、経済的に苦しむ国が広がりました。

ドイツでは、大it時世界大戦後、巨額の賠償金を背負わされ、はげしい物価高にみまわれて、国民の不安が高まりました。やがて、ヒトラーがナチス党を率いて登場し、民族の栄光の回復をスローガンに掲げると、人々は次第に彼に引きつけられていきました。ナチス党は、1929年に始まった世界恐慌による国内の混乱に乗じて、1932年には国会の第一党に躍り出ました。翌年、ヒトラーは政権を握って、たちまち独裁政権をつくりあげました。

ナチスのとっていちばん大切なことは人種でした。ゲルマン民族の純潔を守るという理念のためには手段を選びませんでした。ヒトラーはスターリンと同様に、秘密警察や強制収容所を用いて、大量の殺戮を行いました。二つの全体主義国家は、互いに対立しつつも、相手から支配のやり方を学び合っていました。

内乱が連続する中国の排日運動

日本が元号を「昭和」と改めた頃、中国では、各地に私兵を抱えた軍閥が群雄割拠していました。国民党の蒋介石は、各地の軍閥と戦いながら国に統一をめざしました。1928年、蒋介石は北京をおさえて新政府を樹立しました。中国統一の動きは、日本が権益を持つ満州にも到達しました。日本は居留民保護を名目に3度にわたり山東地方に出兵しました。

中国国内統一が進行する中で、不平等条約によって権益を持つ外国勢力を排撃する動きが高まりました。それは支配に対する中国人の民族的反発でしたが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受け、過激な性格を帯びるようになりました。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になりました。

さらに、西欧列強の進出などで中国国土が荒廃すると、漢民族の民衆の間にも広く民族的自覚が芽生え、19世紀半ばに起こった太平天国の乱では「滅満興漢」(満洲族を滅ぼして漢民族を興す)のスローガンが強く叫ばれた。満州族の風習である辮髪を切って、清朝支配に抵抗を示す者も現れるようになりました。

辛亥革命後、中華民国の共和制が成立し、清国が瓦解すると、中華民国は徐々に排日、好日への時代と入っていきます。そのきっかけは、日本政府の袁世凱政府に対する「二十一箇条要求」でした。さらに1919年の「五・四運動」以後は、いっそう反日、抗日のムードが恒常化していたのです。

中華民国成立以後は、日本だけでなく欧米露も、清国以来の中国での権益を守ろうと必死でした。日清戦争後の三国(独仏露)干渉をはじめ、民国以後の日本は段き瑞、張作霖、王兆銘などを支援したのに対し、米英は袁世凱、呉はいふ、蒋介石を支援しました。されにソ連は、共産党勢力を支持したのでした。

それはあくまでも、既存国益を守ろうとする動きであり、日米英露の近代国家が果たすべき義務でもありました。こうした理由から、日本と列強各国の対立は避けられないものとなっていったのです。

当時のアジアは、開国維新以来、黄人VS白人、黄禍VS白禍の時代背景の下で、アジアの覚醒を迫られていました。それにいち早く挑んだのが日本でした。日支提携や、共同防共に至るまでの国家防衛としての戦略上、それは必要なことでした。

しかし、東アジアで問題だったのは辛亥革命後の新生中国です。中華帝国崩壊後、中国は諸党派、諸勢力の対立からはじまり、延々と軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦が続き、戦乱のカオス状態が続きました。政府はいくつも乱立し、多政府戦乱国家となっていったのです。袁世凱から蒋介石の時代に至るまで、大小無数の武装勢力が対抗し、中央政府からの討滅を逃れるためには、共通の敵を創出することが必要だったのです。

共産党軍は、蒋介石軍の五回にわたる討滅の危機のなかで追いつめられ、起死回生の窮余の一策として「抗日」策が取られました。つまり、日中戦争の主因は、中国内戦のなかでの反抗武装勢力が、起死回生のために起こした排日運動だったのです。とはいえ、もちろん「排日」「抗日」の時代といえども、中華民国という時代は決して反日一色に塗りつぶされていたわけではありません。少なくとも満州事変から終戦に至るまでは、平和勢力に代表される各地の親日政権の存在がありました。実際は反将、反共の抗争を続けていた内戦の時代です。

協調外交の行き詰まり

政党内閣のもとで2期にわたって外務大臣を務めた幣原喜重郎は、英米と強調して条約を守りつつ、中国の関税自主権回復の要求を支持するなど、中国の民族感情にも同情をもって対抗する協調外交を推進しました。

しかし、中国の排日運動は収まりませんでいた。日本では軍部を中心に中国に対する内政干渉政策で対処するのはむずかしいと考える人もあらわれ、幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強くなりました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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日米関係とワシントン会議 学校で教えてくれなかった近現代史(39)

日米関係の推移

日露戦争後、日本は東アジアにおいて押しも押されもしない大国になりました。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となりました。
他方、日米間では、日露戦争直後から人種差別問題がおこっていました。アメリカの西部諸州では、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動が起こりました。アメリカ政府の指導者は建国理念のたてまえから日本人移民の立場を弁護しましたが、各州の自治重視もまた重要な原則であるため、こうした西部諸州の行動を抑えることはできませんでした。
第一次世界大戦のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込む決議をしました。この提案は世界の有色人種から注目と期待を集めました。しかし、その目的の中には、移民への差別を撤廃することが含まれていたので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対しました。
投票の結果、11対5で日本の決議案への賛成が多数を占めましたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンは、重要案件は全会一致を要するとして、決議の不採択を宣言しました。世界の有色人種が期待した決議は国際連盟ではついに採択されませんでした。このことにも多くの日本人は落胆しました。
アメリカでは、こののちも日本人の移民排斥の動きが続き、日本人はこれを人種差別と受け取りました。

ワシントン会議

1921(大正10)年から翌年に欠けて、海軍軍縮と中国問題を主要な課題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本を含む9か国が集まりました。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域の安定した秩序をつくり出すことでした。
米英日の海軍主力艦の保有率は、5:5:3とすることに決められ、また、中国の領土保全、門戸開放が9か国条約として文書化されました。同時に20年間続いた日英同盟が解消されました。日英同盟の廃棄はイギリスも望んでいなかったのに、アメリカの強い意向で決まったもので、結果的に日本の未来に暗い陰を投げかけることとなりました。
主力艦の相互削減は、第一次世界大戦後の軍縮の流れに沿うもので、軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利だったといえます。

関東大震災

1923(大正12)年9月11日、関東地方で大地震が起きました。東京や横浜などで大きな火災が発生して、死者・行方不明者は10万人を超えました(関東大震災)。日本の経済は大きな打撃を受けましたが、地震の多い日本での近代都市づくりに得た教訓は多く、耐震設計の基準づくりや都市防災への研究がはじまりました。

新しい学問と文学・芸術

明治末から大正時代にかけて、日本が欧米と対等の国になるという目標が達成されると、新しい知識に敏感な青年たちの関心は、国家よりも個人の内面に向けられるようになりました。それにともない、個性の尊重や自己実現が説かれ、西洋文学・芸術・哲学などのふれて教養を深めることが重視されるようになりました。
禅の体験の上に西洋哲学を取り入れ、西田哲学とよばれる独特の哲学を生み出した西田幾太郎や、日本の庶民の生活風俗を研究する民俗学を始めた柳田国男などが出て、学問に新しい発展をもたらしました。
文学では、人道主義を掲げた志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎など白樺派の作家たちや、耽美的な作品で知られる谷崎潤一郎、理知的な作風で知られる芥川龍之介などが登場して、新しい時代の精神を表現しました。
大正時代後半からは、マルクス主義の見地から、労働者の生活や革命運動を描いたプロレタリア文学もあらわれました。また新劇とよばれる西洋の舞台を模範にした演劇もさかんになりました。絵画では日本の風景を雄大に描く横山大観や女流画家で美人画を描き続けた上村松園などの活躍が大衆の注目を集めました。

大正文化と都市生活の形成

大正時代半ばから、民衆の知識水準が向上するに連れ、新聞の他に『中央公論』や『文藝春秋』などの総合雑誌が読まれるようになり、文学全集なども大量出版されました。ラジオ放送も開始され、文化の大衆化が進行しました。
近代産業の発展に伴う都市生活者の増大につれて、都市の中心と郊外を結ぶ私鉄が開通しました。また、乗合自動車(バス)の路線拡大、デパートの開業、女性の服装の洋装化、カレーライス、コロッケ、トンカツといった洋食の普及など、今日に至る都市生活の原型ができあがりました。バスガールや電話交換手など、女性の新しい職場への進出も始まりました。第一次世界大戦後には、アメリカの文化が流入し、とくにアメリカ映画は人気を集めました。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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第一次世界大戦と日本の参戦 学校で教えてくれなかった近現代史(37)

第一次世界大戦のはじまり

日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、再びヨーロッパへの進出を図りました。そのため、ヨーロッパの情勢は緊迫しました。
ドイツはすでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいましたが、急速に海軍力を拡大して、海外進出に努めました。これを恐れたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907年、三国協商が成立してドイツを包囲しました。ヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていきました。
このころ、バルカン半島では、民族の独立をめざす運動が高まりました。この地域に利害関係をもつ列強は、独立運動を利用して勢力を伸ばそうとしました。そのためバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ、一触即発の緊張状態が続いていました。
1914年、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアのサラエボを訪問中に、ロシアに心を寄せるセルビアの一青年に暗殺された事件(サラエボ事件)をきっかけに、三国協商と三国同盟があいついで参戦し、第一次世界大戦が始まりました。

日本の参戦

日英同盟を結んでいた日本は、三国協商の側について参戦し、ドイツに宣戦布告しました。ドイツの租借地であった山東半島の青島や太平洋上の赤道以北の島々を占領しました。また、ドイツの潜水艦が敵国の協商側の商船を警告せず無制限に攻撃する作戦を開始すると、日本は駆逐艦の艦隊を地中海に派遣して、護衛に当たりました。
中国は、青島を占領した日本軍の撤退を求めました。日本は逆に中国に対して、1915(大正4)年、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に譲ることなどを要求しました。中国側は、日本人顧問の受け入れなどの希望条項の内容を、列強の介入を期待して公表しました(二十一か条要求)。英米両国は日本に抗議しましたが、日本は希望条項を除く要求を強硬な姿勢で中国に受け入れさせたので、中国国内では反日世論が高まりました。

ロシア革命と大戦の終結

長引く戦争のさなか、1917年、ロシア革命が起きました。食糧難にあえぐ都市の市民の暴動に兵士が合流し、ロマノフ王朝が倒れました。マルクス主義の理論に基づき、国外に亡命して革命の機会を待っていたレーニンは、こうした情勢を直ちに利用しました。武装蜂起したレーニン一派は、労働者と兵士を中心に組織された代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくりました。その後他の党派を武力で排除し、みずから率いる共産党の一党独裁体制を築きました。
ソビエト政府はドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭しました。皇帝一族をはじめ、共産党が的とみなす貴族、地主、資本家、聖職者、知識人ら、数知れないほど処刑されました。

シベリア出兵

長年、南下するロシアの脅威にさらされていた日本は、共産主義の革命勢力に対しても、アメリカ以上に強い警戒心を抱きました。同様にヨーロッパ諸国も、軍を送って革命阻止の干渉戦争を行いました。
1918(大正7)年、日本はロシア領内で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、シベリアへの影響力拡大を目的に、アメリカなどと共にシベリアへ共同出兵しました。やがてアメリカは撤兵しましたが、日本は1922年まで共産軍と戦い、兵を引きませんでした。

総力戦

第一次世界大戦は当初、人々は短期間で簡単に終わるものと思っていました。しかしロシア革命をはさんで戦争は4年ものあいだ続きました。そしてこの戦争は、過去の戦争と全く違った性格を持つようになりました。
第一次世界大戦では各国は持てる力のすべてを出し尽くし、国民生活はすべて戦争にまきこまれました。このような戦争を総力戦といいます。科学兵器の発達にともない、飛行機、飛行船、戦車、潜水艦、さらには毒ガスなどの新兵器が用いられ、参戦国の国民は空襲にさらされました。国民は軍需工場に動員され、生活必需品にも不足する状況があらわれました。

大戦の終結

第一次世界大戦は1918年、ドイツなど三国同盟の敗北に終わりました。最大の戦場となったヨーロッパは、人類史上初めて総力戦の悲惨な現実を経験しました。多数の国民が戦争に巻き込まれ、たがいに民間人まで殺し合ったことは、のちにさまざまな影響を及ぼしました。
その一方で、参戦した日本は、結果として少ない犠牲で戦勝国となることに成功しました。アメリカにとっても、この戦争は国力すべてを傾けた戦争ではありませんでした。第一次世界大戦を境に、太平洋をはさむ日本とアメリカの二つの国が、国際社会で発言力を高めるようになりました。

ベルサイユ条約と大戦後の世界

1919年、パリで講和会議が開かれ、日本は五大国(米・英・仏・日・伊)の一つとして出席しました。講和会議の結果、ベルサイユ条約が結ばれました。これによって、ドイツは戦争の責任を問われ、すべての植民地と領土の一部を失い、苛酷な賠償金の返済にあえぐようになりました。これはのちに、第二次世界大戦の原因の一つとなりました。
アメリカのウィルソン大統領は、講和のための14か条の原則を提唱し、パリ講和会議で、国家の利害を超えた世界平和と国際協調のための機関として、国際連盟の設立を提案しました。フランスなど他の戦勝国の中には政治の現実からかけ離れた空論であるとして反対する国がありましたが、戦勝国はアメリカの参戦で勝つことができたので、最後にはアメリカの提案を受け入れ、1920年、国際連盟が発足しました。ところが、提案国であるアメリカが議会の反対にあって参加できず、国際連盟は限られた力しか発揮できませんでした。

アジアの独立運動

大戦後、民族自決の気運の高まりの中で、アジアでも民族独立運動が起こりました。インドでは、非暴力主義の指導者ガンジーやネルーが、約束されていたインドの自治をイギリスに要求しました。イギリスはこれを弾圧しましたが、民族独立への動きはかえって大規模になりました。
日本の支配下の朝鮮では、1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった人々がソウルで独立を宣言し、「独立万歳」を叫んでデモ行進を行いました。この動きはたちまち朝鮮全土に広まりました(三・一運動)。朝鮮総督府は武力でこれを鎮圧しましたが、以後は統治の方針を文化統治政策に変更し、のちに日本との一体化を進めていくこととなりました。
中国では、パリ講和会議で日本が中国の旧ドイツ権益を引き継ぐことになると、1919年5月4日、北京の学生デモをきっかけに抗議運動が起こりました(五・四運動)。この運動はその後、中国の各地に広がっていきました。

日本の大戦景気

第一次世界大戦中、日本では軍需品の輸出が急増しました。アジア地域への輸出も大きな伸びをみせ、重工業も急速に発展して、日本は大戦景気とよばれる空前の好景気をむかえました。三井・三菱・住友などの財閥は、金融や貿易、造船といった多角経営で急速に力をのばしました。
このようにして日本は、第一次世界大戦によって日清・日露に続く第三の成功を収めました。その一方で大きな犠牲を払わずに成果を得たので、これからの戦争が総力戦になると言う世界の動向に充分な注意を向けることができませんでした。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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列強の仲間入りをした日本 学校で教えてくれなかった近現代史(35) 

日本国家の新しい課題

日清・日露の二つの戦争に勝利したことによって、日本は、欧米列強の圧力のもとで独立を維持するという幕末以来の目標を達成しました。日本の国際的地位は向上し、世界列強の仲間入りを果たしました。
しかし、国際的地位の向上は、日本にとって思い試練を課されることでもありました。日本は唯一の有色人種の大国として、欧米列強からは警戒のまなざしで見られるようになりました。
また、国内では、ポーツマス約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こしました。

日本と植民地

日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もあります。
しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的です
台湾(下関条約による割譲)
南樺太(ポーツマス条約による割譲)
関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではありませんでしたが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていました。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入されました。

内地(ないち)と外地(がいち)

日本の法令で植民地という用語を使用したものはありませんが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前、日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかであるとされてれいます。
法令による規定を見ても、
・内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、
・外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと、
・樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、
内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかを議論の対象にすることはほとんどありません。
また、日本の統治が及んでいた地域ではありませんが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡(かいらい)性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もあります(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。
しかし、領有に至る経緯に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もあります。
内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などといました。外地には朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任されました。これら外地官庁の要職は内地人で占められていました。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しませんでしました。

内地

日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下のとおり。
本州・九州・四国:日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。
北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約(安政元年12月21日締結)により択捉島と得撫島の間に国境を確定。
沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。
千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。
南樺太:南樺太についても、台湾や朝鮮と同様に日本の領土であったため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られました。しかし、南樺太に設置された樺太庁の長たる樺太庁長官には樺太庁令という形式の命令を発する権限はあったものの、台湾総督や朝鮮総督とは異なり、立法権を一般的に委任する方策は採られなかった。これは、台湾や朝鮮とは異なり南樺太は内地からの移住者が多かったため、内地からの移住者については内地の法令をそのまま適用するのが相当であったためである。
1943年(昭和18年)4月1日、「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)の廃止にともない、名実ともに樺太が内地に編入されました。
小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。
このほか以下の島々を内地に編入しました。
北大東島・南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。
硫黄島・北硫黄島・南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。
南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。
魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。
沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。
竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。
中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。
沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。

外地

外地(がいち)とは、第二次世界大戦前の日本(大日本帝国)において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。植民地、殖民地、属地ともいった。
日本が外地を最初に取得したのは、下関条約の締結に伴い台湾の割譲を受けたことが最初である。その際、既に内地に施行されていた大日本帝国憲法(以下、単に「憲法」という)の効力がその後に統治権を取得した地域に対しても及ぶかという形式的な問題(具体的には、外地の立法につき憲法5条の規定により帝国議会の協賛が必要か否かという問題)、内地人とは異なる慣習を持つ者が住む地域に対して内地に施行されていた法令をそのまま外地にも施行するのが相当かという実質的な問題が生じた。
当時の政府は、外国人顧問から聴いた母国の植民地法制を参考にしつつ、日本の領土たる外地(南樺太、台湾、朝鮮)には憲法の効力が及ぶのに対し、日本の領土ではない外地(関東州、南洋群島)には憲法の効力が及ばないという考え方を前提にして、統治方針を決めた。
外地に施行すべき法令の形式については、日本の領土であったか否かという点、領土であった地域については内地人の割合が多かったか否かという点により、統治方針が区別される。
1 台湾
2 朝鮮
3 関東州
4 南洋群島

租借地・委任統治区域

租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借しました。
委任統治区域は南洋群島で、西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領でしたが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域としました。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行いました。南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) は、南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなります。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得しました。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有していました。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃しました(昭和12年条約第15号)。
租界(そかい)は行政自治権や治外法権をもつ清国(のちに中華民国)内の外国人居留地で、阿片戦争後の不平等条約により中国大陸各地の条約港に設けられました。日本は専管租界を1897年杭州と蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設しました。また、上海の共同租界に参加していました。北京には正式な租界ではありませんが、事実上の共同租界として機能した公使館区域がありました。このほか沙市、福州、厦門に租界を設置する権限がありましたが設置しませんでしました。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有しました。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃しました(昭和18年条約第1号、同第2号)。
[2]近代国家体制の確立していなかった朝鮮では、土地の所有制度が不明瞭であり両班の暴力による土地収奪などは日常茶飯事であり、農民の間でも土地の所有をめぐる抗争が絶えなかった。 また政府が国地勢を正確に把握していなかったために国土計画も困難であった。

出典: 『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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世界を変えた日露戦争 学校で教えてくれなかった近現代史(33)

日英同盟

三国干渉のあと、日本は同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られ、政府の中でも意見が対立しました。
論争の焦点は、ロシアについての見方でした。ロシアは、1900(明治33)年に中国で起こった義和団事件を口実に、満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み、そのまま居座っていました。ロシアが満州に留まって朝鮮半島に出てこないように、ロシアとの話し合いがつくかが最大の争点でした。

論争に決着をつけたのは、外交官の小村寿太郎が提出した意見書でした。それは、日露と日英とのどちらの同盟が日本の国益になるかを論じ、日英同盟をとるべきであると主張したものでした。小村意見書は、政府の方針として採択され、それに基づいて1902(明治35)年、日英同盟が締結されました。日英同盟はこののち20年間、日本の安全と繁栄に大きく役立ちました。

経緯

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図りました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

各国の思惑と戦費調達

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。

日露開戦の火ぶた

日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていたロシアは、満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設しました。このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力が太刀打ちできないほどに増強されるのは明らかでした。政府は手遅れになることを恐れて、ロシアとの戦争を始める決意を固めました。
1904(明治37)2月、日本はロシアに国交断絶を通告し、日露戦争の火ぶたが切られました。戦場になったのは朝鮮と満州でした。1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。1905年、日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利しました。

日本海海戦

戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

ロシアは劣勢をはね返すため、本国からバルチック艦隊を派遣しました。艦隊はインド洋を横切り、東シナ海を経て、1905年5月、日本海にやってきました。これを迎え撃った日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官率いる、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめました(日本海海戦)。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

世界を変えた日本の勝利

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。
日本は19か月の戦争期間中に、国家予算の8年分に当たる戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは外国からの借金と戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。
さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。

長期戦になれば、ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白でした。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、日本に最も有利な時期を選んで、両国の講和を仲介しました。1905年9月5日に終戦交渉に臨み、締結されたポーツマス条約により講和しました。
この条約で日本は、ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。大韓帝国(朝鮮)の日本による支配権をロシアに認めさせ、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。
しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。
当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ポーツマス条約

ポーツマス条約は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。

当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。

ポーツマス条約概要

日本の朝鮮に於ける優越権を認める
日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満洲から撤退する
ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが論争

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。
海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。
1. 油入れ送気
2. 3分後生牛肉入れ
3. 7分後砂糖入れ
4. 10分後醤油入れ
5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
6. 31分後玉葱入れ
7. 34分後終了
発祥の地論争
京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
根拠は、
舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。 としています。
なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。

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日本統治時代の台湾 学校で教えてくれなかった近現代史(32)

日本の台湾統治


画像: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1895年(明治28年)4月17日、日清戦争の敗戦に伴い下関条約の締結によって清朝が台湾を日本に割譲しました。統治初期は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができます。

台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程でした(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝鮮総督より地位が低いものでした。初代総督は樺山資紀で、当初は陸海軍の将官が総督を務めました。児玉源太郎総督の下で1898年に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進し、一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招きました。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場していました。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当しました。

日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していました。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義でした。 1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚として活躍していた後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていきました。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義が採用されることとなりました。当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は、生物学の観点から植民地の同化は困難であり、英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものでした。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針でした。

日本統治初期、台湾の財政は日本本国からの補助に依拠しており、当時の日本政府において大きな財政的負担となっていました。第4代台湾総督の児玉源太郎は、民政長官の後藤新平と共に『財政20年計画』を策定、20年以内に補助金を減額し台湾の財政独立を図りました。1904年に日露戦争が勃発すると、その戦費捻出のために日本の国庫が枯渇、台湾は計画を前倒して財政独立を実現する必要性に迫られました。

具体的な施策として総督府は地籍整理、公債発行、統一貨幣と度量衡の制定以外に、多くの産業インフラの整備を行うと共に、専売制度と地方税制の改革による財政の建て直しを図った。専売制度の対象となったのは阿片、タバコ(参照台湾総督府専売局松山煙草工場)、樟脳、アルコール、塩及び度量衡であり、専売政策は総督府の歳入の増大以外に、これらの産業の過当競争を防ぎ、また対象品目の輸入規制を行うことで台湾内部での自給自足を実現しました。

また特筆すべき政策としては阿片対策がある。流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功しました。そのため、現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を過大評価することは、植民地統治の正当化と反発する意見、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため、工業発展に遅れたと主張する意見、日本商人の搾取によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)も提示されています。

台湾で抗日武力闘争が発生していた時期、総督府は武力による鎮圧以外にその統治体制を確立し、教育の普及による撫民政策をあわせて実施しました。台湾人を学校教育を通じて日本に同化させようとしました。初等中等教育機関は当初、台湾人と日本人を対象としたものが別個に存在し、試験制度でも日本人が有利な制度でたが、統治が進むにつれ次第にその差異は縮小していきました。台湾に教育制度を普及させた日本の政策は現在の台湾の教育水準の高さに一定の影響を与えています。

1895年、初代学務部長に伊沢修二を任命し日本内地でも実現していなかった義務教育の採用しました。台湾人の就学率は当初緩慢な増加でしたが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、1944年の台湾では国民学校が944校設置され、就学児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現しました。

1928年(昭和3年)、外地では1924年(大正13年)の京城帝国大学に次いで、台北帝国大学を創立しました。

台湾統治時代のインフラ整備

1908年には台湾南北を縦貫する縦貫線を完成させるなど、それまで数日を必要とした移動を1日で移動できる空間革命となりました。その後も鉄道整備を推進し淡水線、宜蘭線、屏東線、東港線などを建設すると共に、私鉄路線であった台東南線(現台東線の一部)、平渓線を買収しました。このほか林田山、八仙山、太平山、阿里山などの森林鉄道の整備も進められていきました。戦後、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産となり、現在、台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下しましたが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用されています。

日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競争が生じ多くの軽便鉄道がバス輸送に代替されました。このバス輸送に対し鉄道部は鉄道との平行バス路線を買収するなど対策を行っていました。また市内交通では「乗合自動車」が設置され、鉄道駅を中心に放射状のバス路線が整備されていました。
港湾では、台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地として基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用が可能な近代的港湾施設が整備されました。そのほか台湾東部や離島との海上交通の整備の一環として花蓮港や馬公港などもこの時代に整備されています。

水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現しています。台湾南部では大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、総督府技師の八田与一は10年の歳月を費やし、当時東南アジアで最大となる烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳建設に着工、1934年に主要部分が完成すると嘉南平原への水利実現に伴い、台湾耕地面積の14%にも及ぶ広大な装置を創出しました。台湾での工業化を推進するために整備が進められた本格的な水力発電所が次々と建設されました。
日本が台湾に進駐した初期において、日本軍は伝染病などにより多くの戦病死者を出した経験から総督府が台湾の公共衛生改善を重要政策として位置づけました。当初総督府は各地に衛生所を設置し、日本から招聘した医師による伝染病の発生を抑止する政策を採用しました。大規模病院こそ建設されなかったが、衛生所を中心とする医療体制によりマラリア、結核、鼠径腺ペストを減少させ、この医療体系は1980年代まで継承されていました。
設備方面ではイギリス人ウィリアム・バードンにより台湾の上下水道が設計されたほか、道路改善、秋の強制清掃、家屋の換気奨励、伝染病患者の強制隔離、予防注射の実施など公共衛生改善のための政策が数多く採用されました。
また学校教育や警察機構を通じた台湾人の衛生概念改善行動もあり、一般市民の衛生概念も着実に改善を見ることができ、また台北帝国大学内に熱帯医学研究所を設置し、医療従事者の育成と台湾の衛生改善のための研究が行われていました。

内地延長主義時期(1915年-1937年)

日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年の盧溝橋事件であり、国際情勢の変化、特に第一次世界大戦の結果、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した時期でした。民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、また、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになりました。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化していきました。

1910年代、藩閥政治に反対し政党政治を実現しようという大正デモクラシーのなか、1919年に台湾総督に就任した田健治郎は、初めての文官総統であり、また田は赴任する前に当時首相であった原敬と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表されました。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、皇室に忠誠な国民とするための教化と国家国民としての観念を涵養するものと述べています。
その後20年にわたり、台湾総督は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現しました。また後藤新平の消極的な政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い、同化政策は具体的に推進されていきました。

皇民化運動(1937年-1945年)

1937年に中国で盧溝橋事件が発生すると、日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなりました。

台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになります。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動でした。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情がありました。

国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励されました。日本語家庭とは家庭においても日本語が使われるというもので、国語運動の最終目標でもありました。その過程で台湾語・客家語・原住民語の使用は抑圧・禁止されました。改姓名は強制されませんでしが、日本式姓名を持つことは社会的上昇に有利なこともあり、多くの台湾人が改姓名を行いました。

日本は中国と戦争を行っていたことから、台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったが、兵力不足からやむをえず志願兵制、そして1945年からは徴兵制が施行されました。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡しました。

また台湾の宗教や風俗は日本風なものに「改良」されました。寺廟は取り壊されたり、神社に改築されました(寺廟整理)。中華風の結婚や葬式は日本風な神前結婚や寺葬に改められました。
しかし、これらの運動は短期的であったこともあり、台湾社会に根付くことはありませんでしたが、台湾が香港やシンガポールなど、日本の支配を受けたが皇民化運動が徹底されなかった他の華人社会に比べて、日本的であるという理由の一つの説明にはなるでしょう。

敗戦と中華民国の接収

1945年8月15日、日本は終戦の詔書を発表し太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国による接収が行われることとなりました。同年8月29日、国民政府主席の蒋介石は、陳儀を台湾省行政長官に任命、9月1日には重慶にて台湾行政長官公署及び台湾警備総部が設置され、陳儀は台湾警備司令を兼任することとなりました。そして10月5日、台湾省行政長官公署前進指揮所が台北に設置されると、接收要員は10月5日から10月24日にかけて上海、重慶から台湾に移動しました。

1945年10月25日、中国戦区台湾省の降伏式典が午前10時に台北公会堂で行われ、日本側は台湾総督安藤利吉が、中華民国側は陳儀がそれぞれ全権として出席し降伏文書に署名され、台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手しました。公署は旧台北市役所(現在の行政院)に設置され、国民政府代表の陳儀、葛敬恩、柯遠芬、黄朝琴、游弥堅、宋斐如、李万居の他、台湾住民代表として林献堂、陳炘、林茂生、日本側代表として安藤利吉及び諫山春樹が参加し、ここに日本による台湾統治は終焉を迎えました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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日清戦争と三国干渉 学校で教えてくれなかった近現代史(31)

清国の半植民地化と滅亡

19世紀なかばから東アジア世界に西欧列強による脅威が迫ってきました。  アヘン戦争、清仏戦争(1884年 – 1885年)、日清戦争(1894年 – 1895年)、義和団の乱(19世紀末 – 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになります。イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾(こうしゅうわん)租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲しました。上海に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていきます。

19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳(かげ)った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。

19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。
伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。琉球につづいて、1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによってもう一つの朝貢国越南(ベトナム)がフランスの支配下に入りました。アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。

ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

朝鮮をめぐる日清の抗争

日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度改革を援助しました。ところが1882(明治15)年、改革に取り残され、冷遇された事に不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が起きました(壬午事変)。清はこれに数千の軍隊を派遣し、ただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めました。

1884(明治17)年には、日本の明治維新に倣って近代化を進めようとした金玉均らのクーデターが起きましたが、このときも清の軍隊がこれを鎮圧しました(甲申事変)。

朝鮮における清朝との勢力争いに二度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、ほぼ対等な軍事力を蓄えるようになりました。
大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われました。

日清修好条規

李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で「日清修好条規」が結ばれました。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。平等条約でしたが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていました。

その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示しました。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。

さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至りました。

江華島事件

1875年(明治8年)9月20日、日本側が測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして江華島付近でで砲台から砲撃されたと記されていました。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられています。

朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊と海兵隊を上陸させて第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害しています。一方日本側の死傷者は雲揚の2名でした。

この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。

江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきました。

日清の対立

1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになりました。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗しました。

1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することが定められました。
1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなりました。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化しました。
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化しました。

日清戦争海戦

日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まりました。なお、宣戦布告は8月1日です。なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していました。
日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものでした。
「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結し、平和を回復させたいと思う。」

7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破りました。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧しました。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始しました。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領しました。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かいました。

日清戦争

日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と、1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国では甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)。

日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。

大日本帝国と清国戦争で、支持勢力として、日本側は李氏朝鮮 独立党(開化派)、清国側は李氏朝鮮 事大党(保守派)。
1894年(明治27年)、朝鮮南部に甲午農民戦争とよばれる暴動が起きました。農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどでした。わずかな兵力しか持たない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まりました。

戦場は朝鮮の他、満州南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利しました。日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の規律・訓練に勝っていた事があげられますが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがあります。

下関条約と三国干渉

1895(明治28)年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれました。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意しました。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行いました。
条約の主な内容は次の通り
1. 清は朝鮮が独立国であることを認める。
2. 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
3. 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本に譲り渡しました。
このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子があります。
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
また同年には、日英通商航海条約を結び、イギリスに日本国内での治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせます。

日清戦争の影響

日清戦争は、欧米流の近代国家として出発した日本と伝統的な中華秩序との対決でした。結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなりました。他方、「眠れる獅子」とよばれてその底力を恐れられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊しました。

「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点としました。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しました。

これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって、清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃されました。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進みました。

その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えました。

翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡しました。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速され、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えることになりました(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立)。

しかし、ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求しました(三国干渉)。独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむを得ず代償として3000万両と引き替えに、返還させられました。

結果、国民に屈辱感を与え、中国の故事「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになりました。

以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と、次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用しました。

加えて、1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、戦果は経済的にも影響を与えました。
台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北しました。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始しました。

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