(4) 文明の発生

約1万年前に氷河時代が終わると、地球は気候の変化によって植物の分布が変わり、大型動物も減っていきました。こうした環境変化の中で、人々は、植物を栽培したり、動物を育てるようになり、農耕・牧畜が始まりました。また、表面をみがいて性能を高めた磨製石器を用いるようになり、火を使って土器をつくるようになりました(新石器時代)。

文明の発生 道具

約5000年から3500年前、エジプト、メソポタミア、インド、中国の各地域に文明が生まれました。土器や磨製石器だけでなく、青銅器や、少し遅れて鉄器も用いられるようになりました。小さな集落に分かれていたクニが数万人の規模で集まり住む都市国家が生まれました。多数の人々を動かす灌漑工事には、工事を指揮する指導者が必要でした。彼らは、戦い、祭り(祀り)なども指揮しました。彼らは広い地域を統合するにつれて、やがて王となっていきました。王のもと、税が納められ、また記録のために文字が発明されて、書記が雇われました。こうして国家ととよばれる仕組みが整えられていきました。
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができます。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作りました。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削されました。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使いましたが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられました。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられました。

青銅器は大陸から北部九州を中心とする地域では銅矛(どうほこ)銅剣(どうけん)銅戈(どうか)などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸(どうたく)がよく知られています。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに日本国内で生産も開始されました。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられていますが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわかっていません。

出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから、実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高いです。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかります。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できます。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられますが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌(ぜつ)を内部につるして鳴らすものとして用いられましたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられています。また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになりましたが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられました。このように、大型の青銅器は出現当初を除いてほとんどが祭祀に用いられるものでした。このほかに鋤先(くわさき)などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられますが、大型の青銅器に比べて非常に少量です。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)を除き、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産されました。青銅器の鋳型は、列島での初期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られます。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになります。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられています。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられていますが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多いです。
コメの他にもう一つ、弥生時代と縄文時代を大きく分けるものとしては鉄があります。鉄もコメと同じように大陸からやってきました。かつては水田耕作と鉄は同時に到来したと考えられてきました。水田を開発するためには鉄が必須とであると思われていたからです。豊になった富を狙って鉄は武器として使われ、弥生時代は縄文時代と異なり、最初から戦争の時代だったというのも半ば常識でした。ところが最近の研究では、鉄の方が数百年も遅れてやって来たことが判明しました。弥生時代前半には小競り合いはあったとしても、殺戮を伴う戦争はあまりなかったようです。

製鉄の技術を知らない弥生人は、少ない鉄器をリサイクルして大切に使う一方で、縄文以来の石器も当たり前の道具として利用し続けていました。鉄器がなかなか広がらなかった理由としては、少数のグループが技術と物流を抱え込んでいたことが大きいのです。鉄器の原材料は半島から持ち込まれていたのですが、それを運んだのは実は半島の人ではなく日本に住む弥生人でした。韓国釜山市で見つかった鍛冶炉のまわりから出る土器の94%が、なんと九州北部の人々が使っていたものと同じだったのです。九州北部の弥生人は、原材料の現地生産・輸入・日本での加工、そして流通まで担っていたことになります。

こうした特権を持つ人々は力を集約していきました。弥生時代の前期が終わるとされる紀元前4世紀ごろに、鉄や青銅器の武器などを使った戦闘が九州北部を中心に繰り広げられるようになりました。そして、紀元前50年頃までに日本で初めての王が、奴国(ナコク)と伊都国(イトコク)(いずれも福岡県)に登場したと考えられます。階級社会の誕生はコメではなく鉄によって生まれたといえます。

鉄はもともと武器として使われたわけではありません。最初は斧や鍬であり、狩猟に使う矢じりとして使われました。おそらくこの狩りに使う弓矢が、まず人を殺す武器に転用されていったのでしょう。戦国時代に伝来した鉄砲も、最初は合戦用ではなく、狩のための道具でした。計画的に稲作を行っていた弥生人は、隣りに豊かな人がいるからといって、本能としてすぐに襲いかかるような野蛮な性質とは思えません。特に日本では、縄文と弥生がゆっくりと統合していったように、「和」の価値観の強い世界でした。

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
「日本人の歴史教科書」自由社
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全国的にも式内神社が多い但馬

但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。

アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。

但馬一宮は粟鹿神社から出石神社に変わっています。同じように出雲一宮 素餓社から出雲大社へ、丹後一宮も真名井神社から元伊勢籠神社へ、角鹿社から気比神宮へと、もともとの神様から天皇系の神様に替えられているようです。

西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。

今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

但馬(たじま)国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が多く存在していますが、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。

但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。
新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國286座大128小158
伊勢國253座大14小235
出雲國187座大2小185
近江國155座大13小142
但馬國131座大18小113
越前國126座大8小118

近隣で比べると、
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43

となっています。決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国も丹波国の一部ですから、合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位です。

ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡朝来市粟鹿神社名神大・旧県社
養父郡養父市養父神社(夜夫坐神社)名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社名神大・旧村社
出石郡豊岡市出石町出石神社(伊豆志坐神社)名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社名神大
気多郡豊岡市日高町山(やま)神社名神大・旧村社
戸(へ・との)神社名神大・旧村社
雷(いかづち)神社名神大・旧村社
豊岡市竹野町?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社名神大・旧村社
城崎郡豊岡市海(カイ・あまの)神社名神大・旧村社

但馬一の宮

一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。

山陰道但馬国
一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。

但馬五社

またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

粟鹿神社 朝来市
養父神社 養父市
出石神社 豊岡市出石町
小田井縣神社 豊岡市
絹巻神社 豊岡市

2009/08/28

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【丹国の歴史】(11) 徐福伝説と浦島太郎

丹後と徐福伝説

京都府北部の丹後半島は、若狭湾の西端に張り出した日本三景の一つ「天橋立」の近く、「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に浦嶋太郎と徐福にかかわる次の伝説が残っています。

日本海を対馬海流にのって北上した徐福(じょふく)の船は丹後半島にたどり着きました。

海上に浮かんでいるように見える冠島。常世島(とこよしま)とも呼ばれており、ここに生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われています。佐賀にもフロフキが自生しており不老不死がなまってフロフキとなったといわれています。

冠島は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれており、「天火明命」は伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社(宮津市)の祭神ともなっています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したといわれています。

丹後半島では岩が浸食されてできた地形が至るところで見られます。徐福は「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着しました。丹後半島の先端に近い京都府与謝郡伊根町新井の海岸に「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」と碑が立つ場所があります。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で、現在の海水面からはやや高い位置にあります。

「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」

「ハコ岩」から山の斜面を登ると新井崎(にいざき)神社があります。この神社には、医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた徐福が産土神として祀られ、今も土地の人たちが大切にしているそうです。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って、ここに住みついたと伝えられているのです。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)とも呼びますが、徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われます。実際、ご神体は男女二体の木像であるらしいのです。

霊亀(れいき)は、古代中国の神話等に登場する怪物の一種とされ、四霊の一つにあげられている。 中国神話等では、背中の甲羅の上に「蓬莱山(ほうらいざん)」と呼ばれる山を背負った巨大な亀の姿をしており、蓬莱山には不老不死となった仙人が住むと言われている。

浦嶋太郎と亀に共通するものですが関係あるのか。

2009/08/28

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【環日本海の歴史】(6) 水田稲作の始まり

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』で、
そもそも日本人とは何か
弥生時代は稲作文化が普及した時代であると同時に、農地、水利、さらには金属器の流通を巡る諍いが絶えない時代でもあったわけだ。ただし、この混乱が征服劇だったかというと、それは間違っている。

たとえば、渡来人の密集していたであろう北部九州でも、渡来文化を受けつつも縄文的な風習を継承していた人びとも確認されている。つまり両者は棲み分けと融合をくり返していったのであり、また、渡来人が染み込むように日本土着の民と融合していったことは、「日本語」が、縄文中期にはすでに完成していたと考えられていて、しかも今日にまで継承されていることからも言えるのではないだろうか、という。

水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、縄文土器にかわって、これまでよりも薄く、つぼやかめ、食器などさまざまな用途に分けられた弥生土器がつくられるようになりました。青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。

弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。反対に、在来の縄文人が外来の新しい知識・文物を入手して、弥生人になることが基本であったともいえます。

早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。

水田耕作の始まり

すでに縄文時代に大陸から稲がもたらされ、自然の水たまりを利用して小規模な栽培が行われていましたが、紀元前4式ごろまでには、灌漑用水路を伴う水田を利用した稲作の技術が九州北部に伝わりました。

初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、九州北部地域に集中して発見されており、弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。

水田を用いた稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(邑)をつくって暮らすようになりました。大規模な水田がつくられるようになると人々は共同で作業するようになりました。

稲穂の摘み取りには石包丁が用いいられ、収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられました。ムアでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われました。

稲作と技術の伝播

稲の伝来ルートについても従来は朝鮮半島ルートが有力視されていましたが、これには疑問点が多くあります。
・中国遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
・朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
・極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部(満州)から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。
協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎(べんざぶろう)編「日本の酒の歴史」から引用する。
いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

(1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
(2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
(3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)

第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。

江南というのは、今の中国の揚子江以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。

「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、
弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。
としています。

黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。

東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。

朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。
韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。
また、山口県豊北町の響灘にある土井が浜遺跡で弥生人の人骨が多数発見され、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。

したがって、弥生文化は、朝鮮半島からの移民だけだと考えるのはどうもおかしいのではないだろうかと思います。日本に稲作文化をもたらしたのは、中国江南から移住した弥生人だと思われるからです。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

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【縄文】(3) 縄文人はグルメ

縄文人

このころ、南方からも日本人の祖先となる人々がやってきました。東南アジアに住み着いた人々は、島から島へ丸木船で移動する航海術を身につけました。一部の人々は海洋民族として太平洋に広がり、ポリネシア(概ねハワイ諸島・ニュージーランド・イースター島を結んだ三角形「ポリネシアン・トライアングル」の中にある諸島の総称。)へ移住しました。やがて人々は黒潮(日本海流)に乗って日本列島にたどり着きました。アフリカを出てから、はるかな旅の末に、二つのアジア人の流れは、この列島でふたたび合流しました。

豊かな日本の自然は、豊富な木の実や川魚を育み、イノシシ、シカ、マガモ、キジといった動物や、山の幸、貝類やカツオ、マダイ、スズキなどといった海の幸をもたらしました。北海道や東北などでは、豊富なサケやマスを利用した生活文化が発達しました。日本列島は食料に恵まれていたので、人々は大規模な農耕や牧畜を始めるには至りませんでした。

縄文文化

縄文時代は一万年を超える長い時代なので、その間の文化社会の変化は大きく、一括した縄文文化という言い方が適当でないことが多いのですが、土器形式を基準にして大きく6つに分けられています(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)。各時期の継続年数は均等ではなく、古い時期ほど長い傾向にあります。

このころには、狩猟・採集を中心としたものでしたが、数十人程度の集団で、小高い丘を選んで生活していました。住まいは地面に穴を掘って床をつくり、柱を立てて草ぶきの屋根をかけた、竪穴住居と呼ばれるものでした。貝殻などの食べ物の残りかすを捨てた馬車である貝塚からは、土器の破片や石器が発見されています。青森県の三内丸山遺跡からは、約5千年前の大きな集落が見つかっています。人が来る前にはブナの林であったものが、人が来ると集落の周りはクリの林になったことがわかります。マメ・ソバなどの栽培や素朴な稲作が始まり、カキの養殖も見つかっています。はるかに計画的に生産が行われていました。

縄文文化は日本列島全体で一様のものではなく、土器や生活形態の違いが相当大きいのですが、土器の系統的つながりを見ると、北海道の土器は本州からの流れの支流といってもよい位置づけができ、縄文土器の特徴である縄を転がしてつけた紋様は、北海道で縄文時代を通じて盛んに用いられたのに、宗谷海峡を越えたサハリンではほとんど見られません。一方、南では沖縄本島の土器は北の九州方面の縄文土器の流れを汲むもので、決して中国や台湾から北上したものではないそうです。また、縄文文様は九州や沖縄では見つかっていませんが、したがって、文化的つながりとしては沖縄本島までは日本列島の縄文文化の範囲であったと認められます。

縄文人は特定の場所に集落を構え、それぞれ孤立していて、相互の交流はあまりなかったと想像しがちですが、そうではなかったのです。自然のガラスとして鋭い割れ口を持ち、石器の材料として非常に好まれた黒曜石が、交易によって100kmも運ばれた例は珍しくなく、霧ヶ峰(長野県)の鷹山では黒曜石を掘った鉱山跡が多数残存し、その盛んな採掘を物語っています。日本では新潟県の姫川にしか産出が知られていないヒスイは、装飾品の材料として遠く関東や北海道まで運ばれていました。海の魚の骨が内陸の遺跡で検出されたり、ときには食料まで運ばれたことがわかります。後・晩期には、海水を煮つめて塩を作った遺跡が、関東や東北地方の海岸近くに知られていますが、その製造に用いられた粗雑な作りの土器が海から離れた内陸の遺跡でも発掘されています。  縄文早期の日本の人口は、2万人だったといわれています。

縄文文化は想像以上に文化的暮らし

NHK 高校通信講座『日本史』縄文時代02
日本人が、日本列島固有の意識を持ち始めた起源ががどのような様相をとっていたかを知ることは、長く文字を持たなかったために難しいですが、縄文人は、太陽、風、雷、雨と雪、地震や台風などの自然の恐怖は、神々の行いであるとして恐れると同時に敬い、神がいると信じていました。人々は自然の豊かな恵みを祈って神殿をつくり、女性をかたどった独特な形の土偶をつくりました。日本人のおだやかな性格が育まれ、と陽で柔軟な日本文化の基礎がつくられました。

家族が一つ屋根の下にに寄り添い、人々が助け合いながら暮らし、次の世代へ智慧を伝承していった。いま我々が想像する以上にある意味では豊かな暮らしをしていたのではないだろうか? 多くの動植物と同じく自然に適応しながら進化していった。自然との共生であり、天変地異との戦いであった。
しかし、境界線もなく、国という意識もない。まさにボーダーレス社会です。テリトリーにこだわず平和に自由に暮らしていた社会は、今を生きる我々よりもある意味でははるかに文化的で人間らしい生活だったのではないのでしょうか。

秋田県池内(イケナイ)遺跡では、ヤマブドウやクワの実と一緒に絞られたニワトコの絞りカスの塊が発掘されました。ニワトコの表面には自然のコウジ菌が繁殖するので、今でもヨーロッパの一部では酒の材料として用いられています。  それを証明するものとして、長野県富士見町の井戸尻古墳で「有孔つば付土器」というう珍しい土器が出土しています。

どうやら中期縄文人たちは、自生した山ブドウやクサイチゴ、サルナシなんかの果物をそのままこの土器に仕込んで、軽くつぶした後フタをして孔(あな)にツルを通し、住居の柱などにくくりつけたのではないかといわれています。

しばらくの間すると液果類は糖分が含まれとるので、「野生酵母」の働きで温度が上昇し、果汁が炭酸ガスとともに吹き上がりますが、中身がこぼれない深さになっていて、主発酵が終わるころには酒も出来あがり、芳しい香りが漂うようになりました(これはブドウ酒などの果実酒造りと同じ原理だ!)。
したがって、縄文中期(紀元前三千年)には酒造りがすでに人間の手によって計画的に行われていたのでないかと考えられるます。また縄文晩期には日本に原生するお米の陸稲作が始まり、米による酒や粟、稗などによる雑穀酒作りが口噛み酒として始められました。

■但馬の貝塚

円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、円山川が流れる国府平野以北の下流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。「神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点です。実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのです。

縄文時代で書いたように、今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられています(縄文海進)。

但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いているそうです。

豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっています。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚ですが、現在の海岸線からは十数kmも離れています。長谷貝塚はさらに内陸寄りにありますが、縄文時代後期の貝塚が見つかっています。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っています。

縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないでしょうか。

中谷貝塚(なかのたにかいづか)

豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。
長谷貝塚(ながたにかいづか)

豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。

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【環日本海の歴史】(2) 大陸から日本列島へ

【環日本海の歴史】(2) 大陸から日本列島へ

地球の誕生

地球は約38億年前誕生したとされています。
約44億年前 地球は太陽の周囲をまわる軌道にあった天体、すなわちミニ惑星たちがが合体して形成されたとされています。小さな塵などが合体して火星ほどの大きさになり、そして、10個ほどがさらに衝突して現在の地球となったのではないかといわれています。
最後の大きな星の衝突(ジャイアント・インパクト)によって表面に海が形成されました。

40億年~38億年前 現在、知られている最古の堆積岩が現れます。このころに原始生命が誕生したと考えられています。
約38億年前から約25億年前、移動していた大陸がはじめて安定しました。そして光合成によりエネルギーと酸素を作り出す微生物が誕生します。

約20数億年前には大気中の酸素の増加がしはじめます。

9億年前から5億4,200万年前、オゾン層ができて紫外線がダイレクトに地表に届かなくなりました。超大陸ロディニアが少なくとも8つの地塊(大陸)に分裂したことによる複雑な大陸移動が引き起こったと考えられています。
5億4,200万年前以前、肉眼で見える大きさで硬い殻を持った生物の化石が初めて産出されます。
海中では様々な種類に至る海洋生物が現れ、中でも三葉虫等の節足動物が繁栄し、藻類が発達しました。
カンブリア爆発…この時期の初期には動物門のほとんどすべてが出現したと考えられ、この時代に動物の多様性が一気に増大した可能性があります。後期には多細胞生物も出現しました。

約1億9500万年前~約1億3500万年前、恐竜が繁栄、原始的な鳥類の出現、被子植物の出現。
6500万年前、霊長類(有胎盤類)の出現しました。
約4000万年前、現代の動物相につながるものがほぼ出現している。ヒトの祖先はこの時代に誕生しました。
2500万年前、最古の類人猿と思われる化石?がアフリカのケニヤで発見されました。
1300万年前 この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジアなどユーラシア各地にも類人猿の化石が現れる。
約600万~500万年前 この頃、ヒトとチンパンジーが分化したとされる。直立二足歩行の開始。

日本列島の誕生


地球の気候は温暖期と氷河期をくりかえしてきました。紀元前7万年頃から紀元前1万4千年頃にかけては地球は氷河期で、日本列島は、朝鮮半島や千島列島によって大陸と陸続きだったとされています。インドシナ半島からインドネシア、フィリピンなどは大陸と陸続きで、「スンダランド(Sundaland)」という広大な平野だったといわれています。中国と朝鮮半島、日本列島に囲まれた黄海も平野であったようです(北海道以北、東シナ海の大陸棚がそれに当たる)。

広大なスンダランドはアジア系民族の故郷であるといわれています。紀元前5万年頃から一部が北上し、モンゴルやシベリアにまで広がりマンモスハンターとなり、彼らは徐々に寒さに適応して北方系のアジア民族になっていきます。シベリアから北海道、・本州東北部、また、アラスカ(エスキモー)、アメリカ(インディアン)、南アメリカ(インディオ、マヤ、インカなどの文明)へと南下していったのでしょう。

また、一部の人々は海洋民族として太平洋に広がり、ポリネシア(概ねハワイ諸島・ニュージーランド・イースター島を結んだ三角形「ポリネシアン・トライアングル」の中にある諸島の総称。)へ移住しました。これと同じ時期に世界の数ヶ所、同じ様な場所があるようです。
13000年前、旧石器時代(先土器文化)は、その名の通り土器のない時代です。石を打ってつくった打製石器と、石を磨いてつくった磨製石器を使う文化です。日本列島はたくさんの火山が噴火して、火山灰が厚く積もっていたので、とても人間や動物が暮らしていける環境ではありませんでした。したがって、日本列島には旧石器時代はなかった、これが、明治以来、日本の考古学の常識でした。

NHK 高校通信講座『日本史』

ところが、戦後間もない1949(昭和24)年、群馬県岩宿の関東ローム層(赤土)とよばれる火山灰かが厚く積もった中を深く切り開いた道で、相沢忠洋さんが確実に人間が加工した白っぽく透き通った鋭く尖った石が顔を出しているのを見つけました。少年時代から考古学への強い興味を持ち続けていた相沢さんは、「日本にも旧石器時代の人間が住んでいたはずだ」と信じて石器の発見を夢見ていました。

ただちに、東京の大学の持ち込んだところ、研究の結果それは旧石器であることがわかりました。ただちに大学から調査隊が岩宿に送り込まれ、一体を詳しく調査した結果、「日本にも旧石器時代があった」ということが発表されました。

しかし、この大学の発表には、その発見が相澤氏の功績であることは全く紹介されませんでした。彼がアマチュアであり家庭の事情で小学校しか卒業していなかったことで、完全に無視されたのでした。しかし彼はそんなことは気にもとめず、地道な研究活動を続けて関東地方で数多くの旧石器を発見しました。その功績で1967(昭和42)年、彼に吉川英治賞が贈られました。

いまでは日本全国で4000か所以上の旧石器遺跡が発見されており、中には35000年前のものまであることがわかっています。すでに日本列島には縄文人の先祖にあたる旧石器人が住んでいました。

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(1) はじめに

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■はじめに

18世紀になると、偶然に発見された遺跡や遺物が注目されるようになり、また、ギリシャ・ローマへの関心が高まるなかで、ローマ時代遺跡の発掘が始まりました。火山噴火で埋没したポンペイが偶然発見されたのを契機に、大規模な発掘が行われるようになりましたが、当初は、領主による美術品の蒐集が目的の略奪でした。

18世紀末から19世紀初めになると、いわゆる未開地への探検が流行し、そこから収集された考古学的遺物や民族資料が公開されて注目を浴びるようになりました。19世紀半ばになると、科学的発掘調査が成立してきました。まず、地質学の分野で、地層の順番を決め、出土する化石の年代順序を明らかにして、地球の歴史を明らかにする層位学的研究法が確立しました。

一方、聖書の故郷として注目を集めていたメソポタミアでは、発掘競争を続け、今でもルーブル美術館や大英博物館の主要な展示物である膨大な石彫類を発掘しました。1871年、シュリーマンがホメロスの詩に書かれていたトロイと信じ、トルコのトロイの遺跡を発掘しました。現在では、この遺跡をトロイと断定することは出来ないというのが定説となっていますが、このように最初の発掘は聖書や神話をもとに行われていました。日本でも江戸時代にはすでに記紀や風土記による発掘が行われていたことはヨーロッパと大差はありません。

しかし、明治以降は、皇国史観によって日本神話の記述が神聖視され、神話研究はそれ以前よりも後退することとなりました。大正時代に津田左右吉が『神代史の新しい研究』ほかを発表し、日本神話に科学的な観点から批評を行い、神代記は政治的な意図で作られた創作であると結論づけました。戦後になってもしばらくの間、津田の説が日本神話研究の中心となりました。

現在では津田説が細部まで正しいとは必ずしも考えられてはいませんが、日本神話を考古学などの証拠なく、弥生・古墳時代の史的事実の反映と考える説は基本的に退けられています。

ただし、より正確であるといわれている中国など外国の史料や遺跡・遺物は、断片的であるために、全体の流れをつかむことができにくく、複数の解釈を生じます。信憑性に疑問があるとしても、最も詳しいのは古史・神社由来・民話などの国内資料であり、そうした国内資料を無視した状態では、複数の解釈が可能となり、正解を得ることはまず不可能と考えられます。

全体の流れをつかむには、歴史の断絶によってほとんど継承されることがないシナ朝鮮半島に比べ、天皇という世界最古の2,600年も続いて残されてきた日本国内の資料に頼るしかないと判断し、正確である可能性の高いものを基に、その内容を、外国史料や遺跡遺物と照合することによって確認し、矛盾を生じるものはその伝承が正しくないと判断するという方法で論を進めたいと思います。

今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。

いまグローバル社会といわれています。しかし、あえていうまでもないことですが、かつて地球上に人類が誕生したころは国境などありませんでした。人々は自由に獲物を求めて移動をくりかえしていたのです。

■歴史の時代区分

日本の歴史における時代区分には様々なものがあります。しかしながら、一応のところ、文字の発生と記録を残すことが行われる以前を原始(先史)、それ以降を古代・中世・近世・近代・現代とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられています。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なっていますが、単純に分かりやすくするためにこの一般的時代区分によっています。
さらに、それぞれは次の通りとします。

和色大辞典より

一般に学校で習うようなよく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分です
単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分であるといえますが、文献史料がなく発掘による考古史料のみが残る先史時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分します。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分していますが、これだけでは必ずしも十分でないため、鎌倉時代と室町時代の間に南北朝時代、1467年の応仁の乱頃から1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの時代を戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用です。
江戸時代の次は政治センターの所在地に従うなら、「東京時代」と呼称すべきでしょうが、明治以降から天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれています。
また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、統治範囲が時代によって上記区分に及ばないため、これらとは異なる時代区分が用いられています。
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化?などとする区分もあります。

■記載について

あくまでも、自分が生まれた地域に関心がわいたのがきっかけで郷土を中心に展開しています。「すべての歴史は現代史である」という偉大な歴史哲学者(ベネデット・クローチェ)。過去の史料を評価・検証する過程を通して新しい歴史的事実、及びそれらの関連を探り、異なった見方や意見も併記するようにしました。絶えず更新しております。ご助言がございましたらこちらまでお寄せ下さい。

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沖縄の実態 学校で教えてくれなかった近現代史(63) 歴史の両側(10) 

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=K73C27neZHQ&hl=ja&fs=1&]日本文化チャンネル桜 防人の道  今日の自衛隊 2008年02月27日 1/3
ジャーナリスト・元海上自衛隊・沖縄出身 恵 隆之介氏
・在日米軍基地の78%が沖縄に集中しているというのは嘘。本当は24%。
・国内で唯一の地上戦というのも嘘。北方領土(樺太)も地上戦があった。
・米軍がなければ、沖縄は中国の領土になっていた
・普天間移設の反対運動をしているのは沖縄県人ではない(本土から来た左翼)
・2/3は金で雇われて本州から来たプロ市民
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=zIbLMO0GPks&hl=ja&fs=1&]2/3
・人口密集地に米軍基地があるというのは嘘。基地ができたので雇用ができ回りに住み始めたから。
・辺野古反対運動は左翼から日当が支払われている。
・埋め立て反対といっているが、すでに埋め立て比率が一番高いのが沖縄県。
・基地反対をかかげる琉球新報が国から11億円無利子で借りて新社屋、沖縄タイムスしかり。
・本土のマスコミが実態を知らない、書かない。
・沖縄県の所得は最下位だが補償金などを合わせると全国で20位くらい。
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=U_9zerE3wPY&hl=ja&fs=1&]3/3
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=eQ-F0M_xYcc&hl=ja&fs=1&] 地上波番組でカットされた沖縄の真実 [桜 H21/3/5] 人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
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「集団自決」と沖縄問題 学校で教えてくれなかった近現代史(62)

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=dZeVM0trwsA&hl=ja&fs=1&] チャンネル桜 So-TV:惠隆之介氏「集団自決」と沖縄問題 2008年01月15日 1/6 主催:自由主義史観研究会
気鋭のジャーナリストが語る、故郷への思いあればこその沖縄の実 像!

http://www.youtube.com/watch?v=TEyh30z8yZE2/6
http://www.youtube.com/watch?v=y6vC5XxJvo83/6
http://www.youtube.com/watch?v=NnXTS-3RPqQ4/6
http://www.youtube.com/watch?v=gnfqjiDI0w85/6
http://www.youtube.com/watch?v=6UAStYu_CBg6/6
日本共産党委員にスパイがいた!

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