たじまる 近世-17

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

木戸孝允(桂小五郎)と新選組

桂は、様々な肩書きやエピソードを持っています。吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍。また、彼の周りには絶えず女性の姿があります。モテモテ男だったのです。

木戸孝允(桂小五郎)


京都守護職跡(京都府庁) 2009.1.27

木戸孝允(桂小五郎)は、天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町、薩摩藩出身の西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」のひとりとして並び称せられています。 桂小五郎は萩藩医 和田昌景の長男として生まれました。桂小五郎の少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあったそうで、七歳のとき、隣家桂九郎兵衛に乞われてその養子に入りますが、養子になってから二十日ほどで養父が死に、さらに養母が死んだため、彼は実家で成人し、少年の身ながら桂家の当主になりました。

志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれました。明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当しました。

弘化3年(1846年)、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門しています。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始めます。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立ちます。

身長6尺(約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身でした。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」(斎藤弥九郎)の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となります。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられます。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称えられました。

ほぼ同時期に、

  • 「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館(鏡新明智流剣術、新富一丁目)の塾頭を務めた武市半平太
  • 「技の千葉」(千葉定吉)の桶町千葉道場(北辰一刀流剣術、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬
    も免許皆伝を得ています。 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞します。文久2年(1862年)5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争(馬関戦争)を始めます(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指します。

新選組池田屋襲撃事件(池田屋騒動)と桂小五郎


壬生寺 京都市中京区壬生

境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。
また、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、 近藤勇をはじめ隊士が壬生
狂言を観賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料
理し、力士に振る舞ったという、面白い逸話も当寺に残っている。境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。毎年7月16日には池田屋騒動の日とし、「新選組隊土等慰霊供養祭」がここで行われる。 当日は全国各地から
新選組を参詣者が数多く訪れ、近藤勇の胸像前で慰霊法要が行われた後、有志による剣技や詩吟
の披露がある(参加自由)。


壬生寺本堂

新選組が同志の近江郷士古高俊太郎宅に踏み込んで、倉庫に隠されていた武器、機械類、書簡類を押収し、古高を逮捕、壬生(みぶ)の屯所へ連行しました。土方(ひじかた)歳三の拷問には絶えられず、ついに自白しました。それは「風の烈しい夜を待って、洛中に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を長州へ移す」という驚くべきクーデターの計画でした。

この計画を知った近藤勇は、京都守護職と京都所司代へ報告し、すぐに尊攘派志士たち犯行グループの捜索を始めました。 新選組壬生屯所では、普段と変わらない様子を装いながら、三人、五人とバラバラに、白の単衣姿に草履や下駄履きで出かけていきました。しかし、その単衣の下には、防具の竹胴がつけられていたことが目撃されています。


八木邸壬生屯所跡

新選組は文久3年(1863)3月に、ここ壬生の地において結成された。東門前の坊城通りには、
その当時、八木邸前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ、今も八木邸と前川邸が残っている。(2009/1/25)目立たないように通常の市内見回りを装って、壬生屯所を出発した三十名の隊士は、続々と八坂神社の石段下の祇園町会所に集まりました。

全員が集まると、近藤を中心とするグループ五名は木屋町方面へ、土方を中心とするグループ25名は祇園方面へ向かい、旅籠などの旅客改めを開始しました。四条通にあった「越房」(所在不明)に八時四十五分頃、探索に訪れていました。その約30分後、縄手通四条東入ル北側にある茶屋「井筒」を調べており、恐らくアヤシイと思われるところをしらみ潰しに調べていたと思われます。


前川邸壬生屯所跡

元治元年(1864)6月5日夜、三条小橋西にある長州藩士の定宿だった旅籠(はたご)「池田屋」には、長州藩士を主とする尊攘派の志士三十名が集まっていました。彼らが集まったのは、同志の古高俊太郎が、この日朝早く新選組に捕らえられたことについて対策を打ち合わせるためでした。桂小五郎は長州藩邸を出て、密会の場である池田屋へ着きました。しかし、まだ誰も集まっていなかったため「まだ時間があるようだし、対馬藩邸に用事があるから今の内に…」と考え、いったん池田屋を出てすぐ近所の対馬藩邸の別邸に向かいました。


八坂神社 京都市東山区祇園町北側625番地

祇園町会所は、四条通の八坂神社前にあった。 四条木屋町付近から三条方面へ向けて探索を行っていた近藤グループは、「池田屋」へ踏み込みました。近藤が玄関の戸を開き、出てきた主人の惣兵衛に「新選組の御用改めである!」と怒鳴るとそのまま二階への階段を駆け上がりました。その後を沖田総司が続き、永倉新八と藤堂平助が一階を、近藤の養子の周平が表を固めました。一方、突然の新選組の襲撃を受けた尊壤派の志士たちは脇差しを抜き、明かりを消しました。暗闇の中で、手探り状態での息詰まる闘いが始まりました。

四条通から三条通までの祇園界隈からをしらみつぶしに探索してきた土方グループは、鴨川の三条大橋を渡ると「池田屋」での死闘が始まって約一時間後、ようやく「池田屋」へ駆けつけ表を固めました。土方グループの到着を知った近藤らは、相手を斬るより捕らえることを優先し、次々と捕らえていきました。守護職と所司代の手勢三千が到着したのは闘いがほぼ終わった頃でした。


池田屋跡 河原町三条通東入

しかし、この秘密の会合は、新選組によって襲撃され、多数の死者・逮捕者がでました。この池田屋騒動によって、新選組は尊攘派の志士たちに壊滅的な打撃を与えるとともに、全国にその名を轟かせました。


不動堂村屯所跡 京都市下京区東堀川通り塩小路下ル松明町1番地(リーガロイヤルホテル京都敷地)2009.1.27

不動堂村屯所は、西本願寺が本堂から見えるところで隊士の切腹があったり、拷問が行われるなどに閉口していた西本願寺がその費用を出して新築されました。この屯所は表門、高塀、式台玄関、使者の間、長廊下などが揃った大名屋敷風の立派なものでしたが、試用期間はわずか6ヶ月でした。

慶応2年(1866)当時、京都所司代が町奉行を監督し、京都の治安維持を行っていましたが、幕末期にはそれだけでは手に負えなくなったため、京都守護職が新設されました。新選組、見廻組は京都守護職配下に置かれました。

新選組の巡回地域割当は、西本願寺一帯と鴨川東岸の東山、所司代組は東本願寺一帯、京都守護職は鴨川東岸の四条以北、京都所司代は禁裏御所周辺、見廻組は蛸薬師通りから五条通と堀川下立売から西北を担当しました。

禁門の変(蛤御門の変)


蛤御門 2009/1/28

「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方です。蛤御門(はまぐりごもん)の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為です。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていました。


蛤御門の銃弾跡

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変(七卿落ち)で京都を追放されていました。7月18日、長州藩の攻撃が始まったころ、河原町の長州藩邸は加賀藩によって包囲されていました。しかし、加賀兵が踏み込んだとき、そこの桂小五郎の姿はありませんでした。桂はすでに対馬藩邸に逃れていました。

同日夜、対馬藩が長州藩の同情藩として断定され、幕軍が藩邸を取り巻き始めたため、御池通りを西へ油小路を北に向かい御所の西にある因幡藩邸へ向かいました。伏見方面で砲声が轟き、幕府対長州の激闘が始まりました。その中を因幡藩邸へ向かいました。


建礼門 禁裏の正門

因幡藩邸に潜んでいると、夜明け前になって御所の中立売御門を目指して進軍する長州軍の一隊が藩邸前を通っていきました。それに遅れて桂は堺町御門向けて出ていきました。鷹司邸が炎上し長州軍は敗走します。その混乱の中、桂は朔平門(ざくへいもん)当たりへと戦場を見察して回りました。この戦いで鷹司邸に発した火災は、河原町の長州藩邸の出火とともに、三日間に及ぶ大火の原因となりました。

夜陰に乗じて、桂は天王山へ向かいますが、伏見付近に至ったとき、天王山へ退いていた長州軍の総指揮官であった真木和泉らが自決し、兵が四散したことを聞き京の町へ引き返しました。


桂小五郎邸跡 京都オークラ前

7月19日午前七時頃、御所へ到着 長州藩は天皇の側近だった三条実美(さねとみ)らの公卿とともに、幕府を倒し、天皇による政治を復活させる企て(王政復古)を着々と進めていました。この勢力はかなり大きな流れとなり、幕府の存在を脅かすようになりました。これに対して巻き返しを図りたい公武合体派の会津藩と薩摩藩は密かに兵を集め、文久三年(1863)八月十八日、武力によるクーデターを起こしました。これを「八・十八の政変」といいます。


堺町御門 2009/1/28

公武合体派は御所を囲む兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任し、京都からの退出を命じ、関与した公卿と長州へ向かいました(七卿落ち)。 長州藩(山口県)は公武合体に敗れ京都から退去、さらに池田屋事件をきっかけに元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)に敗れ、小五郎は幕府に追われる身となってしまうのです。


小五郎・幾松寓居跡碑とされているが、本当は三本木料亭「吉田屋」:京都市上京区 東三本木通

京都には彼を捨て身で守った幾松という女性がいました。幾松はひいき芸者の一人でした。三条大橋の下に隠れながら幾松が差し入れに食事を運んだ話もあります。 この政変によって長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになります。戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。


御所内 皇女和宮生誕地 2009/1/28

このとき小五郎は、藩主と三条実美らの復権を求めて活動し、再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたがそれが聞き入れられることはありませんでした。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、三本木の吉田屋という料亭で桂小五郎と逢瀬を重ねていた幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら潜伏していました。しかし、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、三条大橋下に潜伏したり商人・広戸甚助の手引きで京を脱出し但馬出石に潜伏します。

一方、会津藩をはじめとする公武合体派は、京から尊壤派の志士たちを徹底的に排除しようと、新選組や見廻組を使って浪士狩りを行いました。ちなみに新選組は、この八・一八の政変の時に出陣し堺町御門の警備に当たった時に京都守護職松平容保から「新選組」という名前をもらい、正式に市中取締りの任に就きました。禁門の変では御所を囲むようにして幕府軍に北から備前藩・因幡藩・出石藩、東には尾張藩・篠山藩・桑名藩・見廻組・大垣藩・彦根藩、淀に宮津藩、丹波口には亀山(亀岡)藩、小浜藩、南は園部藩・鯖江藩、禁裏(御所)薩摩藩・筑前藩・会津藩・桑名藩などが布陣していました。


京都守護職跡 京都府庁内

京都所司代の役所や、住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されませんでした。その支配下に京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれましたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理する京都代官に分離するようになりました。 京都に置かれた役人の総元締めの立場にありましたが、京都市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる禁裏付などの役職は平時は所司代の指揮に従うものの、老中の管轄でした。

幕末動乱期は京都所司代だけでは、京の治安を治めるのは難しく、その上に最高機構として京都守護職をおき、所司代はその下に入りました。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保(かたもり)は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになります。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行いました。慶応2年(1866)当時、京都市中巡回地域割り当ては、

  • 見廻組…京都守護職傘下。堀川下立売通以西、以北。蛸薬師通から五条通
  • 御定番組…西は御土居から東は寺町通、北は下立売通から南は蛸薬師通まで
  • 京都守護職…寺町通から四条通以北の左京
  • 新選組…西本願寺周辺、四条通以南・高瀬川以東(祇園・東山)
  • 所司代組…禁裏(御所)、東本願寺周辺▲ページTOPへ

桂小五郎、最大の危機 久畑関所


旧山陰道(支道)石畳が往時を偲ぶ

元治元年7月、小五郎は対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。

関所があった石段 かつては木の関門があったので見たかったが今はなくなっている。

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。
明治維新 小五郎を出石へ追ってきた木戸松菊・・・碑(菊松の間違い)

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

 

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。 後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。


久畑宿陣跡の石碑

桂は但馬に潜伏しました。出石(兵庫県)や広戸家の菩提寺でもある養父の昌念寺、城崎温泉の旅館にも住み込みで働いていたそうです。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移しました。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」
ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

小五郎但馬に潜む


桂小五郎潜居跡

小五郎は温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。

10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。

小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。

温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。

ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は
『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。

城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。


霊山墓地にある木戸孝允・幾子墓(京都市東山区)

慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。 広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。

しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。

その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。

維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。

参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会▲ページTOPへ

 

たじまる 近世-16

tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

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概 要

  1. 英国の情報収集
  2. アーネスト・サトウ
  3. サトウの英国策論と国内の動向
  4. サトウとパークスの情報収集合戦
  5. サトウたち外交官の功績
  6. アストンとチェンバレン
  7. 日本の情報収集
  8. 外国人居留地
  9. まとめ

大航海時代が到来。植民地時代が始まると、東アジアネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。なかでも覇権を競った英仏の情報収集が活発になります。

日本に派遣された外交官たちが情報収集に力を入れたのは任務として当然のことでした。外交団の中心的存在である英仏の情報収集の方法には違いがありました。

 

1.英国の情報収集

 

 1860年初頭、英国外務省では、中国派遣の通訳生に北京で中国語の学習に専念させる制度が確立していました。しかし、日本へ派遣する通訳生の訓練については整備が遅れました。1861(文久元)年に通訳生に任命されたアーネスト・サトウは、上海に到着すると、初代駐日英国大使ラザフォード・オールコックから、北京に留まり漢字や漢文を習得すれば、日本語の書簡や書物を読みこなせると考えたからですが、当時、幕府との外交交渉は、英語からオランダ語へ、オランダ語から日本語へという手間のかかる方法をとらざるを得ませんでした。しかし、この方法では、交渉等に延滞や誤解が生じることが多く、攘夷事件の勃発等により外交交渉が頻繁に行われると、オランダ語を介さず直接英語に翻訳できる日本語通訳官の必要が痛感されるようになりました。 一方、フランスでは通訳生制度が確立しておらず、ド・ベルクール公使の公認として1864(元治元)年三月に来日したレオン・ロッシュ公使は、有能な領事や通訳不在のため、情報収集で英国に後れを取ることが多かったのです。そのためか、ロッシュの本国政府への報告は、英国に比べて情報量がきわめて少なく、内容的にも貧弱なものが多かったのです。ロッシュの対日政策は、幕府が条約を履行する限り幕府の立場を支持し擁護するもので、仏国からの武器輸入、横須賀海軍工廠の建設、軍事顧問団の招聘等を支援しましたが、幕府以外の諸藩、とりわけ西南雄藩に対する視点が欠落し、単眼的な理解しかできない状況を生むことになりました。

英国の情報収集を主に担ったのは、サトウとオランダ人アレグザンダー・シーボルトです。シーボルトは1859(安政六)年、父フィリップに連れられて13歳で来日、日本語の会話に優れていたこともあずかって、英国領事館に雇われました。一方サトウは、来日直後から日本人教師の指導を受け、草書体の読解などシーボルトより読み書きの能力が優れていたこともあって、65年4月には通訳生から通訳官に昇進し、その後68年1月には通訳畑の最高責任者である日本語書記官に就任しました。

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2.アーネスト・サトウ

 

 こうした日本学者のなかで、最大の成果を残したのがアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)です。サトウは来日して二年目の1864(元治元)年、「日本という国、日本語、そして日本人に対する愛着」を断ち切れぬため「すぐれた日本学者」になることを決意し、日本語を習得、情報収集担当の外交官の任務を超えて、各分野の研究で先駆的役割を果たしました。日本アジア協会に論文を発表したり、英国の雑誌に寄稿しています。

1865年、片仮名や平仮名まじりの楷書、行書、草書等解説した「日本語のさまざまな書体」、73年には「会話編」を、76年には65年から編纂を進めていた初めての『英和口語辞典』を出版しました。

サトウはその苦労を次のように回顧しています。

日本語は、習得するのが困難であるという点で、中国語の次ぎに位置するものであり、日本語を学ぼうとする者にとっては、学習のさいに助けとなる文法書も辞書もないという、非常に著しい不便さを伴うので、日本語の学習者はまったく自分自身の独力にゆだねられるのである……ヨーロッパ人に知られていなかったこの言葉を学ぶために、絶え間ない努力を続けてきた。

1862年に開市開港交渉に派遣された遣欧使節団の随行員、市川渡の見聞録『尾蠅欧行漫録』を全訳し、65年に雑誌や新聞に発表。そのほか『絵本太閤記』『日本外史』『開国史談』『近世史略』等数多くの歴史書が、71年から73年にかけて彼により英訳されました。シャム(タイ)総領事時代の85年には、山田長政についての論考「十七世紀の日本・シャム交渉史に関する覚書」を発表、1900年には、秀吉・家康に会見し日英貿易の道を開いた東インド会社の商人兼船長の『ジョン・サリス船長の日本旅行記』を編集出版しています。

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3.サトウとパークスの情報収集合戦

 

 1864年、四国連合艦隊による下関遠征に通訳として随行したサトウは、英国留学から急遽帰国した伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)らと親しく交流し、その後日本語を解して知己を広げ、情報収集活動に語学力を役立てていきました。65年サトウが伊藤に宛てた日本文の書簡(日本人教師が協力)には、第二次長州戦争に対する幕府側の動静や英国側の態度、武器の密貿易に対する英国の立場など貴重な情報を伝え、サトウと長州の間に情報の回路が成立していたことがわかります。

1865年7月、第二次公使ハリー・パークスが横浜に到着するや、英国の情報収集活動はさらに活発になりました。第二次長州戦争の最中、将軍家茂が病死するや、パークスは事実確認のためシーボルトを江戸に派遣し、大名の家臣や幕府の下級役人から後継者に関する情報を収集させました。またオランダ総領事ポルスブルックからも、オランダ人外科医が大坂城に呼ばれ江戸に派遣された情報を入手し、ロッシュからは将軍死去の確証を得ました。ヨーロッパの外交団は、利害が一致する場合は情報を交換し合っていたことが判明します。

ところで将軍と天皇との関係をいち早く理解したサトウは、1866(慶応二)年三回にわたり、横浜外国人居留地で発行されていた『ジャパン・タイムズ』に無題、無署名の論説を発表しました。この英文は、サトウの日本語教師である徳島藩士沼田寅三郎の協力で得てサトウ自身により翻訳され、その後、写本が各地に流布され、『英国策論』の題名で出版されました。現在数種の写本と版本が各地に残っており、その影響の大きさを物語っています。この論考は、天皇(Majesty)を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座に着くべきだとする、サトウ個人の非公式見解でしたが、英国の対日政策を代弁するものとして受け取られ、討幕派に注目されました。また政治情報を収集しようとする諸藩の人々により読まれていきました。

幕府の監視が厳しい江戸での政治情報の入手を困難とみたパークスは、1866年12月から67年1月にかけて、「情報将校」サトウを長崎・鹿児島・宇和島・兵庫に派遣しました。サトウは長崎で宇和島藩士や肥後藩士から、京都での大名会議や長州問題、兵庫開港に関する情報を入手しました。またその帰途、兵庫で西郷吉之助(隆盛)と初めて会談、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を外国人として最初に入手することができました。西郷が京都の小松帯刀に送った書簡には、西郷がサトウの心底を探るため、兵庫開港に関しては二、三年傍観すると発言したこと、サトウが長州問題と兵庫開港問題で幕府を追求した方がよいと、パークスの内政不干渉の立場から一歩踏み出した発言をしたことが記されています。

サトウは1867年2月、各国公使の新将軍徳川慶喜の謁見準備と大坂での政治情報の収集のため、再度兵庫へ派遣されました。この時から会津藩士等幕府側諸藩との交流が始まります。ついでパークスは、4月の慶喜謁見にサトウの他に、日本語能力に優れたウィリアム・アストンらを同行させ、英国公使館員の層の厚さを見せつけました。慶喜は外国との友好関係を希望して兵庫開港を確約、さらに5月には朝廷から勅許をとりつけ長年の外交懸案を解決しましたが、その助言者で合ったロッシュには日本語に堪能な通訳がつかず、幕臣以外と接触しなかったロッシュが入手できる情報は限られていたといえるでしょう。

一方、天皇を陛下(His Majesty)、将軍を殿下(His Highness)と呼び、日本語の専門家にふさわしく両者の関係を的確に理解していたサトウは、雄藩連合政権か徳川幕府の強化かという政局の現実に迫ることができたこともあって、西郷に「革命の機会」がなくなったわけではないが、兵庫が開港されると「大名は革命の好機を逸することになるだろう」と、彼らの奮起を促すなど、倒幕寄りの旗印を鮮明にしました。

1868年7月から、サトウはパークスの日本海側諸港の視察に同行し、新潟、佐渡、能登、金沢、福井等で各地の政治や物産の情報を収集、その後大坂に入り西郷と再会しました。この時西郷は、4月の慶喜の謁見以来英国領事館が幕府寄りの製作をとり始めたのではないかと危惧し、サトウに対して英国は仏国の「つかわれもの」ではないかと対抗心をあおり、英仏離間策を画策しています。挑発に乗ったサトウは、英国の対日政策を踏み越える武力援助、倒幕援助の提案をしたようですが、西郷は日本の政体変革は日本人の手で行うときっぱりと断りました。この後サトウは、パークスの命令で、イカルス号水夫殺害事件の調査のため土佐に派遣され、後藤象二郎や山内容堂と公議政体につて議論、さらに下関では井上聞多(馨)、長崎では伊藤俊輔(博文)や木戸準一郎(孝允)らと政治情勢について議論を重ねました。しかし、大政奉還や討幕運動の実情をさぐることができないほど、日本の変革はさらに進んでいました。

 

5.アストンとチェンバレン

 

 サトウに次ぐ日本研究者となったのがウィリアム・アストンです。アストンは1864(元治元)年、23歳でイギリス公使館通訳生として来日。69年に『日本口語小文典』や72年の『日本文語小文典』は、通訳生の入門書として編纂され、優れた日本語辞書として評価が高いものです。74年には「日本語はアーリア語と類似性があるか」を発表し、文法構造や語彙等について比較言語学的な試論を試み、75年には「古代日本の古典文学」を発表、日本最古の仮名で書かれた紀貫之の『土佐日記』を英訳、解説しました。

アストンはサトウよりいっそう学究肌で、帰国後も日本研究を続けました。96年に『日本書紀』を英訳、99年には代表的な業績となる「日本文学史」を、1905年にはサトウの神道研究を引き継いだ『神道』を出版しています。また、サトウから譲られた日本の書籍を含む膨大な蔵書一万冊(アストン・コレクション)は、ケンブリッジ大学図書館に所蔵されています。

1873(明治六)年に22歳で来日したバジル・ホール・チェンバレンは、30余年日本に滞在し、海軍兵学寮や帝国大学文科大学で英語を教授しながら、優れた日本研究を発表し続けました。80年に『日本の古代歌謡』、琉球語やアイヌ語等について研究を発表、82年には『古事記』の英訳を出版して日本学者としての地位を確立しました。サトウの研究を完成させたチェンバレンは、90年に「百科全書」的な『日本事物誌』を出版しました。

 

6.サトウたち外交官の功績

 

 日本の歴史や言語、社会、文化等が、外交官たちによって紹介されていった事例を上げてみたいと思います。

ラザフォード・オールコックは、初代駐日英国公使として1863(文久三)年『大君の都』を出版し、59年から62年にかけて行われた外交交渉や井伊大老の暗殺など諸事件を書き残しましたが、なかでも幕藩体制や日本の産業、経済、宗教、文化等日本社会についての分析は、その後の日本研究の基礎となりました。引退後も78年に『日本の芸術と芸術産業』を著し、英国の日本研究に貢献しています。

第二代駐日英国公使パークスは、著作を著すことはありませんでしたが、彼の尽力により、1872(明治五)年、横浜外国人居留地の英米系の人々を中心に日本アジア協会が設立されました。貿易商人や外交官、お雇い外国人、宣教師等の会員が、例会で、日本の歴史、風俗、言語、伝説、地理、鉱物、植物、建築、気候等あらゆる分野の研究を次々と発表し、この中から多くの日本学者(ジャパノロジスト)が育っていきました。

その一人であるバジル・ホール・チェンバレンは、「サトウ、アストン、マクラッチー、ガビンズなど、日本駐在のイギリス領事部門が生んだ著名な人物は、みなサー・ハリーの鼓舞と激励に負うところが大きい……勤務する者の中から、日本に関するあらゆる問題についての、主要な権威と呼ばれる人々が輩出した……この偉大な人物の監督下にあった時ほど、日本研究一般が活発で、しかも実り多い時期はなかった。」

つまり、日本の政治や社会情勢を的確に判断して外交交渉を有利に導くためには、各分野の「日本通」の育成が必要だったのです。パークスが対日外交を他の列強よりもリードし得た秘密はここにありました。

神道、キリシタン研究

サトウは、日本人を理解するには神道の分析が重要であると考え、1874年「伊勢神宮」を「発表。最初の外国人として伊勢神宮に参拝した経験や、本居宣長の『古事記伝』等を参考にまとめたものです。75年には「古神道の復興」を発表、仏教と儒教の影響を除いた神道の原初的形式を「古神道」と名づけた賀茂真淵や本居宣長ら近世国学者の神道観を、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の原典によって克明にたどり、日本学者としての力量を示しました。ついで78年、英国の季刊誌に匿名で「古代日本の神話と宗教的儀式」を発表し、「祝詞(のりと)」をヨーロッパに紹介した啓蒙的な論考で、本国への最初のデビュー論文となりました。79年には本格的な論文「古代日本の祭式」を発表、『延喜式』の「祝詞」を英訳しました。この研究はその後アストンに受け継がれています。

民族、地理、考古学、植物、書誌学、旅行記

1870年に「蝦夷のアイヌ」がロンドンの雑誌に掲載され、74年には新井白石の『琉球国時略』等を参考に、琉球の歴史や産物を紹介した「琉球についての覚書」を発表、78年には「煙草の日本伝来」「薩摩の朝鮮陶工」、80年にモースの大森貝塚発見等により考古学への関心をかき立てられ、「上野地方の古墳群」、82年には「日本の初期の印刷の歴史」や、「朝鮮の活字と日本の古活字本についての補足」を発表、99年に「日本における竹の栽培」は片山直人の『日本竹譜』を翻訳しています。また、81年に友人たちと日本各地を旅行した記録を集大成した『中部・北部日本旅行案内』をホーズと共著で出版しました。この本は、世界的に有名なロンドンのマレー社のガイドブックを手本に編纂されたもので、外国人の手になる最初の本格的な旅行案内書となりましたが、学術的色彩が強く、日本研究の集大成としても高く評価されています。

日本の書籍収集

日本語学習や日本研究を支えたのが、サトウ自身が収集した大量の日本の書籍です。助言もあって寺社や大名家等から流出した数多くの貴重な本を廉価で購入することができましたが、その後これら書籍の大半は他の研究者に提供され、現在は大英図書館やオックスフォード大学図書館、ケンブリッジ大学ボードリアン図書館、日本大学文理学部図書館、天理大学付属天理図書館、横浜開港資料館等多くの研究機関に所蔵されています。大英図書館が所蔵する1600年以前の古版本や古活字本は貴重で、日本国内に残存しないものもあり、質量共にきわめて評価の高いコレクションとされています。▲ページTOPへ

 

7.日本の情報収集

 

 それでは英国の情報収集に対して、日本側の情報収集はどのようになされていたのでしょうか。第一は、幕府や諸藩が、横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・ヘラルド』『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』『ジャパン・タイムズ』等から情報を入手したことです。この情報は、洋書調所(後の開成所)で翻訳され、翻訳書写新聞として諸藩に回覧されました。

第二は、密偵を派遣して情報を収集していました。生麦事件以来、薩摩藩の江戸藩邸では探索方の南部弥八郎らが幕府や英国から情報を収集していました。南部は、下関砲撃、水戸天狗党の乱、禁門の変、第一次長州戦争等の情報や、江戸、横浜、京都、大坂の風説等を国元に送付し続けていました。江戸城内の情報は幕閣から、外国側の情報は外国奉行や神奈川奉行所付の翻訳方、送り込んだ書生、横浜の英字新聞等から得ていました。英国公使館が幕府へ提出した文書を南部が入手するため、サトウやシーボルトの留守中に潜り込ませた者に草稿を筆写させていたところ、サトウらが帰宅したため半分で止めざるを得なかった、という生々しい報告もあります。また『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』には、薩英戦争後横浜に入り込んだ薩摩藩の探索方が、英国艦隊の再来襲の予測や薩英和平交渉の可能性を探っていた記事が掲載されています。日本側(倒幕方)も英国に劣らず情報収集を行っていたのです。

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8.外国人居留地

 

 政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域をいう。これが居留地の始まりである。条約改正により1899年に廃止されるまで存続した。単に居留地ともいう。

鎖国時代の長崎に設置された出島や唐人屋敷も、一種の居留地に当たる。出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人は、みだりに長崎市街へ外出することは許されなかった。1854年の日米和親条約では米国商船の薪水供給のため下田、箱館の二港が開港され、日英和親条約では長崎と箱館が英国に開港されたが、外国人の居住は認められなかった。その後、ロシアやオランダと締結された和親条約も同様である。
江戸幕府は、安政年間に1858年の日米修好通商条約をはじめとして英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これを安政の五か国条約と総称する。この条約では、東京と大阪の開市および、箱館(現函館市)、神奈川(現横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現神戸市兵庫区)、新潟の五港を開港して外国人の居住と貿易を認めた。実際に開港されたのは、神奈川宿の場合、街道筋から離れた横浜村(現横浜市中区)であり、兵庫津の場合もやはりかなり離れた神戸村(現神戸市中央区)であったが、いずれにしても開港場には外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅倉庫商館を建てることが認められた。居留地の外国人は居留地の十里(約40キロ)四方への外出や旅行は自由に行うことができ、居留地外でも治外法権があった。日本人商人との貿易は居留地内に限定された。

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神戸居留地

 

 江戸幕府は天皇の居住する京都に近い畿内は攘夷気分が強く情勢不穏であるとして、兵庫開港を延ばしに延ばしていた。しかし、実際は、当時日本の経済的中心地であった大阪から外国人を遠ざけておきたかったからのようである。このため、神戸港は条約締結から10年を経過した1868年1月1日に開港した。

日本人と外国人との紛争を避けるため、開港場や外国人居留地は当時の兵庫市街地から3.5kmも東に離れた神戸村に造成される。東西を川に、北を西国街道、南を海に囲まれた土地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。ここにイギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画の敷地割りが行われ、同年7月24日に外国人に対して最初の敷地競売が実施された。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。当時、東洋における最も整備された美しい居留地とされた。この整然した街路は今もそのままである。神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議が良く機能し、独自の警察隊もあった。1868年に居留地の北、生田神社の東に競馬場が開設されているが、数年で廃止されている。

開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点であった。西洋風の町並み、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となる。この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになる。

神戸の外国人居留地が日本に返還されたのは、不平等条約改正後の明治32年(1899年)であった。神戸市街地は1945年に大空襲を受けたため、現在の神戸市役所西側一帯にあった居留地時代(1899年以前)の建物で残っているのは旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館、国の重要文化財)が唯一で、多く残る近代ビル建築は主に大正時代のものである。ただ、居留地が手狭になったため、1880年頃から六甲山麓の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である北野町山本通付近に多くの外国人住宅が建てられ、戦災を免れた。これが今日の神戸異人館である。

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9.居留地貿易

 

 函館・横浜・長崎開港後まもなく、「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる奇妙な現象がブームとなる。世界的に金銀の比価は1:15であったのに、日本では1:5であった。つまり日本では金が安く、銀が異常に高かったのである。(これは、幕府によって日本の銀貨には一種の信用貨幣的な価値が付与されていたという事情もあった。)このため、中国の条約港で流通している銀貨を日本に持ち込んで金に両替し、再び中国に持ち帰り銀に両替するだけで、一攫千金濡れ手で粟の利益が得られた。商売を禁止されている外交官でさえこの取引を行ったとされる。事態に気付いた江戸幕府が通貨制度の改革に乗り出す頃には大量の金が日本から流出し、江戸市中は猛烈なインフレーションに見舞われていた。 政治的緊張が続く幕末には、武器や軍艦が日本の主要輸入品となった。武器商人トーマス・グラバーが長州藩や薩摩藩を相手に武器取引を行ったのは長崎であった。明治になっても近代化のために最新の兵器や機械の輸入は続く。これに対して日本が輸出できるのは日本茶(グリーンティー)や生糸くらいしかなかった。貿易赤字は金銀で決済するしかない。このため富国強兵を掲げる明治政府は殖産興業に力を入れ、富岡製糸場などを建設していく。
 

居留地と華僑

 

横浜、神戸、長崎では居留地の中(神戸は隣接地)に中華街が形成され、日本三大中華街に発展した。これは当初来日する外国商人は中国の開港場から来る者が多く、日本は漢字が通用するので中国人買弁が通訳として同行してきたためである。その後、日本と中国各地の開港場に定期船航路が開けると中国人商人(華僑)が独自に進出してきた。 中国人もオランダ人同様、長崎唐人屋敷で長年日本貿易を行ってきた歴史がある。神戸に進出した華僑は富裕な貿易商が多く、彼らは北野町とその西に居を構えた。これが神戸の関帝廟が例外的に中華街から離れた山手の住宅地に存在する理由である。

横浜に進出した華僑は、その大半が飲食業を営んだために、中華街の面積が大きくなった。

 

9.まとめ

 

 以上、主に英国外交官を中心とする欧米の情報活動の一環は、

  • 英国の情報収集は、幕府以外の雄藩や討幕運動にまで及び、日本の政治動向を正確に把握することに力が入れられていたこと
  • 仏国の情報源は主に幕府に限られていたため、正確に把握することができなかったこと
  • また対日貿易においても英国は圧倒的優位を占め、こうした貿易と情報収集の幅の広さ、卓越した能力は、幕末維新期の英仏の対日政策に決定的な差をもたらしました。それを可能にしたのがサトウやアストンらを生みだした通訳生制度であったことは間違いないのです。 日本アジア協会に集まった外国人たちが、多種多様な研究を行い、優れた日本学者として、現在につながる日本研究に多大な貢献をもたらし、日本文化の国際化に寄与したことはたしかです。

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    参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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たじまる 近世-15

tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

交通革命と情報合戦

 

9.交通革命の時代

 

 汽船と電信という技術革新を背景に、交通・情報ネットワークが一変して世界が交通革命の時代を迎えたのは1860年代末のことでした。

汽船は、1850年代にスクリューの開発、60年代には二段膨張エンジンの実用化、70年代には三連成機関の登場によって、航続距離の延長、船舶の大型化、高速化など飛躍的に高校性能を上昇させ、1870年代以降それまでの海上交通の担い手であった帆船を駆逐していきました。

1867年には、ペリーが開拓した太平洋横断行路が、太平洋郵船というアメリカの汽船会社によって実現しました。ついで1869年には、スエズ運河の開通、アメリカ横断鉄道の開通という、世界の交通網を一変させる事件が相次いで起きました。

新たな交通網の形成により、1869年にはロンドン・横浜間の移動日数は、スエズ運河経由の東回りルートで54日、太平洋経由の西回りルートで33日となりました。まさに「八十日間世界一周」が実現することになったのです。ジュール・ベルヌがこの小説を書いたのは1873年です。イギリスの旅行業者のトマス・クックは1872年に西回りでの世界一周ツアーを実施し、1871年、日本の岩倉具視使節団は東回りで欧米回覧の旅(実際は不平等条約)に出ています。

また、海底電信の敷設は、変動するヨーロッパの商況を早くしかも的確に把握することを可能にし、アジア貿易のリスクを大幅に減らしました。幕末期、セイロン以東には電信網は通じておらず、本国政府からの指令や日本からの情報は船で運ばれていました。1869年にスエズ運河が開通するまで、往復には四~五ヶ月かかっていたのです。電信線がデンマーク系の会社によりシベリア経由で長崎に延長敷設されるのは、1871年です。電信線は同年上海・香港へとつながれ、香港で、地中海・インド洋を経由して敷設された英国系会社の海底電線と接続されました。ヨーロッパと横浜や東京が電信でつながるのは73年のことです。

アジアの開港場に各国の植民地銀行が支店を開設して貿易金融を開始したため、資金力の弱い勝者にも貿易取引に参加する機会を拡大しました。不平等条約が締結された1850年代末とは比較にならないほど、経済的結びつきは拡大し、強固なものになっていきました。

そのネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。植民地金融、商業の拠点であり、定期海運網の基地であると同時に、通信・情報(海底電信網、外字新聞、領事館)のセンターでもありました。欧米の東アジア経営を支える貿易・流通機能の集中点としての三港体制は、定期汽船航路が拡充された1860年代に入って形成され、交通革命を迎えた1870年代に急速に整備されていいたのです。

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参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅▲ページTOPへ

 

10.1880年代への展望

 

 こうして欧米によって形成された東アジアの国際的ネットワークは、欧米との経済関係のみならず、アジア相互の経済関係においても実権を握りました。しかし、1880年代にかけて、アジア相互の条約体制が整備されていくにつれ、アジア相互の直接貿易が発展し、朝貢(ちょうこう)貿易システムにかわる自由貿易状況が形成されると、貿易ネットワークは三港を中心としつつもその他の開港場相互のネットワークの拡充によって急速に多元化していきました。また、80年代における東アジア域内市場の拡大は、欧亜間貿易を独占していた欧米資本の地位を低下させていきました。その結果、アジアの海は、次第にアジア商人の手に握られるようになっていくのです。

上海・香港・横浜の三港は、いずれも在来の都市をなるべく避けて、現地との衝突を起こさない場所を選んで建設されました。たとえば、香港では、中国人には利用価値のない不毛の島と呼ばれた香港島を獲得し、港湾都市を建設して、やがてアジア最大の貿易都市へと発展させました。

日本では当初の開港場は神奈川とされていましたが、幕府はここを避けて当時の小さな漁村である横浜村を開港場に指定しました。ここに外国人の居留地を建設しても問題は少ないと考えたのです。列強は当初は異論を唱えましたが、商人たちは次々と横浜に進出したため、開港場として認め、やがて日本最大の貿易港へと発展したのです。

とはいえ、この三港は、ヨーロッパから東回りでも西回りでも終着点であったため、列強の複雑な利害関係が絡み合っていました。そのことが三港の性格の違いを生じさせたのです。

 

香港はイギリスのネットワークの拠点

 

 香港は、南京条約でイギリスに割譲されたイギリスの植民地であり、イギリスの世界海運ネットワークの終結点でした。英国(頭脳)、インド(胴体)、シンガポール(肘:ひじ)、香港(手首)、上海・横浜(指)というたとえがありますが、まさに香港は、東アジアへの入口であり、アジア経営の要でした。

香港には、香港総督・全権大使・貿易監督官が設置され、イギリス海軍の極東艦隊が置かれていました。軍事的・外向的基地としての役割が重視されていたため、香港財政の構造は土地、アヘン、酒類ライセンス収入が主であり、支出の第一は人件費でした。

香港は、軍事基地およびイギリス国内法の保護を要する金融の中心でしたが、地代が高い、総督の東征が厳しい、後背地が狭い、貿易の可能性が少ない、などのデメリットから、住みにくい(上海との気候の違い、病死が多い)という欠点がありました。そのため初期には貿易商から嫌われていました。

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上海はどちら回りでも終着点

 

 香港(植民地)がアジア経営の政治的、軍事的センターであったのに対して、上海(居留地)は中国側の開港場であり、欧米の共同租界が設置され、租界の経営には列強が共同してあたりました。上海は東回り、西回りのどちらでもアジアの終着点であり、その先には長江や大運河を通じて広大な中国内陸都市が広がっていました。香港が欧亜間貿易の中継点であるのに対して、上海は内陸市場と外国貿易を結合する中国の経済ネットワークの拠点であったのと同時に、アジア域内最大の貿易・海運・布教の拠点でもありました。両者は分業関係が成立していました。

また、私見ですが、上海は長江の支流に位置しています。ロンドンもテームズ川を少し入った港でありよく似ています。

 

横浜は太平洋ネットワークの拠点

 

 一方横浜は、西回りルートにおける東アジアの入口であり、その意味では、アメリカの東アジア戦略の拠点としての性格を有していました。イギリスにとって、横浜は最終点であり、香港・上海に比べればその地位は相対的に低かったというべきでしょう。アメリカは南北戦争によって一時的に後退したものの、1870年代には再び対日外交を積極化させて、英仏のアジア経営に対抗していきます。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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但馬の火山 神鍋山

神鍋山 万場から神鍋山を望む

わが日高町の神鍋(かんなべ)地区は、関西のスキー場として古くから知られるが、旧火山の神鍋山を中心に高原が広がり古来から人が早くから住み始めた。

兵庫県豊岡市日高町にある神鍋山は、大正時代に開かれた関西初のスキー場として知られています。約2万年前の火山活動でできたスコリア丘で、標高469m、周囲約750mの噴火口は深さ約40mの擂鉢状の草原になっています。北西隣の大机山、南東の太田山、ブリ山、清滝山といった単成火山とともに神鍋単成火山群を構成しています。周辺には同時代に生成された風穴・溶岩流・滝などがあり、同じくスキー場として知られる鉢伏高原(養父市)とともに早くから人が住み着いた遺跡や古墳が多数あります。

噴火した火山の火口跡が鍋のような形状から「神様のお鍋」という意味で神鍋山とついたのでしょう。これは上記のようにもともと「神奈備(かむなび)山」が訛って「かんなべ」となり、「神鍋」という字を当てたのではないかと思います。ゲレンデ名になっている岩倉という字名があり神奈備の磐座(いわくら)のことではないでしょうか。

気多人(けたじん)のルーツと思われる縄文人は、中国山地を尾根づたいに獲物を追ってやってきたとも考えられます。また、海水面が今よりも低かった頃、海岸づたいに転々と移り住みながら移動してきたと考えられます。

兵庫県内で古い遺跡が発見されたのは、温泉町畑ヶ平遺跡、養父町・但東町の尖頭器発見、 大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。2カ所は同じ山岳地帯で尾根でつながっています。人類は最初、山岳地帯から住み着いていました。

噴火した火山の火口跡を見つけた縄文人は、鍋のような形状から、「カネ・ナペ」、「神奈備(かむなび)」が訛って「かんなべ」となり、「神様のお鍋」、「神鍋」という字を当てたのではないでしょうか?!

このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのです。これは神鍋山(かんなべやま)を神奈備と想定して、山神社、椒(ほそき)神社、雷神社の三つの名神大社を結ぶと正三角形に鳴ることに気が付きました。このトライアングルは、「三柱信仰」ではないか!と思うのです。

万場(マンバ)区は神鍋山から東に位置し、山田の奥神鍋スキー場と繋がるスキー場で、村落の氏神様が天神社です。てっきり名前から雷神社、山神社などとつながる古社のひとつだではないかと考えていたのですが、行く機会がなく初めて訪れました。境内の鳥居に天満宮と書かれてあり、したがって祭神はもちろん学問の神様菅原道真公です。

神鍋地区は古くは太多郷=旧西気村)で、鉢伏地区同様に意味不明の難解な地名の宝庫で、それだけ古くからの人が住み着いた歴史を感じさせます。神鍋(かんなべ)=カネ・ナペが訛った?、太田(ただ)、稲葉(いなんば)=イナパ?、山田(やまた)イヤマタ?、万却(まんごう)、名色(なしき)、万場(まんば)マパ?とポリネシア言語に近い発音です。この「まんば」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,overflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?

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丹後の古墳 網野銚子山古墳

【概要】

京丹後市網野町は、旧竹野郡(たかのぐん)で、日本海に注ぐ福田川と鳴き砂の浜で有名な琴引浜などの海水浴場、京都府下で一番広い湖である離湖(はなれこ)があり、古くは離湖と西の池があって福田川が流れ込んで日本海に注いでいたといわれている。

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(29) 韓国の現代社会と人間関係

[catlist id=8] 1960年代以降、韓国社会は急激な社会変化を経験してきました。都市への人口集中と農村の過疎化、それによる血縁関係の結束の弱体化がある一方で、国民文化として伝統の強調もおこなわれています。

家族関係の変化

伝統的に理想とされてきたのは、三世代同居の家族形態でした。しかし1960年代からの産業化と都市化の進展はアパートでの核家族の居住を一般化させました。地方の小さな町にもアパートが建ち、近隣の村の若い夫婦たちが居住しています。1980年代までは都市に出た人でも祭祀(チェサ)などの際には故郷に帰るのが一般的であり、都市に暮らす人と農村に暮らす人との間の交流がみられ、常に関係が確認されました。

しかし最近では、祭祀の場に参加する人々は減少しており、門中などの親族の結束も弱体化してきています。しかし人間関係自体が希薄化しているかというとそうは言い切れないのです。かえって携帯電話をはじめとする通信機器の発達は、人間関係の維持にも大きな役割を果たしており、世界中のどこにいても身近にいることを確認できます。

核家族化は、家族の人数の減少ももたらしています。1995年には家族の人数は3.3人にまで減少しています。この背景には女性の社会進出があります。また近年では離婚率が高くなっており、さまざまな問題が引き起こされています。

家族観のゆらぎ

韓国では、男性の側により重心をおく構造に変わりはないようにみえました。しかし女性側から要求として出されていた「戸主制」廃止論が力を持つようになってきており、変化がみられます。

「戸主制」は日本の植民地期に日本の家をモデルとして制度化されたもので、数度の改編を経ながら存続してきています。「戸主制」では戸主の地位の景勝が男系優位であること、家族の範囲を戸主の戸籍の範囲内としていること、子供の姓は父親の姓であることなどの特徴がみられます。離婚の急増で問題となっているのは子供は実父の姓を受け継ぎ、犠牲を名乗ることができないため、さまざまな不利益をこうむる点です。子供に実父以外の姓を名乗らせようとする運動は父系主義を真っ向から対立するものです。

「戸主制」廃止については、保守勢力からの反発は強いですが、若い世代を中心に楊ミンする雰囲気があり、近い将来改編される可能性が高いです。廃止されると、朝鮮王朝以来続いてきた父系主義が否定されることになります。その結果多くの問題が引き起こされるのか、逆に社会が変化したために制度が変えられただけのことで大きな問題とならないかは興味深いところです。

ナショナリズムと移民

2002年、日本と韓国とで共催されたサッカーのワールドカップ大会は、韓国チームの活躍もあり韓国では街中に応援の人々があふれました。そこでは「大韓民国(テハーン・ミングック)」が合唱され、熱烈な応援とナショナリズムが世界の人々の関心をよびました。韓国はナショナリズムがよく表明される社会でもあります。また近年の若い世代の反米感情の高まりのなかでは、北朝鮮と一体化した民族というナショナリズムもみられ、2001年末の大統領選挙では、北朝鮮との宥和政策をかかげた盧武鉉(ノ・ムヒョン)を大統領としました。

一方でその同じ世代が国を離れて移民を希望したり、また実際に移民していったりしています。理由は子供の教育問題のためで、韓国内の苛烈な受験競争を避けての移民です。韓国では移民は特別珍しいことではありません。父系血縁意識が強かったので、どこにいても自分自身のアイデンティティは変わらないと思われてきました。しかし、社会の変化とともに薄らぎつつある父系血縁意識は、韓国人のアイデンティティをどう変えていくのか注目されます。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(28) 韓国の社会関係

[catlist id=8] 伝統的な社会関係

日本人にもっとも近しい国はどこかといえば、地理的にも同じ島国という国民性からも台湾(中華民国)です。

そしてもっとも歴史・文化・交流・言葉が近いのは韓国です。韓国にはこれまで2度行ったことがあります。韓国も台湾もそうですが、世界中でもっとも日本人と近い隣人であることが体験できます。

しかし、唯一異なるのは、過去に二国間で争いがおきましたが、日本列島は第二次世界大戦で米国に占領されたことがありますが、幸いにも言葉や習慣自体を奪われることはありませんでした。したがって、一度も他国から植民地化されたことがないのですが、朝鮮半島は何度も同じ民族同士や他国から侵略を受けてきた歴史だということです。

韓国社会は儒教によって高度に秩序化された社会であり、父系血縁関係を基盤とした家族・親族関係が形成されている点では日本と大きく異なります。これは中華の伝統を受容し、それをもとに朝鮮の社会関係を組み直した結果でもあります。このような伝統的な家族・親族関係は、現在では社会の変化とともに大きく変わってきています。

父系血縁関係

韓国では朝鮮王朝時代に国教とされた儒教(朱子学)によって、父・子関係を基本とする父系血縁関係が社会に浸透していきました。およそ17世紀後半から18世紀にかけて定着したといわれています。

韓国人にとってもっとも基本的なアイデンティティは父系血縁です。そしてその関係は生涯変わることはありません。父系の血を継承したことによって、自分自身の所属が明らかとなります。女性にとっても生涯この父系血縁関係は変わることはありません。

家族

韓国では家族というときに「チップ」という言葉を良く使います。日本語の「家・いえ」という言葉によく似ていて、家族とともに家屋の意味でも使われます。このチップは日常生活の基本単位であり、伝統的には長男夫婦が老後の親を扶養します。三世代同居の姿が理想型とされてきました。ただしチップはより範囲が広く、次三男以下が独立した後やその子孫たちも、同じ血を持つ者として考えられ、同じチップのメンバーとなります。とくに農村部では、近くに住むことが多く、日常的に緊密な繋がりをもっており、また相互に助け合う関係でもあります。日本では家族であっても遠くに離れてしまうと心情的に距離感をもつことが少なくありませんが、韓国では日常的関係がさほど緊密でなくとも、常に関心をもっていて心情的には近いのです。血縁関係を軽視することは、倫理に反するとみなされて批判されることになります。

父親と子どもの関係が基本とされるため、とくに父と息子の関係は厳格で形式的なものとなります。とくに儒教に忠実であろうとする人々の間ではそうです。一方、逆に母親と子供の関係は打ち解けた親しみのあるものです。また祖父母との関係は、子供にとっては何でも許される関係となります。

また四代前までの祖先を祀る忌祭祀(キジェサ)を祀る子孫たち、つまり高祖父を共通の祖先とする八親等の関係をチップの内側という意味でチバンといい、このチバンが親族のなかでも近い関係です。

親族

父系血縁の原理はチバンのように親子兄弟関係をこえて拡大して考えられます。親族組織を門中(ムンジュン)といいます。門中は、ある祖先からの系譜が明確な人々によって構成され、元来はある特定の地域に集中して居住することが多く、村全体が同じ門中というような村落も存在しました。門中は祖先祭祀のために組織化されたので、そのための土地や財産を所有することも多い。門中はその系譜関係を明らかにするためのものとして族譜(チョッポ)を編纂します。

親族

族譜は父系の系譜関係を明示するものとして存在するので、父系の血の概念が浸透し、それにともなって親族組織がつくられるようになってから一般化しました。王朝時代には族譜を編纂し所有することがステータスの証しでもありました。族譜の記述形式は定まっていて、最初に一族の歴史が語られ、始祖からの系譜を親子関係を上下に、兄弟関係を横に並べて記載されます。個人についての記載内容も現在ではほぼ一定で、名、生年月日、官職や事跡、配偶者の父親の姓名と本貫、本人と配偶者の没年月日、墓の位置などです。

現代の韓国でも族譜はステータスと大きく関連していて、族譜を出版する出版社や族譜を集めた図書館などが存在します(日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。族譜は一世代(約三十年)ごとに改訂されるのが通常で、死者や新しい成員の情報が付け加えられます。また過去にさかのぼって見直しが行われます。

最近では刊行される族譜に女性の名前が記載されることが多くなり、また漢字を読めない人々が増えてきたためハングルでの表示もなされています。また多くの門中で族譜がインターネットを通じて公開されていることも、伝統と新技術の結合として特徴的なものでしょう(出版同様、日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。

姓氏

韓国には姓が270あまりしかありません(ちなみに日本は姓は正式には氏ともいい、名字・苗字ともいう。十数万もの種類の名字がある)。またその内の少数の姓に集中しています。金・李・朴が三大姓といわれ、この三つの姓で全人口の45%を占めます。しかしながら金姓の人々は同じ一族かというとそうではありません。姓に本貫という地名をプラスすることによって区別をします。金姓では本貫の数は300近くあります。本貫は始祖とよばれる祖先と関連する地名である場合が多い(金海金氏・慶州金氏など)です。また始祖は必ずしも実在の人物とは限らず、神話的な存在である場合もあります。このように本貫と姓を同じくする人々を、同姓同本といいます。同姓同本の人々は明確な系譜関係で結ばれているわけではないし、共同で何かをやることは少ないです。

しかし、この同姓同本が明確な区分として使われるのが婚姻の場合です。同姓同本の間での婚姻は、つい最近まで、ある少数の例外は除いて、「同姓不婚」の原則に該当するため法的に禁止されてきました。そのため多くの問題が発生することとなりました。

それは、同姓同本である男女による事実上の婚姻生活です。法的には認められない婚姻のため、生まれてくる子供は法的に男性の子供とは認められず、私生児とならざるを得ませんでした。厳格な父系血縁の社会で父親の存在がないことは多くの不利益を子供にもたらすことになります。そのため例外的に婚姻を認める期間が設けられたことがありましたが、現在では同姓同本の婚姻を禁じた民法の条文は効力停止となっており、同姓同本の婚姻は自由となっています。

民族

朝鮮半島は半島というコンパクトな地域に、王朝交代の少ない比較的に安定した社会を長年にわたって維持してきたため、社会や文化の均質性が高いのが特徴です。もちろん地域差や階層の差による違いがないではありませんが、今日では比較的に小さいものです。そのため民族意識がつくられやすく、近代になると外部からの圧力もあり、自分たちを同じ血をもつ民族としてみなすことがおこなわれました。この民族の血の概念は架空のものでありますが、対外的にも、また自らのアイデンティティを確認するときにも重要な働きをしています。

北朝鮮との関係においても、金泳三大統領以降の政権では、同じ民族としての面を強調し、和解の雰囲気をつくり出してきているようです。このように、同じ血をもつ民族という概念は、政治的なものでもあります。

両班意識

父系血縁観念が広く行き渡り、親族意識を組み直していったのには、朝鮮王朝の支配層であった士大夫(したいふ)層の役割が大きかったのです。士大夫層のことを士族といいます。士族は科挙に合格し官職に就いた人物を指し、一般的に文官と武官を総称して両班(ヤンバン)と称されたのですが、時代をへるにしたがって両班の適応範囲は広がっていきました。その際に必要とされた両班らしさのなかには、儒学の素養や儒教的規範の実践のほか、父系血縁意識による祖先祭祀、族譜の所有、親族意識などがありました。両班の生活様式を実践することによって、自らのステータスを上昇させようという人々が存在し、それがまた父系意識の浸透にも影響したと考えられます。そして現在では、韓国人の多くが自分たちは両班の子孫であると認識しています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(27) 新世紀の朝鮮半島

[catlist id=8] 2000年に入ると朝鮮半島の事態は一変しました。6月、金大中大統領が平壌を訪問し、北朝鮮の金正日委員長と初の南北首脳会談を実現させました。両首脳は、統一問題の自主的な解決、南北双方の連合、連邦制案の共通性の確認、離散家族訪問団の交換、経済協力や社会・文化などでの協力交流、合意事項実施のための早期の当局間の対話開始、の五項目からなる南北共同宣言に署名しました。宣言には金正日委員長のソウル訪問も明記されました。宣言の内容は、1972年の七・四南北共同声明以来の路線を踏襲するものでしたが、両首脳が直接会談したことは、南北和解の雰囲気を一挙に高めました。とくに、金正日委員長の姿と肉声が世界にテレビで生中継されたことは、北朝鮮のイメージを好転させ、その外交戦略を助けることとなりました。
以後も8月と11月の二回にわたる南北離散家族の相互訪問。9月シドニー・オリンピック開会式における南北の合同入場行進など、和解の動きは続きました。そして、12月には、長年の民主化への尽力に加えて、朝鮮半島の緊張緩和を進めた実績が評価され、金大中大統領にノーベル平和賞が授与されました。2002年6月には、日・韓共同開催のワールドカップ・サッカー大会が実現し、日韓関係の進展がみられました。また、同年12月の第十六代大統領選挙では、与党候補の盧 武鉉(ノ・ムヒョン)が当選しました。03年2月に発足した盧 武鉉政権は、基本的に前政権の政策を継承しながらも、社会の広範囲にわたり民主化の促進につとめました。しかし、金大中系列の議員との対立が深まって与党は分裂し、03年11月、盧 武鉉系列の議員によって、新与党である開かれたウリ党が結成されました。
北朝鮮は、2000年1月、イタリアと国交を樹立したのをはじめ、EU各国やカナダなどと相ついで修交するなど、積極的な外交を進めました。10月、趙明録国防委員会第一副委員長が訪米してクリントン大統領と会談したのに対して、同月オルブライト国務長官が訪朝して金正日委員長と会談するなど、米朝関係は急激な進展を見せました。しかし、01年1月、共和党のブッシュ政権が発足すると、米国は北朝鮮をイラン、イラクと並ぶ「悪の枢軸」であると非難し、関係は悪化しました。これに対して、北朝鮮は米国に現体制の存続を保証する不可侵条約の締結を求める一方で、反米姿勢を強めて核開発の再開を発表する瀬戸際政策を展開しました。
02年9月、日本の小泉純一郎首相が訪朝して、金正日委員長と初の首脳会談をおこない、日朝平壌宣言を発表しました。宣言は、日朝の国交正常化を再開する、北朝鮮のミサイル発射実験の凍結期間を延長する、賠償に変わる経済協力をおこなう、ことなどを謳い、従来の日朝関係を一変させるものでした。しかし、このとき北朝鮮が1970年代に日本人を拉致した事実を公式に認定し謝罪し、五人の拉致被害者が日本に帰国しました。しかし、このことは日本で反北朝鮮の世論を強める結果となりました。これに対して北朝鮮も態度を硬化させ、関係は冷却化の様相をみせました。また、同月北朝鮮は外国資本の誘致をねらい、新義州に香港をモデルとした特別行政区を設置するとの発表をおこないましたが、構想は頓挫しました。
さらに、02年10月、北朝鮮が米国に対して核兵器開発計画があることを認めると、これに反発する米国は、枠組み合意が無効になったとの認識にもとづき、KEDOの事業に対する見直しを表明しました。03年11月、KEDOは事業の中断を発表し、軽水炉の提供は事実上棚上げとなりました。また、8月、北朝鮮の核開発問題をめぐり、南北朝鮮、中国、日本、ロシア、米国が参加した六者協議が北京で開催されましたが、問題解決には至りませんでした。このように国の内外で社会的・経済的困難が続くなか、北朝鮮からの脱出住民は急増し、中国に潜伏する者だけでも数万人におよぶと推測されました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(26) 南北の対話と緊張

[catlist id=8] 中ソ対立と北朝鮮

建国以来、中国、ソ連と密接な関係を維持してきた北朝鮮にとって、中ソ対立は対応が困難な試練でした。反米闘争の堅持をかかげる北朝鮮は、1960年代前半、ソ連を批判して中国を支持しましたが、文化大革命の開始とともに中国との対立が深まり、ソ連との関係が改善されました。1970年、中国との関係も正常化されましたが、一連の事態は、北朝鮮に自主路線貫徹の必要性を痛感させました。
1961年に策定された人民経済発展七カ年計画は、翌年「人民の武装化、国土の要塞化、軍人の幹部化、軍備の現代化」からなる四大軍事路線の採択にともない、国防支出を増大させて、民生関連予算を削減する変更を強いられました。軍事費の突出により経済建設は困難を極め、計画は三年間延長して70年に達成されました。さらに、イデオロギー面でも自立化路線が追求され、1967年5月、解放前祖国光復会の活動を国内で支えた甲山派も粛清されて、「革命の首領」金日成が唱える「主体(チュチュ)思想」[*1]に全国民が従うことを求める「唯一思想体系」が確立されました。

[*1]…主体思想とは、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、防衛における自衛」を趣旨とし、自力更生を重視してマルクス主義を朝鮮に適用した思想。

南北の対話と緊張

中ソ対立や米中接近など国際情勢の変化を機に、軍事費の増大がそれぞれの財政を圧迫していた南北の政権は、対話路線に転換しました。極秘の折衝の末、1972年7月、「自主・平和・民族的大同団結」という祖国統一の三大原則をかかげる共同声明(七・四南北共同声明)が発表されました。これは、互いに存在を否定してきた南北の政権が、相手を一つの政権として認めたことを意味し、将来の統一に向けて、今後の対話と交流の拡大を期待する内外の民衆の熱狂的な支持を獲得しました。

南北の強権体制

韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)の長期政権に対する不満も高まり、1971年4月、第七代大統領選挙で野党候補の金大中が善戦しました。政府への支持拡大をねらった南北共同声明でしたが、依然として民間レベルでの南北交流を禁圧する反共体制を維持しようとする政府に対する世論の批判を招きました。支配の安定確保をもとめる朴正煕政権は、1972年10月、非常戒厳令を布告し、12月、大統領の権限を極限まで強化した「維新憲法」を公布して(第四共和国)、個人独裁体制を確立しました。また、1970年11月、青年工員全泰壱が劣悪な労働条件に抗議して焼身自殺した事件を機に高揚した労働者、農民の運動や野党や学生の反政府運動は、大統領緊急処置の発令により徹底的に弾圧されました。1973年8月、金大中がKCIA(中央情報部)の要員によって宿泊中の東京のホテルから拉致され、1974年4月、200余人が反国家団体結成の嫌疑で逮捕される(民生学連事件)など、政治的弾圧事件が続発しました。しかし、市民や学生の独裁批判は止まず、政治家の尹潽善前大統領や金大中、キリスト教会などが1976年3月、朴正煕大統領緊急措置撤廃・朴正熙政権退陣を呼びかけ、民主救国宣言を発表しました。
経済的には、1972年、重化学工業化をめざす第三次五カ年計画が開始されました。日本の技術援助を得た浦項総合製鉄所が完成し、現代(ヒュンデ)、三星(サムソン)などの財閥が輸出を推進して、「漢江の奇跡」とろばれう経済成長を実現しました。他方、解体しつつある農村の再統合をはかり、農民の所得増大と大衆動員をめざすセマウル(新しい村)運動が展開されましたが、離農は阻止できませんでした。1979年夏、第二次石油危機による不況下で労働争議が頻発しましたが、政府は弾圧方針を変えませんでした。争議は大統領退陣要求運動へと発展しました。釜山や馬山で市民と警察の衝突が続くなか、1979年10月、朴正熙が側近の中央情報部長に射殺され、個人独裁体制は崩壊しました。
北朝鮮では、1972年12月、新憲法が制定されました。金日成が新設の国家主席に就任し、党と国家と軍の権力を掌握しました。その理論的基盤は主体思想でしたが、前とは異なり、マルク主義の唯物論を超越した人間の意識の能動性が強調されました。1973年2月、思想革命、技術革命、文化革命をめざす三大革命小組運動が開始され、それとともに金日成の長男 金正日が台頭しました。個人崇拝の徹底につれ、後継者の資格を血統に求める主張が力を得たのです。以後、金正日の資質を賞揚し、社会主義国家における権力世襲を正当化する事業が推進され、1980年10月、朝鮮労働党第四回大会は、金正日が金日成の後継者であることを正式に内外に発表しました。
経済的には、1971年から重工業の発展に重点をおいた六カ年計画が開始され、重労働と軽労働、農業労働と工業労働など各部門間の労働格差解消と、女性の家事労働からの解放を唱える「三大技術革命」が提示されました。しかし、軍事費の圧迫により経済成長は鈍化し、西側から借款の導入がはかられましたが、第一次石油危機を機に対外債務返済の不履行が深刻化しました。

韓国の軍事政権

朴正熙暗殺後、首相崔圭夏が後継大統領になりましたが、1979年12月、全斗煥が「粛軍クーデター」で実権を握りました。全斗煥は、翌年5月戒厳令を全国に拡大し、光州の民主化抗争を武力で弾圧して、第11代大統領に就任しました。1981年3月、新憲法下に第五共和国を出帆させた全斗煥政権は、日米の保守政権と連携を強め、日本から40億ドルの借款を獲得しました。また、強権でインフレを解消した後、1982年からの第五次五カ年計画では民間企業主導の開発戦略を採用しました。しかし、日本に対する累積債務は深刻であり、1982年7月、日本の歴史教科書の記述訂正を求める運動が高揚したように、政府の対日依存の姿勢は野党や学生などに非難されました。80年代後半にはウォン安、原油安、金利安の恩恵で輸出が増大し、1986年貿易収支がはじめて黒字となりました。しかし、権力との癒着を背景に不正蓄財事件が続発し、政府を批判して大統領直接選挙の実施を求める運動に多くの市民が参加しました。
1987年6月、全斗煥の後継者に推挙された盧泰愚(ノ・テウ)が、大統領直接選挙実施のための改憲、民主化、金大中赦免をかかげる特別宣言を発表しました。12月、盧泰愚が第十三代大統領に当選しました。盧泰愚政権は軍事色の払拭につとめ、1990年1月、少数与党という窮地を脱するため与野党を合同し、民主自由党を結党しました。他方、88年9月、ソウル・オリンピック開催を機に、東欧諸国など社会主義国と修交する「北方外交」の延長線上に北朝鮮との関係改善がはかられ、90年9月、第一回南北首相会談の開催をへて、91年9月、韓国の主導下に南北は国連に同時加盟しました。

「われわれ式社会主義」

1980年代の北朝鮮では、革命第二世代の権力機構への進出が顕著となり、人民軍最高司令官、国防委員会委員長に就任して権力の継承を進める金正日に対する賛楊事業が展開されました。そして、東欧、ソ連の社会主義が崩壊するのに対して、「われわれ式(ウリシク)社会主義」をかかげて体制維持をはかりました。その理論的基盤は、国家における首領と党と大衆の一体性を唱える「社会的政治的生命体論」でした。
1992年4月、憲法が改定され、主体思想の脱マルクス主義化と国防重視の方針が明示されました。他方、経済建設は限界に達し、三年の調整期ののち、87年から第三次七カ年計画が開始されましたが、経済事情は好転しませんでした。また、ソ連の解体と中国の市場経済導入は、従来の「友好価格」での石油や食糧の輸入を途絶させ、状況を悪化させました。北朝鮮は合営法の制定や自由貿易地帯設置など、外国資本の誘致につとめましたが、在日朝鮮人企業家を除いて、進出は進みませんでした。韓国に対しては、ラングーン爆弾テロ事件(83年10月)や大韓航空機爆破事件(87年12月)など、諜略工作がおこなわれました。
1992年1月、国際原子力機関(IAEA)との核査察協定に調印しました。しかし翌年、査察を拒んで核不拡散条約(NPT)脱退を表明し、南北会談で戦争を示唆するなど情勢は緊迫しました。これに対して、米朝高官協議がはじまり、94年6月、南北首脳会談の開催が決定しました。7月、金日成が急死して会談は中止されましたが、10月、核兵器開発が可能な黒煙炉を軽水炉に替えることで米国と合意し、95年3月、日本、米国、韓国が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、軽水炉の建設に着手しました。
また、北朝鮮は、1994年以降連続して自然災害に襲われ、食糧危機の陥りました。国連機関や各国政府、NGOが支援しましたが、危機は解消されませんでした。89年以来のマイナス成長に加え、1994年からは経済計画さえ立案できなくなりました。北朝鮮崩壊による極東情勢の激変を憂慮した周辺諸国は、斬新的な開放政策の導入による「軟着陸」をはかり、97年12月、南北朝鮮と米国、中国の四者会談を開始しました。
日本に対しては、90年9月国交交渉を開始し、97年11月、食糧支援と引き換えに北朝鮮帰還者の日本人配偶者の一時帰国が実現しました。しかし、98年8月、テポドン1号発射を契機に再び緊張が高まりました。韓国の文民政権に対しては、食糧支援を求めて和解の姿勢を示す一方で、96年9月の潜水艦侵入事件など、冒険主義的な工作も併用しました。加えて、韓国よりも米国との直接交渉を優先させる姿勢を示すなど、社会主義国家としての生き残りのために複雑な外交戦略を展開しました。

韓国の文民政権

1992年12月の大統領選挙では、地域感情をあらわにした選挙戦の末、与党候補の金泳三(キム・ヨンサム)が当選して文民政権が発足しました。前政権の閣僚や有力者を多数逮捕して、独自色を鮮明にしました。省庁統合を断行するなど改革の姿勢を示しましたが、他方で聖水大橋崩落などの事故や公務員の不正が続発し、急激な成長の陰で社会の矛盾が噴出しました。93年からの新経済五カ年計画は先進国入りをかかげましたが、96年10月、経済開発機構(OECD)への加盟が承認され、宿願が実現しました。
また、金泳三政権は、日本の首脳との会談を通じて植民地支配に対する謝罪発言を引き出し、韓国内でも解体に賛否が分かれていた日帝時代の象徴たる旧朝鮮総督府庁舎を解体しました。さらに、95年10月、秘密政治資金口座の発覚を機に盧泰愚を逮捕し、全斗煥とともに「粛軍クーデター」から光州民主化抗争までの事態に関する軍反乱と内乱の容疑で訴追するなど、「歴史の清算」を実践しました。ところが、97年夏、自動車、製鉄など基幹産業の不振から韓国経済は極度の不況に陥り、これが通貨危機に発展しました。年末には対外債務の不履行が危惧されたため、11月、政府は国際通貨基金(IMF)や日本、欧米に緊急支援を要請し、辛うじて経済の破綻を免れました。
97年12月、第十五代大統領選挙で野党候補の金大中が当選し、与野党間の政権交代が実現しました。金大中政権は、社会・制度の民主化の推進とともに、国際競争力確保のため大企業の構造改革に着手し、国家信用度を短期間に回復しましたが、大量の失業者の出現など犠牲も大きいものでした。対外的には、日本の大衆文化の受け入れなど、未来志向の日韓関係の樹立を進めました。北朝鮮に対しては、「太陽政策」とよばれる協調政策を採用し、北朝鮮領内の金剛山(クムガンンサン)への観光船ツアー実施など、民間の交流を支援しました。しかし、北朝鮮の潜水艦の侵入や黄海上での南北艦艇の交戦など、不安定要因は完全には解消されませんでした。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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