【たんご昔ばなし】 浦島太郎

浦島太郎

「徐福伝説」とならんで「浦島伝説」があります。その内容は表現も構成も神仙思想を元に古代中国で流行した神仙伝奇小説に似ており、この物語が徐福伝説に似た不老不死への願望から生じた作品だったと考えられており、時代的には弥生時代に遡ると考えられます。異なるのは、徐福伝説は中国から常世のクニに不老不死の薬を求めて旅立ちますが、浦島太郎は反対に日本から蓬莱山(竜宮城)へ不老不死の薬を求めて亀に乗って向かいます。

原作が成立したのは奈良時代の700年前後のことですが、現在、原作それ自体は現存していません。しかし、原作内容を知る手掛かりとなる史料として『日本書紀』、『万葉集』、『丹後国風土記』「逸文」の三書があります。いわゆる、説話を語る始原の三書と呼ばれるもので、「浦島説話」研究にとっての基本文献です。三書のうち、説話内容について最も詳しく触れているのが「逸文」です。そのため、「逸文」を核に据え、分析・考察することが「浦島説話」を読み解く鍵となるとされます。

日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代垂仁天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國造りをなされたをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野(たかの)神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかと伝えられています。

丹後国「風土記」逸文 筒川の嶋子(水江の浦の嶋子)

『丹後の国風土記』によると、与謝郡日置(伊根・筒川・本荘から経ヶ岬までの広い地域をさす)に筒川村(現在の伊根町筒川)があります。ここに日下部首(くさかべのおびと)等の先祖で名を筒川嶋子(つつかわしまこ)という者がいました。

嶋子は容姿端麗で優雅な若者でありました。この人は水江の浦の嶋子という人のことです。

長谷朝倉宮(はせのあさくらのみや(雄略天皇))の時代、嶋子は一人大海に小船を浮かべて釣りをしていました。しかし、三日三晩経っても一匹も釣れませんでした。あきらめていたころ1匹の五色の亀が釣れました。不思議だなあと思いましたが船上に上げておきました。すると、眠くなっていつの間にか寝てしまいました。

しばらくして目が覚めると、亀が美しい乙女に姿を変えていました。その美しさはほかにたとえようがありません。ここは陸から離れた海の上、
「どこから来たのですか。」
とたずねると、

乙女は微笑みながら
「あなたが一人で釣りをしていたのでお話ししたいと思い、風や雲に乗ってやってきました。」
と言います。

嶋子はさらに「その風や雲はどちらから」とたずねました。
すると乙女は「私は天上の神仙の国から来ました。決して疑わないでください。あなたと親しくしたいのです。」
と言います。

嶋子は乙女が本当に神仙の国から来たと信じました。

さらに乙女は「私は永遠にあなたのそばにいたいと願っています。あなたはどうですか。お気持ちをお聞かせください。」と言いました。
嶋子は「そんなに慕われているのを聞けばうれしいことです。」と答えました。乙女は海の彼方にある蓬山(とこよ)の国へ行こうと言います。嶋子は乙女が指さす方へ船をこぎ始めるとすぐに眠ってしまいました。

すぐに大きな島に着きました。そこは玉石を散りばめたような地面で、綺麗な宮殿があり、楼閣は光輝いているように見えます。嶋子がこれまでに見たことがない景色で、二人は手を取り合ってゆっくりと歩んで行きました。

すると、一軒の立派な屋敷の門の前に着きました。乙女は「ここで待っていてください。」と言って中に入って行きました。

門の前で待っていると、7人の子供たちがやってきて「この人は亀姫様の夫になる人だ」と語っています。

そして、次に8人の子供たちがやってきて、また「亀姫の夫はこの人だ」と話しています。嶋子は乙女が亀姫だと知りました。しばらくして、乙女が出てきたので子供たちのことを話すと、乙女は「7人の子供らは昴(すばる)で8人は畢(あめふり)だから怪しまなくてもいいですよ。」と言って門の中へ案内しました。(*昴(すばる)と畢(あめふり)は星座。畢は牡牛座を示します。)

屋敷の中では乙女の両親が出迎えてくれました。嶋子はあいさつをすると座りました。両親は、「神の世と人の世が別々でもこうしてまた会うことができてうれしい」と大変喜んでいました。

そして、たくさんのご馳走を味わうようにすすめられました。兄弟姉妹ともお酒を飲み、幼い娘らも取り囲みました。高く響きわたる美しい声、美しく舞い踊る人たち、見るもの聞くもの全てが初めてのことで驚くばかりでした。だんだん日が暮れて夜になり、みなが帰ると、嶋子と乙女の二人だけが残りました。そして、袖がふれあうほどに近づき、この夜、二人は夫婦となりました。

二人は幸せな日々をすごしました。見るものは美しく、ご馳走がたくさんあり、心ゆくまで楽しむことができました。嶋子は神仙の世界で楽しい時を過ごし、現世を忘れてしまっていたのです。そして、いつしか3年の時が流れます。嶋子は父や母はどうしているのだろうかと故郷のことがだんだん気になってきました。悲しくも懐かしくもなり、そのことを考えると食事も進まないので、顔色も悪くなっていきました。

妻となった乙女が、「近頃のあなたは以前とは違っています。どうしたのですか。そのわけを聞かせてください。」とたずねました。

嶋子は「昔の人はこんなことを言いました。人は故郷を懐かしむものだ。狐は故郷の山に頭を向けて死ぬと言う。私はそんなことは嘘だと思っていたが、最近になって本当のことだと思えるようになりました。」と言いました。乙女に「帰りたいのですか」とたずねられ、「私は神仙の世界で楽しい時を過ごしていますが、故郷のことが忘れられないし両親にも会いたくなりました。だから少しの間故郷に帰らせてほしい。」と申し出ました。
乙女は「あなたと私は金や石のように固い約束で結ばれ、永遠に一緒に暮らすと誓ったではありませんか。しかし、あなたは私一人を残して帰ってしまうのですね」と涙を流しました。二人は手を取り合って、歩きながら語らいました。いくら話をしても悲しみが増すばかりです。やがて、嶋子の思いが固いことを理解し、別れることを決心しました。

出発の日、乙女もその両親もみんなが見送りに来ました。乙女は嶋子に美しい玉櫛笥(*玉手箱:化粧道具などを入れるきれいな箱)を嶋子に渡して、「私のことを忘れないでください。この箱をあなたに差し上げましょう。でも、私にまた会いたいと思うのなら決してふたを開けてはなりません。」と固く言いました。嶋子は「決して開けません」と約束しました。

船に乗って目を閉じるとあっという間に故郷の筒川が見えました。水江の浜に戻った嶋子は、大変驚きます。そこにはかつての村の姿がなく、見たことのない景色だったからです。しばらく歩いて、村人に水江の浦の嶋子の家族のことを聞いてみました。すると不思議そうな顔をして「今から300年前に嶋子という者が海に釣りに出たまま帰ってこなかったという話を年寄りから聞いたことがありますが、どうしてそんなことを急に尋ねるのですか」と言います。嶋子は村を離れていたのは3年間だと思っていたのですが、実は300年も経っていたと知り、途方にくれてしまいました。

さまよい歩いて10日ほど経ったとき、嶋子は再び乙女に会いたくなっていました。傍らに持っていた玉手箱にふと目を向け、なでていましたが、いてもたってもいられなくなり、約束も忘れてふたを開けてしまいました。すると、開けきらないうちに中から芳(かぐわ)しいにおいが天に流れていってしまいました。ここで我に返って約束を思い出しましたがすでに遅かったのです。

浦嶋子はここで玉手箱を開けてしまいました。するとたちまち顔がしわだらけになり、悲しみのあまりしわをちぎって木に投げつけたら樹皮が凸凹になったと伝わります。ここでは松ではなく榎だと伝わっています。

「浦島太郎」あるいは「浦嶋子伝」の話が形作られる以前に、人が亀の背に乗って海を渡る話や海神の国へ行き3年経って戻ってきた話など、原点とも言える伝説があります。

浦嶋神社(宇良神社)

  

京都府与謝郡伊根町本庄浜191番地 旧社格 郷社
祭神 浦嶋子(浦嶋太郎) 相殿神-月読命祓戸神
祭儀 例祭8月6・7日、祈年祭・延年祭(福棒祭)-3月17日
社殿 本殿神明造 (間口5.4㍍奥行3.6㍍)

御由緒:浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)7月22日とされ、浦嶋子を筒川大明神として祀むるのが始めであると伝えられる。醍醐天皇延喜5年(905)撰上の「延喜式神明帳」に、宇良神社(うらのかむやしろ)として所載されているいわゆる式内社である。


蓬山の庭

浦嶋伝説ゆかりの社として非常に有名です。この社には玉手箱や浦嶋縁起絵巻(国指定重要文化財)など、伝説の宝物が残されています。

嶋児神社

  
京丹後市網野町八丁浜(京都府京丹後市網野町浅茂川明神山382)

浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が網野町浅茂川の海岸に鎮座します。祠(ほこら)が祀られています。
近くに鳥居は大変大きく立派なものです。

嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。

「網野神社に伝わる伝説」

昔、銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。日下部曽却善次夫婦には子どもがなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。

満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。

神から「ふたりの願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子」と名付け大切に育てました。

釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま浸けておいたといいます。
ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。乙姫様でした。ふたりは夫婦の約束をし、小舟で竜宮城へ行きました。手厚いもてなしを受け3年の月日が経ちました。

嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。再びお出でくださるお気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を渡しました。嶋子は懐かしい万畳浜へ帰って来ました。

ところが屋敷に着いてみると雑草が茂って一面の荒野原に…。竜宮城での1年は、人間界の何十年にもなっていたのです。嶋子は悲しみ、途方にくれました。その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。

すると中から白い煙りが立ち上り、嶋子はしわだらけのお爺さんに。驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。その後、嶋子がどうなったかはわかりません。ただ、しわを投げつけたという一本榎は「しわ榎」といわれ、今も日本海を渡って来る浜風に枝葉をゆるがせて立っています。

網野神社(あみのじんじゃ)

  
式内社 旧府社
京都府京丹後市(網野町)網野789
祭神:日子坐王(ひこいますおう・水江日子坐王)、住吉大神、浦嶋子神

創建は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。

現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。平成19年(2007年)~平成20年(2008年)、摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)ともども「平成の大改修」が行われました。

水江浦嶋子神

銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。日下部曽却善次(くさかべそきゃくぜんじ)夫婦には子供がなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。 神から「二人の願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子(しまこ)」と名付け大切に育てました。  釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま漬けておいたといいます。

ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。乙姫様でした。二人は、夫婦の約束をし、小船で竜宮城へ行きました。手厚いもてなしを受け三年の月日が経ちました。  嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。再びお出でくださる気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を手渡しました。 嶋子は懐かしい万畳浜へ帰ってきました。ところが、屋敷に着いてみると、雑草が茂って一面の荒野原に……。竜宮城での一年は、人間界の何十年にもなっていたのです。嶋子は悲しみ、途方に暮れました。その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。すると中から白い煙が立ち上り、嶋子はしわだらけのおじいさんに。驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。その後、嶋子がどうなったかはわかりません。

今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。

網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町朝茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔のしわを悲しみのあまりちぎって投げつけたとされる「しわ榎」(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史蹟や伝承が今日までたくさん残っております。

日本書紀の浦島太郎

「西暦478年雄略天皇22年の秋七月、丹波国与謝郡(よさのこおり)の筒川(つつかわ)の水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)が舟に乗って釣りをしていら大亀が釣れた。するとたちまちに乙女に化身した。浦嶋子と海に入って、蓬莱山(とこよのくに)にたどり着いた。この後は別巻で。」・・・・とありますが、「別巻」とは何?風土記を指すとも言われています。

万葉集の浦島太郎

高橋虫麻呂の歌

「春、霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると、はるか昔のことが思い出されます。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日、この世と常世の境を越えてしまいました。そこで、海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し、暮らしました。3年ほど経って、嶋子が「しばらく故郷に帰って、父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ、「またここで暮らしたいのなら、決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが、3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていました。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ、常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり、浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして、息絶えて死んでしまいました。」

「浦島太郎」として現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』によるものです。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世からのものです。

浦島太郎の話が広く世間に登場したのは明治43年から昭和24年までの小学校2年生の国定教科書『尋常小学読本』の中の「ウラシマノハナシ」で、この内容は私たちが知っている全国共通版の浦島太郎の話とほぼ同じです。つまり、全国でよく知られている浦島太郎は国定教科書のその人なのです。

これより先、児童文学者で国定教科書の編纂にも関わっていた巌谷小波は『日本昔噺』を著し、その中に「浦島太郎」の話を収めました。また、明治44年から文部省唱歌として歌われるようになりました。巌谷小波は『日本昔噺』の中で、

「むかしむかし、丹後の国、水の江という所に浦島太郎という一人の漁師がおりました。」

と書き始めています。ここでは浦島太郎が丹後(現在の京都府北部の半島)の人と明言しています。全国共通版の浦島太郎の話は実は丹後半島に伝わる浦島太郎、つまり、浦嶋子の伝説がもとになっていると言えるのです。

もともと浦島伝説は日下部(くさかべ)首族の祖神伝説として語り継がれてきました。この日下部族は近畿から九州に分布していますが、最古には南九州に上陸した隼人(ハヤト)族と想定されるそうです。

浦島伝説の要素を持つ神話は世界的に分布しており、『日本の歴史』(文春文庫の中で水野裕氏)では沖縄、朝鮮、中国、台湾原住民、インドネシア、インドシナ等に見られるようです。共通項は漁労民であると言うことで、隼人系潜水漁労民が宗像(むなかた・大分県)を経由し、日本海側に分布したものの伝えた伝承でしょう。日下部の一族も隼人の構成員でしょう。丹後一宮の籠神社の祭神が彦火明命(ホアカリノモコト)であり、火中誕生譚の火酢芹命(ホスセリ)とも見なされています。

竜宮城は、昔氏初代の昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説があります。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか、西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もあります。『三国遺事』[*1]では龍城国とされます。

天橋立の北にある元伊勢籠(もといせこの)神社は元伊勢と言われ、彦火明命(ひこほあかりのみこと:天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命)としています。豊受大神を祭っていましたが、雄略朝に伊勢に勧請されていったと伝わります。雄略朝に大和王権、丹後、伊勢との関連が深まり、浦嶋子が竜宮城に行ったのも雄略朝であると記されているのはそのあたりに関係があるのでしょう。主祭神を尾張氏の祖である竹で編んだ籠船に乗って龍宮へ行かれたという話が伝わっています。これは浦島太郎のモデルとなった話ではという説があります。

全国に伝わる浦島太郎伝説

おとぎばなしの浦島太郎の話は丹後半島に伝わる伝説がベースとなっているようですが、京都府与謝郡伊根町の浦嶋子、京丹後市網野町の浦嶋子のほかに、鹿児島薩摩半島の最南端にある長崎鼻、開聞岳が眼前に迫る地に浦島太郎の話が伝わっています。岬にある龍宮神社には豊玉姫(乙姫様)が祀られています。「竜宮城は琉球なり」とも伝えられているのです。

また他には香川県の荘内半島、長野県上松市、岐阜県各務原市、中津川市の寝覚の床と「龍宮乙姫岩」、神奈川県横浜市、沖縄の浦島太郎などの日本各地に浦島太郎の話が伝わっています。

まず最初に、京都府北部の丹後半島に伝わる物語を紹介しましょう。丹後半島にある伊根町と網野町には、丹後国風土記にもとづいた浦島太郎の伝説が残っています。

浦島太郎が竜宮城へ行ったのは日本書紀では西暦478年雄略22年の秋7月で、丹波国与謝郡の筒川村(日置の里筒川村は京都府宮津市)の水江浦嶋子が大亀を釣り上げたことで始まります。一般に知られるお伽話の浦島太郎の物語は丹後の国の風土記がもとになっています。しかし、その内容は風土記とは違っています。

[*1]…『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 – 1289年)によって書かれた私撰の史書。

■浦島太郎ゆかりの神社

網野町は「丹後国風土記」に伝えられる浦島太郎伝説の地でもあります。浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。

浦嶋(宇良)神社 京都府与謝郡伊根町新井
嶋児神社(しまこじんじゃ) 京都府京丹後市網野町浅茂川
網野神社 京都府京丹後市網野町

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たんご昔ばなし】 間人皇后(はしうどこうごう)

丹後半島の北端に京丹後市丹後町に間人(たいざ)という「間人カニ」でも知られる漁村があります。

穴穂部間人皇后は、欽明天皇の皇女で、第31代用明天皇の皇后となり、574(敏達3)年、聖徳太子(厩戸皇子)[*1]を生みます。

587年、穴穂部間人皇后は、都での蘇我・物部両氏の権力争いを逃れ、自分の領地である丹後の大浜に何年か滞在しました。[*2]

都へ帰るときに、世話になった里人への感謝の意を込めて大浜に自分の名を贈り、「間人村」という名称を与えました。

しかし、里人は「皇后の御名をそのままお呼びするのは恐れ多い」と考え、文字だけをいただいて、皇后の御対座にちなんで「たいざ」と呼ぶようになったのです。(退座した事という説も)

ちなみに、奈良平城京跡から「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海草六斤」と墨書された神護景雲四年(769)の木簡が発見されています。
立岩をのぞむ海岸に、「間人皇后・聖徳太子母子像」が建てられています。

[註] [*1]…厩の戸口で厩戸皇子(聖徳太子)を出産したという『日本書紀』の逸話は有名だが、これは中国に伝来したキリスト教の異端派である「景教」(ネストリウス派)がもたらした新約聖書の福音書にあるキリストの降誕を元にしたとの説があるなど、史実かどうか疑われている。実際厩戸は地名に由来するとの説が有力。

[*2]…ただし、記紀などに穴穂部間人皇女が丹後に避難したとの記述はない。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たんご昔ばなし】 山椒大夫(さんしょうだゆう)

平安朝の末期、越後の浜辺を子供連れの旅人が通りかかった。七年前、農民の窮乏を救うため鎮守府将軍に楯をつき、筑紫へ左遷された平正氏の妻玉木、その子厨子王と安寿の幼い兄妹、女中姥竹の四人である。

その頃越後に横行していた人買は、言葉巧みに子供二人を母や姥竹と別の舟に乗せて引離した。姥竹は身を投げて死に母は佐渡へ売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫のもとに奴隷として売られた。

兄は柴刈、妹は汐汲みと苛酷な労働と残酷な私刑に苦しみながら十年の日が流れた。大夫の息子太郎は父の所業を悲んで姿を消した。佐渡から売られて来た小萩の口すさんだ歌に厨子王と安寿の名が呼ばれているのを耳にして、兄妹は母の消息を知った。

安寿は厨子王に逃亡を勧め、自分は迫手を食止めるため後に残った。首尾よく兄を逃がした上で安寿は池に身を投げた。厨子王は中山国分寺にかくれ、寺僧の好意で追手の目をくらましたが、この寺僧こそは十年前姿を消した太郎であった。

かくして都へ出た厨子王は関白師実の館へ直訴し、一度は捕われて投獄されたが、取調べの結果、彼が正氏の嫡子である事が分った。然し正氏はすでに配所で故人になっていた。師実は厨子王を丹後の国守に任じた。彼は着任すると、直ちに人身売買を禁じ、右大臣の私領たる大夫の財産を没収した。そして師実に辞表を提出して佐渡へ渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。

『山椒大夫』(さんしょうだゆう)は、説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説で、森の代表作の一つである。

1954年、大映で溝口健二監督によって映画化された。ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得するなど、海外でも高く評価され、溝口の代表作のひとつとなった。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たんご昔ばなし】 羽衣天女伝説

羽衣伝説(はごろもでんせつ)は日本各地に存在する伝説です。その多くは説話として語り継がれています。最古とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県伊香郡余呉町の余呉湖は近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる。最も有名とされているのが静岡県静岡市清水区に伝わる三保の松原。なお天女はしばしば白鳥と同一視されており、白鳥処女説話(Swan maiden)系の類型といわれています(白鳥処女説話は異類婚姻譚の類型のひとつ。日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる)。天橋立の松も羽衣に例えられます。

「丹後風土記」(715年)の中に、日本最古の羽衣伝説の記述がある。

「丹後の比治の山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に真奈井(まない)という池(女池)がある。 奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の縁起によれば、 むかし、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、 万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。

「天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも」

と詠って、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。

この天女とは豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)、豊受大神(とようけのおおみかみ)のことである。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)でまつられる。  その後、伊勢神宮の外宮に移られるが、分霊は残されている。

■奈具(ナグ)神社

丹後國竹野郡 京都府京丹後市弥栄町船木奈具273
式内社 旧村社
御祭神 「豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)」

風土記によると「ここに来り てわが心奈具志久なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。 奈具岡遺跡が近くにある。 水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期 (約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。
隠野とは、黄泉に通じる国という意味。

■奈具(ナグ)神社

丹後國加佐郡 京都府宮津市由良宮ノ上
式内社 旧村社
御祭神 「豐宇賀能賣命(とようかのめのかみ)」

社名「奈具」は、やすらぎを意味する「奈具志久」に由来するらしい。 同じく丹後国の竹野郡にあり、天女羽衣伝説の残る、 同名の奈具神社からの勧請という説もあり、 そちらの社名の起こりは、天女が老夫婦に放逐され、 各地を放浪した後、その地で「心なくしく(つまり、やすらか)」なり、 落ち着いたという。

■比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

京都府京丹後市峰山町久次宮谷
式内社 旧村社
御祭神 「豊受大神(とようけのおおかみ)」
「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」
「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」
「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」

■静岡県静岡市清水区の羽衣天女伝説

昔々のおはなし。三保の村に伯梁という漁師が住んでおりました。ある日のこと、伯梁が浜に出かけ、浦の景色を眺めておりました。ふと見れば、一本の松の枝に見たこともない美しい衣がかかっています。しかし、あたりに人影はありません。誰かの忘れ物だろうと、伯梁が衣を持ち帰ろうとしたそのとき、どこからともなく天女があらわれてこう言いました。『それは天人の羽衣。どうそお返しください』ところが、それを聞いて伯梁はますます大喜び。『これは国の宝にしよう』とますます返す気配を見せません。

すると天女は『それがないと私は天に帰ることができないのです』とそう言ってしおしおと泣き始めます。さすがに伯梁も天女を哀れに思い、こう言いました。『では、天上の舞いを見せてくださるのならば、この衣はお返ししましょう』天女は喜んで三保の浦の春景色の中、霓裳羽衣の曲を奏し、返してもらった羽衣を身にまとって、月世界の舞いを披露しました。そして、ひとしきりの舞いのあと、天女は空高く、やがて天にのぼっていったといいます。頃は十五夜。それは月明かりが美しい宵のことでした。

■余呉町の羽衣伝説

伊香刀美(『帝王編年記』より)

余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水浴びをした。それを見た伊香刀美(いかとみ)は、天女に恋心を抱き、白い犬に羽及を一つ、盗み取らせた。天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最も若い天女一人は、羽衣がないため飛び立てない。地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いぜりひめ)、妹娘は奈是理比賣(なぜりひめ)。  これが伊香連(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。妻を失った伊本刀美は寂しくため息をつき続けたという。

~解説~  古い文献によれば、奈良時代のころ、余呉ではこのような羽衣伝説が語られていたようである。  羽衣伝説は白鳥処女説話の一種といわれる。多くの人が天女という言葉からイメージする、中国風の衣装をまとい、薄い布の羽衣をたなびかせる姿は、仏教の影響を受けて変化したもの。白鳥の姿をした天女が登場する余呉湖の伝説は、日本の羽衣伝説の中で最も古いといわれている。

丹生(ニュウ)神社二座 近江國伊香郡 滋賀県伊香郡余呉町
式内社 旧村社
御祭神 「彌都波能賣命 丹生都比賣命」
創祀年代は、不詳。
式内社・丹生神社の論社の一つ。

社伝によると、天武天皇の御宇、 丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、 山土と丹生川の水を供え、天津神を祀ったという。 後、天平年間に現在の地に社殿を創建した。
よって、当社は土と水の神。
丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、 息長氏の一族。息長丹生真人とも呼ばれていたらしい。

■倉吉に伝わる伝説

【伝説】  ひとりの百姓が、山腹の石の上に美しく芳しい衣が置いてあるのを見つけました。さらによく見ると、そばの流れで、若い美しい女性が水を浴びているではありませんか。「天女にちがいない」石の上の衣は、天の羽衣ということになる。百姓はその羽衣を盗みました。天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、百姓の妻になりました。

数年たち、二人の子どももできました。天女は、子どもに羽衣のありかをたずねました。子どもは、父親の隠していた羽衣を、母親に渡しました。天女は、まさにも天にものぼるよろこびで、羽衣を着けると、天上に帰ってしまったのです。

二人の子どもは、母を慕って泣きました。母が好きだった音楽で、母を呼びもどそうと考えました。近くの山に登り、太鼓と笛を演奏しました。-天女が衣を置いていた山を羽衣石山、また、子どもたちが一生懸命、大鼓を打ち笛を吹きならした山を打吹山といいます。

鳥取県倉吉市

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たんご昔ばなし】 丹後海人伝説

■海部(アマベ)

丹後にはかつて、航海術に秀でた「海人族」と呼ばれる一族が住んでいたと言われています。彼らは凡海郷海没後、丹後半島へ移住を余儀なくされた。古代この地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(アメノホアカリ)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(アマベ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに脚光をあびてきました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

■幻の大地「凡海郷(オオシアマ)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)

この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名です。「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

■海人の聖地・冠島

丹後風土記によると、若狭湾上の冠島は、大地震(大宝元年=七〇一年)で陥没した幻の大地「凡海郷」の山の頂であり、海部直と凡海連によって天火明命と目子郎女神をまつると伝えています。

天皇家より古いとされる国宝「海部氏系図」(籠神社、宮津市)には、海部氏の始祖として天火明命が記されています。
島内にある老人嶋神社の祭神はこの天火明命と目子郎女神であり、今も「雄島(老人嶋)まいり」として受け継がれ、市内の野原・小橋・三浜地区をはじめ、広く若狭や丹後地域から海上安全や大漁などを祈願する参拝が行われています。
海部と呼ばれた海人たちの聖地・冠島と彼らのクニ・凡海郷は、現在の舞鶴と深く関わっているといえるでしょう。
■古代製塩と海部
昭和51年、大浦半島の三浜ではじめて、古代の土器製塩が、少なくとも奈良時代には存在し、しかもかなり大規模なものだったらしいことが判明しました。このことで、奈良時代には、海岸に、現在に近い砂浜が成立し、一緒に出土した土器には、弥生時代にまでさかのぼるものもあって、凡海郷の存在は、一時遠のいていきました。
ところが、つづいて、瀬崎の白石浜、黒石浜、大丹生、千歳とつぎつぎに古代製塩の遺跡が発見され、昭和58年には、神崎も加わりました。全国の海部研究の成果から、海部と製塩はつよく結びついていることがわかり、凡海郷は舞鶴海岸地帯を製塩と海部でつなぐ郷名である可能性もでてきました。
その後、古代、海が奥深く入りこんでいたと見られる行永(ゆきなが)からも製塩土器がみつかり、行永は、海部の祖神の一つである「天御影命(あめのみかげのみこと)」をまつる「弥加宜(みかげ)神社」の旧地を発祥と伝えることから、近江のミカゲの故郷「息長(おきなが)族」とのつながりが、浮かんできました。
「息長」と「行永」のかかわりが、新羅からの渡来集団とする息長族と新羅の王子、「天日槍(あめのひぼこ)の伝説にある、浪速から、近江へ入り、若狭へぬけ、丹後から、但馬にいたる古代の開拓民伝説の道筋として、丹後海部の息長とのかかわりを示し、さらに尾張海部との関係もにおいます。
■海部系図は、何をかたるのか
宮津籠(この)神社の国宝『海部系図』のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(、あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名「オオミカゲシラクワケ」といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。
■海岸古墳と海部
舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。
現在でも久美浜町海部(かいべ)地区には「海士(あま)」という地名が残っています。小見塚古墳(こみづかこふん、兵庫県豊岡市城崎町今津) は、但馬海直(あまのあたえ)一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在北但馬で一番古い埴輪が出土している。
今津の円山川対岸に田井と同音の田結(タイ)があり古い漁村である。一帯は田結郡(荘)と呼ばれ中世、山名四天王田結庄氏の領地であった。また韓国(カラクニ)物部神社、飯谷(ハンダニ)、畑上(ハタガミ)など大陸・半島系の地名や神社が多い。
■海と関わる集団の根拠地
遺跡が集中する三浜・小橋、 浦入

三浜・小橋地区は、アンジャ島や磯葛島、沖合いの冠島などの島々とともに、海に関わる伝承や遺跡が集中しています。三浜丸山古墳をはじめ、三浜遺跡(古墳後期~平安時代の製塩遺跡など)、アンジャ島遺跡(丸木舟の製作に使ったと見られる石斧二本など)、小橋古墳(六世紀前半)などがあります。
わが国最古・最大級の丸木舟が出土した浦入遺跡群(千歳)からは、古墳時代後期の鍛冶炉をはじめ、奈良~平安時代の製塩・鍛冶遺構、銅銭(奈良時代)、墨書土器(「政」「与社(謝)と記載」)、さらには「笠氏」刻印の製塩土器などが出土。製鉄・製塩などの最先端の技術を持った集団が存在したことが明らかとなりました。
これらの遺跡は、海沿いの耕地が少ない地域に在ることから、海と関わりのある経済基盤を持った集団で、凡海郷や海部に関連する遺跡であることが推定されます。
■文献に見る凡海・加佐と大海人皇子(天武天皇)
大海人皇子(後の天武天皇)は、尾張(現・愛知県西部)の海部の加勢を受けて「壬申の乱(六七二年)」に勝利し皇位 についたとされています。「日本書紀」(七二〇年)には、「丹波国訶佐郡」(※3)が天武天皇の新嘗祭の主基(すき=神饌としての米)の国に選ばれたと記されています。また、老人嶋神社の祭神・目子郎女は、尾張海人の娘であることから、凡海郷が天武天皇と密接な関係にあったことが想像されます。
■各地の凡海郷
凡海郷の地名は、十世紀の百科辞典『和名類聚抄』に登場します。丹後の熊野郡海部郷と加佐郡凡海郷、隠岐(島根県)の海部郡海部郷(隠岐郡海士町(あまちょう))、越前(福井県東部)の坂井郡海部郷の四か所に、海部の伝承を持った海人の郷があるとしています。
■各地のアマベ
そして、「九州-丹後半島の久美浜-尾張」この三点を結ぶ者として海部氏がおり、彼らは久美浜を本貫地としていたといいます。海部は海人部とも書く。漁業をもって仕えた部民で、船上で漁を行う者、磯で漁を行う者、潜水して漁を行う者に分けられます。海士は男性、海女は女性と区別して記されることがあるが、いずれも「あま」と呼ばれます。海人の最古の記録は『魏志倭人伝』にあり、海中へと潜り好んで魚や鮑を捕るとあります。
他にも輪島市海士町、徳島県海部郡などがある。
引用:舞鶴市HP他
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

ポツダム宣言と治安維持法

政権転覆扇動罪で民主活動家に懲役5年 中国
産経IZA 2010/02/09 13:14

香港の人権団体、中国人権民主化運動情報センターによると、四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動で知られ、国家政権転覆扇動罪に問われた民主活動家の譚作人氏に対し、四川省成都市の裁判所は懲役5年の判決を言い渡した。

譚氏の罪状の詳細は不明。香港紙は、譚氏が昨年、1989年の天安門事件当時の民主化運動の学生リーダーだった王丹氏にメールを送り、事件20年の記念活動を呼び掛けたことなどから起訴されたと伝えていた。(共同)

四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動自体が違法になる方がおかしい。地方の公共事業請負に共産党幹部が汚職にまみれていることはよく知られている。中国共産党=政府であり国家なのだ。国家政権転覆扇動罪とは、正義よりも党の汚職による欠陥工事を隠蔽しなければ国家が危なくなる国とはいかがなものか。

しかし、最近「治安維持法」という法律がなくなっていることは問題ではないかと思えるほど政府の特に小沢が中国共産党に140人も謁見し、帰り際には韓国の大学で天皇陛下訪韓を発言している。その前にも韓国に「外国人地方参政権」実現を約束している。また、中国の副首相習近平氏をルールを破り天皇と強引に引見させたことだ。国益よりも党益・私益を優先しているのではないか。国家の主権・道議を侵す憲法違反である。献金疑惑は過去最大規模のもので、不起訴になったといっても証拠不十分でありシロだといっていない。

そこで「治安維持法」についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で引いてみた。

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。

当初治安維持法制定の背景には、とくにロシア革命後国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。
前身

1920年より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。また、1921年4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年8月、司法省は「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。

これらの内容は、平沼騏一郎(元首相・現衆議院議員平沼赳夫氏の養父)などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。

また、1923年に関東大震災後の混乱(在日朝鮮韓国人等)を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定

1925年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行[1]。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから飴と鞭の関係にもなぞらえられ、普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

廃止

1945年の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死し、10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張した。さらに、岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。こうしたことなどから同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も解散を命じられた。

1948年に制定された韓国の国家保安法は治安維持法をモデルにしたと言われている。

中国の言論統制

中国は自国民だけではなく、外国メディアに対してもしばしば統制をはかる。日本のマスコミも実質的に中国の検閲下にあるといわれている。この背景には親中派議員たちが訪中して締結した1964年(昭和39年)の「日中記者交換協定」、さらに1968年(昭和43年)の「日中関係の政治三原則」という両国間の検閲協定がある。これにより「1中国を敵視しない、2二つの中国の立場に立たない、3日中国交正常化を妨げない」が日中記者が記者交換する原則とされた。これは事実上日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。日本の憲法に照らすと違憲性が強く推定される協定だったが、日本のメディアはほぼ追随した。現在に至るまで日本の報道機関はこれらの協定に従順であり中国へ不利な報道や対中ODAに関する報道はほぼしない。

文化大革命の際に些細なことで日本の報道各社が次々と中国を追放されていたこともマスコミの上記の記者諸協定への強い順守の原因となっている。文化大革命の際には次々と外国メディアが追放され、日本の報道機関も朝日新聞をのぞいてすべて追放されている。そのため当時唯一中国の情報を報道できた朝日新聞は他の報道機関から羨望のまなざしで見られていた。その後、中国への再入国を許された他の日本の報道各社もこの追放の過去が一種の「トラウマ」になって中国共産党当局から目をつけられないよう諸協定に必要以上に従順となっているのではないかともいわれる。

なお唯一産経新聞だけがこの協定に反発し、傘下のフジテレビを含めて特派員をすべて引き上げた事は有名である。このため産経新聞社の発行する各新聞、雑誌、及びFNS系制作のテレビ番組、ニッポン放送のラジオ番組では、しばしば中華人民共和国に対する挑戦的とも取れる批判的内容が盛り込まれることがある他、台湾(中華民国)に対する友好的な記事・番組が多いことでも知られる。

米国愛国者法

テロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年の法 (英: Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001 公法律 107-56) は、正式名称の頭文字を取って米国愛国者法[1] (USA PATRIOT Act) あるいは単に「愛国者法」(Patriot Act) とも呼ばれる。2001年10月26日に米国大統領ジョージ・W・ブッシュが署名して発効した連邦議会制定法(en)である。

当法は十章から成り、各章は複数の条に分かたれる。各章は以下のとおり。

第1章 テロリズムに対する国内の安全性の向上 (Title I: Enhancing Domestic Security against Terrorism)(en) テロリズム対策について定める。

第2章 監視手続の改善 (Title II: Enhanced Surveillance Procedures)(en) 政府のさまざまな部局の捜査権限を強化する。二十五条から成り、そのうちの一条 (224条) がサンセット条項(一定期間ごとの見直し規定)を含む。

第3章 国際マネーロンダリングの阻止及びテロリストへの資金供与防止のための2001年法 (Title III: International money laundering abatement and anti-terrorist financing act of 2001)(en)

第4章 国境の保全 (Title IV: Protecting the border)(en)

第5章 テロリズムの捜査に対する障害の除去 (Title V: Removing obstacles to investigating terrorism)(en)

第6章 テロリズムの被害者、公共保安職員及びその家族に対する支援 (Title VI: Providing for victims of terrorism, public safety officers and their families)(en)

第7章 重要基盤の防護のための地域的情報共有の増進 (Title VII: Increased information sharing for critical infrastructure protection)(en)

第8章 テロリズムに対する刑法の強化 (Title VIII: Strengthening the criminal laws against terrorism)(en)

第9章 諜報活動の改善 (Title IX: Improved intelligence)(en)

第10章 雑則 (Title X: Miscellaneous)(en)

つまり、GHQによって憲法はじめ自国民が国家解体を図る売国的政治家や左翼を処分できないのである。
戦えない国、主権を守れない国、スパイ天国。これでも独立国家だろうか。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

19世紀ドイツの地図も竹島は日本領

19世紀ドイツの地図も「竹島は日本領」

産経IZA 2010/01/20 14:36
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/348219/
 竹島(島根県)と朝鮮半島の間に境界線を引き、日本領とした19世紀後期のドイツ製の地図が複数現存していることが20日、島根県竹島資料室の調べで分かった。大阪大付属図書館ではこのうち最も古い1870年製の地図を所蔵。これまでにも竹島を日本領とする19世紀の西洋製地図は見つかっているが、さらに複数の地図が確認されたことで、日本の領有権確立を補強するとともに、韓国側の主張への反論材料になるという。
 竹島資料室によると、大阪大のほか、海外の大学や古書店などへの調査で印刷時期の違うドイツの「シュティーラー地図」の所蔵を確認。1870~1899年の間に作製された約10枚で、竹島が日本領とされていた。
 シュティーラー地図は、日清戦争後の1896年版では、台湾と中国大陸の間に境界線を引くなど、当時の国際情勢を反映。だが、現在は韓国領の鬱陵島を日本側に含むのは、日本人が同島に渡り活動していた影響とみられ、その経緯を詳しく検証する必要があるという。
 韓国側研究者は「1920年代まで西洋地図では独島(竹島の韓国名)を韓国領に属すると分類していた」と主張している。
 竹島資料室の杉原隆竹島研究顧問は「国際的に認められてこの内容で発行が続いたとみられ、さらに分析を進めたい」としている。

よしこれで、実力行使をしなくても国際裁判所へ上告できる。
いっそ台湾も千島列島も連邦制を敷いて日本国の連邦国にしよう。嫌中の台湾の人も喜ぶ人は多いと思います。


人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

近代1 近衛文麿と東亜新秩序

[catlist ID = 294 orderby=title order=asc]

近衛文麿と昭和の戦争
『日本近現代史』 小風秀雅

近衛文麿に鳩山総理との類似点を感じる。

プリンス近衛の登場

近衛文麿は、昭和戦前期を代表する政治家であり、日本の近代を象徴する政治家といってもよいであろう。その出自は五摂家筆頭で、皇族以外では天皇に最も近い人間であった。彼の父近衛篤麿も学習院院長・貴族院議長を務め、特に対外硬運動の指導者として有名な政治家であった。

近衛文麿は篤麿の長男として生まれ、12歳の若さで侯爵を継ぎ「殿様」「閣下」と呼ばれるようになった。しかし、父が政治活動のために使った借財の取り立てが厳しくて家は貧しくなり、そのため彼は取り立てをした富豪に対する不信感と、政治に対する失望を強めたという。その結果、青年近衛は哲学を志望して東京帝国大学哲学科に進学したが、次第に社会科学に対する興味を増し、特に社会主義的傾向を帯びるようになった河上肇に惹かれて京都帝国大学法科大学に転学した。

日本で最も恵まれている青年が、それゆえに社会の矛盾を感じ、正義感から反体制的な思想を持つのはある意味自然であり、当時の青年貴族にも共通してみられるものであった。(省略)

1916(大正5)年満二五歳で貴族院議員となった。貴族院内での彼の権威は高まる一方で、1931(昭和6)年に副議長、1933年には議長に就任した。

このような青年の正義感は、また国際社会にも向けられた。1918(大正7)年12月の雑誌『日本及日本人』に、近衛が執筆した「英米本意の平和主義を排す」が掲載された。第一次世界大戦は民主主義・平和主義を掲げた英米が軍国主義ドイツに勝利し、世界は英米の平和主義を賞賛したが、その平和とは領土などを持てる国が現状維持を主張したまでのことであり、ドイツや日本のような持たざる国が発展しようとすれば、どうしても現状打破的にならざるを得ない、その方法として積極的外交によって「正義人道」に基づき、植民地解放・人種平等を実現することによってのみ日本の活路が見出せる、というものであった。この論文も一つの契機になって、日本国内では人種平等論がにわかに高まった。特にインテリ青年層にその傾向が強かった。近衛はその先頭に立っていたといえよう。

近衛の時代感覚

「正義人道」のうえにたつ近衛は、それを軍国主義化によって達成するのではなく、英米以上に進歩的、革新的に「現状打破」を行うことを目指した。その実行には「現状維持」的な既成政党や特権階級の貴族院ではなく、新しい主体的積極的政治組織を考えていたのであろう。

しかし他方で、受け身の意識も強くなっていった。1910年代の社会主義革命に対する危機意識とは異なり、1930年代には右翼テロに対する危機感に変わった。近衛はしばしば軍部の先手を打って革新的政策を実行すべきであると主張していた。つまり、部分的に軍部の革新的主張を取り込み、それによって革新的政策を実行すると同時に、彼らをある程度満足させることで全面的軍国主義化を抑制しようとしたのである。この結果、近衛は軍部など「現状打破」勢力から首相候補に推されるようになった。また、西園寺公望を頂点とする英米派の「現状維持」勢力も、プリンス近衛に正面から反対しなかった。西園寺個人は、近衛が「現状打破」勢力に取り込まれることを強く懸念していた。彼は、主体的積極的な反面、受動的で敏感な近衛の言動に不安定さを感じていたのであろう

近衛と日中戦争

1937(昭和12)年、近衛が初めて内閣を組織した。

現内閣は各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命とす。是等対立の内最も深刻なるものは「持てるもの」と「持たざるもの」との対立なり。国際間にありては、所謂「持てる国」と「持たざる国」との対立あり。今日の世界不安は之に基づく。国内にありては「持てる者」と「持たざる者」との対立あり。社会不安多く之に因す。

是等の対立を緩和するには、国際間にありては国際正義、国内にありては社会主義を、指導精神とすべし。正義とは何か。結局分配の公平に帰す

多くの国民から歓迎されて誕生した近衛内閣を待ち受けていたものは、日中戦争の勃発であった。北京郊外で日中両軍が衝突して盧溝橋事件が起こり、戦果は上海から内陸へと広がり、ついに日本軍は首都南京を占領した。中国側では第二次国共合作が成立し、国民政府は強い民族意識や米英ソの援助に支えられて徹底抗戦し、日中戦争は次第に長期化の様相をほどこしていった。1938(昭和13)年1月16日近衛内閣は「爾後国民政府を相手とせず」という有名な言葉を発して、交渉打ち切りを通交した。

「東亜新秩序」声明

この過程で、近衛は陸軍を抑制することができなかったことへの反省として、1938(昭和13)年、陸軍に影響力を持つと思われる陸軍出身の有力者たちを入閣させた。しかし、ここでも近衛は指導力を発揮することができなかった。近衛は自らを陸軍のロボットと表現し、会議でも沈黙することが多くなり無気力になったといわれる。「各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命」として有力者を網羅したはずの近衛内閣であったが、実際の内閣は群雄割拠的状況となり、近衛の人気と政治力のギャップが目立った。そんな近衛を支えたのも陸軍だったのである。

近衛内閣は1938年末、いわゆる「東亜新秩序」声明を発した。これは王兆銘らに親日政権を作らせ、日・満・中三国連携による東アジアの新国際秩序を樹立しようというものであったが、結果的には日中間をますます引き離すことになった。そして、1939年1月第一次近衛内閣は総辞職した。

昭和14年(1939年)1月に発足した平沼内閣は、第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列 (無任所大臣) として残留してこれに協力した。最大の懸案である対中問題では、「自今国民党(蒋介石政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、汪兆銘政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。

平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結されるに至って、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としていた平沼は衝撃を受け、8月28日「欧州の天地は複雑怪奇」という珍声明とともに総辞職した。

近衛新体制

ところで、近衛内閣の「無気力」に反し、政界では近衛新党論が多方面から起こった。特に1940(昭和15)年5月ドイツ軍が電撃作戦に成功してフランスなどを占領したことが契機となって、日本国内でもドイツナチスをモデルにした一党体制を目指す動きが現れた。

ただし、そこにはさまざまな思惑が含まれていた。陸軍、あるいは親軍的でドイツ的な体制を目指す「革新派」と呼ばれるグループ以外にも、解党のうえで近衛新党に合流し、32年以来遠ざかっていた政権に復帰しようという既成政党グループもいた。また、平沼騏一郎(平沼赳夫衆議院議員・たちあがれ日本代表の義祖父)などの観念右翼や陸軍皇動派も、一国一党には警戒しつつも近衛内閣は支持した。同年6月に新体制運動に乗り出すことを声明した。この近衛の声明を契機に陸軍は米内光政内閣の倒閣に動き出し、各政党は解党へ動き出した。そして実際に7月22日第二次近衛内閣が成立した。

近衛の基本的発想は、地方名望家中心の既成政党とは異なり、国民をより深く取り込んだ国民組織(新体制)を背景に、陸軍を抑え込み日中戦争を解決しようというものであった。しかし、観念右翼や自由主義的政党人(民政党町田忠治、政友会鳩山一郎)、皇動派軍人らの、大政翼賛会はあたかも幕府のようなものであり、天皇の統治権を侵すものであるという批判によって、10月12日に発足した大政翼賛会では、公事結社として「臣道実践」のみを綱領とすることが宣言された。ここにおいても、近衛の構想は他権力の干渉によって大きく変質してしまうのであった

近衛と大東亜戦争(太平洋戦争)

欧米に対抗するため、外相松岡洋右は1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟を締結。西欧諸国の植民地であった東南アジアに進出して「大東亜共栄圏」を建設し資源の確保を図ると共に、アメリカから中国への援蒋ルートの遮断を狙った。こうして日米関係は危機的なものとなったのである。松岡だけを閣外に追い出す形で第三次内閣を組織し、日米交渉をやり直すことにしたが、独ソ開戦を契機に南部仏印進駐を望んでいた軍部が主導して7月末に実行された。アメリカは在米日本資産凍結、対日石油輸出禁止で対抗した。ここについに総辞職することになった。

終戦工作

自らの行動が、結果的にはことごとく意に反して戦争への拡大に向かっていったことに気づき、近衛および近衛周辺は拡大派である陸軍の背後には共産主義者の陰謀があるのではないか、という見方を強めていった(皇動派史観)。大政翼賛会=「幕府」論批判によって、自らが共産主義者ではないかと非難された近衛であったが、これらからも近衛やこの時代がいかに不安定であったかが分かろう。特に太平洋戦争の戦局が悪化し東条英機内閣が弾圧を強めるに従って、このままでは天皇制は崩壊し共産主義国になるだろうという強い危機感を持つようになった。

彼らは東条内閣打倒を目指した。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

1943(昭和18)年頃から近衛あるいは海軍の小林せい造を首相とし、皇動派将軍を陸相として終戦内閣を作ろうというのである。多くの重臣(平沼騏一郎・岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎ら)や陸軍の宇垣一成らも関与したといわれる。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

しかし、次の小磯国昭内閣も積極的に和平工作を行おうという気配はなかった。そこで、近衛たちは昭和天皇に状況を直訴しようと試みた。細川護貞(旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。初婚は近衛文麿の二女・温子とで、二人の間には護熙(元熊本県知事・元日本新党代表・元内閣総理大臣)を通じて高松宮宣仁親王と接触を深めたり、東久邇宮稔彦親王・賀陽宮恒憲親王と連絡を持ちつつ天皇への拝謁の機会を窺った。そして1945年2月14日にそれが実現した。しかし、天皇自身が政府要路者以外の政治関与を嫌ったため、この拝謁で状況が大きく変わることはなく、逆にこの後に吉田茂(孫に麻生太郎)らが拘束されたことによって近衛たちの動きは封じられてしまった。その後7月に天皇から、社会主義国家ソ連を訪問し和平工作の準備に当たるように命じられたが、訪ソの機会を得られないまま敗戦を迎えることになった。近衛はポツダム宣言受諾が決まり、A級戦犯容疑者として逮捕されることを知ると、その寸前に自殺した。
登場人物や時代背景に似た箇所があると思うのは私だけだろうか。

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=fvejDtRIrHQ&h=344] 心のこり 細川たかし
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

歴史の両側 米国務省の公文書公開!「真珠湾は奇襲ではなかった」

草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/
>1)周知:左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し日本中にこの史実を周知していただきたい。
以上によりそのまま転載します。
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
ソ連の崩壊で米ソから貴重な情報が公開され、戦後の反日歴史観が見直されています。しかし最近、歴史をゆがめ日本人を外国に隷属させようとする悪だくみが見られます。
こうした状況で本情報は日本人全体にとって非常に重要と考えます。ぜひ友人、知人に至急転送しご回覧願います。
東京近代史研究所 代表 落合道夫
***********************************************************************
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
1.事実:
米国ウィスコンシン大学の国務省外交文書図書館で戦前の駐日大使グルーの国務省あての公電が公開されている。この中に日本の真珠湾攻撃の十ケ月前の1941年1月27日に日本軍の真珠湾攻撃計画を国務省のハル長官に報告したものがある。
その内容は、「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」というものである。
これで長年の日本近代史の大きな疑問がひとつ解けたことになる。
2.意義:
1)反日宣伝からの解放:日本人は戦後占領軍と左翼に長く真珠湾攻撃が卑怯であるという誤った贖罪感を埋め込まれてきた。しかしこれで解放された。ルーズベルトは明らかに日本の反撃計画を知っていた。その上で対日貿易封鎖をおこない過酷な対日要求ハルノートを出してきたのである。
2)歴史の真実:
  それでは日本の攻撃を挑発したルーズベルト大統領の狙いは何だったのか。それは言われているように、欧州大戦への参戦契機づくりと満州を狙う邪魔もの日本の排除のためと考えるのが合理的であろう。これで東京裁判史観は誤っていることがわかった。必然的に日本に戦争責任がない新しい近代史観が必要になってきた。
3)なぜ国務省は公開するのか:
  現在の米政府が戦前のルーズベルト外交の対日陰謀の重要証拠文書を公開しているのは、米国の極東政策が戦前とはガラリと変わったからである。戦前の日米は満州を争う競争者だった。しかし今は共通の敵を持つ同盟国である。
  そこで米国は極東の要となる自由主義国家日本を再建したいと考え、そのために日本人の時代遅れの敗戦ボケからの覚醒を待っているのであろう。
3.日本人の対応:
1)周知:左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し日本中にこの史実を周知していただきたい。
2)靖国神社や護国神社はこの情報の常時掲示をお願いしたい。
3)歴史教科書へ盛り込む:生徒が誤った歴史教育を受けているので、文科省はすぐに教科書の補正資料として印刷し生徒に配布すべきである。
4.本米国公文書情報へのアクセス方法は以下の通りである。
1)グルーの電報の元のファイル: 米国ウィスコンシン大学 外交文書図書館
 http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=header&id=FRUS.FRUS193141http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif02&isize
2)ここのSearchのところにGrewと入力すると、グルーの電報のリストが出てくる。(Gは大文字)
3)問題電報は133ページにある。公文書番号は711.94/1935である。
以上
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。