兵主(ひょうず)とは?
兵主神社(ひょうずじんじゃ)ってご存じですか?
兵主とは、「つわものぬし=武士」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。
大国主は天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。
葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表します。大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) 、大物主神(オオモノヌシ)、大國魂大神(オホクニタマ)。
但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。
兵主神社は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては但馬と同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみなのですが、不思議と但馬には式内社7社、式外社7社、計14社と但馬国に集中しているのです。
兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。宇佐八幡や全国的には最多の八幡神社で知られる八幡神も武神ですが、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。
大国主
『古事記』『日本書紀』では八千矛神とは大国主の別名である。須佐之男(スサノオ)の別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表している。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされている。大国主とは出雲や但馬、越など各国の王の総称であり、個人名ではないと思う。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社だし、全国的に天皇家よりも物部・大国主系の神社が圧倒している。
大国主は国津神の総称で多くの別名を持っています。
出雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。
・大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=・旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。
・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前
・大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称
・大名持神(オオナムチノミコト)
・八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
・葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す
・大物主神(オオモノヌシ)
・大國魂大神(オホクニタマ)
・顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)
・国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
・所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称
国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。
二つある天孫降臨
記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家(おおきみけ)と物部氏(もののべうじ)である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」。兵主は哮神とも。
式内小田井懸神社(豊岡市小田井町)の祭神国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)とあります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様(鉄の神=蚩尤)だそうだ。秦氏ゆかりの神である。
延喜式神名帳で認められた式内社に現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。但馬国は、奈良時代までは丹波国(丹後王国)といわれる北近畿一円のクニで、九州北部・出雲や若狭・越国(越前から越後)同様に太古から日本海を介して朝鮮半島南部との交易があった国です。
兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)です。
貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。伊福部神社(豊岡市出石町)など伊福部という青銅器鋳造をおこなった部民で山陰各所に伊福部にちなむ神社があります。大変多い八幡神社も、八神の秦氏が八幡となったと勝手に想像します。
滋賀県野洲市の兵主大社のように、八千軍(やちぐさ)という呼称からきたと思われる「八千矛神」は、「矛」を介在して、ヒボコ(天日槍)の伝承が近江に残っていることとから関わりがあるように思いますが、八千矛の名称そのものが、オオナモチ(大己貴命)の別称であることは『日本書紀』に記されているので、葦原色許男神(葦原醜男)と称せられた大国主神であろう。天日槍がオオクニヌシと同一神でない限り、ヒボコと兵主神は同一神ではないように思います。但馬国を開拓した伝説は天日槍以外の他の大己貴命を祀る但馬の神社と共通しています。
それはまた、丹後の浦島太郎伝承や佐賀など全国に伝わる徐福の伝説、秦の始皇帝の命で、常世の国(日本列島)に不死の薬を採りにきた徐福の伝説に共通する。
ここで、伽耶=韓神は、もともとそのルーツは秦氏が半島南部の鉄の産地・伽耶に住み着き、また出雲にたたら製鉄を伝えて同化した?スサノオが但馬に稲作をもたらし切り開いた渡来系人と縄文人が融合したのが弥生人だったと思えるのです。
「延喜式神名帳」記載の式内社兵主神社一覧 (壱岐→山陰→兵庫→近江→三河→畿内→大和への移動か?) |
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大和國 | 城上郡 | 奈良県桜井市穴師1065 | 穴師坐兵主神社 | 兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神(稲田姫命) |
和泉國 | 和泉郡 | 大阪府岸和田市西之内町蛇淵 | 兵主神社 | 八千鉾大神 |
参河國 | 賀茂郡 | 愛知県豊田市荒井町松嶋 | 兵主神社 | 大物主命、三穗津姫命 |
近江國 | 野洲郡 | 滋賀県野洲市五条 | 兵主大社 | 八千矛神 |
伊香郡 | 滋賀県長浜市高月町横山 | 兵主神社 | 素盞嗚尊 |
丹波國 | 氷上郡 | 兵庫県丹波市春日町黒井 | 兵主神社 | 大己貴大神、少名彦大神、天香山神 |
但馬國 | 朝來郡 | 兵庫県朝来市山東町柿坪 | 兵主神社 | 大己貴命 |
養父郡 | 兵庫県朝来市和田山町寺内 | 更杵村大兵主神社 | 素盞嗚尊 |
兵庫県豊岡市日高町浅倉 | 兵主神社 | 大己貴命 |
氣多郡 | 兵庫県豊岡市日高町久斗 | 久刀寸兵主神社 | 素盞嗚尊、大己貴命 |
出石郡 | 兵庫県豊岡市奥野 | 大生部兵主神社 | 大己貴命 |
兵庫県豊岡市但東町薬王寺 | 大生部兵主神社 | 武速素盞嗚命 |
城崎郡 | 兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城 | 兵主神社 | 速須佐男神 |
兵庫県豊岡市赤石 | 兵主神社二座 | 速須佐之男命 |
因幡國 | 巨濃郡 | 鳥取県岩美郡岩美町河崎 | 佐弥乃兵主神社 | |
鳥取県岩美郡岩美町浦富 | 許野乃兵主神社 | 大國主神、素盞嗚尊 |
播磨國 | 餝磨郡 | 兵庫県姫路市本町 | 射楯兵主神社二座 | 射楯大神(五十猛尊) 兵主大神(伊和大神、大国主命) |
多可郡 | 兵庫県西脇市黒田庄町岡 | 兵主神社 | 大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命 |
壹岐嶋 | 壹岐郡 | 長崎県壱岐市芦辺町深江 | 兵主神社 | 素盞嗚尊 大己貴神 事代主神 |
式外兵主神社一覧 平成祭礼CDから
青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」
千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」
福井県丹生郡清水町山内 兵主神
滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」
奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社
播磨
兵庫県姫路市辻井4-4-3 行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神」
兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命」
兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命」
兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命」
兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」
兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命」
但馬
兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」
兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」
兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」
島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命」
岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」
鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」
鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」
奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命」
福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」
福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命」
■但馬国式内社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 素盞嗚尊
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代不詳
■式外社
但馬國美含郡 豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町田井字村中448 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町指杭字御城338 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」
兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)である。
貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。天日槍を祀る出石神社を取り囲むようにして重要路に祀られているように見えますが、郡境に土地の守り神として配祀されたのではないでしょうか。
ちなみに同じく武神である八幡神は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。
概 要
但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社やその子孫の神社が出石郡近辺に集中しており、そのまわりを兵主神社が取り囲むように建っている。全国でも関西以西のしかも但馬国に集中している。
但馬国はかつて同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです。八幡社の式内社は皆無。関西で見ても岩清水八幡宮、近江國高嶋郡の八幡神社(祭神:譽田別命)のみです。
また、神功皇后は天日槍の子孫であるとされているので、ずっとヤマト朝廷が但馬を平定するために出石神社を置いたのではないかと考えてきた。古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされている。ただし、古い記録には養父水谷神社と表示されているから元々ひとつであり、現在の奥米冶にある水谷神社はのちに遷されたのかもしれない。
但馬に圧倒的に多い兵主神社の謎
兵主神は、『史記封禅書』に見られる、「天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主」の一とされている武神。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。
大己貴命を祭神とする神社は、出石神社をはじめとする天日槍ゆかりの神社を除くと、粟鹿、養父、小田井、絹巻の五社を筆頭に他にもたくさんあります。でな何故但馬では好んで兵主と名づけたのでしょう。
■但馬の式内古社で大己貴命を祭神とする主な神社
養父神社:創祀年代は不詳だが、社伝によると崇神天皇三十年(紀元前118年)の鎮座。
祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
和奈美神社 大己貴命 天湯河板挙命 兵庫県養父市八鹿町下網場156
小田井縣神社:創祀年代は不詳だが、第十代崇神天皇の御代(紀元前148年~紀元前29年1月9日)谿羽(丹波)道主命が国作大己貴命及び天火明命を祀った。久刀寸兵主神社と同じ祭神。
などと比較しても久刀寸兵主神社は、古い神社ということになります。
石部神社 大己貴命 兵庫県朝来市山東町滝田字マリ559 創祀年代は不詳
気多神社 大己貴命 但馬國総社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
石部神社 天日方奇日方命
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
兵庫県豊岡市出石町下谷62
桑原神社 稻倉魂神 大己貴命 兵庫県豊岡市竹野町森本字苗原463-1
徐福(鉄の神=蚩尤)→半島・伽耶(韓神)→出雲・但馬(大国主)→ヤマト朝廷成立(武神)
ということで、物部氏の大国主(別名:大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・葦原色許男神など)の治める出雲連合の・小国但馬に、あとから天日槍が現れたのではないかと想像していた。しかし、兵主神社もまた、速須佐男や大己貴命を祀る神社だった。
アメノヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。
この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。
それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。
もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。
しかしこれは、伽耶(任那)は鉄の産地で交易商人だったらしいが、伽耶滅亡直前の欽明天皇二年(541)、任那と新羅が謀略をめぐらし、百済がこれを深く責め罵ったという記事が載り、欽明天皇四年には、天皇から出された詔勅、「任那日本府とともに任那を復興せよ」を楯に、百済は任那に対し、任那復興会議への出席を呼びかけるが、任那はこれを三度断り続けたという。
それでも翌年11月、任那復興会議がようやく開かれ、新羅と阿羅(伽耶の小国)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための策が練られたが、結局、任那は、この決定を無視するのである。
さらに、欽明天皇九年四月には、高句麗の百済への攻撃に対し、任那と阿羅は結託して救援に向かわなかった。任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とてもヤマト朝廷の出先機関とは思えないのだ。
また、文書作成のころは、半島南部は562年、伽耶は新羅に滅ぼされ、新羅・百済になっているが、崇神天皇・垂仁天皇の物語の頃はまだ新羅は存在していない。「記紀・風土記」完成は704年から712年ころで、伽耶滅亡は150年近い昔のことだ。伽耶は忘れられたか、または故意に新羅と記した可能性もあるからだ。作者が、朝廷にのヒボコは、伽耶の人であるのに新羅と記しているからであって、同一であろうと信じている。
-出典: 「神奈備へようこそ」
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信
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