中嶋神社と三宅

中嶋神社と三宅

中嶋神社は豊岡市三宅に鎮座する。豊岡市三宅は、古くは出石郡安美郷で、屯倉が置かれたことに由来する。

宿南保先生「但馬史研究」第31号 平成20年3月 の考察を抜粋してみた。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時(ときじく)の香の木の実」(橘)を持ち返ったと記される田道間守命(たじまもりのみこと)を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆがわたなのかみ)を配祀する。そこから菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされる。

天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神である。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖である。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるという。

中嶋神社は、天日槍(日矛)を祀る但馬一宮・出石神社とともに立派な社で、この地が古くから屯倉(三宅)としてヤマト政権の直轄地にあることが重要であろう。また、但馬の出石・城崎(豊岡)・気多(日高町)には天日槍ゆかりの神社が多い。

現在の社殿は、応永年間の火災の後、正長元年(1428年)に再建されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されている。
国司文書 但馬故事記によれば、第33代推古天皇15年(607年)、田道間守の七世の子孫である三宅吉士*1が、祖神として田道間守(たじまもり)を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。

中島神社と田道間守(たじまもり)については別ページに詳しく触れているのでミヤケについてにしぼる。

拙者註
*1 『但馬故事記』文
人皇36代推古天皇15年秋10月、屯倉を出石郡に置き、米粟を蔵し、貧民救恤きゅうじゅつの用に供う。多遅麻毛理の七世孫・中島公その屯倉を司る。故に家を三宅と云い、氏と為せり。(「世継記」には10世)
34年秋10月、天下大いに餓ゆ、故に屯倉を開き、救恤す。
中島に三宅吉士の姓を賜う。中島公はその祖・多遅麻毛理命を屯倉丘に祀り、中島神社と云う。

(救恤 貧乏人・被災者などを救い、恵むこと。)

豊岡市三宅と奈良三宅周辺

垂仁天皇と但馬

さて垂仁天皇は、実在する初代天皇とされる崇神天皇の第3皇子で、『記・紀』には崇神天皇と垂仁天皇の代に、他の天皇では記述がないのに、丹波(いまの丹後が中心)と但馬の記述が圧倒している。しかし、それらの事績は総じて起源譚の性格が強いと、その史実性を疑問視する説もある。

しかし、他には残された史料がないから、それに従い記述すると、崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。皇后は丹波からで最初の皇后は垂仁天皇5年に焼死したとされる狭穂姫命(彦坐王の女)で、口が利けなかった誉津別命をもうけている。そして全国で唯一のコウノトリにゆかりの久久比(クグヒ)神社が低い山の北の豊岡市三江にある。狭穂姫命の後の皇后には同じく丹波から日葉酢媛命(彦坐王の子・丹波道主王の女)、妃は丹波からは日葉酢媛の妹の渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)と3人が続きそのあと他にも3名あるが本題に関係ないのでここでは割愛する。

奈良県垂仁天皇御陵

垂仁天皇は、『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。

集落南部で青銅器の製作。古墳時代前期に衰退している。遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。

但馬と奈良との天日槍の因果関係の謎を解明する

ここでの本題は出石と大和に共通する三宅という地名である。奈良県三宅町と田原本町には天日槍と但馬に関わりのありそうな事跡が多いことである。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
平成16年5月に『和田山町史』を執筆した筆者は、『川西町史』と『田原本町史』の古代編に惹かれていて、読みふけった。両町には、半島からの渡来人の足跡が色濃く残っていることを知った。その中には天日槍伝承をもつ氏族集団もいる。その後、同氏族に関して、

1,彼らの渡来は古墳時代のことであるのに、出石には日槍の伝承を持つ氏族の古墳と伝えられるもおのはない。ヤマトに存在するのだろうか。

2,日槍伝承を持つ氏族がヤマトへ移住するに至った理由は何であっただろうか。その間に斡旋者が介在していたのだろうか。
上記の疑問がフツフツとわいてきて、その解明に取りかかりたいと思うようになった。この思いを導き出したのは『川西町史』に盛られた諸項である。(中略)

1.大和盆地における古墳の分布状況

(大和の)主要古墳群は盆地の周辺部に集中的に分布している。ヤマト朝廷を構成した大和の古代氏族は早くにこの地を占拠して開拓し、やがてはヤマト国家の基を築く。そして巨大古墳群を築造する。

これに対し、地図の中央部、川西、三宅、田原本の三町が所在する中央部は古墳の分布がほとんどないところから、古墳の空白地帯といった感すらする。前時代までは低湿地であったため大規模な古墳を造る在地勢力の存在は考えにくいとみられていた。そこへいきなり「島の山古墳」「河合大塚山古墳」といった巨大古墳が出現しているものであるから、『川西町史』は驚きの口調をもって解説している。

「島の山古墳」は川西町の西方域に所在し、満々と水を貯えた周濠の中に大きな島が横たわっている状態にあるところから「島の山古墳」と呼ばれてきたのであった。東西から西北に延びる標高48mの微高地の北端に営まれていて、墳丘の全長190m、後円部の径98m、同高17.42mの前方後円墳である。築造時期は古墳時代前期末、年代でいうと四世紀末ごろに相当するという。200m近い規模をもつ規模で、(大和地方で)宮内庁の陵墓及び陵墓参考地や国の史跡にも指定されていないものは、この島の山古墳が唯一のものといわれており、逆にそのことからもこの古墳が大王もしくはそれに準ずる程度の人の古墳と推定されている。

しかし大王もしくはそれに準ずる程度の人びとの墳墓が集まっているとされる大和・河内の他の墳墓と大きく異なるところがある。それはかなり低地にあること、島の山古墳の一帯では同古墳につづく同規模のものが造営されていないこと、他の古墳では、その地域にすでに在地勢力が存在していたことを窺わせる小規模な古墳が存在するものであるが、またそれに続く大型古墳もなく、系譜的に断絶していることを表しているという。

では「島の山古墳」は、どのようなねらいをもってこの場所に築造したのだろうか。『川西町史』はそのことを詳しく論述している。

2.「倭のミヤケ」と川西・三宅・田原本三町域

「島の山古墳」の被葬者像については、これまでに出されている見解の多くが、「倭のミヤケ」よの関係に言及しているところから、『川西町史』でも「倭のミヤケ」との関係に解析の重点が置かれている。

ミヤケとは、「ヤマト王権が多様な目的を果たすために地方官である国造(くにのみやつこ)等の領内に置いた政治的(軍事も含む)・経済的拠点である。ミヤケが設置された歴史的意義については、ヤマト王権が初めて地方に打ち込んだくさびであり、ここを拠点に国造・伴造(とものみやつこ)などの地方官制を運用し、王権が必要とする物資の調達・集積や、よう役労働・兵役への徴発を行ったとされる(熊谷公男『大王から天皇へ』講談社)」との定義と歴史的意義を紹介したうえ、ミヤケが設置された時期は、ヤマト王権が誕生した四世紀末から、ヤマト王権の機構が整う六世紀中ごろまでの間であると述べている。

つづいて、多くの場合、それぞれのミヤケで地域や管理形態の特徴から類型化されている前期・後期の二つのタイプを挙げたのち、倭のミヤケの性格・位置・範囲等を述べている。

1)前期(開墾地系)ミヤケ

四世紀末から六世紀までに設置されたミヤケで、特徴としては大王によって開発された直轄的性格をもつことから、開墾地系といわれ、その管理は現地の国造もしくは地方豪族に委ねられている形態である。

2)後期(貢進地系)ミヤケ

その特徴は、国造等の地方豪族がヤマト王権にいったん反抗し、その後制圧されるに及んで改めて恭順の意を表すために、それまで自分が支配していた領地の一部を献上し王権のものとする。このタイプのミヤケは貢進地系といわれ、その管理については王権から直接管理者が派遣されて行われることになり、このことが律令的地方支配
の前提をなしたとされる。

川西・三宅・田原本の三町域が関係するミヤケとしては、「倭(ヤマト)のミヤケ」が考えられている。このことについて『川西町史』は次のように述べている。

「仁徳天皇即位前記には、“倭の屯田”の来歴について知っている人物として、“倭の直(やまとのあたい)”とは倭国造のことであるから、この一族がミヤケの来歴について尋ねられるということは、倭国造一族が倭のミヤケの管理を担当していたためであろう。このことから“倭のミヤケ”は前期ミヤケの一つに位置づけられる。」
(中略)
糸井造(みやつこ)や三宅連(むらじ)の出自や役割については後に述べるが、天日槍の伝承をもつ集団の中から、抜きん出て名の現れているこの両名は、造・連といった姓(カバネ)から、伴造に補せられた可能性が考えられるところから、彼らがミヤケ古墳群のいずれかの古墳に葬られていることの確証が得られたなら、天日槍伝承をもつ氏族の古墳は出石地域には確認されていないけれども、大和盆地のミヤケ古墳群が彼らの葬地ということができることになる。

ミヤケの開発に当たって、ヤマト王権は意図的にそこに渡来人の集団を設置していたことが隋所に見られる。渡来人は大陸や朝鮮半島からそれまでにない技量や知識などを携えて来ているので、その新しい技量を生かした生産活動の拠点をミヤケ周辺に構えさせて、ヤマト政権はその勢力を利用して組織や経済基盤を強固なものとする狙いがあったと考えられる。川西町域およびその周辺には渡来人に関係する神社や土木工事などの史跡がかなり濃密に分布しており、それらをつぶさに考察してみると、ミヤケの歴史的役割や意義、この地域の特色が浮かび上がってくるように思うので、改めて取り上げることにしよう。

3.三町域にみられる渡来人の足跡

さらに『川西町史』から引用させていただこう。

渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』は次の三つピークを挙げている。

第一波は四世紀末から五世紀初めに、高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。その時渡来したとされる人びとには、後に有力な豪族となる東(倭)漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文(かわちふみ)氏の祖・王仁(ワニ)、秦氏の祖・弓月(ゆづき)君がいる。この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

渡来の第二波は、五世紀後期に高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。この時期の渡来人は須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏や西文氏等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

渡来の最後の波は、七世紀中ごろになり、唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期である。
渡来人が太子道沿いの地域に設置され、その技術を活用して開発や生産が行われたことを示す列証を『川西町史』が挙げている。

田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏んいつながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。

川西町域にも渡来人の活動を推定させる史跡が二つある。糸井神社と比売久波(ひめくわ)神社である。現在は結崎市場垣内の寺川の右岸に鎮座する。『奈良県史』は、「古来、当社の祭神や創祀について諸説があって判然としない面もある」としている。糸井神社の社務所が出している「由来について」には、「ご祭神については豊鋤入姫命、また一説には綾羽呉羽の機織りの神とも伝えている」と微妙な表現をしている。豊鋤入姫命とは、崇神天皇の時代にそれまで宮殿に祀られていた天照大神を、倭の笠縫邑に移して祀らせた祭にその祭祀を託されたとされる姫命である。

糸井造と三宅連

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造

新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

豊岡市三宅は、旧名穴見村で、土師口という字がついたバス停があり、天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

『古事記』には、「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した」としている。であるから、佐伎都比古命は天日槍で阿流知命は阿加流比売神(アカルヒメ)だと思う。

この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』の著者の桜井勉である。「日槍の子孫、糸井姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」としている。実のところ、よく分からないというのが本音といってよかろう。

ただし、日槍伝承をもつ集団の子孫が大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者達がヤマトに糸井神社を建立、但馬に残った者達が寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。豊岡の三宅に落ち着いた者達についても同様の経過があったとみれば、豊岡市の人たちは納得が得られよう。(中略)

更杵村大兵主神社は中世にはほとんど廃絶に近い状態となっていたのだろう。このため明治期の式内社指定からははずれ、隣の林垣区の十六柱神社が式内社に指定医されている。いまでは寺内区の七、八戸が氏子となって更杵神社と称する小社を建立し、寺内区内に祀っている。

以上のように、更杵村という小さな村の村域とその隣接地に三社もの式内社が存在していたというのは、更杵村が古代にはきわめて重要な役割を果たしていたことを物語る証であろうか。円山川を隔てた対岸に但馬最大で近畿地方でも5本の指に入る規模の前方後円墳である池田古墳が存在している。但馬の首長が埋葬されたのではないかといわれているが、そのお膝元ともいっていい場所に更杵村は存在する。この地理的条件が、更杵村に多くの式内社を存在させる理由になったと考える。

この場合、畿内中枢部から派遣されてきたヤマト王権の首長が、天日槍伝承集団の分派をヤマトへ移住させる仲介役を果たしたとの仮説を立ててアプローチしてみてはどうだろう。

中島神社が鎮座する豊岡市三宅はかつては出石郡神美村ですぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市市場)がある。奥野にはもう一つの大生部兵主神社があり、一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社を祀るようになったようだ。

どちらも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

また、出石郡但東町薬王寺にも大生部兵主神社があり奥野とともに論社であるとしている。出石町鍛冶屋には伊福部神社、気多郡伊福(いふ・現豊岡市日高町鶴岡)という鍛冶に関わる神社・地名が残り、入佐山古墳の石棺からは被葬者とともに納められたであろう砂鉄が見つかっていて、鉄に関わる渡来系の由来が残るのである。

天日槍伝承をもつ集団のヤマト移住先は大和盆地の中央部、川西町など三町域のあたりだろうということは前に述べた。ヤマト王権の支配という面から見たこの辺りの政治・経済的な立地条件について『川西町史』は、次のように述べている。「この地が五世紀のヤマト王権の直接的な支配が及ぶ最先端部にあたり、それまでほとんど手つかずのまま残されている広大な平地であったため、灌漑・水利の面等で新しい技術やそれを身につけた人たちを投入すれば、未開の低湿地は肥沃な耕地に生まれ変わり、王権にとって重要な経済的拠点になる、ということである」。

天日槍の伝承をもつ集団はこの地に打ってつけの人たちであったことが理解できよう。この地に投入された人を語る一つになるか知れないのが、大和盆地に散在する国名集落である。三宅町には上但馬・但馬といった地名が現存する。同町には他の国名集落として石見・三河が存在する。

(中略)

以上のような展開は、五世紀初頭のころを意識して想定を試みた。以上のような空想的経過が、もし部分的にも認められるところがあったなら、天日槍の(円山川開削という架空の)開発伝承は、但馬では神話という架空に近い単なる物語であるけれども、大和盆地においては彼らの活動が実施に移された史実であったということができよう。

実はこの投稿を見たのが昨日であった。しかし、それまで勝手に素人で数年間進めてきた但馬史というほどのものではないが、歴史探索は遠からず近いものであったと思う。田原本町に但馬や石見・三河などという国名地名があることは少年時代から地図好きだったので不思議に思って知っていた。

おそらく『記・紀』編集当時、このようなヤマトに根付いた地方集団の伝承を多く取り入れたのではないかと考えれば、神功皇后や崇神・垂仁天皇などの時代の主たる節目に当たり、丹波(但馬・丹後を含む)が頻繁に登場することがむしろ納得がいくのである。

(一部補正しています)

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日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。

【新設丹後史】 開化天皇と古代丹波

『古代史の真相』 著者: 黒岩重吾

『古事記』、また後に『日本書紀』となる『日本紀』を天武が作らせた目的は、天皇の現人神(あらひとがみ)化と、万世一系による天皇家の絶対化です。そこで天武が最も嫌ったのは、氏族が違う大王家(天皇家)が並列することであり、大王家を凌駕しかねない勢力の存在だった。こういう天武の思想の下、四世紀の一時期、大王家と婚姻を重ね崇神王朝と並立していた葛城氏の首長たちの名は容赦なく改竄され、彼らに代わって創作された大王たちが登場したのです。とりわけ、応神・仁徳天皇が出現する直前の葛城氏について「記紀」が目して語らないのは、はなはだ興味深いものがあります。

葛城氏とは何者か

『古事記』によれば、葛城氏は蘇我氏と同族で、武内宿禰の末裔とされている。
その葛城氏がいつ頃勃興したかということですが、まず大和の東南部に日本最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳および石塚古墳を含む纏向(まきむく)古墳群というのがあります。ここは崇神王朝の勢力下です。箸墓古墳については卑弥呼の墓とする人もいますが、築造年代を三世紀半ばに推定するのはやはり無理でしょう。三世紀の終わりが妥当だと思います。

その時代、残念ながら葛城にはそれに匹敵する大きな前方後円墳はありません。ところが、葛城の室の大墓の近くに名柄遺跡があり、そこから弥生時代の終わり、三世紀末の銅鐸や多紐細文鏡が出ています。この多紐細文鏡は非常に珍しい鏡で、これと同じ鋳型でとった鏡が大阪府柏原市、山口県下関市、佐賀県唐津市、それに新羅の領有していた慶州からも出土しています。

これは極めて重要なことで、葛城氏を渡来人と見るかは別として、弥生末期に葛城に居住していた人びとは、瀬戸内海ルートを通じて、朝鮮半島と交易を結んでいたことがうかがえるわけです。

葛城氏の人物中、もっとも有名なのは葛城襲津彦(そつひこ)ですが、この襲津彦とは関係なしに、葛城垂見宿禰というのが『古事記』に出てくるのです。垂見宿禰の娘のわし比売が開化天皇の妃です。その間に生まれた建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけ)が、忍海部造(おしぬみべのみやつこ)の祖であるとされています。忍海というのは、今の奈良県北葛城郡新庄町です。もとより伝承上の話で、実在したかどうかはわからないのですが、門脇禎二さんの話によれば、垂見宿禰の垂見は兵庫県の垂水であるという。

河内から葛城に入るには、竹内峠を利用するのと、水越峠を通るのと、もう一つ吉野川をさかのぼって紀路をたどる。この三つがありますが、おそらく三世紀の終わりころから、葛城氏は水越峠を越えて河内に出て、垂水を押さえて但馬と交渉した。これが門脇説ですが、私もその通りだと思います。但馬というのは、東に丹後王国がある。これは崇神王朝系が、絶えず妃を求めていた場所です(拙者は但馬に出るには険しい遠阪峠があり、本州で最も低い分水嶺の氷上から福知山を経て加悦街道への方が近いと思う)。

そうすると葛城氏は瀬戸内海航路を利用して朝鮮半島と交渉する一方、河内、垂水に進出して丹後とも交渉していたことになる。だからそのあたりで大王家と競合するわけです。

この大王家と競合する時期は、四世紀の終わりころと考えられます。北葛城郡の馬見丘陵に葛城氏の墓があるとされているのですが、同丘陵の佐味田宝塚古墳、その南に位置する新山古墳などは、いずれも四世紀後半に築造されたものでしょう。新山古墳からは三四面の銅鏡、勾玉、管玉などが出ています。注目すべきは、直弧文といって円と直線とで描かれる日本独特の文様の鏡が出ていることです。

新山古墳よりやや古い佐味田宝塚古墳からは、30面以上の銅鏡が出土しているけれど、その中で特筆すべきは、平地式、高床式など四種類の家屋が描かれていることで有名な家屋文鏡です。高床式の家は、多分、その首長の家だろうけど、そこに蓋(きぬがさ)のようなものが描かれている。のちの大王家がもつ蓋とほぼ同じものです。だから、四世紀後半の佐味田宝塚古墳の被葬者は、北部葛城の首長であったと考えていい。

つぎに、南部葛城についてですが、どうも葛城襲津彦の出自は南部葛城のようです。葛上郡です。北部は葛下郡になります。佐味田、新山の両古墳とも100mクラスの古墳だけど、南部にはまだこれに対抗し得るだけの古墳は造られていません。

ただ強調しておきたいのは、もうそのころすでに崇神系の三輪山麓に、200mから300m級の巨大古墳が築かれていたということです。四世紀前半において、葛城氏は三輪王家に対立拮抗する力はなかったのです。

葛城氏が台頭してくるのは、四世紀後半から五世紀にかけてですが、突然、巨大な力になる。その原因は、朝鮮半島との交易でしょう。その頃の交易国はだいたい朝鮮半島南部から新羅(356~935年)が主で、次が百済です。この葛城氏の急成長ぶりを見ていると、三輪王家、俗にいう崇神王朝の勢力が葛城氏をなぜ潰してしまわなかったのか、なぜ拱手傍観していたのか不思議です。三輪王家は木津川を通って山科、それから但馬の方に勢力を伸ばしていった。婚姻関係から見るとそうなっています。彼らの目は北方へ、北方へと向いている。葛城氏は河内に出て、有馬の方に行った。だから三輪王家は葛城氏の存在をとりあえず利害的にも衝突しないし、それほど気には留めていなかったのだと思います。

『新版邪馬台国の全貌』 著者: 橋本彰

いわゆる「魏志倭人伝」に記された邪馬台国と諸国の所在地については諸説あり、ここでは触れませんが、日本海ルート説でいくと「投馬国」とは「出雲国」でありとされます。

次はこの「出雲国」を出発し、さらに十日間も進航すると、そこは舞鶴湾の辺りに到着することになると思われます。次にそこから南に向かって陸行する事30日にして目的地の邪馬台国に到着するのですが、当時の陸行といっても、舟で河を進んでいくのが主流ですから、舞鶴地方から陸行するとなると丹後一の大河・由良川という水量が豊富な河が内陸の奥深いところまで入り込んでいますから、舟で遡ることは十分にできます。

その河を40kmほどさかのぼったところに大江町があります。この大江町には「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」が自分の祖母の「天御影命」を祀った「弥加宣(みかみ)神社」を造営されています。さらに「天照大神の御神体が一時滞在された事を証明する「元伊勢の皇大神社」も祀られていて、この地域が古代の歴史上における非常に重要な地域であったことがうかがえます。

この大江町からさらにさかのぼっていくと福知山市があり、さらには綾部市から和気町辺りまでは舟で進むことができます。この和気町から南にひと山越えれば、丹波町、さらにもうひと山越えれば園部町で、桂川が流れて、亀岡から有名な「保津川下り」で下っていくと、嵐山までは一気に下れます。

拙者註:といっても保津川は急流であり角倉了以によって開削されたのはずっとあとですが…。丹後半島の東に浦島太郎の伝説地のほとつの伊根町があります。その南に丹後一宮・籠神社と天橋立の宮津湾があり、野田川をさかのぼると日本海でも最大規模である丹後三大前方後円墳のひとつ蛭子山古墳や、おびたたしい数の古墳が集まった加悦(カヤ)から大江町を通り福知山に至り、さらに加古川を下れば前記の葛城垂見宿禰であろう垂水(神戸市)に至ります。海運に長けた人びとが、例えば鉄製品など運ぶのに舟を利用しない可能性の方がきわめて低い。

弥加宣(みかみ)神社

余談になりますが、京都嵯峨野に「御髪(みかみ)神社」があります。天御影神ではなかったことは確かでした。これは後世になって当て字ではないかとそんな思いがするのですが。

もしこのコースを邪馬台国の使者が通ったとなると、由良川に入ってすぐの大江町に「弥加宣神社」が祀られており、内陸に入るに従って難所が控えていて、その難所を過ぎて大和国も近くなり、再び穏やかな行程となる場所に、天御影神を祭祀した「みかみ神社」が存在していた、となれば因縁浅からぬ思いがするのは私だけの思い過ごしでしょうか。

拙者註:日本唯一の髪の神社。祭神は藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之公(ふじわらうねめのすけまさゆき)。その三男の政之公が生計のために髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされる。天御影神とは関係ないようです。

この嵐山から桂川を下っていくと山崎で琵琶湖から流れる宇治川と、木津方面から流れてくる木津川とが合流して、淀川になります。この合流地点をさかのぼって行けば、「卑弥呼」の鏡ではないかと言われている「三角縁神獣鏡」が32面も副葬されて騒がれた「椿井大塚山古墳」があるのです。このことから考えても、日本海回りのコースが邪馬台国の都に通じていたことを暗示している、そんな思いが強く感じられます。

木津町で下船した一行は、ここから陸上を邪馬台国の都まで徒歩で進行していったとしてもそんなに長い日数ではなく、せいぜい2~3日あれば充分足りるかと思われます。あるいは山崎から淀川を下り、かつては大きな入り江であった枚方当たりから当時の大和川を遡ったとしても、これも2~3日あれば充分かと思います。

『古事記』「開化天皇」の段に、「日子坐王(ひこいますのきみ)」と野洲三上地区に鎮まっている「天御影神」の姫である「息長水依比売(おきながのみずよりひめ)」との婚姻が語られています。この二人は五人の子宝に恵まれ、そのうち女性は二人ですが、この二人についてはその後の消息が記されていないので分かりませんが、男子の三人については次のように記されています。

長男の「丹波美知能宇斯王(たにはのみちのうしのきみ)」については、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波地方の舞鶴市と大江町に「弥加宣神社」が祀られていたことから、丹波地方をその後支配されたことが確認できるのです。
次男は「水穂真若王(みずほのまわかのきみ)」といわれていますがこの人は、「近つ淡海安の値の租(ちかつあふみやすのあたえのおや)」と記されていて、近江盆地の東南部に広がっている野洲平野にあった「安の国」一帯の支配が考えられると思います。

そこで言えることは、この「水穂真若王」は祖母の「天御影命」や母「息長水依比売」等と共に、この「安の国」に留まっていてこれらの地域を統治していたと考えられます。
三男の「神大根王(かむおおねのきみ)」ですが、この人は和名が、「八瓜入日子(やつりのいりひこ)」と記され、「三野(美濃)木巣の国造の租」、「長幡部の連の租」とあります。この和名の読み方については私も初めは「やつりのいり日子」と読んでいましたが、これは間違った読み方で、正しくは「やすの入日子」と読むのをある本で知りました。

「丹波美知能宇斯王」が丹波を支配するようになったのは、多分成人後に、父王の「日子坐王」によって丹波国に派遣された事が、丹波を支配するそもそもの始まりだったと思います。しかし、この丹波地方は祖父の「開化天皇」と、丹波の「竹野比売」との通婚が「記紀」に記されてあることからも、昔から丹波地方は「開化天皇」によってその支配下に組み込まれていたことが判るのです。

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【新説丹後史】 神殿と神政王権の出現

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲

※中島の原文は「神聖王権」だが、拙者は太古の政治は神を崇めるマツリゴトから発生し政治の中心を占めていたことから、関裕二氏が使用している「神政王権」に統一する。

邪馬台国が九州説と大和説が二分している。拙者はひとまずそのテーマには距離を置いている。というのも邪馬台国が天皇を大王とするヤマト王権に移行した可能性は低いと思っている。(私は無関係だと思うので、九州だろうが大和だろうが、九州北部、出雲、吉備、ヤマト、丹後、北陸、尾張などが乱立していたころの西日本の一神政王権であるなら、そんなにその後の日本にとっては大した関心事ではない)

逆に近年めざましい発掘調査による事実を集めることで、弥生時代から古墳時代までの列島の様子をさぐることが、むしろ邪馬台国の所在地をしぼることができるのではないだろうか。最初から九州だ、大和だという視点では列島全体が見えなくなりそうだから。

ということで、中島一憲氏は、兵庫県出身、元豊中市役所勤務、退職後歴史研究に専念されているプロアマ歴史家だそうだから、専門分野に囚われないユニークな面白い視点があります。

神殿と神政王権の出現

九州北部で青銅器の交易権をめぐる争いが始まっていたころ、近畿地方にいち早く強大な神聖王権が出現している。

大阪平野西部、東六甲山系から大阪湾に注ぐ武庫川に近い兵庫県尼崎市武庫庄遺跡で、弥生中期前半の大規模高床建物群が見つかったのである。考古学上ではこれまで知名度が低かった地域であるが、肥沃な沖積平野を後背地として、大阪湾から瀬戸内ルートを通じて海洋交易で栄えた港市国家の存在を予想させる絶好の立地条件を備えていることをまず指摘しなければならない。

朝鮮半島や大陸との距離を別とすれば、近畿地方は気候が温暖で広大な平野部や盆地に恵まれ、大阪湾や琵琶湖、淀川といった水運にも至便であり、文化の発展にとってことさら九州に引けをとるという条件にはない。むしろ瀬戸内に強大な対抗勢力が出現しない限り、近畿は後背地のお陰で九州地方より、いっそう豊かな土地柄であった。

この建物は間口は8.6mもあり、奥行きは調査区の外に広がっているためわからないが、柱穴は東側で三本、西側で五本が柱間2.4mの等間隔で整列しており、中に直径50cm、長さ50cm~1mのヒノキの柱根が残っていた。柱の太さは弥生中期後半の池上曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)の神殿のもの(70cm)より細いが、吉野ヶ里遺跡の弥生後期の高床建物に匹敵し、間口は池上曽根遺跡の7mを大きく上回っているので、弥生時代最大級の高床式建築があるとされた。

さらにこの建物の8mほど外側を、五本の柱が見つかった西側の奥行きに平行して長さ35m、幅30cm、深さ15cmで一直線に延びる溝状遺構が見つかったが、これも建物を取り囲む板塀の跡と考えられた。

この建物の周囲には別の小規模な掘立柱建物三棟と円形竪穴住居跡があり、この遺跡を中心とする一帯が武庫川流域の地域国家の王都であった可能性が想定されたのである。

近畿地方ではこれより先に、池上曽根遺跡で1995年に発掘された大型高床式掘立建物が、正面を南に向けて東西方向に等間隔の柱で整然と建てられた長方形の建物で、両端に棟持柱をもつ神明造りの神殿であることがわかり、これも当初は紀元後50年代とされていたが、年輪年代測定の結果、実年代はそれより百年古い紀元前50年代であることが判明した。

北西九州の戦略的地位

九州地方ではまだ紀元前二世紀代の大型掘立柱建物は出土していない。しかしこの地方ではこの時代、甕棺葬がさかんに行われ、青銅器を大量に副葬するという習慣があったため、それによってこの地方のこの時代の政治的・文化的状況を推定することができる。

古代の日本列島における金属器の製造と使用の実態を追いかけてみると、いくつかの興味ある事柄が浮かび上がってくる。

まず第一に、縄文後期までは金属器は東北地方の港市国家が大陸から直接に移入していたらしいが、縄文晩期から弥生時代にかけては九州地方の港市国家が輸入の元締めとなったらしいことである。このことはこの頃から大陸交易の拠点として九州地方、とくに玄界灘から博多湾沿岸部にかけての戦略的地位が列島以外とともに重要視されるようになったことを意味しているのではないか。

第二に、縄文晩期以降の金属器では吉武遺跡や今川遺跡の例のように鉄鏃、銅剣などを金属製武器を好んで移入していることである。

第三に、曲がり遺跡や斎藤山貝塚のように鉄斧という形状の鉄素材を移入していることである。このことは有明町の製鉄炉遺跡や今川遺跡のリサイクル技術、吉野ヶ里遺跡や鶏冠井遺跡の青銅器鋳型、扇谷遺跡の精錬製鉄技術などから考えて、すでに鍛造や鋳造の高度な金属製造・加工技術をもち、武器はもちろん農具や工具など生産用具としても祭祀具としても金属器を活用していたことを意味しないだろうか。

第四に、今川遺跡出土の銅製品については、その起源が遼寧地方に求められるとされていることである。

列島の弥生前期・中期前半といえばおよそ紀元前300~100年にかけてのことである。大陸では戦国時代(紀元前403~221年)の前半にかけての時代にあたる。とくに戦国時代後半の紀元前三世紀中ごろは「戦国の七雄」の一つに数えられた強国に「燕(エン)」があり、そのころの 国は今日の遼寧省地方を根拠地に、南は山東省から東は遼東半島にかけて勢力を築いていた。

そうすると今川遺跡の銅製品の出土は玄界灘沿岸部の港市国家と燕国との交渉を想定させないだろうか。いわゆる「魏志倭人伝」の冒頭には、かつて朝鮮半島におかれた魏の直轄領である帯方郡(郡治は現在のソウル付近とされる)から倭国へいたる行程が述べられている。半島南部の弁韓(狗耶韓国)から対馬、壱岐を経由して九州北西部に達するという航路の記録である。

三世紀当時の倭国から大陸への交易ルートは、この逆の行程をたどったと考えるのが自然だろう。

しかし、旧石器時代の1万3千年前、原倭人はすでに伊豆諸島の黒曜石を関東地方などに海上輸送している。
縄文早・前期(1万年~5千年前)の前倭人(原倭人に次いで古い祖先)は、島根県の隠岐諸島の黒曜石を、50km無寄港で山陰地方へ海上輸送している。
また、伊豆諸島南端の下田から伊豆七島南端の八丈島までは直線距離で190km離れており、御蔵島と八丈島の間には黒潮本流が時速7ノット(約13km)の急流となって流れているが、当時の前倭人はこの航路を乗りこなして交易している。

この「八丈島航路」の距離は、博多-釜山間とほぼ同じで、ともに島づたいながらも急流を横切るところは「対馬海峡ルート」に等しい。

そして縄文後期(4千年~3千年前)には福岡県宗像郡玄海町の土器と佐賀県伊万里市の腰岳産の黒曜石が「対馬海峡ルート」で、釜山市の外港がある影島に運ばれている。

倭人(現代日本人の大多数の祖先)は、このようにして前倭人の時代から航海技術を駆使して大陸文化と交流してきた。

その交易先は古くはロシア共和国の沿海州地方であったが、やがて古代の大陸文化が中国大陸の長江(揚子江)下流域の「江南地方」で栄えるようになる7千年前ころには、「対馬海峡ルート」の先に「江南航路」が開拓され、大陸の南方系文化が列島に移入されるようになる。

この「江南航路」による大陸交易は、縄文時代全期を通じておもに東北地方から日本海沿岸にかけての港市的な集落によって担われたことが、考古学的な遺跡や遺物から推定できる。

これらの港市的集落が交易を通じて富を集積する社会経済システムを発展させ、やがて縄文中期(5千年前)以降、いくつかの拠点集落を核として通商交易権を独占的に支配する港市国家が登場するようになるのだ。

ところで縄文後期(4千年前)になると、その港市国家は九州地方にも出現し始めたと考えられる。さきほどみたように、まず玄界灘に面した福岡県宗像郡玄海町の港市王が直接、釜山と交易している。

縄文晩期の2千5百年前には、同県糸島郡二丈町曲がり田遺跡で大陸製の「板状鉄斧」が出土しているが、二丈町は糸島半島の南の付け根、唐津湾に面した「伊都国」地域の海港で、「対馬海峡ルート」を制するに適した港市国家の候補地のひとつに考えられる。

列島最古の製鉄炉跡が見つかった長崎県有明町も、当時は島原半島の有明海に面する海港でこのルートとの連絡が容易である。

同時代のことであるので、二丈が「国際貿易港」で、有明町が「工業都市」といった関係にあったかもしれないが、それを証明する史料はない。

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弥生文化圏の成立とタニハ

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。

早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。
だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。

ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。

大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。

弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。

この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。

なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。
このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。
濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。

「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。

また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、

さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。

門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」

の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。

拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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弥生文化圏の成立

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。
早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。

だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。
ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。
大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。
弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。
この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。
なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。

このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。

濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。
「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県(あがた)」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、
さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。
門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。
拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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【新説丹後史】 丹後の巨大前方後円墳と前方後円墳国家

ヤマト政権が統一に向かうまで、旧石器、縄文、弥生時代といっても1万年以上にも及ぶ、記紀編纂から今日までの約千四百年をはるかに上回る膨大な年月である。

弥生時代、日本海に面した出雲、伯耆、丹後などに諸勢力が形成されていった。それはどのように半島南部との交易を行っていたのだろうか。近年、青森の三内丸山遺跡、出雲一か所でこれまでの全国で見つかった総数を上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかり、吉野ヶ里遺跡を上回る規模の伯耆・妻木晩田遺跡、因幡・青谷上寺地遺跡の倭国乱のようすを示す発見など、これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

かれらは韓半島と日本海を交易を通じて東アジア共同体を形成していたのだ。丹後としているが、かつては丹波が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄

弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。

そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。
東アジア世界とは、西嶋定生氏によれば、律令、仏教、儒教、文字などを共通した世界を示す。

丹後の巨大前方後円墳

網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)
画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はまったくない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

0357NH23-A.tif

釧(くしろ:腕輪) 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

コバルト・ブルーの色調をもったガラス製の釧(くしろ:腕輪)や貝輪の腕輪類をはじめ、じつに11本もの鉄剣などを副葬していた弥生後期後半の大風呂敷南1号墳、後期末で一辺40mの方形墳墓、赤坂今井墳墓などは「王墓」とひろく認められている。このほか後期初頭になって丘陵尾根に営まれだした首長墓は、かならずといっていいほど剣・刀・鏃(やじり)の鉄製武器を副葬していた。三坂神社3号墓では、後漢王朝からの下賜品かと推測される素環頭太刀に鉄鏃やヤリガンナが加わるし、浅後谷南墳墓でも、中心主体に2本の鉄剣がヤリガンナとともに副葬されていた。

(大風呂敷南1号墳の釧は、奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から、中国製のアルカリ珪酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が高い。鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県・藤ノ木古墳で見つかった「なつめ玉」などわずかしか確認されていない。)

弥生時代後期の墳墓に副葬されていた鉄剣・鉄刀などの大型武器はいまや50本の多さに達していて、旧国単位
では丹後地域が一頭抜きんでて堂々の第一位を占めている(野島2000)。多量の鉄製品副葬という事実は、南部朝鮮からの鉄素材の獲得、鉄器を加工する技術の保持、製作された鉄器の流通機構など、それを補完しうる鉄器武器の再生産システムがはやくもこの時期に完備されていたことを想定させる。
谷底平野しかないにも関わらず首長墓や「王墓」がみられ、多量の鉄器や漢王朝からのガラス管玉などの副葬に加えて、日本海に面しているという立地を考慮すれば、南部朝鮮首長層を相手にした鉄資源の交易という共通の利益によって、丹後各地の首長層が政治同盟を結んでいた可能性が高い。
もしそうだとすれば、交易で得られた富をテコに王権を確立していった、という王権形成のひとつのコース、農業生産を基盤にしたものとは違ったプロセスをみることができるのではないか。『魏志倭人伝』に描かれた三世紀の国々には含まれなかった丹後においても、そのころの北部九州や畿内などに何ら遜色のない「王墓」が築造されていたわけだが、そうした時代状況とはいったいどのようなものだったのか。
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玉の生産と「輸出」

弥生時代中期末の奈具岡遺跡での玉生産が注目される。ここでは碧玉や緑色凝灰岩製の管玉や勾玉(まがたま)、水晶製の勾玉、なつめ玉、そろばん玉、小玉、ガラス製の小玉などが多量に生産されていた。なかでも水晶の玉生産が注意を惹く。この時期の水晶製玉類の製作は、島根県西高江遺跡、同平所遺跡、富山県江上A遺跡で知られているが、奈具岡遺跡では数キログラムもの未製品や生産残滓が出土していて、まさしく突出した生産量を誇っている。さらに、玉つくりのための鉄製道具を製作した四基の鍛冶炉と10kgもの鉄素材は、漢代に盛行した鋳鉄脱炭鋼であることが分析されており、(野島2000)、その輸入先には設置されて間もない楽浪郡の可能性が示唆されている。

さて個々で生産された玉類、なかでも水晶でつくられた玉類はいったいどこへ供給されたのであろうか。長野県の再葬墓で水晶玉の副葬例が二例ほどみられるだけで、後期にいたってもまだ日本列島においては一般的ではなかったし、地元丹後の首長墓にもみられない。ここで候補地として登場してくるのが楽浪郡に派遣されて客死した官人の墳墓、や朝鮮原三国時代の首長墓である。しかし若干年代的に新しい墳墓が多い。今後の十分な検証が必要だが、有力な候補にあげたい。

北部九州だけではなかった弥生時代の王


大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。
後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。
つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

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但馬最大の前方後円墳 池田古墳は誰の墳墓なのか?

但馬にある前方後円墳は、現時点で朝来市平野にある池田古墳とその次に大きい朝来市桑市の船宮古墳円墳の2基のみである。

池田古墳

墳形:前方後円形

前方部を北東に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は約136メートル。築造時期は古墳時代中期の5世紀初頭とされている。
後円部 – 3段築成。直径:約76メートル
前方部 – 3段築成。幅:約72メートル

前方後円墳では但馬地方では最大規模、兵庫県内では第4位の規模になる。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみになる。また池田古墳からは水鳥形埴輪が23体分確認されており、全国最多の出土数を誇る。

墳丘長はかつて141メートルとされていたが、2007年(平成19年)の後円部の調査で約136メートル程度と見積り直されている。前方部の調査が不十分なため、正確な値は未だ明らかでない。池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(Wikipedia)


現地説明会 2008.3

池田古墳は誰の墳墓なのか?

四道将軍 彦坐命と丹波道主命

そもそも彦坐命とは一体誰なのかに触れておきたい。ひこいますのみこ、あるいはひこいますのおうと読む。『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」とも表記される。第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である。

『日本書紀』では子の丹波道主命が四道将軍の1人として丹波に派遣されたとしている。

『古事記』崇神天皇段では、日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ったという。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居した。
天皇は彦坐名に日下部足泥(宿祢)という姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

前方が東北を向いているので、兆域の東とは前方部、西は後円部、北9間はわからないが、造出(つくりだし)というくびれ部裾付近に作られた墳頂へ登ったり祭祀を行うところだろうか。1間は約1.818メートル。東28間=50.9メートル、西11間=約20メートル、北9間=約16.4メートルを西11間に合わせると36.4メートルとなる。

禾鹿宮の禾とは訓読みでイネ、ノギと読む。穀物の総称。特に、イネ・アワことをさす。『但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記では禾鹿と粟鹿を同じ文中に混同して使用しており、粟鹿あわがのことであると思って間違いはないだろう。粟鹿神社もしくはその付近であるが、のちの第43代元明天皇の頃に山陰道の朝来郡の駅が粟鹿に設置され、朝来郡の中心地だった。前期のものは,多く丘陵など自然地形を利用したが、古墳時代中期は、平地に造られ巨大化し、土地の守護神としてその権力の階層の大きさを外に見せるためであったとされる。これだけの規模の前方後円墳は粟鹿神社の後背地の朝来山は自然の稜線で、その付近から大規模な前方後円墳が発見されたという報告は未だない。

禾鹿(粟鹿)の鴨ノ端(加茂端)という呼称から、鴨がたくさんいたようだ。今の但馬では川にいるとしたらサギで鴨がいたとは今では想像しにくいのであるが、そのような川幅が広い場所を南但で探すとすれば、古墳の前に円山川が流れ、但馬最大の前方後円墳であるこの古墳となる。粟鹿神社の前を流れる円山川の支流である粟鹿川は小さい川であり、鴨や水鳥がたくさんたわむれていたような場所だったとは想像しにくい。

*(日子坐命墓の別の説)墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。

彦坐命を葬った「禾鹿の鴨ノ端ノ丘」が今のどこになるかだが、粟鹿神社から池田古墳までは直線距離で7.1kmもあり、池田古墳よりも茶すり山古墳の方がまだ近いが円墳である。彦坐王を祀る粟鹿神社のある朝来山の東麓で、池田古墳や城の山古墳より濃厚だ。

また茶すり山古墳も円墳で、豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」の反対側にあり、豊岡自動車道は春日ICで舞鶴若狭自動車道につながり、丹後や篠山方面へつながる。禾(粟)鹿宮である粟鹿神社から茶すり山古墳までは約4kmである。巨大な円墳で、大量の武器・武具が副葬されていたこと、粟鹿神社に近いことから、彦坐命が葬られた禾鹿の鴨ノ端ノ丘とはこの場所をさすのではないかと思うのである。この時期で日本海側最大の前方後円墳、池田古墳がふさわしいのだが、禾鹿の鴨ノ端ノ丘は粟賀地区でなければなら

船宮古墳

兵庫県朝来市桑市

5世紀代 全長約80 m 日本最古の牛形埴輪

船穂足尼命の墳墓ではないかと朝来市(旧朝来町)の案内板にはあるが、おそらく船宮古墳という名称か但馬国造船穂足尼命との連想によるのであろうが、これは単なる連想であって、何の根拠もないものと思われるのは以下の『国史文書 但馬故事記』である。

息長宿祢命の子・大多牟阪命を以って、朝来県主と為す。
大多牟阪命は、墨坂大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足尼命を生む。
人皇13第成務天皇5年、竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼命は多遅麻国造となり、大夜夫宮に遷る。(中略)神功皇后元年、多遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜夫船丘山に葬る。
物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造と為す。

とある。物部多遅麻連公武から以降は北但馬の気多郡に多遅麻連→但馬国の国府は固定される。

前方後円墳はヤマト政権に近い皇統の連合体国造である

物部多遅麻連公武は気多郡高田郷に府を置き、それ以降但馬国府まで気多郡に遷るので、円山川を挟んだ対岸にある大藪古墳群は古墳時代後期で、大夜夫宮が大藪にあるとしたら、船穂足尼命の古墳は大藪古墳群にあるということにほぼ間違いない。

『但馬故事記』に
人皇3代成務天皇の御世に竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼が多遅麻国造となる。人皇15代神功皇后からは気多郡に府が遷り、物部連大売布命の子・公武が多遅麻国造となり府を気多郡高田邑に置いた。父・物部連大売布命は伊香色男命の子で、人皇12代景行天皇の御世に戦功により多遅麻の摂津の川奈辺と気多・黄沼前三県を与えられ、多遅麻の気多に下ったが、成務天皇の御世は景行天皇の東国遠征に随行し、大売布命の子・公武から多遅麻国造になっているので、ほとんど多遅麻の政は行っていなかったと思われる朝来市山口と船宮古墳のある朝来市桑市は、直線で4.4kmとわりと近距離にある。大多牟阪命の墳墓かも知れない。

長浜浩明氏は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』で、古代の歴代天皇在位年の実年を計算している。前代の天皇崩御年を起点として若干の誤差が生じる御代のあることを承知していただきたいと述べている。

これによると、池田古墳の築造年代は5世紀前半となっているが、3世紀後半ではないかと思うのだ。

前方後円墳は、古墳時代3世紀中頃から7世紀初頭頃というのが定説で、畿内の大王墓は6世紀中頃までで終わり、6世紀後半になると全国各地で造られないようになっていく。
『但馬故事記』の朝来郡故事記は、神功皇后まではくわしいが、古墳時代に相当する第15代応神天皇、第17代履中天皇、第27代安閑天皇(531-535)の朝来県主を淡々と記すのみであり、18代から20代、22代から26代まで記載なく、また、第27代安閑天皇以降は用明天皇まで記載がない。
したがって、巨大古墳にふさわしい但馬王は、彦坐命、その子・丹波道主命以外に見当たらないのである。その頃の朝来郡では三国の大国主であった地位から、第13代成務天皇(131-190)に、多遅麻国のみを治める多遅麻国国造となって、養父郡1代を経て、気多郡に遷っていることである。

全くもって素人が、築造推定年が正しいのかどうか失礼ではあるが、古墳の築造年代の推定は約100年遡っての誤差があるのではないかと思えるに至るのである。

『但馬故事記』は偽書だといえるのかどうかは、別としてこれほど詳細な記録はない。但馬風土記が焼失したことで、平安初期、残念に思った国衙・国学寮の地元出身ではない中央からの国司(役人)たちが長い年月をかけて公正に調べあげた全国にもあまり類がない国司文書である。

名称所在地築造年代形式外形主な埋蔵品
赤坂今井墳墓京都府京丹後市峰山町赤坂弥生時代終末期前後(3世紀前半頃)方墳南北51m、東西45m、高さ3.5m
粟鹿神社方形貼り石墓兵庫県朝来市山東町粟鹿弥生時代中期末~後期初頭方形貼り石墓南北1辺20m以上、 東西15m以上但馬地方では今回初めて
銚子山古墳京都府京丹後市網野町4世紀末前方後円墳全長198m
神明山古墳京都府京丹後市丹後町4世紀末前方後円墳全長190m
蛭子山古墳京都府与謝郡与謝野町加悦4世紀末前方後円墳全長145m
城ノ山古墳兵庫県朝来市和田山町東谷4世紀後半円墳南北径30m、東西径36m、高さ5m銅鏡三面 三角縁獣文帯三神三獣鏡・唐草文帯重圏文鏡
船宮古墳兵庫県朝来市桑市5世紀代前方後円墳全長約80m日本最古の牛形埴輪
池田古墳兵庫県朝来市和田山町平野5世紀前半前方後円墳全長約141m水鳥型埴輪23体
茶すり山古墳兵庫県朝来市和田山町筒江5世紀前葉円墳東西約35m、南北約30mの楕円形近畿地方最大級の円墳、大量の鉄製品を副葬
禁裡塚古墳兵庫県養父市大藪6世紀後半~7世紀代円墳32m装飾付須恵器の破片
西の岡古墳兵庫県養父市大藪6世紀後半から7世紀代円墳13.6m
箕谷古墳群兵庫県養父市八鹿町小山7世紀前半(630年ごろ)円墳2号墳から出土した戊辰年銘大刀

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渡来人の活躍が蘇我氏の成長をもたらした

関裕二氏は、『古代史謎解きの「キーパーソン50」』で、蘇我氏についてこう記している。

蘇我氏の業績

蘇我氏の全盛期は、蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代である。六世紀後半から七世紀前半にかけてのことだ。その基礎を築いたのは、馬子の父・稲目が娘たちを盛んに入内させ、天皇家と強い姻戚関係を結んでいった。この稲目の蒔いた種を刈り取ったのが、蘇我馬子で、用明、崇峻、推古という蘇我系の天皇を立て、この間大臣となって活躍した。

蘇我馬子の功績は、日本で最初の本格寺院・法興寺(飛鳥寺)を建立したこと、推古天皇と二人三脚で政局を動かし、聖徳太子と共に改革事業に邁進したことであった。憲法十七条や冠位十二階は、聖徳太子の功績として名高いが、蘇我馬子の後押しがなければ、到底成し遂げることはなかったのである。また蘇我馬子は娘を聖徳太子や舒明天皇に嫁がせ、盤石な体制を築いた。

蘇我氏は渡来人か

蘇我氏の出自は明らかになっていない。なぜ六世紀、彼らは忽然と権力の中枢に上りつめたのだろう。

『古事記』によれば、蘇我氏の祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)で、この人物は孝元天皇の孫のあたる(『日本書紀』には曾孫)のだが、この記事はあまり重視されていない。一般に蘇我氏は渡来系ではないかと考えられているからだ。その理由は、蘇我氏が渡来系の工人を支配下において力を得たこと、蘇我氏のその中に、渡来系を連想させる人物が登場しているからである。
まず、蘇我稲目の祖父の名は韓子(からこ)、父は高麗(こま)で、どちらも朝鮮半島の「韓」「高麗(高句麗)」の名を負っている。
武光誠氏は、『大人のための古代史講座: 常識としてこれだけは知っておこう』のなかで、
六世紀には、地方豪族の多くがヤマトの文化の高さを認識し、ヤマト王権を中心に日本をまとめていくほかないと考えるようになっていったなかで「磐井の乱」が起こった。(中略)
「磐井の乱」については別項にゆずるが、
飛鳥時代の直前にあたる六世紀初めに、朝廷の勢力図に大きな変化が起こった。同等の十数個の豪族の集合体であった朝廷が、一、二の有力豪族のもとに秩序づけられていったのだ。この体制は、のちの藤原政権へと連なっていく。

ヤマト王権は、四世紀末に西日本をほぼその支配下におさめた。そして、朝鮮半島に軍勢を送って
五世紀の朝廷の構造と六世紀の朝廷のそれとが大きく異なることが注意する必要がある。

五世紀の王室は有力な王族の連合体であった。王族たちは各自の宮を構えて自立しており、王位をめぐって勢力争いをくり返していた。中央の豪族たちは、そのような王族と離合集散をくり返しながら自家の勢力を強めていこうとしていた。

そのため、五世紀には群を抜く実力をもつ豪族も現れなかった。ところが、六世紀初めに継体天皇(大王)が王位についたことをきっかけに、王位を嫡系で継承していく習慣ができ、大王を補佐する者が大きな権力を保有するようになった。

六世紀初めには、大伴氏と物部氏が諸豪族を支配下におさめて朝廷を動かした。ところが、大伴金村が外交上の失敗で失脚すると、蘇我稲目がそれに代わって力をもつようになった。
六世紀末には、物部氏が蘇我氏によって討たれたが、七世紀半ばの大化改新で蘇我氏は衰退し、七世紀末に藤原氏が成長してくる。
蘇我稲目は、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人の意)である王辰爾に難波の津の船賦(ふねのみつき・港湾税)を徴収させた。また、彼の甥に当たる胆津に命じて吉備の児島に広大な王室領を開発させた。このように、朝廷の財政を富ませることによって、蘇我氏は成長していったのである。

『日本書紀』は、五世紀末の雄略天皇のときに、東漢掬(やまとのあやのつか)が百済から来た今来漢人陶部(いまきのあやひとすえつくり)や鞍部(くらべ)を大和国高市郡に安置したという。また同じころ、180種の勝(すぐり・渡来系の小豪族)を秦氏に与えたと伝える。

しかし、蘇我氏はしだいに東漢、秦という渡来系の配下にない今来漢人を自己の管理下に組織して成長していった。
六世紀半ばまでは、中央豪族の構成員は、各自で館を営んでいた。ところが、六世紀末に個々の豪族の代表者の勢力が強まった。『日本書紀』は蘇我蝦夷、入鹿の父子が甘樫丘(明日香村)に大王の物に並ぶ壮大な御殿を造ったことを伝える。蘇我一族をまとめるには、朝廷並みの政治機構が必要だったのだ。
このとうな豪族勢力のなかで、支配層の服装は華やかなものになっていった。五世紀末にようやく、渡来系の工人が質の良い絹織物をつくり始めた。『日本書紀』は、五世紀末に活躍した雄略天皇が蚕を集めさせ、さらに身狭青(むさのあお)と言う者を江南に送り、呉服と呼ばれる綿や綾を織る中国人の工人を招いたと伝える。
しかし、豪族たちが華美な服装を競い合うのは好ましくない。そこで、聖徳太子が活躍した七世紀初頭に、服装に関する規則がいくつか作られた。たとえば、中国からの使者を迎えるときは、豪族はその冠位に応じた色の服を身につけよと命じた。
冠位十二階制定時に用いられた冠は、さまざまな色の織物を用いたぜいたくなものであったが、七世紀末になると位冠と呼ばれたそのような冠の着用は禁じられ、黒絹でつくった素朴な冠が使われるようになった。

蘇我入鹿と物部の関係を証明する『先代旧辞本紀』

『日本書紀』や教科書で習う限り、仏教派の蘇我氏と神道を残したかった物部氏は争いで衰退したかのように思えてくる。だが、物部系の『先代旧辞本紀』によれば、物部守屋は傍流であり、物部の主流派は生き残ったと記されている。それどころか、物部氏はこの時代、蘇我氏と姻戚関係を結び、協調体制を取っていたと記している。またこの文書は、蘇我入鹿に物部の血が入っていることを誇らしげに記録しているのである。

この物部側の証言は、大きな意味を持ってくる。なぜ大悪人蘇我入鹿と物部の関係を、物部自身が強調しているのだろう。ここに、七世紀の真実を解き明かす、ひとつのヒントが隠されている。『古事記』は蘇我氏の祖が物部氏の女系から生まれていたと支持している。蘇我氏の七世紀の特権の一つに「方墳」があった。蘇我氏の墓ではないかという飛鳥の石舞台古墳の土台が四角形なのがこれだ。そして日本で唯一方墳をつくれたのが出雲国造だった。蘇我氏が出雲=物部と同族だったからこそ、物部の伝承は蘇我氏を自慢している。

また蘇我氏が仏教支持派にまわったとされるがよくわらない。蘇我氏はスサノオとの関係が指摘され、それは出雲の偉大な神である。蘇我氏も物部氏も祖は出雲神としている。
大化の改新の前夜乙巳の変で討たれ、蘇我入鹿を悪人にされる。

関裕二氏は、
のちに藤原不比等が『日本書紀』を編纂した理由として、物部氏や蘇我氏の功績を後世に残してしまえば、「藤原氏の野望」の正当性が崩れ去ってしまう。乙巳の変、大化改新の本質を以下に改竄するかであり、不比等の父・中臣鎌足の出自をごまかすことにあった、としている。

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