6 生野義挙 終結

生野義挙終結まで

10月14日 山伏岩の自刃

「山伏岩(自決岩)」 山口護国神社内

文久3年(1863年)10月14日

そのころ、小河吉三郎(大川藤蔵)は養父郡能座村のサケジ谷(朝来市山内)というところにいた。伊藤龍太郎が妙見山の南側の陣に行く前に、小河は南らと共に妙見山にいる同藩の川又左一郎を訪ねた。午前5時頃に沢卿本陣脱出の噂を聞いた小河は、川又にこれを伝えたあと、南に下山の説得をしたのだった。小河は川又と下山したあと、大村辰之助と丹後の片山九市にあった。地の利がある片山を案内役として、丹波路に入ったころに百姓たちが後をつけてきた。農兵として駆り立てられた百姓たちは、近隣諸藩の追討を知り、沢卿一行の本陣脱出を知ると彼らに騙されたと思っていた。やがてサケジ谷にさしかかったあたりで、百姓らは激しく発砲してきた。小河は百姓に殺されるのならと、その場で自刃した。小河の介錯をした川又は大村、片山と共に縄にかかり、出石藩に引き渡された。

午後4時、妙見山に訪れた伊藤龍太郎に説得され、下山した中條と長曽我部は生野に戻り、伊藤の案内で追上峠(神崎郡神河町)まで来ていた。ここから姫路街道に落ちるつもりであった。伊藤と別れ二人は猪篠村に向かったときに百姓どもは追跡していた。浪人待てと言い放ち、発砲する。まず中條は胸板を撃ち抜かれ、長曽我部は自刃しようとしたところを狙い撃ちされた。

午後4時半ごろ

南八郎ら志士13名は、山口村妙見山の陣から生野の本陣に戻るべく討死の覚悟で降りてきた。生野の追討に諸藩が出陣したうわさを聞いた農兵召集で駆けつけてきた農民どもは村への後のお咎めを恐れ、かくなる上は浪士たちを追い払おうということになり、山口村西念寺で早鐘を打ち、妙見山麓に押寄せたのであった。集結した農民たちは、沢卿をはじめ、義軍を偽浪士と思い込こみ空砲を放ってきた。

妙見山麓に街道があり、その向こうには市川が流れている。街道沿いにいる南ら13名と、川辺にいる農民どもとのにらみあいは続した。やがて農民どもは鉄砲で空砲を撃ちかけ、浪士たちを威嚇してきた。つい先程までは浪士たちの手足となって働いていた百姓たちであるが、手のひらを返してきたのである。憎い百姓らめと抜刀して追いかけると百姓どもはパっと散り、引き上げようとすると竹槍を振り回し、空砲を撃ってわぁわぁ騒いで迫ってくる。

百姓らは幕府側の追討の火の粉が浪士たちのせいで己に降りかかると恐れている。物の分らん百姓めと切りかかろうともしたが、百姓相手に討死してもと思っているところに、川の向こう岸から岩津村(朝来市岩津)の大川勇平という愚者が実弾を放ち、これが26才の小田村信一の胸板を貫いてしまった。2、3人の者が手負いの小田村を担いで、通称山伏岩という岩陰に連れて行き、みなもそれに続き、岩陰で百姓どもの銃弾から逃れました。

彼らを恐れて、百姓らは近ずくことは出きず、しばらく睨み合いが続いたが、これ以上、百姓と戦をしても仕方がない、もはやこれまで山伏岩の岩陰でまず南八郎が切腹、続いて9名が切腹、このとき見事なのが全員の介錯をした筑前秋月藩の戸原卯橘(29才)だった。

言い伝えによると、戸原は南ら同志たち10名の介錯をしました。介錯を終えた戸原は山伏岩によじ登り、後事を託すために百姓どもを手招きしましたが、誰も近寄るものはいなかった。戸原は刀を拾い、武士の最後を見よと腹を一文字に切り、喉を突いて同志たちの死んだ岩陰に転げ落ちた。

戸原が死んで、しばらくすると山伏岩の近くの藪の中に二人の浪士がいた。氷田左衛門と草我部某で、百姓どもはまた、わぁわぁ叫びながら二人の後を追った。すると氷田が後ろざまに羽淵村の元三郎というもの肩先を切りつつけると、元三郎は驚いて川に飛び込み、家に逃げ帰ったがすぐに死んだという。元三郎が斬られて、百姓どもは一目散に逃げ帰った。そして、静かになった頃を見計らい、氷田左衛門と草我部某は刺違えた。

午後8時、南八郎ら少壮派が壮絶な最後を遂げた山伏岩に出石藩は検分に駆けつけている.。検視に来た出石藩が驚いたのは、戸原に介錯された志士たちの首か皆、頸の皮を一寸(約3cm)程を残して切ってあったらしく、出石藩士たちはこれを見て思わず感歎の声を上げたという。

13名の浪士たちは皆、鎖帷子を着けて、懐中には鰹節が2,3本ずつ入れてあったという。また、戸原卯橘に介錯された首級は出石藩士により、一人ずつ切り離され、生野代官所に届けられた。

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4 生野代官所占拠

10月12日 生野代官所占拠
生野代官所跡(朝来市生野町口銀谷)

午前2時、陣容が整うと直ちに出陣の用意に取り掛かった。物々しい様相に丹後屋太田治郎左衛門は代官所に注進した。これを聞いた元締武井庄五郎はただちに密使を出石に差し向けた。

やがて、南八郎の率いる少壮派たちは代官所を包囲した。役人どもが歯向かうようなら切り捨てる気構えであったが、婦女子には一切手荒な真似はしないように言い伝えた。やがて表門が開かれると一斉に突入した。しかし、代官所側は刀を捨てて一切戦う意思が無いことを示し、南八郎は元締武井に対し、当分代官所を拝借すると言った。また、南は御持ち出しになられる品物があれば随意持ち出されよと、寛大に措置を取った。また、武井もなかなかの人物で、代官所内にある槍などの武具は事前に穂先などを削り、あまり使えないようにしてあったという。

午前4時、無血で占拠した代官所に沢卿らが到着した。

宣言書を携え、各村々に黒田興一郎、長曽我部太七郎ら農兵徴集方や、地役人たちが農兵招集に奔走した。午前10時頃から農兵たちは集りだし、正午頃には2000人余りの兵が集った。

本陣に集った兵の前に沢卿ら首脳が現れ、沢卿は床の間の上段に座し、側には平野、南、美玉、長曽我部、多田らが甲冑をつけて居並び、本多素行が烏帽子姿で今回の義挙の大意を告げた。やがて、式が終わり、農兵たちは銀山町の来迎寺に引き移った。

午後6時、本陣ではまたもや軍議が二つに分かれた。一つは生野に籠り、敵を迎え討とうという者。あるいは軍を整えて丹波路から京へ進出し、大和追討の諸藩の兵と一戦交えようというものなど、強行派と出石、豊岡、姫路などの諸藩の追討が寄せる風聞を知り、兵器が未だ不十分ということなどから自重すべしとこの期に及び意見はまとまらなかった。

この頃、代官所元締の武井は密使を豊岡、姫路へと送っていた。幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられた。

前日に武井から送られた密使は出石に午前8時頃に到着し、出石藩は早速出陣の用意を行い、一番手は生野に向かい出陣した。一方、生野本陣では美玉三平は大阪の薩摩藩の有志あてに義挙の勧誘状を送っていた。

しかし、軍議は未だ一致せず、このときの様子を銀山新話にこう記されている。

沢殿曰く、「竹田町より京都正義の方へ急々勢揃の上、此処へ下向いたすべき旨申し遣わすといえども当時京都にても時々に変事これあり、時節、これとても当に成り難し。そのうちに南に酒井(姫路15万石)、北には仙石(出石3万石)、京極(豊岡1万5千石)、東は篠山(青山氏6万石)、福知山(朽木氏3万2千石)、宮津(本庄氏7万石)、柏原(織田氏2万石)等寄せ来たらばいかに防戦すべきかな」と、有りければ、南八郎進み出て、「仙石始め加令一時に攻め寄せ候とも、某、黒田(興一郎)に勇士14,5人を賜え。

山口(山口村)へ砦を構え、要害堅固に防戦に及べば、仙石、京極取るに足らず。南より酒井寄せ来らば、森垣(森垣村)、追上(追上峠)2ヶ所の内、美玉(三平)始め長曽我部(太七郎)、多田(弥太郎)等、地役人農兵引き具し、追上峠よりポンペン放ちかくれば、酒井勢大半討たれ、進む敵はこれあるまじく、君(沢卿)の御側には平野、本多(素行)両士等守護あらば心安き事」と、安気に申しければ、平野曰く、「南公(南八郎)は若武者ゆえ、左様に思い召され候得共、この軍中は容易ならず仙石、京極のみにあらず。三丹一所に攻め寄れば大敵なり。」その時、多田進み出て、「なにぶん無勢にて所々へ手を分け候こと、はなはだ以って危うし。某、所存は峠の切り所に陣を布き敵寄せ来たれば逆路にポンペン打ち付ける時は、岩屋谷津村子までは寄る共、一人近寄る事ある可らず。陣屋付近なれば万事駆引き自由なり。」と申せば、南八郎気色変じ、「全体この度の企て違いに相成り、勢い揃い兼ねる杯。足下方申され候へ共、諸方の集り勢、当に致し多勢小勢、杯論ずるは、必竟(ひきょう)臆病神の付くに似たり。仮令無勢にても心を一致して身命を抛(なげう)ち、精神貫き発せば何千騎の寄手なりとも、蹴散らして一人も通す間敷。黒田殿は此の辺地理委しき事ゆえ、采を取り指揮いたすべし。」とある。

午後2時、南八郎や戸原卯橘の正義同盟の少壮派志士達は先陣として北面の守りへ山口村に出陣する。生野の村は今や戦かと大騒ぎになっている。諸藩の追討に対して、南らは生野からさらに東北に二里ほど離れた山口西念寺に赴き、大挙出陣して来る出石藩に備えることにした。

翌十三日に先陣は要害堅固な妙見山のほうが陣としてはふさわしいと、早速、農民に大砲や水など兵器、兵糧を妙見堂に運ばせた。ここなら諸藩の兵が押寄せても様子が一望出来るし、大砲を撃つにも絶好の場所である。それにくらべ、生野の陣地ではたとえ楠正成以上の軍師がいても諸藩の包囲を防ぐことは出来ないであろう。南らは山頂にある妙見堂の祠の周りに陣幕を張り、陣容を整えるとすぐに生野の陣営に至急移動するように使いを出した。

しかし、決戦の構えを整えるが、同夜になって生野本陣はこの頃も相変わらず議論は続いていた。南らが出陣したものの、残された大方の意見は自重説である。今、諸藩を迎え討とうとしても勝ち目がないという意見が多かった。南らのもとに多田弥太郎が説得に向かった。銀山新話にはこう書かれている。「銀山本陣より多田弥太郎早馬にて駆け付け、(沢卿からの)書簡差し出す。南八郎披見(ひけん)して打ち笑い、出石勢近寄り候に恐怖し、この出張(でばり)を開くべしとは片腹痛し。美玉始め平野等の諸勇士は酒井勢討ち入りに備え、某は此所にて仙石勢、相防ぎ此所より一人も通すまじき。云々。」

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日本人はどこから来たのか 5/8 同時期に伝わった鉄器と青銅器

中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っていた。日本では対照的に縄文時代末期から弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入している。

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

28 鉄器の出現

日本は、鉄器の出現は、縄文時代末期です。福岡県曲り田遺跡出土の鉄片(板状鉄斧の頭部といわれます)は、水稲耕作とともに伝播したと考えられ、縄文時代末期に用いられたとみられます。また、熊本県斎藤山遺跡は弥生時代全期を主体とする貝塚で、夜臼式と板付I式の混在する貝層から、鉄斧が出土しています。

中期には、石製工具の消失や木製農具の製作法の変化などがみられ、何れも鉄器の使用を想定しなければ理解できないことから、鉄器が普及していたことがうかがえます。
鉄器普及が顕在化するのは、福岡県立岩堀田遺跡の例のように、中期後半のことで、この時期に、「王」制が確立する段階を迎えました。生産力の発展段階においても時代を画する重要な時期となっています。

つまり、中期中頃、あるいは中期後半に当たる福岡県の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡では、青銅器武器や前漢鏡・ガラス製品などがみられるものの、鉄器はみられません。しかし中期後半の福岡県立岩堀田遺跡では、鉄製武器と前漢鏡・ガラス製品の組合せとなっており、武器を中心に、青銅器から鉄器へと材質が転換していきます。

後期に入ると鉄製農工具が激増します。長崎県原ノ辻・カラカミ遺跡、福岡県大南遺跡などで多量に検出されるように、摩耗・破損した鉄器は再使用されることなく廃棄されています。それは潤沢な供給を抜きにしては考えられません。

それらの検出遺構は、中期後半には墓だったものが、後期には住居跡や包含層へと変化している点からも普及ぶりが分かります。

鉄器の場合、初期の例を除いて形態的な特徴から、多くは国内生産と考えられます。つまり、前期初頭~中期前半は船載品の工具(手斧、刀子など)が主体をなし、前期末よりヤリガンナ、鏃(ヤジリ)、刀子など小鉄器が、中期前葉より斧など工具が国内生産されました。そして中期中葉に武器、中期後葉に鍬(クワ)などの農具の生産が開始されます。

29 青銅器の鉄器の普及

弥生時代は、水田稲作の時代でもあり、また金属器の時代でもあります。前期末には、船載された武器を主体とする青銅器と、国内生産された工具を中心とする鉄器が出現します。

中期前半には、剣・矛(枝がないほこ)・戈(クヮ・ほこ)の他に腕輪や多紐細文鏡などが加わります。そして、この頃までに青銅器の国産化が始まります。つまり、中期前半で基本的に姿を消す細形銅矛の鋳型が佐賀県惣座遺跡・吉野ヶ里遺跡の二遺跡で検出され、また佐賀県姉遺跡出土の中期初頭~中頃の銅剣鋳型は、朝鮮半島に例を欠く中細形銅剣で、さらに前期末の福岡県有田遺跡の細形銅剣などに国産の可能性が指摘されます。

中期後半以降、中国からの船載の銅鏡や鉄製素環頭刀などが見られるものの、青銅器・鉄器の多くは国内生産されます。

中期後半になると、副葬品は、青銅製武器が姿を消し、鉄製武器が銅鏡とともに主役になります。前期末に日本に流入した青銅器武器は、副葬されなくなったこの時期に、祭器・儀器に変質して大型になり、祭祀遺構に埋納され、それまでの実用的性格が祭祀用的性格に変質します。

一方、鉄器は、国内生産が開始された時点から工具を中心とした実用品で、墳墓には埋納されません。中期後半には、福岡県立岩堀田遺跡に象徴されるように、余剰を掌握した「王」が出現し、鉄器武器を独占するようになりますし、その一部が墓に副葬されます。

金属器は当初、朝鮮半島南部から流入しますが、中期後半かやや先行する頃、甕棺墓副葬の前環鏡や鉄製素環頭刀、ガラス器などにみられるように中国の影響が出始め、以降、対馬を除き船載品は圧倒的に中国製となります。

中期後半は、それまで朝鮮を主体としていた外的影響力が、漢(中国)に転換する時期であり、その最大の契機は、前漢武帝の四郡設置(前108年)による朝鮮半島の直接経営と、それに続く鉄製武器の輸出解禁(前82年)です。

ガラス製品や一部の鉄製武器など中国製品が登場する中期中頃や、前漢鏡や鉄製素環頭刀・ガラス璧など圧倒的な中国製品の世界となる中期後半は、漢帝国の影響を受けたものです。

30 銅鏡と鉄器の東遷

弥生時代の青銅器鋳造遺跡は、福岡県春日市須玖岡本遺跡を中心とする春日丘陵一帯、大阪府茨木市東奈良遺跡を中心とする一帯が知られています。特に春日丘陵は、弥生時代最大の青銅器生産拠点で、鏡・剣・矛・戈・鐸など多種類の青銅器を鋳造するほか、ガラス勾玉を製作し、さらに鉄器の生産も行っています。ことに中広銅矛は独占生産しています。

高倉洋彰氏(1943~、西南学院大学教授)は、銅鏡・鉄器が当選していく状況を、およそ次のように述べています(『日本金属器出現期の研究』などの内容から要約)。

○中期後半の遺跡の出土鏡はすべて前漢鏡で、そのほとんどは筑前にあり、特に糸島・福岡の良平屋に集中している。

○次に、後期前半の遺跡の出土鏡(前漢鏡系の鏡と後漢鏡)は、面数は糸島平野が圧倒するが、遺跡数では佐賀平野の伸びが目立つ。この時期までは、例え破片であっても、副葬時には完形であったと判断されるものばかりである。

○停滞期をはさんで後期後半から終末、一部古墳時代初頭にかけて、再び後漢鏡が副葬されるが、一変してその分布は西日本に波及する。注目すべきは完鏡で、後期前半とほぼ同じ範囲の対馬・壱岐・佐賀県・福岡県にしか分布していない。

一方、破鏡や破片の鏡は、大分県や西日本一帯に拡大分布している。北部九州の一部に分布する完鏡に対し、鏡片が漢鏡の分布範囲を押し広げている。

○このような漢鏡の分布圏の変遷は、細形銅矛(玄界灘沿岸の諸平野に集中)→中細銅矛(細形銅矛分布圏が拡大)→中広銅矛(山陰地方、瀬戸内海沿岸から四国西南部まで拡大)と同じ方向性で、また銅剣やほう製鏡も同様。弥生時代青銅器の初源はすべて朝鮮半島や中国大陸に由来することから、自然な流れであるといえる。

○弥生時代、北部九州を中心に普及する鉄製武器は、鉄製農具と相前後して東遷する。鉄剣は後期後半~終末に瀬戸内・近畿では実態として古墳時代以降にみられる遺物である。

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日本人はどこから来たのか? 4/5 倭人の根拠地

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

14 倭人の根拠地:朝鮮半島南部と北部九州

朝鮮半島南部と北部九州にいた「原倭人」は、早くから雑穀を栽培しており、ある程度の航海民的な性格をもち、稲作などをいち早く取り入れやすい条件をもっていました。ごく初期の稲作遺跡が、主に朝鮮半島南部(京畿道欽岩里遺跡出土炭化米で陸稲の可能性あり。紀元前1260±70~紀元前670±100など)と北部九州にみられます。

また、半島南部と北部九州から、耳飾り、釣り針、稲作遺跡・磨製石器、支石墓、管玉、合口式甕棺、漢代の銅鏡・銅矛・銅剣、広形銅矛、巴形銅器など、共通の遺物が出土しています。

共通の遺物の出土は、北部九州の文化が朝鮮半島南部へ伝わったとか、半島南部の文化が北部九州へ伝わったと考えるより、両地域にまたがって同じ民族の人々が居住していた、それが「倭人」である、と考えた方が上手く説明できるように思われます。

従来、弥生文化は、水稲栽培、金属器や弥生土器の使用などによって特徴づけられていましたが、水稲耕作と弥生土器の使用とは、分けて考える必要があります。

主に九州で水稲耕作が始まるのは今から3000年程度前で、その頃以降を「稲作時代」「稲作文化時代」と呼ぶことができます。そして、それから2400~2300年程度前まで、縄文晩期の土器が主に用いられる時代が続き、その後、弥生時代の土器が主に用いられるようになります。

この期間の変遷は、半島南部と北部九州の「原倭人」が、稲作などの文化を持った人々を受容し、融合して、「倭人」となっていく過程でもありました。

朝鮮半島南部には、かなり後の時代まで、倭人が住んでいたとみられますが、やがて白村江の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に敗れ、半島における足がかりを失います。

以上

したがって、江南から対馬海流に乗って漂流し、朝鮮半島南部・済州島、壱岐・対馬・北部九州などに漂着し、水田稲作とそれぞれ小さな村が連合して漁業を行い、やがて大規模な佐賀県の吉野ヶ里遺跡や福岡県の板付遺跡、さらに日本海沿岸に出雲国家連合やタニワ国家連合(中心は現丹後付近、但馬・丹波・若狭)から、越国家連合(越前、加賀、越中、越後)にかけて銅鏡・銅矛・銅剣、方形墓などを形成した時期だろう。

徐福伝承は中国の秦時代の人物で常世の国に薬をさがしにやって来たと言われているが、全国各地にあるが浦島伝説は徐福ではないかと思われ、とくに佐賀、丹後は多い。つまり秦氏でもあり、建築技術をもったテクノアラート(職人技術集団)であったと考えると、高床建築、銅鏡・銅矛・銅剣を製造できる人びとです。

倭人とは、東シナ海から日本海沿岸、あるいは瀬戸内海から紀国へ居住して弥生人という、縄文人と融合して独自の日本民族を形づくった製銅技術、織物技術、但馬牛の牧畜などをもっていたとすれば、それを弥生人と言うこともできる。

銅鐸が消える頃にあるいは消した勢力として、やや遅れて現れたのが新羅からやって来たとする天日槍(あめのひぼこ)で、記紀であえて「天日槍は新羅からやってきた王子」とするのは、その頃すでにそうした倭人が住んでいて、鉄の産地・伽耶(任那)から製鉄に必要な大量の森林を求めて銅に替わる製鉄集団が天日槍とされる集団ではないだろうか。「記紀」が記された頃の半島南部は馬韓は百済・弁韓は伽耶・任那、辰韓は新羅という統一国家からだったからなのであって、同じ原倭人が、鉄と森林を求めて当時の鉄の大産地・伽耶・任那からやって来たとも考えられる。

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日本人はどこから来たのか? 3/5 日本人南方起源説の根拠

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

8 日本人南方起源説の根拠:DNA研究のように2つと黒曜石

宝来聡氏(1946~2004、総合研究大学院大学教授)のミトコンドリアDNAの研究によると、数は少ないものの、埼玉県さいたま(浦和)市内から出土した約5700年前の縄文人骨が、東南アジア人(マレーシアとインドネシア)の塩基配列とまったく同じであったといいます。

塩基配列がまったく同じになることは、偶然では起きないといわれることから、縄文人のある人々は東南アジアから来たといえます。

(中略)

「南島諸島語」は、西はアフリカのマダガスカル島から、東は南アメリカに近いイースター島まで、広大な地域で用いられ、言語学的に共通性があり、「マライ・ポリネシア語族」に属します。

マライ・ポリネシアの民は、史上最大の航海民で、今から1万2000~6000年前頃に、中国南部・東南アジアから出発して、現在の広大な地域に拡がったものと考えられています。その一部の人々が、気候温暖化などに伴い、小笠原諸島を北上するなどして、日本列島にも来た可能性があります。

黒曜石中のウラン濃度の違いから、今から約2万2000年前の南関東の縄文遺跡で、神津島産のものとされる黒曜石が発見されています。この神津島産の黒曜石は、縄文時代の遺跡から数多く出土し、また、南の八丈島からも出土しています。このことから、大平洋を南北に行き来する海上の交通路があったことが伺えます。

沖縄県具志川志港川採石場で発見された湊川人は、供伴資料の放射性炭素などから、約2万年前のものとされており、南方系と考えられています。

水田稲作と渡来系路

すでに以前に調べたことがあるので、佐藤裕一氏のなかでダブらない箇所を取り上げます。

和佐野喜久雄氏(1937~、佐賀大学名誉教授)は、種子の大きさと形の分析から、稲の渡来には、次の三つの波があったといっています。

第一波は、縄文晩期(紀元前8~7世紀、春秋戦国時代)で、朝鮮半島から壱岐を経由して来た粒のごく丸い品種であるといいます。

第二波は、縄文晩期から弥生初期(紀元前4、5世紀頃)に中国から北部九州に直接渡来したもので、やはり短粒のものであったということです。

第三波は、弥生前期から中期頃(紀元前2、3世紀頃)、長粒の品種を中心として、様々な品種が、有明海に入ったと和佐野氏は言っています。

17 倭人の文化・墓制・伝承・風俗

弥生時代に入って、水田稲作とともに普及した各種の高床建築は、中国南部から東南アジアにかけての民族の住居や倉庫として、現在でもなお生き続けていますが、一方、朝鮮半島で高床建築遺構は発見されていません。

また、歌垣と妻問い婚は、弥生時代以来のものと思われますが、中国南部からインドシナ北部にかけて、最近まで広く行われていました。

弥生時代の墳丘墓も、古墳時代の古墳も、遺体を墳丘の比較的高い所に埋葬しますが、これらの墓制は、江南の呉越の土敦墓に類似しています。

倭は、「江南の呉から来た」という伝承をもっていました。

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日本人はどこから来たのか? 2/5 日本人北方起源説の根拠

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

5 北から「原倭人」登場

紀元前2500年頃にかけて冷涼期間が続いたといいます。この期間に東日本の植生は変化し、日本海側ではスギ・ブナなどが増え、ナラ・クリなど照葉樹林が減少します。

小山修三氏(1939~、国立民族博物館名誉教授)らは、縄文時代の後半には、大陸から新しい文化を持った人々が渡来し、それまでの縄文人には免疫のない新しい病気をもたらしたであろうと主張しています。

また、小山氏らは、気候の変化と食糧事情の悪化、疫病などのために、日本の人口は減少し、縄文晩期の全人口は、7万6000人程度に落ち込んだとといいます。

東日本の人口は減少しますが、九州を中心とする西日本の人口は、あまり落ち込まず、東日本に比べると相対的に人口は多くなったとみられます。それは、大陸から渡来した人々が、芋・豆・雑穀を内容とする焼畑農耕文化をもたらしたことによるものと考えられます。

紀元前1500~1000年頃、大陸から押し出される形で朝鮮半島南部・壱岐・対馬・北部九州に住み着いた焼畑農耕民が、日本人の直接的な祖先である「原倭人」で、その「原倭人」は人口を増加していったとみられます。

「原倭人」の文化は、それまでの縄文人の文化と混じり合いました。

安本美典氏(1934~、元産能大学教授)は、「原倭人」は、遺伝的に「北方型」の「Gm遺伝子」で、すでに朝鮮語とは異なる言語を話しており、その「原倭人」の言語は現代日本語と関連性のある「日本語祖語」であった、と述べています。また、軽量言語学によれば、現代朝鮮語と現代日本語とは、分裂してから5000~6000年以上が経過している、ともいいます。

縄文時代を通して、何回も何回も日本列島に人々が渡ってきたと考えられますが、その中でも大きな流れがこの「原倭人」の流入です。

6 日本人北方起源説の根拠:「Gm遺伝子」

松本秀雄氏(1924~、元大阪医科大学学長)は、人間の抗体(細菌やウイルスなど異物を排除・破壊する)がもっている「Gm遺伝子」(Gm:ガンマ・マーカー)のデータから、日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その起源はシベリアのバイカル湖畔と推定した上で、概ね次のように述べています(『日本人は何処から来たか』の内容を要約した)。

①「Gm遺伝子」の分布によって、蒙古系民族は、南方型と北方型とに大別でき、日本民族は北方型である。南方型蒙古系民族との混血率は、7~8%であって、高いものではない。

②日本民族は、「Gm遺伝子」に関する限り、北海道から沖縄に至るまで驚くほど均質である。

③アイヌも、遺伝子構成においては、一般日本人とほとんど変わりがない。

④アイヌと沖縄・宮古の人々は、まったく等質で、日本の一般的な集団に比べて、より北方的特徴を示す。

⑤朝鮮民族は、日本民族と同様等質的だが、日本民族との間にはかなり高い異質性がある。朝鮮民族は、北方型の「Gm遺伝子」パターンを持ちながら、それよりはるかに強く漢民族などの影響(混血)を受けていると見られる。中国と陸続きであることの影響と思われる。

⑥中国は、「Gm遺伝子」の頻度分布に、南北方向の地理的勾配がある。漢民族の場合は、北方型・南方型の二つの型の存在を考えないと、分布パターンの説明が難しい。

⑦日本民族に高頻度にみられる遺伝子特徴は、バイカル湖畔のブリアートをピークとして四方に流れていることである。蒙古、オロチョン、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、コリヤーク※1、エスキモーなどが高頻度である。

以上から、北方型蒙古系民族が日本人の中核をなしていたことは原初以来一貫しており、また、それほど大きくは異民族の血を受けていない、といえるようです。
北方型「Gm遺伝子」をもち、日本語と同じ語順の言語を話す「原倭人」が、約3500~3000年前に、北部九州を中心に現れ、その後、日本列島全体を覆っていったのです。

※1…カムチャツカ半島および隣接するシベリア,一部ナバリン岬にすむコリヤーク語を話す人びと

7 日本人北方起源説の根拠:語順

日本語と同じように、原則として「私は・本を・読む」「主語S-目的語O-動詞V」という語順をしている言語には、安本美典氏によれば、次のようなものがあります。

(a)日本列島及び周辺の言語=日本語、琉球語、アイヌ語、朝鮮語、ギリヤーク語(黒竜江下流域とサハリンに住む民族の言語)

(b)アルタイ諸言語=ツングース、モンゴル、トルコ語など

(c)ウラル諸言語=フィンランド、ハンガリー、ラップ語など

(d)チベット・ビルマ系諸言語=チベット、ビルマ、ロロ、レプチャ語など

(e)インド・イラニア語=ヒンズー、ペルシャ、ベンガル、ネパール、シンリハー(スリランカの主要言語)など

(f)その他=シュメール、ドラヴィタ諸言語(タミル語他)

これらをよくみると、日本語と同じ語順(S+O+V)の言語が、中国諸言語を取り囲む形で分布しています。そして、北方型蒙古系民族に属する「Gm遺伝子」パターンをもつ人々の分布は、ほとんど日本語と同じ語順の言語の分布地域と重なり合っています。

(中略)

「言語年代学」は、二つの言語がいつ分裂したかを調べる学問で、その方法で、アイヌ語と朝鮮語が分裂した時期を推定すると、5000~6000年程度前となります。

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日本人はどこから来たのか? 1/5 旧石器に日本列島にやってきた人々

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

1 人類の誕生と出アフリカ

分子人類学は、DHAのもつ「分子時計」で計測した結果、現世人類が今から15万年前に、アフリカ中央部・大地溝帯の東側で「一人のイブ」から誕生したといいます。「アフリカ起源説」です。

現在の進化論は、自然淘汰とは無関係に、分子レベルの突然変異により起こり、重要なものほど進化が遅く、余り重要でないものほど進化が早い、という「中立説」によっています。

この「中立説」が確立され、遺伝子レベルでの進化の速度は一定であるという「分子時計」を利用することにより、人類とチンパンジーとの分岐年代を推定するとともに、現代人の集団間の近縁度を計算できるようになりました。

伝統的な形態人類学では決め手がなかった現代人類の起源について、ミトコンドリアDNAなどの遺伝子のデータを用いる分子人類学の手法によって、ジャワ・北京など複数の地域で同時に複数の人類が進化してきたとする「多地域進化説」は成立しないらしいことが分かってきたのです。

人類学者の根井正利氏(1931~、ペンシルバニア州立大学教授)によれば、15万年前にアフリカで誕生した私たちの祖先は、10万年前にアフリカを出て(第二次出アフリカ)、ユーラシア大陸を拡散していったと考えられています。その過程において、ネアンデルタール人と共存していた痕跡もあります。

人類は遅くとも500万年前までに、類人猿(チンパンジー・ゴリラなど)と分かれ、大まかに次のような段階を経て、現世人類に至っていると考えられているそうです。

①猿人:ラッミドゥス猿人、アファール猿人、アウストラロピテクスなど。
②原人(ホモエレクトス):ジャワ原人、北京原人など。人類は、100万年前のこの段階で、アフリカを出ています(第一次出アフリカ)。
③旧人:ネアンデルタール人
④新人(ホモ・サピエンス):クロマニヨン人や現世人類。

アフリカで生まれ、10万年前にユーラシア大陸へ広がった「新人」の一部が、6~7万年の後、日本列島に現れます。

2 日本人は大陸から歩いてきた

最初の日本人は、日本列島が大陸と陸続きだった頃、動物を追って日本列島にやってきました。根井正利氏は、それを今から約3万年前の旧石器時代のこととしているようです。

この先土器(旧石器)時代に、列島内で自分たちの石器を開発してナイフ型石器を誕生させていますが、最古の遺跡とされる確実な例は、3~4万年前の武蔵野台地のものとされます(群馬県岩宿遺跡)。

最終的に日本列島が大陸から離れたのは、1万8000年前とも、1万3000年前ともいわれますが、諸説を総合すると、次のようになるものと思われます。

1)約20万年以上前頃まではリス氷河期で、対馬海峡・津軽海峡・宗谷海峡は陸続きで、日本列島は大陸とつながっていた。

2)約2万年前のウルム氷河期にも、対馬海峡・津軽海峡・宗谷海峡はは陸続きで、大陸とつながっていた。

3)その後、氷河が溶け、海水面が上昇して、対馬海峡・津軽海峡ができたが、宗谷海峡はさらに長期間陸地化して、北海道と樺太(サハリン)とは陸続きであった。

3 旧石器時代の細石刃文化

(中略)
竪穴住居は、長い縄文時代を通じて、最も基本的な住居形態で、関東地方の縄文時代草創期後半に初源的な形態が出現し、早期前葉には全国的に定着し始め、前期には各地に定住的集落が出てきます。

竪穴住居は、夏は涼しく冬は暖かいのですが、湿気が多いのが欠点です。ユーラシア大陸から北アメリカにかけて広く分布しており、日本では弥生時代を経て、古墳、奈良、平安時代まで使われています。

縄文文化の南方的要素の一つは、高床建築で、晩期の石川県金沢市チカモリ遺跡では、直径40~50センチの柱径をもった神殿の祖型ともいわれる大型遺構が発見されています。

7000年ほど前の中国シ折江省の河母渡遺跡から、高床建築の部材が発見されており、高床建築は、縄文時代前期に、長江流域から海流や季節風に乗って日本海沿岸に渡来・漂流した人々によってもたらされたと思われます。

南方的要素のもう一つは植物です。前期の福井県鳥浜貝塚から、南方起源のヒョウタンや緑豆など栽培作物の種子が見つかっています。インドから東南アジアに分布するエゴマは、長野県大石遺跡などから出土しています。

また、漆製品は、中国では河母渡遺跡から出ていますが、縄文後期の埼玉県寿能遺跡や晩期の青森県是川遺跡などからは、漆塗りの木器・土器・竹篭・櫛、弓などが出土しています。

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丹後(京都府北部)の秦氏系神社 2/2

“ 三井寺HP  連載 新羅神社考 京都府の新羅神社(2)

京都府の新羅神社(2)

更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。

また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五~六㎞の距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。

丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。

「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。

(二)溝谷神社

溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。(中略)

境内地の奥にある七十~八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。(中略)

当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。

溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
『丹哥舊事記』
溝谷神社 溝谷庄外村
祭神 新羅大明神 素盞鳴命
延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず

京都府の新羅神社(3)

出石族とか出石人といわれている天日槍族が、但馬から(京丹後市)熊野・竹野地方を含めた地域に拡がって大きな勢力を張っていたものであろうか。

山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

三、その他の新羅(しらぎ)神社について

大宮売(め)神社の古代祭祀の地

当地方を訪ねるに際し、弥栄町の隣町に当る中郡大宮町字周枳(すき)の大宮売(め)神社(周枳の宮―祭神天鈿女(あめのうずめの)命・豊受大神)の宮司・島谷氏に教示を受けた。島谷氏によれば、「丹後には新羅大明神を奉祭していた社はあちこちにあったのではないかと思われます。……当地方の地名や伝承等からみると、古代朝鮮との係りを強く感じざるを得ません。……」。丹後地方は、古代渡来系(特に新羅系)の人々を中心とした文化が栄えた土地であったようである。

島谷氏の話によれば、大宮売神社のある土地の周枳というのは、スキ国=新羅国(※1)の意であり、竹野郡の間人から竹野川沿の中郡大宮町にかけては、弥生時代には竹野川文化圏を形成しており、古代に渡来した人達の文化が栄えた地域であった。いわゆる出石族・出雲族が居住していた。そしてこの一帯にはキのつく地名(内記、周枳)や、荒・新(安羅)などの地名が多い。周枳は又主木・周木にも通じ、古書には主木殿ありといわれている。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

大宮売神社のある大宮町は竹野川に沿って古くから開拓された地域であり、竹野川の丘陵地帯には多くの古墳が発見されている。大宮売神社には境内とその周辺から弥生時代から中世にかけての複合遺跡があり、大宮売神社遺跡といわれ、神社の周辺には左坂古墳群(九十三基)、外尾古墳群(二十四基)、新戸(しんと)古墳、宮ノ守古墳群、平太郎古墳群などがある。

大宮売神社の祭神は天鈿女命・豊受大神であるが、これは五穀豊穣を願う、いわゆる祖神である。そして当地の式内社は全部豊受神(天女の一人が豊受の神)、大宮女は八神の一座、機織と酒造り(風土記には比治の真奈井、奈具社)の神であり、丹波道主命米の稲作は天女が降り、奈具の社にとどまったことから、稲作民族が定住したことを意味し、これが祖神となった。なお、豊受神は九州から来たという説もある。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

周枳(すき)というのは白村江(はくすきのえ)の戦いで有名なスキで村のこと、朝鮮語で村とか城のことだそうである。隠岐国に周吉(すき)郡がある。ス・キど分離すれば、ソの村とか国のこととなる。このあたりはスとかソあるいはシと呼んだのだろうと思われる。(丹後の地名)

■周枳井溝

周枳村(現在の大宮町周枳)は、竹野川より土地が高く、谷も浅いため水が少なく、やむを得ず畑にしている農地が多くありました。
「なんとか竹野川の上流から水が引けないものか」と言う農民たちの願いが、時の宮津藩の役人の耳に入り、藩主京極守高の時(1660年代)に竹野川から取水し、谷内から周枳に至る用水路づくりが始められました。
工事は10年の歳月を費やし、寛文11年(1671)完成しました。
周枳の人々はこの用水路のことを「井溝」と呼んで大切にしてきました。
周枳の井溝は、近年コンクリート製の水路として整備され、その大部分は、国道バイパスや府営ほ場整備事業により水路の場所が変わっており、現在は、集落周辺にかつての水路の場所を認めることができます。
集落周辺では、防火用水の水源となったり、「井溝」に洗い場が設けられ、野菜の洗浄などにも利用されています。(京丹後市)

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越前(福井県嶺北部)の秦氏系神社

今庄町の新羅神社(2)

越前今庄町の新羅神社については既に本書にて記述したが(本誌九十二.九十六号)、その後訪問を重ねている間に明らかになった事柄を補足したい。

何回も訪れて感じたことは、「今庄町を含むこの地域一帯は古代出雲地方と同様、日本海流に乗って朝鮮半島や大陸から渡来した多くの人々が居住していた。特に新羅系の人々のそれが多かった。従って、今庄町の新羅神社や白髪神社はその人々が祖神廟として祭った社が後世に残ったのではないだろうか」ということである。もしそうだとすれば、神社は”しらぎ神社”と呼ばれて崇拝されてきたのではあるまいか。

越前地方は、近江・北陸地方を含む継体天皇の支持基盤で あった地方であり、応神天皇と係りの深い敦賀、或いは継体天皇と係りのある越前地方は、半島や大陸との往来で渡来文 化が盛えた同一文化圏であった。継体天皇の基盤であった三国湊は今庄から流れ出る日野川の河港に当る。かつては三国湊と福井武生にあった府中を結ぶ舟運が盛んであり、鯖江には白鬼女津(しらきじょのつ)があり、北陸道の要所であった。継体天皇の母・振姫も今庄から木ノ芽峠を越えて近江との往還をしたであろう。そして、この地方は継体天皇を中心とする還日本海文化があった(『今庄の歴史探訪』、『福井県神社誌』ほか)。

(二)新羅神社の由来

『今庄町誌』によれば『新羅神社縁起』として次のように説明している。

「清和天皇の御宇貞観元己卯年(八五九)に智証大師が大唐国から帰朝の途、海上で暴風に遭い船はまさに覆没しようとするので、長い時刻を素盞鳴尊に祈請していると空中から御声があり”智証憂うること勿れ、間もなく風波は鎮靜するであろう”と宣わせ給うのである。智証は不審に思い”斯く宣わせ給うのは、何神なる哉願くば教え給え”と申し上げると、やおら御影を現し”吾こそは往昔のこと、新羅国征服の神なり”と宣わせ給うのである。・・・・・・後世に至り越前国燧山に新羅大明神を建立し、御神体を素盞鳴尊となして奉還することになったのである」

『新羅神社略記』(加藤前宮司夫人よりいただいた)に、『新羅大明神縁起』によれば・・・・・・天安二年(八五八)円珍(智証大師)が高麗国の港より帰国の折、・・・・・・円珍が諸天善神に祈ったところ、一大神の姿が船上に現成し・・・・・・。後貞観元年(八五九)大師帰命観想の際、神勅によって、その大神が大和(日本)より渡った新羅国の守護神(素盞鳴命)なりとのお告を受け、自ら神影を刻んだ。その神像が今日に伝わる当社の御神体である、と説明している。

また一説には、その名から新羅三郎義光の霊を祀るとも言われているとあるが、これは後世に加わったものであろう。
更に原文をみると、

「抑此神明者御垂迹登申志新羅・百済・高麗国の崇廟之大祖に亭盤古之昔より崇敬し奉るに爰。我朝人王五十五代文徳天皇之御宇、・・・・・・円珍僧都入唐す。・・・・・・智証大師に宣旨ありて重禰て加土に求法しほまれを唐土に阿け年を経て高麗国乃湊 より帰船の折ふし・・・・・・」とある。

従って、原文によれば新羅大明神は、新羅・百済・高麗国の祖神を祭る廟であったと記しており、朝鮮半島とつながりが深いことを示している。新羅系の人々ばかりでなく、高麗系や百済系の渡来人も共に祭ったようである。

神社がある今庄町について『福井県南条郡誌』は次のように説明している。地理的には、京畿東山東海三道の諸地と北陸諸国とを連絡する咽喉の要地を占め、北陸の関門たる枢要の地域を成し交通上軍事上極めて重要の所なり。往古は叔羅駅の所在地とも称され、中古庄園の一つとして今庄と称されたものであろうか。また今庄は今城と書かれたという。

更に『福井県南条郡誌』は、白城神社について次のように記載している。白城神社は『古名考』によれば「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅(しらぎ)明神あり是なるべし。今庄も古く今城と書けり。此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云此即古の叔羅河なり。叔羅は即ちしらきなるべし」

これによれば、今庄町は新羅(しらき)から白城→今城→今庄と変わってきたことになる。白城はしらぎと呼ばれたであろうし、今城はいまきからいまじょうに変わったということになる。今城(いまき)は今来の漢人を連想させる(五世紀後半の雄略天皇の時代)。

結論として、今庄町について『南条郡誌』は「要するに今庄の地は、新羅民族の移住地として開け、次いで駅伝所在の要地となった」とまとめている。

また『南条郡誌』は、信露貴彦神社の項では次のように記載している。信露貴彦神社或は堺村荒井の新羅(しらぎ)神社ならん乎。

『古名考』一説日野川の源夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ。
夜叉ケ池は古くは尸羅(しら)池といわれていた。

『福井県今庄の歴史探訪』の説明によれば、今庄宿(じゅく)の神々について「三韓・新羅はわが国の弥生・古墳時代に当っており、この頃今庄へも新羅の渡来民があり、この地を開発したであろうことが推測される。新羅(シラキ)の宛字と思われる神社名や土地名が敦賀付近には多い。

例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しろき)神社・白鬚(しらひげ)神社などである。今庄宿の新羅(しんら)神社は古くからの産土神で、江戸時代には……〈上の宮〉と称され、白鬚神社は〈下の宮〉と称された」。

いずれにせよ、古代朝鮮の新羅の民が敦賀地方から今庄に入り、日野川上流域を開発したものであろう。新羅神社や白鬚神社は渡来人の奉祀に始まる神々と関係が深いようである。中でも、当地方には秦氏が集住していたと考えられている。足羽郡や三方郡・遠敷郡に多くの秦氏の集団跡が確認されている。

荒井地区の新羅神社は現在でもしらぎ―神社と称されている。足立尚計は『日本の神々』の中で今庄宿の新羅神社をしらぎ神社であると紹介し、園城寺の「新羅善神堂」もしらぎ善神堂と紹介している。

更に『越前国古名考』は今庄の新羅神社を式内社の白城神社であるとしている。朴春日「古代朝鮮と日本の旅」では、「火燧山の嶺山(元は新羅山と呼ばれていたであろう)に新羅神社が鎮座していたが、源義仲が城を築くため臨時に小社を建てて祭神を移した。その後社殿を再建したが、小社の方は白城神社として残り、本社の方は新羅神社の名をそのまま引きついだ」と説明している。

『越前国名磧考』によれば、「当社は、往古燧山の山頂に鎮座していたが、寿永二年(一一八三)に源義仲が是に城郭を築こうとして、傍に小社を建てて遷座した。其の後、越前国を鎮定して社殿を再建し深く崇敬した」と記し、更に「天文年中(一五三二~一五五五)に郷民が協議して当今の社地に神殿を新築して、茲に神璽を遷座して以来、今に至るまで氏神として敬い奉斎している」と記している。
今庄町今庄の白鬚神社の祭神が猿田彦命・大己貴命・少彦名命であることは、当社も新羅系であったことを推測させる。

(三)白鬚(白城)神社

武内宿禰と係りの深い白鬚神社が今庄町合波にある。祭神は武内宿禰尊・天御中主神・宇賀御霊神・鵜葺草葺不合尊(うがやぶきあえず)・熊野大神・豊受大神・大己貴命・猿田彦命・春日大神・秋葉大神・金山彦命・土不合命・八幡大神・清寧天皇・吉若大子。『福井県神社誌』等で当社の由緒を調べてみると、「当社の創立の年月不祥。往昔は白城神社と称し、式内社であったという。口伝によれば、神功皇后が三韓征伐から凱旋の後、皇子(後の応神天皇)を降誕したが、皇子に飲ませる乳が足りなかったので、武内宿禰大臣が神々に祈願したところ、“越の国南端の三尾の郷(日野川の上流にある八飯・宇津尾・橋立・広野の村々)に西向の滝(高さ十二m、幅二m。信露(しろ)滝)がある。その水を乳婦に勧めよ”とのお告げがあり、武内宿禰が尋ね歩いたところ、神託通り西向の滝があり、乳婦に飲ませると神託の通りの功験があった」とある。

武内宿禰という人物は、朝鮮渡来系の豪族の共同の「父」として、朝鮮南部と倭国の大和との接点として設定されている。応神天皇が武内宿禰と共に敦賀の笥飯(けひの)大神を拝んだことなどの説話からすれば、当地方も越前の一地方として大きな一つの文化圏の中にあったと考えられる。これらの渡来系の人々は弁辰の地の倭種であろう(『清張通史』)。

当地方には、高麗系や新羅系の渡来人が混在していたのかも知れない。当地方の神社は信露貴彦・白城・新羅など、社の由緒や呼び名が同一であったことは、古代においてはこれらの地域が同一の生活圏であったことを示すものと考えられる。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

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