山陰道 旧蒲生峠(兵庫鳥取県境)

[catlist categorypage=”yes”] より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示

国道9号線蒲生峠は蒲生トンネルで通過するが、一度旧道を通ってみたかった。山陰道は、鳥取から京都を結ぶ要路として、江戸時代には鳥取藩が主要街道として峠を整備した。調べるとその当時の峠道は「山陰道・蒲生峠越」として国の史跡に指定され、現在では今でも残る石畳や石碑などに当時の思いを馳せながら散策できるハイキングコースとして、多くの人々に親しまれている。

現在は国道9号が、1978年開通の蒲生トンネル(延長1745メートル)で抜ける。トンネルを含めた蒲生バイパス開通前は鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線(全線)と鳥取県道31号鳥取国府岩美線(鳥取県岩美郡岩美町洗井~岩美町蒲生国道9号交点)が国道9号として峠を越えていた。

国道9号蒲生トンネル鳥取県側から鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線を行き、鳥取県道31号鳥取国府岩美線(国道9号旧道)

国指定史跡の山陰道は、蒲生峠越(がもうとうげごえ・鳥取県岩美郡岩美町)

徳城峠越(とくじょうとうげごえ)

野坂峠越(のさかとうげごえ・島根県鹿足郡津和野町)

の3か所のみである。

同じ岩美町には鳥取市との境の駟馳山峠の傾斜地に残されている美しい石畳道がある。

 


旧蒲生峠 鳥取県側から兵庫県側を見る

  

  

峠から旧山陰道へはNTT電波送信塔までの私道と重なり、NTT電波塔までの私道は進入禁止の表示がある。

山陰から京都に通じる道で人はもとより人力車、荷馬車など往来で賑わい、豊臣秀吉軍が鳥取城攻めに向かった時に利用されたなど歴史的ないわれも多く、幕末の戊辰戦争では西園寺公望らが山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦する際に村岡からこの峠を越えて鳥取に入っただろうことなど思いにふせる。

峠から案内板を少し歩くと、新しい蒲生峠の案内票石が立てられている。

また、平成8年には文化庁によって「歴史の道百選」に選定されています。


現在でも一部石畳が残っているらしいが、捜すうちに夕方が近づいていたので一人では薄気味悪くなってきた。
指定年月日:20050302

管理団体名:

史跡名勝天然記念物

近世の山陰道は、京都から山陰地方へ通じる主要街道で、鳥取県側では但馬往来、但馬街道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代道は志戸坂峠(八頭郡智頭町)を越えて姫路に出る智頭往来であったが、鳥取藩は山陰道を京都への重要な交通路として整備し、鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726)の『因幡国大道筋里数』によれば、鳥取から蒲生峠までの里程は6里12町であった。山陰道は岩美町浦富で海沿いに進むルートと蒲生峠へ向かうルートに分岐するが、蒲生峠越が本道とされていた。 天正8年(1580)の因幡攻めの際に羽柴秀吉が、慶応4年(1868)の明治維新の際には山陰道鎮撫使が、蒲生峠を越えて鳥取に向かったと伝えられている。

山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、蒲生峠で県道千谷蕪島線に合流する。合流点付近には、明治25年(1892)9月に往来人の安全を祈願して建立された「延命地蔵大菩薩」の台座が残されている。この間の約2km程の峠道が明治時代中期までの街道である。このルートは、明治時代になっても一般国道に選定されて整備が進められ、人力車や荷馬車の往来で賑わった。明治25年に山陰道が現在の県道ルートに変更されると次第に寂れていったが、現在も地域住民の林業や生活用の道路として利用維持されているために、遺存状態は比較的良好である。

平成2年度に鳥取県教育委員会によって文化庁補助事業「歴史の道調査」が行われ、平成10から12年度にかけて岩美町教育委員会により「歴史の道整備事業」が実施された。

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気多郡高生郷とは

高生郷とは

高生郷(タカフ、たこう)とは、かつて但馬國氣多郡(現在の豊岡市日高町及び豊岡市中筋地区、佐野地区、竹野町椒地区)にあった郷名で私が生まれ住んでいる場所です。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学には、読みは多加布。神名式(延喜式)、気多郡高負神社。姓氏録に高生宿祢の出自。宿祢の文には同祖の王仁の孫、河浪古の首、天平神護元年紀、河内国の人馬を伴い、武生の辺に居す。弘安太田文には気多郡高生郷田百七町、公文矢部の尼。

但馬考では、

宵田 河合道記曰く豊岡より三里、馬駅なり。先ずは豊岡の馬を大方ここにて そうじて、姫路までの街道、馬は多し。自由なり。
今この辺の田地を高生代と云う。俗に(北の)日置郷と合わす謂われなり。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

「日高町史」には、その日置村と高田村が合併して日高町になったと記しています。

高田郷はその高生郷の西に隣接し、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府の存在が考えられます。
移転後の所在地については、近年の発掘調査により、但馬国府国分寺館に隣接する祢布(にょう)ヶ森遺跡(豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近)であると考えられるようになりました。

7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部(現在の丹後)、兵庫県の北部(但馬)および中部の東辺(兵庫県丹波地域)に及んでいました。年号は不明ですが北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離して成立したとする説もありますが確証はありません。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されています。後世まで長く続く領域が定まりました。

古丹波王國とは

丹波・丹後・但馬は、大古は同じ丹波に属し、総称して三丹、丹但、北近畿などという呼び方もありますが、これまでは勝手に「丹国」と名づけていました。

このブログは、「丹国ものがたり」のホームページからブログへ移転更新するためのブログです。

但馬国府は条里制に収まっていた?!

20111.5.22 「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会
「祢布ヶ森(ニョウガモリ)遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏

見つかった施設・遺構から、大型建物跡などが確認されている。かなり大きな役所跡だった。
また、全国的にみても多数の木簡が見つかっており、当時の役人の業務が分かる。


祢布ヶ森遺跡と周辺の遺跡 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

但馬国府の推定と発掘

全国的にも国府(国衙)はさまざまな理由によって官庁を移転している例があります。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

『日高町史』によれば、古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、高田郷に国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。和妙抄は高田(タカダ)郷は「多加多」と記され、夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上が含まれるとされています。国府が国保と記されていたとも考えられます。

『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。

したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。
『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。高田郷とは祢布ヶ森を含む現在の旧日高町中心部なので、どこからか祢布ヶ森へ移されたことは間違いないようです。

総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
役所跡と判断する理由

塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと

庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと

但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。
水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。但馬国は上国・近国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、但馬国は中国の実態しかない国だったようです。

2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。なかにはまだ若い(だろう?)役人が九九の計算を練習して間違えていたり、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。
但馬史説
国府村誌説
日置郷説
八丁路説
八丁路南説
国司館移設説

なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

川岸遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市日高町松岡
第1次但馬国府か?(昭和59年)
都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。

八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。

前岡さんは個人的な考察として、国府地区から祢布ヶ森へ移転したのではなく、12世紀以降の遺物はほとんど出土しないので、祢布ヶ森から国府地区へ移転したのではないかと想像すると語る。
祢布ヶ森遺跡の位置と、これまでの発掘調査箇所 S=1:2,000 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

条里と条里(青線)の間は218m(2町)で左の条里以西からは遺跡が見つかっていない。
祢布ヶ森遺跡・但馬国分寺周辺の条里復元図 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

天平13年(741)造営開始から天平勝宝年間(750年代)に一応の完成をみた但馬国分寺は条里制に東西は一致しているものの、条里からはずれているが、延暦23年(804)に移転してきた但馬国府(祢布ヶ森)は、律令制による条里制の区画にすっぽりと合致しており、条里制が布かれた後に条里制を反映したものかということが想定されるということが興味深い。
気多郡の条里が施行されたのは、8世紀後半~末であろう。

国庁は、中央の正殿とその左右にある脇殿や、周りを囲む塀などで構成され、「コ」や「品」字の型に計画的に配置されている。規模の違いは国の等級が在る程度反映されているようです。40mほどのものから100mを超える大規模なものもある。但馬国府は正殿らしき遺構から脇殿まで約100m。

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因幡国府址をさぐる

大きな地図で見る

但馬国府国分寺が置かれた旧日高町(現豊岡市)の人間として全国の国府国分寺跡は関心があった。鳥取市内から南東に国府町がある。もとは法美郡(法味郡)で、合併前までは岩美郡国府町。近年鳥取市と合併し鳥取市国府町になったが、名の通り因幡国府国分寺が置かれた政治の中心地だった場所である。因幡一宮宇倍神社も近い。ここも我が日高町と豊岡市の関係に似ているので親近感が湧く。

  

鳥取市国府町中郷

スマホのナビを見ながら国道53号を市内から県庁前まで行き、そのまままっすぐ旧若狭街道を走る。県道291号を曲がらずさらに進んで県道31号から国府跡をめざすが、鳥取は道路網が整備されていて平野部は目印がなく、いくつも似たような道路があってカーブが多くまっすぐ目的地にたどり着くのが容易ではない。県立盲学校聾学校が見えてくると左にゆるく大きくカーブして結局291号に戻ってから宮ノ下小前を県道225へ右折すると新しい郵便局がある。しばらくすると因幡国庁跡への案内標識が見えた。

細い農道を進むと田んぼの中に整備され史跡公園になっている。全国的に国衙址はよくわからないケースが多いが、ここはすでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘されていたというからすごい。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。

概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

因幡国は、鳥取県のほぼ東半分にあたる。本国庁跡は、鳥取市の東方約10キロメートルの所にあり、法美平野の中に残っている。そして、1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。国庁を象徴する遺物の代表的なものは、石帯(せきたい)、硯、題簽、木簡、墨書土器、緑秞陶器などが挙げられる。

これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。
因みに、因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる[1]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在でも周囲は田んぼが広がり住宅がなく開発されていないことが幸いだ。因幡国分寺跡は史跡公園から農道を進むと国分寺という地名が残っているが、時間がないので今回はパスした。後で調べると幹線道路から少し入った場所に塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。また、国分尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。総社は、『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。但馬総社は気多神社としてかつては現在の頼光寺の場所に広大な境内を誇っていたことがわかっている。

 

円山川も氾濫し改修工事がされて現在の場所を流れているがかつてはもっと西方だった。但馬国府は数回移転していることがわかっていて、後期は祢布に移されたとされるが、国府町は一級河川旧千代川の沖積平野に位置する。但馬の円山川の沖積平野であり大耕作地帯である国府平野によく似ている。当時は千代川以北の鳥取市街地も豊岡市街地も沼地であり、比較的安定していた場所を選定して国衙としたと想像できる。

因幡は古くは稲葉と書いた。現在でもこの旧岩美郡一帯は水田地帯が拡がる。

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鳥取城 山城部(鳥取県鳥取市)

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因幡山名氏と布勢天神山城(鳥取県鳥取市)

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布勢天神山城の歴史

山名氏宗家但馬山名氏(出石町)のお膝元豊岡市の住民としては、鳥取にたびたび行く機会があれば因幡山名氏について辿ってみたい思ってた。2月19日にかねてから一度目指したかった久松山(鳥取山城)を登るとどうしても布勢天神山城を訪ねてみたかった。


城山(天神山と卯山)を南東から眺める

『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、布勢天神山城は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。つまり布施という地名は全国に多いが、政治の中心が置かれていた場所という意味であろう。

湖山の県立緑風高校のそばだと地図で確認し国道53号から県道181号へ進む。橋を渡ると同じような小山が乱立していてそばまで来ているのだが、近道をしようと脇道に入ってしまうと新興住宅地が多くて袋小路でなかなか分かりにくい。最初から国道9号バイパスか県道181号など主道路を通った方が良かったと後から思う。

『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城(岩美町)より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのはないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。(平凡社『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』)

第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。

1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。


公園内に建てられた見取り図

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。

守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。


公園から湖山池を望む。

卯山の丘陵北側には布勢1号墳がある。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。

布勢1号墳(前方後円墳、国指定史跡)

日吉神社(布勢の山王さん)

因幡国初代守護・山名時氏が近江から日吉神社を勧請したとある。比叡山麓坂本の日吉神社だろう。

広い道路脇にそびえる鳥居から一直線に天神山城跡のある卯山まで参道が通っている。まだ補修されたのが新しく立派な社です。瓦などの家紋は因幡池田家の家紋揚羽蝶である。天神山城と因幡山名氏亡きあとも池田家や布勢村の人びとによって大切に護られてきたことが伝わります。

「布勢の山王さん」と親しまれているらしいが、但馬山名氏の豊岡城のある神武山近くにも山王山に山王神社があり但馬山名氏から一族共通のものであることは興味深かい。

拝殿と本殿

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鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

3 挙兵

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る。
屋形村で合流した沢卿一行は生野街道を北上し、午後2時ごろに森垣村の延応寺に到着した。一行は京都の姉小路五郎丸とその主従であると言い、延応寺を休息所として利用した。この日のことをあらかじめ本多素行が住職に話をつけてはいたが、野袴を着け、長刀を銃砲を持った一行の威容に驚いた。

さっそく寺に乗り込み、やがて中島太郎兵衛、太田六右衛門ら地元勢や美玉三平らも駆けつけ、また生野代官所剣客だった伊藤龍太郎も門人15名ほどを引き連れてきたので総勢29名だった一行は、忽ち大人数となった。

午後3時には延応寺に集結した志士の内、白石簾作と川又佐一郎が沢卿の書状を持って代官所へ走り代官所借用の談判をするが、代官川上猪太郎は倉敷に出張中で不在のため交渉には元締の武井庄五郎が応接した。

元来、銀山町内での宿泊、滞在は御法度とされていたが、武井は姉小路様(沢卿)の書状を拝見し、「表立っての義軍の御逗留は役所の都合上申せませんが、通りがかりの御一泊と言うことならば、市中の御宿を手配いたしましょう。」という返答をした。話が進まず、やむお得ず当寺で夕食をとり、烏帽子直垂の沢卿を先頭に隊列を整えた一行は、丹後屋太田治郎衛門の邸へ移動する。

午後8時ごろ丹後屋に武井が交渉に訪れた。藤本義芳雑記によると、武井庄五郎は丹後屋に訪れ、二階座敷に案内された。浪士の中から、平野国臣、多田弥太郎、南八郎(河上弥市・高杉晋作のあとの奇兵隊総督)、美玉三平、藤崎左馬蔵(木曽源太郎)、虚無僧素行(本多素行)らは武井と一通りの挨拶を済ませたあと、平野は武井にこう語った。

「京都三条様始め、七卿様長州に御下りのうち、今回沢主水正様は京都へ容易ならざる感歎の筋があり、長州を出発され、我々は供として追従しましたが、諸国の吟味が厳しく、身を忍ぶ所もないので、しばらく匿っていただきたい。」
それに対して武井は、「高貴なお方を匿えと申されますが、当初のお話では一同の方々を通りがかりの御宿泊ということで約束いたしておりましたが、正義の士の方が匿ってくれとは話が違うと存じます。」と答えた。

これには平野も閉口した。今度は美玉が「先だってよりの農兵組立ての儀、早速了承していただき、感謝しております。このことに関して、代官様始め、皆様方も我々と同じく正義の一味と推察いたしております。」と言うと、
武井は「それは以ての外の事、当代官は言うに及ばず、我々も公儀の禄を食む者でございます。」と答えた。それに対して美玉は燈火の火を消し、暗闇になった部屋で一時沈黙になったが、やがて武井はポンポンと手を打ち「誰か灯かりを持って来い。」と呼びかけ、やがて浪士側の意見は通らぬまま交渉は終わってしまったという。

武井が退去したあと、南八郎(ここからは河上のことを変名の南八郎と呼ぶことにする)や戸原卯橘らから平野や美玉に代官風情に言いくるめられてこんな旅籠で悠長に戦の準備など出来るかと言い、直ちに代官所を占拠するべきだと言った。

この時点で天誅組は壊滅しており、平野国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの南八郎の強硬派に意見が分かれ、中止の本陣と強行の先陣とに志士達が分裂した。

当初の計画は、十月二日に戸原卯橘が長州三田尻から郷里の筑前秋月に出した手紙にあるように「三丹を服従致させ、直に京師へ罷越し、皇朝の恢復遠からずと存じ候えば、今日より発足致し候」というものだった。

これに対し、平野は代官所を無理に占拠するのはよくない、今しばらく時期を待つのが妥当と答え、双方またもや強行、自重の対立が始まった。互いに激しく言い争いが続き、沢卿が自分の不徳の致すところで、自分が責任を取って腹を切ると言い出し、議論は収まったが、結局は強硬派の議論の勝利となった。そうなると直ちに陣容が整えられた。陣容は以下のとおりである。
南八郎ら強硬派に押されて挙兵に踏み切った。

●総帥 沢主水正宣嘉
●総帥御側衆  田岡俊三郎(伊予) 森源蔵(阿波)
●総督 平野國臣(筑前) 南八郎(本名:河上弥市 長州)
●議衆 戸原卯橘(筑前) 横田友次郎(因幡) 木曽源太郎(肥後)
●軍監 川又左一郎(水戸) 小河吉三郎(変名:大川藤蔵 水戸)
●録事 藤四郎(筑前)
●使番 高橋甲太郎(出石)
●節制方 中島太郎兵衛(高田村) 美玉三平(薩摩) 多田弥太郎(出石) 堀六郎(筑前)
●周旋方 中條右京(出石) 太田六右衛門(竹田村) 太田悟一郎(竹田村)
●農兵徴集方 黒田与一郎(高田村) 長曽我部太七郎(阿波)
●兵糧方 小国謙蔵(地役人) 小川愛之助(地役人) 大田仁右衛門(生野町)

また、沢卿の名で宣言書(激文)が起草された。執筆は多田弥太郎、補筆は平野と美玉が行った。

 先年開港以来 御国体ヲ汚シ奉り小民共困窮致シ候ヲ 御憂慮遊バサレ 度々関東へ攘夷ノ勅下シナサレ候ヘ共 終ニ属シ奉ラズ朝廷ヲ蔑シ奉ル。
剰サエ毒薬ヲ献ジ候処 皇祖天神ノ保護ニ依り玉体恙無ク在ラセラル。
然ル処八月十七日奸賊松平肥後守始メ偽謀ヲ以テ禁門ニ乱入シ関白ヲ幽閉シ公卿正義ノ御方々ノ参内ヲ止メ御親兵ヲ解キ放チ言路ヲ隔絶シ恐多クモ今上皇帝逆賊ノ囲中ニ在ラセラル。実ニ千秋ノ一時ノ大厄ヲ醸シ恣ニ三条公始メ毛利宰相父子ヲ所置セラレ候始末
不倶載但馬ノ国ハ人民忠孝ノ情厚ク南北朝ノ時ニモ賊足利ニクミセズ皇威ヲ揚ゲ国体ヲ張り候条聞コシ召サレ兼テ頼母シク 奇特ニ思シ召サレ候 早々馳セ集り大義ヲ承り叡慮ヲ奉り奸賊ヲ退ケ震襟ヲ安シ奉ル可ク候事

癸 十月
沢主水正但馬国家旧家並ニ有志之人々 江

翌十二日未明、代官所を占拠し本陣を定め、運上蔵を開き金と米を出させ、沢卿の檄文を各村々に発表し農兵を募った。この時の触れ役は、侍髷に後鉢巻き、ぶっさき羽織に義経袴、大小を差して四枚肩の駕籠を走らせ、至る所の村々の庄屋で檄文を読んでは先へ行ったという。檄文の内容と三年間年貢半減の約束に、即日二千人を越える農兵が朝来郡と養父郡から生野へ集結した。

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8 平野、長州に向かう

平野、長州に向かう

9月28日、平野、北垣三田尻に到着
平野と北垣は周防国三田尻に到着した平野と北垣は、招賢閣において同藩筑前藩士の藤四郎、堀六郎、出石藩士多田弥太郎らと七卿に会見。但馬の情勢を報告し、出馬の懇請をした。
9月29日 進藤俊三郎、池内蔵太より天誅組破陣を聞かされる。軍需品仕入れのため京の止宿先花屋に泊まっていた進藤俊三郎、田中軍太郎、西村哲次郎は長州の野村和作、因州の松田正人、河田左久馬らと軍需品の調達に四条木屋町の具足屋大高又次郎の周旋で準備をしていたところに、鷲家口を脱出してきた池内蔵太(後の海援隊士)が訪ね、大和破陣の報告をした。これにより、一同は生野挙兵を断念し、その使者として進藤が播州に向かった。
同日9月29日に三田尻で七卿と会見し但馬の情勢を聞いた毛利定広は山口で平野と会見した。平野は定広に謁し、入説したが時期尚早と賛同を得られなかった。
10月2日 沢卿三田尻を出立する
慎重論を唱える者もあれば、この際大挙東上するといった声もあり、長州藩内でも意見は分かれていた。また、天誅組のように兵を挙げ、各地に義兵を挙げることにより天下の形成を動かしていくという声もあった。

平野、北垣は4日間三田尻に滞在していたが、論議はひとつにはまとまらなかったが七卿の中から沢宣嘉卿が総帥になることが決まり、沢卿のもとならば義兵を挙げようという声もあり、また七卿のもと三田尻に集まっていた諸方の士もいた。長州藩からは奇兵隊総督の一人、河上弥市(このあと南八郎と変名)が名乗りを上げた。
河上が行くならと集まった中には豪商白石正一郎の弟、白石廉作もいた。生野に随行したのは、水戸藩から小河吉三郎、川又左一郎、関口泰次郎、前木鈷次郎、筑前藩から戸原卯橘、藤四郎、堀六郎、仙田淡三郎、出石藩から多田弥太郎、高橋甲太郎、他に田岡俊三郎(小松藩)、森源蔵(阿波藩)江上庄蔵(尾張)といった面々。
午後8時頃に沢卿は招賢閣を抜け出し、三田尻港を出港した。

長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら二十七名の浪士とともに三田尻を出航したのは文久三(1863)年十月二日のことであった。二隻に分けた船は三田尻を出港。沢卿を乗せた船には平野をはじめとする諸方の志士たちと16名が、もう一隻の船には河上弥市を筆頭に長州藩の面々11名が乗った。沖に出た頃から雨が激しくなった。波も激しくなり風も強い。帆を降ろした二隻の船は一向に進まなかった。それでも明け方には上関まで辿りついたが、雨も風もますます激しくなったので、室津港に着いて船を降りた。
沢卿一行、陸路を取り玖珂に着く。
海路を断念した沢卿一行は室津港から陸路を取り、山路を急いで玖珂(岩国市玖珂)に着いた。
そんな中、北垣晋太郎と戸原卯橘は室津から軽船を雇い、暴風雨の中を先行した。
まだ風雨が続くなか、岩国城下を通り新湊に着く。また、軽船で先行していた北垣と戸原は大島(山口県大島郡周防大島)に仮泊し、5日の朝に新湊に到着し一行と合流。また、新湊では長州の西村清太郎と因州の大村辰之助が加わり、29名となったが、ここより北垣が単身で先を急いだ。
10月7日 北垣晋太郎、大和破陣を知る
先行していた北垣は、飾磨(兵庫県姫路市)に上陸し、夜半に新町(神崎郡福崎町)で京より戻って来た進藤俊太郎と落ち合った。進藤から大和破陣の報告と、長州の野村和作、因州の松田正人からの義挙の取止めの勧告を聞かされた。
その後、北垣と進藤は二里ほど離れた屋形の旅籠三木屋で本多素行を訪ね、善後策を講じ、北垣は沢卿一行に事の詳細を伝えるべく、飾磨に折り返した。

沢卿一行姫路到着

10月8日 平野國臣、姫路で天誅組破陣を知る
国臣ら沢卿一行の船は網干は航海中に嵐にあったりしたが十月九日飾磨に入港、ここで平野は藤四郎を伴って情報収集のために上陸した。市中を徘徊すると、天誅組大和破陣の噂を聞かされた。詳しい情報を知るために平野と藤は姫路藩の志士河合惣兵衛の徒、穂積某が室津(たつの市御津町室津)にいることを知り、穂積を訪ねてみたが、やはり市中の噂は本当であった。

10月9日 平野、北垣挙兵中止を説く
午後2時ごろ、網干港を出港し、午後6時ごろに沢卿一行は飾磨に上陸した。沢卿一行と合流した平野は旅籠に入り、食事が終わると一同に大和破陣の報告を一通りしたあと、大和破陣となった以上はこの度の義挙は取止めにしょうと意見を述べた。またその頃、先行していた北垣も一行のもとに駆けつけ、早速京にいる野村和作、松田正人らが説いた義挙取止めの勧告を伝えた。意見としては一旦、沢卿には因州で身を隠していただき、他の同志の方には大坂の長州藩屋敷に身を寄せておいていただこうといった内容であった。
大方の者はこれらの意見に賛成であったが、長州藩河上弥市や彼に従う奇兵隊の面々、それに秋月藩士戸原卯橘ら少壮派は猛反対した。彼らは京大坂の同志がどう言おうとまず我々は倒幕の先鋒であって、三田尻を出たときから死ぬ覚悟できている。どのような状況であろうと、初志を貫くべきであると怒気をこめた。意見が対立したまま時が流れていったが、やがて沢卿は口を開き、各有志に進展を委ねようということになったので、この夜は河上、戸原ら少壮派の意見が通り、北上することに決議した。
その夜旅館にて国臣は大和義挙破陣の状況を説明したあと、自分の考えをこう述べている。
大和義挙敗退となった今、我々の計画している但馬の義挙も成功の見込みがない。ここは忍びがたきを忍んで、一時解散し、時節の到来を待つのが上策と思う。
そして国臣は、解散後の一時落ち着く先も考慮したようであった。
または、生野義挙の目的は倒幕戦のさきがけとなる事で、したがって大和義挙が不成功であっったからといって、一時解散は筋が通らない。
さて、国臣の考えはどちら真実だったであろうか。
10月10日 沢卿一行北上、仁豊野で本多素行中止を説く
沢卿一行は市川を船で北上し、姫路城下を過ぎて、仁豊野(姫路市仁豊野)の茶屋奥田屋で休息した。ここで本多も一行と合流し、沢卿への挨拶を終えると直ちに義挙中止説を唱えた。これに怒った河上、戸原ら少壮派は今更命乞いをするな、卑怯者、斬ってしまえと本田に詰め寄った。お互い刀を引き合わせかけたところ、沢卿が制止されたのでなんとかこの場はおさまった。
休息が終わると、少壮派は沢卿を擁して先に先行し、その日は屋形(神崎郡市川町)と辻川(神崎郡福崎町)に分宿することとなった。