【環日本海の歴史】(9)環日本海


気比神宮

環日本海

日本列島の日本海側と朝鮮半島など大陸の間に日本海を囲む地域を「環日本海」といいます。

古来から西洋の船がやってくるまで、日本の表玄関は日本海でした。
日本海文化は、(一)「北の海つ道」による渡来人と文化、(二)潟湖を港とし、その近辺をも支配する地域勢力の形成、(三)独自の特色をもつ支配理念や文化の形成、の三点において特色づけられる(門脇禎二『日本海域の古代史』・『日本海文化とコシ』)。
弥生人が中国や朝鮮半島から日本海沿岸では九州北部を皮切りに、出雲(石見・伯耆・因幡含む)・丹波(但馬・丹後含む)、若狭・越前(加賀・能登含む)へと海岸づたいに移住していきました。

『紀』崇神紀の末尾に蘇那曷叱知の来航を伝えるが、垂仁紀には、「一に云わく」として越の笥飯浦に来着したのはツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)またの名を干斯岐阿利叱智干岐であると記す(編一四)。

越前敦賀を中心とする新羅・加羅系の渡来者は、おそらく三人や五人ではなかったであろう。彼らはそこに定着するとともに祖国の文化を伝えたに違いない。式内社として、能登国羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古神社、同能登郡加布刀比古神社・阿良加志比古神社、越前国敦賀郡白城神社・信露貴彦神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。(福井県史)

継体天皇

25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。
継体天皇の皇后は手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)、24代武烈天皇の姉(妹との説もある)
継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。

『日本書紀』によれば、継体天皇は、
507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
大和にいたのは最後の5年のみである。

越前か近江か

『日本書紀』(以下『紀』)は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』(以下『記』)は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。
『紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。?オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。

一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『紀』とほぼ同様の説話を伝えている。

まず継体天皇の父系の考察から始めよう。『紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫とするが、その系譜については何も記さない。また三尾の別業にいたと記すが、その本拠地についてはまったく触れていない。一方『上宮記』は、継体天皇の父を斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えているが、これは『記』の伝える系譜にきわめて近似したものである。
敦賀の登場の頻度からみて、古墳時代にもさかのぼりうるものであろう。

応神天皇

15代応神天皇は、ホムタワケ(誉田別尊)とよばれ、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれました。
『古事記』
アメノヒボコ(天日槍)とタヂママヘツミ(多遅摩前津見)の間に生まれた子がタヂマヒナラキ(多遅摩比那良岐)で、その第二子がタヂマヒタカ(多遅摩比多訶)と(スガカマノユラトミ(菅竈由良度美)のの間に生まれた子がカツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)。
オキナガノスクネ(息長宿祢王)と葛城之高額比売命の間に生まれた子がオキナガタラシヒメノミコト(息長帯比売命[神功皇后] )。
仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた子がホムタワケ(誉田別尊[応神天皇])。
歴史学者の間では、仲哀天皇は実在性のほとんど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)をもっている人物であるため実在性の低い天皇の一人に挙げられている。

しかし、応神天皇は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われますが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。応神天皇の名とされる「ホムダワケ」は和風諡号であり、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。
しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。

息長氏の性格

息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を美濃・越への交通の要地を根拠地とした豪族です。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とする。
但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長氏は、オキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)によって古代史上有名な氏族ですが、神功皇后の実在性については多くの議論があり、その系譜の古い部分は信頼性に乏しいようです。しかしオキナガタラシヒメ(息長帯比売命)がホムタワケ(応神天皇)の母と位置づけられている伝承は、応神天皇が継体天皇の五世の祖と伝えられているだけに、無視しがたい重みをもっている。

ヒボコと継体天皇

『日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。

『古事記』に、ヒボコ(天日槍)の曾祖孫カツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)が近江のオキナガノスクネ(息長宿祢王)の妃となりオキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)が生まれたとしている。

近江国の吾名邑とは穴師つまり鉱山師の集団であろうし、ヒボコは鉾という名前から武器・神具の製造にも深い。日槍の神社があるのは近江と但馬。ヒボコも息長氏も、ともに伽耶・新羅渡来系であろう。中国の『梁書』には古代、大漢国は丹国・若狭・越国・近江の大きな国だったと記されています。したがって同族の婚姻も多かっただろうし、ヒボコもツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)、そして応神天皇が継体天皇の五世の祖であり、越前や近江は朝鮮半島ととても縁が深いことになります。

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【環日本海の歴史】(8) 弥生人はどこから来たのか

環日本海の歴史

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった時代です。紀元前473年、中国が戦乱時代であったために、それから逃れた人々が順次日本列島にやってきたと考えられています。まず中国の春秋戦国時代に江南地方(長江以南)から、南西諸島を伝って南九州に上陸し、秦の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。
紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、縄文時代に日本列島にはいなかった多くの人々が大陸から流入したことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

大量の人々が、日本列島にやってきた

それではなぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのでしょうか。
当時、縄文海進から水位が下がりはじめたとされていますが、外洋航海は、今も昔も大変危険なもので、出航した人々の一部しか日本列島にたどり着けなかったものと考えられます。したがって、平和時に多くの人々がこのような危険なことをおかしてまでやってくるとは考えられず、中国に何か大事件が起こったためと考えるのが自然です。

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。
北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っていますが、これによると、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代のはBC473年に滅亡していますから整合性はとれます。
「呉の太伯の子孫」というのは日向地方に住んでいた人々のことではないかと考えられます。

弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられますが、弥生時代前半の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考えられます。

緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられるのです。このような場合、縄文人との対立は考えにくく、むしろ融和的に稲作や土器、木製品などの新技術を教えて溶け込んでいったのではないでしょうか。
日本列島にわたってきた弥生人は、水田耕作に適した住めるところを探して移動していったために、船を使って海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになりました。

このような人々によって、多くの技術がもたらされ、大変革をもたらし弥生時代が始まったと考えるのです。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていません。これは、このような状態で逃げてきたわけですから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断されます。
板付遺跡のように、縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、戦争による勢力拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな統合だったのです。
いまだよく分かっていませんが、同じく倭人と呼ばれる人々が暮らしていた中国江南の紹興を中心とした地には、古くから「越人」と呼ばれる人たちが住んでいました。紀元前473年には越は呉を滅ぼした。

しかし、紀元前334年、楚(ソ)の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡しますが、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑されました。こうして越は楚に滅ぼされました。

一部の越王族が現在の福建省に逃れ弱小勢力になっていましたが秦に滅ぼされてしまいました。一説ではベトナム(越南)は南下した越部族の末裔と称しています。また、越人たちは航海術にすぐれていて、海岸づたいに朝鮮半島へ行き、半島南部に住み着く者、または海を渡って直接日本へ亡命する者(ボートピープル)が続出したようです。

かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。

山口県豊北町の響灘に土井が浜遺跡があります。この遺跡から出土する弥生人骨は保存状態が良く、発掘は九州大学の医学部解剖学教室の金関丈夫(形質人類学)教授と日本考古学協会の手で行われました。

縄文人

時期や地域による変異は顕著ではない。顔は上下がやや寸詰まりで幅が広く、骨太で、顔の幅が広く寸づまり、鼻や眉間が高くて彫りが深い、歯が小さいが顎は頑丈で、上下の前歯の端を毛抜き状に噛み合わせる。体毛が濃い。平均身長は成人男性で158cm前後、成人女子は150cm未満と小柄。 南方系「古モンゴロイド」

弥生人

地域的な変異が顕著、顔はやや面長で、鼻が低いのっぺりとした顔立ち、歯は大きく、上の前歯が下の前歯の前に重なるはさみ状の噛み合わせ。体つきは手足が長く、成人男性の平均身長は163cm前後、成人女子で151cm前後とやや高身長。 北方系「新モンゴロイド」
土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、戦乱を逃れて日本に亡命してきたボートピープルだったことが裏付けされたのです。

縄文+中国渡来人=弥生?

日本列島に人類が住み始めて何万年というゆったりとした流れのなかで、弥生時代は急速に文明化が進みます。カルチャーショックをもたらした原因は、自然発生的に国内から生まれ発展したと考えることは無理があります。

それは統一国家 秦(シン)の始皇帝による王朝のころには、倭(ワ・やまと)国も百済や新羅(しらぎ・ジルラ)・加耶(カヤ)といった国もまだ誕生していない、はるか以前の時代です。朝鮮文化が伝わったと考えるのではなく、秦から朝鮮半島と日本列島にほぼ同時期に、あるいは朝鮮半島南部を経由して伝わった、「徐福」に例える先端文明をもった集団の渡来であったと考えるのです。

九州北部や出雲・吉備・丹後・越などクニが生まれていきます。徐福伝説が各地で同時に作られ伝わっている意味は、ルーツが同じ人々がそれぞれの新天地に共通の歴史を残し、またさらにその一族から別の土地に移住を繰り返していったことを示しています。

浦嶋太郎・桃太郎・鬼退治・土蜘蛛伝説、ククヒ(鳥取部)など、それらは徐福とされる呉や越人、朝鮮王族が縄文人を野蛮人として苦労しながら同化していったような話です。神話や民話として語り継がれ、日本書紀には天孫降臨や神武東征にすり替えられて記されているのではないかとも思えます。
日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。

しかし、縄文海進により、弥生時代にはすでに現在の日本列島の姿に近く、大陸から船で渡ってくることはそんなに簡単ではなかったと考えられます。早い時期に渡来人が移住したと考えられる北部九州・瀬戸内海・近畿地方ですら、弥生初期の遺跡から渡来系とされる人骨の出土は少ないので、水田稲作の先進地域でも縄文人が中心となっていたことが想定されます。また、少数を除くと、縄文人の戦傷例がないことからも、弥生人対縄文人の大規模な戦闘はなかったといえます。日本列島に住んでいた旧石器からの縄文人が、少数の渡来人がもたらした、より進化した道具や栽培方法などの文化的影響のもとで農耕社会へ移行したと考えるべきでしょう。

そのような研究から、秦が国家統一を果たす以前には朝鮮半島も倭国(日本)もまだクニと言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が伝わった時代は大差がないと考えられますし、東アジアという朝鮮半島のみ日本人のルーツとこだわるのは生産的ではありません。

このようなシナリオが実情に近いなら、弥生時代の始まり頃の渡来人は、当時の縄文総人口に比べてごく少数であったものが、その知識と遺伝子は再生産されて、弥生時代は東アジア交流に基づいて、文化の多くの分野において大きな変革がなされた大変革時代です。その契機は、おそらく中国からの少数の人々の渡来にあり、日本列島の歴史に大きな影響を与えることになりました。その変革は一気に達成されたのではなく、北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

2009/08/28
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【環日本海の歴史】(7) ムラからクニヘ

ムラからクニヘ

稲作によって食料が備蓄でき豊かになると、ムラの人口は増えました。ムラ同士の交流がさかんになる一方で、水田や用水、収穫物をめぐる争いもおこり、ムラを守るために周囲に濠や柵が作られました。ムラの中には共同作業を指揮し、祭りを取り仕切る指導者があらわれ、争いのときにも大きな役割を果たしました。
やがて、いくつものムラがまとまって、小さなクニ(邦・国)が生まれました。これら小国の指導者は王と呼ばれました。

この時期の集落跡でもっと大きいものの一つに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡があります。集落の回りは、全長2.5kmもある二重の濠で囲まれ、巨大な建築物や多くの住居、倉庫、神殿が建てられていました。人々を葬った棺が2000個以上も発見されており、当時の共同体の様子がうかがえます。

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」とされていました。

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義だから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

弥生時代の政(まつりごと)

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。

しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。
また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

「ハレとケ」

「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表しています。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)といいます。

ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別しました。ところで、葬式をハレとするか、ケガレとするかということがあります。一般通念では葬式は不幸ごとであり、結婚式などのお祝いごとと区別したくなるところですが、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊いていたと思われる民俗事例や晴れ着を着て喪に服した民俗事例などを念頭に、「非日常」という点で葬式もハレだとしています。しかしながら、いずれの立場も理論が十分でなく、なぜ葬式がケガレであるのかについて説明しきれていません。

日本において葬祭として葬儀と祭事を分けてきましたが、元々の漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことによって明確な区別が無くなったとの説もあります。

日本神道では、塩が穢れを祓い清める力を持つとみなします。そのため祭壇に塩を供えたり、神道行事で使う風習があります。また、日本においては死を穢れの一種とみなす土着信仰(神道に根源があるという)があるため葬儀後、塩を使って身を清める風習があります。これは仏教式の葬儀でも広く行われますが、仏教での死は穢れではないとして葬儀後の清めの塩を使わない仏教宗派もあるそうです。

日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは「魏志倭人伝」(弥生後期、三世紀前半)です。当時の倭国(日本)について、
「人が亡くなると十余日喪に服し、その間肉類は禁じ、喪主は号泣し、他人は歌舞飲酒ス。…その会は父子男女別なく同座し、人酒を嗜む」 と書いてありあります。これが米から造られた日本酒の最古の記録です。元々漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことのもこの頃からではないでしょうか。紹興酒の故郷は中国江南です。
いずれにせよ、今も約二千年前の昔も日本のお葬式の風習は大差ないですね。それだけ延々脈々と受け継がれてきた日本人の文化は古くから確立していたようです

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
「日本人の歴史教科書 自由社」

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【環日本海の歴史】(6) 中国統一と徐福伝説

[catlist id=8 orderby=title order=asc]中国統一

中国北部の黄河地域に早くから漢民族が住み着き、農耕や牧畜を行っていました。約3500年前には殷(イン)という王朝がおこり、青銅器を祭器として用い、漢字の原型がつくられました。殷が亡び、かわっての時代になると、鉄製の兵器や農具が使われるようになりました。周が衰えると国内は分裂し、その後、戦乱の時代が長く続きました。この時代には多くの思想家があらわれ、政治のあり方を説きました。孔子はその一人で、その教えを儒教とよばれました。

中国を初めて統一したのは秦(シン)の始皇帝で、紀元前3世紀のことです。始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号をはじめて名乗った人物です。重い刑罰で秩序を守るべきとする徹底的な専制政治をしき、数多くの大改革を断行、中国に統一国家の礎を築きました。この時代には、文字や貨幣が統一され、北方の遊牧民の侵入に対して万里の長城も整備されました。しかし、彼の政治はあまりにも厳しいものであったため、秦はすぐに滅んでしまいました。

かわって中国を統一したは、紀元前後400年にわたって栄え、大帝国を築きました。同じころ西洋で栄えていたローマ帝国との間に交易路が開かれ、中国の絹がローマに、西方の馬やブドウが中国に伝えられました。この交易路をシルクロード(絹の道)とよびます。インドの釈迦がおこした仏教も、紀元前1世紀ごろ、この道を伝わって中国にもたらされました。

徐福伝説

狩猟・漁労主体の縄文時代から、稲作をはじめ農耕社会の弥生時代へと変わる画期的な文明移行の過程に、いったい何が起こったのだろう。まずこの時代に相当する伝承として、その謎を解くひとつに「徐福伝説」があります。

この伝説は浦島太郎伝説と同様に全国に残っています。まったく根も葉もないところから伝説が生まれたり、長く語り継がれることはないとすると、紀元前200年ごろのことが語り継がれてきた徐福伝説を、単なる作り話だと軽率に否定することはできないと思います。縄文時代から弥生時代へと変わる過程の史実が隠されているのではないかと思います。

司馬遷が著した中国で最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が登場します。

秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述があります。

『史記』は、紀元前100年頃に完成されたものと推定されていますが、非常に高い学術的権威をもった大著とされています。それは、記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされているのです。徐福(じょふく)の事件は『史記』の完成わずか100年前の出来事なのです。

この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説ありますが、浙江省寧波市慈渓市が有力とされます。 途中、現在の韓国済州島(済州道西帰浦市・ソギッポ市:地名の由来は徐福が西(中国大陸)に帰って行った港との説もあります。)や朝鮮半島の西岸に立寄り日本に辿り着いたとされます。
『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。

その後も徐福について、『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されています。

なのに、日本の史書である「記紀」以下の六国史にも徐福の記述はありません。しかしその後も、中国では徐福の渡海から1200年ほどが経過しても、徐福の日本渡来説が現れはじめます。釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている。」と伝えたとあります。しかし、長い間、徐福伝説は実在の人物ではないと思われていました。
徐福のルーツ
ところが、1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の羅其湘氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見しました。今更地名が発見されるところに中国らしさを感じますが、同氏は、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとしています。この村が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐福村」と呼ばれ、「徐福」の伝承が残っている事をつきとめました。

その後、プロジェクト・チームが現地に入り、村に残る「徐副廟」を調査したところ、驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいました。代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。そして古老の語る次の伝承を採録しました。

「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」

全国各地に残る徐福伝説地

日本では徐福渡来にまつわる話が全国各地に伝わります。佐賀県内数ヵ所、鹿児島県串木野、青森県八戸・小泊村、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡伊根町、愛知県などが有名です。

東シナ海を出た船は、黒潮(日本海流)か対馬海流に乗れば、沖縄・九州、日本海沿岸、太平洋沿岸のどこかにたどり着きます。ある船は対馬海流に乗って韓国済州島や対馬・壱岐、九州北部から丹後、北陸、東北日本海側の地方まで、またある船は黒潮に乗って四国や熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島など各地に流れ着いたのだろうといわれています。

東シナ海を大船団なのでひとかたまりで動くことはなく、ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などにばらばらに流れ着いたはずです。

まず辿り着くのは九州の長崎・佐賀・福岡、もしくは黒潮に乗れば鹿児島西部か四国南部・紀伊半島でしょう。伝説として土地にとけ込んで語り伝えられているのは、中国からも近い佐賀県のようです。

佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生します。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたといいます。

紀伊半島の熊野にある徐福渡来伝承地は、和歌山県新宮市と三重県熊野市波田須(はだす)の2ケ所です。どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。

日本海側では丹後半島の網野と伊根には、紀伊半島の熊野・伊勢地方と同名や似た地名・神社が多いことに気が付く方は多いのではないでしょうか。まるで鏡を置いて写したような偶然です。豊橋市にも熊野神社があります。もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。

佐賀県徐福会のHPによると、「吉野ヶ里から発見された絹は、京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎氏の鑑定によると前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていたので、それが最初に国外に出たことを確認できたのが日本で、しかも北部九州であると述べており、さらに吉野ヶ里から出土した人骨が江南の人骨に似ているということから、貝紫や茜で染められた薄絹をまとっていた、佐賀平野の弥生人は、徐福の子孫ではないかと。佐賀に伝わる徐福伝説を考える点で興味深いものです。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から機織り、秦、幡、波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。

2009/08/28

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【環日本海の歴史】(5) 弥生時代のはじまり


[wc_skillbar title=”環日本海の歴史” percentage=”100″ color=”#6adcfa”] [catlist id=8]概 要
弥生時代とは、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続く、古墳時代に先行する時代の名称です。
弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって、研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。
弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。
これによると、
弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、
・早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
・前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
・中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
・後期(紀元50年頃~三世紀中頃)
の四期区分論が主流になりつつあります。
しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く未知な世界です。
弥生時代の新たな研究
小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。
このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭(ワ・やまと)と呼ばれました。
つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。 出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。
こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。
環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。
関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』には、
稲作民は日本を征服したのか
「騎馬軍団を率いた征服者」の存在を想定することは、あまり現実的ではない。そうではなく、むしろ弥生時代の「武装した渡来稲作民」の存在の方が問題である。
弥生時代の到来は、大量の稲作民族の渡来によってはじまった可能性が高い。少なくとも、北部九州に稲作文化を根付かせる基礎を作っていったのだった。
彼らは半島や大陸の戦乱をくぐり抜けてきた人々で、日本列島にも、防御力の高い環濠集落や、金属製の武器をもたらした。稲作民族と騎馬民族を比較すれば、騎馬民族の方が好戦的に思えるが、実際には稲作民もよく戦う人々なのだ。
温厚そうに見える稲作民族が、なぜ戦いを好むのかというと、「農業」が土地の奪い合いを前提としているからだ。農耕民は貪欲に食べるだけではない。「膨張する農地」も無視できない。
農業は「余剰」を生み出し、その「余剰」が、人口爆発を引き起こす。
人口爆発が、今度は新たな農地(田んぼ)を求める。
新たな農地を獲得すれば、さらに「余剰」が再生産される。
この連鎖が「農業の宿命」であり、しかも周囲の集落でも同じ事をやっているのだから、当然土地をめぐっていさかいが起きる。その紛争が大規模なものになって、強いリーダーが求められる。
また、金属器の登場によって、農作業の効率が上がり、そのため、「競争」は激化し、「もっと広い農地」を求めて、農耕民は戦ったわけである。
このように、稲作や農業という「システム」そのものが、戦乱と強いリーダーを求めたのである。
稲作文化は軋轢と融合を重ねて広まっていったわけで、「農耕そのものが戦争を呼び寄せる」のだkら、弥生時代は混乱のじだいとなったのである。
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【環日本海の歴史】(6) 水田稲作の始まり

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』で、
そもそも日本人とは何か
弥生時代は稲作文化が普及した時代であると同時に、農地、水利、さらには金属器の流通を巡る諍いが絶えない時代でもあったわけだ。ただし、この混乱が征服劇だったかというと、それは間違っている。

たとえば、渡来人の密集していたであろう北部九州でも、渡来文化を受けつつも縄文的な風習を継承していた人びとも確認されている。つまり両者は棲み分けと融合をくり返していったのであり、また、渡来人が染み込むように日本土着の民と融合していったことは、「日本語」が、縄文中期にはすでに完成していたと考えられていて、しかも今日にまで継承されていることからも言えるのではないだろうか、という。

水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、縄文土器にかわって、これまでよりも薄く、つぼやかめ、食器などさまざまな用途に分けられた弥生土器がつくられるようになりました。青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。

弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。反対に、在来の縄文人が外来の新しい知識・文物を入手して、弥生人になることが基本であったともいえます。

早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。

水田耕作の始まり

すでに縄文時代に大陸から稲がもたらされ、自然の水たまりを利用して小規模な栽培が行われていましたが、紀元前4式ごろまでには、灌漑用水路を伴う水田を利用した稲作の技術が九州北部に伝わりました。

初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、九州北部地域に集中して発見されており、弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。

水田を用いた稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(邑)をつくって暮らすようになりました。大規模な水田がつくられるようになると人々は共同で作業するようになりました。

稲穂の摘み取りには石包丁が用いいられ、収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられました。ムアでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われました。

稲作と技術の伝播

稲の伝来ルートについても従来は朝鮮半島ルートが有力視されていましたが、これには疑問点が多くあります。
・中国遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
・朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
・極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部(満州)から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。
協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎(べんざぶろう)編「日本の酒の歴史」から引用する。
いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

(1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
(2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
(3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)

第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。

江南というのは、今の中国の揚子江以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。

「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、
弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。
としています。

黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。

東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。

朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。
韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。
また、山口県豊北町の響灘にある土井が浜遺跡で弥生人の人骨が多数発見され、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。

したがって、弥生文化は、朝鮮半島からの移民だけだと考えるのはどうもおかしいのではないだろうかと思います。日本に稲作文化をもたらしたのは、中国江南から移住した弥生人だと思われるからです。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

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【環日本海の歴史】(2) 大陸から日本列島へ

【環日本海の歴史】(2) 大陸から日本列島へ

地球の誕生

地球は約38億年前誕生したとされています。
約44億年前 地球は太陽の周囲をまわる軌道にあった天体、すなわちミニ惑星たちがが合体して形成されたとされています。小さな塵などが合体して火星ほどの大きさになり、そして、10個ほどがさらに衝突して現在の地球となったのではないかといわれています。
最後の大きな星の衝突(ジャイアント・インパクト)によって表面に海が形成されました。

40億年~38億年前 現在、知られている最古の堆積岩が現れます。このころに原始生命が誕生したと考えられています。
約38億年前から約25億年前、移動していた大陸がはじめて安定しました。そして光合成によりエネルギーと酸素を作り出す微生物が誕生します。

約20数億年前には大気中の酸素の増加がしはじめます。

9億年前から5億4,200万年前、オゾン層ができて紫外線がダイレクトに地表に届かなくなりました。超大陸ロディニアが少なくとも8つの地塊(大陸)に分裂したことによる複雑な大陸移動が引き起こったと考えられています。
5億4,200万年前以前、肉眼で見える大きさで硬い殻を持った生物の化石が初めて産出されます。
海中では様々な種類に至る海洋生物が現れ、中でも三葉虫等の節足動物が繁栄し、藻類が発達しました。
カンブリア爆発…この時期の初期には動物門のほとんどすべてが出現したと考えられ、この時代に動物の多様性が一気に増大した可能性があります。後期には多細胞生物も出現しました。

約1億9500万年前~約1億3500万年前、恐竜が繁栄、原始的な鳥類の出現、被子植物の出現。
6500万年前、霊長類(有胎盤類)の出現しました。
約4000万年前、現代の動物相につながるものがほぼ出現している。ヒトの祖先はこの時代に誕生しました。
2500万年前、最古の類人猿と思われる化石?がアフリカのケニヤで発見されました。
1300万年前 この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジアなどユーラシア各地にも類人猿の化石が現れる。
約600万~500万年前 この頃、ヒトとチンパンジーが分化したとされる。直立二足歩行の開始。

日本列島の誕生


地球の気候は温暖期と氷河期をくりかえしてきました。紀元前7万年頃から紀元前1万4千年頃にかけては地球は氷河期で、日本列島は、朝鮮半島や千島列島によって大陸と陸続きだったとされています。インドシナ半島からインドネシア、フィリピンなどは大陸と陸続きで、「スンダランド(Sundaland)」という広大な平野だったといわれています。中国と朝鮮半島、日本列島に囲まれた黄海も平野であったようです(北海道以北、東シナ海の大陸棚がそれに当たる)。

広大なスンダランドはアジア系民族の故郷であるといわれています。紀元前5万年頃から一部が北上し、モンゴルやシベリアにまで広がりマンモスハンターとなり、彼らは徐々に寒さに適応して北方系のアジア民族になっていきます。シベリアから北海道、・本州東北部、また、アラスカ(エスキモー)、アメリカ(インディアン)、南アメリカ(インディオ、マヤ、インカなどの文明)へと南下していったのでしょう。

また、一部の人々は海洋民族として太平洋に広がり、ポリネシア(概ねハワイ諸島・ニュージーランド・イースター島を結んだ三角形「ポリネシアン・トライアングル」の中にある諸島の総称。)へ移住しました。これと同じ時期に世界の数ヶ所、同じ様な場所があるようです。
13000年前、旧石器時代(先土器文化)は、その名の通り土器のない時代です。石を打ってつくった打製石器と、石を磨いてつくった磨製石器を使う文化です。日本列島はたくさんの火山が噴火して、火山灰が厚く積もっていたので、とても人間や動物が暮らしていける環境ではありませんでした。したがって、日本列島には旧石器時代はなかった、これが、明治以来、日本の考古学の常識でした。

NHK 高校通信講座『日本史』

ところが、戦後間もない1949(昭和24)年、群馬県岩宿の関東ローム層(赤土)とよばれる火山灰かが厚く積もった中を深く切り開いた道で、相沢忠洋さんが確実に人間が加工した白っぽく透き通った鋭く尖った石が顔を出しているのを見つけました。少年時代から考古学への強い興味を持ち続けていた相沢さんは、「日本にも旧石器時代の人間が住んでいたはずだ」と信じて石器の発見を夢見ていました。

ただちに、東京の大学の持ち込んだところ、研究の結果それは旧石器であることがわかりました。ただちに大学から調査隊が岩宿に送り込まれ、一体を詳しく調査した結果、「日本にも旧石器時代があった」ということが発表されました。

しかし、この大学の発表には、その発見が相澤氏の功績であることは全く紹介されませんでした。彼がアマチュアであり家庭の事情で小学校しか卒業していなかったことで、完全に無視されたのでした。しかし彼はそんなことは気にもとめず、地道な研究活動を続けて関東地方で数多くの旧石器を発見しました。その功績で1967(昭和42)年、彼に吉川英治賞が贈られました。

いまでは日本全国で4000か所以上の旧石器遺跡が発見されており、中には35000年前のものまであることがわかっています。すでに日本列島には縄文人の先祖にあたる旧石器人が住んでいました。

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日本(ひのもと) 5

気多神社以外の大己貴神の神社

大己貴神(オオナムヂ)は、スサノヲの子であるあるとも、数代後の子孫であるとも、また娘婿であるともされており、系譜は不明瞭である。また、複数の別名があるとされているが、それらがすべて同一人物であったとは考えにくい。少彦名命(すくなびこなのみこと)と共に天下をつくった神。病を癒し、害虫を駆除して、天下に繁栄をもたらしたという。 少彦名命
少彦名命の去った後、出雲国を天下統治の拠点とした。

おほな”と“すくな”は対応した名前であると考えられる。“な”は場所の意味があるから、そこから転じて後から大国主という名が付けられたのではないかともいわれている。
別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など。

1.但馬五社 式内 小田井縣(あがた)神社


兵庫県豊岡市小田井町15-6
御祭神:国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)

1.但馬五社 名神大 養父(やぶ)神社


兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3

御祭神:倉稻魂命(うかのみたまのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命) 谿羽道主命(たにはのみちぬしのみこと) 船帆足尼命(ふなほそこねのみこと)『国司文書 但馬故事記』 上座:大巳貴命中座 中座:蒼稻魂命・少彦名命下座:丹波道主命・船穂足尼命
「神社拾遺」但馬五社 名神大 養父神社

3.式内 石部(いそべ)神社


兵庫県豊岡市出石町下谷62
御祭神:天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
境内入口の右には「式内 石部神社」、左に「皇大神宮」と刻まれた社号標が建っています。創祀年代は不詳。当初は坪井村に鎮座していたといわれ、現在地は出石城跡の東700mほどの出石町下谷に遷座された。江戸時代、小出・仙石両藩主の崇敬を受けていた。祭神は、案内板によると天日方奇日方命。
『式内社調査報告』には、八柱大神と記されている。
八柱大神とは、天日方奇日方命(櫛日方命)・
大己貴神・大物主神・大国魂神・事代主命・媛踏鞴五十鈴姫命・
溝?姫命・活玉依姫命。
『平成祭データ』には、天日方奇日方命・
大山積神・大己貴神・大物主神・事代主命・
健御名方命・高彦根命・瀧津彦命と記されている。

「神社拾遺」式内 石部神社

創建年は不詳。平安時代以前に坪井村から現在地に遷座されたと伝わる出石の産土大神(氏神)。江戸時代は、出石藩藩主である小出家と仙石家から尊崇を受けていた。要するに天日方奇日方命と配祀の神々ということらしく
石邊公・久斯比加多命の祖神、天日方奇日方命を祀る神社。
また、天日方奇日方命は天日矛命の後裔であることから
天日矛命を祭神とする資料もある。天奇日方命〔素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫〕は事代主命の長子である。性質は叡明仁恕で 神武天皇に事え、申食国政大夫となって天皇を助けた。悪神を治め夷賊を平らげた功功績は大へん大きい。熟美味命と二人は今の左右大臣のようである。『式内社調査報告19』の祭神は、櫛日方命、大己貴命、大物主神、大国魂神、事代主命、媛蹈鞴五十鈴姫命、溝咋耳命、活玉依姫命とする。主祭神は櫛日方命であることに差はない。
『但馬国式社考』は「考証云、櫛日方命、姓氏録云、石邊公、久斯比加多命後也。一書、作奇日方命、或云、天日矛神裔也」とある。『兵庫県近世社寺建築緊急調査表』には天日矛神とする。「先代旧事本紀巻第六 皇孫本紀」によると、
物部連(もののべのむらじ)等の先祖の宇摩志麻治命は大神君(おおみわのきみ)の先祖の天日方奇日方命(あめのみかたくしひかたのみこと)と共に食国政申大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)となった。天日方奇日方命は皇后の兄である。食国政申大夫は今の大連・大臣である。
奇は「くし」と読み「櫛」と同じ。石部神社は近江から日本海側に分布し、特に丹波の福知山盆地から但馬の出石盆地への日子坐王の行軍路とされる道筋に点在している。素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫であれば天日槍とは関係ないばかりか大国主の出雲の神社であるから、
天日槍系神社としてよいものか・・・
出石だんじり祭り – 10月中旬。諸杉神社と伊福部神社と石部神社の祭り。約20台のだんじりが参加し、出石城大手前でぶつけ合う喧嘩祭りである。
大ケヤキ「幸の大ケヤキ殿」 – 樹齢一千年、幹周囲8メートル、樹高30メートル、豊岡市指定文化財天然記念物

4.神門神社(かむとじんじゃ)


式内社 豊岡市日高町荒川
御祭神 大國主命、武夷鳥命、大山咋命

御由緒

創立年月不詳なれども延喜式の制小社に列し天和四年本殿を修理し明治三年山王大権 現の称呼を神門神社と改称し同六年十月村社に列し同三十三年瓦葺に屋根替したり。
神門神社の境内にある大きなイチョウの木には、地上5~6m上の枝から下がる『チチ』と呼ばれる気根があります。乳房を思わせるところからこの気根をとって、その汁を飲むと母乳の出が良くなるとも言われており、昭和の末頃にその気根が盗伐されて、その痕跡が痛々しく残っている。

「神社拾遺」式内 神門神社

安牟加(アムカ)神社


兵庫県豊岡市但東町虫生字箱ノ宮式内社 創祀年代は不祥。

聖大明神とも称された古社で
式内社・阿牟加神社の論社。

承和十五年(848)秋八月、安牟加首虫生を出石主政に任ず。
安牟加首虫生が饒速日命から(6代略)の物部の祖、物部十千根命を虫生(むしゅう)の丘に祀る。
これを安牟加神社という。また、丹波国天田郡・奄我神社から分祀したとの説があり、
祭神は、『姓氏録』に「奄我(アンガ)は天穂日命の後なり」
とあることから天穂日命とする。
「神社拾遺」式内 安牟加神社


農村歌舞伎舞台 県指定有形民族文化財

舞台壁面に残る墨書に1861(文久元)年のものがあり、それ以前の創建。
但馬では関宮、但東町、日高町にあり、但東町の代表的な舞台が虫生(むしゅう)の「安牟加神社}にある舞台。安牟加神社では、10月17日に太古踊り[たいこおどり]が行われる。祭の夜、公民館に引き出された太鼓屋台[たいこやたい]に新発意[しんぽち]1人と太鼓打ち2人が座る。行列は幣[しで]持ちと傘鉾[かさほこ]持ちを先頭に、笛と太鼓の囃子[はやし]も賑やかに若者が屋台を威勢よく曳[ひ]いて神社へ練[ね]り込む。神事[しんじ]のあと太古踊りが始まる。

拝殿内に囃子方[はやしかた]15人ほどが座り、歌の上手な者が音頭の頭[かしら]となり音頭出しをする。新発意[しんぽち]は扇を開いて口上[こうじょう]を述べる。音頭が歌い出すと、太鼓は歌に合せて打つ。新発意[しんぽち]の掛声を合図に太鼓打ちは、右に左、斜方向に向きを変えて打つ。音頭には入込[いりこみ]・先達[せんだち]・屋敷おどり・花・糸屋・坂本の6種類がある。
安牟加とは、安羅の伽耶ということではないかと想像。物部を最初に名乗った「物部十千根命」が最初は祀られていたので物部氏の神社であった。虫生(むしゅう)という地名は滋賀県野洲市にもある。

阿牟加(アムカ)神社


豊岡市森尾字アンガ

式内社 御祭神 「天穗日命あるいは天湯河板擧命」
あるいは 物部十千根命
あるいは 天湯河板擧命

創祀年代は不詳。中古、中嶋神社に安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した」とあるので、その阿牟加神社ではないかと思う。

同地区は旧出石郡神美村で「正始元年三角緑神獣鏡」が見つかった森尾古墳がある。森尾村に阿牟加谷と称する地があり、天湯河板挙命とする説もあります。鵠(クグヒ・コウノトリ)を捕獲した網に因み
阿牟(網)加(郷)の地名となったという考え。しかし、上記の安牟加神社からすれば元は「物部十千根命」を祀ったのでは。

参考資料:-『日高町史』より
兵庫県立歴史博物館

-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

1.物部氏=気多の足取り

ヒボコと争った気多

但馬国内で物部氏ゆかりの大己貴命の神社が多い順に、城崎郡5社、出石郡3社、気多郡2社、朝来郡、養父郡、七美郡が各1社となっていて、七美郡以外は、すべて円山川水系です。円山川とは水系が異なる但馬西部の美含郡、二方郡、には物部氏ゆかりの神社はないことから、物部氏の勢力は但馬国西部には達していなかったのかも知れません。それとは反対に丹後、丹波には円山川水系同様、物部氏ゆかりの神社が点在しています。

航海術に優れている物部氏が移動に使ったのは、陸路だろうか?山間の入り組んだ地形の但馬、丹波・丹後では、整備された道といったものもまだないから、間違いなく便利な水路でしょう。しかし、出雲と越国から特有の四隅貼石墓が出土し、交流が深く、よく似た文明であるのなら、一気に出雲から船で越国まで航海したとは考えにくく、その途中の伯耆、因幡、但馬、丹後も寄港したり、定住しながら、同じ出雲文化圏を形成していったのではないかと考えられます。

但馬地方で完全な形で発見された唯一の銅鐸が発見されたのは、円山川の河口

豊岡市気比(ケヒ)溝谷で、気比の浜という共通の地名が、日本海には福井など数所存在する名前の入り江(潟湖)です。敦賀気比神社の祭神はイザサワケ(伊奢沙和気)神であったとする。『古事記』には仲哀天皇段は、このイザサワケ神で、のちにヤマト朝廷ではケヒ(笥飯)神とよばれることになる。「笥飯」は食物を意味するが『紀』『記』における角鹿(敦賀)の記述以前は気比社に隣接する浜を笥飯の浦と呼ばれていた。

現に出石町袴狭(ハカザ)で船団の様子が描かれた木簡が出土していますが、銅鐸発見場所が日本海のすぐ近くであること。寄港地として気比や出石がすでに認知されていたと思われます

「播磨風土記」・「日本書紀」は、
播磨→加古川水系(あるいは市川) 伊和大神 → 但馬国へ 円山川水系を下りながら → アサコ(アサク=阿相=朝来)国 → ヤブ(夜父=養父)国 → ケタ(気多)国 → 近江 → 出石に定着
物部氏の建国したもうひとつの日本を消し去るために、その事実を架空の人物「天日槍」に見立てて大和を中心に逆ルートで征服したように記しているのではないだろうかと考えます。

鋳型はすでに北九州の時にあったものが、複製され河内に移動するグループと出雲に移動するグループが所有していたと考えれば、航海術に優れた渡来人にとって、日本海の出雲加茂岩倉や因幡、但馬(豊岡市気比)で見つかった銅鐸は、これまで陸路を経て同じ鋳型とされる大阪府茨木市からもたらされたのとされていましたが、そうではなく日本海沿岸を辿って佐賀・出雲地方からもたらされたのではないか、と思う方が自然ではないでしょうか。加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸の中に気比銅鐸と同じ流水紋の兄弟銅鐸が見つかっています。

物部氏が興したとされる「日本(ヒノモト)」ができた畿内の河内や大和からの交流により、もたらされたというのであれば、なぜもっと大和で見つからないのだろうか。朝来市には物部という地名があり物部神社もあります。

日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。
物部氏は全国に大変多い系統ですから、すべてが倭(大和)の日本(ヒノモト)から弥生人(物部氏たち)が波紋のように広がっていったというような単純なものではないと思われます。中国の秦または越人(弥生人≒物部氏)は、同じ中国江南から渡来した越人がすでに一つのまとまった集団ではなくて、北九州、出雲、そして伊勢・尾張など、時代を経ながら日本列島を東方して、新しい漢字国家を形成していったではないだろうか。

また、ヤマト政権による日本が誕生する以前には、すでにこうして越人(秦でいいですが越という日本海の旧国名が中国の越と同じであるのが気になります。愛知も越と同じでしょう)の移り住んでいった対馬国、壱岐国、北九州地方の諸国が形成され、出雲国や越の国もその同じ集団である可能性が分かってきました。出雲は立地条件から日本海によって、北九州や日本海沿岸から朝鮮半島・中国と交易していた重要な基地であり、但馬弥生人のルーツは朝鮮半島南部の伽耶・任那からである可能性は高いです。

畿内ではこれ以外にも銅鐸の鋳型が見つかっており、いずれも付近に饒速日命を祀る神社が多くあることから、物部氏により統一的に銅鐸の製作・配布が行われていたのは決定的だといいます。
物部氏は、元々は兵器の製造・管理を主に管掌していて、祀りごとを担う氏と成長しました。

学術的な否定意見の例

2世紀後半から3世紀中頃にかけての庄内式土器の移動に関する研究から、吉備や畿内の人々が北部九州へ移動した事は確認されたが、北部九州の土器が吉備や畿内へ移動した痕跡はほとんど見られない。つまり、この時期に九州地方の人々が集団で畿内へ移住したとは考えにくいというものです。

4.気多氏

日高町史では、
「忍海部は、名代、子代部に関係したものと想定され、新羅よりやって来た部族ではないか」とも考えられている。忍海漢人は、神功皇后五年に俘虜として渡来してきたといわれ、製鉄技術の関係者だった。一つの目安として、『兵庫県史』では、国名や郡名と一致する皇子や皇女の名を拾い上げて、皇室との関係の濃度を調べて、ヤマト政権の勢力の浸透時期を求めている。それによると、但馬の場合、允恭天皇の皇女に但馬橘大娘皇女(タチバナオノオオイラツネ)、天武天皇の皇女に但馬皇女(タヂマイラツネ)がある。そこから、但馬地方に皇室の勢力が及んだのは、五世紀頃ではないかと想定されている。加えて、養老三年(719)死去の但馬皇女の名が見え、慶雲元年(704)に従四位下の気多王、天平神護二年(766)に従五位下の気多王の名が見えるてくるので、但馬の中でも、とりわけ気多郡と皇室との関係は七、八世紀ごろになると、緊密化してくるように見える。そのことを示すものは「部(べ)」である。部は、民衆集団で、農民・漁民・特殊技能者たちからなり、貴族に生産した品物を貢納したり、特技をもって奉仕した。皇室が所有している部を、特に名代部、子代部という。この部が設置されていることが即ち、ヤマト政権の明瞭な権力進出の証拠なのだが、気多郡の場合、名代部、子代部の名前が出てこない。しかし、準ずると考えられる部の存在が、私部(キサイベ)で、后(キサキ)の部である。次は、品冶部で、垂仁天皇のために置かれた部である。三番目は忍海部で、履中天皇の皇女飯富青(イイトヨアオ)皇女、忍海部皇女のために作られた部といわれ、三者はともに名代部、子代部に準じてもいいものである。

気多郡余部郷に私部意嶋がいて、その戸口の私部酒主が私部得麻呂を、奈良東大寺造営に塗装工として派遣している。忍海部については、大毅忍海部広庭の名が見え、品冶部には小毅品冶部君大隅の名も見える。このような使者は、国府に近い郡の郡司が任ぜられるのが通例である。

ヤマト政権に所属している部を「品部(トモベ)」と総称しているが、神社や地名が関係している。まず、日置部である。日置は戸置(ヘキ)で、税金の徴収台帳である戸数を調べるものだとか、日を置くことで、暦法-こよみに関係したものとか、日置を火置と考えて浄火を常置して神事に関係したとか、大和の石上神宮の神宝作りに関係して、楯部らと共に太刀を作っているから、武器製作にも関係したともいわれている。しかし、律令時代宮廷の日常事務に当たって、殿部の中に見る日置部は、火を灯す役を受け持っていた。気多郡には日置郷があり、式内社日置神社がある。日置部是雄、衣守の名が見える。

次は川人部だ。漁猟に関係した部である。川人部広井の名が見える。高田臣の姓を賜っているから、高田郷に在していた人だったのであろう。

三番目は楯縫(たてぬい)部だ。武具製作に従事していた部で、大嘗会に用いる楯は「丹波国の楯縫氏がこれを造る」という。文献には気多郡に関係者のことを記していないが楯縫神社が日置郷伊福(ゆう:豊岡市日高町鶴岡)にある。

日置部にしても楯縫部にしても、古い儀礼に関係した職業だということで、これは気多郡がヤマト政権に早く吸収された痕跡でもある。気多郡は、上記の皇族名からすると少なくとも八世紀ころには、皇室との接触があったようだ。気多命婦は気多郡の豪族が奉った采女(うねめ:みこ)ではなかったかと考えれば、ヤマト政権支配下にいた気多郡の豪族の一つの生き方が見える。しかし、名代部、子代部が見られ、既に五世紀の中頃から宮廷儀礼に関係し、古くから服属してしまっている痕跡を持っている。気多郡へのヤマト政権の進出の時期については、五世紀の初め円山川上流部に波及すると次第にその影響を受けていったのであろうか。

-参考『日高町史』より

しかし、これは、奈良時代にヤマト政権の律令制度以降のことなので、それ以前は資料がありませんからわかりません。新羅が誕生する以前から、全国でも唯一の107片も粉々に破壊され埋められた弥生後期と推定する銅鐸片が見つかったことを見ると、ヤマト王権に反抗した豪族(仮に気多氏)がいたのではないかということを想像します。ひたすら強調することはできませんが、気多神社の由来やわざわざ播磨風土記に気多と養父の名が記されていることからも、そう思えてくるのです。全国で式内社の兵主神(大己貴神)は、合計二十一座(十九社)で、その内の七社がなんと但馬の円山川近辺に集中していることからも、物部氏の一族で伽耶系の渡来人が半島と密接な繋がりをもちながら北但馬でヤマト政権に抵抗し、勢力を保持していたのではないかと思えるのです。▲ページTOPへ

たじまる 日本-4

一宮と但馬五社

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。

1.神社が多い但馬

全国の神社について公式に記録で現存するのは、平安時代中期(十世紀)の初頭選定された、「延喜式・神名帳」です。全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

  • 大和國:286座 大128 小158
  • 伊勢國:253座 大14 小235
  • 出雲国:187座 大2 小185
  • 近江国:155座 大13 小142
  • 但馬国:131座 大18 小113
  • 越前國:126座 大8 小118近隣で比べると、
  • 丹波国:71座 大5 小66
  • 丹後國:65座 大7 小58
  • 若狭国:42座 大3 小14
  • 因幡國:50座 大1 小49
  • 播磨国:50座 大7 小43
    となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。
一宮(いちのみや)は、神社の格式を記した『延喜式(十世紀)』には、一宮等の区別を定める規定はありませんが、祭祀・神階などの点で、他社にまさって有力な神社とされるものが明らかに見られるので、それらの最上位のものが一宮とせられ、以下、二宮・三宮・四宮等などの順位を附けて行ったもののようです。

おそらく平安初期にその実が備わり、同中期から鎌倉初期までに逐次整った制と考えられますが、それは朝廷または国司が特に指定したというものではなく、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社が勢力を拡大するに至って、おのずからその国の神社の階級的序列が生まれ、その首位にあるものが一宮とされ、そのことが公認されるに至ったもののようです。

出石神社は但馬一の宮で大変古い神社ですが、このあと天日槍(あめのひぼこ)の項で詳しく述べるとして、但馬国一宮は出石神社と粟鹿神社の二社とされています。但しいくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の「但馬国大田文」では粟鹿神社を二宮としていますが、室町時代の「大日本一宮記」では粟鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。室町時代は山名宗全が出石神社に近い出石此隅山城を本拠として出石神社を擁護し、応仁の乱の際には出石神社に祈願して此隅山城から出陣したと伝えられているので、記載されていないのが不思議です。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い神社を弥生時代に起源を求め、ご紹介します。

名神大社(十八座)

朝来郡朝来市粟鹿神社名神大・旧県社
養父郡養父市養父神社(夜夫坐神社)名神大二座。小三座・旧県社
水谷神社名神大・旧村社
出石郡豊岡市出石町出石神社(伊豆志坐神社)名神大八座・国幣中社・別表神社
御出石神社名神大
気多郡豊岡市日高町山(やま)神社名神大・旧村社
戸(へ・との)神社名神大・旧村社
雷(いかづち)神社名神大・旧村社
豊岡市竹野町?(木偏に蜀)椒(ほそぎ・はじかみ)神社名神大・旧村社
城崎郡豊岡市海(カイ・あまの)神社名神大・旧村社

山陰道但馬国

  • 一宮 出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内
  • 一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
  • 二宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
  • 三宮 水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中シマ235
  • 三宮 養父神社 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3
    粟鹿神社については、一宮とも二宮ともいわれています。
    名神大18は以下の通りで、全国的に大和国 大128、山城国 大53に次いで多い。山陰道でも圧倒的に多く、しかも自然神が他国では皆無なのに19社中5社はきわめて珍しい。3.但馬五社またこれとは別に、但馬を南北に流れる円山川沿いに絹巻神社・出石神社・小田井縣神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」と呼び親しまれています。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。

    粟鹿神社朝来市
    養父神社養父市
    出石神社豊岡市出石町
    小田井縣神社豊岡市
    絹巻神社豊岡市

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3.神社に見る勢力図

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4.粟鹿(あわが)神社

但馬國朝來郡 粟鹿神社
兵庫県朝来市山東町粟鹿2152式内社(名神大)。但馬國一宮。旧県社。但馬五社の一つ。
御祭神:「粟鹿大明神元記(げんき)」によると阿米弥佐利命(アメノミサリノミコト)
神紋は、茗荷と菊の合せ紋。茗荷紋は、境内社・茗荷神社に由来するらしい。
但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史があるとも言われる。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)。粟鹿神社の祭主は、古代に神部(かむべ)氏が務め、その後、日下部氏(くさかべし)の祖、日下部宿禰(すくね)が務めるようになりました。そして、神部氏と日下部宿禰との接点が『粟鹿大明神元記』にある神部氏系図のなかにみえます。稗史によれば、開化天皇の第3皇子 彦坐王(ひこいますのみこ=日子坐王)の子、四道将軍のひとり谿羽(丹波)道主命(たちはみちぬしのみこと)の子孫で、但馬国造の日下部君の後裔とされます。日下部氏は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられますが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布しています。
時代は下りますが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は山名四天王のひとり養父郡八木氏から分かれた養父郡朝倉荘の出自で本姓日下部氏で、同じ一族である八木・太田垣、朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、越前朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城下に粟鹿神社を勧請しています。
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)▲ページTOPへ
由緒 当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第一〇代崇神天皇の時、第九代開化天皇の第三皇子日子坐王(ひこざおうのみこと)が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。
粟鹿神社が時代によって一宮であったり二宮になったり変化していますが、これは推測すると、奈良時代に但馬国府・国分寺が気多郡(旧日高町)に置かれるようになると、一の宮は国府に近い出石神社に朝廷が力を入れ、一宮を代えたものの、中世武家社会になると国府・国分寺の役割が衰え、日下部君の後裔 竹田城主太田垣氏等が粟鹿神社を一宮として擁護したのではないでしょうか。
現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。いずれにしても、但馬国随一の古社で、2000年以上の歴史があるとも言われている。和銅元年(708年)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した『粟鹿大明神元記』の写本が残っている(宮内庁所蔵)。朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使が遣わされたと伝えられており、約600年前には勅使門(市の文化財)が建立されている。本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王命(ひこざおうのみこと)の墳墓という伝承もある。世人はこれを御陵と呼んであがめている。また、近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。創祀年代は不詳だが、天正九年(737)の『但馬国正税帳』(正倉院文書)に
「朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把」とあり、粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教え、その鹿を祀ったのが、当社であるとされている。また、粟鹿山の荒ぶる神を祀ったとも。昔より御神徳の高い神社として朝廷の御尊崇(ごそんすう)も厚く、国家の大難に際し四度に亘り勅使(ちょくし)を派遣し、御加護を得られたことを記念して約600年前に建てられた勅使門はに指定されている。境内の各末社それぞれ由緒に富み、神域10,540坪の殆どを占める社叢林(しゃそうりん)は、実に聖域にふさわしい森厳(しんげん)そのもので、これもまた町の文化財に指定されている。
近年、豊岡自動車道建設工事の際に、付近で近畿でも最大規模の大型古墳が度々発見され、朝廷の配下に置かれた但馬王が治めていたとされるエリアに近く、但馬の交通の要所として人々の往来がさかんであったことを物語っているかのようだ。
「通りゃんせ」のお話し
粟鹿遺跡▲ページTOPへ

5.養父(やぶ)神社

JR山陰本線と旧山陰街道が並行する東側但馬國養父郡 夜夫(やぶ)坐神社 五座 式内社(名神大)二座 小三座。旧県社。但馬五社の一つ。

御祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

神紋・横木瓜

兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷

 養父は古くは夜夫とも記されています。上社・中社・下社があり大きな神社です。但馬五社の一つで参拝者が多い神社です。
子供の七五三に拝んでいただきましたが、久しぶりに訪れました。「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られています。養父神社のある養父市場は古くから但馬牛の牛市の中心地であり、現在でも近隣の大藪で但馬牛のせり市が開かれています。但馬国府や因幡路に通じる重要な旧山陰道の宿場町として栄え、今もJR山陰本線が走るそばに鎮座して列車からも見ることができます。車で朱塗りの橋をくぐり社務所まで行くことができます。崇神天皇三十年(紀元前68年)創祀と伝えられ、天平9年(737年)の『但馬税正帳』に出石神社、粟鹿神社とともにその名が見えます。御祭神倉稲魂命--------米麦養蚕牛馬の神様少彦名命--------薬草、治病の神様大巳貴命(大国主命)--国土開発統治の神様谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)国民生活安定の神様船帆足尼命-------地方政治の神様
『播磨風土記』には、天日槍(アメノヒボコ)命と伊和大神(葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)=大巳貴命(おおなむち))が、黒土の志爾嵩(藤無山)に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
アメノヒボコ命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

アメノヒボコ命の投げた黒葛が出石に落ち、ヒボコ命を祭神とする出石神社があり、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社、御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座する。
養父郡にも、大己貴命(葦原志許乎命)を祀る当社存在するということは、古くからこの地に有力な地方豪族がいて、平定後、四道将軍の少彦名命、谿羽道主命を配祀していることからがうかがえます。

また、神功皇后が半島から帰国した時、その無事をお祝いとして「葛の葉の餅」を功のある神社に賜わった。
そのため、養父神社より斎神社へ神幸があったといい、1800年前から行われているという。
あるいは、
男神と女神の、年に一度の逢瀬であるとも。
当地の最大祭礼に「お走りさん」と呼ばれる御渡祭がある。
当社から、18Km離れた南の斎神社まで
走るように御輿が引かれる神事で
昔、円山川一帯が泥海であった時、
斎神社祭神の彦狭知命が、城崎の瀬戸の山を切り開き
泥海を美田に変えた。
その神恩に報いるため、
五社明神(粟鹿・養父・出石・小田井・絹巻)の名代として礼参に赴いたもの。
大藪古墳群

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6.但馬国一の宮 出石神社(いずしじんじゃ)

 

兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
伊豆志坐神社八座座[イツシノ](並名神大)式内社 旧國幣中社 但馬國一宮【国指定重要文化財】祭神:天日槍命くわしくは「天日槍(あめのひぼこ)」をどうぞ

7.小田井縣(おだいあがた)神社

但馬國城崎郡 兵庫県豊岡市小田井町15-6
式内社 旧県社御祭神:國作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)神紋は、沢瀉(オモダカ)紋流麗な春日造本殿がある。国道312号線堀川橋の手前を降りたすぐの円山川沿いにあります。豊岡市の大社で、祭神:当地開拓の祖神・国作大己貴命(おほなむちのみこと)
御由緒

小田井縣神社は、延喜式神名帳(905年)に記されている式内神社で但馬で古くからあって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第十代崇神天皇の御代(前86年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。

弘安年中(1278年~1287年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。

元弘三年(1333年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。

天正三年(1575年)十月、垣屋筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで隣の一日市(ひといち)に火難を避けられたといわれています。天正年中(1573年~1591年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微したといわれています。

貞享年中(1684年~1687年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736年~1740年)神殿を改造しました。現今の春日造の社殿がそれであります。

明治6年(1873年)社格が定められ県社に列しました。

明治十一年(1878年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。

昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四十四年(1969年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。


社門

拝殿
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8.絹巻神社(きぬまきじんじゃ)


但馬五社明神の一つ社 紋 あげ羽蝶
鎮座地 豊岡市気比字絹巻2585-1
御祭神:天火明命(あまのほあかりのみこと)海部直命(あまのあたえのみこと)天衣織女命(あまのえおりめのみこと)
城崎大橋を渡るとすぐに在ります。境内の絹巻山は玄武岩で形成され、その眺めは絹織反物を積み上げた様子をうかがわせています。また、神社の周囲は暖地性原生林に囲まれており、全体が県天然記念物の指定を受け、「ひめはるぜみ」の棲息地として知られています。同じく物部氏ゆかりの天火明命が祀られ、対岸には韓國神社「物部韓國連命」豊岡市城崎町飯谷50-1、物部神社 「磐船長命」 豊岡市城崎町白鳥上256があります。古くは対岸の名神大海神社は当社と同じ場所に祀られていたという。
天火明命(アメノホアカリ)は、『古事記』に天火明命、『日本書紀』に火明命、天照国照彦火明命、また『先代旧事本紀』には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)と記されている。▲ページTOPへ

9.但馬の国造り伝説

円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。アメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

注目すべき点

注目するのは、粟鹿神社、養父神社、小田井神社は但馬の名神大社、但馬総社気多神社、気多神社のいずれも祭神は、当地開拓の祖神として大己貴命(くにつくりおほなむち)を祀っています。伊和神社祭神:伊和大神(いわおほかみ)も同一神とされます。出石神社以外の神社は、円山川河口を切り開き国を造ったヒボコのことは一切ふれていませんし、出石神社もかつての祭神は天日槍ではなかったという説もあるそうです。そうなったのは記紀・播磨風土記に但馬・丹後の話がやたらに書かれる崇神天皇・崇神天皇・神功皇后あたりからなのです。謎です。
西刀神社[せと](豊岡市瀬戸字岡746)も、円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じて瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝えられております。

円山川は暴れ川といわれ、とくに小田井神社当たりの円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いています。
今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。 円山川河口部は黄沼前海(きぬさきのうみ)と呼ばれていた入江湖だったので国作大己貴命(くにつくり-)と祭神名を「国を作った大己貴命」とあえて加えているのがなんとも信憑性がありそうです。

出石神社も但馬の古社で同じように祭祀年代は不詳ですが、鎌倉時代の『但馬国大田文』では栗鹿神社を二宮としていますが、室町時代の『大日本一宮記』では栗鹿神社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていません。絹巻さんは海に近く海の神様 天火明命(あまのほあかりのみこと)で元伊勢籠神社と同じですから納得できます。大己貴命同様出雲系の神です。その他の但馬の大社は自然神なのでもっと古社でしょう。大和の天皇系は出石神社の天日槍のみなのです。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点で共通している点です。

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9.式内社 水谷神社


(2008.10.12)名神大 旧村社

養父市奥米地字中島235

御祭神 不詳
祭神は不詳だが、『平成祭データ』では天照皇大神、
『式内社調査報告』には、「水谷=水垂」と考え水神とする説や
保食神とする説などが記載されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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