第3章 5.鉄ならオオナムチにおまかせ

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)は、天火明命あめのほあかりのみことから始まる。天火明命は、ここでは天照国照彦天火明命あまてるくにてるひこあめのほあかりのみことと書かれ、(田庭(丹波)を国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことから授かり田を実らせ、)、国作大巳貴命の勅により但馬に入り、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命に佐々原を開かせた。(中略)気多郡佐々前ささくま村これなり。(気多郡楽々前郷=現在の佐田・知見・篠垣・伊府・道場の稲葉川南岸)

(中略)

人皇1代神武天皇9年冬10月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を(初代)佐々前県主となす。佐久田彦命は国作大巳貴命を気立丘に斎き祀る。

これを気立神社と称す(郷社 気多神社:兵庫県豊岡市日高町上郷)。
また佐久津彦命を佐久宮に斎き祀る。(式内 佐久神社:兵庫県豊岡市日高町佐田)
御井比咩命を比遅井丘に斎き祀り(式内御井神社:兵庫県豊岡市日高町土居、古くはヒジイと読む)

ヒボコの出石神社が大己貴命の気多神社や気多郡を睨んで建てられているかのようだ。

式内 気多(氣多)神社


兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
式内社 但馬國総社[*1] 気多大明神
御祭神 「大己貴命(オオナムチノミコト)」

境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社等が祭られている。

伝承や神話は、現実離れした話しが多いですが、しかしまったくでたらめなら意味もなく何代にも渡って語り継がれたものではないでしょう。
太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命アシハラシコノオノミコト」と称させていた。

新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡にもう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。(式内御形神社 宍粟市一宮町森添)

つまり、「葦原志許男命」=オオナムチ=伊和大神とする。播磨国一宮伊和神社 主祭神大己貴神

と当社は、同じヒボコと葦原志許男命の国争いで葦原志許男命が放った矢のうち但馬に落ちた2本の矢で気多郡に落ちたその神社である。

そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(『播磨風土記』)

「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。

因みに『但馬故事記別記』(但馬郷名記抄)には、こう記されている。

気多は気多都ケタツ県なり。(故事記には気立県と書くものもある)この郡の西北に気吹戸主神の釜(神鍋山噴火口跡のことだろう)あり。常にケムリを噴く。この故に気多郡と名付け、郡名となす。今その山を名づけて「神鍋山」という。
気多神この地に鎮座す。祭神は国作大巳貴命・物部多遅麻連命(公武)・大入杵命三座。(郷社 気多神社のこと)
(現在のご祭神は 大巳貴命のみ)

大己貴命と葦原志許男命、大国主(オオクニヌシ)は同一神とされ、全国の出雲神社で祀られている。

気多神社がある上ノ郷の隣に中ノ郷がある。古くは気多郡葦田村で、『但馬故事記』に、鉄の鍛冶と関係する記載がある。

人皇神功皇后の2年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が薨ず。射楯丘(国分寺字石立)にもがりす。(式内売布神社 豊岡市日高町国分寺)

(中略)

子・多遅麻国造・物部多遅麻連公武は、
天目一筒命の末裔、葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(今の中郷)
彦狭知命の末裔、楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(今の鶴岡多田谷)
石凝姥命の末裔、伊多首を召し、鏡を作らせ、(今の鶴岡)
天櫛玉命の末裔、日置部首を召し、曲玉(マガタマ)を作らせ、
天明命六世の孫、武碗根命の末裔、石作部連を召し、石棺を作らせ、(石作部の末裔に気多軍団の隊正に石井がいる。今の石井か?)
野見宿祢命の末裔、土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(陶谷=式内須谷神社のある奈佐路)
大売布命の遺骸につけ…

(中略)

人皇16代仁徳天皇2年春3月 物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊を気多神社に合祀す。

すでに述べたように、葦田は葦が生い茂り、そこからは褐鉄鉱が生み出されるから、製鉄、鍛冶作りの邑であったことが記されている。矛・楯を作る楯縫首の村とは、多田谷でタタノヤ=タタラの屋か谷であろう。ここも製鉄が行われていたことを思わせる。(朝来市にも多々良木がある)

第4章 3.ヒボコの時代の半島南部は倭人のクニ

1~2世紀の朝鮮  『古朝鮮』NHKブックスより「韓国人は何処から来たか」長浜浩明

『日本人ルーツの謎を解く』長浜弘明氏によると、
例えば司馬遼太郎は、『街道を行く1』(週刊朝日 1971)で次なる文言を連ねていたが、そこには腐臭が漂っていた。

「日本民族はどこからきたのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば日本人の血液の中の有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」
「日本人の血液の6割以上は朝鮮半島を伝ってきたのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、我々日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは、否定すべくもない」
(中略)
それでも20年余りの間に多くの発見がなされ、考古学、人類学、生物学、DNAから言語学まで新たな発見が積み上がっていった。
先の司馬遼太郎の言い様は、次のように言い換えなければならない。

「韓国人は何処から来たのでしょうね」
「我々には可視的な過去がある。それは遺跡によって見ることができる。となれば韓国人の血液の中の有力な部分が、玄界灘を北上し、日本から大量に流入した縄文時代の人たちに依ることは紛れもないことである」
「韓国人の血液の6割以上は玄界灘を北上して行ったのではないか」
「9割、いやそれ以上かもしれない」
「ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で、韓国人の先祖の大多数は日本から流れ込んできたことは、否定すべくもない」

旧石器時代、朝鮮半島はほぼ無人地帯だった

『韓国人は何処から来たか』長浜弘明氏によると、
先史時代、人が住んでいたことは遺跡で知ることができます。では半島の旧石器遺跡はどの程度発見されているのでしょう。
古代研究家・伊藤俊幸氏は、韓国人の祖先は遠い昔に北方から半島へたどり着き、sこから海を渡って日本へやってきたと信じていました。(中略)
しかし、韓国の前国立博物館館長、韓炳三が示す図は衝撃的である。
朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は北朝鮮・韓国で50ヶ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000から5,000ヶ所に上るのにである。(中略)
今、日本からは1万とも言える旧石器遺跡が発見されており、対する朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無きに等しかったのです。
相対的に見ると日本は人口が多く、半島はほぼ無人地帯だったのです。

韓国の歴史は4,000年に満たなかった

伊藤俊幸氏は「次の表は衝撃的である。BC1万年から5千年の間、遺跡が、すなわち人の気配が半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは7千年前からである。
(中略)
日韓の専門家の他に、韓国の国家機関や博物館が総力を結集して作成した『韓国の歴史』(河出書房新社)に次の一文がある。
「旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の祖先ではなく、直接の祖先は約4千年前の新石器時代人からである。そう推定されている」
(中略)
では7千年前、即ち前5千年頃やって来て、3千年以上の長きに渡り、韓半島の主人公だった人々は何処からやってきたのか。
その後、約4千年前、即ち前2千年頃やって来て、韓国人の直接の祖先につながる人々はどこからやって来たのか。

まず、数少ない貴重な史料である『但馬故事記』第五巻・出石郡故事記に登場する天日槍命が出石で帰化したのは、人皇6代孝安天皇の五十三年(推定年代:長浜浩明氏の算定で孝安天皇在位期間は西暦60-110年)と記されている。

孝安天皇は、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない「欠史八代」の第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のひとりではあるが、倭国の後継国である「大和・日本」で720年に成立した『日本書紀』では、新羅シラギ加羅カラ任那みまなが併記される。中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。加羅と任那といっても入り組んでいて、その頃の国は、高句麗・百済・新羅・加羅・任那が流動的に動いており、とくに加羅・任那には三韓の地域の一つである弁韓を母体とする。

その時代の半島南部を知っておきたい。3世紀ごろ、半島南東部の辰韓は12カ国に分かれていた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

最初に「 日本府」の呼称を使ったのは新羅王

『知っていますか、任那日本府-韓国がけっして教えない歴史』大平 裕は

「日本府( 倭府)」 という機関名が初めて出てくるのは、『 日本書紀』 の 雄略天皇八( 四六四)年のことです。 そして注目されるべき は、 この機関名を言葉にしたのが 新羅 王( 慈悲麻立 干、 在位四五八 ~ 四 七 九)だったことです。 新羅王は、 新羅が高句麗の来襲を受け、国は累卵 の危機にあると、使を任那王に出し、「 日本府の軍将ら」の救援を願い出たのでした。 記録に残るかぎり、「日本府」という名称を使ったのは日本( 倭)人ではなく、 新羅王だったのです。

三韓

1世紀から5世紀にかけて朝鮮半島南部は、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる地域を西から馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
天日槍命が記紀に登場する年代は、年号の解釈には諸説あり断定的なことはいえないが、孝安天皇の在位期間をおおよそ西暦60~110年とすると、建武20年(44年)が「韓」の初出とされ、馬韓の初出は建光元年(121年)であり、辰韓・弁韓も同時期に分かれたとすれば、辰韓は三韓以前の韓とよんでいた地域となる。1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部には種族とその地域があった。朝鮮半島南部に居住していた種族を「韓」と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる西から「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の3つの地域に分かれていったことから「三韓」といった。

したがって、記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条(244年)において天日槍(ヒボコ)が渡来した頃に、半島北部は高句麗であり、朝鮮半島南部には国と呼べる地域に国家は成立していない。『日本書紀』が完成された養老4年(720年)には新羅・百済という国家といえるが、三世紀中頃は、新羅の前身の辰韓、加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、半島南部の海岸部は、縄文時代から北部九州から対馬・朝鮮半島最南部は、倭人が移り住んでいた倭国(任那)で、半島南部は、同じ倭国の勢力範囲だったことをまず念頭に入れなければならない。土器・稲作などの文化は半島から日本に伝わったのではなく、韓はもとの字は空(から)ともいわれ、未開の空白地域であり、九州北部から半島南部へ伝わっていったのがわかってきた。そして村々が生まれていった。倭人・倭種・半島土着民の混合であった。

『三国志』東夷伝による諸民族の住居地域 『古朝鮮』NHKブックス 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

 

この頃の半島中南部は、伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

また、任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。

任那(みまな)

3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。4世紀初めに中国の支配が弱まると、馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。

任那加羅の名が最初に現れるのは、414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
「百済と新羅は高句麗の属民だった。故に朝貢していた。ところがその後、日本が辛卯かのとうに海を渡り来て、百済、□□、新羅を討ち破り、日本の臣民にしてしまった。」

辛卯とは391年と信じられており、応神天皇の御代と重なる。応神七年、「高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝し、彼らを使って池を作らせた」とあるから、□□とは任那に違いない。この頃から、百済、任那、新羅は日本の臣民、即ち分国の民となっていたことを、高句麗は忌々しげに刻んでいたのだ。

新羅・百済は倭(日本)の臣民だった

『日本書紀』は、この時代、新羅や百済は大和朝廷に朝貢し、三国志が「倭人の地」とした半島南部の任那は「日本の分国だ」と記述している。この時代、百済や加羅(任那)を臣民としていたことがあらためて確認された。

『三国遺事』(1275年)によれば、駕洛カラ国が西暦42年から10代532年まで存在していたことになっているが、『三国史記』新羅本紀(1145年)には金官国(金仇亥)の記録しかなく、また『南斉書』加羅国伝には、建元元(477)年に、国王荷知が、遣使、朝貢を果たしたことしか遺されていない。王統が一時断絶したり、倭国人系の王がとってかわって統治したり、有力国の王家が登場したのかもしれない。

加羅カラ(大伽耶カヤ・伽耶・伽那)

『知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史』大平 裕氏によると、慶尚北道高霊コリョン郡に比定される。ただし、『日本書紀』に出てくる加羅は、加羅連合体、あるいは金海加羅を指す場合もある。

南加羅(金海伽耶・金官伽耶)

慶尚南道金海キメ・きんかい市に比定される。『三国史記』地理志に「金海小京、金官国(一云、伝伽落国、一云、伽耶)」とある。(中略)安羅伽耶は咸安ハマンに、古寧伽耶は咸寧ハムニョンに、星山伽耶は星州ソンジュに、小伽耶は固城コジョンに大伽耶は高霊コリョンにそれぞれ都を定めたという。

安羅アラ・やすら(阿羅・安邪)

慶尚南道咸安ハマン郡に比定される。

高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶オオカヤ安羅アラ多羅タラなど(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。新羅という国号と国は誕生したのは、繰り返しになるが、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で、新羅建国と合わないのだが、『記紀』が編纂されたのは、白村江の戦い(天智2年8月・663年10月)朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争から間もない。

 

新羅(シンラ・しらぎ)

国と言えるような百済・新羅が誕生するのは6世紀以降で、この頃の半島中南部は、弁韓地域の伽耶かやまたは伽耶諸国かやしょこくであり、弥生時代の村が発展したクニのような規模で国家とはいえない。3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

まず、新羅(しらぎ/しんら)の誕生期を留めておきたい。したがって、記紀が記された頃には、新羅が成立していたのであるが、新羅という国号と国は誕生したのは、天日槍が渡来した時代よりずっと晩年で新羅建国と合わないのだ。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆シロ国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王なもつおう以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

新羅は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家だが、そもそも新羅国が誕生したのは、紀元356年- 935年とされる。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となったもので、6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。

3世紀後半から4世紀の朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していた。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用したが、402年までは鶏林の国号が使用された。

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

4世紀末の半島と高句麗軍南下に対する日本軍の反撃想定路(『日本史年表・地図』吉川廣文館
『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

 

『梁書』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬」

(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)

という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

*1 日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。(ウィキペディア)

韓国の前方後円墳
『韓国の前方後円墳』森浩一 『韓国人は何処から来たか』長浜弘明

全羅南・北道に散在する日本古来の前方後円墳14基や韓国西海岸辺山ピョンサン半島の突端にある竹幕洞チョンマクドン祭祀跡から、日本との関係を示す埋葬品は、4世紀後半から6世紀にかけての鉄製武器、金銅製馬具、銅鏡、中国製陶器などの出土品、特に注目される石製模造品は、福岡県沖ノ島祭祀遺跡の出土のものと酷似していて、それらは倭国からもたらされたものと考えられている。
(中略)

 

 

 

百済、新羅は、馬韓54ヵ国、辰韓12ヵ国といった小国群をまとめながら、ようやくそれぞれ346、356年頃、一つの国として東洋史に登場する。それほど古い国ではない。一方倭国は、百済・新羅にはるか先行し、『魏志倭人伝』の記述があるように、西暦200~240年当時には慶尚南道(朝鮮半島南東地域)沿岸部を「倭地」として管理している。この地域のすぐ北方ないし周辺地の狗邪(伽耶・加羅)韓国を傘下に、鉄資源の確保から、楽浪郡・帯方郡その他の地と交易をさかんに行っていたのである。
(中略)

 

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克実著によると、

「列島か流れてきた賢者が新羅の王になる」話しについても、戦後日本の朝鮮史学者たちは「そんな説話は嘘に決まっている」として、『三国史記』の前半部分を“古史書の墓場”に深く埋葬している。しかし“歴史の事実”であるかどうかはさておき、「ただの古史書ではなく、一国の正史が現にそう書いている」という“記載の事実”は、どこまでも重い。

(中略)

『三国史記』が出来上がったのは12世紀、高麗王朝の時代だ。『三国史記』そのものが、“高麗とは山賊が打ち立てた国家”ではなく、「伝統ある新羅から禅譲を受けた国・王朝」であると明示するとともに、「新羅王朝の血脈が高麗の王朝にも流れ込んでいる」と主張することを目的にした正史といえる。

そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人・倭種がつくった」という“危うい話”を正史に記載することに、どんなメリットがあったのか。(中略)『三国史記』の成立過程、その記載内容を慎重に検討していくと、上記の話が決して捏造ではないこと、年代については疑問があるにしても、事実の確実な反映であることが見えてくる。考古学の新しい成果や、DNA分析を駆使した植物伝播学の研究も、それを後押ししてくれる。

第2章 1.記録に残された天日槍の足取り

この章では、ヒボコが辿った足取りを、

(史書の)アメノヒボコに関連する記事は、八世紀の初めに編纂された『古事記』および『日本書紀』(以下『記』『紀』、合わせて『記紀』)に記録されたものが、現在伝えられる最古のものである。

『記』が少し早くて和銅五年(712)、『紀』がその八年後の養老四年(720)、ほとんど同じ頃の成立だ。じつは『記紀』は共にそれまで各氏族に伝わっていた「帝紀」(天皇や皇后、皇子女の系譜)・「旧辞」(昔物語)を元にして、それを天皇家および国の歴史にふさわしく編集し直したものだったから、最古といわれるけれど厳密には誤りである。原典は、六世紀の前半、継体・欽明天皇の頃には最初に文章化されていたと推定されている。(中略)

それにヒボコの渡来伝承は、さらにいくつかの神話をベースにして成立したものであり、その起源をたどっていくと海を渡り、朝鮮半島を北上し、やがて大陸へとつながっていく。

(中略)

日本史は朝鮮半島や中国に起源があるものだという歴史学者の思い込みがあるが、この書が発売された平成9年(1997)、まだ20年前でさえ、そういう固定概念が大勢を占めていたのだから、仕方がない。

以降の解釈は、編者の想像を含んでおり、またこの他にヒボコについて記録された『播磨国風土記』にあるヒボコと伊和大神の土地争いについては第3章にゆずる。

 

1.記紀に記された天日槍の足取り

『古事記』

応神天皇記 [現代語訳]

今よりもっともっと昔、新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女がひとり昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事をうかがっていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかととがめられたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛がおごって女をののいると、とうとうたまりかねて、

「私はもう親たちの国へ帰ります。」と言って、天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。この七代目の孫にあたる高額媛という方がお生みになられたのが息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)です。

また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

  • 珠 2貫
  • 浪振る比礼(なみふるひれ)
  • 浪切る比礼(なみきるひれ)
  • 風振る比礼(かぜふるひれ)
  • 風切る比礼(かぜきるひれ)
  • 奥津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。

 

『日本書紀』

『日本書紀』垂仁紀3年条(二十六)

昔有一人 乘艇而泊于年但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻拖能烏 生 但馬諸助 是清彥之祖父也

[現代語訳] 昔、一人がいました。おふねに乗って但馬国に泊まりました。それで(但馬国の人がその船に乗っている人に)問いました。
「お前はどこの国の人だ?」
答えていいました。
「新羅の王こしきの子で、名を天日槍といいます」
但馬に留まって、その国の前津耳まえつみみ、ある伝によると前津見まえつみ、ある伝によると太耳ふとみみの、娘の麻拕能烏またのおを娶めとって但馬諸助たじまのもろすく(但馬故事記は天諸杉命)を生みました。これが清彦すがひこ(5代多遅麻国造) の祖父です。

『日本書紀』では、垂仁天皇3年(BC27年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが、羽太はふとの玉を一つ、足高あしたかの玉を一つ、鵜鹿鹿うかか赤石あかいしの玉を一つ、出石の小刀を一つ、出石のほこを一つ、日鏡ひかがみを一つ、熊の神籬ひもろぎ[*1]を一揃え謁見してきた。(八種神宝)

それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、三輪君みわのきみ[*3]の祖先にあたる大友主おおともぬし[*4]と、倭直やまとのあたい[*5]の祖先にあたる長尾市ながおち[*6]を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古ちこに譲ってやって来ました。」

天皇は、初めは、播磨はりま宍粟邑しそうむら[*7]と淡路あわじ出浅邑いでさのむら[*8]を与えようとしたが、「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡さかのぼり、北に入り、近江国の吾名邑あなむら、若狭国を経て但馬国に住処すみかを定めた。近江国の鏡邑かがみむらの谷の陶人すえびとは、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋いずしま[*9]の人、太耳の娘で麻多烏またおを娶り、但馬諸助もろすくをもうけた。諸助は但馬日楢杵ひならきを生んだ。日楢杵は清彦すがひこを生んだ。また清彦は田道間守たじまもりを生んだという。

『日本書紀』によると、ヒボコはひとりの童女阿加流比売アカルビメ神を追って日本にやってくるのであるが、その童女はヒボコに「私は親の国に帰る」と叫ぶのだ。

『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、アカルビメは、新羅王の子であるヒボコ(アメノヒボコ)の妻となっている。この話は『日本書紀』のツヌガアラシト来日説話とそっくりなのである。

[註]
*1…神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2…八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 三輪君(みわのきみ)…初めは姓(カバネ)の三輪君だったが、大神氏と名乗る。大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあった。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。
*4 大友主(おおともぬし)…「日本書紀」にみえる豪族のひとつ。三輪(みわ)氏の祖。
*5 倭直(やまとのあたい)…椎根津彦を祖とする。のち倭氏
*6 長尾市(ながおち)…市磯長尾市(いちしのながおち)。大倭直の祖。名称の「市磯」は、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)とされる。出石神社代々の神官家は長尾家。
*7 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*8 出浅邑 (いでさのむら)…「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*9 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石町の今の伊豆・嶋。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。または、出石の古名である御出石(ミズシ・水石とも書いた)をさすのかも知れない。

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巻末 参考にした本

『国司文書 但馬故事記』吾郷清彦
☆☆☆☆☆

但馬の歴史・神社研究に稀有まれな書です。桜井勉が『校補但馬考』ででためな記述が多いと酷評しているので、そうなのかと信じるのがこれまでの流れで、あまり注目されませんが、桜井勉は天気予報の考案者であり県知事等を歴任し、退官後郷里出石に戻り、祖父の「但馬考」を再度手を加えたのが『校補但馬考』です。当時としてはあらゆる資料を研究し、校補修正をおこないました。しかし、出石藩おかかえの歴史学者家系なのか、出石の歴史を汚すことは認められないという、むしろ桜井の方に私的な偏見がどこかにあるように思います。歴史家として客観的に考え、明治という時代だから仕方なかったような気もしますが、郷土愛なのか、出石を美化し思い込みが多いのは、むしろ校補但馬考の方なのではないかと思います。

校補但馬考は、国会図書館デジタルライブラリーでも読むことができます。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765808

但馬文教府、豊岡市立図書館にあります。

アメノヒボコ、謎の真相 関裕二
☆☆☆

『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著 神戸新聞総合出版センター
1997.7.10
☆☆

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! 長浜浩明
☆☆☆☆☆

日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった! 長浜 浩明 2010/6
☆☆☆☆☆

知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史 大平 裕
☆☆☆

韓国人は何処から来たか 長浜浩明
☆☆☆☆☆

日韓がタブーにする半島の歴史 室谷 克実
☆☆☆☆


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第2章 2.『但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

2. 『国司文書 但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

『国司文書 但馬故事記』は、天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。
ことに、神功皇后すなわち息長帯姫命おきながたらしひめのみことの母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

-「『国司文書 但馬故事記』訳注」吾郷清彦-

『記紀』はくわしく記していないが、『国司文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)』はこれをくわしく記している。現代語にしてみた。

第6代孝安天皇の53年(前340年)*1 新羅の王子 アメノヒボコが帰化した。

ヒボコは、ウガヤフクアエズ(鵜葺草葺不合命)の御子・イナイ(稲飯命)の五世孫なり。

ウガヤフクアエズは、海神・豊玉命の娘・タマヨリヒメ(玉依姫命)を妻にし、イツセ(五瀬命)・イナイ(稲飯命)・トヨミケ(豊御食沼命)・サノ(狭野命)を生みました。

父君のウガヤフクアエズが崩御された後、世嗣よつぎのサノ(狭野命)は、兄たちとともに話し合い、皇都を中州なかつくに*1に遷したいと願い、船師*2を率いて、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津くさかづ(東大阪市日下)に泊まりました。

まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見ヤマトノクニノトミ(奈良市)の酋長、ナガスネヒコ(長髄彦)は、天津神の子、ニギハヤヒ(饒速日命)を奉じて、兵を起こし、皇軍を穴舎衛坂クサカエザカ(東大阪市日下)にて迎え討ちました。

しかし、皇軍に利はありませんでした。サノ(狭野命)の兄、イツセ(五瀬命)に流れ矢があたり亡くなってしまいました。サノは、兄たちとともに、退いて海路をとることにしました。

まさに紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢ってしまいました。イナイ、トヨミケは、小船に乗りながら漂流し、イナイは、シラギ(新羅)*3に上り、国王となり、その国に留まりました。トヨミケは、海に身を投げて亡くなられてしまいました。

世嗣のサノは、ついに熊野に上陸し、イツセを熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を誅し*4、ついでナガスネヒコを征伐しました。

ニギハヤヒの子、ウマシマジ(宇摩志麻遅命)は、父にすすめてナガスネヒコを斬り、出(い)でて地上に降りられました。中州はことごとく平和になりました。

世嗣のサノは、辛酉(かのととり)の年*5、春正月元日、大和橿原宮に即位し、天下を治め給う。これを神武天皇と称します。

(中略)

ヒボコは、八種の神宝を携え、御船に乗り、秋津州(あきつしま・本州の古名)に来ました。筑紫(九州北部)より穴門(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間国(播磨)に至り、宍粟邑(しそう・今の宍粟市一宮町)に泊まりました。人々は、この事を孝安天皇にお知らせしました。

天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国(播磨)に遣わし、来日した理由を問うようにいわれました。

ヒボコは、謹んで二人に向かって話しました。

「わたしは、新羅王の子です。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世に及びます。
ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと欲して、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一畝(ひとつのうね)の田を賜り、御国の民とならせてください。」と。

二人はかえり、この事を天皇に奉じました。天皇は勅(天皇の命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与えました。
天日槍は、再び奏していました。

「もし、天皇の恩をたまわれれば、家来らが諸国を視察し、者たちの意にかなうところを選ばせてください。」と。

天皇はそれを許可しました。ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まりました。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま*6に止まり、住処(居所)を定めました。

ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作ります。

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜りました。(但馬を与えた)

61年春2月、ヒボコを多遅摩国造としました。

ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生みました。

 

[註]

*1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに)
 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。
 *2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。

*3 新羅 稲飯命の頃に、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人や弥生人の倭人が住んでいた。三韓(馬韓・弁韓・辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓と辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢国高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。)


*4  誅 目上の者が目下の者の罪をとがめ殺すこと。
*5 辛酉(かのととり)の日 西暦年を60で割って干支の組み合わせの58番目
*6 出島 今の出石町伊豆・嶋のことではないかと思っている。

つまり、『国司文書 但馬故事記』によると、稲飯命は古代日本の天皇家の皇統とある。これは日本書紀の引用であろうが、天日槍命は人皇初代神武天皇の兄、稲飯命の五世孫で、稲飯命は倭国のひとつである新羅王になったのだから、当時の半島南部は、任那・伽倻で倭国の一部で朝貢国であったろう。その一国から新羅が生まれ、記紀編纂の頃には百済・新羅という国は成立していたが、垂仁天皇3年の頃は新羅という国も半島南部に国家らしきものは全くなく、小さな(クニ)であった。紀は説明がわざと省いたのか「新羅国の王子」のまえに、「今で言う新羅国のあたりの王子」が省かれている。いや友好的な百済国ならまだしも、敵対国で名を記すのも憚れる新羅の王子としたのは、ある意図があったのかも知れないのである。

『但馬故事記』八巻の中で、円山川水系の朝来郡・養父郡・気多郡・城崎郡の各故事記が天火明命あめのほあかりのみことで始まるのに、二方郡のみ書き出しが、大己貴命が出雲国から伯耆・稲葉(因幡)・二方国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開いで始まり、出石郡は、大己貴命と稲葉(因幡)の八上姫の間に御出石櫛甕玉命みずしのくしかめたまのみことが生まれる。御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘・天香山刀売命あめのかぐやまとめのみことを娶り、天国知彦命を生み、天国知彦命が初代の御出石県主みずしのあがたぬしとなる。

ところが、突如脈略もなく、天日槍が出石に現れて、御出石県は伊豆志(出石)となり、出石は一県から但馬の政治の要となり今の出石神社あたりへ遷っている。

記述が異なるのは、天火明命が但馬に入る以前より、出雲勢力の御出石県・二方県があって、人皇6代孝安天皇53年、突如天日槍が登場し、初代多遅麻国造なる。御出石県主・天太耳命の娘・麻多鳥命を娶り、天日槍の子天諸杉命あめのもろすくのみことを以って、2代多遅摩国造と為す。政略結婚によって皇統の国造が気多郡に多遅麻国の府が遷るまで歴代続く。朝廷側に組み入れられたと考えなくもない。これは丹波から但馬が分国し、直轄領(天領)的に、大和政権化に組み入れられたのかも知れないが、日本海の最前線として但馬の重要性が増したのではないだろうか。

丹波と大和朝廷の関係が深くなるのは、天日槍が初代多遅麻国造になる6代孝安天皇(長浜浩明氏の算定で在位期間:西暦60-110年)これより3代のちの人皇9代開化天皇(同じ算定では178-207年)からで約100年後となる。

皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 元は孝元天皇の妃。
一番目の妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘。
二番目の妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命)姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹との第三皇子が彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)

人皇11代垂仁天皇(在位:290-242)が、皇后に彦坐王の女:狭穂姫命(垂仁天皇5年に焼死したとされる)
後の皇后に彦坐王の子・丹波道主王の女・日葉酢媛命
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
(他に、3人の妃が他の国から来ている)


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