開国と不平等条約 学校で教えてくれなかった近現代史(11)

ペリー来航

約200年にわたり平和と安定を楽しんでいた鎖国下の日本の門を叩いたのは、アメリカでした。1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入口に近い浦賀(神奈川県)の沖合に姿を現しました。軍艦には計100門近くの大砲が積まれていました。率いるのはアメリカ海軍提督ペリーで、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えていました。4隻の巨大な黒船はいきなり太平洋航路から来航したのではありませんでした。

1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー(Matthew Calbraith Perry)司令長官兼遣日大使を乗せた巡洋艦「ミシシッピー」を旗艦とする東インド艦隊は、一路アジアへと向かいました。ペリーはタカ派のフィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていました。艦隊は大西洋を渡って、インド洋、マラッカ海峡からシンガポール、マカオ、香港を経て、上海に5月4日に到着しました。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止しましたが、航海途上のペリーには届いていなかったのです。

上海で巡洋艦「サスケハナ」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊しました。最初はペリーの謁見を拒否しましたが、王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城しました。しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していました。王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用されました。

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言しましたが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになりました。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになります。

ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航しました。1853年6月3日(7月8日)に江戸湾浦賀に来航しました。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていました。その様子から、日本人は「黒船」と呼びました。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」(両船は蒸気外輪)、「サラトガ」、「プリマス」両船は帆船)の巡洋艦四隻は、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となりましたが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようです。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれています。

嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。

ペリー来航

ペリーが去ったあと、老中阿部正弘は、半年後にやってくるペリーへの解答に頭を悩ませていました。最も単純なやり方は、要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷を行うことでした。しかし、軍事力の乏しい幕府では実際に攘夷を行うことは不可能でした。

阿部正弘は幕府だけで方針を決めるよりも、すべての大名の意見を聞いて国論を統一しようと考えました。外交について外様大名はまったく発言の機会を許されていなかったので、これは画期的なことでした。しかし、大名の意見の中にも名案はありませんでしたが、これによって、国の重要な政策は、幕府の考えだけでなく多くの意見を聞いて合議で決めるべきものだとの考え方が広がり、幕府の権威はかえって低下していきました。

日米和親条約

嘉永7(1854)年1月、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、この条約の締結によって日本は下田箱館(現在の函館)を開港し、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれました。この条約は、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つです。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられます。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙いましたが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まったのです。

安政五カ国条約

日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していましたが、日本側は消極的態度に終始しハリスの強硬な主張で、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲得して世論を納得させた上で通商条約を締結することを企図しますが、勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれました。しかし、ハリスはアロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得しました。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切りました。

安政5年6月19日(1858年)、日本とアメリカの間で日米通商条約が結ばれました。この諸条約は、勅許の無いままに大老の井伊直弼によって調印されたために仮条約となされて、安政の大獄・桜田門外の変(井伊大老暗殺) といった国内政争を引き起こしました。1865年になってようやく勅許されました。

条約の内容

・神奈川(1859年7月4日)・長崎(1859年7月4日)・箱館(函館)(元から)・新潟(1860年1月1日)・兵庫(1863年1月1日)の開港。(下田の閉鎖(1860年1月4日))
・領事裁判権をアメリカに認める。
江戸(1862年1月1日)・大阪(1863年1月1日)の開市
・自由貿易。
・関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率。関税自主権がない状態)。
・内外貨幣の同種同量による通用。
・アメリカへの片務的最恵国待遇
江戸幕府は列強の外交圧力によって順次、日米修好通商条約調印後に同様の条約をイギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と結びました(安政五カ国条約)。

ただし、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜、兵庫ではなく神戸でした。このことは条約を結んだ各国から批判もされましたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化しました。幕府は、神奈川は江戸時代から東海道の宿場町として栄えてきた都市であり、ここを開港場として外国人の活動の場とすることを避けて隣接する横浜村を指定しました。当時の横浜村は小さな漁村であり、ここに外国人の居留地を建設しても問題はないと考えたのです。兵庫ではなく神戸村を指定したのもしかりです。

条約港の設定

安政条約で重要なポイントは、
1.自由貿易が開始されたこと
2.締結された条約がいわゆる不平等条約(領事裁判権の容認、協定関税、片務的最恵国待遇)であったこと

の二点です。

列強という言葉は英語でグレート・パワーズといい、強力な海軍力と豊富な商船隊により、世界のどこにでも自国の力だけで進出する力を持つ国、というかなり具体的な実態を持つ言葉でした。海を制する国家が列強だったのです。当時、列強の名に値する国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアなどです。すなわち安政の五ヶ国条約の締結国です。

イギリスの初代駐日総領事(のち特命全権公使)オールコックは、
「我々の常に増大する欲求や生産能力に応じるために、我々は絶えず次々に新しい市場をさがし求める。そして、この市場は主として極東にあるように思われる。我々の第一歩は、条約によってかれらの提供する市場に近づくことである。(中略)我々は唯一の効果的な手段を携える。それは圧力である。そして、必要な貿易の便宣や一切の権利を与えるという趣旨の文書を得る。残るはわずかにあと一歩である。それは条約を実施し、実行ある条約にしなければならないということだ。」-『大君の都』オールコック

自由貿易と不平等条約

第一に、不平等条約は、異なる文明が共存するためのシステムであった、ということです。

条約とは、そこに国家間の取り決めを結び条約を履行するだけの力を持った主権を有する国家が存在するということが前提になっています。欧米とは異なるものの法制度が存在しているので、欧米人といえどもそれを守らなければならないのです。一般に誤解されている領事裁判権というのは、アジアの法律に欧米人が従わなくても良い、という制度ではありません。

しかし、アジアの国家はヨーロッパ的な意味での近代国家ではなかったため、ヨーロッパでは保障される人権や、財産権などが守れない危険性があります。そこで、自国民の人権や財産権が侵害される恐れがある場合(被害になる場合)には、ヨーロッパの法律で裁判し、法律の体系が異なることから生ずる不利益を回避しようとする制度が、領事裁判制度です。領事裁判権は、異なる法制度の間に生ずる軋轢を改称するための緩衝処置として考え出されたものでした。

第二は、条約が東アジアの植民地化への防波堤になっていた、という点です。

たとえヨーロッパ的な意味での近代国家でなくとも、近代国際法の上では、主権国家として認められた場合、その国を勝手に併合したり植民地とすることは簡単にはできません。植民地化することができるのは、そこに主権を有する国家が存在せず(無主の地)、最初にそこを併合すると主張し(先占の権)、その国がその土地を実質的に支配していると各国が認めた場合である、というルールがありました。条約を締結したということは、そこに主権国家が存在することを列強が認めたということになるので、簡単には植民地化することはできない、ということになります。  十九世紀末において、アジア・アフリカ地域において独立を保ったのは、東南アジアのタイ、アフリカのエチオピア、リベリアなどですが、東アジアは、日本、中国、韓国が独立を保持し、広大な植民地化を阻んでいました。その理由は、自由貿易と不平等条約のシステムにあったということができるでしょう。

しかし、事実の上で植民地化の危機がなかったということと、アジア側が危機を認識していた、という問題は別のことです。アジア側から見ると、条約締結の過程において示された欧米の軍事力に象徴される「西洋の衝撃」は、植民地化の危機の意識として定着し、のちにヨーロッパに対抗していくナショナリズムの原動力になっていきます。

万国公法

19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、国際法学者であるヘンリー・ホイートンの代表的な著作である国際法解説書の翻訳名。東アジア各国に本格的に国際法を紹介した最初の書物で多大な影響を与えました。

前近代の東アジア世界の国際秩序、すなわち総体として華夷秩序に取って代わって、欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する「条約体制」と呼ぶ国際秩序を東アジアにもたらした。しかし欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともあります。

近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としていますが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていました。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としていますが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つに分類されます。

まず欧米を「文明国」、オスマントルコや中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられます。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定されます。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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ペリー来航と開港 学校で教えてくれなかった近現代史(10)

日本では江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩などの攘夷派を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになります。日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を持つこととなります。

こうして、東アジア(朝鮮・日本を含む中国の周囲の諸国)では近代の開国前後、万国公法という概念との葛藤を経験することになります。 長きに渡り鎖国政策をとってきた日本において、ペリーの来航(1853年にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件)によって、日本史上だけでなく世界史的にもきわめて重要な転機となりました。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令によって、新政府樹立。日本では一般に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいます。

日本は開国するとすぐに欧米諸国の実情視察と西洋の政治、法律、軍事、科学などの学問を学ぶため、代表団(岩倉使節団)と学生たちを派遣すると共に欧米列強に侵略されない国づくりの指針を定め、富国強兵、近代産業の興業、思想改革(封建制・身分制の撤廃などを推し進めました。同時にウラジオストックを拠点に北樺太・北千島、中国東北部に勢力を広げてきたロシア([南下政策])を自国の安全保障上、直接の脅威になると捉え、日本本土への南部の玄関口にあたり、清国の強い影響力にあった朝鮮半島([李氏朝鮮])の自主を回復させ、日朝の強い協力関係を構築し安全を確保しようと画策しました。

アメリカ合衆国

アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて1776年に独立しました。当時珍しい民主主義国家ですが、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を割譲、または買収して、自国の領土を西へと拡大しました。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになりました。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、1867年には、アラスカをロシアから買収し、1898年にはハワイ王国の併合し、スペインとの米西戦争に勝利してスペインの統治下にあったグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定しました。もっとも、キューバはすぐに独立させましたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においていました。

アメリカは建国の成り立ちからして、他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多いこともあり、植民地を直接経営するよりも独立した国家を間接的に支配することを好みました。例として、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置きました。これは直接には植民地としていませんが、「経済植民地」とでもいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返しました。この体制は、中米や中東において現在も変わっていません。また、フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカの支配下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島も北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にあります。

なお、中米にはプエルトリコが、アメリカ自治領として存続しています。プエルトリコも北マリアナ諸島も、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの治下にとどまっているのです。

1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守りましたが、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦しました。

イギリス・アメリカの接近

19世紀にはいると、イギリスとアメリカの船も、しばしば日本近海に出没するようになりました。1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時対立していたオランダの長崎商館の引き渡しを求め、オランダ人2人を捕らえるなどの乱暴をはたらきました(フェートン号事件

一方、北太平洋では、アメリカの捕鯨船の活動が盛んになり、日本の太平洋岸に接近して水や燃料を求めるようになりました。幕府は海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年、異国船打払令を出しました。1837(天保8)年、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民を届けに来たアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払う事件が起きました(モリソン号事件)。

これに対して蘭学者の渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知って、幕府の処置を批判しました。しかし、幕府は彼らを厳しく処罰しました(蕃社の獄)。

ロシアの接近

18世紀の末頃から、日本の周囲にも欧米諸国の船が出没するようになりました。とくにロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始しましたが、その勢力は17世紀末にはカムチャッカ半島まで達しました。ロシアは、極寒のシベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を日本に求めようと考えました。そこで、1792(寛政4)年、最初の使節ラックスマンを日本に派遣し、日本人漂流民を送り届け幕府に通称を求めました。

鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので、ロシアに対する恐怖感が高まりました。幕府は松前藩の領地である東蝦夷を直轄地にしてロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太も含む蝦夷地の大がかりな実地調査を命じました。そして間宮林蔵は樺太が島であることを発見しました。樺太と大陸を隔てる海峡は間宮海峡と名づけられました。

出典: 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
『日本人の歴史教科書』自由社
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大航海時代の開幕 学校で教えてくれなかった近現代史(1)

社会科が唯一得意だった私でさえも、まったく明治以降はほとんど記憶がありません。
戦後、中学・高校の授業で日本近現代史は、三学期のためか、教員の恣意的なものなのかわかりませんが、ほとんど軽く扱われてしまいます。また、歴史の教科書が、年号と偉人の暗記で終わる面白くない授業だったことも原因でしょう。

ようやく、新しい歴史教科書を採択する学校があらわれてきたことは大変良いことです。歴史が面白くなったのは社会人になってからでした。なぜ歴史はそうなったのか、なぜこの歴史的遺物が造られたかを知ることが面白いからです。一方的な見方では歴史は正しいことが分かりません。戦争でも両者の言い分があります。

日本人が海外に行って自国の歴史を堂々と語れる人間がはたしてどのくらいいるでしょうか。歴史を失うことは国家滅亡を意味するといわれます。

大航海時代と世界経済

近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。

問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。

とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。

大航海時代の開幕

ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。

帝国を求めて

近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494~1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。

第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519~6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515~47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。

第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。

ポルトガルとスペイン

覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。

新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。

第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でした。

15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。

一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。

しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。

ロシア帝国

ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。

1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。
続く→学校社会科の歴史教育(2)

出典: 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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日本人の歴史教科書
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世界では軍人は最も尊敬されている

産経
「家の小さなころからの行事。大臣だろうとなかろうと野田聖子として参拝している」。自民党には消費者行政担当相の野田のような閣僚もいるが、多くの議員は「中韓との軋轢(あつれき)は避けたい」と、靖国から遠ざかる。
自民党群馬県連で長年事務局長を務めた戸塚一二(77)(いちじ)は“戦略的参拝”を提唱する。
「自民と民主の決定的違いは、民主が異なるイデオロギーの寄せ集め集団ということ。国家観の伴うイデオロギー論争を徹底的に挑めば民主には絶対に負けない。靖国参拝も同じだ」

憲法改正と主権国家を目指すという結党以来の自民党精神をもっている現議員は一割程度だと聞く。
政治的に靖国を利用している中韓が大事なのか?今日の日本があるのは国のために尊い命を捧げられた英霊のおかげです。国の政治家としてどちらが主で副なのか。サンフランシスコ講和条約で決着していることだ。よその人にいわれたら、自分の国の英霊の供養をやめる理由がどこにあるのか?
あまりにも政治家は勉強不足。どちらのことを考えているのかが今問われている。
靖国神社や明治維新から大東亜戦争の敗戦、東京裁判の不当性、吉田元首相のサンフランシスコ講和条約による決着を知らない認識で、国の政治家として相応しいかが分かるのだ。政党を問わずこの国の将来を任せられる歴史を勉強した候補者に投票する。歴史を理解しているかで選ぶ目安として、ふるいにかけたらどうだろうか。
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ロシアとアメリカの交渉

ロシアが北方領土への日本側の人道支援を拒否する姿勢を打ち出した背景には、「ソ連崩壊以降の困窮状態を脱し、経済復興を成し遂げたロシアには、もはや支援は不要だ」という自負がちらつく。崩壊したときが交渉のチャンスだったと思いますが、日本政府の外交や緊急時の対応には敏速さが欠けていることに苛立ちます。
ロシアが石油が高騰し崩壊の危機が免れたのですがここにきて石油が値下がりしたことによって、サハリンの開発に消極的になり、日本との開発協力や供給にメリットが薄れたのが今はない、また、グルジアとの問題があり、第二次大戦前に中国とアメリカに日本をやらせといてドイツとの戦争に集中した戦略経験から、石油がまた高騰するまではひとまず北方領土の外交カードを引っ込めたのが本質ではないでしょうか。KGB出身のプーチンならそれぐらいのことは熟知しているでしょう。もちろん、日本の政権交代でごたごたの中で今の政府では進展しないことも承知のはずです。
また、同じくしてクリントン元大統領の訪朝です。報道を見るとさすがに元大統領はすごいなと思いがちです。私的な訪問で資産家のプライベート機で費用の20万ドルは資産家の自費だったとか見え透いたうそをつく。勝手に国交のない北朝鮮や青森三沢の米軍基地で補給など許可しない。まして民間機のプライベート機なら軍事空域を飛行はできない。
アメリカ女性記者の開放に向かう動きは、政府諮問機関が水面下で何ヶ月も動いていたといいます。クリントンは元大統領だから実行できたというよりも、米政府の交渉ではなく非政府の人道支援であることを強調し、落としどころとしてオバマ大統領と同じ民主党の元大統領だから北朝鮮も拒否できない態勢にすることで、瀕死状態でアメリカしか頼るところのない北朝鮮のメンツを立てるというお互いのメリットを出し、すみやかに実行しただけに過ぎません。オバマにしても国内事情からの支持率低下と民主党の名目をアップさせるねらいがあったのです。

君主ではなく大統領や首席が最高位である米・ロ・韓、共産党一党独裁中国・北朝鮮などは、世界情勢にすみやかに対応するための判断が国の代表に絶対的権限がありますが、独断で行っているのではなく、政府とは別のトップ集団がいます。それらの国は、ついこないだまで核攻撃や軍事衝突という緊張体制から、いつでも緊急に動くことができる体制に慣れているのでしょうか。
それに引き替え立憲君主制の日本政府は、国防を日米安保に守られてきたことで、緊急対応ができないばかりか、平和主義を知っていますから攻めてこないと相手国に足元を見透かされてています。しかし、戦前の世界大戦でも日本は天皇や首相に絶対的権限がありませんから、開戦のときも終戦の決断も協議が難航した経験があります。
だからといって、ナントカ実現党などは大統領制にしようというマニュフェストですが、日本は立憲君主制をとっている古い国家なのでできませんしその必要性はあまりありません。それに引き替え、米朝は君主を否定した歴史が浅い国なので外交を行うにははっきり主張することでリーダーの存在感を内外に示す必要があります。日本は文化的に成熟した国なので、そこまでいわずとも分かるだろうという意識があり、いいたいことをずけずけ言う人を嫌いますが、そのような新興国を相手にする時は通用しません。また、真っ向から反論をするには、核も辞さない強力な防衛力が不可欠です。日本は有史以来、唯一大戦で米軍に本土を攻撃されたことを除けば経験がないので、世界も同じように平和な民族だと思っています。しかしそうした国こそいつも攻められはしないかと脅威を感じています。日本民族が本気で怒った時の団結力が恐ろしいことはまだ忘れていませんから。
日本でも2001年(平成13年)、総理府を内閣機能強化の観点から、内閣府とし、内閣を助けて内閣の重要政策に関する企画立案及び総合調整での決定権を強化しました。
外交交渉の駆け引きのタイミングを逃さぬように、内閣・外務・防衛との速やかな連携が最重要です。
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戦争と日本(2) 原爆とルーズベルト

今年も八月六日がやってきた。広島に原子爆弾が投下されてから64年、また終戦記念日とお盆というこの季節は、ふだん忘れている日本人の心を思い出させる。

広島、長崎の平和記念式典に時の総理大臣が参列する。このことに反対する人はいないのに、なぜ英霊を祀る国家を代表する靖国神社に八月十五日に参拝することに反対する人がいるのか不思議です。
原爆を投下された唯一の被爆国、日本はヒロシマ・ナガサキ宣言で世界に核兵器廃絶と平和を訴える。さらに、オバマ米大統領が「核のない世界の実現」を提唱し、アメリカとロシアとの核削減を約束した。

さて、東京裁判が自国の戦争責任は自国で裁判する国際法によって裁かれたものではなく、類のないアメリカの根拠のない不当なものであることは承知のことだが今回は置くとして、前回は東条英機について書きましたが、今回は原爆とアメリカ元大統領フランクリン・ルーズベルトについて話題にしたいと思う。

昨日、チャンネル桜の渡辺昇一先生「桜塾講座-世界偉人伝」で東条英機とルーズベルト(2)を観た。
昭和三十二年生まれの私は、少年の頃、戦争体験者の亡き祖母から、いろいろ戦争や軍歌を聴かされたり、学校で習うことで、軍国主義や多くの尊い人命を失った戦争を起こした日本人は悪いとふつうに思っていた一人だ。

フランクリン・ルーズベルトが大統領になったとき、アメリカは第一次世界大戦でイギリスやフランスを凌ぐ帝国覇権主義国家になっていた。暴力で領土を拡大する国は、逆にどこかに攻撃されないかと絶えず恐れているのだ。

ルーズベルトはオランダ系移民で、アメリカで裕福な資産家の息子に生まれた。海軍を経て民主党から大統領になった。当時白人至上主義で有色人に対する人種差別は激しかったが、オランダはとくに人種差別が激しい。インドネシアの占領政策やアフリカで最後までアパルトヘイト(人種差別政策)を行った南アもオランダ植民地だ。また、戦争を起こした時期は共和党よりタカ派の民主党の大統領である。

ヨーロッパからアメリカ東海岸に上陸し建国したアメリカは、西へ西へと原住民の土地を侵略し、カリフォルニアまで征服した。海洋を制することが国益につながる。イギリス、日本とともに三大海軍国のアメリカは、次はさらに西へ太平洋からアジアに向かうことだった。ハワイはすでに日本人移民が多く、いつ日本がアメリカ大陸に侵攻してくるかと脅威を抱いていたアメリカは、ハワイの王を追い出し占領下においた。

世界恐慌の中で就任したルーズベルトは、ドイツ人やイタリア人に行わなかった有色人である日系人を強制収容した。政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する事実上の妨害という、ルーズベルトの人種差別的観点から行われた失政は、その立場を問わず大きな批判の対象となっただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

日本はそのことで国際社会に人権保護を訴えた最初の有色人であるのだ。アジアの自主独立しかないと東條は大東亜共栄圏を構想し世界で初の首脳会議を東京で開いた。これがアジア諸国が不当な差別的植民地から目覚める勇気となり、戦後アジア諸国が独立に向かったことは日本人の精神とアジアで評価されている。

政府による経済への介入として「ニューディール政策」を行ったが、失業率が依然高止まり状態を保つなどなかなか成果が上がらず、やがて労使双方から反発もおきるようになった。しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。

東アジアは、すでに北からソ連、満州はソ連(ロシア)を追い出した日本、沿岸部の都市はドイツ、フランス、イギリスが抑えてしまっており、アメリカはフィリピンを占領していたが、大陸でのアメリカ進出の余地はなかった。そこで満州に鉄道の共同建設を日本に申し入れたが日本が断ったことで、進出機会を失ったアメリカは日本への関係を硬直化させることとなった。

当時ヨーロッパ戦線においてアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に、イギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、中国蒋介石の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけており、大量の軍事物資や退役軍人を派遣した。ソ連もまた日本がいつ侵攻してくるか恐れていた。ドイツとの戦争でアジアに手が回らないことで、毛沢東の中国の共産主義者に武器を与えた。また、当時は敵対関係になかったアメリカに日本に戦争を仕掛けるため、裏には社会主義に傾倒していたルーズベルトの側近にソ連とつながったロシア系共産党員の作戦があった。また、日本の後ろ盾のイギリスとの日英同盟破棄に成功する。ブロック経済を敷いて不当な関税を課せた。世界の4分の1を植民地とするイギリス、自国で石油資源が確保できるアメリカやソ連、また東南アジアに植民地を持つフランス・オランダは自国貿易で困らないからだ。唯一資源を持たない日本の石油ルートを封鎖することで海軍の勢力を弱めることだ。こうして完全に在英米蘭の日本資産凍結、日米通商航海条約の廃棄、日本の石油輸入ルートを遮断した。

日本は何度もアメリカとの交渉に挑んだが決裂した。アメリカは日本と戦争を起こす機会を狙っていたのである。一方的な内容のハルノートを送りつけたことで、戦争回避は不可能になる。さてハルノートといわれる文書は、国務長官ハルが作成したのではなく、側近のヘンリー・モーゲンソー財務長官が示し、更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。ソ連系共産党員だったことが知られている。つまりそれがアメリカのいわば最後通牒と受け取った(「極秘、試案にして拘束力なし」との記述があり、ハルノートは試案であることが明記されているのにもかかわらず、なぜ外務省がその箇所を削除して枢密院に提出し、東郷外相が天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになったのか、外務省および東郷外相の真意は不明である)。
何度も御前会議を重ねて対英米開戦が決議された。国際法で自国を守るために戦うという行為は正統であり認められている。宣戦布告書とみなした日本は、ハワイの真珠湾の軍事施設を攻撃した。これは戦争においては民間を攻撃しないことを定めた国際法に則った世界で認められた戦争行為である。

なお、ルーズベルト大統領やチャーチル首相のように、戦前の日本では戦争を命ずる権限は総理大臣にはなく、当然、東條英機首相には認められていないことと、東條英機首相は最後まで戦争には反対していたこと、他の海軍・陸軍大臣など罷免する権限はないこと、昭和20年(1945年)のポツダム宣言受諾を決めた御前会議を除き、天皇は通常積極的な発言を行わなかった、ことを明記しなければならない。

アメリカは沖縄から本土に一般住民であろうと構わず無差別爆撃を繰り返した。白人社会秩序を守りたいルーズベルトや連合国の考えは、日本民族の全滅である。このような国際法に背いた非道な戦争をした国はかつてない。

共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。すでの敗戦濃厚な日本にさらに原爆を投下する必要はなかった。10万人規模の無差別大量殺戮を2度行ったことを忘れてはならない。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。一方で、トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマンが日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。戦後、アメリカ国内の戦争に荷担した共産党員は自殺もしくは暗殺されたり逮捕された。

「戦争を終わらす為に民主主義を守るためにアメリカは原爆を投下した」は、戦勝国が正当化するための後付である。アメリカに罪のない国民を殺害した戦争責任と法的根拠のない東京裁判などで罪のない人を裁き、死刑に追いやった真実を検証することも、忘れてはならないのだ。ルーズベルトやトルーマン、チャーチルこそ、戦争をけしかけた犯罪者として国際裁判で裁かれなくてはならないのである。

一国の憲法を他国が定めることこそ、不当な行為であり例がないのだ。ドイツは連合国の憲法草案を拒否し、戦後自主憲法を定めた。なぜ当時の日本の政府は拒否できなかったのだろう。いずれにしても現憲法は日本の憲法ではない。そのようなものを戦争を仕掛けた社会主義、共産主義でありながら、しかも戦後は護憲といっている政党や政治家は、責任意識もなく頭がおかしいのではないか。

日本だけが唯一の被爆国ではない。ウイグルやシベリア、アメリカで行われた核実験で被害を受けている。しかも自国民がである。なぜ今も行っている国々に反戦団体は中国やロシア、北朝鮮に対して、しかも唯一戦争に原爆を使用したアメリカに対しては抗議と謝罪・弁償を要求しないのか。
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